兄御

 瞼に伝った汗を嫌って頭を振り、彼は疲れを訴える肩を回して前屈みだった姿勢を真っ直ぐに伸ばした。
 両手に嵌めた軍手は黒ずんで、所々に黒っぽい土くれが付着していた。粗く編まれた縫目からは、汗ばんでピンク色に染まった指がほんの少しだけ見えた。
「ぐ、うー……あっ」
 長時間折り畳んでいた膝も一緒に伸ばそうと試みるが、凝り固まった関節は急激な運動を拒み、重心がぐらついた。右に倒れそうになって、咄嗟に両手を伸ばして地面を掴む。凹凸激しいボコボコの地面の感触が、軍手越しに伝わって来た。
 中腰で四つん這い、というある意味器用な体勢を取った彼は、小刻みに震える膝を叱咤激励して奥歯を噛み締めた。渾身の力を込めて地面を押し返し、反動も利用して勢い良く立ち上がる。
 瞬間、眩暈がした。
 折角立ったのにまた倒れそうになって、後ろ向きにおっとっと、と飛び跳ねてどうにか堪える。被っていた麦藁帽子が揺れて、小麦色の視界から無数の木漏れ日が差し込んだ。
 顔を水玉模様で飾った彼は、顎を伝った汗を着込んだシャツの袖で拭い、長い息を吐いた。
 陽射しは容赦なく照り付けて、地上はさながら炎熱地獄だ。鬼に追われて高熱のマグマ風呂に叩き落される罪人の心境に陥り、彼は気怠さが増すだけの想像を頭から追い出した。
 被りが浅くなった麦藁帽子の鍔を掴んで少し下げて、軍手に紛れ込んでいた緑の葉を払い落とす。繊維の間に潜り込んでいた土も落として、腰に手を添える。
「うー、いってぇー」
 なにもこんな炎天下でやらなくても良かろうに。そう思うのだが、日が傾いてからだとどうしても活動意欲が低下してしまって、やる気になれなかった。
 明日こそやる、明日こそやる、を繰り返して今日に至る。母はなかなかに辛抱強い性格をしているけれど、先に家庭教師として居候している赤ん坊の方がキレてしまった。
 今日で終わらせなければ、明日以降の夕飯は全部米だけにするぞ、と脅されては、重い腰を上げざるを得ない。本当は暑くなる前の、朝早くから行動に出るつもりでいたのだが、夏休みの所為で酷くなった寝坊癖がこんなところで災いした。
 しかも、起こしてもらえなかったのだ。二度寝してしまい、朝食を胃袋に掻き込んだのは午前が終わる少し手前。以来昼食も摂らず、彼は黙々と庭仕事に精を出していた。
 梅雨が明けて本格的な夏が始まって、植物も急に元気になった。特に雑草は繁殖力が高く、成長も早いので、放っておくとどんどん庭を侵食して、花壇にまで住処を広げてしまう。
 だからそうなる前に、根こそぎ除去する必要があった。
「あっちー、だっるーい。飽きた。疲れたー」
 愚痴を零し、どれだけ拭っても止まらない汗に唾を飲む。それで咥内の渇きを一時的に癒した彼は、帽子の影から燦々と輝く太陽を恨めしげに睨み、視線を伏した。
 後ろを振り向けば、洗濯物が満載の物干し竿が見えた。
 あの周辺は奈々が動き回るのもあって、土が踏み固められて雑草は生えていない。問題なのはブロック塀周辺などの、人があまり足を踏み入れない場所だ。
 長期間放置していた影響で、雑草は深くまで根を張り、頑丈に育っていた。引き抜くのも一苦労で、膝を折ってしゃがみ込む、その体勢も非常に辛かった。
「やっと半分」
 呻くように呟いて、彼は前方に向き直った。手付かずの緑の絨毯が、地平線の彼方まで続いているように見えた。
「もうやだー」
 恨み言を呟いて駄々を捏ねるが、誰も聞いていない。猫の額よりは広い庭に、人間は彼ひとりきりだった。
 リビングの窓は締め切られ、カーテンも陽光を遮る目的で引かれている。屋内の様子は窺い知れない。濡れ縁は乾いて白っぽく濁り、片隅に忘れ去られた洗濯籠がぽつん、と寂しげに佇んでいた。
 誰しも日中の暑さが嫌なようで、道を行く人の数も少なかった。
「うーー」
