壟断

 一歩進む毎に幡が跳ね上がり、息が弾んだ。
 鼻水が出そうになったのを堪えて啜り上げて、綱吉は大きく開いた口から舌を伸ばした。酸素を掻き集めて唾液と一緒に飲み込み、人気に乏しい校舎裏を一直線に駆け抜ける。
 全力疾走は三分と保たなかった。足取りは自然と鈍り、汗を拭って天を仰ぐ。日陰で立ち止まった彼は深呼吸を繰り返し、奥歯をカチリと噛み鳴らした。
 睫に紛れ込んだ汗の粒を振り落として、暴れ回る心臓を撫でて宥め、呼吸を整える。十秒ほどそうやって立ち尽くしていると、反対側から駆けて来る人の姿が見えた。
 校舎と、学校を仕切る塀の間にある、細長い空間。その只中に在った彼は苦労の末に右肩を持ち上げて手を振り、近付いて来る獄寺に合図を送った。
「獄寺君」
「十代目!」
 彼もまた綱吉同様に息を切らし、全身汗だく状態だった。三メートルほど手前で停止して、膝を軽く折ってそこに両手を置く。背中を丸めてぜいぜい言っている彼の揺れる銀髪に目を細め、綱吉は顔を扇いだ。
 それしきで涼しくなる訳が無かったが、何もしないよりはマシだ。そう自分に言い聞かせて温い唾を小分けに飲み込んだ彼は、やっと人心地ついたらしい獄寺が顔を上げるのを見て、半歩後ろに下がった。
 昼の太陽は高い位置に鎮座して、煌々と大地を照らしている。真夏の日差しに比べればずっと穏やかではあるけれど、ダッシュを繰り返していたのもあって、暑くてたまらなかった。
 羽織った紺色のカーディガンを忌々しげに撫で、獄寺は舌打ちして首を振った。
 長い前髪を掻き上げて後ろに流し、苦々しい面持ちで綱吉を見詰める。目で問いかけられて、綱吉は首を横に振った。
「こっちはダメ」
「俺もです」
 弱りきった表情で告げると、すかさず獄寺が同意して項垂れた。
 ふたりして暫く見詰めあい、ほぼ同じタイミングで溜息を零す。重なり合った音に、普段は笑うところだが、今日ばかりはそんな気分になれなかった。
 獄寺は袖を捲り、左手首に巻き付けた腕時計を見た。
「あと十分無いっすね」
 昼休みが終わりを告げるまで、残り時間はあと僅か。教えられたタイムリミットに焦りを覚え、綱吉は唇を舐めた。
「他に行きそうな場所とかは?」
「……残念ながら」
 思い当たる節が無いと言われ、綱吉は地団太を踏んだ。
 目に見えて落ち込んでいる獄寺を責めるのも可哀想で、彼は言いかけた言葉を寸前で飲み込んだ。奥歯で擂り潰して粉々に砕き、無かったことにしてしまう。
 こうしている間にも時間は過ぎて行くばかりだ。ヒタヒタと迫る刻限を思って冷や汗を流し、綱吉は何も無い後方を振り返った。
 日向と日陰の境界線が、斜めになってくっきりと地表に刻まれていた。遠く、グラウンドで遊んでいる生徒らの声が響く。風はない。
 動かない茂みや木立を順に見詰め、綱吉は姿勢を戻した。
「早く探さないと」
 上唇を舐めて潤いを補充した彼の呟きに、獄寺が銀髪を揺らして顔を上げた。鼻筋を伝った汗を足元に落とし、音立てて唾を飲む。
「すみません、十代目」
 非常に申し訳なさそうに言われて、彼を余計に落胆させてしまったと、綱吉は急ぎ首を振った。
 自然持ち上がった手もが左右に動いた。自分の発言を取り消そうとするが既に手遅れで、彼は気まずげに顔を伏し、地面に穴を掘った。
 まだこなれていない胃袋を制服の上から撫でて労わり、暗がりに向いて並んでいる校舎の窓を仰ぎ見る。
 白いカーテンが引かれているもの、そうでないものと、場所によって様々だ。廊下を歩いている時ならば、どの階の何処にどの教室があるのか分かるのに、外からではさっぱり区別がつかない。
