容喙

 カンカン、と足許から立ち上る甲高い音は、周囲に響く事も無く闇に吸い込まれていった。
 古びた螺旋階段は、寄る辺となるべき手摺りを掴むのも躊躇する程の見事な錆び具合で、一寸でも足の置き場を誤れば地上へ真っ逆さま、の情景を思い起こさせた。試しに足許に目を向ければ、こってりとしたタールの海が、この身体を絡め取ろうと蠢いているようだった。
「チッ」
 だが実際は、手を伸ばしたところで指に掬い取る事も、ましてや握り潰すのすら叶わない、ただの色のない空気だ。
 臆病風に吹かれたどこぞのチンピラでもあるまいに、これしきの暗闇に怖じ気つくほど、彼は心の根の優しい人間ではなかった。
 上に進むほどに空気が冷えて、息を吸う度に肺が凍り付きそうになる。その昔、東洋の外れにある小さな島国で過ごしていた頃は、この季節はまだ幾らか暖かかった。
 当時の記憶は、些細な心のぶれをきっかけにして、お呼びでないのに次から次へと溢れ出すから困りものだ。どうやらあの国に渡る前よりも、とある少年の家に押しかけ家庭教師として居着いた後の方が、より充実した生活を送れていたらしい。
 走馬燈の如く駆け巡る記憶に苦笑とも、微笑とも取れない曖昧な表情をして、彼は抱えていた薄茶色の紙袋を揺り動かした。
 ガサガサ言うそれを左手と脇腹で支え、右手をズボンのポケットへと押し込む。建物外部に付随する螺旋階段は、間もなく終わりを迎えようとしていた。
 百階建ての超高層ビルが珍しくなくなった昨今では、たかだか五階建ての煉瓦積みのアパートメントの方が、よっぽどレアで貴重なものとなってしまった。今ではこういう古くさい建造物の方が人気で、部屋を借りるのも順番待ちだというから、余程である。
 その順番待ちが出ているという部屋を長期間留守にしていた青年は、銀色の、今時有り得ない程シンプルな棒状の鍵をポケットから引き抜き、掌に転がして遊ばせた。
 生体認証キーが主流となったこの時代では、まるで泥棒に入ってください、と言わんばかりの単純な構造の鍵だ。
 キーホルダーもなにも無いそれをぽーん、と高く飛ばして、回転しながら落ちてくるのを横から攫って握り締める。パシッ、とその瞬間だけ鋭い音が弾けて、長く沈殿していた空気が俄に活気づいた。
 階段と建物を仕切る扉を抜けた先もまた、見事なまでの真っ暗闇だった。
 非常灯などというものは、存在しない。そもそも防火システム自体、設置されていないのだ。人が生活する為にこの国が定めた基準の幾つかを満たしていないので、此処は本来、誰も住んではならない場所だった。
 だがどこにだって、抜け道は存在する。賄賂を掴まされた役人が書類をちょっとばかり細工するなど、何時の時代でも当たり前に行われて来た。
 積み上げた札束に目をひん剥いて、醜い顔をして涎を垂らしていた男の顔を思い出し、すぐにどぶ川へと投げ捨てる。外部と繋がるドアが零す、か細く頼りない明かりだけを頼りに、彼は足音を響かせながら細い通路を突き進んだ。
 この音は、自分の存在の証だ。同時に、このフロアに暮らす何人かの不法就労者達に王者の帰還を知らせる、荘厳な鐘の音の役目を果たしていた。
 闇医者、情報屋、或いは暗殺者。表立って暮らすには少々肩身が狭すぎる連中が、この古びた、いつ取り壊されても可笑しくないのにいつまで経ってもそびえ立ち続ける、五階建ての赤煉瓦に集まっていた。
 此処に居を構える連中が全員揃ったら、もしかしたら軍隊の一個大隊くらいの戦力になるのではなかろうか。
「戦争が出来るな」
 想像したら思いの外楽しくて、彼はクッ、と喉を鳴らし、右手に握っていた銀の鍵を縦に構えた。
 彼の前に現れた扉は、道中見かけた古びたドアの中でも一際古めかしく、そして荘厳だった。
