足を一歩前に繰り出す度に、ズキズキとした痛みが下から押し寄せて来た。
かといって、いつまでもそこでじっとしているわけにもいかない。彼は意を決すると歯を食い縛り、鼻から大きく息を吸って、特に酷く痛む右足を持ち上げた。
ゆっくり、爪先から慎重に下ろしていくが、踵が廊下に接した瞬間、体重が圧し掛かったのもあって、ズキン、と来た。
「うぐっ」
思わず呻いた彼は肩を丸め、右手の壁に寄りかかった。
「くぅ、つぁ……い、ってぇ……」
細く広げた唇の隙間から切れ切れに息を吐き、太い針で突き刺されたような痛みに眉を顰める。身を屈めて触れようかとも思ったが、そうすると余計に足に負担がかかると思い留まる。
仕方なく一度は下向けた視線を前方に戻すと、長い廊下が果てしなく続いているのが見えた。
目指す場所までそう遠く無いはずなのに、心理的なものの所為で、とてつもなく距離があるように感じられた。
「やっぱ、肩貸してもらえばよかった」
今更取り返しのつかないことを口にして、残る力を振り絞って姿勢を正す。痛む足にこれ以上ダメージが行かないようにするには、最早逆立ちをするか、或いは四つん這いになる以外、道は残されていない。
そして彼は、残念なことに逆立ちが出来なかった。
となれば残る手段はひとつきり。だが、たとえ周囲に人目が無いとしても、そんな馬鹿げた真似が出来るわけがなかった。
乳飲み子ではあるまいし、中学二年生にもなってハイハイをするなど、誰かに見られたら笑われるだけではすまない。背に腹は変えられないが、こればかりは譲れないと自分に言い聞かせ、彼は温い汗を流して咥内の唾を飲み込んだ。
決死の覚悟で、先ほどよりもずっと注意深く足を前へと運ぶ。へっぴり腰になるのは、避けられなかった。
よろめきつつ四歩ばかり進んだところで、彼は再び足を止め、肩を上下させて乱れた息を整えた。
ざわついた空気は感じるものの、彼の周囲に人の気配は乏しい。ふたりほど、職員室帰りと思しき女生徒とすれ違ったが、彼女らは壁に張り付いている男子生徒に冷たい視線を送るだけで、身を案じて声をかけてくることはなかった。
あのふたりを冷たい人だと断じることは出来ない。そもそも彼が体操服のまま、こんなところに居ること自体が奇妙なのだ。
しかも履いているのは、体育館シューズだ。
靴を履き替える余裕すら無かった。彼の上履きは、体育館の入り口にある下駄箱の中に残され、主が戻って来るのを今も待っているに違いない。
「ぬあー」
人のものとは思えぬ唸り声をあげて、彼は髪を振り乱してかぶりを振った。
頭上のスピーカーから、リーンゴーン、と気が重くなるメロディーが鳴り響く。休憩時間が終わってしまった。
悲壮感を強め、彼は腰を捻ってじくじくする踵を見下ろした。
シューズを脱げば少しは楽になるというのは、分かっている。だけれど脱ごうとするだけでも痛い。それで体育館前でひと悶着あって、結局脱がぬまま此処まで来てしまった。
その判断が悪かったのだというのは、言うまでも無い。
体育館を出たばかりの頃は、痛むもののまだ問題なく歩けた。それで、獄寺が買って出た補助も断ってしまった。
まさかこんなことになるだなんて、あの時は考えてもいなかった。後悔先に立たずというが、全くその通りで、彼は鼻を啜って涙を堪え、ようやくはっきりと見え始めた黒い壁にホッとした。
「ん?」
否、それは壁ではなかった。
一瞬見逃してしまいそうになったが、なにかが可笑しい。違和感を覚えて二度見返して、彼は保健室の札だと思ったものが、全く異なる物体だと気がついた。
廊下の真ん中に向かって真っ直ぐ突き出ているのでそうだと錯覚してしまったが、違う。
