神渡 第三夜

 声を上擦らせ、身を乗り出した山本を正面に見据え、奈々は落ち着き払った口調でにっこり微笑んだ。が、それも一瞬だけのことで、すぐさま物憂げな、切なさと寂しさが入り混じった表情に切り替えられてしまった。
 ビアンキから聞いたと、彼女は先ほど自分で言った。
 獄寺が鬼の女と人間の男の間に出来た子であるのも、彼女は承知していた。ビアンキが鬼の純血種であるというのも。
 綱吉は教えていない。彼女の居る場所で、大っぴらに大声で喋った記憶もない。
 母親の真剣な横顔をじっと見詰めていた彼は、ふっと唇を窄めた彼女に見返されてどきりとし、大きく弾んだ心臓を長着の上から撫でた。
「知ってるわよ、全部」
「え……」
「なのに貴方達ってば、私のことはいっつも蚊帳の外に置いて。こそこそと、自分たちだけで片付けちゃおうとするんですもの」
 穏やかで優しい目で囁かれ、最後は拗ねたのか、つんと鼻筋を立ててそっぽを向いてしまう。
 確かに綱吉たちは、いつだって彼女を巻き込まないようにと慮って、騒動が起きている最中も仔細の説明をしてこなかった。そうして彼女も、ことの詳細を求めて来なかった。
 里に来た当初は黒髪だった獄寺が、原因不明の病の流行が終わった辺りから本来の銀髪に戻した時も。雲雀が綱吉に急に冷たくなって、彼を遠ざけようとした時も。ある日突然、ディーノが押しかけてきてそのまま居座ってしまった時も。村が炎に包まれ、屋敷の門も木っ端微塵に破壊されて、雲雀が姿を消した時も。
 居なくなった雲雀を恋い慕うあまりに、綱吉が自らの命を絶とうとしていた時でさえ。
 彼女は愚痴も、文句も、疑問すら口にしなかった。
 ただ魂送の夜が明けて、雲雀が綱吉と共に帰ってきた時だけ、彼女は雲雀に向かって深々と頭を下げた。息子を救ってくれてありがとう、と心からの謝辞を述べた。
「全部って、どこまで」
「全部は、全部よ」
 焦りを顔に出した綱吉の問いに、彼女は偉そうに胸を張って腰に手をやった。自信満々に言い切られてしまって、具体的に問い詰める気にもなれない。だがこの一年で起きた様々な出来事の真実を熟知しているのだけは、理解出来た。
 誰が教えたのか。
 脳裏に浮かんだ人物を斜め後ろに見て、綱吉は肩を落とした。
「リボーン」
「なんだ?」
 綱吉ですら自分自身を納得させるのに、長い時間を要した事柄も多い。記憶は、背負うもの。とてもひとりでは抱えきれない重荷だって含まれていて、雲雀と共有することでどうにか立っていられる事だってある。
 それを、奈々にまで負わせてどうする。余計な心配をかけたくなかったから黙っていたのに、台無しではないか。
「なあに、ツナ。そんなに母さんのこと、仲間外れにしたいの?」
「それは、……違うよ」
「大丈夫よ」
 心配要らないと微笑み、彼女は言葉に窮して唇を噛んだ息子の頭をそっと撫でた。
 綱吉が大切に想ってくれているからこそ言えなかったのだとは、奈々もよく分かっている。心優しく成長してくれたのを嬉しく感じながら、彼女は照れ臭そうにしている愛息子の髪をくしゃくしゃにした。
 見ていて微笑ましい光景に、雲雀の表情も緩む。山本などは緊張を解きすぎて、だらしなく炬燵の天板に寄りかかった。
「心臓に悪いよ、おばさん」
「あら、ごめんなさい」
 リボーンが話したとなると、山本が一時期雲雀と対立し、綱吉の命を危うくさせたことも知っているはずだ。
 半年前の嫌な記憶を蘇らせて肝を冷やした彼は、飄々とした態度を崩さない奈々に力なく笑い返した。今は咎めるつもりはないと知り、胸を撫で下ろして居住まいを正す。
