精励

 陽炎が踊っている。
 おぼろげな光が遠く、近く、緩やかなリズムで明滅を繰り返していた。足元に影はなく、周囲は暗い。
 石造りの椅子にでも座らされているのか、体の節々が妙に痛んだ。否、己自身が石の人形と化している。指を動かそうにも重く、まるで自由が利かない。
 これは一体全体、どういう理屈だろう。訳が分からない。
 それなのに心はいやに落ち着いていて、冷静だった。あまり宜しくない思考回路を駆使しつつ、状況を把握しようと大きな眼を左右に蠢かせる。しかし見えるものといえば、微かにオレンジ色に似た淡い輝きひとつだけだ。
 現在地が何処であるのかなど、まったく思いつかない。ただ普段よりも頭がぼんやりしているし、目に映るものにも現実味が足りないので、恐らくは、これは夢なのだろう。
 四肢の感覚が微妙にしっくり来ないのも、此処が夢の中だからだ。肉体と切り離された、意識だけの世界。そう考えれば納得が行くが、だからと言って身体を蝕んでいる倦怠感までもが幻とは限らない。
 奇怪な体勢で眠っているのではなかろうか。そこに思考が至ったところで、遠くに揺らめくだけだった橙色の炎が不意に爆ぜた。
「っ!」
 咄嗟に腕で顔を庇い、息を飲んで予想した衝撃に身構える。だが待てど暮らせどそんなものはやって来なくて、代わりにギギギ、と骨が軋む音が脳天を貫いた。
 身じろいで首を擡げて、彼は目に飛び込んできた白い光にうっ、と仰け反った。
 慌てて瞼を下ろして視覚をシャットダウンして、左手で額の一帯を覆い隠す。起き上がろうとしたら椅子の駒が後ろに滑って行って、踏ん張るのがもう少し遅ければ床に腹這いで落ちるところだった。
「う、いっ、ぎゃ」
 意味不明の悲鳴を連発させて、机の縁にしがみ付いてどうにか事なきを得る。伸ばした腕はプルプル震えており、指の力だけで分厚いデスクを握り締めた彼は、必死に爪先で床を蹴って後退した椅子を前に戻した。
 小学校時代、プールの授業でビート板を使って泳ぐ練習をした、そんな懐かしい日の記憶が蘇った。
 苦笑いを浮かべて体勢を戻し、ホッとした瞬間にこみ上げてきた欠伸を噛み殺す。目尻を擦ると涙が滲んでおり、顎を撫でれば涎が垂れた跡があった。
「あれ、俺って、寝てた……」
 部屋の電気は点けっぱなしだった。首を傾けていたであろう方角に、オレンジ色のシェードランプが置かれていたので、夢うつつに見た光景はあれが原因だろう。
 少しヒリヒリする頬を撫で、彼は右肩をぐるりと回した。
 涎は顎のみならず、枕代わりになっていた袖や、その下敷きにされていた書類にまで及んでいた。乾いて出来た小さな染みを爪で削り、紙面に薄ら皺を寄せる。苦笑を零し、彼は現在時刻を確認しようと目を凝らした。
 部屋にいる間は、腕時計は外している。日焼けの跡が薄ら刻まれている手首を撫でて、壁際に置かれた柱時計に焦点を定める。
 夜中、丑三つ時もいいところだった。
「うー、参ったな」
 呻くように呟いて頭を掻き回し、彼は机の上に散らばった無数の紙類に苦々しい面持ちをした。
 いったいいつの段階で寝入ってしまったのか、まるで覚えていない。書類は、何枚か床にも落ちていた。ホチキス止めされていた物以外、並び順もぐちゃぐちゃだ。
 端を持ち上げて、五枚ばかり綴られている分を端に退かす。埋もれていたところを発掘した万年筆の尻でこめかみをトントン、と叩いて、彼はもうひとつ欠伸を零した。
「ふぁ、あー……やばい。まだ眠い」
 寝起きの際の珍妙な運動のお陰で一旦は退いた睡魔が、再び降りて来た。重い頭を揺らして下唇を噛む。だがこんな小さな痛み程度では、諦めてもらえそうになかった。
 太腿を抓ってみても、結果は同じだ。
 目尻を濡らす涙を弾き落とし、口元に手をやって二連発の欠伸を隠す。むにゃむにゃ言いながら緩く握った拳で肩を叩いた彼は、机上の整理を諦めて椅子を引いた。