あれは、髪の毛だ。
「なんで」
絶句して、彼は廊下の片隅で立ち尽くした。
保健室の入り口に立っていたのは、黒い学生服に身を包んだ男性だった。とても綱吉と同じ中学生に見えない屈強な体格をして、口には茎の長い草を一本咥えている。額から伸びたリーゼントは立派で、とても重そうだ。
あれを解いたら、髪の長さになるのだろう。どうでもいい事を考えて、綱吉は生唾を飲んだ。
「まさか、入れない?」
並盛中学校風紀委員会、その副委員長たる人物の姿をその場に認め、焦りを覚えて呻く。彼がいるのは保健室のドアのまん前で、道を塞ぐ形で仁王立ちしていた。
両手を背中に回し、背筋をピンと伸ばして屹立している。視線はドアの真正面に向いて動かず、横から近付こうとしている存在に気付いているのかどうかは不明だ。
白い半袖に水色の半パン姿の綱吉は、足の痛みをしばし忘れ、呆然となった。
彼があそこに居るという事は、つまり部屋の中に誰か居る、ということだ。
否、誰か、という紛らわしい表現をするまでもない。思い当たる人物はひとりしか存在しておらず、綱吉は此処に来て遭遇した予想外の障害に臍を噛んだ。
やっとの思いで此処まできたのに、なにもせずに教室に戻れない。こうしている間も靴に圧迫された足は激しく痛んで、膝は震えて今にも崩れそうだった。
何度かに分けて唾を飲み干し、彼はしばしの逡巡の末、覚悟を決めて残る距離を詰めるべく歩き出した。
爪先を廊下にこすり付けて、殆ど摺り足状態で進む。足を持ち上げて、腕を振って、という模範的な動きは出来なかった。
「ん?」
ずりずりと重いものを擦る音を聞いて、草壁が瞬きを連発させた。
詰襟の学生服に身を包んだ彼は、ふたつに割れた顎を揺らして首を巡らせた。顔のサイズの割に小さな目を丸くして、ほうほうの体でやって来る存在に小首を傾げる。
「お前は、確か」
ぼそりと呟かれて、綱吉はどうにか愛想笑いを浮かべた。
遅刻魔の彼だから、それなりに風紀委員には顔を知られている自覚はあった。委員長との接点も多いので、草壁と顔を合わす機会も多い。
汗だくで現れた彼を上から見下ろして、厳しい見た目に反して柔らかな表情が向けられる。綱吉はホッと息を吐くと、足を庇って壁に縋りつき、草壁の後ろのドアを恨めしげに見詰めた。
「どうした。怪我か」
「はい、ちょっと」
綱吉が何を気にしているのかを順に見て、草壁は緩慢に頷いた。左手で顎を撫で、思案気味に眉根を寄せる。顰め面をされると、余計に顔が恐い。
踵を一寸だけ廊下から浮かせて爪先立ちになり、綱吉は耳を澄ませた。
保健室からは何の物音も聞こえてこない。保険医であるシャマルがいるのかどうかすら、此処からでは分からなかった。
「そうか。校医は今、席を外しているんだが。痛むのか?」
渋い顔をしていたら、聞いても無いのに草壁が教えてくれた。その上で重ねて聞かれて、綱吉は間髪入れずに頷いた。
靴擦れなのだと言えば、彼は益々困った顔をして、閉ざされたドアを振り返った。
シャマルが居ないのであれば、手当ては期待できない。しかし綱吉でも、消毒くらいは出来る。それに絆創膏を貼っておかなければ、上履きや、帰宅時の下足すら痛くて履けない。
じっとしているだけでも苦痛で、膝をもぞもぞさせていたら、強い視線を感じた。
眉間の皺を深めた草壁は、やがて諦めたのか、フーっと長い息を吐いて肩を落とした。
「静かにな」
「……はい」
そう言って、彼は立ち位置を少しだけ右にずらした。
ドアが片方フリーになって、綱吉は手で壁を押して体を前に出した。爪先で着地して、ちょこまかと動く。踝の下側までぎっしり足をくわえ込んでいる体育館シューズが、ミシミシと硬い音を立てた。