 変化の無い景色を数秒間黙って見詰めて首を振り、綱吉は獄寺の肩を軽く叩いた。
「兎に角、探そう。まだ近くにはいるんだよね?」
「そう思います」
 自信なさげの返答に、綱吉は苦笑した。
 十年後の未来から連れ帰ってきた匣兵器の動物達。彼らは十年前の世界に戻って来た後も、綱吉たちの傍で愛らしく、時に頼もしい仲間として、存在感を発揮していた。
 獄寺の匣アニマルたる嵐猫の瓜も、そのうちの一匹だ。
 彼らの出会いは、十年後の世界で過ごした日々の中で、比較的早い段階と呼べる時期に当たった。入江正一が仕組んだメローネ基地での戦い以後にナッツに出会った綱吉とは違い、あの見た目に反して凶暴な性格をした子猫は、基地での戦いでも獄寺の窮地を救う活躍を見せてくれた。
 漢我流の晴れの炎を受けて成長した瓜の姿は、話に聞くだけでもわくわくする。ナッツも試せばそうなるのかとちょっと思ったが、下手に実行に移せば大変な騒ぎになるのは目に見えているので、今のところ試す予定は無い。
「ったく、瓜の奴、何処行っちまったんだ」
 呻くように吐き捨てた獄寺の言葉に肩を竦め、綱吉は首にぶら下げた銀のチェーンを握り締めた。
 そこにはナッツのアニマルリングと、ボンゴレリングが仲良く並んでいた。本当は家に置いておきたいのだが、リボーンが怒るので、仕方なくこうやって首から提げて持ち歩く日々だ。
 教師に見付かったら、没収されてしまう。もっとも学校の実質的な支配者である風紀委員長の雲雀も、同様のものを持ち歩いているはずなので、彼を味方に引きこめたなら、取り返すのは容易だろう。
 ただ、あの雲雀が容易く頼みを聞いてくれるとも思えない。
 顰め面をした雲の守護者を思い浮かべ、綱吉は浅く唇を噛んだ。
「俺、もう一回裏庭見てくるよ」
「分かりました。俺は、……校舎の方を」
 昼休み、今から約十分前の事だ。屋上でお昼ご飯を食べていた獄寺は、満腹になったと手を叩き合わせた直後、何を思ったのか突然アニマルリングを装着し、炎を与えた。
 彼にとっては、可愛くて仕方が無いペットにも昼食を、という程度の認識でしかなかったのだろう。が、此処は他ならぬ学校だ。
 見知らぬ場所で呼び出された瓜は驚を隠せない様子だった。しかも始末が悪いことに、現場を偶々、黄色い小鳥が通り過ぎて行った。
 雲雀の肩を止まり木にするのも厭わない、あの小鳥だ。元々は六道骸の配下だった男が飼っていたのだが、いつの間にか雲雀に懐き、十年後の世界でも彼と共にいた。
 あの凶悪極まりない人の傍でよくぞ平然としていられると、感心せずにいられない。雲雀の匣兵器はハリネズミだったので、もしかしたら彼は小さい生き物が好きなのかも知れない。
 本人に確かめる勇気は、残念ながら持ち合わせていない。思い巡らせ、気持ちを切り替えた綱吉は正面に立つ獄寺に頷いた。
 猫としての本能を過分に働かせた瓜は、黄色い小鳥を標的に定めて獄寺の手から飛び出し、どこかへ走り去っていってしまった。
 屋上の外壁を飛び降りて行ったのには、綱吉も肝が冷えた。慌ててフェンスから下を覗き込めば、意外にも瓜が元気だった。
 あっという間に四足で駆けて行ってしまって、見えなくなった。愛猫の姿を見失った獄寺は非常に狼狽え、落ち着かせるのが大変だった。
 兎も角探さなければいけない。獄寺が嵐の炎の供給を止めればあの子も止まるが、それでは可哀想過ぎるし、もし人前で力尽きでもしたら大変だ。
 匣アニマルは非科学的な存在だから、下手に何も知らない人間に見られて説明を求められたら困る。今のところ学校内で格別騒ぎは起きていないようだから、まだ誰かに目撃されたという事はなさそうが、それも時間の問題だ。
「見つけたら、呼ぶね」
