神渡 第四夜

 翌日、寝床をのそのそと這い出た獄寺は、寝癖のついた頭を掻き回しながら、凍てついた廊下に足を伸ばした。
 山本が使っている隣の部屋は障子戸が全開になっており、中を覗くと既に布団は片付けられた後で、中には誰も居なかった。相変わらず早起きだと嘆息し、閉ざされたままの雨戸を左手に見て進んで、右に開けた空間に身を滑らせる。木の匂いが広がる居間もがらんどうとして、先客の姿は見当たらなかった。
「また俺が最後か」
 沢田家の面々は特別な用事がある場合を除き、基本的に起きたい時に起きて、眠りたい時に眠る。食事の時間は決まっているが、皆と一緒に食べたくなければそれも構わないという姿勢だった。
 膳は個々人に割り当てられているので、自分の分を誰かに食べられてしまう、という事は無い。ただ囲炉裏で煮立てる汁物だけは、早い者勝ちだ。
 ひっそりと静まり返った居間は、空気が凛と冷えて寒々としていた。南側の壁の端に、大きな火鉢が置かれている。その隣には、昨日はなかった木組みの四角い枠が立てかけられていた。
 あれは何をするものだろうか。見た事がなくて分からず、小首を傾げながら獄寺は囲炉裏に歩み寄った。
 突き刺さっている火箸を取り、灰を穿って火種を残している炭を掘り起こす。手を翳すと仄かに温かく、凍えかけていた指先にじんわりとした熱が広がった。
「さっみー」
 途端に背筋がぞくぞくして、足元から登って来た寒気に全身が鳥肌を立てた。立てた膝を胸に寄せて小さくなって、一瞬だけ白く濁る息をひっきりなしに吐き出す。
 勝手口も、表玄関と土間とを仕切る扉も、今は全て閉ざされていた。竃の前にある窓の障子から外の光が差し込んで、そこだけが薄明るい。
 昨日の晩、山本が寝入るのは随分と遅かった。部屋を仕切るのは襖一枚なので、物音はよく聞こえる。耳を澄ませば居間で寛いでいる皆の声も、遠く微かに聞こえた。
 あの輪に、未だに巧く交わることが出来ない。此処の人たちは親切で、優しくて、失敗しても見捨てたりはしない。叱られて、笑われるのもしょっちゅうだけれど、心から嫌うことは無い。
 それが分かるのに、自分から積極的に前に出られない。尻込みして、誰かが手招いて誘ってくれるのをじっと待って、蹲ることしか。
 自己嫌悪に陥りそうになって、暗く沈んだ自分を追い払おうと彼は首を振った。
「しっかりしろ、俺」
 自分の頬を二度、勢い良く叩いて赤く染め、己を鼓舞して呟く。今日こそは立派に綱吉の役に立ってみせる。そう意気込んで、途端に鳴った腹の虫に彼は脱力した。
 奈々の姿は無い。立ち上がって土間に降りると、獄寺は慣れた調子で棚に手を伸ばした。
 他が逆さを向いている中で、ひとつだけ天地正しく置かれた膳がある。やや奥行きのある箱を引っ張りだして、落とさぬよう両手で抱えて彼は急ぎ居間に戻った。
 座布団を二枚引き寄せて尻に敷き、囲炉裏の傍で抽斗をそっと引き出す。中には小皿がふたつ入っていて、大根と蕪の漬物と、冷めた焼き魚が一匹、申し訳程度に飾られていた。
 それらを箱の上に並べ、木を削っただけの箸を添える。もう一度土間に戻ってお櫃を探し出し、蓋を外すと、こちらも予想通り冷め切って表面が硬くなっていた。
「遅く起きた俺が悪いんだから、しょうがないよな」
 昨晩あまり沢山食べていない所為もあって、腹は減っている。贅沢を言っている場合では無いと自分を戒め、彼は唾を飲んで残っていた雑穀飯をひと粒残らず椀に移し変えた。
