家苞

 呼び鈴を鳴らして、待つ。じりじりと照りつける太陽が汗を呼び、暑くて堪らなかった。
 一刻も早く涼しい場所に逃げ込んで、冷たいアイスなり、飲み物なりで喉を潤したい。全身に蔓延る高熱を逃す術をひたすら考えて、綱吉は生温い唾を飲み込んだ。
 半袖のシャツを引っ張り、襟元を広げて空気を招き入れるが、体感温度は少しも変わらなかった。
 三十秒ほど大人しく佇み続けるものの、四十秒を前にした辺りから痺れが切れた。余計に身体が熱を持つというのに、膝をもぞもぞ動かして足踏みする。
 もう一度玄関の呼び鈴に手を伸ばしかけたところで、ドア越しに足音が聞こえた。
「やっとー?」
 あまり辛抱強くない自覚のある綱吉は不満げに呟き、ガチャガチャ言わせながら鍵を外している人物を思い浮かべた。
 扉にはめ込まれた磨りガラスに映っている体格は、小さな子供のものとは違う。第一ランボやイーピンでは、ドアの鍵にまで手が届かない。だからこれは奈々か、或いはフゥ太だ。
 そして奈々は、いつも玄関に出て来る時は「はいは~い」と愛想よく声をあげる。今回は、それが聞こえなかった。
 となれば、ドア一枚隔てた先にいる人物は、ひとりしか残らない。頭の中で消去法を展開させた彼は、ぎゅっと握り拳を作り、ドアが内側に開かれるのを苛々と待った。
 ただでさえ暑かったのに、この一分弱の間にもっと汗を掻いてしまった。クーラーとアイスの他に、シャワーを浴びるのも追加して、綱吉はドアノブが揺れる音に目を吊り上げた。
「遅いよ、フゥ太」
「ああ、申し訳ありません」
 肩に担いでいた鞄と一緒に身体を上下に揺さぶり、声高に叫ぶ。しかし正面から飛んできた台詞は、予想と大きく違っていた。
 覚えのある、ただこの場には居ないはずの人物の声に、綱吉は大粒の目をぱちくりさせた。
 振り上げていた拳が行き場をなくして宙を彷徨い、程無くして力を失って落ちた。呆然とする彼を見詰め、麦の穂色をした髪の青年は愛想よくにっこり微笑んだ。
 長めの前髪が、動きに合わせて左右に踊る。笑うとえくぼが出来て、呆気に取られた綱吉はその場に鞄を落としてしまった。
「いっ」
 教科書や辞書が入っているので、それなりに重い。下敷きになった爪先から痺れが駆け上ってきて、彼は全身を引き攣らせ、頬を強張らせた。
 ドアの影に身体を半分隠していた青年も、綱吉の表情の変化に気付き、怪訝にしながら身を引いた。
 入り口を広げ、下を見て何が起きたのかをやっと理解する。
「大丈夫ですか、沢田殿」
 特徴的過ぎる呼び方をされて、綱吉は頻りに頷いた。
 奥歯を噛み締めて悲鳴を堪えたまま、涙目で鞄を蹴って退かす。汚れた運動靴程度では、英和辞典の角がぶつかる衝撃を吸収しきれるわけがなかった。
 鼻を大きく膨らませて深呼吸をして、どうにか肩の力を抜いて背中を丸めた彼に小首を傾げ、バジルは横倒しになった通学鞄を拾い上げた。
 半月型のバッグを高く掲げ、付着した砂埃を軽く撫でて払い落としてくれる。その上で差し出されて、綱吉は苦虫を噛み潰したような顔をして受け取った。
 腕にずっしり来る重みに苦笑して、改めて目の前の青年を見据える。
「ご無沙汰しております」
「いや、あ。その。……久しぶり」
 にっこり微笑んで言われて、綱吉は口篭もった末、ありていの挨拶を口ずさんだ。