 喉の奥で唸り、麦藁帽子を持ち上げて額を拭う。軍手の汚れが付着するかもしれないと一瞬考えたが、構いもしない。
 どうせ既に汗だくで、服は泥だらけなのだ。これが終わったら絶対に冷たい水でシャワーを浴びてやるのだと決めて、彼は腕を持ち上げて袖全体で顔を擦った。
 飛んで来た薮蚊を追い払い、音立てて唾を飲んで肩を落とす。最高気温は三十五度だといわれている中で、長袖長ズボン、首にタオルと麦藁帽子、挙句に軍手という格好は、重装備以外のなにものでもなかった。
 水気を吸って重いズボンを抓んで軽く引っ張り、肌から引き剥がしてみるが、少しも涼しくならなかった。手で顔を扇いでも同じで、彼は帽子を目深に被り直し、苦々しい面持ちで膝を折った。
 リビングのカーテンが少しだけ開いて、赤子が顔を出したのが見えたのだ。
「ちっくしょー」
 ガラス戸一枚隔てた先は、冷房が利いた天国のような空間だ。この家唯一の男手だからと肉体労働に駆り出され、汗水垂らしているこちらの身にもなって欲しい。
 幼いから、という理由だけで草むしりの悪夢から逃れている弟分たち、及び鬼の家庭教師の顔を思い出して恨めしげに歯軋りし、彼は最後、深々と溜息をついた。
 どれだけ悪態をつこうとも、誰も見ていないし、聞いても無い。この場でひとり地団太を踏んだところで、結果は何ひとつ変わりはしないのだ。
 諦めに近い心境で肩を落とし、沢田綱吉は皺の寄った長袖シャツを撫でた。
 また襲って来た蚊を両手で叩くが、寸前で逃げられてしまった。そもそも軍手をしたままだから、勢い良く叩いたところで隙間が出来てしまって潰せない。
「むかつくー」
 腹立たしさが募っただけで、彼は腰に吊るした虫除けを悔し紛れに叩いた。
 ちっとも役に立っていない。不良品ではなかろうか。
 ズボンの上から噛まれたらしく、右の足首がさっきから妙にむず痒い。汚れたスニーカーで削るように上から擦ってみるが、痛みよりも痒さが勝った。
「ツっ君、どう? 進んでる?」
「うあっ」
 やけくそになって積み上げた雑草の山を蹴り飛ばして崩していたら、不意に玄関のドアが開いた。
 中から顔を出した母に叫ばれて、彼はおっかなびっくり振り返り、ぎこちない笑みを浮かべた。頬を引き攣らせている愛息子に首を傾げ、奈々は朝に比べると少しだけすっきりした庭を見回した。
 門を潜って玄関に至るまでの道を中央として、向かって右側はかなり綺麗になっていた。綱吉は門扉に近い場所に立って、今し方自分で崩した小ぶりの山を足で整え直していた。
「ちょっと休憩する?」
 進行具合は見て直ぐに分かって、奈々は質問を切り替えた。綱吉は軍手を脱いでタオルを広げ、それで顔を拭ってからホッとした表情を浮かべた。
「お茶、欲しい」
「あらあら。そうね、干乾びちゃうわね」
 渡りに船のひと言に首肯して、少し甘えた声を出す。強請る彼に目を細め、奈々は灼熱の太陽を庇の下から仰いだ。
 彼女が屋内に戻って、ドアも同時に閉ざされた。パタン、という音は聞こえなかったが感じられて、綱吉は出来るなら嵌めたくない軍手を掌で遊ばせた。
 だがこれを装着しないと、草で指を切ってしまう。雑草が生き延びようとする根性は、人が思っているよりもずっと強いのだ。
「しょうがない、やるかー」
 両腕を高く掲げて背中を反らし、伸びをして身体を解す。自分に言い聞かせて気合いを入れて、綱吉は門扉に背中を向けた。
 まずは小ぶりな山を成している雑草をゴミ袋に放り込むことにして、何処にやったかと半透明の袋を探して視線を泳がせる。帽子の下で左手を庇代わりに額に遣った彼の真後ろで、白い手が伸びようとしている事など、まるで気付かない。
 ひょいっ、と被っていたものが抜き取られて、それで彼はハッとなった。
「うわ」
