水魚

 日射しを浴びた水面が、きらきらと眩しいくらいに輝いていた。
「うー……」
 風に煽られたわけでもないのに波が起こり、ちゃぷちゃぷとコンクリートの壁にぶち当たっては引き戻されていく。大半は境を超えられずに当たって砕けるが、根性のある一部が時々縁を越え、熱せられた灰色の大地を色濃く染め上げた。
 綱吉はそんな波打ち際にあって、両手で裸の胸を抱き、後ろを怖々振り返った。
「ホントにやるの?」
「当たりめーだ」
 おずおずと問いかければ、日除けの下にいた赤と白の縞模様の水着を纏った赤ん坊が、白いスイミングキャップ姿で鷹揚に頷いた。手には黄色のメガホンが握られて、首からは黄色いおしゃぶりの他に、白い笛がぶら下がっていた。
 水色のビーチチェアに優雅に腰掛けた彼は、其処から動く気配を見せず、綱吉に早くしろとせっつき、メガホンで空気を殴った。
 燦々と照りつける太陽は痛いくらいで、こうしている間もジリジリと肌を焦がしている。日焼け止めを塗ったところで、無駄な足掻きだろう。水に濡れたら、全部溶けて流れてしまう。
 綱吉は渋々腕を解いて脇に垂らし、改めて目の前に鎮座する大きなプールを見詰めた。
 緑色のフェンスの向こうには、校舎が見えた。手前にはグラウンドがあり、野球部が炎天下も気にせずに練習する、威勢の良いかけ声が聞こえて来た。そのうちのどれかが山本の声なのだろうが、区別はつかなかった。
 水辺にいるお陰か、足許だけは少しばかり涼しかった。
「準備体操はしろよ」
「分かってるよ、もう」
 絶えず揺れ動く水の塊を見下ろして生唾を飲んでいたら、後ろからリボーンの声が飛んだ。説教じみた言葉についムキになって言い返した彼は、仕方なく縞模様にも見える排水溝の蓋上から退き、乾いたコンクリートに足を乗せた。
 分かっていたけれど、熱い。足の裏が焼け焦げて、皮が捲れそうだ。
「あち、っち、ち」
 声にも出して呟き、その場で何度か飛び跳ねる。日影に逃げたいところだが、そこには既にリボーンという先客がおり、簡単には潜り込めそうになかった。
 間違って足を踏み入れようものなら、容赦ない鉄槌が下されよう。このまま灼熱の太陽の下に居続けるか、鬼の家庭教師の地獄の責め苦を味わうか。どちらが良いかを天秤に掛けて、綱吉は大人しく前者を受け入れた。
 涙を呑んで足を肩幅に広げて立ち、両腕を揺らして準備体操に取り掛かる。とは言っても、真面目にラジオ体操をするだけの気力は沸いてこなかった。
 適当に身体を揺らし、関節を解していくだけ。後ろからリボーンの鋭い視線を感じるので、時々は生真面目に背筋を伸ばし、膝の曲げ伸ばしだけは重点的に。
 何度か骨がポキポキッ、と小気味の良い音を立てた。腕を真上に伸ばしても、同じだ。
「んーー」
 面倒臭さに負けそうになりながら、一通り、形だけは準備運動を済ませた綱吉は、腰を捻り、後ろを窺い見た。
 並盛中学校のプールには、他に人影はなかった。本当なら水泳部が朝昼構わず練習に励んでいる筈なのに、今日に限って休みらしい。
「別に良いのに」
「何か言ったか」
 そうして、無人となったプールを貸し切りにしたのが、リボーンだ。どういうコネを使ったかは分からないが、今日一日、此処で綱吉の泳ぎの特訓を執り行うつもりらしい。
 獄寺や山本達との練習の甲斐あって、綱吉はどうにかクロールらしき泳ぎは身につけた。尤も、まだまだ遠泳するには遠く及ばないし、他の泳ぎ方も未熟だ。