 もっと気の利いた事を言えたらよかったのに、動揺が激しくて頭の中は真っ白だった。どうして彼が此処に居るのかという疑問ばかりが胸を埋め尽くして、他の言葉がひとつも浮かんでこなかった。
 複雑な表情を浮かべている綱吉に目尻を下げて、バジルは中に入るよう手招いた。
「おかえりなさいませ」
「ただ、いま」
 フゥ太だと思って怒鳴りつけなくて良かった。少し前の自分を振り返って安堵の息を吐き、綱吉は唇を舐めてぎこちなく返事をした。
 これが奈々や子供達だったなら、構える事無くスラスラ言えただろうに。変に緊張している自分を意識しながら胸をなぞり、彼はバジルに続いて敷居を跨いだ。
 綱吉が中に入ると、その場でくるりと反転したバジルが若干危うい手つきで鍵をかけた。
「あれ」
 ちゃんと施錠できているか少し不安になって、綱吉はつい最後まで見守ってしまった。そして彼がひと仕事終え、振り返ろうとしていると知り、慌てて屋内に目を向ける。
 瞬きひとつで下を見て、其処に並ぶ靴の数が異様に少ない現実に、綱吉は眉を顰めた。
 ランボにイーピン、フゥ太の分だけではない。リボーンやビアンキ、それに奈々の分まで、見事に空っぽだった。
 奈々愛用の、ちょっとした外出用のサンダルだけがぽつんと取り残されていた。その隣に、バジルが脱いだ靴を並べる。綺麗に磨かれた、こげ茶色の革靴だった。
 蝶々結びの左右の大きさが、一寸ずつ違っている。何気なくそればかり見ていたら、上がり框に乗ったバジルが笑った。
「沢田殿?」
「えっ、あ」
 名前を呼ばれてハッと我に返り、綱吉は照れ隠しで頬を掻いて急ぎ靴を脱いだ。
 薄汚れたスニーカーが貧相すぎて、なんだか悲しい。横並びになった三人分の履物をひとまとめに見下ろして、彼は物音ひとつしない家に口を尖らせた。
 靴が無い事が何を意味しているか、考えるまでもない。分からないのはバジルがどうして家にいるのか、という事。そして彼がひとりで留守番をしていたこと、だ。
 顰め面をした綱吉の内心を注意深く探り、バジルは背中で両手を結んだ。
「すみません。皆さんは、その」
「ひょっとして、父さん?」
「はい」
 彼はボンゴレの門外顧問に所属する、綱吉の実父である沢田家光の部下だ。普段は海外で、巨大組織であるボンゴレが道理を逸した行動に出ていないかどうかを監視する任に就いている。
 以前にヴァリアーを率いるザンザスが十代目の椅子を巡って九代目と敵対した時に、彼は綱吉に味方する為に派遣された。その後も何度か出会い、別れを繰り返して、今に至る。
 ただ近いうちに日本を訪ねるという話は、一切聞いていない。
 当てずっぽうで言った綱吉に緩慢に頷いて、彼は静まり返った廊下を歩き出した。
 後ろをついていく形で綱吉も歩を進め、途中、開けっ放しのドアからリビングの惨状を見てがっくり肩を落とした。
「もう……」
「すみません」
「バジル君の所為じゃないから」
 仕事柄、家光は家を開けている期間が長い。お陰で綱吉は、彼が蒸発して行方不明になっているものとばかり思っていた。
 突然いなくなって、連絡のひとつも寄越さなかったのだから、そう考えるのも致し方なかろう。まさか元気に世界各地を飛び回り、職務に励んでいたなど、彼がどんな仕事をしているのかまるで知らなかったのもあって、綱吉は全く想像していなかった。
 並盛を離れている間、いったいどういう生活をしていたのか。リビングに散らばる大量の衣服を前に肩を落として溜息をついていたら、戻って来たバジルが申し訳無さそうに頭を垂れた。