 今度はちゃんとバランスを維持したまま後退して、両足を床にしっかり下ろしてから立つ。
「おっと」
 これだけ注意深くしておきながら、まだ身体の半分は眠ったままなのか、直立不動でいられた時間はごく僅かだった。
 立ち上がった瞬間に左にふらついて、頭もくらっと来た。眩暈に襲われたのは、長時間不自然な体勢でいたために、脳内を巡る血液が足りなくなっていた所為だろうか。
 身体の節々も嫌な音を立てて、油の切れたブリキの玩具になった気分だった。
「どこまでやったっけ。やばい、全然覚えてない」
 奥歯を噛み締めて呟き、首を振る。倒れそうになって、腰から机にぶつかっていって、万年筆がコロコロと転がった。
 端から落ちそうになったところを受け止めて、安全な場所に戻してから、彼は盛大な溜息をついた。
 こうしている間も、瞼は仕事を放棄するタイミングを見計らっていた。閉じたまま十秒したら眠っている、そんなあまり誇れない自信ならある。自慢ではないが、幼い頃から寝つきだけは良かった。
 少しは夜に強くなったと思っていたのだが、どうやら驕りだったようだ。
「ふぁ、ん、んー」
 何度目か分からない欠伸に鼻を鳴らし、彼は古めかしい柱時計に縋るような目を向けた。
 時計の針が逆回転してくれたなら、これ程喜ばしい事はない。しかし願ったところで、過ぎ去った時間が戻って来るような奇跡は起こらない。
 刻々と進む針の行方を見守って、彼はがっくり肩を落とした。
「旧市街開発公団への土地供用の誓約書の草案は、終わった……と思うけど」
 ボンゴレが別名義で抱えている土地に新たな商業ビルを建設するに当たり、近々正式な契約が取り交わされる。契約年数はどうするか、利潤はどれくらいの幅で設けるか。様々な方面からの試算を参考にあれこれを決めなければいけないのだが、これがなかなか、難しい。
 あちら側は出来るだけ金額を控えたいだろうし、こちら側は極力利率を高くしたい。過去既に二度、協議の場を設けたが、二度とも物別れに終わった記憶はまだ新しかった。
 どこで妥協点を見出すか、未だにタイミングが掴めない。こういう仕事は何度経験しても慣れなくて、結局最後は九代目やその側近に頭を下げる日が続いていた。
 溜息を零し、乱雑に散らばる書類を何枚か捲って探してみるが、肝心の見積書は見付からなかった。
「拙い」
 居眠りする前は確かに手に持って広げていたのに、何処かに消えてしまっている。慌てて分厚い経済書だの、スリープ中だったノートパソコンだのをひっくり返し、下にもぐりこんでいないかを確認するが、それらしきものは出てこなかった。
 足をばたばたさせ、机の前に回りこんで床を覗きこむが、結果は同じだった。
「嘘」
 サーっと血の気が引く音が聞こえて、ボンゴレ十代目こと沢田綱吉は真っ青になった。
 くらっと来て、頭を抱えて後ろにたたらを踏む。転倒だけは本能的に回避したが、出来るものならこのまま崩れ落ちてしまいたかった。
 縦縞の入ったグレーのスーツは、机で寝こけていたお陰ですっかり皺だらけだった。長袖のシャツの上に羽織った二つボタンのベストだけが異様に綺麗で、逆三角に整えられた左右の裾が、動く度にヒラヒラと揺れた。
 淡い光を放つシェードランプの影もが、燃え盛る炎のように蠢いていた。
 寝起きの余波で頭が巧く働かない。他にも探していない場所は沢山あるのに、なかなかそこまで考えが向かなかった。
「なくした? いやまさか。……うぅ、ダメだ」
 ゴミ箱を覗き込むが、それらしきものはなかった。丸めて潰れた紙があったので広げてみるが、ただの電話メモでしかなかった。しかも自分の字なのに、読めない。更に、これを書き記した記憶すら残っていなかった。
 ミミズがのたくったような文字を暫く無言で見詰め、綱吉は残念過ぎる自分の頭に爪を立てた。
「ふぁ……」
 こんな時でも欠伸が出る。睡魔を完全に駆逐できていない現状では、何をやっても失敗するだけだ。