 全体に彫り物が施されて、最初にこのアパートメントを建てた人間の悪趣味さが容易に知れた。最上階の最も奥、人が一番立ち入り難い――逆を言えば最も逃げ辛い場所に居座っていたのは、信心深く、そして疑り深い老人だったという。
 彼は死ぬまでこの部屋から出ず、ただ神に祈り、階下に暮らす人々からは家賃と称して莫大な貢ぎ物を得て生活をしていたらしい。
 もっとも、それも昔の話だ。今現在此の先の部屋を間借りしている彼は、生憎と外を出歩くし、信心深いとはとても言えない人生を送って来た。
 否、神になら祈った。
 そして祈るべき神の無意味さを知った。
「……ン」
 無味乾燥とした空気を呑んで唇を舐め、彼は鍵を鍵穴に差し込もうとして、直前で躊躇した。
 明かりが足りなくて場所が掴めなかったわけではない。もう何十回、何百回と繰り返してきているのだから、鍵穴の位置など、目を閉じていても探り当てられる自信があった。
 覚えたのは違和感だ。
「誰か来たか」
 思えば同階の住民も、今日はやけに大人しい。いつもならひとりくらい、酒をかっ食らって上機嫌に踊り狂うような馬鹿がいるのだが。
 階段を登る最中だって、己が立てる足音くらいしか聞こえなかった。
 まさか旧世代の遺物と成り果てた警察組織が、たまに運動をしなければ太るから、と不審者の洗い出しに精を出したのか。だがそれなら、廊下の空気はもっとざわついている筈だ。
 強制捜査ではない。だが住人は皆背を丸め、小さくなって夜が通り過ぎるのを待っている。
 此処に暮らす連中は、その界隈ではそれなりに名の知れた連中ばかり。拳銃を向けられたら逃げるどころか奪い取る、くらいの気概を持つ輩が、ここまで震え上がらなければならない存在など、そう多くない。
「……アイツか」
 思い当たる節を頭に浮かべ、現在スケジュールが判明している人間からバツ印をつけていく。
 最終的に残ったのは、最もあり得そうで、最もあってはならない馬鹿の顔だった。
 舌打ちして毒づき、彼は思い切って鍵を鍵穴に挿した。奥までねじ込んで、手応えを感じたところで右に回す。次に左、そして右に二度、左に半回転。
 いくら外見が古いからといって、防犯システムまで建築当時のわけがない。記憶させた回転数と角度に少しでもズレがあれば、ドアは開かない仕組みだ。
 これを知っているのは、彼のみ。だからもし開けられる人間が他にいるとしたら、直感的にこの法則を悟り、実行出来る能力を有した者だけだ。
 そういう一見万能めいて、実のところあまり役に立っているとは言い難い力を所有している知り合いが、ひとり、いる。
 ピピピ、とドア内部に隠されたシステムが反応し、無事解除が成されたという合図を送って来た。赤い小さなランプが明滅するのを見て肩の力を抜き、彼は見た目はただのアンティークな鍵をポケットに戻した。
 くすんだ金色のドアノブを握って右に回転させれば、ロックの外れた扉は何の障害もなく内側に道を譲った。
「……なんだこりゃ」
 そして中に入った彼は、目に飛び込んできた光景に絶句した。
 部屋の灯りは半分消えて、半分点いていた。
 玄関に近いフロアの照明はスイッチが入っておらず、奥のリビング兼ベッドルームのライトだけが煌々とした輝きを放っていた。天井に張り付いている年代物の扇風機は流石に回っていなかったものの、壁際に置かれたアコーディオン状の暖房器具の電源まで、まさか入っていないとは思っていなかった。
 あまり熱効率が宜しくないので自身も使う機会は少ないのだが、お陰で部屋全体が冷え切っていて、外気温とさほど変わらなかった。
 身に纏ったコートを脱ぐ気にもなれなくて、彼は運んできた荷物をキッチンテーブルに置き、明るい光に照らされた室内に肩を竦めた。
「良い冗談だ」
 彼が立っている場所は暗く、前方は明るい。まるで劇場のシートに座って、舞台上に主演女優が出てくるのをひたすら大人しく待っている時のようだ。