 上司の不始末は部下にも連帯責任がある、とでも考えているのだろうか。
 苦笑で応じて首を振った綱吉は、臭いものには蓋の理念でドアを閉め、酸っぱい臭いを閉じ込めた。
「先に言っておいて欲しかったよ」
「手紙は出したと、仰っていたのですが」
「メールにしなよ、メールに」
 前にもこんなことがあったと、さほど遠くもないけれど、近くも無い記憶を手繰り寄せて綱吉が呻く。すかさずバジルが家光を庇うことを口にしたが、残念ながら綱吉が知る限り、昨日までそんな手紙は一通も届いていなかった。
 今日届いて、今日帰って来ていては、何の意味もない。ネットワーク社会が構築されつつある現代、時間ばかりが掛かる郵便物に頼るのはナンセンスだと頬を膨らませると、バジルの声のトーンが下がった。
「沢田殿がアドレスを教えてくれないと、以前、嘆いておられました」
「…………」
 頬を引っ掻いた彼のひと言に、綱吉は聞こえなかったフリをした。
「電話でもいいじゃん」
「驚かせたかったのでしょう」
 愚痴を吐けば、合いの手が律儀に続いた。
 家光の性格を考えれば、単に面倒臭かっただけのようにも思える。無論バジルの主張も一理あるけれど、あの男の身勝手さに振り回される側としたら、どちらにせよ堪ったものではない。
 事前連絡の徹底を求めると、比較的綱吉に味方してくれる場合が多いバジルが、うーん、と唸った。
「バジル君?」
「沢田殿、汗が」
「ああ」
 承諾を渋る彼をねめつけると、すかさず手が伸びてきて頬を擽られた。誤魔化されてしまって、綱吉は渋い顔をした。
 だが彼の言う通り、全身汗だくだ。身体が渇きを訴えて、水分を求めて五月蝿い。
 頷いた綱吉に目を細め、バジルは手を振った。
「お茶の準備をしますね。その間に」
「いいの?」
「沢田殿が帰って来たら、と頼まれましたので」
 奈々に任せられているから気にしないで良いと言われ、綱吉は洗面所の前で躊躇した。
 本来は自分が、彼をもてなす側に立たなければいけないのに、これでは逆だ。勿論申し出は有り難くて、断る理由はひとつもないのだけれど。
「ごめんね。ありがと」
「いいえ」
 謝ると同時に感謝を伝えると、バジルは人好きのする笑顔を浮かべた。ちょっとだけ首を右に傾けて微笑まれて、普段前髪に隠れている目も露わになった。
 優しい笑顔に見送られて綱吉は鞄ごと洗面所に入ると、ドアを閉め、少し迷って鍵を掛けた。
 制服を脱ぎ捨て、サッと汗を流す程度にシャワーを浴びて、直ぐに出る。下着や衣服の替えを持って来ていないのに気付いたのは、この時だった。
「うわー」
 迂闊すぎる自分を憐れみ、縋る思いで乾燥機の扉を開いてみる。家光の服を洗濯している途中だったのだろう、普段は空っぽの内部も、今日ばかりは布製品でいっぱいだった。
 半乾きのそれらを幾つか引っ張りだして、真剣に悩んだ末、彼は大き目のトランクスに足を突っこんだ。
「後で履き替えよう」
 部屋に上がるまでの辛抱だと自分に言い聞かせ、彼はごわごわして落ち着かない下着を撫でた。
 これが平素の、母やリボーンや子供達しかいない時であったなら、この格好のまま廊下に出るのに、なんの躊躇もしなかっただろう。ひとりで留守番をしている時ならば、尚更だ。
 ドアを開けるのに幾許かの勇気を要するのは、目下台所で湯を沸かしているだろう青年の存在があるからだ。
「失敗したなー、もう」