 重い溜息を二度続けて吐いて、彼は再度握り潰した紙を屑入れに放り投げた。
 狙いは大きく外れて、即席のボールは目標のかなり手前に沈んだ。力の入らない腕を揉んで悪態をつき、仕方なく数歩進んで拾って、真上から落とす。弾みもしなかったそれを見送って、綱吉は柱時計を再確認した。
 百年以上も其処に佇んでいる時計は、まるで年老いた男性のようでもある。好々爺然とした九代目の姿が重なって、笑みが零れた。
「顔、洗ってこよう」
 窓の外は暗く、星の明かりさえ見えない。月の輪郭だけが、一面を覆う雲に滲んで存在を主張していた。
 晴れていれば夜を優しく照らしていただろう月も、今は虹色の光に囲われて、ぼんやりと空を彷徨っている。まるで自分のようだと肩を竦め、拳で顎を擦る。
 涎の跡がまだ残っているような気がして、どうにも落ち着かない。ここはいっそ、眠気覚ましの意味合いも込めて、冷水で顔を洗って来よう。
 そう決めて、綱吉は下ろした手で机の角を叩いた。
 時間帯の所為もあるだろうが、屋敷の中は静まり返っていた。ドアを潜り抜けると廊下の明かりは消えており、等間隔で並ぶ窓から射す弱い月明かりだけが頼みの綱だった。
 物音は、耳を澄ませて待っても聞こえてこない。己の心音、呼吸音、そんなものばかりが鼓膜を打ち、胸を撫でた。
「いいな」
 ベッドに潜り込んで夢の世界を楽しんでいる人々を思い浮かべ、綱吉はぽつり、呟いた。
 十年前に比べて、すっかり夜更かしになってしまった。もっとも学生時代も、あれこれ理由をつけては長い夜を楽しんでいたのだけれど。
 無意識に手が前に出て、横長の何かを握る形を作っていた。瞬きひとつで下を見た彼は、ゲーム機のコントローラーを持つ構えをとっている自分自身に苦笑して、肩を竦めた。
 もう随分と長い間、テレビゲームに触れていない。ちょっとした暇潰しに出来る携帯型のものでさえ、一ヶ月近く対面を果たしていなかった。
 今や彼の多忙ぶりは、近しい人間の中でも群を抜いていた。連日の会議に、勉強会に、出張も多い。遠方から訪ね来た人たちをもてなすためにもと、あれこれ走りまわされる毎日だ。
 生来の怠け癖は何処へ消えたのかと、昨今の己のスケジュールを振り返り、彼は自嘲を浮かべた。
「寝てやろうかな」
 仕事もなにもかも放り投げて、自分の好きなように、好きな事を、好きなだけ。それが出来たらどんなに楽かと想像して、後から山のように押し寄せてくる請求書その他諸々までもが脳裏を過ぎった。
 それでも恐らくは、これでも、まだ少しは楽をさせてもらっている方だ。最終的な決定権は、今も九代目が持ったままだから。
 その権限が完全に譲渡された時、沢田綱吉は真の意味でボンゴレを継承する。
 なんと重く、なんと大きい。
 自堕落な日々を送っても許されたのは、当時の綱吉がまだ子供だったからだ。十年前の無邪気でいられた自分を振り返って、彼は薄暗い廊下で立ち止まった。
「ふぁ、うー」
 それでも欠伸だけは止まらない。押しては引く波のように、捕まえようとしても指先からするりと抜けて行く睡魔に舌打ちして、寝癖が残る髪を掻き毟る。
 爪を立てるが、痛くない。眠さで感覚も麻痺しているらしい。
 ボンゴレを継ぐと決めたのは、自分の意志だ。守護者は自分で選べなかったけれど、自分の居場所は自分で決めた。
 後悔をしていないかと聞かれたら、答えに詰まるのは仕方がなかろう。こんなにも忙しい職業だとは思ってもいなかった。そもそも、マフィアのボスが日々何をして過ごしているかなど、日本にいた頃は想像すらしなかった。
 目下の綱吉の仕事内容は不動産経営が中心だが、それ以外にもテレビ局の株を大量に持っていたりもして、影響力はかなりのものだ。マフィア、イコール血生臭いイメージだったが、この国に来てその考えは随分と改められた。
