神渡 第六夜

 旅の足取りは、最初は軽く、そして徐々に重く。
 日暮れ前に辿り着いた宿場で最初の夜を迎えた獄寺は、早くも世の中の厳しさに直面し、打ちひしがれていた。
 里を出て街道沿いに南下した先で出会った人々は、並盛山の名を当然ながら知っていた。彼らに挨拶がてら護符の話をすると、興味を持ち、久しく絶えていたので嬉しいと、喜んで銭と交換してくれた。
 出足はまずまず、順調といったところだった。この調子ならば、地図にある町を全て回りきる前に、護符も尽きてしまうに違いない。そう思った。
 ところが、東西に分岐する道を東に進み、辿り着いた村の三番目くらいまでは良かったものの、四番目以降の村では、誰ひとりとして彼の言葉に耳を貸そうとしなかった。
 調子が悪いこともある、と気を取り直して峠を進み、茶屋で一休みがてら店の主にも、思い切って話を振ってみたが、こちらもどうにも歯切れが悪い。
 滅多に見ることのない髪色をした若い旅人が勧めるものを、怪訝な目で見詰めるばかり。ああ、はい、へえ、と生返事ばかりではっきりせず、のらりくらりと人の誘いを断り続ける。
 奇異の目で見られるのには、慣れていたつもりだった。綱吉の為と、雲雀への対抗心から張り切っていたものの、幾つかの村を過ぎるうちにすっかり潰えてしまった。
 峠を越えた後からは、ぱったりと、護符を求める人は居なくなった。
 霊験あらたかな並盛山、との謳い文句にも、それは何処だと野次が飛ぶ。子供は物珍しげに近づいて来たが、母親らしき女性が慌てたように引き剥がし、音立てて目の前で戸を閉めてしまった。
 宿だって二軒断られて、三軒目でやっと、馬が寝起きするのかと思えるくらいの汚らしい座敷を借りられた。
「くっそ……」
 搾り出すように呟いて、彼は顔を拭った手拭いを放り投げた。
 屋根があり、壁があり、風雨を避けられる場所が得られただけでも、まだ有り難い。日が沈んで気温はぐっと下がり、じっとしているとじわじわと寒気が足元から登ってくる。
 奈々が持たせてくれた糒を齧りながら、彼はふと、何故自分はこんなところにいるのだろうと考えた。
 今にも壊れそうな粗末な部屋で、貧しい飯を食らい、ひとりぼっちで。昨日までは綱吉を始め大勢と一緒に、暖かな場所でのんびりと過ごせていたのに。
 あまりの落差に、今自分が置かれた状況が巧く理解出来ない。夢でも見ている気分になって、直後隙間風に見舞われた彼はあまりの空気の冷たさに全身を竦ませた。
 並盛村からは、かなり離れた。一日で出来るだけ距離を稼ぐつもりでいたから、休憩も殆ど取っていない。
「十代目の為だ」
 思い浮かんだ朗らかな笑顔に勇気を貰って、獄寺は気弱になりかけた自分を奮い立たせた。
 布団など無い、畳もない。板を並べただけの、寝床とも言うにはあまりにもお粗末過ぎる空間であるが、綱吉を喜ばせる前準備だと思えば耐えられる。今夜は早く休んで、明日に期待しよう。そう心に決めて、彼は荷物を胸にしっかり抱きかかえ、腕を枕に横になった。
 念の為に防御結界を自分の周囲にだけ張り巡らせ、目を閉じる。視界を闇に染めると、戸を叩く風の音がひと際大きく響いた。
 慣れない旅路と、客商売とあって、思った以上に疲れていたのだろう。一番鶏が鳴くと同時に目を覚ました獄寺は、思った以上に身体が重いのに、苦虫を噛み潰したような顔をした。
 もっと眠っていたいと訴える脳を揺さぶって覚醒を促し、痛む節々に鞭打って身を起こす。まだ日の出には早く、墨を薄めたような闇が広がる中で身動ぎした彼は、寝入る前に仕込んだ結界に異常が無いのを確かめ、ほっと胸を撫で下ろした。
