春隣

 雲の切れ間から光が差している。空から降り注ぐ絹布の如き輝きを遠くに見詰め、綱吉は軒下で大きく伸びをした。
「んー」
 背筋を反らして骨を鳴らし、肩をぐるりと回してから深呼吸を二度。その後更に腰を左右に大きく捻って腕を振り回した彼は、最後にもう一度腕を頭上に掲げ、窄めた口から息を吐いた。
 彼の足元には表面が融けかけた氷が何本か、横倒しに転がっていた。大根に似て片側は太く、反対側は細い。白い筋が入って濁っており、そのうちに陽光に温められて完全に溶けて消えるだろう。
「お、ツナ。終わったか?」
「うん」
 道場の方から歩いてきた山本が、右手を挙げて綱吉に話しかける。彼の右肩には大きな、細長い板が載っていた。
 羽子板に似た形状をしているが、それよりもずっと大きい。綱吉の顔よりも幅広の板を軽々運んで来た彼は、それを下ろして柱に立てかけ、転がっていた棒をも拾い上げた。
「あ、ごめん」
 さっきまで自分が使っていた物が、いつの間にか倒れてしまっていた。気付いていなかった綱吉は慌てて詫びの言葉を告げ、咄嗟に前に出した手を背中に隠した。
 山本は首を横に振って構わないと笑い、恐縮している綱吉の、跳ね放題の髪の毛を軽く叩いた。
「けど、暖かくなってきたな」
「そうだね」
 まだまだ朝晩の寒さは厳しいものの、昼の日が照っている間は、一時期に比べてかなり暖かくなった。軒先から垂れ落ちる水滴を目で追いかけ、綱吉は頷き、転がっている氷柱の残骸を草履の裏で転がした。
 気温が上がってくると、軒先から垂れ落ちる氷柱が溶けて下に落ち、危ない。だからそうなる前に、先に棒で叩いて落としてしまうのだ。
 屋根に登っての雪かきも重要だが、氷柱落としも冬場の大事な仕事のひとつだ。これならば力仕事が苦手な綱吉でも、工夫次第でなんとか出来る。
「ごめんね、いつも」
 すっかり綺麗になっている道場の屋根を振り返って見上げ、爽やかな笑顔を浮かべている山本に畏まって礼を述べる。彼はまたも、とんでもないと笑って、顔の前で手を振った。
「いいって。面倒かけてんのはこっちだし」
 道場の周囲には、屋根から落とした雪が壁を作っていた。お陰で今は、夏場とかなり景色が違っている。南に広がる庭に根を張る松の木も、雪化粧で真っ白だった。
 あれもそのうちに雪を落としてやらなければ、重みで枝が折れてしまう。雲雀が折角丹精込めて手入れをしているのに、雪如きに形を崩されるのは勿体無い。
 定例と化しつつあるやり取りの末に肩を竦め、綱吉は唇を舐めると赤くなっている鼻を掻いた。
 吐く息は白く濁り、すぐに消えてなくなる。指先を温めて何度か吹きかけた彼は、遠く、人の話し声が聞こえて振り返った。
「獄寺」
「ディーノさんも」
 沢田家は代々並盛神社の神職を務めている。神社と屋敷は林の中を抜ける細い道で繋がっており、往来は自由だった。
 目下その神社を塒にしているディーノは、緋色も鮮やかな打掛を肩に羽織り、綱吉たちが気付いたと知ると右腕を高く掲げて左右に振り回した。
 冬の弱い陽光も、彼の周囲だけはきらきらと眩い。それもそのはずで、彼は人ではなく、太陽の運行を司る神の一員だった。
 ただ今は故あって力の大半を封じられ、地上で日々を過ごしている。そんな彼の隣を、膨れ面をして歩く獄寺もまた、ただの人間とは少し異なっていた。
 鬼と人の合いの子である彼もまた、様々な要因が重なった結果、この地に留まる事になった。綱吉を敬愛し、すべてにおいて彼を優先させる。やや行き過ぎな面もあるけれども、根は真面目で、悪い人間ではない。
 ディーノは上機嫌なのに、獄寺は怒っているように見える。神社の氷柱落としを頼まれて、出かける時は意気揚々としていた獄寺を思い出しながら首を傾げていると、冬場でも凍らない小川を飛び越えたディーノが、白い歯を見せて綱吉の前に進み出た。
「ツーナ!」
「わっ」