 もっとも、そういう後ろ暗いイメージが完全に払拭されたわけではない。他マフィアとの権力争いは未だに頻発しているし、ボンゴレの寝首をかこうと企む輩もそれなりに多い。
 屋敷の中は流石に安全だが、外を自由に出歩けなくなったのは、思いの外堪えた。
「遊園地行きたい、動物園も。買い物したい、電気屋さん……新作出てるかなー」
 欠伸を噛み殺し、目尻を擦りながら足を前に繰り出す。日本で気ままな学生でいられた頃を懐かしく思いながら、綱吉は身体が覚えている道順に従って角を曲がった。
 緋色の毛氈が敷かれた階段が右手に現れたが、それはさながら奈落への入り口に見えた。
「…………」
 トイレに行くのに、階段を降りる必要はない。しかしつい目を向けてしまったがために、逸らせなくなってしまった。
 目的地は真っ直ぐ進んで、次の角を左だ。残すところあと少しのところまで来ていると、頭では分かっているのに身体は反応してくれなかった。
 足元にぽっかり開いた穴が、轟々と風を起こして綱吉を手招いている。此処に飛び込めば楽になれるかもしれない。右肩の悪魔の誘惑に心擽られ、彼は生唾を飲み込んだ。
 大人しかった心臓の音がドクドクと大きく耳朶を打ち、容積を肥大させて肉体を内側から圧迫しているのが分かる。闇を恐怖し、目に見えないものを恐れておきながら、それに強く心惹かれている自分に驚かされる。
 音を立てて再度唾を飲み、彼はふらり、そちらに半歩踏み出した。
 歩き慣れた屋敷の一角だ、何処に何があるのかはもう大まかに把握している。この先にあるのはただの階段で、十三段下ったところに狭い折り返しの踊り場があるのも熟知している。間違っても地獄への入り口も、天国に続くゲートも存在しない。
 だが、脳細胞が半分眠ったままだったからだろう。そういう考えすら、頭に浮かんでこなかった。
 気がつけば足は床に別れを告げて、綱吉の身体は斜めに伸びる階段の上で踊っていた。
 夢うつつでいられたのは、そこまでだった。
「うがっ、ぎゃ!」
 宙に投げ出された体躯は、数秒とせぬうちに重力に絡め取られ、地面に落ちた。いくら毛氈が敷かれているとはいえ、その下は数百年の歳月を耐えて来た固い石だ。薄手のクッション一枚では衝撃を防ぎきれず、綱吉の身体はぽーんと跳ね上げられて、そのまま勢い良く滑り落ちていった。
 ガガガ、と石段に肩と背中を削られて、息さえ出来ない。転がり落ちる最中で重い頭が下を向いて、踊り場に真っ先に到着を果たした。
「どお、っふ」
 激突の瞬間目から火花が散って、マット運動の後転を途中で止めた時のような体勢で停止した彼は、胸に着く膝と視界を覆う足首に悲痛な声をあげ、唇を噛んだ。
 身体中あちこち痛い。群を抜いて頭が痛い。勝手に滲み出た涙が頬を伝って、己の愚昧さに嗚咽が洩れた。
 何をしたかったのか、自分でももう良く分からない。夏の虫の如く、吸い寄せられて階段の暗がりに飛び込んでみたけれど、それだって理由は全くの不明だ。
 あの瞬間だけは、暗がりがとても快い場所に見えた。そう説明して、理解を示してくれる人はどれくらいいるだろう。
「う、ぅー」
 鼻をぐずらせて呻き、綱吉は涙目で天井を睨んだ。光が殆ど届かない場所なので、何も見えない。一面黒で塗り潰されており、奥行きさえも掴めなかった。
 何故こんな薄気味悪い闇に惹かれたのか。発作的な行動を悔いて、彼は足を階段に投げ出した。
 大の字になって寝転がり、呼吸を整えながら痛みをやり過ごす。肺の奥底に溜まっていた二酸化炭素を全部吐き出すと、不思議なことに、鬱々としたものまでもが一緒になって消えていった。
「俺、自殺願望なんてないと思ってたんだけどな」
 冷静に振り返ってみれば、傍目にはそう受け止められる行動だった。場所が階段だったからまだこの程度で済んだが、線路のホームに立っていたらと考えると、恐い。
 脳から命令を下せば、腕も足もちゃんと動いた。打撲であちこちが軋んでいるけれども、五体満足、無事だ。
