独知

 第一印象は、どこかで会った事があるかもしれない、だった。
 ただ、「会った」というのは語弊があろう。正確には、「どこかですれ違っていたかもしれない」という、その程度の認識だ。
 詰まるところ、彼はどこにでもいそうな――否、これは少し違う。どこかに存在していても可笑しくないような、そんな人間だと思った。
 髪を整え、スーツを身に纏えば、一丁前のビジネスマンに変身できるはずだ。今は顔に大きな傷跡が残り、髪も無造作に束ねられているだけで、まとまりが無い。一部分だけ短いのは、ザンザスの一撃を至近距離から食らった余波で焦げたからだと聞いている。
 顔の傷も、あの男の仕業だ。
 首から上が丸ごと吹っ飛ぶ寸前だったのを、ルッスーリアが晴れの活性の炎で辛うじて繋ぎとめた命だ。当時の状況を聞かされた時は、随分と荒っぽいと思うと同時に、ザンザスがよくその程度で済ませたと感心してしまった。
 良くも悪くも、彼もまた年齢を重ねたという事だろう。荒くれ者揃いのヴァリアーを纏め上げるには、彼くらいの強権ぶりが必要なのかもしれない。
 翻って自分はどうかと物思いに耽りそうになって、沢田綱吉は同行者に促され、牢の前へと足を伸ばした。
 牢、とはいっても格別これといった設備はない。簡単に逃れられないようドアは厳重に施錠されて、ベッドから伸びた鎖が囚人の右足に繋がっている以外、当事者に危害を及ぼすものは何もなかった。
 病院の一室と見紛うその部屋は、並盛町の地下に、秘密裏に設けられたボンゴレ十代目の私設アジトの一部だ。無事だった医療設備を掻き集めて再生治療を施された男は、しかし生きる屍にでもなったかのように、あらゆることに無関心だった。
 長く眠りに就いていた間は、チューブから供給される栄養剤が、辛うじてか細い命を繋ぎとめていた。意識を取り戻した後もそれが継続されているのは、当人が固形物を摂取しようとしたがらないからだ。
 仕方なく点滴による栄養素の補給が続けられたが、その管も自らの意志で引き抜こうとする。痺れを切らした医療スタッフは、ついに先日、拘束具の使用許可を求めて来た。
 あれを見ると、どうしても六道骸の姿が思い浮かぶ。復讐者の牢獄に十年間繋がれていたあの男は、今回のどさくさに紛れて脱獄を果たし、行方をくらませていた。
 ヴァリアーのメンバーだったフランという名の術師も、骸たちと一緒に消えてしまった。やる気は兎も角として、有能な術者だったのには違いなく、彼以上の人材は今しばらくは育ちそうにない。
 代わりにアルコバレーノのバイパー、もといマーモンが戻って来たので、どうにか術者の椅子は空席にならずに済んでいるが。
「十代目」
「うん」
 ドアが開かれ、綱吉は室内に入った。照明は最低限に絞られているので暗く、それが余計に空気を重苦しいものにしていた。
 カツン、という硬い足音に反応して、ベッドに腰掛けていた男がゆっくりと顔を上げた。廊下側に設けられていた窓越しに見た時よりも、ずっと頬がこけており、やつれていた。
 ヴァリアーの戦闘記録に残っていた映像にあった人物とは、似ても似つかない。同一人物なのは間違いないのだが、人は短期間で此処まで変わってしまえるものなのかと、奇妙な感慨を抱かされた。
 傷の所為もあるが、実際の年齢よりもずっと老けて見えた。還暦を過ぎた老人と言われても、納得できそうだ。
 ケロイド状の皮膚が引き攣って、折角の綺麗に整った容姿を台無しにしていた。右目の周囲は落ち窪み、眼球が飛び出しているようにも見える。太い血管が浮き上がり、皮膚の下でドクドク言っているのが聞こえるようだった。
「コイツが」
 獄寺が呻くように呟き、綱吉をその場に残して前に出た。男の視線が彼に移り、何かを探ろうとして眼が蠢いた。
 錆び付いた記憶のひとつひとつを掘り返しているのだろう。男ばかりが四人も入って来た時ですら無反応だったのだが、相手が誰であるかを認識した途端、消え失せていた生命力めいたものが蘇ったのが分かった。
「……!」