レンチで締め上げられているようだ。震動を受けて、靴全体が軋んでいる。それが靴下越しに足に伝わって、痛みを誘発していた。
苦心の末に草壁の隣に辿り着いた彼は、一旦停止して深呼吸を二度繰り返し、二枚並んだ戸板の片側を右に滑らせた。
ガラッ、と音がして、草壁がぎょっと身を竦ませた。
「あ」
静かに、と言われていたのに、うっかり勢いつけて開けてしまった。やってから思い出して、綱吉は冷や汗を流した。
「誰?」
「ヒッ」
すかさず中から冷たい声が響いて、背筋が粟立つ。全身を毛羽立てて震え上がった彼の前で、静かに白いカーテンが開かれた。
木の葉が落ちる音でも目を覚ますと言っていた。今の戸が開く音は、その比ではない。
後ろで草壁が項垂れているのが分かる。自分の愚かしさに絶望しそうになって、綱吉は天を仰いだ。
保健室の、合計四つあるベッドのひとつを占領して、雲雀恭弥がカーテンの隙間から顔を出した。
目つきは剣呑としており、機嫌の悪さが如実に現れていた。寝入ったばかりだったのだろう、寝癖らしきものはない。ネクタイを外し、襟元を少しだけ広げているのが印象的だ。
「も、申し訳御座いません、委員長」
「誰も通すなと言っておいたはずだけど?」
綱吉を押し退けた草壁が叫ぶが、雲雀の低い声に掻き消されてしまった。いったいどこに収納していたのか、泣く子も黙る風紀委員長の右手には、銀色に輝くトンファーが握られていた。
目にするだけで鳥肌が立つ武器を目の当たりにして、彼の不機嫌の引き金を引いた綱吉は震え上がった。
「す、すみません。俺が無理に――いぢっ!」
このままでは、何も悪くない草壁が咬み殺されてしまう。それはあまりにも申し訳なくて、彼はひっくり返った声で叫び、草壁の脇を潜り抜けようとした。
そしてみっともなく悲鳴をあげ、その場に倒れこんだ。
靴擦れの事をすっかり忘れていて、動いた途端に激痛が走った。上半身は前に流れているのに、下半身はついてこない。バランスが崩れた身体はそのまま保健室の床に滑り込んだ。
両腕を真っ直ぐ伸ばしてスライディングを決めた彼に、ベッドを降りようとしていた雲雀も唖然となった。
ぽかんと間抜けに口を開き、二秒後に我に返って慌てて閉じる。右手に構えたトンファーに目をやって、最後に入り口で慌てふためいている草壁を見る。
副委員長が綱吉を助け起こさんとしていると知って、彼の気配が瞬時に尖った。
凄まじい怒気をぶつけられて、草壁が反射的に仰け反った。特に何もされていないはずなのに、心臓を鷲掴みにされた錯覚に陥って、バクバク暴れ始めたそれを制服の上から押さえ込む。
大粒の汗を流して開けっ放しのドアまで後退した彼は、トンファーを片付けて床に降り立った雲雀に何度も頷き、逃げるように部屋を出て行った。
自力で起き上がった綱吉の後ろで、扉が音立てて閉ざされる。上部に設けられた磨りガラスの窓が暗いので、立ち番に戻ったのだろう。
擦った額と鼻の頭を両手で交互に庇い、床に腰を据えた綱吉は首を振った。
「いった、た」
まったくもって、踏んだり蹴ったりだ。足だけでなく、顔や、掌や、肘まで痛い。半袖半ズボンの体操服の所為で、肌の露出が多かったのが災いした。
あちこちを赤くしている彼の傍に歩み寄り、雲雀は無言で右手を差し出した。
「なにやってるの」
「それはヒバリさんだって、……いてて」
呆れ混じりに聞かれて、綱吉は言い返そうとして、途中で止めた。一番の痛みの原因がむくりと首を擡げて、シクシクと泣き出したのだ。