 この程度で済んだのを喜びつつも、打ち所が悪ければ本当に昇天しかねないと肝に銘じる。同時に思ったのは。
「俺、まだ、生きてる」
 吸い込まれそうな闇を見詰め、彼は呟いた。
 死ねなかった、否、死ななかった。
 死なない運命にあった。
 まだ生きるよう、神様に足蹴にされてしまった。
「……くっ」
 そんな風に発想を飛躍させていくうちに、何がツボに入ったのかも分からぬまま、彼は声を立てて笑った。
 息を吸い、肋骨の痛みを堪えて盛大に吐き出す。深夜に響く笑い声を聞く人があれば、幽霊や怨霊と勘違いして、布団を被って震え上がっていそうだ。
 だがあまりやりすぎると、好奇心を刺激された獄寺辺りに襲撃を受けそうだ。この歳になってもまだオカルトや不思議現象をこよなく愛する彼は、怪奇現象も、恐いくせに興味が尽きないでいる。
 初めてこの屋敷を訪れた時の彼の感想が「何か出そう」だったのを不意に思い出して、綱吉は濡れた目尻を擦った。
 顔の前で手を広げ、握って、それを胸に置く。頭よりも高い位置にあった脚をずらし、踊り場を横切る格好で寝転がって、頭は壁際に。
 起き上がるのも、部屋に戻るのも、そもそもの目的であったトイレで顔を洗うのさえ億劫に思えて、彼は大きく伸びをした。
「んぁー……ダメだ、眠い」
 身体を横たえたのが悪かったのか、歩いている時よりもずっと強い睡魔に襲われて、彼は重くなった瞼を素直に閉ざした。こんなところで、と思うには思うのだが、誘惑に抗えない。
 こんなにも意志虚弱な自分だったかと笑いそうになって、彼は鼻を鳴らした。
 日が昇って誰かが階段を通った時に、踏まれなければいいのだけれど。そんな事を願いつつ、彼は光さえ見えない闇に落ちていった。

「……おい、起きろ」
 声がする。続けて、乱暴に脇腹を押された。
 肋骨から直接内臓に響いた衝撃に、息が詰まった。しかし瞼は縫い付けられてしまったのか、開かなかった。
「うぅ、んー……」
 唸って首を振っていると、もう一発、同じ場所に硬いものを叩き込まれた。形状から推測するに、恐らくは靴。足で蹴られたのだというのは、易々と想像できた。
 しかし何故、蹴られているのだろう。いくら屋内でも靴を履くのが当たり前の生活を送っているとはいえ、ベッドの中では流石に誰しも脱ぐだろうに。
 そこまで考えて、そのベッドの居心地が非常に宜しく無い事に気がついた。
「ぬ、うー?」
「ダメツナ、何処で寝てやがる」
 聞き慣れた声に急かされて、渋々顔を擦って右の瞼だけを薄く持ち上げる。しかし半分以上閉ざされた視界では、この失礼な足の持ち主の姿を見るのは叶わなかった。
 ただ誰なのかは、じきに思いだされた。
「やー……だ」
「チッ」
 駄々を捏ねて告げ、そっぽを向く格好で背中を丸める。寝返りを打つと、毛氈の硬い毛足が頬に刺さった。
 鼻の穴にももぐりこんで来られて、擽られてくしゃみが出た。唾を飛ばした彼に驚いて退いた男は、頭に被せていた鍔広の帽子を軽く持ち上げると、呆れ顔で舌打ちした。
 肩を竦め、先ほどよりは若干丁寧に、それでも足で綱吉を叩く。嫌がった彼は余計に身を縮め、階段の踊り場でイモムシのように丸くなった。
 堅い守りを得て、安堵の表情で頬が緩んでいる。だらしない顔と姿を見下ろし、リボーンは試しに細い足首を踏んでみた。
「いっ……むにゃ」
 最初は痛がったが、力を緩めるとまるで効果が無い。馬鹿みたいな顔をして涎を垂らしている次期ボンゴレ党首の、あまりにも情けない姿に言葉も出てこない。
 このまま放っておいてやろうかと考えたリボーンだが、流石に人に見られるのは憚られた。
 曲りなりにも、綱吉はボンゴレ十代目だ。そんな人物が屋敷の廊下で寝入っていたなど、笑い話にもならない。
 腕時計をちらりと見れば、日の出まであと二十分といったところだ。外は暗く、聞こえるのは梟の声くらいだ。