 路銀と、護符を売って得た代価の袋を確認して、じゃらじゃら言う重みに頭を垂れる。綱吉から預かった葛篭の中身は、三分の一も減っていなかった。
 冷たい水で顔を洗い、気持ちを切り替えて宿を出る。この季節、もうどこの田も収穫は終わっていて、紅葉も過ぎ、景色は何処を見ても茶色や灰色ばかりだった。
 並盛山の名を有り難がる人の数は、里を離れるに従って減っていった。最初に辿り着いた町でも、それは同じだった。
 これだけの人が居るのだ、ひとりくらいは知っている者も居るだろう。そういう甘い考えは大きな過ちだったと、一刻も過ぎないうちに思い知らされる。どれだけ声を振り絞ろうとも、道行く人に語りかけようとも、皆胡乱げな目を彼に投げるばかりで、誰ひとりとして歩みを止めようとしなかった。
 終いには誰に許可を取って営業しているのだ、等と怒鳴り散らされ、犬を嗾けられることもあった。
「くそっ。場所が悪いんだ、場所が」
 慌てて逃げ出し、乱れた息を整えながら負け惜しみを呟く。他の辻売りを参考にしながらあれこれ試行錯誤を繰り返し、懸命に売りさばこうと躍起になるけれど、張り切れば張り切るほど、彼の態度は知れず傲慢になっていった。
 綱吉があれほど頑張って作った護符の有り難味が、どうして分からないのか。あの素晴らしい人格者たる綱吉が、丹精込めて記した上に、並盛山の霊力を込められているというのに。
 だが、いくら彼が熱心に主張しようとも、並盛を遠く離れた地に暮らす人々は綱吉のことなど知らない。会った事も無ければ、話に伝え聞いた事もないような者が作ったと言われても、だからどうした、としか思わない。
 それに加えて、獄寺の喋り口調はどうにも押し付けがましい。滅多に無い事なのだから感謝しろ、と恩着せがましく言いながら右手を差し出されて、快く思う人は先ず居なかろう。
 銀の髪のお陰で否応なしに目立ちながらも、誰も彼も遠巻きに眺めるだけ。好奇心旺盛な子供ばかりが彼に近付き、本物の毛色かどうか確かめようとしてか、手を伸ばして掴み、引き千切ろうとする粗忽者までいる始末だった。
「俺は見世物じゃねーぞ!」
 その度に声を荒げて追い払い、親とおぼしき大人に睨まれて、居心地悪くなって次々に場所を変える。人通りの多いところから、段々と寂しい場所へ。そうして次の町に流れて行くのだが、何処に行っても人々の反応は同じだった。
 その日の夕方までの稼ぎは、前日の十分の一にも満たない。出立の時には軽く感じた葛篭が、今は重くて仕方が無かった。
「ちっくしょ……」
 大見得を切って出て来た手前、このままおめおめと帰れない。絶対に、なんとしてでも全部売り切って、錦の幟を担いでみせる。
 意気込みだけは一人前だが、一日中歩き回ったお陰で足は棒に近く、顔には隠しきれない疲れが滲んでいた。
 朽ちかけた垣根の手前で蹲り、目の前を人が行き交う様をぼんやりと眺める。日は西に大きく傾き、夕暮れが一面に広がっていた。鴉の鳴き声が遠く響き、ざわざわとした空気が頭の上を通り過ぎていく。
 彼が知る者は、此処に誰一人としていない。
 彼を知る者も、いない。
「十代目」
 押し潰されそうな孤独感が胸を過ぎり、無意識に最も会いたい人の名が口から零れ落ちる。彼は今頃、何をしているだろうか。時間的に、奈々と一緒に夕餉の準備に取り掛かっている頃合だ。
 温かな食事は、里を出てから一度も口にしていない。奈々の持たせてくれた携帯食は、あと一日半分。これが尽きる前に並盛に帰るのだと息巻いていた頃の自分が、嘘のようだった。