校舎内だというのに、青色のラインが走ったゴム底の体育館シューズを履いている彼に気付いて、雲雀は手を引っ込めた。緩く握って、広げて、改めて綱吉に差し出す。
今度は素直に従って、彼は助け起こされると同時に、転がるようにそこにあった椅子に腰を下ろした。
背凭れの無い簡素な丸椅子に深々と座した途端、それまで足首に突き刺さっていた棘がスッと抜けた気がした。二本足で立たなくて済むというのが、こんなにも楽なことだったのかと痛感して、ホッと胸を撫で下ろす。
流れた汗を抓んだ体操服で拭っていると、雲雀が無言で見詰めてくるのが気になった。
「ヒバリさん?」
「どうかしたの」
「ああ」
保健室を訪ねて来た理由を聞かれているのだと理解して、綱吉は熱を持っている肘に息を吹きかけた。
草壁には説明したが、雲雀はその時同席していなかった。同じ事を二度繰り返すのは面倒臭くて嫌だったが、教えない限り彼はずっとこのままだ。それはあまりにも息苦しい。
仕方なく綱吉は、踵を数センチ浮かせている足を指差した。
「体育で」
「転んだの?」
「転びましたけど、そうじゃなくて」
窮屈な運動靴でのバスケットボールの授業は、かなり酷だった。なんとかフル出場を果たしたものの、結果は普段以上に散々なものだった。
足が痛いと正直に言っておけばよかった。押し寄せて来る後悔に打ちのめされて、綱吉は唇を噛んだ。
黙ってしまった彼に困った顔をして、雲雀はシャマルが普段座っている、コマつきの椅子を机から引っ張りだして来た。
背凭れを回転させて、綱吉の斜め向かいで停めて座る。視線の高さが近付いて、圧迫感が薄れた綱吉は少しホッとした。
「ちょっと、靴擦れ」
苦笑混じりに告げて、膝から先をブラブラ揺らす。それだけでも痛みは起こったが、立っている時に比べればずっとマシだ。
赤く色付いた膝小僧や太腿につい目が行きがちだった雲雀は、言われて気付いた顔をして、若干気まずげに目を逸らした。
「ふーん。新品?」
それを気取られないように小声で呟き、薬品棚やその手前に置かれた、治療道具一式をザッと眺める。これらを扱うべき存在は、雲雀が昼寝を理由に追い出してしまったので、今は居ない。
立ち去らせたのは早計だったかと悔やむが、見つけ出して連れ戻す時間が惜しかった。
「いいえ。一学期も使ってた奴なんですけど」
足の動きを緩め、やがて止めた綱吉が視線を浮かせて呟く。それを証拠に、彼の靴は紐を結ぶ辺りが少し汚れていた。
新品ではないのに靴擦れが起きた理由を考えて、雲雀は棚から消毒薬の瓶を取り出した。
ガーゼを探して引き出しを開き、袋に入った綿を見つけたのでそれを適当な大きさで引き千切る。瓶の蓋を外そうとして、彼は靴を履いたままの綱吉にムッとした。
「脱ぎなよ」
「え?」
人が手当ての準備をしているというのに、綱吉は口ばかり動かして、ちっとも協力的でない。誰の為にやっているのかと声を荒げた雲雀に、彼は目を丸くした。
今の今まで雲雀が何をしているのか、気付いていなかったようだ。
「あっ、あ、はい。ごめんなさい」
うろたえつつ何度も頷いて、行儀良く椅子の上で畏まってから、またハッとして両手を振り回す。靴を脱がなければ患部が出てこず、消毒も手当ても出来ないと思い出して、急ぎ右足から、膝を折って靴紐を解く。
「いっ、づ……う」
体育館出口で騒いだときの教訓を生かし、慎重に慎重を重ねてみるが、それでも痛いものは、痛い。
顰め面をして鼻を膨らませた綱吉の、涙混じりの琥珀の目に見入り、雲雀は瓶を落としそうになった。
彼がひとりでお手玉している間に、綱吉はどうにか片足分、体育館シューズを脱ぎ終えた。後先考えずに投げ捨てて、白色の靴下に覆われた踵を上に向ける。