 屋敷の人間も、もう間もなく活動を開始するだろう。既に一部の、気の早いコック達が朝食の支度に取り掛かっていた。
「ったく」
 広大すぎる敷地の各所に思いを馳せ、瞬時に足元に注意を引き戻した彼は、忌々しげに舌打ちをして、硬い靴底で寝転がっている青年の肩を叩いた。
 踏んだ、という表現も出来る行動に、綱吉は目を閉じたまま手を振った。払い除けられて、リボーンは片足立ちのまま足首から先をぶらぶらさせた。
「ツナ」
「もーちょっと……」
 トーンを落として凄んでみせるが、効果は乏しい。それどころか、積み重ねてきた筈の十年間を帳消しにするような、あどけない子供じみた表情をして、甘えた声で強請られた。
 もし此処が日本の並盛町の、沢田邸の二階にある彼の部屋のベッドの上だったならば、うっかり許してしまいそうだ。
 だが現実は厳しく、此処はイタリアの、シチリアの、ボンゴレ十代目に与えられた居城の一画だ。一介の平凡な中学生でしかなかった沢田綱吉は、今や世界を股に掛ける超巨大組織の頂点に最も近い場所にいる。
 当時の彼から考えると、この結果はリボーンの予想をはるかに超越していた。何をやってもダメダメのダメツナと呼ばれていた少年が、この頃はすっかりボスとしての顔も板についてきた。
 だというのに、このだらしない姿は、なんだろう。
 昔を髣髴とさせるだらしなさに肩を竦め、リボーンは仕方なく膝を折り、その場に屈んだ。
 今度はちゃんと手で肩を掴んで左右に揺するが、綱吉は渋るばかりで、起き上がろうとしない。それどころか一度は目覚めておきながら、再び夢の世界に旅立とうとしていた。
 寝汚いところは、今も昔も大差ない。落胆の表情を浮かべ、リボーンは手の甲で紅色の頬をぺちぺちと叩いた。
 最後の撫でるように動かせば、薄く開いていた唇がむずがって引き結ばれた。
「ツナ」
「やー……」
 二十歳を過ぎているくせに、この態度はいただけない。ただ彼がやると、妙にしっくり来るから困る。
 どれだけ背が伸びようとも、童顔ぶりは変わらない。閉ざされている瞼が開かれて、大粒の琥珀の瞳が露わになると、余計だ。
 叩き落された手を戻し、リボーンは広げた膝の間にそれを垂らした。ボルサリーノの影から寝入っている青年の全身を舐めるように見詰めて、しばし考え込む。
 再度伸ばされた手が柔らかな太腿に触れて、流石の綱吉もこれにはビクッと反応した。
「ひゃっ」
「部屋で待ちきれなかったのか?」
「ちょっ、……なんの話?」
 瞬時に眠気を吹き飛ばした綱吉が、悪戯な手を押し留めて眉を顰めた。
 怪訝にされたリボーンも若干気の抜けた顔をして、きょとんと目を丸くした。僅かに口を尖らせて偏屈な表情を作り、戻した手で口元を覆い隠す。
 真剣に考え込んでいる彼を前に、綱吉は同じ体勢で居続けるのを拒み、寝返りを打った。
「いてっ」
 目測を誤り、壁に頭をぶつけてひとり唸る。
「電話したろう」
「……いつ?」
 涙目で後頭部を撫でた彼にリボーンが言うが、綱吉は顰め面を崩さずに首を傾げた。変な場所で、変なポーズのまま長時間横になっていたのが災いして、身体の節々が痛い。関節を動かすと嫌な音が響いて、各所から電流が走った。
 頬を引き攣らせつつも欠伸を零した彼に呆れ顔を向け、リボーンは昨晩の記憶を脳裏に蘇らせた。
 最終的に彼の口から出て来たのは、重苦しい溜息ひとつだった。
「確かに、あン時から可笑しかったな」
 電話越しでは、顔が見えない。きちんと受け答えできていたので深く気にも留めなかったが、確かにちょっとばかり舌足らずな喋り方をしていた。
 思い当たる節に行き当たり、肩を落としたリボーンに綱吉が首を捻る。ゴキッ、と小気味良い音が大きく響いた。
「いっ、つぁ」
「じゃあなんで、お前はこんなところで寝てたんだ」
「……俺が聞きたい」
 質問に答えられるだけの記憶を持ち合わせていない綱吉は、まだ痛む頭を優しく撫でさすりながら鼻を膨らませた。