 せめてスラックスだけでも履くか。リボーンに死ぬ気弾を浴びせられた際、トランクス一枚で町中を走り回っていた事実さえ忘れ、彼は皺くちゃの制服を撫でた。
 毛先から垂れる水滴を防ぐ為、タオルを首に引っ掛けて鞄を持ち上げる。弁当箱を出すのは後にする事にして、彼は恐々、ドアの鍵を外した。
 そろりと外をうかがいつつ、廊下に出る。フローリングの床が、素足には程よく冷たかった。
「沢田殿、お茶の――」
「ひっ」
 出来る限り物音は立てないように気を配っていたのに、待ち構えていたのか、瞬時にバジルが台所から顔を出した。
 綱吉ほどではないにせよ、そこそこ大きい瞳を一瞬見開いて、彼は身構えた綱吉に柔和な笑みを浮かべた。鞄を胸で抱き潰している彼にクスクス笑みを零し、気を利かせて背中を向ける。
「五分したら、持って上がりますね」
 熱湯を浴びてきたわけでもないのに、茹蛸状態になっていた綱吉は、慌てた足取りで廊下を蹴り、階段を駆け上った。
「あー、もう!」
 要らぬ恥を掻いてしまったと罵声を上げ、温い空気に占領された部屋へと飛び込む。一気に汗が湧いて出て、折角シャワーを浴びてさっぱりしてきたのが全部台無しになってしまった。
 普段とあれこれ違う所為で、ペースが乱れっ放しだった。火照って熱を持っている頬を撫でて捻り、唇を噛んで、彼は抱えていた鞄をベッドに投げ出した。
 真っ先にカーテンを閉め、リモコンを取って冷房を入れ、冷たい風が流れ出したところでクローゼットを開く。どれを着るか迷っている間にドアがノックされて、開けっ放しの戸口からバジルがひょっこり顔を出した。
「おや」
 そして目を丸くして、首を引っ込めた。
「わあ!」
 未だぶかぶかのトランクス一丁だというのを思い出した綱吉は、頭の先から湯気を噴いてその場に蹲った。
 もう五分経ったのかと、時間の経過の速さを痛感させられた。半泣き状態で鼻をぐずらせて、彼は長い時間をかけて立ち上がり、適当に掴んだシャツの袖に腕を通した。
 膝丈のパンツを履いて、ファスナーをあげて、フックを留める。ひと通り準備が整ったところで咳払いすると、ずっと其処で待っていたのだろうか、盆を手にしたバジルが苦笑いと共に部屋に入って来た。
「飲み頃ですね」
「ごめん」
 未だ顔の赤い綱吉が、消え入りそうな声で言って項垂れた。
 適温まで冷めた紅茶がテーブルに置かれた。一緒に、あまり見ない色形をしたお菓子が山盛りになった皿も、並べられた。
 親指サイズの四角形で、中にナッツが入っている。その形状の所為で所々に穴が空いており、ちょっと押すと潰れてしまいそうだった。
 白と、濃い茶色の二色。物珍しげに眺めていたら、陶器のコップに紅茶を注いでいたバジルが、手を休めて言った。
「ヌガーです。お口に合うか分かりませんが」
「へえ?」
 初めて見る菓子に興味津々だった綱吉は、お言葉に甘える格好で手を伸ばした。一番上にあったものを爪で小突いて、摘み上げる。思ったよりも硬い。
 口に入れると、擂り潰そうと動く奥歯に抵抗してくれた。粘ついて、歯にくっつく。
「む」
「ふふ」
 感覚としてはキャラメルに近いが、それよりももっと硬くて、弾力がある。ナッツの欠片が奥歯の隙間に潜り込んで、綱吉は舌を横に伸ばして身体を傾けた。
 変なポーズを取った彼に顔を綻ばせ、バジルは細い湯気を立てるカップを押し出した。
「白い方が、まだ食べやすいかもしれません」