「分かりました」
 本当は校則違反だけれど、ふたりともこっそり携帯電話を持ち込んでいる。ポケットの上から叩いた綱吉に深く頷いて、獄寺は踵を返した。
 屋上から消えた瓜は、今どこで、何をしているのだろう。万が一ヒバードと呼ばれていた黄色い小鳥を狩っていたらと思うと、それだけで背筋が震えた。
 雲雀はあの小鳥を可愛がっていたから、きっと怒る。怒るだけでは済まないかもしれない。怒髪天の勢いでトンファーを手にする風紀委員長の姿に冷や汗を流し、綱吉は嫌な想像を否定して走り出した。
 獄寺と別れ、宣言通り裏庭を目指す。一度探したところではあるが、茂みに隠れていたら簡単には見つけられない。
 瓜の落下地点からも近い場所なので、あそこにいる可能性は高いというのが綱吉の判断だった。ヒバードも、よく其処の木の枝で囀っている。背の低い植物も多いので、小動物が隠れるには絶好のポイントといえた。
「早く見つけないと」
 どうしてランボといい、リボーンといい、綱吉の周囲には学校に潜り込みたがる連中が多いのだろう。もっとも瓜は自分から入ったのではなく、獄寺に呼び出されただけなのだが。
 つまるところ、元凶は獄寺の迂闊さだ。彼があの子猫をとても可愛がっているのは承知しているが、もう少し時と場所を考えて欲しかった。
「ナッツは……、ああ、うん。あいつは多分逃げない」
 銀のチェーンにぶら下がるリングに宿った愛らしい獣の姿を思い浮かべ、綱吉は走りながら首を振った。
 戦闘時には比類なきパワーを発揮し、綱吉を補助してくれる心強い戦友なのに、平時は臆病で恐がりで、いつだって綱吉の背中に隠れたがる天空ライオン。いったい誰に似たのかと愚痴を零したら、聞いていた全員が一斉に綱吉を見たのには笑うしかなかった。
 ナッツを屋上で呼んだとしても、あの子は絶対にフェンスを潜って飛び出したりはしないだろう。獄寺の瓜が勝手気ままで、豪胆すぎるのだ。
「ったく。瓜、ウリー?」
 ようやく到着した裏庭の入り口で、綱吉は大声を張り上げた。
 昼休み中だけれど他に人の姿は無く、静かだ。グラウンドから響く声も校舎に遮られているからか、此処までは響かない。全体的に影に覆われて薄暗く、どことなく陰湿なイメージを抱かされる。
 日向にいるよりも少し肌寒い。両脇を絞めて身を縮こませた綱吉は、思い出してしまった不吉な物語を打ち消し、勇気を出して足を前に繰り出した。
 学校の七不思議とは良くある話で、しかも得てして大半が怪談だ。並盛中学校にもご多聞に洩れずそういう話があって、まことしやかに語り継がれている。その中のひとつの舞台が、この裏庭なのだ。
 昼間でもひんやり涼しい小規模の庭園の真ん中には、葉の繁りが悪い木が一本聳えている。単に日光不足だから発育が悪いだけだと思うのだが、その昔、この木同様にガリガリに痩せていた生徒がイジメを苦に首を吊って自殺したという。
 昔の在校生が骸骨のようなシルエットの木をヒントに、面白可笑しく創作した話なのだろうけれど、こうやって見ると薄気味悪さは否めない。生唾を飲んだ彼は必死に首を横に振って頭から追い出し、瓜の名を繰り返し呼んだ。
 口元に手を添えて拡声器代わりにしながら、視線を前後左右に揺り動かす。注意深く景色を探るが、彼の呼び声に反応を返すものは無かった。
 ヒバードの姿も見えない。居たらいたで、雲雀が近くにいる可能性も否定出来ないので、厄介だ。
「昼休み、終わっちゃうよ」
 恨み言を零して肩を落とし、綱吉は額に散る汗を拭った。
 こういう時に山本の保持する匣アニマルの次郎が居れば、心強いだろうに。犬だから嗅覚に鋭く、探し物もきっと得意なはずだ。