 なにかを叫んだ。しかし、声にはならない。舌を噛むからと、猿轡がされているのだ。
「外してあげてくれるかな」
「しかし、十代目」
「話をしに来たのに」
 綱吉が言いたい事を瞬時に悟り、ベッドと彼との間に立っていた獄寺は渋々頷いた。
 嵌め込み式の窓の向こうでは、部屋に入りきらなかった人々が、総じて不安げな眼差しをしていた。マイクが拾った声は、外のスピーカーを通して伝えられる。綱吉の今の言葉も、もれなく彼らの耳に届いただろう。
 白い白衣を纏った医療スタッフのリーダーが、一番顔が青白い。この部屋に半ば軟禁状態に置かれている男の扱い辛さを、最も熟知している故だ。
 まだ面会させるには早いと繰り返し言われていたが、このままでは永遠に話し合う機会を持てずに終わりそうだった。それに、本部からの命令も、いつまでも無視できない。
 大空のアルコバレーノ、ユニの犠牲により、白蘭に捻じ曲げられた多くの運命は正しい道程に戻った。血塗られた歴史は消え失せて、人々の未来を食らう脅威は去った。そのお陰か、今回ばかりは復讐者の出番もなかった。
 戦いの痕跡は消失したが、記憶は大勢の中に刻まれたままだ。
 何が起き、何が成され、何が残ったか。ユニの炎を通して伝播した情報だけでは物足りないと感じる強欲な連中は存外に多く、生き証人のひとりであるこの男を移送するよう急かす声は、日増しに高まっていた。
 白蘭の側近中の側近にして、あの男に忠誠を誓っていた男。
 桔梗。
「外します」
「うん、お願い」
 苦々しい面持ちで獄寺が告げて、綱吉は鷹揚に頷いた。戸口に立っていた男がひとり前に進み出て、綱吉の左側に立つ。もうひとり、白い髪の男が静かにベッドに歩み寄って、獄寺の手助けをすべく腕を伸ばした。
「頼む」
「分かった」
 桔梗は、自ら身体を動かすのを拒んだ。仕方なく了平の助力を受け、無理矢理向きを変えさせた獄寺が、轡の留め金を外そうと男に顔を近づけた。
 愛刀を肩から外して左手に握った山本が、いつでも動けるように四肢の力を抜いて佇む。
「クハッ」
 獄寺の指が止め具を外した途端、桔梗は大きくかぶりを振り、濁った空気を大量に吸い込んで奥歯に力をこめた。
「いかん!」
 何かを察した了平がすかさず手を伸ばし、桔梗の顎を掴んだ。口に指を入れて強引に割り広げ、金にも見える黄色い炎を全開にする。
 突如湧き起こった眩い炎に、しかし誰もさほど驚きはしなかった。手馴れた感のある了平の動きを見れば、桔梗が何をしたのかは大体分かる。それに炎云々の話題は、彼らにとって今更だ。
 晴れの炎は、活性の炎。細胞組織に働きかけて、高速で傷を癒す。
 大量の炎を送り込まれた桔梗は苦しげに、そして悔しげに顔を歪め、了平を追い払おうと身体を左右に揺さぶった。
 だがそれも、すぐに収まった。後ろから獄寺に押さえ込まれて、ただでさえ拘束具で腕の自由が利かない彼は、呆気なく身動きを封じられた。
 ベッドの上でのひと悶着を淡々と見詰め、綱吉は了平が腕を引くのに合わせて、一歩、前に出た。
 カツン、と音が高く響いた。
 炎を弱めた了平が腕を引き、離れた。天井を仰いだままだった桔梗の身体が大きく揺れて、獄寺の手元から滑り落ちた。
「初めまして、でいいのかな」
 頭の中で何度か、この瞬間をシミュレートした。生真面目に振舞うのがいいのか、それとも若干おどけて空気を和らげるべきか。だが結局、あまり面白くも無い態度しか取れなかった。
 膝を折った綱吉は、仰け反るようにしてベッドから落ちて床に蹲った男の前に屈んだ。胸に手を添えて、静かに微笑む。
 特別な感情を挟まない、ある意味無表情にも映る笑顔を前に、桔梗は大きく顔を歪め、唾を吐いた。
「てめっ」
「いい」
 失礼極まりない彼を怒鳴り、獄寺が後ろから圧し掛かって潰す。綱吉は差し出されたハンカチも使わずに袖で頬を拭い、笑みを消して前を向いた。
 引き結ばれた唇が確固たる意志を示す。膨れ上がった圧倒的な存在感に、桔梗は呆然となった。
「貴方にとっては初めてではないかもしれない。だけれど、初めまして。俺がボンゴレ十代目、沢田綱吉です」