 駆けて来た勢いを利用して突進して来られて、両腕広げた彼に体当たりを食らった綱吉はたたらを踏み、後ろに倒れそうになった。
 其処に居た山本が支えようと前に出たが、それより先にディーノが彼を抱き竦めて、綱吉の爪先が浮いた。簡単に持ち上げられてしまい、自由を奪われた彼は身動ぎして頬を膨らませた。
「てめっ。性懲りもなく、十代目に何しやがる」
「んー、ツナは今日も可愛いな」
「こら、聞いてんのか。さっさと離れろ!」
 ぎょっとしたのは獄寺ひとりで、彼は肩に担いでいた長い棒を放り出して声高に叫んだ。行き場の無くなった両手を引っ込めた山本は呵々と喉を鳴らして笑い、苦しそうにしている綱吉に目を細めた。
「ディーノさん、ツナが死にそう」
「おっと」
 激しく抱き締められて呼吸困難に陥っている綱吉の項を小突き、山本が呟く。言われて気付いたディーノが途端に力を緩めたものだから、急に支えを失った彼は見事に地面に落ち、尻餅をついた。
 ズドン、と良い音がして、加減を誤ったディーノが空っぽになった自分の胸元に目を見開いた。
「いったぁ……」
「悪い、ツナ」
「てんめ……十代目になんて事を!」
「大丈夫か、ツナ」
 尾てい骨を強打した綱吉が苦痛に顔を歪め、尻を撫でようとして腰を浮かせる。遅れて下を見たディーノの肩を掴んで獄寺が牙を剥き、殴りかかろうとしたのだけれど、寸前で躱されて拳は空を切った。
 助け起こす手伝いにと、今度こそ手を差し出した山本が、返事を待つ前に自分から綱吉の細い手を握って引っ張った。引きずられる格好で身を起こした綱吉は、濡れてしまった長着を気にして渋い顔をした。
 着替えなければならない程酷い事にはなっていない。が、乾くまで、暫くの間は冷たいのを我慢しなければならなそうだ。
「本当に、済まない。ツナ」
 ぎゃんぎゃん吼える獄寺を適当にあしらったディーノが、申し訳なさそうにしながら膝を折って身を屈めた。綱吉の背丈に目線の高さを調整し、下から覗きこむように見詰める。真摯な眼差しを間近から受け止めて、綱吉は怒る気も失せて肩を竦めた。
「平気ですよ」
 これくらいで痛がっていたら、リボーンの特訓など耐えられない。濡れてしまった箇所も、火鉢の傍に居ればそのうち乾くだろう。
 気楽に考えて返事をし、綱吉は蝶々の形に広がった濡れ跡を両手で覆った。
 半纏の丈が短かった所為で、尻餅をついた際に地面に触れたところがそのまま濡れてしまった。蘇芳色の長着は、水を吸うと余計に色が濃くなる。非常に目立つ形状を知られるのが嫌で隠したのに、目敏く気付いた山本が、眉根を寄せて綱吉の肩を叩いた。
「拭くか?」
 肩に巻きつけていた手拭いを外し、差し出した彼に慌てて首を振って答える。後ろに居た彼を振り返ったお陰でディーノたちの方に背中が向いて、彼らもまた、綱吉が隠したがっていたものに目を留めた。
 泥汚れがこびり付いており、見てくれはかなり悪い。しまったな、と顔を顰めたディーノは、隣で食い入るように見入っている獄寺の正直さに苦笑した。
「ツナー」
「いいって、これくらい。はい?」
 山本の熱心な誘いを懸命に断って、呼ばれた綱吉がディーノに向き直ろうと動く。
「ひゃっ」
 その彼を引き寄せて、ディーノは羽織った緋色の打掛を広げて綱吉を包み込んだ。
 日向の温もりに包まれて、目を見張った綱吉は直後、甲高い悲鳴を上げた。
 むんずと濡れた尻を鷲掴みにされたかと思うと、丘陵にも似た形を確かめるように揉みしだかれたのだ。
 身を仰け反らせて逃げようと足掻くが、綱吉程度の力では到底敵わない。どうにか動く手で彼を殴りつけるけれど、何処吹く風と受け流したディーノは、綱吉の抵抗などお構いなしに、人の尻を揉み続けた。
「ちょっと、ディーノさん……やっ」
 雲雀よりも大きな手で左右互い違いに握られて、背筋に悪寒が走りぬける。爪先立ちになって彼に寄りかかり、歯を食い縛って堪える綱吉を遠巻きに眺め、獄寺の喉が大きく鳴った。