 見通しは甘かった。現実は、彼が思う以上に厳しい。
「俺は、……なにをやっているんだ」
 ただ養われるだけなのが嫌で、自分から望んで引き受けた仕事だ。獄寺の稼ぎがなければ、世話になっている人たちは冬を無事に越せないかもしれない。だからもっと頑張らなければいけないのに、立ち上がるだけの気力がもう、彼には残されていなかった。
 まだ二日目でこの有様で、諦めるには早いと懸命に己を叱咤激励し、鼓舞する。だが足は動かず、身体も鉛のように重かった。
 綱吉を喜ばせたい、彼の為に何かをしたい。その気持ちに嘘はない。だが、なにかを成し遂げるのに必要な覚悟が、今の獄寺には足りていなかった。
 温かい布団でゆっくり眠りたい。多少不味くとも、腹いっぱい飯を食いたい。大好きな人の傍に居たい。縁側に腰を下ろして、ぼうっと時間が過ぎるのを待っていたい。
 次から次へと欲望は果てしなく、しかし彼が支払える代価はあまりにも少なく。
 朝から晩まで忙しくしている山本や、雲雀の偉大さが今頃になって身に沁みた。自分が今まで、いかに周囲に守られて来たのかも。
 都の、父親の屋敷に居た時は一日中読書に耽っていられた。食事は三食保証されていたし、身を粉にして働かなくても良かった。鬼の村にいた時だって、ビアンキが常に近くに居てくれた。
 苛められた時は、彼女が庇ってくれた。傷の手当をして、毒ばかりだったが食事の面倒も見てくれた。
 並盛に移ってからは、奈々がいた。綱吉もいた。里の皆は、親切だった。
 ところが今は、ひとり。誰も助けてくれない。誰も、彼に気を掛けてくれない。
「……っ」
 孤独感が膨らみ、涙が出そうになった。冷たい空気をいっぱい吸い込んで、奥歯を噛み締めて懸命に我慢する。こんなところで泣いたってなんにもならないし、同情が得られるわけでもない。
 それでも、止められなかった。
 悔しい。
 期待に応えられない不甲斐ない自分が、なによりも情けなくて恥ずかしかった。
「俺は、……どうすれば」
 答えは簡単だ。少しでも沢山稼ぎを得る為に、今以上に必死に売り歩くしかない。だが、思うように体が動かない。こんな事をするのはもう嫌だと、心の中でもうひとりの自分が訴えて、身体の自由を奪い取っていた。
 綱吉の待つ並盛村に帰りたい。
 だが、こんな体たらくで帰って彼を失望させたくない。
 何処に行けば良い。もう自分には、あそこしか帰る場所は無いというのに。
「く、うっ」
 悔し涙を拭い、鼻を啜る。悴んだ指先に息を吹きかけて温め、彼は暮れ行く空に目を向けた。
 今晩の宿を決めなければ、寒さで凍えてしまう。しかし町の中心部からは随分と外れてしまっており、そういった施設は目に付く範囲で見当たらなかった。
 仕方無しにその辺の農家の戸を叩き、一宿一飯の願いを立ててみるが、出て来た老婆は獄寺の顔を見た途端、飛びあがらんばかりに驚いて、目の前で勢い良く戸を閉めてしまった。
「ちょっと、おい」
「なんだい、お前、人間じゃないね。とっととどっかに行っちまいな!」
 あまりの反応に憤り、乱暴に閉ざされた木戸を叩くが、中から聞こえて来たのはそんな心無い罵倒だった。
 一瞬顔を合わせただけの人間に、そこまで言われる謂われはない。しかし否定しようにも、言葉は喉の奥で薄氷のように砕け散り、乾いた空気が唇を微かに震わせただけだった。
 振り翳した拳が、目標を見失って力なく下ろされた。呆然と見開いた瞳は乾き、痛むのに涙すら浮かんでこない。
「どういう意味だよ」
 呻くように呟くが、まともに発音できているかどうか、自分でも分からなかった。