 濡れた袖を裏に隠し、折り畳んだ膝に両手を並べた青年が静かに名乗りを上げた。
 東洋人は、実年齢よりもずっと幼い見た目をしている場合が多い。桔梗の前で屈んでいる人物もまた、その条件にぴったりと当てはまった。
 記憶の中に在る少年よりは幾らか成長を遂げ、大人びた風貌を得てはいるものの、西洋人のそれには遠く及ばない。まだ十代後半と言っても充分通じるはずだ。
 ハイスクールに通う学生に紛れていても、誰も違和感を覚えないだろう。桔梗が食い入るように見詰めてくるので、彼は少しだけ照れ臭そうにして、困った顔をして頬を掻いた。
 その仕草ひとつにしても、二十台半ばには思えない。白蘭から与えられた資料にあった、十四歳の少年の兄、と言われれば、すんなり受け入れてしまいそうだ。
 あの少年本人だという感覚は、奇妙なことにまるで持てなかった。
 成長後の姿も写真で見ていたはずなのに、矢張り先に目にした存在の印象が強く出るらしい。脳が認識する微妙なズレに戸惑いを覚えていると、沈黙を嫌った綱吉が手を下ろし、膝に戻した。
 獄寺に目で合図を送り、立ち上がる。両脇に控える男ふたりに引きずられる格好で、桔梗もまたベッドに戻された。
 長く横になる生活を送って来たために、情けないが足腰が弱っていた。自力で立ち上がるのも、立ったままでいるのも、この状況下では難しかった。
 座らされて、ホッとしたのが顔に出た。眉間に寄った皺を即座に解いて、彼は険のある眼を眼前に投げた。
 静かに受け止めた綱吉は、警戒感と敵愾心を隠そうとしない獄寺に首を振り、少し距離を取るように指示を出した。
「しかし、十代目」
「大丈夫。彼にはもう、闘う力はないよ」
 確認を込めて告げた綱吉に、桔梗は肩を跳ね上げた。
 驚愕、或いは嫉妬。絶望の彩もアイオライトの瞳から読み取れて、綱吉は言葉の選択を誤ったかと、ひとり後悔した。
 だが、事実だ。白蘭は斃され、彼がパラレルワールドを巻き込んで起こした騒乱は、全て平定された。ミルフィオーレファミリーの蛮行によって命を失った人々も、あの組織自体がなかったものとされた為に蘇り、現在は日々を平穏無事に過ごしている。
 失われたトリニセッテも復活して、世界は穏やかな日常を取り戻した。残されたのは戦いの記憶、そして。
 置き去りにされた、哀れな男。
「随分と失礼な事を言ってくれる」
 憐憫の目を向けられるのを厭い、桔梗は奥歯を噛み締めて呻くように言った。了平によって無理矢理治療された舌がまだ痛んだが、屈強な精神力だけを頼りに克服して、眼力を強める。
 綱吉の表情は、なにも変わらなかった。
「たとえ白蘭様がおられずとも、私は、貴様達に屈したりはしない」
「黙れ」
 口を大きく開くたびに顔の傷が疼き、まだ復元途中の皮膚が引き攣る。窓の向こうで見ていた医療スタッフが、顔面蒼白になって膝を折った。壁に沿ってずるずると身を沈めて、部屋の中から見えなくなる。
 禿げ頭がひとつ消えたのを視界の端に見て、獄寺は桔梗の肩を肘で押した。鎖骨を上から圧迫して、痛みで発言を押し留めようとする。
 だが彼は構わず、身体を大きく揺さぶって獄寺を追い払った。
「さっさと殺すが良い。白蘭様のおられぬ世界など、私には何の価値もない!」
 両腕を束縛されているが故に、彼の動きは制限されていた。しかし綱吉の目には、彼が己の胸を叩き、血反吐を吐く姿が映っていた。
 これがあの男に心酔し、彼と共に生きるのを望んだ男の末路だ。桔梗にとっては白蘭こそが神であり、生きるよすがであり、全てだ。あの男がこの世より消滅した今、彼は道を失った迷子に等しかった。
 だがそういう思いを抱かれることさえ、桔梗は屈辱と感じているらしい。無表情を貫く綱吉を憎々しげに睨みつけて、間に割り込んだ山本にも同様の視線を投げた。
 殺せ、ともう一度叫ばれて、背の高い青年は肩越しに振り返った。
「ツナ」
 十年来変わらない愛称で呼ばれて、綱吉は久方ぶりに口元に表情らしいものを浮かべた。笑みと決意、両方が宿った複雑な形状を作り上げて、山本を押し退けて前に出る。