 急に何をするのかと、自然と浮いた涙で視界を濁し、綱吉は次第に乱れる呼気を懸命に整えようと足掻いた。山本に助けを求めて視線を泳がせるが、彼も獄寺同様頬を赤く染め、微妙に腹の立つにやけた顔をして事の有様を見守っていた。
「んー、すべすべ。やわらけー」
「ディーノさん、やだ、ちょっと。放して!」
 楽しそうに笑い、感極まった声で呟くディーノの息が綱吉の首に掛かる。並々ならぬ熱を帯びた風にビクリと肩を強張らせ、綱吉は渾身の力を込めて彼を突き飛ばした。
 無論その程度ではびくともしない。だが、直後。
「ぶはっ」
 ディーノの顔面に、どこからか飛んできた雪の塊が激突した。
 彼の腕に抱かれる綱吉を避け、絶妙な一球がディーノの鼻を挫いた。衝撃に呻き声を発し、堪えきれずに綱吉を解放して後ろ向きに倒れたディーノは、そこにあった雪山に身を沈めて目を白黒させた。
 自分自身を抱き締めて距離を取った綱吉が、肩で息を整えながら雪球が飛んで来た方角に顔を向ける。少し残念そうな山本も彼に倣い、沢田家の屋根の上に立つ人物を見つけて、納得した様子で頷いた。
「雲雀」
 黒濡れた髪を掻き上げ、雲雀は雪かき用の板を肩に担いだ。胸を反らして居丈高に構え、綱吉を取り囲む面々を睨みつける。
「ヒバリさん」
 綱吉は助かったと胸を撫で下ろし、後ろで呻きながら身を起こしたディーノに吃驚して飛び跳ねた。
 緋色の打掛も雪に埋もれ、散々な事になっている。一寸可哀想かと思っていたら、伝心で雲雀に怒られてしまった。
「って~~。こら、恭弥。何しやがる」
「雪下ろし」
 首を竦めた綱吉の後ろで、右腕を振り上げたディーノが屋根の上の青年に怒鳴りつけた。しかし雲雀は飄々として、足元に残っていた雪を板で掬い上げた。
 持ち上げ、腰の捻りを利用して放り投げる。白い塊はまたもや綺麗にディーノの顔面に激突し、四方八方に砕け散った。
 彼に触れた先から、雪は熱を受けて溶け始める。地面に座り込む彼の周囲も例外ではなく、ディーノの身体はあっという間に泥水に沈んだ。
「ディーノさん」
「どさくさに紛れて。僕が見てないとでも思ったの?」
 助け起こしてやろうとした綱吉を引きとめ、雲雀が不遜に言い放って屋根から飛び降りた。彼がいた屋根の上に、雪はもう殆ど残っていなかった。
 難なく着地を決めた雲雀に渋い顔をして、ディーノはずぶ濡れの着衣に舌打ちした。汚れた打掛を持ち上げて哀しそうにしてから、立ち上がって肩を交互に撫でる。最後に裾を払って空気を膨らませると、背中に戻る頃にはそれはすっかり水分を飛ばし、泥汚れもどこかへと消え去っていた。
 何度見ても思うが、神の力は便利だ。
 声に出して感心している山本をちらりと見て、ディーノは肩を竦めて首を振った。
「俺はただ、ツナが濡れたままなのは可哀想だなー、って思ってだな」
「へ?」
 ディーノが零した文句に目を丸くして、綱吉は慌てて後ろに手を回した。先ほどたっぷりと彼に揉み解された尻を撫でれば、布地はすっかり乾いて霜焼けの指に引っかかった。
 上から下へと形をなぞるように掌を添わせ、湿り気が完全に消え去っている現状に身を竦ませる。
「乾いてる」
「はあ?」
 ぼそっと零した綱吉の言葉に、獄寺が大仰に反応して素っ頓狂な声を上げた。呆然としている彼らを他所に、ディーノは不敵な笑みを浮かべて自慢げに雲雀を見た。
 それを無言で睨み返した雲雀は、間に割り込んで背後に綱吉を隠し、持っていた雪下ろし用の板で地面を叩いた。
「ヒバリさん」
「その程度で誇られてもね」
 一触即発の空気を感じ取った綱吉が、急ぎ雲雀の袖を掴んで引っ張る。だが彼は振り返らずに綱吉を後ろへ追い遣り、皮肉に口元を歪めて育ての親をすげなくあしらった。