「先に言ってよー」
 茶菓子には向きそうにない。まだ歯に張り付いているキャラメルを舌で削り、綱吉は足を崩して胡坐を掻いた。
 不思議な匂いを奏でている紅茶に鼻を寄せ、首を捻る。何の香りか分かるかと聞かれたが、さっぱりだ。
「薔薇の香りなのですが、……ちょっと分かり難いですね」
 少しがっかりした様子のバジルが、自分のカップを顔に近づけて首を捻った。
「ううん。単純に俺が、そういうのに馴染みが無いだけだから」
 花など、奈々が庭先に植えているものくらいしか分からない。今のところ、薔薇の花束を贈る機会に恵まれていない綱吉は、大量生産品の紅茶とは異なる香りに喉を鳴らし、ひとくち啜った。
 味は意外にも、普通だった。
「変なの」
「そうですね」
「何処に行ってたの?」
「フランスと、その前はドイツです」
「へえ……」
 綱吉の質問にスラスラ答え、バジルは紅茶を半分啜った。白いヌガーに手を伸ばし、口に放り込む。香りと味が一致しない不思議な紅茶で咥内を漱いだ綱吉も、彼を真似て菓子皿の上で指を泳がせた。
 結局、また茶色いのを選んで口に入れて、しっかりとした噛み応えを堪能しながら、紅茶で胃袋に押し流していく。
 その度に顰め面をする彼に苦笑して、バジルもまた足を崩して楽な姿勢を取った。
 伸ばされた足がテーブルの下を潜り、綱吉の膝に当たった。
「あ、……」
「ふふ」
 トン、とぶつけられた綱吉が身じろぐ。バジルは目を細め、振り子のように頭を揺らした。
 悪戯っぽい目で見詰められて、気恥ずかしさが勝った綱吉は足を閉じ、膝に両手を並べた。道を塞がれたバジルは、大人しく足を戻した。
 格別気を悪くした様子もなく、紅茶を啜っては白いヌガーを黙々と食べて行く。何か言ってくれれば良いのにそれもなくて、綱吉は居心地の悪さを覚えて紅茶を一気に飲み干した。
 強い香りが内側から鼻腔に押し寄せて来て、ウッ、となった彼は慌てて口を手で覆った。
「沢田殿」
「ぶはっ、はー……」
「大丈夫ですか?」
「平気、ごめん」
 一滴残らず食道から胃に押し流して、大きく息を吐いて天を仰ぐ。口をパクパクさせた彼にバジルが身を乗り出して、心持ち不安げな顔をした。
 急ぎ手を振って謝罪して、綱吉は濡れた唇を親指で拭った。
 暫く冷房が稼動する音ばかりが耳についた。まだ誰も帰ってこない。静まり返った空間は、綱吉には苦痛だった。
「みんな、何処に?」
 真っ先にしても良かった質問を今此処で声に出して、綱吉は身を捩った。バジルは空になったカップに紅茶を注ぎ足し、蓋を開けて残量を確認した。
 十秒近い沈黙があって、気を揉んだ綱吉が視線を持ち上げる。
「皆さんで、寿司を食べに」
「えー」
 焦らされた分ショックも大きくて、綱吉は声を張り上げて後ろに倒れこんだ。
 床に大の字になると、頭がベッドに当たった。首から上だけを浮かせて横になり、緩く握った拳で交互にフローリングを叩く。
 リズムを刻む彼に肩を竦め、バジルは温まったカップを両手で包んだ。
「お土産を買って来るとは」
「当たり前だってば」
 唐突に帰ってきた家光に、奈々は大喜びだった。しかし何の準備も出来ていないので、碌なものが作れない。それで外に食べに行こう、と話が決まったのだそうだ。
 行き先は、竹寿司。山本の実家だ。
「ずるい。俺も呼んでくれればよかったのに」
「沢田殿は学校でしたので」
「バジル君は?」