 しかし獄寺は、山本に助けを求めるのだけは絶対嫌だと言って譲らなかった。
 彼は教室で、別の友人らと昼食を取っていた。だから瓜が逃亡した現場には居合わせていない。もしいつものように一緒だったら、と思うと、気が滅入ってならなかった。
 タイミングが悪すぎる。どうしてこうも不都合なことは連続するのだろう。
 良いことは飛び飛びにしかやって来ないのに、嫌なことは怒涛のように詰めかけて、綱吉を押し流してしまう。視界どころか気持ちまで暗くなりかけて、綱吉は前髪を掻き毟った。
 抜けてしまった髪の毛を地面に払い落とし、代わり映えのしない裏庭をぐるりと見回す。
 その時だ。
「……ん?」
 ガサッ、と木の葉が揺れ動く音が彼の鼓膜を打った。
 本当に微かで、風の悪戯かと疑いたくなるような音量でしかなかった――いつもだったら気の所為にしてしまうほどの。だが緊張に昂ぶっていた心はそうは捉えず、彼はハッとして音のした方角に首を向けた。
 四肢を強張らせて温い汗を流し、息を飲んで静止する。
「いたっ」
 奥歯を擦り合わせて喉の奥で声を押し殺し、綱吉は飛びあがって踊り出したい衝動を堪えた。
 艶やかな緑の低木の向こう側で、紅蓮の炎が踊っていた。勢いはかなり弱い。獄寺が与えた嵐の炎の量が少なかったのが原因だろう。
 ヒバードを追いかけて、具現化直後に獄寺の膝から飛び出したのが災いしたらしい。炎の供給が途絶えれば、アニマル達は形を保っていられない。ぐったりしているナッツを思い浮かべながら綱吉は息を潜め、慎重に瓜の隠れている茂みに近付いた。
 此処で逃げられたら、授業開始前に捕まえるのはもう無理だ。残り時間を頭の片隅で計りながら、彼は茂みの真向かいで足を止めた。
 瓜は既に綱吉に気付いていた。目が合って、牙を剥いて威嚇された。
 逃げたいが、思うように動けるだけのパワーが残っていないと思われた。三角の耳から噴き出る炎も、いつもよりずっと元気が無い。
「よしよし、良い子だからじっとしててくれよー」
 いつぞやに顔面を引っかかれた記憶が蘇って、綱吉は頬を引き攣らせた。見た目の可愛らしさからは想像がつかない凶暴な性格をしているのは、獄寺にも通じるものがある。彼は外見の良さとは裏腹に、敵と判断した相手には兎に角容赦が無い。
 ダイナマイトなどというものを武器にしているところからも、それは容易に想像できた。
 膝を軽く曲げ、綱吉は瓜に手を伸ばした。
 シャーっと唸って牽制する子猫を抱き上げるのは、正直勇気が要った。基本的に匣アニマルは炎の供給者に従順な姿勢を見せるよう設計されているのに、この瓜だけは反抗的で、獄寺にあまり懐いていなかった。
 それでも獄寺は辛抱強く、且つ甲斐甲斐しく世話を続けていた。そのお陰か、最近ではほんのちょっとではあるけれど、彼に甘えた態度を見せるようになっていた。
「うぅ……」
 だがそれも、瓜の機嫌が良い時限定だ。少しでも気に触ることがあれば瞬時に臍を曲げ、凶暴な一面が顔を出す。
 油断していたところを引っかかれた経験は数知れなくて、綱吉はおっかなびっくり指を伸ばし、豹柄の頭をちょん、と撫でた。
 人差し指が触れた瞬間に、急ぎ肘を引っ込める。ビクビクしすぎだと自分でも思うのだが、痛い思いをしたくないという防衛本能が過剰に働き、こんなことになってしまった。
 へっぴり腰の綱吉を睨み、赤い瞳を爛々と輝かせて瓜が吼える。絞り出すような鋭い声にビクッとした綱吉だったが、瓜は地面に蹲ったまま動かなかった。
 威嚇してくるのは、逃げる体力が無いからだ。強がって見せているだけだと分かって、彼はホッと胸を撫で下ろした。
「ったく、吃驚させないでくれよな」