 そもそも神というものは、滅多に地上に顕現しないことで威光を保っている。些細な事象にも事細かく関わって力を大盤振る舞いしているようでは、有り難味も薄れるというもの。
 鼻で笑い飛ばした雲雀にディーノは奥歯を噛み締め、反論しようとしてか大きく口を開いた。しかしなんの音も発せられぬまま、唇は静かに閉ざされた。
 悔しげな表情を満足げに眺め、雲雀は綱吉にもっと下がるよう促した。縁側近くまで行かせて、ディーノが簡単に近づけないよう距離を取る。
「もう……」
 大人気ないふたりのやり取りに肩を竦め、綱吉は泥汚れだけが僅かに残った長着の皺を爪で引っ掻いた。
 太陽の運行を司る神であるディーノの体温は、そのまま太陽に左右される。日が出ている時間帯は暖かく、月の支配する夜闇の中では冷たい。彼が操る力も、時間によってその強さが変わった。
 神と雖も、万能ではない。少なからず欠点がある。だからこそ綱吉は、彼に親近感を覚えた。
 睨み合いを続けているふたりに嘆息し、肩の力を抜いた綱吉は苦笑して上半身を右に傾けた。雲雀の背中からひょっこり顔を出した彼に目を瞬き、ディーノが背筋を伸ばして左に首を倒す。
「綱吉?」
 それ見て真後ろにいる綱吉の奇妙な動きに気付いた雲雀が、怪訝にしながら振り返った。
「有難う御座います、ディーノさん」
 直後後方から響いた明るい声に、黒水晶の瞳が大きく見開かれた。金髪の青年は瞬時に感極まった表情を浮かべて頬を緩め、こみ上げてくる喜びに全身を震わせた。
 にっこり微笑んだ綱吉の、一切悪気が無い行動に雲雀が微かな怒りを抱く。左右両側から事の成り行きを見守っていた獄寺と山本は、突如立ち上った雲雀の怒気に恐れおののき、各々二歩ずつ後退した。
「え?」
 いかに鈍感な綱吉でも、目の前でこうも怒りを発現されれば流石に気付く。しかし雲雀の怒気の矛先は、綱吉ではなく、彼の笑顔を手に入れた方に向かった。
 雲雀は感情の赴くままに腰を捻って南に向き直り、緋色の打掛を羽織った男を射殺す勢いで睨みつけようとして、視線を泳がせ、
「いない――?」
「ツナー!」
 僅か数秒、目を離した隙にディーノの姿が忽然と消えていた。と思えば直後、雲雀の真後ろから男の裏声がみっともなく響き渡った。
 ぎょっとして、慌てて北に目を向ければ、縁側に倒れ落ちる綱吉の足が見えた。草履が片方すっぽ抜け、呆然と立ち尽くす雲雀の方へと飛んでくる。
 彼の目には全てが、通常の何倍もの時間をかけて映し出された。背中から縁側に落ちた綱吉の上に、緋色が舞い降りる。陽光を受け止めた金色が眩く輝き、綱吉の華奢な体躯を包み込む。
「きっ!」
 貴様、と叫ぼうとして喉に声が引っかかり、雲雀は顔を引き攣らせて背筋を戦慄かせた。
 突如湧いて出たディーノに驚き、山本も獄寺も咄嗟に身動きが取れずにいた。最後に床に落ちた綱吉の手が、衝撃で跳ね返ってディーノの肩に載った。背中に回った彼の腕が綱吉と床の間に割り込んでおり、それが防御壁の役目も果たしていたので痛みはさほど酷くない。それでも吃驚したのは間違いなくて、綱吉は突如現れた彼に目を白黒させた。
「ディーノさん」
「ツナはほんっと、いい子だな。どこかの誰かさんとは大違いだ」
 綱吉の胸に顔を埋め、頬擦りしながらディーノがちくりと嫌味を口にする。庭先で呆気にとられていた雲雀はそれで我に返り、握り拳を高く突き上げて唇を震わせた。
「なにをしてるの、早く離れなよ」
 あれだけ過去に痛い目に遭っていながら、ディーノは依然綱吉に手を出すのを止めない。隙あらば、と常日頃から構えており、開き直っている感が非常に強かった。
 横薙ぎに腕を払って雲雀が牽制するが、彼は聞く耳を持たずに綱吉に縋った。気持ち良さそうに目を細め、満面の笑みを浮かべて腕の中の体温を楽しむ。くすぐったくて綱吉は足をばたつかせ、残っていた草履も地面に落とした。
「ちょっと、ディーノさん。あは、やめてくださいってば」