うっすら赤が滲んでおり、見るからに痛々しかった。
ゾッと寒気を覚えた雲雀が、包帯その他を探して棚を漁った。シャマルは整理整頓が苦手らしい、何処に何があるのか、さっぱり見当がつかなかった。
「うぅ、っつぁー」
意味のない呻き声を発して、綱吉が左分も脱ぎ捨てる。密閉空間から開放されて、爪先が涼しい。うっかり指を広げて動かして、後ろから走って来た痛みにガツンと殴られた彼は、両膝を抱えて椅子の上で丸くなった。
肩で息をして、目尻に浮いた涙を拭う。ひと通り準備が整った雲雀が向かいの席に戻って来たのを受け、彼は恐る恐る靴下を脱いだ。
踝を覆う長さのそれを捲り、下へとずらしていく。
短パンなので当然太腿から先は何も身につけておらず、見守っていた雲雀は無自覚に喉を鳴らした。
「うぐっ」
一方で布が踵に別れを告げた瞬間、最後っ屁を食らった綱吉が悲鳴を上げた。
濡れた患部に木綿が張り付いていて、剥がす瞬間に皮膚が引っ張られたのだ。
四肢を痙攣させて天を仰いだ彼にハッとして、雲雀が椅子から腰を浮かせた。けれどどうする事も出来なくて、仕方なく椅子に戻る。前方では首を竦めた綱吉が、涙ながらに残る靴下も脱ぎ捨てた。
丸まって床に転がった布を視界の端で追いかけて、雲雀は真っ赤になっているふたつの踵に眉目を顰めた。
「見せて」
「うぅ……」
右手に消毒液をしみこませた綿を持ち、左手を前に出す。綱吉はちょっと躊躇してから、恐る恐る左を先に差し出した。
膝まで真っ直ぐ伸ばさなければ、彼に届かない。蹴り出すみたいで嫌だったのだが、自分でやるという提案は無言で却下されてしまった。険しい目で睨まれて、仕方なく爪先を外側に傾けて、彼の膝に載せる。
土踏まずに左手を被せて固定して、雲雀はちらりと綱吉を窺ってから、湿った綿を水脹れの上に押し当てた。
「冷たい」
「こっちは、擦り切れてはないね」
ひゃっ、と肩を竦めた綱吉に苦笑して、傷の具合を確かめながら表面を撫でていく。赤子のように艶やかな踵の皮膚が少しだけ白く濁り、膨らんでいた。水が入っているのか、押すとぶよぶよする。
好奇心に負けた雲雀を涙目で睨み、綱吉は鼻を啜った。
「どうしようかな」
「潰すんですか?」
「酷い時はね。焼いて滅菌した針で」
「ひいぃぃ!」
見るからに可哀想だが、言うほど状態が悪いわけでもなさそうだ。絆創膏を貼ってこれ以上摩擦がいかないようにしておけば、数日で元に戻るだろう。
だから潰しはしないと言っているのに、真に受けた綱吉は素っ頓狂な声をあげ、半泣きになりながら雲雀に縋る目を向けた。
鼻を愚図らせている彼に小さく噴き出して、雲雀は傷口をもうひと撫でしてから、大き目の絆創膏を袋から引き抜いた。剥離紙を捲って、戦々恐々としている少年の足に貼り付ける。
一センチ四方の方形の中にすっぽり収まってしまう水脹れなど、怪我の部類にも入らない。こちらは終わりだと膝を叩いて合図を送り、反対側の足を出すよう促す。
露骨にホッとしてみせた綱吉は、自分でも見たくないのか、顔を背けながら足を入れ替えた。
こちらは、酷い。水脹れが潰れて、皮が捲れてしまっていた。
「どうしてこんなになるまで放っておいたの」
「痛かったんです」
原因は窮屈な靴なのだから、脱いで素足で保健室までくれば、こうまで悪化しなかった筈だ。耳が痛い綱吉は頬を膨らませると、短くそれだけを吐き捨て、そっぽを向いた。
説明の端々が排除されてしまった返答に、雲雀は顔を顰めて眉間の皺を深めた。
痛いのならば脱げば良いと言っているのに、痛いから嫌だという。支離滅裂も良い所の返答に怪訝にしながらも、雲雀は消毒薬の瓶を傾け、新しい綿を湿らせた。