 囲炉裏には鉄製の鼎が、三本の足を灰に半分埋めて立っていて、獄寺はその真ん中に掘り出した炭を集め、瓶から水を注いだ鉄瓶を置いた。
 外は風が吹いているのか、時折雨戸を叩く音がする。障子に透ける光は明るいので晴れているのは間違い無さそうだが、冬の入り口だけあって、気温は低い。
 身震いしながら箸を取り、彼は硬い朝食を、渾身の力を込めて噛み砕いて胃袋に押し込んだ。
 温い湯を鉄瓶から空になった椀に注ぎ、こびり付いていた米粒ごと飲む。満腹にはほど遠いが、ひとまず午前中活動するだけの気力は回復して、彼は人心地ついた様子で息を吐いた。
 濡れた口元を綿入りの袖で拭い、指を舐める。
「今日は、どうすっかな……」
 格別の用向きは聞いていない。もっとも、それはいつものことだった。
 屋敷の中、或いは外で忙しくしている誰かを捕まえて、何か手伝える事は無いかと訊いて回るのが、彼の日課だった。最初は話しかけ易い綱吉か、奈々に。それで断られたら山本を探して、彼が見付からなければ悔しいが雲雀を頼る。彼にまで厄介払いされてしまっては、本当にすることがないので、シャマルのところに出かけて本を借りるか、ひとりその辺をうろうろするか。
 村の人とも大分顔馴染みになって、年齢が近い男連中は割と気さくに話しかけてきてくれる。だが、まだまだ余所余所しさが抜けないのは、自意識過剰だろうか。
「俺に出来ること。俺に、……俺にしか」
 せめてもう少し腕力があれば、力仕事も捗っただろうに。寒さの所為で悴む手をきつく握り、獄寺は食事の後片付けを済ませて居間を出た。
 何処に行こうか一瞬迷って、草履を履いたまま玄関に抜ける戸を右に滑らせる。此処に仕切りがあると知ったのは、つい最近の事だ。春先から秋の終わりまで、この戸は風の通り道としてずっと開放されていた。
 沢田の屋敷に厄介になり始めてからかなり経つのに、身近なところでも知らないことだらけだ。
 蜘蛛の巣が張った梁を頭上に見て、明るさと寒さが増した空間に身震いする。玄関は一見閉じられているようで、数寸ほどの隙間があった。
 そこから吹き込む風が、思いの外冷たい。渋い顔をして奥歯を噛み締めた彼は、中途半端に戸を閉めた相手に対して悪態をつき、荒っぽい動作で隙間を塞いだ。
「ったく、山本の糞野郎の仕業だな」
 この屋敷には生活を共にする人間が他にも数名居るというのに決めつけて、ぶつぶつ言いながら残っている草履の数を数える。しかし勝手口前の土間や、表の座敷に直接上がり込んでそのままになっている分もあるので、履物の数が一概に居残っている人間の数とは言いきれなかった。
 山本は恐らく出かけている。そんな憶測を立てて、獄寺は人気を探して草履を脱ぎ、上がり框から板敷きの廊下に登った。
 夏場にはなかった戸が、風除け目的であちこちに設置されている。そのひとつを開けて、閉じ、彼は三つ並んだ座敷のうちの、最も手前にある前の間に移動を果たした。
 しかし人の気配は無い。障子戸を越えて差し込む光は眩く、風も遮られているので此処は思ったほど寒くなかった。
「誰も居ないのか」
 長着の上に着込んだ綿入れは、雲雀のお下がりだ。彼が着ていたものを譲り受けるのは癪だったが、寒さには勝てない。
 自分だけの新品が欲しいと主張するのは憚られて、大人しく袖を通している。着丈が丁度良いのは、雲雀が数年前に使用していたものだからだ。今彼がこれを着ようものなら、寸足らずでさぞや格好悪かろう。
 意識すれば雲雀と、これを着ている雲雀に甘える綱吉の匂いがする気がした。嬉しいのと悔しいのとで難しい顔をして、彼は中の間に続く襖を開けた。