 だが生憎と、どれだけ待っても女優は舞台袖からは出て来ない。何故なら、既に舞台上に居るからだ。
 但し立ってはいない。
「誰が片付けると思ってやがんだ」
 キッチンに、カウンターを挟んでリビングと、ベッドルーム。内部の壁はバス・トイレを仕切る以外、存在していなかった。
 だから何処に居ても、部屋全体が見渡せた。ひとりで暮らすには広めだが、ふたりで生活するには少々窮屈な、そんな広さだ。
 彼はコートの前ボタンを全て外し、裾を膝で蹴って冷蔵庫のドアを開けた。
 長期間部屋を開けていたので、中身は当然、空の筈だった。
「俺は食わないぞ」
 それなのに、覚えのない物が沢山、所狭しと押し込められていた。
 見なかった事にしてドアを閉め、彼は紙製の袋から引き抜いたビール缶を手持ち無沙汰に顔の横で降った。
 開封した時に泡が弾けて悲惨な目に遭わないよう加減しつつ、外気の所為もあって冷えているそれを頬に押し当てる。ひやっとした感触に、我知らず動揺していた心が急速に凪いでいった。
「さて」
 先ずやるべき事は何か。取捨選択は大事だと自身に言い聞かせ、彼は夜食にしようと買い込んだ食材や飲み物を、とりあえずテーブルに広げていった。
 そしてどういうつもりで買ったのか、今となってはちっとも思い出せない品物をひとつ手にして、ポケットに忍ばせた。
 掌サイズの円錐形のそれを指の腹で転がしつつ、カウンターを回り込んでベッドルームへと足を向ける。だが行く先は、その手前にあるリビングだった。
 窓辺に最新鋭の大型テレビ、その向かい側に大人三人が並んで腰掛けても十分な幅を持つ、大ぶりの革張りのソファ。
 彼はそのソファへ後ろから近付いて、息を殺し、足音を消した。
 ふかふかの絨毯に革靴を沈め、足にまとわりつくスーツを追い払ってポケットから手を引き抜く。
 そして円錐の頂点から伸びる細い紐を反対の手で握って。
「うわぁぁぁぁ!」
 パァン! とけたたましい炸裂音が部屋中に響き渡り、ベッドを不法占拠していた青年は一瞬にして夢の世界に別れを告げた。
 ただでさえ大きい目をまん丸に見開いて、火薬が焦げた臭いに過剰反応して身構える。だが涎が垂れた跡が残る顔では、なにをしたところで格好悪いだけだ。
 彼は慌てふためく青年を前に肩を竦め、飛び散った紙吹雪に息を吹きかけて遠くへ飛ばした。
 役目を終えたクラッカーを振り回し、まだ若干寝ぼけ眼の頭を叩く。反射的に首を引っ込めた青年は、薄茶色の髪の毛に絡んだ紙テープを掴み取り、非常に爽やかに見える微笑みを浮かべて蹲る人物に頬を引きつらせた。
「り、リボ……」
「お目覚めかい、ボス」
 辿々しい舌使いで名前を呼ばれて、リボーンはしたり顔で頷いた。
 まだ室内に残る少量の火薬臭を手で払い除け、拡散させて消す。否応なしに緊張を呼ぶ香りが薄れたのにホッと息を吐いて、青年はソファに乗り上げていた足を下ろし、指にまとわりつくテープを空いたスペースに落とした。
 まだ鼓膜が震えて、頭の中もじんじんした。
 黄色とオレンジのラインが走ったクラッカーを視界の端に見て、彼は物言いたげに口を開閉させ、結局なにも言わずにがっくり肩を落とした。
「その呼び方、止めてよ」
「なら、ダメツナ。此処で何してやがる」
「それも、……ちょっとヤだ」
 昔懐かしい記憶を呼び覚ます呼称を告げられて、綱吉はふて腐れた顔をしてソファに座り直した。
 膝に置いた手を揃えて握り、視線は脇に逸らしてリボーンを見ようとしない。彼の表情には、こんな筈ではなかったと、そんな思いが満ちあふれていた。
 実際、その通りだろう。彼は確実に、リボーンが部屋に帰って来る前にやらなければならない仕事があった。そして、達成出来なかった。
 飾り付け途中の部屋は、まるで物取りが入った後のような荒れ具合だった。