「沁みるよ」
「うっ」
先に警告をして、足首をがっちり掴んで固定する。身構えた綱吉が目を歪ませるのを哀れに思いつつ、雲雀は憐れみを捨て、鮮血が滲む右の踵にガーゼを押し付けた。
抉るように表面を削り、雑菌を拭い取っていく。
「ぎょぇぇぇー!」
「暴れない」
「だって、いた、いだっ、だ、だだ、ひぎゃ!」
耳を劈く悲鳴が響き渡り、保健室のドアの辺りまで何故かガタガタした。聞き耳を立てている草壁の気配をドア越しに睨みつけて、雲雀はついに泣き出した綱吉の足を、ぽんぽん、と叩いた。
傷に触らない程度に力を加減して、肩を竦める。赤色が乗り移った綿を捨てて次を取り出し、今度は先ほどよりも幾らか丁寧に、傷の周囲を綺麗にしていく。
十四歳にもなってみっともなく泣きじゃくり、綱吉は流れ出る涙で頬を濡らした。
「うぇ、えっ、……ひどい。ヒバリさん、酷い」
「酷くないよ」
「ひどいぃいぃー」
両手をばたばた振り回して、子供のように駄々を捏ねて叫ぶ。窘めたが逆効果で、雲雀はえぐえぐ言っている彼に嘆息すると、また新たにガーゼを丸め、皮膚に残っていた消毒液を拭い取ってやった。
真面目に相手をしていたら、いつまで経っても治療が終わらない。割り切ることにして、雲雀は逃げ出す寸前で捕まえた彼の足に、今度はチューブから絞り出した軟膏をたっぷり塗りつけた。
ビクッと大袈裟に肩を跳ね上げた後、綱吉は空気が抜けた風船のように萎んでいった。
「靴、小さかったの?」
「みたい、です」
「おろしたてじゃないんだね」
「一学期はなんともなかったんです」
気を紛らせてやる目的で話しかけ、次に包帯を取って端を引っ張りだす。まだ痛いが、何もしないでいるよりはいいと応じて、綱吉は頬を膨らませた。
今は二学期、九月も半分を過ぎた。夏場限定のプールの授業も終わって、体育館での授業が再開された。
暫く使わなかった靴に久方ぶりに足を突っ込んだところ、小さく感じた。その理由を考えて、雲雀は緩慢に頷いた。
傷口に添えたガーゼを固定して、足首から裏側まで包帯でぐるぐる巻きにしてやりながら、呟く。
「君でも成長するんだね」
「えっ」
苦笑交じりのひと言に、椅子の上で綱吉がぴょん、と跳ねた。
薄茶色の髪の毛がふわふわと揺れた。綿毛のような頭を眺め、雲雀は余った包帯に鋏を入れ、真ん中に切れ目を作った。
十センチほどを二股にして、片側を逆方向に捻ってから端を結ぶ。簡単に外れないようきゅっと縛って、それで終わり。
ひと仕事終えて長い息を吐いた雲雀から己の右足を見て、再び黒髪を掻き上げた青年をじっと見詰めて、綱吉は口をパクパクさせた。
「どうしたの」
妙に落ち着きを欠いている彼に首を傾げたら、綱吉は痛みとは違う興奮に頬を染め、拳を上下に振り回した。
「俺、背、伸びた?」
椅子から身を乗り出して来られて、雲雀は面食らって後、押し黙った。深く考えて発言したわけではないのだが、どうやら綱吉は、嬉しかったらしい。
脱ぎ捨てられたまま床に転がっている体育館シューズを見下ろし、雲雀は使った道具を片付けて肩を竦めた。
足が大きくなる、イコール背が伸びる、という図式らしい。クラスでも、女子からも見下ろされる側に立っている綱吉にとって、身長の問題は、普段口にはしないものの、かなり深刻な悩みだった。
「どうだろうね」
計測器で調べたわけではないのではっきりとした事は何一つ言えない。だが喜んでいる綱吉に、伸びていないとは流石に言いづらく、雲雀はあやふやな返答で誤魔化し、立ち上がった。
瓶を元あった場所に戻し、細くなった包帯の束も引き出しに戻す。