 今近付けば、死を望む男に喉仏を噛み千切られそうだ。手負いの獣を想像して、綱吉はぎりぎり届かない距離を目測で算出し、足を止めた。
 獄寺と了平も、注意深く様子を見守っている。いつでも飛びだせるよう、山本も構えを取った。
 綱吉は静かに桔梗を見下ろし、目を閉じて首を振った。
「残念ながら、貴方の望みを叶えて差し上げるわけにはいきません」
 抑揚なく告げられても、桔梗は驚かなかった。
 ボンゴレ十代目が民間出身で、九代目の意志を継いだ平和主義者だというのは有名な話だった。
 それだけなら超穏健派に聞こえるが、彼はある意味超武闘派だった。基本的に争いは好まないものの、ひとたび周囲に戦いの気配が生じた途端、これを排除し、一網打尽にしてしまう、と。
 自ら打って出る真似はしないが、単純な守り一辺倒ではない。時に強いが、時にとても弱い。ボンゴレ十代目たる青年の評価は実に両極端で、意味不明なものが多かった。
 何故そんな曖昧模糊とした判定しか出ないのか。桔梗は長く、調べ方が甘く、情報が足りないからだと思っていた。
 だが違う。白蘭との最終決戦に臨んだあの少年を見た時から漠然と感じていた思いが、確信に切り替わった。
「貴様は」
 沢田綱吉の強さは、白蘭の絶対的な揺ぎ無い強さとは正反対だ。彼の足元は、非常に危うい。常に揺れ動き、定まらず、不安定なのだ。
 その不安定さが固まるのが、味方や仲間に危機が迫った時。その場合にのみ、彼はどんな盾をも貫く槍と化すのだ。
 唇を噛み、言葉を呑んだ桔梗に目尻を下げて、綱吉は右の掌を彼に差し出した。
「貴方の命を奪う権限を、俺達は持ち合わせていません」
 白蘭の愚行は綺麗さっぱり消え失せた。ミルフィオーレファミリー自体が存在しなかった事とされてしまったので、そこに籍を置いていた桔梗の立場は、今やただの一般市民に等しい。
 彼が犯した罪もまた、白蘭に関わった一部の人間の記憶に留まるのみ。
 裁くための罪が何処にも無いのだ。だから、裁けない。ただイタリアのボンゴレ本部は、彼から話を聞きたがっている。ヴァリアーならば、幾らでも罪を捏造できるだろう。
 綱吉が苦笑した。怪訝な目をして、桔梗は顔を歪ませた。
「……でも、そうなんですよね。困りました。反省はしていないようだし」
「愚かな事を」
「十代目をそれ以上愚弄すると、許さねえぞ!」
 頬に右手を添えた彼を嘲笑えば、すかさず斜め後ろから獄寺の鋭い声が飛んだ。許しを得れば、今すぐ、この場で処断を下すのも厭わない。そういう目をしている彼を振り返り、桔梗は挑発の意図を込めて鼻で笑った。
「ハハン。許さなければどうするのです」
「てンめー!」
「獄寺君」
 喉を鳴らした桔梗の言葉に、頭に血が登り易い獄寺が拳を震わせた。すかさず綱吉が間に割り込んで、彼はハッとして気まずげにそっぽを向いた。
 血気盛んなのは良い事だが、それは冷静さが合わさってこその美点だ。十年間でその辺りは鍛えられたはずなのだが、と肩を竦め、綱吉は薄茶色の髪をくしゃりと掻き回した。
 視線を感じて前を向けば、了平が時計を気にしていた。
「……うん」
 あまり時間は残っていない。遊んでいる暇は無いと思い出して、綱吉は咳払いで場を誤魔化した。
 獄寺の舌打ちを間近で聞いて、桔梗は子供じみた動きでスーツの皺を叩いて伸ばす青年に首を傾げた。
「えっと。今から、貴方を移送します」
「移送?」
「はい。本当はもっと時間をかけて、貴方の傷が完全に癒えてからのつもりだったんですが。そうも言っていられない事情が出来たので」
 本国からの督促は日増しに増えて、最終的にこちらから引き取りに出向く、という通信で終わってしまった。ヴァリアーのボスは辛抱が足りない。顔を思い浮かべ、綱吉は胸の前で両手の指を小突き合わせた。
 早口に捲くし立てられた桔梗は、発言の意図を探ろうと眉を寄せ、口を閉ざした。
 半眼し、素早く思考を巡らせる。
 処刑場に連れて行く、という趣旨は読み取れなかった。綱吉自ら、つい今し方その意思はないと表明している。民間人を裁く権限は自分には無いと、実に馬鹿正直に。