 色紙を細く切って円にして、繋げて作ったカラフルなチェーンが壁に半分ぶら下がっていた。残り半分は床の上、半透明のビニール袋の中で蜷局を巻いていた。
 天井の扇風機に至っては、光を浴びて輝くクリスタルの飾りが沢山吊されていた。もしこの状態で回転させたら、遠心力で大変な事になるのは間違いない。
 闇夜を映す窓ガラスには白いスプレーが吹きかけられて、斑模様が散っていた。型で抜いた紙を貼った上から吹き付けたものだが、その型紙が剥がされもせずに放置されているので、何を描き出したかったのか、さっぱり分からない。
 そしてリビングセットの傍の袋から顔を出しているのは、大量のワイン、及びウィスキーのボトルだった。
「ツナ」
 冷蔵庫にはホールケーキ、そしてクリスマスでもないのに鶏の足のボイルが入っていた。サラダと、オードブルも一緒だった。
 彼が此処で何を企んでいたのかは、想像に難くない。
 だが、敢えてリボーンは声に出した。
「此処で、何を、してやがる?」
 一言一句細切れにされた二度目の質問に、世界に名を轟かせるボンゴレ十代目こと沢田綱吉の笑顔は凍り付いた。
 咄嗟に返事が出来ず、金魚のように口をパクパクさせて両手を無意味に泳がせる。しかし黙っていたところでリボーンが許してくれないのは、過去の教訓が如実に物語っていた。
 出会った当時は赤子の外見をしていたのに、たった十年足らずの間にすっかり成長して、今や綱吉の背丈を軽く凌駕してしまっている。見下ろしていた人間に見下ろされるようになるのは、かなり腹立たしかった。
「それは、その」
 左右の指を小突き合わせて口籠もり、彼はもそもそ身動いで目の前を窺い見た。
 隙のない視線がぐっさり突き刺さって、綱吉はすっかり萎縮して小さくなった。
 これが天下に名を知られたボンゴレ十代目の姿かと思うと、リボーンは情けなさに涙が出そうだった。
 九代目の跡を継ぎ、ボンゴレの名を受け取った沢田綱吉は、当初の予想に反して実によく働いた。まだまだ実力不足な部分は否めないものの、彼の守護者たる面々がそれぞれに苦手分野を補い合い、ボスを支えていた。
 結束力のある、非常に良いファミリーが育ちつつあった。
 そして綱吉がボスの椅子に座ると同時に、リボーンは九代目より託されていた役目を解かれた。
 即ち、彼の家庭教師生活も、そこで終了を迎えた。
「オメーは今、イタリアに居るべきじゃねーのか」
「明日、朝イチで帰るよ」
 返答を渋る綱吉に苛立ち、リボーンが声を一段低くした。凄まれて言い訳めいた事を口にして、綱吉は首を反対方向に向けた。
 そちらには飾り付け途中で放棄された色紙の鎖が、袋の中で出番を心待ちにしていた。
 毎晩暇を見つけてはコツコツ作っていたなど、恥ずかしくて口が裂けても言えない。ましてや航空便で運ぶ際に潰れないよう気を遣って、これの為だけにわざわざトランクをひとつ用意したなど。
 我ながら馬鹿らしいと思う。だがそうまでしなければならないだけの理由が、綱吉にはあった。
「朝一と言わず、今すぐ帰れ」
「やだ!」
 冷たく突き放されて、瞬時に立ち上がって叫ぶ。この一瞬だけ十年前の、聞き分けの無かった子供の頃に戻って、彼は力無く項垂れてソファに戻った。
 緩く首を振って手を伸ばし、リボーンが纏う闇色のコートを握り締める。
「風邪を引くぞ」
「思ってもないくせに、言うな」
 優しい言葉が欲しかったわけではない。だのに耳にした途端、泣きたくなった。
 俯いて動かない彼の旋毛を見下ろして、リボーンはそっと溜息を零した。
 九代目から家庭教師期間の終了を告げられて、彼は断る理由が無いからと即座に承諾した。
 どれだけ結びつきが強かろうとも、リボーンはマフィア界の人間ではない。彼の存在が、ボンゴレ十代目の未来に障害になるような事があってはならない。だから彼は、誰にも何も言わず、黙ってイタリアから姿を消した。