素っ気無い彼の反応に不満を露わにし、綱吉は頬を膨らませた。
「そのうち、ヒバリさんよりもおっきくなるんだから」
「それは無理だろうね」
「俺は成長期ですよ」
「僕もそうだよ」
不貞腐れた声で言うと、今度は即座に否定された。胸を張って力強く叩いて主張すると、これまた瞬時に揚げ足を取られて、彼は面白く無さそうに椅子ごと身を揺らした。
行儀が悪いと貧乏ゆすりを叱って、雲雀は落ちている物を片付けるよう指示する。
言われて思い出した綱吉は、ちょっと躊躇してから二本足を床に下ろした。
ゆっくり、注意深く体重を移動させて、素足のまま立ち上がる。
「どう?」
「痛い、けど……平気です」
ぎこちない笑みを浮かべ、綱吉が強がって言う。白い歯を見せられた雲雀は心持ちむっとして、爪先立ちで歩き出そうとする彼の進路を予想した。
靴や靴下を拾っても、身につけようとはしない。左右にふらつきながら、覚束ない足取りで向かう先にあるのは、身長測定器だ。
壁際に置かれたそれは、保健室が開いている時なら誰でも使用出来る。メモリのついた真っ直ぐの柱の上の方で、頭の位置を固定する出っ張りが偉そうに踏ん反り返っていた。
先ほどの会話を頭の中で二度繰り返して、雲雀は非常に鈍い足取りの彼に肩を竦めた。嘆息し、ふよふよ揺れ動く蜂蜜色の髪の毛に見入る。
重力を無視して天を向いて尖っているけれど、その触り心地は思いの外心地よいのを、彼は知っている。
「沢田」
「んしょ、……はい?」
計測器で何をするかなど、ひとつしか思い浮かばない。同年代の平均身長に届かず、クラスの女子も半分近くが彼より大きいとあれば、綱吉が背丈を気にするのは致し方ないことだった。
男だから、出きるものなら大きくありたい。特に彼は、体格も男らしくて屈強な父親に、まるで似ていない、というところを密かなコンプレックスにしていた。
真ん丸くて大きな瞳も、愛らしい顔立ちも、なにもかも母親譲り。可愛くていい、と雲雀は思うのだけれど、当人にとっては非常に重要、且つ一生涯まとわりつく難題だった。
夏休みの間に、本当に背が伸びていたら嬉しい。先ほどの満面の笑みを思い浮かべ、雲雀は複雑な思いを顔に出した。
彼が笑ってくれるのは嬉しいけれど、あまり大きくなられるのも面白くない。なにより背丈を追い抜かれるようなことになろうものなら、悔しくて夜も眠れない。
今晩から、夕食後に牛乳を一杯追加しよう。心の中でそんな事を呟いて、雲雀は大股に足を前に繰り出した。
綱吉を追いかけて進み、四歩で追いつく。
呼びかけられて立ち止まっていた彼は、真後ろに来た雲雀に眉を顰めた。
「ヒバリさん?」
「そんなもの使わなくても、分かるよ」
左右の手にそれぞれ片方ずつ、小さくなってしまったシューズを持って綱吉が首を捻る。
無邪気で、純真無垢という言葉がぴったり当てはまる彼の姿に目を細め、雲雀は不敵な笑みを浮かべると、やおら両腕を差し出して膝を軽く曲げた。
ぼうっとしていた綱吉の脇に手を差し入れて、背中に回して固く結びあわせる。
「えっ」
「よ、っと」
何が起きているのか理解出来ずに慌てふためく彼を無視し、雲雀は小さく掛け声をあげ、綱吉の小柄な身体を難なく持ち上げた。
確かに重いが、抱えられないほどではない。腕の位置を少しだけずらして尻を鷲掴みにして支えると、柔らかな肉を揉まれた方はヒッ、と喉を引き攣らせて悲鳴を上げた。
手にしていたものを放り出して、真ん丸い琥珀の目をもっと見開いて、一瞬で下に来た雲雀の顔を凝視する。
「な、なにっ」