 門柱の向こう側に誰かが立っている。逆光になっている所為でシルエットしか見えなかった綱吉は、吃驚して甲高い悲鳴をあげ、湿って重い頭を両手で抱え込んだ。
 片方だけ軍手を嵌めた手を帽子の代役とし、腰を捻って後ろを振り返る。瞬きを連発させて焦点を整えた彼は、意地悪く口角歪めて笑う青年を其処に見出し、ムッと口を尖らせた。
「君だったの」
「ヒバリさん」
 どことなく感心した声で言われて、綱吉は麦藁帽子を求めて右手を伸ばした。
 土汚れ、及び草の色でほんのり緑色に染まった掌を向けられて、雲雀は丁寧に編まれたストローハットに目を向けた。頭の天辺部分を抓んでいるので、丸い部分が指の形に凹んでいた。
 返せ、とせっついてくる少年を前に目を眇めた彼は、一瞬黙って眉間に皺を寄せ、何を思ったのか小麦色のそれを自分の頭に被せた。
 艶やかな黒髪が隠れて、額の真ん中に寄った長めの前髪が、押さえつけられた所為で真っ直ぐ下を向いた。ピンと伸びたそれは針のようで、鼻の頭に突き刺さっている姿は若干、滑稽だった。
「う」
「なに」
「や、うーん……」
 咄嗟に噴き出し掛けて、慌てて口を右手で塞ぐ。しかし目が笑ってしまって、目敏く気付いた雲雀が剣呑な顔つきになった。
 睨まれて、綱吉は言葉を濁して視線を浮かせた。
 正直言って、似合わない。だがそれをご丁寧に本人に言うのは、果たしてどうなのか。機嫌を損ねてトンファーの手痛い一撃を食らうのだけは避けたいが、このまま黙っていても同じ結果になりそうだ。
 左右に揺れ動く天秤を前にもじもじしていたら、綱吉が何を渋っているのか凡その見当をつけた雲雀が、自分で帽子を脱いだ。
 鍔を持って頭から外し、門扉を越えて綱吉の頭に叩きつける。
「わふっ」
「やっぱり返すよ」
「泥棒は良くないですよ」
「返したじゃない」
 持ち去る案も頭の中にはあったと言わんばかりの雲雀に頬を膨らませ、綱吉は乱暴に被せられた麦藁帽子の角度を整えた。両手で鍔を持ち、捩じるように動かして跳ね放題の髪の毛を中に押し込んでいく。
 髪色が元々薄いからか、彼が被るのは違和感なかった。
「掃除?」
 長袖のシャツにズボン、軍手と、見ているだけでも暑そうな格好をした綱吉を眺め、雲雀は熱せられた門扉に触れた腕を戻した。火傷しそうなほどの高熱を発しており、今なら目玉焼きが作れそうだ。
 小声の質問に綱吉は帽子から手を離し、頷いた。
「見ての通りですよ」
 それ以外に何をやっているように見えるのだろう。両手を広げて肩を竦めた彼は、試しに片足立ちでくるっと一回転した。シャツの下には何も着ておらず、捲れ上がった裾から臍が見えた。
 小麦色の頬や首筋とは対照的に、眩いほどに白い。瞬きを忘れて息を飲んだ雲雀を知らず、綱吉は綺麗に着地を決めて、照れ臭そうにはにかんだ。
 下ろした足が折角積み上げ直したばかりの草の山に突っ込んで、二秒後には半泣きの表情に切り替わってしまったが。
「あぁぁ……」
 馬鹿な自分を嘆き、靴にまとわりついた草を前に肩を落とす。ズボンの裾を越えて足首に絡んだのだろう、口元が不快げに歪んだ。
 雑草が程よく熱を含んでいるのと、綱吉自身が汗を掻いて肌が湿り気を帯びていたのとで、気持ち悪さは二倍だ。急いでズボンの裾を捲って、左手でこびり付いた葉の滓を払い落としていく。そちらの色も他と比べるとまだ白く、そして足首自体がとても細かった。
 骨と皮ばかりで、どうやって全体重を支えているのか、雲雀は不思議でならなかった。
「大変そうだね」
「そうなんですよ、もー」
 だが思った事は顔には出さず、口を開いて告げる言葉も、平凡で当たり障りのないものを選ぶ。しかし思わぬ同情に綱吉はガバッと顔を上げ、琥珀の目をキラキラ輝かせながら言った。
 急に大声を出された雲雀の方が吃驚してしまって、妙に食いつきの良い彼に小首を傾げた。綱吉は構わず、ようやく得られた慰めと憐れみの言葉に感動すら覚え、咽び泣いた。