 堪えきれずに声を零し、綱吉は彼の肩を交互に叩いた。だけれど心底嫌がっている素振りは感じられない。
 じゃれ付いてくるランボやイーピンを相手にしている時に似て、綱吉自身も笑っている。雲雀が懸念するような不埒な行為とは、どうにも言い切れない雰囲気だった。
「なんか、なー」
 どちらかと言えば微笑ましい光景に、山本は苦笑して腰に両手を当てた。
 膝から先が縁側から外にはみ出ている綱吉を上から見下ろし、ディーノがふと思い立って体を起こした。
「わっ」
「よいしょ、と」
 上から押し潰してくる重みが消えたと思った矢先、綱吉の軽い身体がふわりと宙に浮かんだ。
「なっ」
 獄寺が顔を赤くし、雲雀が怒りで拳を震わせる。そんなふたりを他所に、ディーノは綱吉を楽々と抱き上げて自分も履いていた草履を後ろに蹴り落とした。
 素足になって縁側に上がりこみ、綱吉ごと畳敷きの座敷に入る。片隅に火鉢が置かれているが、火が入っていないのですっかり冷え切っている。同じく端に寄せられた座卓には、獄寺の物と思しき書物が何冊か、塔の如く積み上げられていた。
 そちらを一瞥したディーノは、綱吉を落とさぬように注意しながら座卓前の座布団を足で引き寄せ、陽射しが届く所に置いた。
「ディーノさん?」
 こうも軽々と抱えられてしまうのは、男として若干悔しい。長着の衿から覗く逞しい胸板を羨ましく思いながら、綱吉は下ろしてくれるよう彼に懇願した。
 しかし彼は聞き流し、薄い座布団に腰を下ろすとそのまま綱吉を膝に座らせた。
 彼に向かってやや斜めに、左肩を預ける形で日向に身を置いた綱吉は、憎々しげにディーノを睨んでいる雲雀に心の中で手を合わせ、縁側に上がりこんだ山本にも目線を向けた。
「あったけーだろ?」
 ぼんやり考え事をしていたら、腕を回してきたディーノに引き寄せられた。
 耳元で囁かれ、反射的に頷いて返す。陽光が照る中では、ディーノの体温はぬるま湯にも似て、非常に心地よかった。
「あ、はい」
「へー。ほんとだ、ディーノさんの周りってぽかぽかしてる」
 首肯した綱吉に相槌を打つ格好で、畳の縁を跨いだ山本が膝を折って素直な感想を口にした。それに気を良くしたディーノが彼にも手を差し伸べたので、遠慮という言葉を知らない山本は嬉々として彼の手を取り、その温かさに感嘆の息を吐いた。
 雲雀は先ほど、大盤振る舞いは品格を下げると言った。しかし冬も厳しさを増す中で、この温もりは非常に有り難い。
「いいなー、ツナ。俺も混ぜて」
「やまもと? ……だぁ!」
「うおっと」
 湯たんぽに等しいディーノの膝を独占している綱吉を羨ましがり、山本がわくわくする気持ちを抑えきれずに伸び上がった。両腕を伸ばして綱吉ごと、ディーノに向かって全身を投げ出す。
 間に挟まれた綱吉が真っ先に悲鳴をあげ、ふたり分の体重を受け止め切れなかったディーノが後ろに仰け反った。
 座布団から尻を滑らせ、ディーノが後頭部を畳にぶつけて星を飛ばした。
「いってぇ……」
「おいこら、山本。お前まで十代目になんて事をだな」
 綱吉よりずっと大きくて重い山本を上にして、ディーノが苦しげに呻き声を上げる。上下挟まれている綱吉等はその比ではなかったが、見事に両者の胸と胸に頭を潰されており、声を出す事すら困難を極めた。
 だというのに山本は構いもせず、綱吉ごとディーノに寄りかかって動こうとしない。
 縁側に駆け寄って罵声を上げた獄寺が、床板を叩いて激しく音を掻き鳴らす。声高に叫ぶ彼を眺め、雲雀は急にあらゆることが馬鹿らしく思えてきた。
 ディーノは神だ。沢田家に引き取られて以後人として育てられた雲雀とは、考え方が根本的に違う。
 真面目に相手をするのは疲れるだけだ。改めて思い知って重い溜息をついた彼の前方では、呵々と愉しげに笑った山本が上半身を浮かせ、激高している獄寺を手招いた。