「誰か」
 呼びかけるが、こちらも無人だった。
 ただし物音はして、近くに人が居るのは間違いない。となれば奥の間と踏んで、彼は畳の縁を跨いで大股に進んだ。
「十代目?」
「うわっ」
 するりと襖を右に滑らせ、空間を切り開く。刹那、低い位置から甲高い悲鳴が聞こえて、獄寺は前に出そうとしていた右足を慌てて戻した。
 いきなり後ろが開いたのに驚いた綱吉が、右手に筆を持った状態で仰け反っていた。左手で背中を支え、尻を浮かせて爪先をプルプルさせている。寸前のところで後ろへ転ぶのを回避した、というところだろうか。
 彼は斜めに傾いた視界に獄寺の姿を認め、若干引きつり気味の笑顔を浮かべた。
「お、おはよ、う」
「おはよう御座います、十代目」
 言葉を細切れにしながら挨拶をして、綱吉は息を吐いて身体を起こした。痺れた左手に息を吹きかけて冷まし、肩を回して凝り固まった筋肉を解きほぐす。まだ朝も早い時間だというのに、既に疲れた様子が窺える彼に、獄寺は首を傾げた。
 綱吉は座卓を引っ張りだして来て、それを前に座っていた。
 床の間の右手には雲雀が居て、獄寺にちらりと目をやって直ぐに逸らした。
「綱吉」
「分かってますよー」
 集中が途切れてしまった綱吉を叱り、作業に戻るよう無言で促す。途端に彼は口を尖らせ、右手に握った小筆を振り回した。
「なんですか、これは」
 しかし綱吉の抵抗はそれだけで、険しい目つきで睨まれて渋々背中を丸め、座卓に齧りついた。忙しく筆を動かし、やや寸胴の短冊に何かを書き記していく。終われば横に弾き飛ばして、次の短冊へと。
 綱吉が好き勝手な方向に散らした紙を拾い、束にして纏めるのが雲雀の仕事だった。
 効率が良いようで悪い二人に、獄寺が率直に問う。答えようとしたのは綱吉だったが、休んでいる暇など無いと雲雀に先手を打たれ、頬を膨らませた。
「護符」
 ぶぅぶぅ言いながら手を動かす綱吉に代わって、雲雀が端的に答えを告げた。
「護符?」
「そう」
 鸚鵡返しに呟いた獄寺に頷き、自分とは逆方向に弾き飛ばされた短冊を拾うべく、雲雀は重い腰を上げた。
 何十枚と重ねられた短冊が、紐で縛られて片隅に積み上げられていた。これら全て、綱吉が書いたのだろうか。興味惹かれて手に取ろうとすると、気付いた雲雀に咎められた。
「ちょっとくらい、いいじゃねーか」
「氣が移ったら困る」
「んだよ、それ」
 鋭い声で制止されて、肘を慌てて引っ込めて背中に隠す。文句を言えば、雲雀は顔を向けぬまま素っ気無く言い放った。
 自分の存在を汚いものとして扱われたようで、気分が悪い。腹を立てて睨みつけていると、隣で急に綱吉が大声を張り上げた。
「あー、失敗した!」
 書き掛けの短冊を丸めて握り潰し、八つ当たり気味に投げ捨てる。そうやって出来た紙くずの山が、雲雀の作る短冊の塔の反対側に出来上がっていた。
 彼らはいったい、いつからこの作業をやっているのだろう。少なくとも昨日の夕餉前には、こんなにも大量の紙、屋敷の何処にもなかった。
 調達先も謎だが、此処まで無数に護符を作り出す必要性も分からない。
「何に使うんだ?」
「売るんだよ」
「は?」
「霊山、並盛山宮司自ら筆を取った厄除けの護符。尤も綱吉は、まだ正式に継いではないけどね」
 里全体に結界を張り巡らせる、その媒介にでも使うのかと思っていた獄寺は、雲雀の淡々とした回答に、素っ頓狂な声をあげた。