 向かい側で背筋を伸ばした彼に柔和な笑みを浮かべ、奈々もわざとらしい咳払いをした。
 話を戻してよいか視線で全員に問いかけ、ディーノが慌てて行儀良くするのには堪えずに噴き出し、膝に両手を揃えておく。重ね合わせて握った彼女は、心を落ち着かせようとしてか深呼吸を三度、繰り返した。
「……」
 皆が固唾を飲んで見守る中、神妙な表情を作って半眼する。
「…………どこまで話したかしら」
「母さん!」
 やたらと間を挟むと思っていたら、それが理由だったらしい。山本と綱吉は揃ってずっこけて、床に体の一部を強かと打ち付けた。
 非難の声を上げられて、奈々は茶目っ気たっぷりに舌を出した。コロコロと喉を鳴らして笑い、冗談だと手を振って誤魔化そうとする。
「いやね、そんなに深刻な話でもないのよ」
 子供達があまりにも生真面目に構えているものだから、肩の力を抜く手伝いをしてやっただけ。そう言って憚らない彼女を睨みつけ、綱吉は勢い良く横倒しになった際にぶつけた頭を撫でた。
 横から手を伸ばした雲雀が慰めてくれなければ、立ち上がって怒鳴っていたかもしれない。口を尖らせた息子の不貞腐れた態度から、いかに彼が獄寺を案じているか、その深度が窺い知れて、奈々は嬉しくなった。
「深刻じゃないって、だって、ビアンキは獄寺君を連れ戻しに来たんでしょ」
「そうね」
 ぼそぼそ言う息子に頷き、奈々は右の人差し指を左の薬指に絡みつかせた。
 視線を伏し、薄暗い中で影を背負う両手をじっと見下ろして、乾き気味の唇を舐める。指先にあった傷は、ディーノの軟膏のお陰か、痕は残っているものの、痛みは完璧に消えていた。
「でも、ビアンキちゃんはひとりで帰って行ったでしょう?」
「あ、うん」
 緩く首を振り、綱吉に問いかける。訊かれて彼は頷き、人差し指を顎に添えた。
 眉間に皺を寄せて少し考えて、分からないと十秒後に降参だと手を挙げた。あまりの諦めの良さに雲雀は呆れて肩を竦め、続きを促して奈々に目配せする。
 彼女はビアンキとのやり取りを思い出してか、瞼を伏し、長く息を吐いた。
「言い出せなかったそうよ」
 静かに、厳かに。粛々と語られる彼女の言葉にあわせたかのように、行灯の火が隙間風に煽られて大きく波打ち、壁や天井に伸びる皆の影が膨らんで、縮んだ。
 そうっと吐息に音を乗せて囁いた奈々は、空気を掻き回した唇を閉ざし、黙った。
 子供達にさほど大きな動揺が生まれず、大人しく聞く姿勢を維持しているのを見て、結んでいた手を解いて背を僅かに後ろへと撓らせた。
 綱吉は長い間隔で息継ぎを繰り返す。無意識に雲雀の手を捜し、見つけ出して握った。
「うちに来て、隼人君に会って、ツナ、貴方ととても楽しそうにしているところを見て。幸せそうに笑っている姿を見て、今更鬼の里に帰れだなんて、とても言えるわけがなかった、って。隼人君はとっくに、人として生きる道を選んでいるのに、今更自分たちの都合であの子を迷わせられない。もし人の世に在って苦しんでいるのなら、無理矢理にでも連れて帰るつもりでいたそうだけれど」
「……」
 彼女の言葉の合間に、綱吉の呼吸が挟まる。ちらりと向けられた視線が、ビアンキの妖艶な目元を思い出させた。
「ビアンキちゃんは、隼人君が出会えたのが貴方で良かった、って、そう言っていたわ」
「俺は、そんな。別になにも……」
 母を通して語られた、鬼の娘の言葉に、綱吉は落ち着きを欠いて首を左右に揺らめかせた。
 雲雀が、綱吉の手を握り返す。薄い皮膚越しに伝わってくる確かな熱が、浮き足立った彼を地上に踏み止まらせた。