 今年の夏で一通り出来るようになれと、そういう事らしい。なんとも迷惑甚だしい話である。
 愚痴を零したら耳ざとく聞きつけたリボーンに睨まれてしまい、彼は慌てて首を横に振った。突っ込まれる前に話を逸らしてしまうに限って、彼は手首を交互に振り回し、再度水濡れた波打ち際へと足を進めた。
 女子の前でバタ足の練習、という恥ずかしい責め苦を体験した手前、もうちょっと泳げるようになりたい、という気持ちは確かにあった。ただ、だからと言って夏休みの貴重な一日を潰してまで、わざわざ学校のプールで練習したいとは思わない。
「水泳部、何処行っちゃったんだろ」
 暑さにも負けず、元気いっぱいの野球部にも思いを馳せ、綱吉は爪先に浴びた水の温さに臍を噛んだ。
 温いとはいえ、真夏の気温に比べれば雲泥の差だ。ジッとしているだけで汗が滲み、紫外線が皮膚を焦がす。きっと今夜は風呂に入っても、湯船にゆっくり浸かるのは無理だ。真っ赤に腫れ上がった両腕を想像して、彼は深く項垂れた。
「まったく」
 リボーンはビーチチェアにゆったりと腰を据えて、綱吉が水に飛び込むのを今か、今かと待っている。泳ぎの特訓は彼が言い出した事なのに、指導すべく教鞭を執るつもりはないらしい。
 なんともやる気のない家庭教師に嘆息していたら、見抜いた赤子が不敵に笑った。
「心配しなくても、特別講師を呼んであるぞ」
「え?」
 寝耳に水のひと言に目を丸くし、綱吉は足首まで飛んできた水滴に小さな悲鳴をあげた。
 跳び上がって逃げ、偶々首が向いた方角からやってくる人影にも立て続けに叫ぶ。叱られるのも構わずに日除けの傘の下に逃げ込んだ彼は、リボーンが勝手に持ち込んだチェアの後ろに隠れて膝を折った。
 小さくなった教え子の姿に肩を竦め、リボーンはゆったりとした足取りで近付いてくる青年に手を振った。
「チャオっす」
 此処をプラーベードプールか何かと勘違いしている赤ん坊の気易い挨拶に、彼はうっすら笑みを浮かべ、右手を腰に当てた。
 艶やかな黒髪に、半袖の学生服。左袖に緋色の腕章がぶら下がっていて、場所柄もあって裸足だ。普段見る機会のない五本の指を物陰から見詰めて、綱吉は恐る恐る、首を伸ばした。
「っ!」
 刹那、目が合ってしまって、彼は急ぎ背中を丸めた。
 頭隠して尻隠さず、とは良く言ったものだ。見事に体現している綱吉に苦笑した雲雀は、直ぐさま気持ちを切り替えてリボーンに向き直った。
 陰影がくっきりと描き出されているコンクリートを渡り、狭い日陰に入って赤子の一寸前で立ち止まる。その位置からでは、水色のチェアに腰掛けるリボーンが、綱吉の盾になっていた。
「僕に用って、何?」
「リボーン!」
 赤子の肩からはみ出ている薄茶の髪が、雲雀の質問の直後に大きく揺れた。ぴょん、と伸び上がった彼は、しかし言いかけた言葉を寸前で飲み込んで、口をもごもごさせた。
 視線を脇に逸らし、ほんのり紅色に染まった頬を下向ける。
 物言いたげな琥珀の目にほくそ笑み、リボーンは口角を持ち上げた。
「そうだぞ」
「何の話?」
「って、マジで? 無理無理、絶対ムリ!」
 雲雀がリボーンにプールの一日貸し出しを申し出られて、二つ返事で承諾したのはつい昨日の事だ。水泳部も大会で遠征しているので使わないので、タイミングとしては丁度良かった。