 髪色が他の人と違っているだけで、これを除けば獄寺は、外見上は大勢の人間となんら変わり無い。並盛の里では皆、この髪色に慣れてしまっていたし、里長の息子である了平も日焼けの所為で髪の色が抜けて、真っ白に近い灰色だ。
 霊峰並盛山の裾野に広がる盆地では、不可思議な現象も当たり前の事として受け止められていた。それがいかに特殊な環境であったのかを、まざまざと思い知らされた。
 息が出来ない。苦しさの余り噎せて、膝を折った彼は暫くその場から動けなかった。
 だがどんなに辛そうに咳を繰り返しても、一度閉ざされた戸は開かない。聞こえていないわけが無かろうに、居ないものとして扱われた。
 日が沈む。東から藍色の闇が押し迫り、冷え込みは一段と厳しさを増した。震える肩を抱き、よろよろと、今にも倒れそうな足取りでか細い道を行く。今夜体を休める場所を求めていながら、彼はまるで逃げるように、集落から離れて行った。
 月明かりがぼんやりと照らす中で、田畑の間に設けられた掘っ立て小屋を見つけた。中を覗けば、所狭しと色々なものが押し込められていた。天井には縄が何本もぶら下がり、そこに大根が結んで吊るされていた。
 これを食べるのは、盗みに当たる。しかし空腹で、耐えられない。
「……すみません」
 何処の誰とも知れない相手に頭を下げ、手頃な大きさの一本を引っこ抜く。このまま齧り付くには勇気が要ったが、まだ土の匂いが残るそれを前にじっと構えているうちに、咥内に唾が沸いて溢れた。
 思い切って中央に牙を突きたて、前歯で削り取って噛み砕く。乾燥前なので水分は多く含まれ、甘辛い味がじゅわっと一気に口の中に広がった。
 後はもう無我夢中で貪り食い、二本目に手を伸ばしかけて慌てて引っ込めた。食い散らかした滓を下に見て、己の浅ましさに、今度は涙が湧いて来た。
 懐を探り、奈々が持たせてくれた路銀の袋を広げて銅貨を一枚、目に付く場所に置く。勝手をしてしまった侘びの気持ちを込め、折角だからと彼は葛篭の護符も一枚引き抜き、そこに掲げた。
 夜明け前に目覚めるように自分に言い聞かせ、積み上げられた稲藁の上に腰を下ろす。肩に担いだままだった荷を下ろして膝に広げた彼は、綱吉が持たせてくれた竹筒を手に取り、小屋の隙間から差し込む月明かりに晒した。
 輪郭だけが薄らぼんやり浮き上がるそれを翳し、軽く振る。出立前に聞いた時と同じ、粉が震えるサラサラという音が、頼りなげに彼の耳朶を打った。
 これを使えば、人々が彼を遠ざける最たる理由は取り除かれる。不吉な髪色、と罵られることも無くなるだろう。
 だが、果たして本当にそれでいいのか。
「俺は」
 両手で持って膝に抱き、俯いて考える。独白の先は続かず、彼は行き場の無い心を持て余した。
 筒を掌の中で前後に転がせば、最初は冷たかった筒は徐々に体温を吸って温かくなっていった。
 これを前もって準備し、出発の際に渡してくれたという事は、綱吉は最初からこうなる事を予見していたのだ。そして彼は、分かっていながら、獄寺をひとりで行かせた。獄寺が辛い目に遭い、髪色を気にして思い悩むのも承知していたのだ。
 だから救いの手を差し伸べる意味合いで、これを持たせてくれたのだ。裏を返せば、綱吉はこうなると知った上で、敢えて何も言わなかった事になる。
 それは獄寺に対する、残酷な裏切りだ。彼は最初から分かっていた。獄寺が対人関係を築き上げるのを苦手としているのも、半年以上共に生活していたのだ、気付かぬわけが無い。