 沢田家では、こういう肉体労働は綱吉がやるのが当たり前、という不文律めいたものが出来てしまっていて、誰ひとりとして彼を庇おうとしないのだ。だから労いの言葉を貰うのも稀で、ましてや手助けを買って出ようという親切心を持ち合わせた存在など、ありはしない。
 行儀の良いフゥ太ですら、炎天下での長時間の作業を嫌がった。「ツナ兄、頑張ってね」と手を振ってリビングから見送ってくれた弟分を思い出して、彼は悔しさのあまり地団駄を踏んだ。
 ひとりじたばた暴れまわっている彼に閉口し、嘆息し、雲雀は先ほど門扉に当たってしまった腕を捻って患部を確認した。
 少し赤くなっているが、酷くはない。放っておけば、そのうち痺れにも似た感覚は消えるだろう。
「俺が、男じゃ一番歳が上だからって。そんなの不公平だ」
「ゴロゴロしてるよりは良いんじゃない?」
「ヒバリさんまでー」
 彼だけは味方だと信じていた綱吉は、普段の怠惰振りを槍玉に挙げられて、不満げに口を窄めた。
 タコになっている彼に目尻を下げて、雲雀は洗濯物の影で見え隠れするリビングの窓に目をやった。カーテンは閉まったままで、中の様子は分からない。
 肌を焦がす陽光を背中に浴びて、雲雀は浮いた汗を取り出したハンカチで拭った。
「俺も、弟に生まれたかったな」
 上に兄がひとりでも居たなら、こんな暑い最中に肉体を酷使せずに済んだだろうに。駆り出されるにしても、ひとりでないだけ作業効率は上がるし、疲労度も違うはずだ。
 空想に思いを巡らせ、綱吉は居もしない存在を頭の中で作り上げた。
 どうせなら友達に自慢できるくらいに格好良い方がいい。頭が良くて、強くて、優しくて、面倒見が良くて、しっかり者で。
 人望は厚いに限る。生徒会長のような、人の上に立つ仕事をしていたら、最高ではないか。
 不意ににへら、とだらしなく笑った綱吉を怪訝に見て、雲雀はまだ伸び放題の雑草が残る庭の一画を視界に収めた。沢田家にはガレージが無い。その分露出する土の部分が、同じ並びの住宅よりも少しだけ広いのだ。
 左手首に巻き付けた腕時計を、自分の身体を影にして見て、現在時刻を知る。続けて太陽の位置を確認した彼は、綱吉の愚鈍さも考慮して、庭の草むしりが終わるまでの時間を大雑把に計算した。
 指を折り、頭の中で二度呟く。どのパターンを試しても、日暮れには間に合いそうになかった。
 雲雀がそんなシミュレートをしているとも知らず、綱吉は空想上の兄に羨望の眼差しを投げ、現実を思い返して渋い顔をした。
「お兄ちゃん、欲しかったな」
 ぼそりと呟かれた独り言を聞いて、雲雀は思考を一時停止した。
 兄弟のいる知り合いといえば、真っ先に綱吉の脳裏に浮かぶのは笹川兄妹だ。羨ましいくらいに仲が良くて、兄である了平は妹の京子をとても大切にしている。
 翻って、自分はどうだろう。居候中の弟分たちは、都合の良いときだけ甘えてきて、ちょっとでも分が悪いと感じると、一瞬にして立場を変えて綱吉から離れて行く。便利に使われるだけの存在と化している己に涙を呑んだ綱吉は、一寸惚けた顔をしている雲雀の存在を思い出し、きょとんと目を見開いた。
 試しに手を広げ、雲雀の前で横に振ってみる。それで我に返った彼は、わざとらしい咳払いで誤魔化した。
 苦笑した綱吉は腕を引っ込めると、いい加減作業に戻ろうと門扉から後退した。探していたビニール袋を見つけて拾い、口を広げて中に空気を含ませる。
 遠いところに行ってしまった彼を目で追いかけて、雲雀は麦藁帽子だけが夏らしい綱吉に肩を竦めた。
 玄関のドアが開き、出てこようとしている人の細い脚が真っ先に見えた。
「沢田」
「ツナー?」
「うあ、はい!」