 彼は意識して深呼吸を二度繰り返し、乾ききった唇を舐めて肩の力を抜いた。依然変わる事無くそこにいる雲雀の姿を横目で盗み見て、安堵と申し訳なさとが入り乱れる心を宥めた。
 自由の利く左手で脈打つ胸をなぞり、膝の上で掌を上にして転がす。
「じゃあ、獄寺君は、知らないの?」
「多分、ね」
 恐る恐る問いかければ、こればかりは幾分自信が無い様子で奈々は言葉を返した。
 ビアンキは獄寺に言わなかった。奈々も、自ら積極的に語りたがる性格ではない。
「そんな……」
 禁を犯してまで鬼の村を出て、命懸けで見つけ出したというのに、獄寺に肝心のことを何も言わずに彼女は帰って行ったというのか。
 鬼の里の長を彼に負わせようという案は強引で、勝手過ぎる。獄寺が知れば反発し、絶対に引き受けようとしないだろう。だけれど、母親が病気である事くらいは、伝えてもよかったのではないか。
 幾ら幼い日に引き離されて以降、一度も会っていないとはいえ、母親は母親だ。綱吉だったら一にも二にもなく、駆けつける。この世でたったひとりだけの存在を前に、形振り構ってなどいられない。
「知らせなきゃ」
 立場を自分に置き換えて、胸に疼くような痛みを覚える。居ても立ってもいられなくて、彼は急ぎ立ち上がろうとした。
 しかし雲雀は手を解かず、逆に引っ張った。前に出ようとした身体が反対方向に流れて、膝立ちになった綱吉は、恨めしげな視線を後ろに投げた。
「ヒバリさん」
「知らせて、どうするの」
「そんなの、決まってるじゃないですか」
 母親の危篤を、獄寺に伝える。今生の別れになるかもしれないのだ、一刻も早く帰ってやるように諭して、送り出してやるのだ。
 早口に捲くし立て、腕を解こうと足掻いた綱吉だが、手首を握り締める手はいつになく強い。骨が軋む痛みに顔を顰め、険しい表情の雲雀を負けじと睨み返す。
 だが、この場で綱吉と同じ考えでいる存在は、ひとりとしていなかった。
 賛同してくれると思っていた山本までもが押し黙り、哀しそうな目をして綱吉を見上げている。
「なんで」
「ツナ。鬼の里は、禁忌の山にある。入れば、恐らく次は二度と、出られない」
 初代の業績に誰よりも詳しいディーノが、居合わせる全員の代表として声を発した。良く響く伸びのある声は、綱吉の右の耳から入って脳を激しく揺さぶり、左の耳から抜けて行った。
「え……」
「分かれ」
 絶句した彼に強い眼差しを向け、皆まで言わず、ディーノは頷いた。
 鬼の里に帰れば、獄寺は二度とこちらには戻ってこられない。ただの里帰りとは訳が違うのだ。なにより強さ欲している鬼の里の者達が、人と鬼の両方の力を有している彼を、みすみす手放すとも考え難い。
 それが分かっていたからこそ、ビアンキは何も言わずに去った。
 獄寺が人として、綱吉の傍で、この里で生きる決意を下したからこそ、その決断に迷いを生じさせないために。
「そんな」
 だからこのまま黙っているのが、獄寺の為になる。無言で首を振った雲雀の黒水晶の瞳に映る綱吉の顔は、泣きそうなところまで歪んでいた。
 物の理屈は分かる。ビアンキがどれだけ悩み、苦しみ、この結論に達したのかも。
 彼女の思いを尊重するなら、このまま獄寺には黙っているべきだというのも。
「でも、俺は」
「なら、君が言えばいい。鬼の里に帰って、鬼達のために生きろ、と」
「ヒバリさん」
「君の言葉なら、彼も従うだろう。なんだったら僕が言ってもいいけどね。あの鬱陶しいのが居なくなると思うと、清々する」
「ヒバリさん!」
 体のいい厄介払いが出来て、嬉しい。暗にそう告げる台詞に、綱吉は悲鳴を上げた。
 それが彼の本心から出た言葉でないにせよ、綱吉は幾らか傷ついた。即座に雲雀が彼の頭を撫でて抱き締めて来たが、反射的に突っぱねてしまうくらいには。