 人とは異なる髪色をして客商売など勤まるはずが無いと、綱吉は気付いていた。彼だけではない、雲雀も、山本も、奈々も、リボーンも。
 だが誰ひとりとして、引きとめなかった。お前には無理だといわずに、取ってつけたように「お前なら出来る」「お前にしか頼めない」と人を調子付かせることを口にしていた。
 あの時にもっと冷静に、周囲を観察すべきだった。綱吉にも煽てられ、変に浮かれてしまった。それがそもそもの間違いだった。
「俺は、騙されたのか」
 降って沸いた疑問を言葉に出した途端、それはより現実味を増し、獄寺の前に広がった。
 思えば可笑しなことばかりだった。あの雲雀が、わざわざ獄寺の為に仕事を用意立てることからして、妙だった。獄寺は綱吉の頼みを断れない、絶対に。そこを利用された。
 これから冬が深まっていく中で、少しでも食い扶持を減らしたいのは何処も同じだ。
 屋敷に置いておいても何の役にも立たない米潰しを養うだけの余裕が、沢田家に残されていなかった。ただ、それだけのこと。
「俺は、厄介払いされたってのか」
 信じがたい思いで呟く。広げた両の手から竹筒が滑り落ちて、音を立てて足元に転がった。
 拾おうという気も起こらない。否、落ちてしまったという実感すら持てない。全ての感覚が遠くに霧散し、跡形もなく砕け散って消えた。
 見送ってくれた綱吉の笑顔に罅が入り、ぼろぼろと崩れ落ちていく。残ったのは黒く凝り固まった、疑念という名の澱だけだった。
 要らないから、見捨てた。言葉にして追い出すのは残酷だからと、方便を聞かせて獄寺が自ら村を出て行くように仕向けた。綱吉ひとりの策略ではあるまい。そこに雲雀や、リボーン達の思惑が介在していたのは、最早疑う余地が無い。
 はっ、と短く吸った息を吐き出し、彼は絶望の縁に立って、その先に広がる底の見えない闇に背筋を粟立てた。
 気温の低さからではない寒気に襲われて、咄嗟に両手で己を抱き締める。歯の根が合わず、がちがちと不愉快な音がいっぱいに響いて、怖くて仕方が無い。
 見捨てられたのだ、自分は。
 ようやく見つけた安住の地だと思ったのに、そう感じていたのは自分だけ。どれだけ恋焦がれ、慕おうとも、綱吉の心は雲雀に向いたままで、永遠に変わることは無い。分かっていた、それでも良いと思っていた。いつか願い続ければ届くと、信じて疑わなかった。
 最初から見込みがなかったのだ。だったら、あんなにも期待を持たせるようなことをしないで欲しかった。
「う、うぅ……」
 どうすればいい。
 何処へ行けばいい。
 これ以上行きたい場所など無いのに。帰れる場所なんて、もうこの世の何処にもありはしないのに。
「嫌だ。いや、だ」
 呻く。腹の奥底から搾り出した声はろくな音にならず、重みに耐え切れずに潰れてなくなった。
 また失うのか、自分が居ても良い場所を。いや、最初からそんなものは無かったのだ。ただ自分ひとりが浮かれ調子でいただけで。
「嘘ですよね、十代目。そんなわけないって、十代目に限って!」
 虚空に向かって叫び、問いかける。返答は無論無くて、氷よりも冷たい静寂が彼を飲み込んだ。
 肩で息をして、溢れ出た涙で頬を濡らす。垂れ下がった鼻水を力いっぱい吸い込んで唇を噛み締めた彼は、握り拳を振り上げ、何も無い空間を殴ろうとした。 
 ところが彼は腕を高く掲げた状態で停止し、暫く凍りついたように動かなかった。目尻いっぱいに溜めた涙をぼろぼろと零しながら、彼はこみ上げてくる様々なものを押し殺し、やがて力尽きたように稲藁の山に倒れ伏した。
 硬いようで柔らかく、冷たいようで温かい。柔らかな土の匂いがした。どこか懐かしい、古い記憶を呼び覚ます香りだった。