 だが何をするのか、までは詳しくは聞いていない。水遊びをしたければ市内のプールに行くだろうからと、おおよその見当はつけていたけれど。
 様子を見に来たのは偶々で、約束をしていたわけではない。それなのにリボーンには訳知り顔をされてしまった。
 困惑している雲雀を余所に、顔の前で両手を振り回した綱吉は、必死の形相で「ムリ」という言葉を何十回と繰り返した。
 何が無理なのかは分からないままでも、あまりに人を指してその単語を連呼されると、腹が立つ。ムッと顔を顰めた雲雀は、口を尖らせて険のある目つきで綱吉を睨んだ。
 怒気を感じた彼は瞬時に竦み上がり、おっかなびっくり視線の向きを変え、仁王立ち中の雲雀を仰ぎ見た。
「うぇぇ……」
「何が無理なの」
「それは、だから」
 凄みを利かせた低音で問えば、綱吉は渋い顔をして胸の前で人差し指を小突き合わせた。甘い色をした瞳を左右に泳がせて、言い難そうに口をパクパクさせる。
 なかなか喋り出さない彼に短気を働かせた雲雀を右手で制し、リボーンが間に割って入った。
 犬畜生を宥める動きで手を揺らされて、雲雀は仕方なく溜飲を下げて怒らせていた肩を落とした。
「なに。まさか、僕に、其処の彼に泳ぎを教えろって言うの?」
「当たりだぞ、雲雀」
「だから、そんなのムっ……うぁ」
 憶測で物を言えば、すかさずリボーンが首肯し、その向こうで綱吉がぴょん、と跳ねた。
 リボーンに対して言ったのだろうが、雲雀の機嫌を損ねるのに十分な発言だったと自分で気付いたらしい。彼は途中で言葉を切り、右手で迂闊な口を覆った。
 一瞬にして真っ青になった彼の分かり易さに嘆息し、雲雀は汗に湿る前髪を掻き上げた。
 水場に近い所為もあろう、湿度が高い。肌に張り付く水分は鬱陶しい限りで、彼は気怠げに目を細め、蹲っている綱吉を横から覗き込んだ。
「準備は、出来てるんだ」
「え、まさか」
 上は羽織らず、黒の水着一枚だけの彼の姿に何処か感心したように呟く。聞こえた綱吉はぎょっとして、背中に温い汗を流した。
 水着は、体育の授業で使う学校指定の物だ。変な柄が入っているわけでもなく、面白みは一切無い。
 貸し切り状態だからと言って、市販の奇抜なデザインの物の着用は避けた彼を心の中で褒めながら、雲雀は二十五メートルあるプールに顔を遣った。
 レーンは四本。水面を横切る格好で、仕切りとなる細長い浮きがぷかぷかと泳いでいた。
 水は澄んでおり、光を受けて目映く輝いていた。
「頼んでも良いか、雲雀」
 悪寒を覚えて震えている綱吉を無視し、リボーンは姿勢を戻した雲雀に静かに問うた。彼は不遜な態度を崩さない赤子に意味深な笑みを返し、安全ピンで固定した腕章ごと、袖を捲る仕草を取った。
 喉元で固く結んだネクタイを少しだけ緩めて、それを返事の代わりにする。滑らかな動きを呆然と見詰め、綱吉は唇を戦慄かせた。
「え、え。リボーン、勝手に決めるなよ」
 すっかり捨て置かれた格好の綱吉が、腕を伸ばしてビーチチェアに深く腰掛ける赤子の手を掴んだ。
 モミジのよう、と表現される小さな指を握り、自分に注意が向くよう仕向けて奥歯を噛み締める。
「泳げるようになりてーんだろ?」
「そうだけど、でも」
 尻窄みに声を小さくして、綱吉はチェアの縁にしがみついた。左右並べた手に頬を押し当てる格好で屈んで、上目遣いに肩を回している青年を見やる。