 食うに困る事はなかった。秘密銀行の口座には、一生掛かっても使い切れないだけの金額が、今も残されている。
 取り壊される寸前だった旧時代のアパートメントを丸ごと買い取り、改築工事を内密のうちに済ませられるくらいの幅広い人間関係も健在だ。
 だのに何故だろう、心は満たされない。ちっぽけな島国でお気楽に過ごしていた頃の方が、時間が過ぎるのはずっと速かった。
「ツナ」
「来るんじゃなかった」
 吐き捨てられたひと言に背筋が戦く。慄然とした彼を知らず、綱吉は抱えた膝を押して、背筋をぐーっと伸ばした。
 ぽすん、と彼の小さな頭がソファの背もたれに沈んだ。
 量が多く、あまつさえ天地の法則を無視して空へと一直線に手を伸ばす髪の毛の所為で大きく見えるけれど、彼の頭部は、本当は見た目の三分の二しかない。掌で包んで抱き寄せた時の、意外なほどのちっぽけな感触が妙に切なさを呼び込んだのを思い出して、リボーンは空っぽの右手を握って、開いた。
 首を右に倒した綱吉の視線は虚空を見詰め、お互いに違う場所ばかりを気にしていた。
 何故。どうして今になって。
 放っておいてくれれば良かったのに。
 否、それとも。
 無駄な程にヒントをばらまいて、知り合いの知り合いには居場所を伝えるような真似をしていた。
 もしかしなくても、自分は探して欲しかったのか。そして、見つけ出して欲しかったのだ。
 こんな風にこっそり訪ねて来て欲しかったのだ。
 ドアの前で異変を察知したとき、真っ先にこの顔を思い出すくらいには。
「ツナ」
 そっぽを向いたままの横顔に呼びかけて、リボーンは昔よくそうしていたように、彼の頭に触れようと手を伸ばした。
 けれど躊躇した指先が空を掻いて、その間に彼がこちらを向いてしまった為、十年前に比べれば随分と大きくなった手は、結局なにも掴めぬまま引っ込められた。
 臆病風に吹かれた手を黙って見送って、綱吉は大きな琥珀色の瞳を歪め、物言いたげな口を閉ざして俯いた。
「悪かったよ」
 いきなり、しかも主に断り無く勝手に中に入ったのだ。怒られるのは当然、予想していた。
 本当はリボーンが戻って来る前に飾り付けを済ませ、料理の準備も終わらせておくつもりだった。
 クラッカーの攻撃を自分が食らうなど、夢にも思わなかった。
「……誰に聞いた」
「コロネロ」
「アイツか」
「コロネロは悪くないんだ。俺が無理矢理、その、ちょっと……色々」
 曲がりなりにもアルコバレーノの一画を担った相手に、いったいどんな手段を使ったのか。皆まで聞かずとも、口籠もった綱吉の表情と態度から、大雑把な予想はついた。
 ある意味、あの男が一番御しやすいのだ。元々イレギュラー的にアルコバレーノに参画した上に、女の涙にはめっぽう弱いと来ている。目薬ひとつあれば、騙すのも容易かろう。
 昔なじみの顔を思い浮かべて嘆息し、リボーンはコートの裾を翻して、大量に詰め込まれたアルコール類の袋の口を広げた。
 ラベルはちゃんと見えないが、そこいらの店で安売りされている粗悪品とは明らかにレベルが違った。誰の入れ知恵か、しっかり日本酒まで含まれていた。
 ある日突然姿を消した赤ん坊。周囲から一人前と認められたボンゴレ十代目は、長く連れ添った家庭教師と別れ、独自の道をひとり模索するようになった。
 話だけはあれこれ聞いている。失敗談の方が圧倒的に多いのは、元がダメツナなのだから、致し方なかろう。
 功績もそれなりに耳に入っている。若いなりに努力して、あちらこちらに協力を求め、頭を下げるのも躊躇しない猪突猛進ぶりは、各方面に知れ渡っていた。
 だが、どうにもここ一番というところで、弱い。
 未だ九代目の助言は欠かせず、ひとりで商談に出向くのすらままならないのだとか。
 語学の未熟さは解決されている。必要なのは、一歩を踏み出す勇気。