 ふたり同時に呼びかけられて、真ん中にいた綱吉は忙しく首を前後に動かした。空っぽの袋を手に、どちらを優先すべきかで迷って琥珀の目を真ん丸く見開く。茶色い丸盆を手にした奈々は、門柱の脇に佇む青年の姿に目を留め、小首を傾がせた。
「お友達?」
 氷が沢山入ったコップが揺れて、カラン、カラン、と音が響く。涼やかなその音色を聞きながら、彼女は軽く頭を下げた雲雀に微笑んだ。
 こんなところでふたりが鉢合わせするなど、考えてもいなかった。慌てる綱吉を他所に彼女はポーチを抜けて息子の傍に寄り、人好きのする笑顔で雲雀を手招いた。
「そんなところに居ないで、入ってらっしゃいな」
「お邪魔します」
「ひ、ヒバリさん!」
 いつもは二階の部屋の窓から、断りもなく勝手に入ってくるくせに、奈々の前では猫を被って随分と行儀が良い。本当に同一人物かと疑いたくなるほどの落差に驚いていたら、大声を聞き咎めた奈々に軽く拳で叩かれた。
 あまり痛くはなかったもののショックで、むっとして黙り込んでいるうちに、雲雀は庭の敷石を踏みしめ、母子の前までやって来た。
 手摺り部分が熱かったからか、門扉は開けっ放しだった。
「家の手伝い、偉いね」
「ひえ、え、あー、うー……」
 奈々の前だからと畏まった口調で褒められて、嬉しいやら恥ずかしいやら、気持ち悪いやら。複雑怪奇な感情を表現する言葉が思い浮かばず、綱吉は変な呻き声を上げ、ススス、と彼らから離れた。
 横歩きで逃げた彼を追いかけて、雲雀は綱吉の帽子を掴んだ。
 また奪われて、首筋から頭部に向かって走った風に背伸びをする。追いかけて伸ばした手は途中で失速し、墜落した。
 左右揃えて背中に隠した彼は居心地悪そうに身を捩り、麦藁帽子を回している雲雀を上目遣いに見た。
 隣には奈々が立ち、にこにこと朗らかな笑顔を浮かべている。心持ち楽しそうに見えるのは、気のせいではなさそうだ。
 綱吉によく似た顔立ちの女性をちらりと見て、雲雀は帽子の凹みを直し、綱吉の頭に戻した。
「手伝ってあげようか?」
「はいぃ?」
「あら」
 衝撃に首を竦めた彼に追い討ちをかけて雲雀が言う。瞬時に素っ頓狂な声を上げた綱吉の向こう側で、奈々が汗を掻いているグラスを揺らした。
 その提案だけは絶対ありえないと思っていただけに、綱吉の驚きは半端なかった。天変地異の前触れかと上下左右を確かめ、どこにも異常が見られないのを確認してホッと胸を撫で下ろす。
 失礼極まりない態度の彼に若干険のある顔をして、雲雀は右手を腰に据えた。
「嫌なら良いよ?」
「あらあら。ツナ、良かったじゃない」
 偉そうに踏ん反り返りながら言われて、綱吉は苦虫を噛み潰したような顔をした。彼の性格の悪さを知らない奈々は呑気な感想を告げ、満面の笑みを浮かべた。
 雲雀が汗水垂らしながら草むしりをする光景など、想像出来ない。絶対に何か裏があるに違いなくて、疑いの眼差しを投げるが、雲雀は不遜に佇むだけで何も言わなかった。
 その代わりに奈々がしゃしゃり出て、そうだ、と頭の上に電球を出して目を輝かせた。
「どうせなら、宿題も見てもらったらどう? 全然終わってないんでしょ?」
 盆を持っている所為で拍手が出来ない為、爪先立ちになってひょこひょこ揺れている母を横目で見やり、綱吉は溜息をついた。
「母さん」
 それは幾らなんでも贅沢すぎる提案だ。第一、庭の草むしりがまだ終わっていないのに、気が早すぎる。
 呆れ混じりに首を振った綱吉を他所に、雲雀は彼女に向き直って非常に似非臭いにこやかな笑顔を浮かべた。
 見ていた綱吉はゾッとした。
「構いませんよ。後輩の面倒を見るのも、並中生の務めですから」
「まー、素敵。良かったわね、ツナ。良いお兄さんじゃない」
「おに……っ」
 奈々は深く考えもせずに言ったのだろうが、少し前までそういう存在が欲しいと嘆いていた綱吉は、全身の毛を逆立てて頬を引き攣らせた。