 言いかけた言葉は、結局最後まで出て来なかった。
「心配しなくても、僕は君よりは泳げるよ」
「そりゃ、そうでしょうとも」
 腕を真っ直ぐ伸ばしたまま腰を捻った雲雀が、視線に気付いて不敵に言い放った。
 確かに彼は、綱吉とは比べ物にならないくらいに運動神経抜群だ。あの山本にも負けないくらいのポテンシャルを秘めており、並み居る不良を打ち負かすパワーは他の追随を許さない。
 そんな彼が泳げない訳がなくて、綱吉は自慢げな言葉に頬を膨らませた。
 むすっと下膨れた顔をした彼に肩を竦め、雲雀は指を伸ばし、顎を撫でた。
「どれくらい泳げるの?」
 予備知識を求めた彼の発言に、綱吉はすすす、とビーチチェアの背側に移動した。彼の視界から逃げて、影の中でもそこそこ熱いアスファルトに「の」の字を書く。
 そこまで落ち込むとは思っていなかった雲雀は面食らい、直後に噴き出した。
「クロールもどき程度だな」
「もどき?」
「基本がなってねーから、犬かきみたいなもんだ」
「ああ」
 その程度の説明で理解してしまった雲雀は、緩慢に頷いた後、左足を分厚いコンクリートから引き剥がした。
 灰色の大地が汗を吸い、うっすらと足形を刻んだ。ただ数秒と経たぬうちに乾き、分からなくなってしまった。
 ひたひたと迫り来る彼の気配に息を呑み、綱吉は半泣きの表情で首を振った。
「良いです。泳げなくても死なないもん」
「船が遭難したらどうするの」
 女子らの前で恥をかくだけに留まらず、雲雀にまで赤っ恥を晒すなど出来ない。声高に叫んだ彼の、心の中での主張をなんとなく理解して、雲雀は少々大袈裟な例え話を口に出した。
「一生乗らないから良いんです!」
 即座に屁理屈が返ってきて、呆れた彼は盛大に溜息を吐いた。
 雲雀の零した呼気が風を呼び、俯く綱吉の項を撫でた。肌を擽る微かな空気の流れにさえビクッとして、彼は鼻を膨らませて唇を噛み締めた。
 確かに綱吉が今後世間一般的な生活を送るとして、船に乗る機会はごくごく稀だろう。船釣りの趣味がある、もしくはクルージングを楽しむ優雅な日々を送っているならばまだしも。
 海外に出かけるとしても、最近は飛行機が主流だ。あれが墜落して海に緊急着陸する確率は、一万分の一以下ではなかろうか。
 そんな事を頭の片隅で考えて、雲雀は牙を剥いて唸っている綱吉に肩を竦めた。
「だって。どうするの、赤ん坊」
 視線を外し、ビーチチェアでひとり寛いでいる赤子に話を向ける。リボーンは雲雀の問いかけに微笑みを浮かべ、黒髪を押し込んだスイムキャップをひと撫でした。
 遠目からでも十分目立つ派手な縞柄の水着の彼は、短い脚を畳んで椅子の上で身動ぎ、静かに雲雀が見守る中、徐に肘を真後ろに突き立てた。
「いでぇ!」
 瞬間、背凭れの真後ろにいた綱吉が、隠していた頭に肘鉄を食らって聞き苦しい悲鳴をあげた。
 カエルのようにその場で飛び跳ねて立ち上がり、両手で右頬の上辺りを庇って再度蹲る。眼球の真下辺りに直撃を食らったのだろう、場所を想像して自分の頬をさすった。
 間に布張りの椅子があったとはいえ、リボーンの動きはあまりに素早くて雲雀でも追いきれなかった。
 キレがあり、且つしなやかな動きは賞賛に値する。心の中で両手を叩いた雲雀を余所に、綱吉はふたりに背中を向けて鼻を愚図つかせた。
 大きな目に涙をいっぱいに貯めて、恨めしげな顔をして勢い良く振り返る。