 信じていたものに裏切られて、最早成す術も無い。行く宛てもなければ、頼る先も持たず、無限に広い空の下でひとりぼっち。
「だれか……」
 誰でもいい、抱き締めて欲しい。頭を撫でて欲しい。無条件に愛して欲しい。
 何の為に産まれてきたのかも分からない、こんな自分を愛してくれる人が欲しい。
 全身が軋むように痛い。このまま粉々に砕け散り、塵となって消え去るのか。それも良いと一瞬思い、そんなのは絶対に嫌だとすぐさま否定して心が悲鳴をあげる。
 涙は乾ききった藁に吸い込まれて、細い糸で支えられていた彼の意識さえも奪い取る。
 泣き疲れて眠る彼の枕元で、銅銭を重石にした護符が淡い光を放つのに、彼はついぞ気付くことは無かった。

 夢を見た。
 優しい夢を見た。
 誰かが頭を撫でてくれる夢だった。貴方は良い子ね、と褒めてくれる人の夢だった。
 優しい手だった。柔らかくて、良い匂いがして、とても温かかった。
 手を伸ばせば握り返してくれた。小さな子供の手を放すまいと、力強く握り締めてくれた。
 この人は誰だっただろう。知っているはずなのに、どうしても思い出せない。
 輪郭は光に透けてぼやけ、朧ではっきりとしない。だけれど、覚えている。この温もりも、匂いも、全て。
 この人ならば、愛してくれる。世界から爪弾きにされた自分だけれど、彼女だけは絶対に、なにがあっても最後まで自分の味方だ。
「か……さ、ん」
 夢うつつに呟いて、その声で目が醒めた。稲藁に埋もれるようにして横になっていた獄寺は、隙間風の冷たさに身震いし、仄明るい小屋の内部に目を瞬いた。
 此処がどこだったかが直ぐに思い出せず、頭を抱えながら身を起こして首を振る。欠伸を零して眠気を追い払った後は、疲れが抜けて嫌にしゃっきりしている身体を不思議に思いながら、全身にこびり付いていた藁を払い落とした。
「なんだったんだか」
 現実が戻って来て、昨晩の記憶が蘇る。夢に見た光景は一瞬にして霧散したが、心の中にはほんのりと灯る優しい光が残った。
 吊るされた大量の大根を前に暫くぼんやりして、何を拍子にしてか彼は両手で思い切り頬を叩いた。ぶるりと沸き起こった寒気に全身を竦ませ、催した尿意を堪えて立ち上がる。
 手早く身繕いを整えて、少ない荷物を抱えると、彼は立て付けの悪い戸を開けて外に出た。
 薄い霧が広がり、視界は白く濁って遠くの景色が霞んでいた。周囲に人気はなく、鳥の声すら聞こえない。日は昇っているがまだ低く、夜の名残がそこかしこに散らばっていた。
 吐く息も白く濁り、凍てつく空気が肌に容赦なく突き刺さる。
「さっみぃ……」
 自分自身を抱きすくめ、腕をさすって摩擦熱を呼び起こすが、あまり効果が無い。じっとしていると凍ってしまいそうで、足踏みして体を動かし、彼は小屋の後ろに駆け込んだ。
 小用を済ませてほっとひと息つき、井戸を探して視線を巡らせる。だが近隣に住居はなく、それらしきものも見当たらなかった。
 少し歩いたところで農業用の水路を見つけたので、屈んで流水に両手を浸す。
「ひっ!」
 思わず悲鳴をあげて、彼は慌てて指先を水面から引き抜いた。
 冷たすぎる。が、火を起こして湯を沸かすにも、容器が無い。
 苦虫を噛み潰したような顔をして、彼は意を決して再度水に突っ込んだ。そのまま動かさずに耐えていると、不思議なことに最初に感じた骨にまで沁みる冷たさは薄れて行った。
 両手で掬い、顔に叩きつけて軽く擦る。手拭いを取り出すのも億劫で、彼は肩に水気を押し当てると、前髪に散った水滴を払って首を振った。