 ならば何処へ行くのか。雰囲気的に、治療施設を変えるわけでもなさそうだ。
 慌しく頭を働かせ、様々な可能性を弾き出してその結果までを順に思い浮かべていく。有り得ないと真っ先に否定されたのが、このまま無罪放免で解放される、という選択肢だった。
 白蘭を崇拝する心を根強く残している桔梗を、危険人物として認定しているからこそ、ボンゴレ十代目は地下深くに建設されたアジトの一画で、彼を軟禁状態に置いていたのだ。治療の為、命を守る為という名目で拘束具を装着させて、閉じ込めてきた。
 罪自体が消え失せているとはいえ、人類を敵に回し、皆殺しにするのも厭わなかった彼の思想は、危うい。故に綱吉が下した決断が、他者との接触を極力回避させて、人々の視線から彼の存在を隠すことだった。
 活かさず、殺さず。だが外界から切り離されたこの状況は、桔梗からすれば存在の死に等しい。
「ハハン。復讐者の牢獄とやらにでも、放り込むつもりですか」
 ゴーストを捕らえていた、脱獄不可能と言われていた牢獄の名を口に出すものの、綱吉は反応を見せなかった。少しだけ首を右に倒し、苦笑とも取れる曖昧な表情を浮かべて、山本に向かって左手を伸ばした。
 人差し指をくるりと回して、何かの合図を送る。途端にドアが開き、ドタドタと慌しい足音を響かせたスーツ姿の男が数名、入って来た。
 獄寺と了平がサッと左右に離れて、入れ替わりに彼らが桔梗の肩を掴んだ。無理矢理ベッドから立たされて、短期間で骨と皮ばかりになってしまった脆弱な足をも掴まれた。
 担ぎ上げられて、桔梗は初めて動揺を見せた。
「何をするつもりです」
「移送だって言いませんでした?」
 声を荒げた彼に、綱吉がさらりと言った。にこやかな笑顔を浮かべ、右手を肩の位置でひらひらと揺らしながら。
 顔色を悪くした桔梗は、抗おうと身を捩った。しかし拘束具が解かれていない為に、思うようにいかない。そうしているうちに黒い布を顔に当てられ、視覚を封じられた。
 これまで、暗闇を恐いなど一度として思ったことはなかった。だのにこの、何をされるか分からない状況に混乱していた桔梗は、初めて綱吉が抱え込む底が知れない闇に恐怖した。
 白蘭と沢田綱吉は似ている。昔、誰かがそう評していたのが、この瞬間、不意に思い出された。

 連れていかれたのは、一軒の小屋だった。
 丸太を切って積み上げただけの、簡素なログハウスだ。ドアがひとつ、窓がふたつ。キッチンもリビングも、ベッドルームも全てひとつの部屋に収まっている。収納などという上等なものは、ない。
 冷房はなく、あるのは粗末な暖炉がひとつだけだ。
 目隠しをして運ばれて、到着直前になってようやく外されたので、此処が地球上でどの辺りに当たり、どういう気候風土なのかはさっぱり分からない。風は湿っており、磯の香りがした。
 生憎の曇り空で、今にも雨が降り出しそうだ。風は南西の方角から吹いており、防砂林の緑が重苦しく地面に這い蹲っているのが見えた。
 砂浜は長く、水平線が一望できる。小屋の周囲には小さな畑があって、獣避けのつもりなのか、申し訳程度の柵が大地を囲っていた。近くで枝を伸ばしているのは、オリーブの木だろうか。
 そこは、海に面した崖の上だった。岬、と言った方が適しているかもしれない。切り立った崖の先端は波に侵食されており、遠目から見た感じ、いつ崩れても可笑しくなかった。
 小屋があるのはその手前だ。岬の最果てには古びた灯台が、明日にでも自壊してしまいそうな風合いを醸し出して佇んでいた。
「今日から、此処が貴方の仕事場です」
「仕事……?」
「はい。あの灯台の火を、毎夜欠かさずに焚き続けることが」
 黒塗りの車から下ろされ、両手は拘束されたまま、弱々しい足取りで前に進み出る。先に到着していた青年が振り返って、桔梗に優しく微笑んだ。
 海手から間断なく吹き付ける風を受けて、跳ね放題の髪の毛がバサバサと揺れていた。時々目に入るのが嫌なのだろう、焦れて両手を頭にやった彼の傍らには、ボンゴレアジトの医療施設には居なかった人物が控えていた。