狼狽えている姿も愛らしくて、雲雀は唇をひと舐めして喉を鳴らした。食らいついてやりたい衝動に駆られるが我慢して、暴れまわる彼をぎゅっと強く抱き締めると、その重さを全身で受け止めて、軽く揺すった。
「うん、あんまり変わってない」
覚えのある重みをひと通り楽しみ、嘯く。聞こえた綱吉は、それでやっと雲雀の目的を知り、顔を真っ赤に染め上げた。
「嘘だ!」
「嘘じゃないよ。ほら、こんな事も出来る」
声高に叫ぶが耳を貸さず、一蹴した雲雀は彼を高く掲げ上げた。脇を擽られて身を捩った彼は、足が地に着かない恐怖に頬を引き攣らせ、鼻を愚図らせた。
目尻に残っていた涙を零し、下ろしてくれるよう懇願するが、聞き入れられない。それどころか。
「ヒバリさん!」
彼を抱え直した雲雀は、何を思った踵を軸に反転し、すたすたと歩き出した。
真っ白いカーテンが揺れている。窓は閉まっているので、風はない。外の雑音も、此処までは届かなかった。
「ちょっと、何――いたっ」
雲雀が使っていたままのベッドに落とされて、硬いクッションに背中を弾ませた綱吉が非難の声をあげる。起き上がろうとするがすかさず影が落ちてきて、なんだと思った瞬間に唇を攫われた。
ち、と小鳥が囀るような甘い音を響かせて、雲雀が意地悪く口角を歪めた。
頭の両側を両手で塞がれて、逃げ場のない綱吉は真っ青になった。
「あ、あの」
「この僕が、君の為に尽してあげたんだ。今度は君が、僕に尽す番だとは思わない?」
ゆっくり身を沈めてくる雲雀を胸で受け止めて、綱吉は聞こえた言葉に奥歯を噛んだ。
風気委員長殿の昼寝の邪魔をしたのは、素直に詫びねばなるまい。だが保険医を追い出して、保健室を占領するのもどうかと思う。今回は綱吉だったからまだ良かったものの、本当に治療の必要な怪我をした生徒が現れていたら、どうするつもりだったのか。
愚痴を零すが雲雀は欠伸を噛み殺すばかりで、すっかり眠そうな顔をして、綱吉に圧し掛かった。
膝でシーツを蹴ってベッドにのぼり、放すまいと腕を回してがっちり抱え込む。窮屈さを覚えて彼は嫌がったが、緩めてもらえなかった。
「ヒバリさん」
「付き合ってもらうよ」
「俺、授業が」
「もう遅刻なんだから、いいじゃない。次の授業が始まるまででいいよ」
チャイムが鳴るまでの、あと二十分ほどの間だけで構わない。そう言われて、綱吉は時計を探して視線を泳がせた。しかし見つけ出せず、渋い顔をして前に向き直る。
白いシーツに顔を半分埋めた青年は、早々に瞼を下ろして寝入る体勢に入っていた。
抱き枕に任命されてしまった綱吉は、仕方なく悔しいほどに綺麗な青年の顔に見入り、つられて欠伸を零した。
「ちょっとだけ、ですからねー」
言って、身じろいで楽な体勢を作り出し、四肢の力を抜く。ベッドは少し薬品臭かったが、ふたつ分重なる心音は心地よかった。
瞼を閉ざすと、瞬時に睡魔が落ちてくる。雲雀の腕の中は緊張するのに、同じくらいに安堵させられて、抗えなかった。
三分と経たないうちに整った寝息が聞こえるようになって、雲雀はもぞりと動き、腰の後ろで丸まっていた上掛け布団を引っ張った。自分と、ついでに綱吉にかけてやり、全く起きる気配のない彼に苦笑する。
「無防備すぎやしないかい?」
据え膳食わぬはなんとやら、と言うが、こんなにも無邪気に寝入られてしまったら、手を出すに出せない。
どうせなら、もうちょっとドキドキして、緊張して欲しかった。肩を竦めて嘆息し、悪戯は次の機会にして、彼は人よりも先に寝てしまった愛し子を抱き締めた。サラサラ流れる髪越しに額へキスをして、お休みと囁く。
夢でも見ているのか、綱吉はふにゃりと、幸せそうに笑った。
2010/09/17 脱稿