 目をぱちくりさせて、口をあんぐり開ける。しかし驚く彼を無視し、雲雀は綱吉が投げ飛ばした護符を拾い上げ、不敵な笑みを浮かべた。
 並盛山の霊水で刷った墨で、高い霊力を秘めた者が作り出した護符。確かにこの両方が揃えば、低級の悪鬼や悪霊を追い払うくらいは出来るだろう。
 退魔師に頼るほどではない、けれど霊力の無い人間には太刀打ち出来ないちょっとした事象を鎮めるのにも、役立つはずだ。
「へえ……」
「うあー、また間違えた」
 言われて納得して頷き、またもや聞こえた綱吉の半狂乱の声に眉目を顰める。彼は頭をくしゃくしゃに掻き乱し、線のずれた短冊を前に打ちひしがれていた。
 床に散る護符の多くも、線が多少よれて歪んでいる。普段から筆を持ち慣れていないから、感覚が掴めないのだろう。
 手を止めぬよう雲雀に言われ、べそをかきながら作業に戻る彼の弱りきった姿に、ついつい笑みが零れた。
「十代目、手伝います。俺が代わりにやりましょう」
 呪符の作成は、獄寺の十八番だ。好意からの申し出に、鼻水を啜った綱吉が顔をあげる。間近から微笑みかけられて、彼は嬉しそうに目尻を下げた。
「ほんと?」
「君さ、僕の話、聞いてた?」
 綱吉と弾んだ声と、雲雀の冷たい声が重なった。
 振り向けば腕組みをした雲雀が、険しい表情で両名を睨んでいる。人を小馬鹿にしたような口調に苛立ちを深め、獄寺は握り拳を作って横薙ぎに空を払った。
「んだよ、聞いてたから、俺はだな」
「並盛山の霊水と、並盛神社の宮司の力――と僕は言わなかった?」
「ぬあ!」
 指摘され、彼は凍りついた。そういえば、そうだった。護符作成に苦しむ綱吉の助けになりたいばかりに、肝心の所をすっかり頭から吹き飛ばしていた。
 反論出来ず、彼はしょぼくれてしゃがみ込んだ。流石に可哀想になった綱吉が、筆を止めて銀髪を撫でてやる。綺麗な絹の髪は、綱吉の荒れた指先にも絡むことなく、さらさらと流れていった。
「ありがと、獄寺君」
 手助けしようとした、その気持ちだけでも充分嬉しい。目を細めて微笑み、礼を述べた綱吉を上目遣いに見やって、獄寺は悔しげに唇を噛んだ。
 折角の得意分野だというのに、またもや何も出来ない。綱吉が悪戦苦闘する様をただ見ているしか出来ないのは心苦しくて、彼はじんわり浮かんだ涙を誤魔化し、首を振って膝を起こした。
「俺になにか、手伝えることは」
「ないよ」
 胸に手を押し当て、思い切って問いかける。だが返事は、またもや後ろから響いた。
「お前に聞いてんじゃねえ!」
 綱吉だけと喋っているつもりでいるのに、雲雀がしゃしゃり出てきて邪魔をする。癇癪を爆発させて怒鳴った獄寺に嘆息し、綱吉はどうにも拗ねている雲雀に肩を竦めた。
 こうしよう、と言い出したのは彼と、リボーンだ。だのに、提案者である彼がこの態度とは、どういうつもりなのか。
「ヒバリさん」
「分かってるよ」
 伝心でちくりと釘を刺すと、声に出してぶっきらぼうに言い返された。
 膨れ面をして雲雀を睨む綱吉を、獄寺は少し寂しげに見詰めた。
 彼らの間には他人に理解出来ない絆があり、言葉に頼らずとも心を通い合わせる術がある。其処には誰も、神であるディーノですら割り込めない。
 だからふたりだけで、獄寺には分からないところで会話を目の前で成されるのは寂しいし、切ない。腹も立つ。こちらには聞こえないと知った上で、雲雀が自分に対して罵詈雑言を吐いているのではないかと、疑心暗鬼にすら陥りそうになる。
 知れず溜息が漏れて、振り返った綱吉の大きな瞳に不思議そうに見詰められて、彼は取り繕うように白い歯を見せた。