 少々可哀想に思えて来た雲雀とは対照的に、厳しさを絵に描いたようなリボーンは、椅子の上でふんぞり返った。
「良いから、さっさと行け」
「ぎゃー!」
 雲雀が間に割り込む暇を与えず、リボーンは何処かから取り出した拳銃を片手に、引き金を引いた。もれなく発射された一撃が容赦なく綱吉を襲い、足許のコンクリートが黒く焦げたのを見た彼は真っ青になった。
 咄嗟に出しかけた右手を宙に泳がせ、雲雀は学内で発砲事件をしでかした赤子に苦々しい面持ちをした。
「赤ん坊」
「ツナの事、宜しく頼むぞ」
「うん? あ、あぁ」
 あまり学校の施設を破壊しないでくれるよう頼もうとした矢先、首から上だけを後ろに向けたリボーンが、話を逸らして馴れ馴れしく言った。虚を衝かれた雲雀は、一瞬自分が何を言おうとしていたのかを忘れて、大人しく頷いてしまった。
 気がついた時にはもう、日影から追い出された綱吉が駆け足でプールに飛び込むところだった。
「ひぃぃぃぃ!」
 甲高い悲鳴をあげて、勢いに乗って水上に向かって跳び上がる。
 空中で足が二度ほど前後に動き、刹那、巨大な水柱が天に向かって駆け上がっていった。
「……っ」
 巻き上げられた水飛沫がプールサイドのかなり遠い場所まで広がって、冷たい水滴から咄嗟に顔を庇った雲雀は肘を高く掲げたまま、目元を覆っていた腕を下ろした。
 大きな音が響いたのは一瞬で、次に訪れたのは静寂だった。まるで今、目の前で起きたのは幻です、と言わんばかりの世界の沈黙ぶりに唖然とした雲雀は、続けて耳朶を打ったばしゃばしゃ、という音にハッと息を呑んだ。
 例え数秒間だけだったとしても、惚けていた自分に苛立ちを覚え、水面を叩いている綱吉の姿に眉間の皺を深める。
「沢田?」
「ン?」
 雲雀が怪訝にするのを聞いて、リボーンも煙を吐く愛用の拳銃から前方に焦点を移し替えた。
 水柱が上がったのは一瞬だけ、という先程の証言は訂正せざるを得まい。何故なら未だに白い泡がプールに湧き起こり、激しい荒波がプールサイドに押し寄せていたからだ。
 押しては引いて、また押し寄せる波は幾重にも折り重なり、一部は排水溝の蓋を越えて日影に佇む雲雀達の足許までやってきた。
「……ねえ、あれ」
「ああ」
「ぶは、ひゃっ、んぐ……わぶ!」
 聞こえてくる苦しげな声と、鳴り止まない水音。両腕を振り回して水面を掻き乱す綱吉の姿に、雲雀は冷や汗を流した。
 多くを語らずとも理解したリボーンが、雲雀と似たり寄ったりの表情を浮かべ、生唾を飲んだ。
 その瞬間、力尽きたのか綱吉の腕が急に止まった。
「沢田!」
 今し方まで喧しく立ち上っていた水飛沫が止み、再び静謐が並盛中学校のプールを包み込んだ。グラウンドの野球部の声どころか、蝉の声ひとつ聞こえてこなくなって、雲雀は悲鳴にも似た声で叫び、後先考えずに走り出した。
 椅子の上にいたリボーンが、その姿を黙って見送った。
 二メートル少々の距離を一足飛びに駆け抜け、濡れたコンクリートの縁ギリギリのところを強く蹴って空中に身を投げる。但しその動きはなんの準備も出来ていなかった綱吉とは違い、綺麗な流線型を描いていた。
 両手を伸ばして揃え、波立つ水面に突っ込んだ雲雀は、直後に両腕を左右に広げ、進行を邪魔する重い水を掻き分けた。