 彼も黒髪を風に弄られていたが、頭髪自体が短いのであまり苦ではないらしい。涼しげな顔をして、まるで値踏みするように桔梗を上から下まで眺めていた。
 切れ長の瞳には隙がなく、いつでも襲いかかれると言わんばかりのふてぶてしさを醸し出していた。
 示された古ぼけた灯台と、丸太小屋と。それ以外、周囲に目ぼしい建物は見当たらなかった。
 道は小屋の随分手前で終わっていて、そこから先は芒が生い茂る草原だった。
「春になれば、花が咲きます。余裕があればそちらの手入れも。観光地ではないけれど、旅人が立ち寄ることもあるでしょう」
 風を受けて同じ方向に首を倒しているススキを撫で、沢田綱吉は言った。一本引き千切って、顔の前で揺らす。玩具を与えられた子供のように無邪気に笑う姿は、浮世離れしていた。
 絶句する桔梗を他所に、彼はくるりと反転してスーツの裾を翻した。
 処刑台にでも連れて行かれるものとばかり思っていた。或いは、自死すら選べない永遠の監獄か。ヴァリアーに引き取られ、数多の、身に覚えにすらない罪状を突きつけられて殺される可能性も高いと、そんな事ばかり考えていたのに。
 まるで予想もしていなかった状況に唖然とし、桔梗は傷が痛むのも忘れてあんぐり口を開いた。
 ようやく再生したばかりの皮膚を引き攣らせている彼に肩を竦め、黒髪の青年も踵を返した。
 先頭を行く沢田綱吉を追いかけて、ゆっくりと歩いて行く。ズボンのポケットに無造作に両手を入れて、胸を張って堂々と歩く姿に、桔梗は昔読んだ資料の写真を思い出した。
 あれは沢田綱吉の守護者の一人だ。白蘭と共に在ったときに、湖畔であれに似た面持ちの少年を相手にした。
 その際に食い破ったのは幻覚だったが、あの少年が成長したのが、彼だろう。面影は残っているものの、沢田綱吉ほどではない。髪型が異なる影響が、思いの外大きいようだ。
「……ハハン」
 低く笑い、桔梗は手錠に繋がったロープを引っ張られ、仕方なく足を前に繰り出した。
 短期間ですっかり足腰が弱ってしまって、少しの運動でも息が切れる。呼吸する度に顔面が引き攣って、痛みが生じた。
 ロープを掴む男は時折桔梗の様子を窺って足を止め、都度ペースを調整していた。そういう無駄に優しい気遣いが苦痛で、不愉快だった。
 重い足取りを引きずるようにして進むので、歩みは牛のそれに近かった。先を行くふたりから大幅に遅れて、小屋の前に到着する。待ち草臥れた様子の男の肩では、黄色い羽の小鳥が翼を休めていた。
 マフィアだのなんだのいう、血生臭い世界から見れば、随分とのんびりした光景だ。あまりの二泡無さに喉の奥で笑みを噛み殺していたら、小屋のドアを開けて中から沢田綱吉が顔を出した。
「どうぞ」
 手招かれ、ロープも引っ張られたが、桔梗は動かなかった。綱吉は苦笑し、内部の設備を大雑把に説明した上で、小屋の向こうを指差した。
 灯台。白かっただろう壁は色褪せて、鼠色をしていた。
 外壁に沿う格好で螺旋階段が敷かれているが、手摺りのペンキは剥げてボロボロだった。海風にやられて鉄サビの進行が激しい。あまり人が乗りすぎると、ぽっきり折れてしまうだろう。
 旧時代の遺物を見上げ、桔梗は虚ろな目を右に投げた。
 なにか、違和感を覚えた。
「……」
 見覚えのある、とても馴染みのある形状を灯台の傍らに見出して、目を見開く。彼が何を見ているのかに気付いた綱吉は、吹き抜ける風から瞳を守り、背中を向けた。
 小鳥を相手にしていた青年が、随伴していた男からロープを引き受け、ポケットから鍵を取り出した。
 軽く引っ張られた桔梗が、左にふらついた。バランスを取ろうとした身体が、両腕の自由を求めて足掻く。
「っ」
 その隙を突いて青年が動いた。
 それまで桔梗を束縛していた手錠が外れて、結ばれていたロープごと地面に落ちた。カシャン、とあまり良い音を響かせなかったそれを下に見て、桔梗は唖然と、目の前で薄く笑っている男を見た。