「それじゃあ、俺は、これで」
「心配しなくても、君にもちゃんと、仕事は用意してあるよ」
 座敷に居たところで邪魔になるだけで、綱吉に迷惑がかかる。ここは潔く身を引こうと決め、右膝を起こして立ち上がろうとした矢先だった。
 不機嫌にしていた雲雀が、矢張りどこか不満げな口調で言い放つ。誰に向かっての発言なのか、獄寺は直ぐに気付けなかった。
 綱吉にばかり向けていた視線を上向かせ、右に流す。仏頂面の男が、睨むように己を見ていると知って、彼は小首を傾げながらかなり遅れて自分自身を指示した。
 口を尖らせた雲雀が、黙って頷いた。
「俺に、仕事……?」
「嫌なら良いけど」
 今まで雲雀から、そんな事を言われた例は一度もなかった。
 する事が見付からず、暇を持て余して最後の手段で彼に頼った時だって、面倒臭そうに小物の片付けだの、庭の掃き掃除だの、誰にでも出来る簡単な小間使いしかさせてもらえなかった。
 わざわざ獄寺の為に仕事を用立ててやるほど、彼は親切ではない。そもそも綱吉に懸想する者に対して、雲雀は総じて態度が冷たい。
 俄かには信じがたい発言内容に、獄寺は怪訝に眉根を寄せた。最初から疑って掛かっている彼の表情に、雲雀もまた瞳に剣呑な色合いが混ざり始める。
 慌てたのは綱吉で、
「獄寺君がやりたくないって言うなら、無理には頼まないから」
 筆を握ったままの手を振って、何故だか一触即発な雰囲気が漂い始めた場に、強引に割り込んだ。声を上擦らせる彼にはっとして、獄寺が中腰のまま振り返る。
 綱吉がしっかりと首肯するのを見て、初めて彼は、雲雀の言葉が嘘ではないと信じた。
 見開いた目を何度も瞬かせ、少しずつ高揚する心に呼応し、全身の血液が沸き立つのが分かった。どくどくと力強く脈打つ心臓を綿入りの上から撫で、彼は興奮に頬を赤く染めた。
「いえ、やります。是非やらせてください!」
 この屋敷に来てから、こんなにも嬉しく思った出来事はないかもしれない。歓喜に打ち震えながら声を張り上げ、綱吉の気が変わらぬうちにと、仕事の中身さえ聞かぬまま承諾を口にする。
 勢いのままにがしっ、と強く両手を握られて、綱吉は苦笑した。
 獄寺の方向では、壁に背中を預けて座る雲雀が、ひと際不満そうにしていた。人が苦労して書きあげた護符の束に、あろう事か肘を置いて頬杖をつき、触れれば痺れそうなぴりぴりした空気を発している。
 明らかに獄寺を威嚇しているのに、全身で喜びを表明している彼はまったく気付いていない。
「……はぁ」
 この先の事を思うと憂鬱になって、綱吉は雲雀に急かされ、渋々筆を握り直した。
 出来上がった護符は一晩、並盛山の霊域に置いて氣を馴染ませる。見た目に際立った変化は生まれないが、翌朝に見せられた護符には確かに、昨日は感じなかった清涼さが付加されていた。
 綱吉が丸一日かけて、苦心の末に作り出した数は、相当なものだった。村の一軒ずつに配布しても、かなりの数が余る。
 その数百枚に及ぶ護符を収めた葛篭を前に、獄寺は若干顔を引きつらせた。
 彼の周囲には笑顔の奈々と、山本及びディーノ、そして苦笑している綱吉と、無表情のリボーン、そしてぶすっとしている雲雀がいた。話を聞きつけた了平や、京子にハルの姿まである。
 皆興味津々に、獄寺の旅装備姿を上から下に眺めては、楽しげに隣り合う人と言葉を交わしていた。
「あの、これは……いったい」
「よろしくね、隼人君」