 飛び込む寸前に大きく息を吸って、肺に貯め込んだ空気を少しずつ消費して水底に目を走らせる。思わぬ抵抗に遭って瞬きさえ碌に出来ない中、雲雀は無数の泡に囲まれている華奢な体躯を見つけ出し、強く水を蹴った。
 なかなか思い通りに行かない身体を懸命に操り、腕を伸ばして驚くほどに細い手首を掴む。しかし力が入りきらず、ぬるっとした感触と共に指の間から擦り抜けて行かれて、雲雀は慌てた。
「……っ」
 思わず叫びそうになって、開いた口の中に一斉に水が押し寄せた。慌てて舌で押し返して吐き出そうと足掻くが、一部は飲んでしまった。
 喉の辺りに不快感が湧き起こり、今すぐ水中から脱して新鮮な空気を腹一杯吸い込みたい衝動に駆られた。だがそれよりも優先すべき事があると己を奮い立たせ、彼は鋭い眼差しを水底に投げた。
 気を失っているのか、綱吉からの反応は殆どなかった。琥珀の瞳は瞼の裏に隠されて見えず、それが余計に雲雀の不安を煽った。
「っ!」
 嫌な想像が脳裏を駆け抜ける。悪夢を払拭せんが為に、雲雀は自分の現在地も忘れて怒鳴った。無論水中とあって声は広がらない。白い泡が無数に吐き出されただけに終わり、肺に貯め込んでいた酸素もそろそろ限界に到達しようとしていた。
 一旦浮上してから、再度潜る方が懸命だ。それは雲雀自身、良く分かっていた。
 だが彼は、冷静且つ冷徹な思考の一切を蹴り飛ばし、渾身の想いを込めて腕を下へ伸ばした。
 尽き果てかけている酸素の全てを使い、叫ぶ。指先がまだ温もりを残している肌を掠めた。
 それまで全く反応がなかった綱吉が、ぴくり、と動いた。
 一旦静まったかと思われた水面が不意に膨れあがり、真っ二つに引き裂かれた。波打ち際まで足を進めて見守っていたリボーンは、イスラエルの民を率いたモーセが海を割る瞬間を想像し、水中より現れた黒髪の青年に苦笑とも取れる曖昧な表情を浮かべた。
「はっ……えふ、けふ」
 何度か咳き込み、雲雀は飲み込んだ分も含めて口中にあった塩素臭い水を吐き出した。鼻腔にまで潜り込んでいた分も外に追いやって、水底から引き上げた存在を力任せに抱き締める。
「うぇ、がはっ」
 肋骨ごと肺を圧迫されて、止まりかけていた鼓動と呼吸が瞬時に再開された。突然の痛みにのたうち回った綱吉は、両手をじたばたさせて、水面を叩いて細かい水飛沫をひっきりなしにまき散らした。
 既に濡れ鼠のところに追加されて、雲雀はムッとしながら綱吉の腰に回した手で力一杯肉の薄い背中を引っ掻いた。
「ひぎっ」
 素肌に直接爪を立てられ、ただでさえ呼吸が苦しいところに追い打ちをかけられた彼は白目を剥き、天を仰いで四肢の力を抜いた。
 優雅に泳いでいるように見える白鳥も、水面下では足を絶えず動かして水を掻き出している。そんな野鳥にも似た動きをしていた彼は、ぱたっと活動を停止させて雲雀の胸にぐったり寄り掛かった。
 今し方掻き毟ったばかりの所を撫でてやると、綱吉は何度も咳き込み、被りを振って雲雀に縋り付いた。
 足は、着いた。綱吉の身長でも、頑張れば鼻より上は水面上に出た。雲雀だと爪先立ちになれば首から上がすっぽり水中から脱した。
 時折唇が水に触れて、隙間から細かな分子が咥内に潜り込もうと暴れ回る。それらを舌で押し返し、時に吐き捨て、雲雀はまだぜいぜいと苦しそうに言っている綱吉の背中を、飽きるまで撫でた。
 少しずつ呼吸が落ち着きを取り戻して、足りなかった血中酸素も正常値に戻った綱吉が、今になってやっと自分がよすがにしているのが誰かを悟り、ぐっ、と鼻を膨らませた。