 背中を押して、支えてくれる手。
 守護者とは異なる視線を持ち、マフィアとは違う考え方を持つ存在。
「過大評価しすぎだ」
「リボーン?」
「なんでもねぇ。で? ちったぁ飲めるようになったんだろうな」
 過剰に膨らんでいくささやかな願いを、渾身の想いを込めて振り切り、彼は声に反応した綱吉に言った。
 偶々手に触れたボトルを引き抜いて、左右に揺らす。振るのはあまり良くないとは思いつつも、どうせすぐに開封して飲み干してしまうもだから、少しくらい味が劣化しても構わない。
 問いかけに三秒弱の間をおいて、綱吉は両手を膝に揃えてしっかり頷いた。
「馬鹿にするなよ」
 イタリアは、ワイン文化の国でもある。毎晩の食事に欠かせないし、日曜礼拝のミサででも口にする。
 昔は一滴も飲めなかった綱吉も、この数年ですっかり鍛えられて、一通りは飲めるようになった。と、本人は思っている。
 ザルの山本や了平らと比べられたら、即座に降参せねばなるまい。世の大半の酒飲みも、あのふたりとは一緒にされたく無い筈だ。
 何度も目にする機会のあったどんちゃん騒ぎを思い出して顔を綻ばせ、綱吉はまだスーツに残っていた色テープを退かし、立ち上がった。
「なんだ、これ」
 歩み寄ろうと足を前に繰り出したところで、ボトルとボトルの間に潜り込んでいた紙切れに気付いたリボーンが、怪訝に声を出した。
 身を屈めた彼の傍らに寄り、綱吉も膝を軽く曲げた。
 出て来たのは、掌サイズの小さな封筒だった。
 横幅が五センチ程しかない。プレゼントに添えられる、簡易なメッセージカードを思い出させるサイズにふたりして首を傾げ、リボーンは光に透かして中を確かめた。
「なんだろう」
 そもそも、誰が入れたのか。綱吉が自分の誕生日パーティーさえすっぽかすつもりで、極秘裏にイタリアを出国した事を知っている人間は、そう多くない。
 守護者の数名と、後は。
「コイツは」
「あ、おい。勝手に……って、ええ?」
 戸惑っている綱吉を余所に、さっさと封を開けたリボーンが、中に収められていた二つ折りのカードを広げる。瞬間、折り目の真上にボッ、と炎が宿り、オレンジ色の優しい光がふたりを照らし出した。
 驚きを素直に表明した綱吉と、眉を顰めただけに済ませたリボーンを見上げる形で、なにかと心配事が絶えないひとりの老人の命の炎が揺らめいた。
「死炎印」
 ぼそりと呟いた綱吉の前で、ボンゴレ九代目の死ぬ気の炎が優しく輝いた。
 カードに記された文面は、角度的にリボーンからしか見えない。紙面自体が狭いので文字も必然的に小さくせざるを得ず、しかも端から端までびっしり書き込まれているので、綱吉は殆ど読めなかった。
 辛うじてイタリア語だというのは分かった。が、首を伸ばしたらすかさずリボーンが見えにくい角度に変更してしまうので、なかなか思うようにいかなかった。
 真剣な表情をしてカードを食い入るように見詰める彼を眺めていると、段々不安になってくる。何故今此処で九代目の死炎印つきの書面と遭遇せねばならないのか。過去に何度か、あまり楽しくない思い出を味わっているのもあって、綱吉は気が気でなかった。
 ヒヤヒヤしながら待つ事数分、ようやくカードを閉じたリボーンが、長い溜息をついて天を仰いだ。
「り、リボーン?」
「ダメツナめ」
「え、え。なに、なんなのさ」
 呆れ混じりに言われ、挙げ句頭をポカリと殴られて、綱吉は目をぱちくりさせて叫んだ。両手で頭を庇い、あっという間に追い越されてしまった身長を恨めしく思いつつ睨み付ける。
 リボーンは不遜に笑い、炎の消えたカードを揺らした。
 受け取って広げ、綱吉は天地逆だったのを正しくして左端に先ず目を向けた。
「親愛なるリボーン君へ。これを君が広げているという事は、無事に綱吉君が、君の許に辿り着いたという事だろう。ひとまず安心したよ……って、なにこれ!」