 獄寺は大切な仲間だ。まだ出会ってから一年と経っていないけれど、すっかり家族の一員として、存在を確立させている。
 彼が居なくなるなど、考えられない。雲雀が綱吉の傍から消えてなくなるのと同じくらい、獄寺隼人という人物は、綱吉を取り巻く空間に色濃く馴染んでしまっていた。
「なら、どうするの」
 叩き落された手を撫で、雲雀が淡々と質問を重ねる。答えられなくて、綱吉は唇を噛み締めた。
「それに、あいつが本当に母親に会いたいと思っているかどうかも、な」
「山本」
「あいつ、一寸前に言ってたぜ。父親とは縁を切ったって」
 不意に話に割り込んできた山本の言葉に、綱吉は信じ難いと目を見開いた。
 炬燵に寄りかかって背中を丸め、冷えた両手も布団の中に押し込んだ青年は、獄寺とのやり取りを思い出してか、眉目を顰めて半眼した。
 木枯らしが吹き荒れる、秋の終わりの寒い日だった。自分を駒としてしか見ていなかった父親に愛想を尽かし、絶縁状を叩き付けたという旨を、何故か誇らしげに語っていた。
 彼の口から母親に対しての言葉は聞かれなかったが、彼は親に捨てられたと思っている節が、所々に見受けられた。
 綱吉は奈々を好いている。奈々は息子である彼を大事に思っている。だからこそ、綱吉は彼女に何があったら是が非でも駆けつけ、助け出すだろう。しかし獄寺もが、母親に対して同じような考えを持っているとは限らない。
 本人に確かめもしないで決め付けるのは、綱吉の傲慢だ。押し付けがましい親切に、獄寺が素直に応じるとも思えない。
「そんな……」
 四面楚歌に陥って、綱吉は弱りきった声で力なく項垂れた。
 当人に直接問うのが最も手っ取り早い手段であるのは、疑う余地が無い。けれどその為には、すべてを彼に話さなければいけない。となれば、ビアンキの配慮が水の泡と化す。
 八方ふさがりで、綱吉は八つ当たりに床を殴った。
 ニ発目は雲雀に止められて、やり場の無い怒りを彼の胸に押し付ける。勢いつけて頭から突っ込んでこられて、雲雀は後ろに倒れそうになりながら、どうにか華奢な体躯を受け止めた。
 秘密を背負い込むのは、辛い。奈々はいったいどんな気持ちで、ビアンキの告白を聞いていたのだろうか。
「ふむ」
 母の横顔を盗み見るが、裏に潜む感情を読み解く暇も与えず、それまで黙って聞いているだけだったリボーンが動いた。
 ディーノの膝の上からぽんっ、と煙と共に消え去り、瞬き程の時間を挟んで炬燵の天板中央に突如現れる。霧散した白い煙と軽い炸裂音に驚き、綱吉は座ったまま仰け反った。
 鬼や神を前にしても、貴賎問わず分け隔てなく接する肝の据わった奈々だけが、リボーンの奇想天外な行動にも動じずに目を細めて微笑んでいた。
 咄嗟に身構えた雲雀と山本、それからおっかなびっくりしている綱吉を順に見て、黄色い頭巾の赤ん坊は不遜な態度でほくそ笑んだ。何も無い空中から取り出した、緑色の細長い撥を右手に従え、先端を綱吉目掛けて突き出す。
 張り詰めた空気を切り裂き、びしっと喉元に棒を突きつけられた彼は顔を引き攣らせて両手を高く挙げ、何も言われていないに関わらずさっさと降参を表明した。
 情けない表情の少年を鼻で笑い、撥を引いて己の肩を叩いた赤子が口角を持ち上げる。
「だったら、良い案があるぞ」
「リボーン?」
「ツナは、獄寺に母親に会いにいかせたいんだな」
「う、うん」
 急に積極的になった彼をいぶかみ、綱吉は内心どぎまぎしながら頷いた。
 獄寺と母親を会わせたいという気持ちは、奈々だって同じだ。山本とて、口ではああ言いはしたけれど、考えは基本綱吉と一緒だ。