 別人のように振舞ってみせる雲雀もそうだが、奈々の天然ぶりには驚かされる。裏返った声で叫んだ息子にではなく、雲雀に向かって深く頭を下げた彼女は、立ち去ろうとしてから思い出したように綱吉に冷えたグラスを差し出した。
 仕方なく受け取ると、握ったところから熱が奪われていった。
 満杯だった氷は、やり取りの間に半分近く溶けてしまった。すっかり薄くなった麦茶を啜ると、雲雀の視線を感じた。
「お兄さん、ね」
「……どういう風の吹き回しですか」
「べつに」
 満足げに頷いた彼の独白に、綱吉が下膨れた顔をして問う。雲雀はそ知らぬ顔を決め込んで、綱吉の頭を麦藁帽子の上から撫でた。
 小さな子供をあやす仕草に、奈々が微笑んだ。
 彼女に空になったグラスを返し、ついでに早く去るよう言って背中を押す。荒っぽく扱われた奈々は拗ねた顔をして、雲雀に向かって会釈した。
「宜しくね」
「承知しました」
「母さん!」
 すっかり雲雀を綱吉の友人、或いは半ば本気で兄的な存在と信じきっている彼女に声を荒げ、綱吉はビニール袋を振り回した。ガサガサ言うそれは空気を受けて膨らんで、顔に当たりそうになった雲雀は左手で押し返した。
「なにが不満なの」
 奈々が去り、普段の調子を取り戻した雲雀がつっけんどんに言い放つ。一瞬で戻ってきた傲岸不遜ぶりを睨み、綱吉は彼が言った内容を振り返った。
 草むしりを手伝う。夏休みの宿題をみてやる。どちらも、願ったり叶ったりだ。
 だが相手は雲雀だ。あの、泣く子も黙る並盛中学校風紀委員長の、雲雀恭弥だ。
 彼の言葉を鵜呑みに出来るほど、綱吉は純粋培養ではない。何か嫌な事を企んでいる気がしてならず、素直に喜べない。
 怯えつつ、疑り深い目をしている彼を見下ろし、雲雀は嘆息した。
「信じられない?」
「だって、ヒバリさん、草むしりなんて」
「ああ。三人くらい呼べば直ぐ終わるよ」
「……」
 言いながら携帯電話を取り出した彼に、綱吉は遠い目をした。炎天下の灼熱地獄で、長ランリーゼントの風紀委員が沢田家の庭の草をむしる姿を思い浮かべ、少なからず彼らに同情した。
 随分な大盤振る舞いに、猜疑心が膨らむ。鋭さを増した琥珀の瞳を見詰め、雲雀は発言を促して顎をしゃくった。
 奥歯を噛み締めた綱吉は、渋々口を開き、息を吸って吐いた。
「なんか、見返りが恐い」
 庭掃除を風紀委員にやってもらって、この調子では宿題の面倒もしっかり見てもらえそうだ。それはそれで有り難い、のひと言に尽きるのだけれど、雲雀が無償で手助けを買って出てくれるとは、どうやっても考えられなかった。
 水分を摂取した事で流れ出る汗が倍増して、綱吉は右手の軍手も外してタオルを握った。顔を拭き、温い唾を飲んで反応を待つ。
 雲雀は意味深に笑って、麦藁帽子を弾いた。
 首を後ろに傾けた綱吉は、たたらを踏んで石畳から落ちた。段差に躓いて倒れそうになったところを、腕を掴まれて引っ張られた。
「兄は、弟に無碍な要求はしないよ」
「だから、それは」
「ただ」
 あれは奈々が調子に乗って言っただけであって、本気にしないで欲しい。そう訴えようと口を開いた矢先、降って来た指で唇を塞がれた。
 意味ありげに目を眇めた雲雀に、じっとりと温い汗が滲んだ。
「ヒ……」
「兄は弟と一緒に風呂に入ったり、同じ寝床に潜り込んで朝まで過ごすくらいは、許されると思うんだ」
「ぶはっ!」
 耳元で囁かれた、あまりにも露骨過ぎる目的に、綱吉は盛大に噴き出した。
 慌てて逃げようと足掻くが、首根っこを捕まれて叶わない。借りてきた猫のように大人しくなった彼を見下ろして、雲雀は愉しげに笑った。
「たっぷり可愛がってあげるよ、可愛い僕の、弟君」
 謳うように紡がれた彼のひと言に、兄なんてやっぱり要らない、とはどうしても言えない綱吉だった。

2010/09/13 脱稿