 表情からは、感情がなにひとつ読み取れなかった。
「食糧は週に一度、まとめて配達させます。生活に必要なものはある程度揃えていますが、足りなければ配達人に伝えてください。灯台の仕組みや管理方法は、小屋の中に資料があります。目を通しておいてください。あと、監視カメラ、あります。貴方の足のそれも」
 四六時中監視の目が入るのを隠すつもりはない。丁寧に説明した綱吉は、雲の守護者から小鳥を引き取り、両手に乗せた。
 言われて気付いた桔梗は、右足を引いた。ボンゴレのアジトを出る前から足首に巻きつけられていたのは、重くもなく、軽くも無い、ボンゴレの紋章が入ったバンドだった。
 鍵とは異なる方法で固定されており、簡単には外せそうにない。足を曲げようにも抜けないし、金属なのか硬くて、引き千切るのも難しい。
 取り外すには、それこそ斧で足を叩き落すしかなさそうだ。
 これがある限り、桔梗は何処にもいけない。逃げ出したとしても、即座にボンゴレに勘付かれ、捕縛される。警告の意味に受け取って、桔梗は肩を竦めた。
 市中に放つ事は出来ない。しかし命は奪えない。軟禁を続けるだけの理由もない。だからある程度身の自由を与えつつ、監視だけは続けると。
「ボンゴレ十代目は、随分とお優しい」
「額面通りの意味として、受け取っておきます」
 嫌味と皮肉を込めて言うと、綱吉は軽口で応じた。小鳥の頭を撫でやりながら、厚い雲に覆われた空を仰ぐ。
 岬のその先に続く道を遮るものはない。躊躇なく一歩を踏み出せば、真下は荒れ狂う海だ。深さがどれだけあるか、知る術はないけれど、荒波に飲み込まれれば行方を追うのも難しかろう。
 監視員はいないらしい。他に人気が無いのを確認して、桔梗は笑った。
「良いのですか? 私は、貴方たちを出し抜くかもしれませんよ」
「貴方に、もう力はありません。そして恐らくは生きる目的も、意味も。でも俺は、貴方を殺さない。言っている意味は、分かりますね」
「贖うものなど、私にはこれっぽっちもありませんよ」
「ええ。でも、だからこそ。……貴方には生きて欲しい」
 綱吉が桔梗に求めるもの。罪を反省し、己の理念を改め、悔いること。
 しかし白蘭こそ全てであり、今もその信念は揺るがない桔梗には、彼の言葉は微塵も届かない。
 茶番劇を面白く無さそうに眺め、雲雀は袖を捲くった。
「沢田綱吉」
 時間だと告げて、顎をしゃくる。もうひとり居た男は車に戻り、ドアの前でスタンバイしていた。
 しかし彼らはそちらには向かわず、桔梗を置いて小屋の裏手に歩いて行った。直後爆音がして、旧式のエンジンが稼動する震動が桔梗の鼓膜を波立たせた。
 小鳥が羽根を広げて空に飛びたつ。ヘルメットを抱いて戻って来た沢田綱吉が、惚けた顔をしている桔梗の前に立ち、笑った。
「貴方にとって何が救いであるか、俺にはわからない。ただ俺は我が儘だから、貴方にもこの先の時間を、この世界で生きて欲しいと思っている」
 それはこの世に生れ落ちた貴方の責務でもある。
 彼はそう告げると、急かす声に背筋を伸ばし、走って行った。
 今やアンティークとまで揶揄されるガソリン式の二輪車が、灰色の煙を吐いて凄まじい速度で去っていった。桔梗は黙ってそれを見送り、すっかり短くなってしまった髪を撫でた。
 ずっと拘束されていたからだろう、両手が嫌に軽い。手を広げてみると、やつれた指の血管が浮き上がっている以外、どこもかしこも真っ白だった。
 このところまともに鏡さえ見ていないけれど、車の窓ガラスに写った自分の姿は、少し前のそれとはまるで別物だった。最初見た時、これが自分だと分からなかったくらいだから、余程だ。
 思い出し笑いを浮かべ、彼はクッ、と喉を鳴らした。
 もう以前のように、皮肉に満ちた嘲笑を浮かべる事すら難しい。人という存在を凌駕して、虫けらにも劣る人間を見下すところにいたはずなのに、今や敵であった者たちに情けをかけられて、やっと命を繋いでいる。
 沢田綱吉が言ったように、最早生きる意味も、目的も、意思すら残されていない。ただ無為に、怠慢に時間が過ぎるのを待つしか出来ない身ならば、いっその事。