 出来るものなら会わせてやりたい。しかし強制は出来ないし、彼が二度と並盛に戻って来ないかもしれないと思うと、行って来い、と気楽に背中を押すのも憚られる。
 獄寺の将来に、未来に関わることだけに、迂闊なことは言えない。
 誰も後悔せず、傷つかず、望みを叶えるのはなんと難しいのだろう。獄寺の意志を尊重し、彼を守る為に己を犠牲にしたビアンキを自由にしてやるには、どうすれば良いのだろう。
 一瞬、綱吉の脳裏にとある考えが浮かんだ。それは綱吉にしか出来ない、言い換えるなら彼ならば出来るかもしれない一種の賭けだった。
 鬼たちを一箇所に集め、聖域の守護役に任命したのは蛤蜊家初代。ならば蛤蜊家当主となれば、或いは。
「……いや」
 けれど綱吉は、途中で考えるのを止めた。首を振り、今の案はなかったことにする。もとより彼は、十代目を継承するつもりは無い。蛤蜊家を背負って立つには、捨てねばならないものがあまりにも多すぎる。
 横を見れば雲雀と目が合った。
 幼い日に綱吉が執り行った不完全な術の影響で、彼らの魂の一部は混ざり合い、繋がりあった。お陰で心に思った事柄が、相手に包み隠さず伝わってしまう。
 心配そうな眼差しに、他に知られぬ程度に首を振って、綱吉はリボーンに向き直った。
「どうすればいいの」
「この村から追い出しゃいいんだ」
 期待と不安が入り混じった声で問えば、リボーンは呵々と喉を鳴らし、飄々と言い放った。
 一瞬、言葉の意味が理解出来なかった。
「……はい?」
 聞いていた山本や奈々までもが、意表を衝かれて目を丸くして絶句している。雲雀は右の眉を僅かに持ち上げ、ディーノは呑気に欠伸をかみ殺した。
 両腕を頭上高く掲げ、伸びをした彼の衣擦れの音ばかりが、沢田家の居間に響く。油の焦げる臭いに鼻腔を擽られ、場違いなくしゃみが後ろから轟いたところで、びくりとした綱吉が最初に我に返った。
「追い出すって、ちょっと、どういう事さ」
 左右の腕を床に突き立てて身を乗り出し、今は誰よりも目線が高いリボーンを見上げながら問い質す。語気は自然と荒くなり、殆ど叫んでいる状態に近かった。
 赤子は彼の怒気を軽く受け流して胸を反らせると、緑色の撥を天に向け、綱吉目掛けて振り下ろした。
 距離があるので先端が届くことは無い。しかし鼻先に突きつけられた方は気分が悪く、右手で押し退けた彼は歯軋りしながらリボーンを睨みつけた。
「獄寺の奴、父親ん所とは絶縁してんだろ。あいつ、此処を放り出されたら、行くところないぜ」
「そうだよ」
 右手を広げて肩を揺らし、焦りを過分に含んだ口調で山本が言う。綱吉も同調してうんうん頷き、仲間を求めて雲雀に目を向けた。
 が、彼は顎に手をやって瞑目し、なにやら考え込んでいて動かない。
「他に行く宛てがないからといって、隼人君が素直にお母さんを頼るかしら」
 奈々も、リボーンの荒っぽい提案に懐疑的だ。心強い味方を手に入れた綱吉はぱぁっと表情を花開かせて、どうだ、と言わんばかりに居丈高に踏ん反り返っている存在を振り返った。
 しかしリボーンは、その反論を最初から予想していたらしい。鼻で笑い飛ばして短い腕を胸の前で組み、にぃ、と笑った。
「奈々」
「はい」
「年越しまでに必要な現金は足りてるのか」
「えっ、……と。それは、ねえ?」
 年の瀬はなにかと入用だ。その分出費が嵩み、貯えは減る。今年は秋に起きた大火が原因で、神社に納められる農作物の品数も、量も、昨年に比べて格段に少なかった。季節毎の祭事用、及び沢田家の人間の胃袋を満たす分を除くと、殆ど残らない。