 朝早く、日の出前に叩き起こされていきなり装備品を渡されて、何がなにやら分からぬまま身繕いを整えた獄寺は、待ち構えていた皆に説明を求めて視線を泳がせた。
 護符を収めた葛篭の他に、日持ちする保存食を入れた葛篭がひとつ。風避けの藁の合羽に笠といった道具も、ひと通り準備は整っていた。
「言っただろう、君に任せたい仕事があるって」
 代表で発言したのは雲雀で、彼もまた獄寺同様の旅姿だった。
 了平が愛用しているような股引に、長着の裾は腰の部分で折り返して帯に挟み込んでいる。脚絆と草鞋だが、彼の分の笠は用意されていなかった。
 人よりも頑丈に出来ている彼だから、寒さ避けがさほど必要でないのだろう。用意立ててくれた奈々の配慮は嬉しいが、どうにも負けた気分になって、獄寺は渡された笠を握り締めた。
「やると言ったのは、君だよ」
「そりゃ、言いはしたけどさ」
 仕事を用意している、と言われた時は後先考えずに有頂天になって、二つ返事で承諾した。その時にちょっとでも踏み止まって、中身を聞いておくべきだったと後悔しても、今更遅い。
 この段階でも何をさせられるのか分からなくて、彼はおろおろしながら綱吉に救いの目を向けた。
 肩を竦めた彼が歩み寄り、獄寺の前に立つ。手には、護符の入った小さめの葛篭が握られていた。
「獄寺君、辻売りって、知ってる?」
「それは、はい」
 商品を肩に担いで売り歩く人の事を言われ、彼は頷いた。
 店を持たない辻売りの声は、都にある父親の屋敷に居た時も散々耳にした。夏場は氷売りから金魚売り、朝顔売りというのもあった。魚を売り歩く男の声は朝早くに、年の瀬が迫れば暦売りの声がそこかしこから響いた。
 渡された葛篭を受け取って、少し考える。どことなく申し訳無さそうにしている綱吉の表情を見ているうちに、彼はひとつの結論に至って背筋に冷たい汗を流した。
 旅装束に、護符の詰まった葛篭。そして、綱吉の言う辻売りという言葉。
「あの、えっと。……まさか」
「うん。頑張って稼いで来て」
 嫌な予感を覚えて、声を震わせながら問う。しかし皆まで言わせず、綱吉はにっこり微笑んで頷いた。
 可愛らしく目を細めて、満面の笑顔で肯定されてしまった。
「え、あの。俺、そういうのはちょっと」
「やるって言ったのは君でしょう」
 獄寺の物よりもひと回り大きな葛篭を前にした雲雀が、与えられた任務に尻込みしている彼を嘲笑って言った。
「ぐ、ぬ」
 首から上だけで振り返って、余裕綽々としている青年を睨みつける。確かに昨日、彼は大喜びで仕事を請け負った。だが内容を聞かされて――自分から聞こうとしなかったわけだが――おらず、いわば騙されたに等しい。
 無理難題を押し付けられたわけだから、文句のひとつくらい言っても罰は当たるまい。
 けれど此処で下手な事を口走れば、綱吉の期待を裏切ることになる。奈々たちも、獄寺が承諾しているとすっかり信じきっているだけに、嫌だとはとても言いだせなかった。
 人と会話をするのが只でさえ苦手な彼に、見ず知らずの人々に物を売り歩くなど、無茶な注文でしかない。こういった仕事は、山本の方がずっと向いている。
 了平と話し込んでいる黒髪の青年を恨めしげに見やると、気付いた山本は人好きのする笑みを浮かべたまま、顔の前で手を振った。
「悪いな。俺、村の用事でどうしても離れらんねーんだ」
 あまり悪いとは思っていない様子であっけらかんと言われてしまって、ぐうの音も出ない。
 袖が引かれて下を見ると、とても申し訳なさそうにした綱吉と目が合った。
「ごめんね、獄寺君」