 寝癖のついた毛先を抓んで指に絡ませ、軽く引っ張る。波立つ水面に映る銀髪の男性像を暫くの間瞬きもせずに見詰め続け、やがて彼は心許なげに視線を遠くへ投げた。
 これから何処へ行こう。
「かあさん」
 無意識に呟いた言葉に、彼はふと我に返って目を丸くした。
「え?」
 今の声が自分の口から発せられたものだというのも信じられず、両手で顔の下半分を覆って周囲を見回す。しかし彼の声真似をしてからかうような悪戯者の姿はなく、水のせせらぎだけが周囲を細波立たせていた。
 右手を下ろし、緩く握る。左手は懐を探り、出立の日に綱吉が持たせてくれた地図を引き抜いていた。
 広げ、目を向ける。並盛の文字を見ても、何の感慨も浮かんでこなかった。
「今、多分……此処」
 自分が辿ってきた道筋を、記憶を頼りに指でなぞる。里から南に出て、東に進んだ。途中で北よりに進路を取って、凡その目算であるが、今は並盛の北東周辺。
 現在地の予測を立てて紙を小突き、顔を上げる。霧は晴れつつあった。隠れていた遠くの景色が彼の前に厳かに現れる。枯れ色の目立つ山肌が折り重なり、人の暮らす狭い平地を飲み込もうとしていた。
 ぶるり、身震いして地図を畳む。
「知ってる」
 呟き、彼は身を乗り出した。二つに折った紙を握り締め、千鳥足で二歩、三歩と進み、遠方に迫る山並みに呆然と見入る。
 何処にでもありそうな平凡な山並みだ。枯れ色の目立つ芒野原の向こうに、身を寄せ合うようにして稜線が幾重にも連なっている。高い場所ではもう雪が降っているのか、灰色にも似た白がぽつぽつ、とまるで虫食いのように散らばっていた。
 並盛から見上げる景色と、さほど差があるように思えない。だけれど長く蓋をして、思い返さないようにしていた古い記憶が突如彼の中に溢れ出し、この景色を知っている、と金切り声で訴えた。
 瞠目し、息苦しさに喘いで噎せて咳き込み、胸元を掻き抱いて遠く広がる景色に見入る。瞳が乾くまで、三百六十度自分を取り巻く全景を眺めた彼は、何かに導かれるようにして唐突に歩き出した。
 前ばかりを見据え、全く足元に注意を払わない。そこに大きな石が転がっていようと、この季節でも尚生命力豊かに繁る薮が広がっていようとも、まるで意に介そうとしない。
 空腹であることも、疲れが頂点に達しようとしているのも忘れ、枯れ木の枝を掻き分けて目印となる場所を探して視線を巡らせる。太陽が高く登る頃には人里を遠く離れ、彼はひとりぽつん、と山深い森に佇んでいた。
 冬場でも葉を茂らせる木が天高く聳え、周囲から光を遮っている。冷えた空気は容赦なく彼を攻撃するが、体内から沸き起こる熱に寒さはまるで苦にならなかった。
「は……っ、は」
 乱れた息を整え、肩を上下させて唾を飲む。口元を手の甲で拭った彼は、ちりりとした痛みに今頃気付いて顔を顰めた。
 どこで切ったのか、手が傷だらけだった。いや、手だけではない。顔にも尖った枝で擦ったと分かる切り傷が目立ち、転んだ時に打った痣が脚のそこかしこに広がっていた。
 出立時に渡された地図などとうに役立たずで、方角さえも定かではない。現在地が何処に当たるのか、まるで検討がつかなかった。
 振り返っても、前を見ても、同じような光景が続いている。道と呼べるものは無いが、地を這うようにして伸びている背の低い草の一部に、獣の通った跡があった。
 膝を折って露出している土に触れ、抓むと容易く崩れていく柔らかさに目を細める。二度深呼吸を繰り返した彼は、額に浮いた汗を払って首を振った。
「なにかある、な」