 そもそも、沢田家には収入源らしき収入源が、無い。
 家光が居た頃は、村の相談役を務めることである程度の収入があったのだが、今は途絶えて久しい。畑はあるが、家族を養う分を細々と作っているだけで、居候が増えた今ではとても賄い切れるものではなかった。
 食糧は、村人が善意で分けてくれるのでなんとかなる。が、夏場に行った屋敷の修繕でも分かるように、専門の人間を雇い入れないとどうにもならない事も多い。
 最近の雲雀の長着は、専ら家光の古着を奈々が設え直したものばかりだ。
 リボーンの質問に、即答を回避した奈々の視線は天井を向いて定まらない。家計が苦しいのは薄々感じていたが、思っていた以上に厳しいと、彼女の態度から想像できた。
 村の仕事を手伝い、駄賃を奈々に全て渡している山本も、結局は稼いだ分より食べた量の方が多い。ましてや獄寺は。
 重苦しい雰囲気が場を埋め尽くして、綱吉は知れず溜息を零していた。
「でも、それがなんだっていうんだよ」
 ぺちん、と自分の頬を叩いて苦虫を噛み潰したような顔をした彼に、にんまり笑ったリボーンは撥の矛先を変えた。北北西を示した棒の先のあるものを想像して、綱吉は口を尖らせた。
 獄寺が居間を出て行ってから、随分と時間が過ぎている気がした。太陽の運行を司るディーノが特に眠そうで、さっきから頻りに目尻を擦っている。
 彼は基本食物を口にしないし、身に纏うものも何処からか調達して来る。昼間から座敷を占領しては、ぐうたら過ごしているが、彼は見た目ほど沢田家に金銭的負担をかけてはいなかった。
「はっきり言うぞ。この家には今、獄寺を食わせてやるだけの余裕は、ねえ」
 今まで誰も、思いこそすれ口には出さずにいたことを、この赤ん坊はきっぱりと口にした。
 本人が聞いたら、泣いて土下座でもしそうだ。リボーンの望み通り、里を飛び出して行きかねない。しかしそれはあまりにも可哀想で、綱吉は渋い顔をして奈々を見た。
 日々どうにかやりくりしながら、皆を腹いっぱい食べさせる努力を事欠かない彼女も、困り顔で頬に手を添えていた。
「それは、……否定しない、けど」
「くっ」
 か細い声で綱吉が認め、隣の雲雀が噴き出した。肩を小刻みに震わせて、必死に笑いを堪えている。
 皆が真剣に相談し合っている中で、不謹慎極まりない。彼の反応が信じられなくて、綱吉は琥珀の目を真ん丸にして唖然と口を開いた。
「ヒバリさん、酷い」
「どうして?」
「だって、獄寺君だって、好きで働いてないわけじゃないのに」
「だから、働かせればいいじゃない。手っ取り早く、彼にも出来ることを。そうだろう、童」
 拳を作って上下に振り回し、見も心も通じ合っているはずの相手を詰る。しかし糾弾の声をさらりと躱して、雲雀は綱吉ではなく、炬燵の上で尊大に構えている赤ん坊に話しかけた。
 リボーンの狙いをひとり理解している雲雀に、彼も鷹揚に頷いた。
 腰の後ろで両手を結び合わせ、短い足を交互に動かして山本の方へと。端に辿り着くと助走も無しに飛びあがり、彼の肩に乗り移って座った。
 寸前で何をしようとしているのか察した山本が、呼吸を合わせて衝撃をやり過ごす。着地の瞬間、僅かに沈めた首を元の状態に戻し、彼は赤ん坊が落ちぬよう右手を掲げて支えてやった。
「自分の食い扶持くらいは自分で稼ぐ。基本だな」
「それはそうだけど、でもどうやって」
 獄寺も実際、自分があまり役に立っていないと分かっている。だからこそ悩んでいる。
 この数ヶ月間、彼が何もしてこなかったわけではない。雨漏りの修繕や、庭の掃除や、庭木の手入れに畑仕事と、日々あれこれ精を出しては失敗を重ねて来た。