 桔梗は開け放たれたままの扉の前を素通りし、ふらふらと、素足のまま背の低い草が茂る大地を踏みしめた。
 長い間歩いていないから、バランスを取るのさえ難しい。何度か転び、その都度治りきらないでいる傷の痛みに苦悶を浮かべ、最後は這うようにして灯台の足元へ。
 錆び付いてボロボロの手摺りが、今の己の姿に重なった。船出を見送る、期待に満ちていた日々は遠い彼方だ。
「……」
 そうして彼は、見つけた。先に抱いた違和感の正体を、知った。
 絶句し、騒然とし、彼は弱りきった足を叱咤して立ち上がった。
 濃い灰色の、塔。なにも刻まれていない碑の足元には、申し訳程度に白い花が備えられていた。
 アネモネ。
 傍には少女が好みそうな、愛らしい熊のぬいぐるみが置かれていた。青色のリボンを首に結んで、すまし顔で座っている。
 反対側には茶褐色のボトルが一本。ウィスキーだろうか、桔梗の知らない銘柄だった。
 誰の仕業かは凡そ見当がつく。何を目的に置かれたのかも。
 息を飲み、苦しさから呼吸を再開させて、桔梗はたたらを踏み、膝を折った。崩れるようにして地面に身を沈め、寄せては引く波の砕ける音を聞きながら、雲間から射した光の眩さを食い入るように見詰める。
 彼は無自覚に右手を持ち上げた。白一色の、脇にボタンが着いた簡素な貫頭衣を掻き毟って拳を作る。震えながら伸ばされた人差し指が何かを刻もうとして、寸前で止まった。
 祈る神など、とうにないのを思い出した。
「あ、あぁ……」
 絶望に愁う声を零し、彼は頭を垂れた。
 物音がした。
 何かが落ちる音だ。はっきりと耳に響いた微かなそれにハッとして、桔梗は顔を上げた。
 やつれた体躯を持て余し気味に振り返り、四つん這いから身を起こす。綱吉たちが戻って来たのだとしたら、こんな惨めな姿を晒すなど豪語同断だ。彼は濡れた目元を拭うと、深く息を吸い、吐き出した。
 頬を叩いて気合を入れ直してから、その仕草が酷く人間臭いことに気付いて、彼は唇を噛んだ。
 一度は人間という存在であった事すら捨て去ったのに、命の危機に瀕した途端に逆戻りとは。
 パラレルワールドではあらゆる企業の頂点に華々しく君臨していたはずなのに、歯車がひとつ狂っただけで、誰も訪れない辺境の燈台守となるしか許されなかった。水平線を行く船を日々見送るだけの、酷く退屈で、味気ない。
 世界を覆そうとした人間の末路には、ある意味相応しいのかもしれなかった。
「いいや。そんな訳が無い」
 白蘭はもういない。彼の望んだ世界は永遠に手に入らない。
 だが彼はその事実を拒んだ。いずれ、いつか。再び世界を我が物にせんと立ち上がる日が来ると、心のどこかで諦め悪く信じている。
 決意を秘めた呻き声を発した彼は、物音の元凶を探ろうと足を向けた。今までにないしっかりとした足取りで、小屋の扉を開く。
 仕切りのない空間の只中に、男がひとり、立っていた。
「誰だ!」
 声を張り上げ、叫ぶ。
 中にいた白い髪の青年が、ゆっくりと振り返った。
 桔梗と同じく素足で、柄のない長袖シャツに黄土色のズボンを履いていた。彼は桔梗の存在に気付くと嬉しそうに目を細め、満面の笑みを浮かべた。
 在りし日を彷彿とさせる姿を目の当たりにして、言葉を失った桔梗が立ち尽くす。
「びゃ……」
「ねえ、君、ここの人? 勝手に入って悪いんだけど、僕、喉が渇いちゃってさ。ミルクセーキとか、ない?」
 歓喜に打ち震えようとする彼を遮り、青年は言った。
 無邪気な子供の笑顔に、桔梗は。

「満足?」
 灯台が遠く見える丘の上でバイクを停め、雲雀がヘルメットを脱いだ。
 後部座席から飛び降りた綱吉もまたヘルメットを外し、潰れてしまった髪型を風に任せて息を吐いた。
「俺は我が儘ですから」
「また怒られるよ」
「平気ですよ」
 息苦しさを助長するネクタイを緩め、呵々と喉を鳴らして笑う。雲雀は呆れ顔で嘆息し、潮風に目を閉じた。
 雲間から射す光が、洋上でキラキラと煌いていた。

2010/08/11 脱稿