「獄寺、お前も来いよ。まじですんげー温かいから」
「おいおい、お前ら」
 彼が退いたお陰で呼吸が楽になった綱吉が咳き込み、横倒しになった身体を脇に滑らせた。
 僅かな段差を落ちた綱吉に腕を指し出し、枕にしてやったディーノが山本の台詞に苦笑いを浮かべた。綱吉だけならばどうとでもなるが、そこに山本のみならず獄寺まで加われば、流石の彼でも潰されかねない。
 止めてくれるようそれとなく言葉尻に含ませて言うが、山本はお構いなしに獄寺を呼び続けた。
「おーい」
「けほ。山本ってば、いきなり何するのさ」
 畳に大の字に横になったディーノの横で、やっと人心地ついた綱吉が涙目で幼馴染の親友に文句を言う。袂を掴んで引っ張られた彼は、苦々しい表情を浮かべる綱吉に目を細めると、獄寺に向かってにんまり笑い、手を広げた。
「あー、でもやっぱツナが一番あったけーかも」
「うぎゃ!」
 無邪気に言い放ち、ディーノの上で飛び跳ねて綱吉に踊りかかる。踏み台にされた、一応神である筈のディーノは、みっともない悲鳴をあげて陸に揚げられた魚の如く飛び跳ねた。
 今度は山本に圧し掛かられた綱吉も、そろそろ抵抗するのに疲れを覚え始めていた。もう好きにしてくれと甘えて来る幼馴染に身を投げ出し、横で悶絶しているディーノを哀れみの目を向けた。
 獄寺ひとりが憤慨している。彼はその場で地団太を踏んで煙を吐き、奥歯を軋ませた。
「てんめ、山本の分際で!」
「んだよ。羨ましいならそう言えばいいだろ?」
 浴びせられる罵詈雑言を易々と受け流し、不敵な笑みを浮かべた山本が勝ち誇った顔をした。綱吉は額に手をやって天を仰ぎ、人の都合を他所に飛び交う会話を聞くともなしに聞いて、溜息を零した。
 畳に肘を突き立てて、寝そべったまま外に顔を向けた山本に金切り声を発し、獄寺は半分べそをかきながら膝から縁側に乗り込んだ。
「ちょっと」
「十代目の隣は俺のもんだ!」
 先走らず、思い留まるよう言おうとした綱吉を遮り、獄寺は草履を脱ぎ捨てると雄々しい足取りでずんずん近づいて来た。慌てた綱吉が山本を押し退けようと足掻くものの、疲れが蓄積してろくな抵抗にならなかった。
 彼らの足元で仁王立ちした獄寺に見詰められて、綱吉はふるふると首を振った。来るな、との意思表示だが正しく伝わったかどうかは分からない。思い込みの激しい彼の事だから、もしかしたら助けて、と懇願しているのだと勝手に解釈してくれたのかもしれなかった。
「あの、獄寺君?」
「お前ら全員、果てろ!」
 不穏な空気に鳥肌が立ち、冷たい汗が綱吉の首筋を伝って落ちていく。頬を引き攣らせた彼が目に入っていないのか、獄寺は叫ぶと同時に両手を袖口に押し込み、袂に隠し持っていたものを引き抜いた。
 両手にそれぞれ四枚ずつ、合計八枚の札が三人の視界で揺れた。
「ちょ……!」
「おま、待てって」
 綱吉は絶句し、気付いた山本が振り向き様に制止の声を上げた。ディーノは山本に鳩尾を踏まれた激痛から復活しておらず、ひくひくと痙攣を起こして倒れていた。
 烈火のごとく怒り狂った獄寺には、此処が沢田家の座敷だという基本的な事項まですっかり抜け落ちていた。そういえばこんなことが、梅雨の始まる季節にもあったような気がする。遠い記憶に思いを馳せて、綱吉は痛むこめかみに指を置いた。
 慌てふためく山本を放置し、衝撃に備えて畳にべったり張り付いて姿勢を低くする。
「獄寺!」
「君たち、いい加減にしなよ」
 山本の悲痛な叫びに、冷静極まりない低音が混ざりこむ。止まらなかった獄寺の手から放たれた呪符が紅蓮の炎を放った刹那、それらは奔った風によって悉く消し飛んだ。
 ひゅっ、と耳鳴りのように一瞬だけ駆け抜けた音に、綱吉は安堵の息を吐いた。
 山本と獄寺が目を丸くして、木っ端微塵に消え失せた呪符の行方を捜して視線を泳がせる。のた打ち回っている間に一大事が起こって、終わってしまっていたディーノは顔を顰めつつきょとんとして、枕元に凛と立つ足を見つけて笑った。