 最初は誰だって不慣れで、出来ないことの方がずっと多い。獄寺の努力は、此処に居る全員が認めるところだ。
 それでも、どうにもならない事もある。
 積極的に他人と関わろうとしないのは、育った環境が多いに影響している。持ち合わせている知識は書物から得たものに偏り、実生活に有用な情報は殆ど無い。
 退魔師としては優秀だが、それ以外はてんで駄目。意気込みばかりが空回りして、傍から見れば滑稽だ。
 得手、不得手がこうも両極端では、これから先の人生、苦労の連続だろう。いや、既に彼は苦境に立たされている。
 嫌だから、出来ないからと言って避けていては、いつまで経っても彼は成長できない。此処はひとつ心を鬼にして、獅子が子を崖から突き落とすが如く振舞うべきだ。
 珍しく熱弁をふるうリボーンに、ふと嫌な予感を覚えて綱吉は怪訝な顔をした。
「何企んでるのさ」
 綱吉が産まれるずっと前から、リボーンは沢田家に居座っている。どれだけ歳月が過ぎようとも姿かたちは一切変わらず、赤ん坊のまま。
 長い付き合いだ。いつも飄々として奔放で、自由気ままで身勝手、且つ人を振り回して楽しむ極悪な性格の彼が、誰かの為に躍起になった先例は一度もない。
 だから絶対に裏がある。そう確信を持って問いかけた綱吉に、黄色い頭巾の赤ん坊はにやりと笑った。
「察しが良いじゃないか」
「ぬ」
「この家にはもうひとり、稼ぎの無い子がいるね」
 不敵な笑みを浮かべて言ったリボーンに、綱吉の表情が険しくなる。直後斜め後ろから聞こえた声に吃驚して、彼は大慌てで振り向いた。
 黒髪を梳き上げた雲雀が、切れ長の目を細めて淡く微笑んだ。一見するととても優しげに思えるその表情が、村の人間を相手にする際の営業用の仮面だというのは、綱吉も熟知するところだ。
「え……お、俺?」
 ひやりと冷たい汗を流し、恐る恐る己を指差して小首を傾げる。間をおかずにリボーン、雲雀両者に首肯されて、彼は頬を引き攣らせた。
 収入源がないのは奈々も同じだが、彼女は毎日子供達の為に奮起している。食事に洗濯、掃除に衣類の繕い、その他諸々。誰にも真似できない、体力勝負の重労働だ。
 山本は下手に介入して巻き込まれては困るからと、苦笑いを浮かべて傍観の構えだった。ディーノは眠気に負けて、いつの間にやら座ったまま舟を漕いでいた。
「ちょっと、待ってよ」
 炬燵の天板を力任せに叩き、反対側を浮かせて上にあった湯飲みを滑らせた綱吉が悲鳴をあげた。
 顔を強張らせたまま、山本の肩で寛いでいる赤ん坊を睨みつける。一方的に言われてばかりだが、彼だって一応、仕事はしているのだ。
 家光が不在の今、並盛神社で執り行われる神事は全て綱吉が代行している。無論、雲雀や奈々が諸々の手伝いを買って出ているお陰で、どうにか成り立っているようなものだが。
 それらは確かに、収入に直結するものではない。しかし村人を代表して祭事を行うからこそ、並盛神社の宮司として、沢田家は村人から支援を受けていられるのだ。
 頬を真っ赤にして、座ったままぴょんぴょん膝で飛び跳ねて、彼は必死に訴えた。奥歯を噛み締め口を真一文字に引き結び、これまでの業績を並べ立てるものの、リボーンは聞き入れない。緩やかに首を振って、一蹴した。
「そんなぁ……」
「だから、だ。ツナ、お前は明日、夜明け前に起きて禊を済ませて来い」
 いったい何をさせられるのか。全く想像がつかなくて、悲嘆に暮れた顔をして打ちひしがれる彼に向かい、赤ん坊は尊大に言い放った。
 雲雀が慰めるように丸まった背中を撫でてやる。しかし跳ね返されて、彼は笑いながら叩かれた手をしまった。