 聞けば聞くほど、悔しさが膨らんでいく。風船のように頬を丸くした彼の文句に肩を揺らし、バジルは投げ捨てられたままの通学鞄を見た。
 その視界を塞ぐ形で、綱吉が不意に起き上がった。下から迫りあがって来た彼に目を丸くし、バジルは二秒置いて苦笑した。
「沢田殿は、鍵を持ち歩いてらっしゃらないと聞きましたので」
 家光は奈々だけでなく、ランボたちやリボーンまで連れて、竹寿司に行った。家光と一緒に並盛にやって来たバジルをひとり、家に残して。
 薄情な奴だと思っていたら、首を振られてしまった。
「俺の所為?」
「違います」
 彼が共にいけなかったのは、綱吉が帰宅して、誰も家に居ないのを防ぐためだ。本来その役目は、この家の住人がやるべきことなのに。
 申し訳なさを募らせた彼のひと言を、バジルはきっぱりと否定した。一瞬の逡巡さえ挟まなかった彼の強い口調に圧倒されて、綱吉は息を飲み、鼻の頭を掻いた。
 照れ臭そうにした彼に、瞬時に表情を和らげ、バジルが再び足を伸ばした。
「拙者が居残りたいと、そう申し出たのです」
「でもバジル君、お寿司、好きでしょ?」
 綱吉も胡坐を解き、テーブル下に足を伸ばした。互い違いに並べて、時々足首を揺らして爪先で相手の腿を叩いたり、蹴ったりする。
 訊かれて、バジルは長く伸びた前髪を梳き上げた。
「はい」
 彼の答えはいつだって迷いが無い。気持ち良いくらいの即答に、綱吉は口を尖らせた。
 好物を食べに行こうと言われたのに、それを断ってまで待っていてくれたのは嬉しい。が、やはり少し切ない。家光なら手土産に巻き寿司でも買ってきてくれるだろうけれど、店で食べるのと、家で食べるのとでは、雰囲気も、味が違う。
 今から行っても間に合うだろうか。時計を探して視線を浮かせた綱吉の動きを邪魔して、バジルは綱吉の右足に左脚を載せた。
「バジル君」
「寿司は逃げませんので」
 にっこり笑って、彼は足を左にずらした。彼に挟まれる形になって、綱吉は膝を軽く曲げた。
「それに」
「それに?」
「寿司よりももっと好きなものが、こうして」
 屈託なく笑って言って、彼は足を引いた。両手をテーブルについて膝立ちになり、少しだけ身を乗り出す。
 押されてぶつかり合った紅茶のカップが高い音を響かせた。そちらに気を取られて反応が鈍った綱吉は、意味ありげに微笑むバジルの姿を上に見出し、顎を引いて尻込みした。
「沢田殿?」
「そういう言い方、ずるいと思うな」
 左右の膝をぶつけ合わせ、もじもじしつつ言う。上目遣いの視線に、バジルは小首を傾げた。
 ならばどう言えば良いのだろうか。答えを求める瞳に綱吉は鼻を膨らませ、キャラメルが残る奥歯を噛み締めた。
「だから!」
 彼は臆面も無く恥ずかしい事を、ぽんぽん口にするから、時々とても心臓に悪い。正直なのは美点だけれど、素直すぎるのもそれなりに厄介だと嘯いて、彼はバジルの方へ身を乗り出した。
 床を殴り、目を閉じる。
 目標から逸れた唇に頬を削られ、バジルは一瞬きょとんとしてから、肌に残る仄かな熱に目尻を下げた。
「沢田殿」
「うぅ」
 心底嬉しそうにされて、綱吉は唸った。テーブルを回りこんだバジルの手が伸びて、首に触れる。脈打つ鼓動を計られて、居た堪れない気持ちになった彼は細いけれど硬い手首を握り締めた。
 引っ張られたバジルが、笑う。
 改めて触れあわせた唇からは、狂おしいほどに甘い、薔薇の香りがした。

2010/09/02 脱稿