「よう、恭弥」
「……」
「こら、待て待て。踏むな」
 まだ残る痛みを堪えつつ右手を挙げて挨拶すると、庭先からいつの間にか移動を果たしていた雲雀は黙って左足を持ち上げた。
 掲げられた黒々しい足の裏に冷や汗を流し、ディーノが両手で顔を庇って首を振る。前方で始まった会話に顔を上げた山本は、呪符の炎が全て消えてなくなった理由を悟り、脱力した。
 獄寺が全身で悔しさを表現し、思うように巧く行かない状況に涙ぐんだ。
「獄寺君、あの、出来るなら家の中では使わないでくれる?」
「はっ! も、……もうっしわけございません、十代目!」
 よろよろと身を起こし、座り直した綱吉が膝を折った彼に手を伸ばして肩を叩く。慰めながらも注意すると、彼は今頃になって気付いたのか激しく狼狽し、額が畳に擦れるくらいに深く頭を下げた。
 土下座されて綱吉は苦笑いを隠しきれず、顔を上げてくれるように頼みながら恐縮している彼の頭を撫でた。
「君も、いい加減離れなよ」
「うわ。ヒバリさん」
 そうしたら今度は雲雀が後ろから腕を伸ばし、綱吉の肩を掴んで乱暴に引っ張った。
 姿勢を崩されて斜めになった綱吉は、厳しい目つきで睨まれて頬を膨らませた。
「恭弥。男の嫉妬はみっともないぜ」
「貴方に言われたくない」
 そこへディーノが茶々を入れ、油断しきっていた綱吉の腰にさりげなく手を回す。片手で簡単に抱えあげられてしまって、綱吉は慌てて雲雀に向かって伸び上がった。
 素早く細い手首を捕まえた雲雀が、綱吉越しにディーノと睨み合って火花を散らす。無言の応酬に身動き取れなくなってしまって、困り果てた綱吉は視線を泳がせた。
 山本と目が合い、彼が白い歯を見せて笑うのを受けて相好を崩す。どんな状況でも自分なりの楽しみを見つけ出す天才の彼に倣おうかと、綱吉は人の体を綱引きに使っているふたりに嘆息した。
 四肢の力を抜き、伝心で雲雀に呼びかける。
「え?」
 心の中に響いた呼び声に気を取られ、雲雀の拘束が少しだけ緩んだ。
「えーい!」
 すかさず綱吉は全力で畳を踏みしめ、座ったまま背後にいるディーノに向けて体を倒した。
 途中でずるっと足が滑り、跳ね上がった足が雲雀の顎を掠めた。咄嗟に避けようとした彼だが、手を繋いだままの綱吉に引っ張られて、仰け反ったまま体を前に傾がせた。
「って、だは!」
「ひゃっ」
「く……」
 三者三様、短い悲鳴を上げた彼らは揃って畳の上に折り重なり、倒れた。
 埃が舞い上がり、肘を引いて避けた山本と獄寺がぽかんと間抜けに口を開いた。そこに綱吉の、悪戯が成功した喜びの笑い声が混ざりこむ。
「はは、あははは」
「って~~。恭弥重い、退けよ」
「貴方こそ、綱吉の下から出ていきなよ」
 先ほどと上に乗る人間が入れ替わっただけの状況に、最初は呆然としていた山本もすぐに我に返った。これは愉快だと喉を鳴らし、綱吉を庇いつつディーノに蹴りを入れている雲雀の後ろに回りこむ。
 視界が暗くなって、はっとした雲雀は急いで綱吉を抱え込んだ。
「俺も混ぜろよ」
 言うが早いか、山本が両手を広げて三人の上に全身を投げ出した。
 一瞬早く、雲雀が綱吉をディーノから引き剥がすのに成功する。軽くなった途端に勢い良く倒れてきた山本に潰されて、ディーノは牛蛙のような声を出して派手に咳込んだ。
「ちぇー」
「危ないじゃない、山本武」
「いいじゃねーか、ちょっとくらい。なー?」
 雲雀の非難の声をものともせず、山本はディーノに圧し掛かったまま綱吉に同意を求めて目を細めた。即答はせずに笑みで返した綱吉は、ひとり出遅れてしまった獄寺に微笑みかけ、手招いた。
 気付いた彼は目を瞬かせ、みるみる頬を紅潮させた。
「十代目、お慕い申し上げております!」