 夕食後も終わらない仕事に明け暮れて、気がついたら夜中で、仕事は全然終わらなくて。眠かったので顔を洗いに部屋を出たのまでは覚えているけれど、そこから先がどうにも不明瞭だ。
 随分と馬鹿な事をしたような気がするが、その辺りは薄い靄が掛かっていて非常に曖昧だった。
 踊り場の片隅でしゃがみ込んだ彼を正面から見据え、リボーンは鼻の頭を掻いて先に立ち上がった。
「良いから、さっさと起きやがれ。それとも、手伝って欲しいのか?」
 皺くちゃのスーツ姿の彼を睥睨し、意地悪く口角を歪めて囁く。不遜な態度を見せ付けられて、綱吉は反射的にムッとした。
 機嫌を損ねた彼を嘲笑い、調子に乗ったリボーンは腕を組んで偉そうに踏ん反り返った。
「眠気覚ましのシャワーと、着替えくらいなら手伝ってやらなくもないぜ」
「なんなんだよ、もー。久しぶりに会ったってのに、変なこと言うなって……あ、あ、いや。うん。手伝って、ください。是非に」
「ツナ?」
 意味深な台詞を囁かれ、咄嗟に赤くなって怒鳴った綱吉だったが、最後まで言わずに途中で言葉を訂正した。
 頬は依然赤いが、眇められた琥珀はリボーン以上に意味深な彩を浮かべていた。
 脳裏を過ぎった嫌な未来が覆せるのならば、多少のセクハラくらい許せそうな気がした。考えを改めて頷いた綱吉に、黒一色の中で黄色いネクタイが際立つ男は眉を寄せた。
 両手をポケットに押し込み、彼が壁を頼りによろよろ立ち上がるのをじっと待つ。
 並んだ時、視線の高さが逆転するようになったのは、いつだったか。少し悔しく思いながら、綱吉は力が抜けた膝を支えるべく、壁に寄りかかった。
 見上げる先に佇む男が、不敵に笑んだ。
「抱えていってやろうか」
「それも、許す」
「代償は?」
「書類の発掘と、完成と、あと出来たら会議まで付き合って」
 いつもなら嫌がるのに、今日は妙に承諾が早い。訝しんで訊ねれば案の定で、面倒臭い取引を持ちかけられたリボーンは大仰に肩を竦めた。
 呆れ混じりの彼に目を吊り上げ、綱吉は壁に張り付いたままそっぽを向いた。
「嫌なら、獄寺君にでも頼むから、いいよ」
 十年経っても相変わらず綱吉にべったりで、念願の右腕の座を得た後はそれ以上を目指して日々精進している男を話題に出せば、リボーンの目つきがひっそりと尖った。
 素っ気無く言いつつも本気ではない綱吉の含み笑いに腹を立て、彼は渋々腕を解き、伸ばした。
「うわっ」
 腕を絡め取られ、尻を撫でられたかと思えば、あっという間に体勢を作りかえられていた。
 横向きに、俗に言うお姫様抱っこをされてしまって、軽々持ち上げられた綱吉は、男としての尊厳を幾許か傷つけられたのに拗ね、頬を膨らませた。
 不満げにしている彼を笑い、リボーンは肩を揺らした。
「俺様を顎で使おうなんざ、百年早い」
「使ってないって。ギブアンドテイク、公平な取引だろ」
 足をバタつかせ、綱吉が反論する。握り拳も振り回されて、リボーンは階段の段差の前で足を止めた。
 無言で睨みつけられた綱吉は、落とされる恐怖に竦んで瞬時に大人しくなった。
「公平ねえ……」
「足りないって言うのかよ」
「いいや?」
 提案の内容を振り返り、綱吉が声を潜ませ言う。不満と不安が半々の彼に目配せし、リボーンは意地の悪い笑みを浮かべた。
 年齢の割に軽すぎる彼を抱え直し、上階を目指してゆっくりと歩き出す。
「与えられてばっかりは性に合わないからな」
「リボーン?」
 馬ではないのだ。目の前に吊るされた人参に猛進するだけなんて、つまらない。
 欲しいものを手に入れるのに、一番満足度が高い手段は、何か。
 薄ら寒いものを覚えた綱吉が身を縮こませる中、彼は最後の一段を上り終え、晴れ晴れとした顔で口を開いた。
「足りない分は、じっくり奪い取らせてもらう事にするさ」
 不敵に告げた彼に一瞬絶句して、綱吉は直ぐに顔を綻ばせた。
「出来るものなら、ね」

2010/08/20 脱稿