 離れたい。が、離れたらまた溺れてしまいそうで怖かった。
「器用だね、君」
「…………」
 ドクドク脈打つ心臓に臍を噛んでいたら、気付いた雲雀が呆れ混じりに呟いた。脇の下を潜って背中に回っている彼の手は、相も変わらず人の薄い皮膚を擽り、上下に揺れ動いていた。
 波が立っているからか、それとも雲雀の足許が不安定な所為で自分たちこそが揺れているのか。妙にふわふわした状況に喘ぎ、綱吉は薬品臭い唾を飲み込んだ。
 学校のプールで、しかも背伸びをすれば悠々足が着く深さしかない場所で、溺れた。余りにも恥ずかしい現実に落ち込んで、彼は雲雀の逞しい肩に額を擦りつけた。
 リボーンに追いやられて水に飛び込んだまでは良かったけれど、いきなりだったので身体は竦み、足が着くだとか、そういう冷静な判断が何も出来なくなってしまった。頭の中は真っ白で、そうしている間にもどんどん身体は水に沈んで、身動きが取れない恐怖にパニックに陥った。
 雲雀の声は聞こえたような気がする。だけれど、あの時は彼に助けを求める事すら出来なかった。
 情けない自分に悔しさを募らせ、綱吉は鼻を啜った。
 心臓がまだドクドク言っている。いい加減落ち着けば良いのに、ちっとも鳴り止んでくれない。
「だから嫌だったんだ」
 呻くように呟いた彼の背を撫でてあやし、雲雀は水を吸って重い黒髪を後ろに掻き上げた。上着を脱ぐ暇すらなかったので、黒のスラックスや半袖シャツ、それに腕章までもがずぶ濡れだった。
 これで靴を履いていたらもっと悲惨だったが、それだけは辛うじて免れた。まさかこんな事になるとは思っていなかった彼は、たかだか十分ほど前の自分を思い出して苦笑し、クツクツと喉を鳴らした。
 笑っている雲雀を怪訝に盗み見て、綱吉はいい加減放して貰おうと腕に力を込めた。目の前の肩を掴んで力一杯押し返すが、場所と体勢が悪いからか、なかなか思うようにいかなかった。
「ヒバリさん」
「ん」
「ヒバリさんってば」
「……うん」
 せっつき、名前を呼ぶが、生返事が成されるばかりで、まともな反応はひとつも返ってこなかった。それどころか却って強く抱き締められて、綱吉は腰だけを彼の方に突き出し、仰け反った。
 水分を吸って重くなった薄茶の髪が一斉に真下を向いて水滴を放ち、跳ね返った飛沫が首に散った。
「う……」
 苦しい体勢を立て直し、辛うじて届いた右の親指の先でぬらついたプールの底を蹴った彼は、雲雀にもたれ掛かり、姿勢を安定させた。
 大挙して押し寄せて来た体温よりは冷たい水を唾液ごと吐き出して、少しでも楽になろうと目の前の存在にしなだれかかる。
 ドクドクという激しい脈動を感じて、綱吉は目を瞬いた。
「……れ?」
 自分は落ち着いているのに、どうして。若干乱れ、速い心拍の源を探って顔を上げた彼は、前髪が後ろに流れている所為か、普段とは違う面持ちをしている青年を其処に見出し、瞬間、顔をボッと赤らめた。
 煙を吐いて真っ赤になった彼にきょとんとしてから、雲雀は緩みかけていた腕の力を思い出し、ふっ、とほくそ笑んだ。
「あんまり吃驚させないでくれるかな」
 囁くように言って、今度は彼の方が綱吉に甘えて抱きつく。
 倍の早さになった心音が、二重に重なり合って水中に沈んでいった。

2010/08/04 脱稿