 喜びを最大限に表明し、甲高い声で宣言して綱吉に飛びかかる。刹那、繰り出された雲雀の足に蹴り飛ばされ、彼の体は反対側に居た山本の上に落ちた。
「ぎゃ!」
 最早何度目か知れない悲鳴をあげて、更にその下にいたディーノが四肢を痙攣させた。聞くに堪えない見苦しい声に雲雀は辟易した様子で肩を竦めると、綱吉を大事に床に寝かせた。
「こーら、雲雀。独り占めは良くねーぞ」
「そうだ。十代目は、お前ひとりのお体じゃねーんだ」
「その言い方には語弊があると思うんだけど……」
 間に自分の体を置き、誰にも触れられないように綱吉を端に据えた雲雀に向けて、すかさず山本と獄寺から不満の声があがった。獄寺の台詞に引っ掛かりを覚えた綱吉は苦笑して、不貞腐れている雲雀をちらりと盗み見た。
 子供じみた反論を寄越す彼らに辟易した様子だが、表情は思う程険しくない。
「ヒバリさん」
「駄目だよ。この子は僕のなんだから、君たちには貸してあげない」
「ずっりー。俺、そっち行く」
「抜け駆けすんな。そっちは俺の席だ」
「てめーら、俺は座布団じゃねーんだぞ!」
 そうこうしているうちに、空いている綱吉の左隣を争いあい、山本と獄寺が取っ組み合いの喧嘩を開始した。それもディーノの上で。
 流石に温厚な彼もこれには我慢ならず、怒号を上げると二人を押し退け起き上がり、そのまま綱吉たちの方へ倒れてきた。
「ちょっと」
「ツナー、慰めて~~」
 ディーノに膝蹴りされた雲雀が追い払おうとするが、彼はお構い無しに綱吉にしがみ付き、肩口に顔を埋めた。
 それを見た獄寺達がまた喧々囂々と騒ぎ出し、雲雀も堪忍袋の緒が切れたようで、こめかみに青筋を浮かべた。
 陽射しは程よく温かく、空気は冷たいものの皆が集まっている所為で寒さはまるで感じない。
 収拾がつかなくなっている状況に肩を落とし、綱吉は場所を奪い合う四人に笑った。
「あー、もう」
 目を細め、彼は幸せな気分で胸をいっぱいにしながら手を広げた。
「えいっ」
 輪の中心にいた雲雀に向かって飛びつき、まずは彼を押し倒す。次に綱吉は口をぽかんとあけたディーノの衿を掴み、思い切り引っ張った。
「綱吉」
「ふたりも」
 下敷きにされた雲雀が目を見開く中、綱吉は残るふたりにも手を伸ばし、自分から畳に横になった。
 雲雀に圧し掛かり、右にディーノを置く。左の低い位置には獄寺を、高い位置には山本を。
「まったく」
 彼の狙いを理解した雲雀が呆れ半分に呟き、残る三人は各々綱吉に触れられる近さに目を瞬いた。
 風が吹く。だけれどディーノのお陰か、雲雀に触れているからか、それとも皆に囲まれている所為か。この部屋だけはぽかぽかと、春を思わせる陽気に包まれ暖かかった。
「へへ」
 満足げに綱吉が目を細め、笑う。最初は呆然としていた獄寺達も、嬉しそうな綱吉の顔を見て表情を和らげた。
「ツナ」
「十代目」
「ツーナ」
 三人がそれぞれに綱吉を呼ぶ。それぞれの顔を見ながら頷いた彼は、最後に下を見て、微笑んでいる雲雀に目尻を下げた。
「綱吉」
 蜂蜜色の髪を梳いて名前を呼ばれ、ひと際幸せそうな顔をして、綱吉は彼の胸板に顔を埋めた。
「ね。このまま寝ちゃおうか」
 まだやらなければならない仕事は沢山残っている。だけれどどうにも離れ難くて、彼はそんな事を口にした。
 いつまでこうしていられるのかは、分からない。だからこそ、一緒にいられる今のこの時間が大好きで、大切だった。
「お、いいな」
「俺は大歓迎っす」
「俺も、いいぜ」
 すかさず山本が、獄寺が、続いてディーノが賛同の言葉を発する。小言の多い雲雀だけが黙り込み、綱吉を不安にさせた。
「ヒバリさん」
「……しょうがない子」
「だって、しょうがないじゃない。これが、俺なんだもん」
 諦めたように、けれど実際は正反対の心でもって、雲雀が囁くように告げる。
 顔を浮かせた綱吉は照れ臭そうに笑い、満ち足りた表情で目を閉じた。

2010/03/29 脱稿