 細かい字でびっしり埋められたカードは、非常に読みづらい。それを音読した綱吉は、まだ出だしも良いところで素っ頓狂な声を上げ、またしてもリボーンに殴られて黙った。
 口を尖らせて不満げにしつつ、今度は口にチャックをして文字に目を走らせる。右に左に、忙しく動かしていくうちに、淀んでいた彼の心は次第に震え、歓喜し、興奮のるつぼに追いやられた。
 〆の一文を紐解いて後、スタート地点に戻って合計三度、読み返す。ちなみにリボーンは、内容に嘘がないか、或いは自分の解釈にミスが無いかを確かめるのに、五度も文面を反芻した。
 今更見せられなくても、すっかり覚えてしまっている。
 改めてカードに目を落とし、ふたりは同じタイミングで顔を上げ、きょとんとしたまま数秒おいて。
「くっ」
「はは」
 同時に、噴き出した。
 綱吉の手から離れたカードが、木の葉のようにひらひら揺れて床に落ちる。上を向いて沈んだそれには、几帳面な字でこう、記されていた。
『親愛なるリボーン君へ。これを君が広げているという事は、無事に綱吉君が、君の許に辿り着いたという事だろう。ひとまず安心したよ。そして、どうかこれからも彼を、そして他ならぬこの老いぼれた身を、どうか安心させて欲しい』
 いったい九代目は、どんな顔をしながらこのカードを作ったのだろう。綱吉に見付からないように袋に忍ばせるのも、容易ではなかったに違いない。
 他にも協力者がいると見て良かろう。真っ先に思い当たるのは、お人好しの代名詞が似合う青のアルコバレーノだ。
 カードには以後つらつらと、昨今の綱吉の失敗談が列挙されていた。そんな事はどうでも良かろう、と思う事まで並べられていて、綱吉は酒を飲んでもいないのに真っ赤になり、倒れそうになった。
 リボーンがカラカラと笑う。お祝いだ、と上機嫌にボトルの栓を抜き、クリスタルガラスのグラスを出して来てそこになみなみと注いで行く。
 大盤振る舞いも良いところで、出し惜しみしない彼に苦笑して、綱吉は九代目のカードに目を落とした。
「あっ」
「日付が変わったな」
 その彼の頭を、横殴りに叩く音が響く。ソファに座ったリボーンが頷き、音の発生源に目を向けた。
 飾りでしかない暖炉の脇に置かれた柱時計が、午前零時を告げていた。
 新たな一日を刻み始めた秒針を暫くじっと見詰め、綱吉はひとり酒盛りを開始したリボーンにカードを向けた。
「それで? どうするのさ」
「どうして欲しい?」
 焦れったそうに問いかければ、揚げ足を取って聞き返された。眇めた目で意地悪く投げかけられて、綱吉はぐっと息を詰まらせ、角張っているものの丁寧な筆跡を爪でなぞった。
 年寄りにはあまり心配させたくなかったのだが、すっかり見抜かれていたらしい。伊達に数十年とボンゴレのトップに君臨し続けたわけではないらしい人物の気遣いを嬉しく思いながら、彼は肩の力を抜いてはにかんだ。
「報酬は、そこのアルコール類全部、で、どう?」
「承知した」
 安すぎると言われるかと思いつつ提示した条件に、リボーンは意外にもあっさり承諾し、頷いた。美味そうに年代物のワインを喉に流し、自分で買って来たチーズを袋から出して齧り付く。
 次々に平らげていく彼に肩を竦め、綱吉は冷蔵庫にしまっておいたチキンを温めようと、キッチンへ向かった。
 その場に残されたカードが、黙ってリボーンを見上げる。
『どうだろうか。もう一度君に、手の掛かる後継者の育成を御願いしたいのだが』
 最後に近い部分に記されたその一文に目を遣って、リボーンは不敵に笑った。
「まったく」
 年寄りは余計なところまで目が行き届いて困る。余程暇らしい老人の顔を、棺桶に入られる前に仰ぎに行くのも悪くないと考えて、彼は芳醇な赤ワインの香りをたっぷり楽しんだ。

2010/10/10 脱稿