 愚痴を零して再度手を伸ばし、今度は掌で頭を撫でてやる。耳を押し潰された瓜は嫌がって首を振ったが、抵抗は案の定弱かった。
 毛並みは、獄寺が丹念にブラッシングしているからだろう、滑らかだった。生意気な赤い瞳も、首の後ろを擽ってやるうちに少しずつ穏やかになっていく。兵器とはいえまだ子猫も同然で、綱吉は頬の強張りを解いてリラックスした表情を浮かべた。
「あは」
 気持ちが良かったのだろうか、瓜がゴロゴロ喉を鳴らして甘えて来た。毎回のように彼の鋭い爪の餌食になっている手前、苦手意識が育ちつつあったけれど、全部吹き飛んでしまった。手首に擦り寄られて、綱吉は思い切って左手も伸ばした。
 横たわっていた瓜の身体を抱き上げ、胸元に引き寄せる。羽織ったベスト越しに、獄寺の鼓動を感じた。
「っと、そうだ」
 瓜を撫で回すのにうっかり夢中になって、肝心の獄寺に連絡するのを忘れていた。慌てて片手で抱き直し、右肘を引いて携帯電話をポケットから引き抜く。二つ折りのそれを親指で弾いて広げ、登録済みの短縮番号を押すべくボタンに親指を掛ける。
 頭の中に思い描く行動をそのまま実行に移す。だが、思わぬ横槍が入った。
「十代目!」
 この後電話口から聞こえてくる予定だった声が、直接耳に響いたのだ。
 ぎょっとして震え上がった綱吉の向こうから、獄寺が一直線に走ってくる。猛然とダッシュしている所為で、彼の足元には砂埃が舞っていた。
 何かから逃げているようにも見えたが、違った。勢い余って綱吉の横を行き過ぎ、校舎の壁に激突する寸前でブレーキを掛けるのに成功した彼は、跳ね上がった銀髪もそのままに、息も絶え絶えに振り返った。
 右手に携帯電話を、左手に瓜を抱えていた綱吉は、呆然と彼の行動を見送った。
「ご……獄寺君?」
「良かった、十代目。って、瓜!」
 呼んでいないのに向こうから来た。どういう原理かさっぱり分からずにいると、今頃になって瓜の存在に気付いた彼が素っ頓狂な声をあげた。
 大声で叫ばれた嵐猫が迷惑そうに顔を顰め、綱吉の手の中で不機嫌に眉を寄せた。不穏な気配を敏感に感じ取った綱吉が、携帯電話を口に押し当てて静かにするよう合図を送る。それではっとした彼は両手で口を塞ぎ、代わりに足をじたばたさせた。
「フーッ」
 鼻息荒く唸った瓜が、綱吉の手の中で敵愾心を露わにする。自分の主に対してまでも牙を剥く瓜に苦笑して、綱吉は宥めようと頭を撫でてやった。
 携帯電話をポケットに捻じ込んで、まだ息を乱している獄寺を改めて見詰める。不思議なのは、どうして彼は呼ぶ前に裏庭に馳せ参じたのか、だ。校舎の方を探してみると言って、走って行ったのに。
 瓜を宥めながら小首を傾げていると、喉に絡んだ痰を飲み込んだ獄寺が肩を上下させて無理のある笑顔を浮かべた。
「十代目が俺を呼んだ気がしましたので」
 校舎に入る手前だったのだが、すっ飛んできたらしい。良く見れば、彼の靴は上履きだった。
 所々詰まりながら状況を説明した獄寺の顔は、喋るたびに綻んでいった。嬉しそうに目尻を下げて、だらしなく鼻の下を伸ばす。目に掛かる銀髪を後ろに梳き流して、綱吉がひたすら苦笑しているのにも気付かない。
 彼は最終的に胸を張り、両手を結んできらきらと目を輝かせた。
「これが、テレパシーって奴ですかね!」
「……さぁ?」
 授業に出ても昼寝してばかりの彼だが、実はとても頭が良い。吃驚するくらいの高得点を、テストの毎に叩き出してくれている。
 それなのに、彼は不思議な現象が大好きだった。
 科学で解明できていない物事に興味があるのだろう、未確認飛行物体やUMAといった存在について、恐ろしいほどに蘊蓄が深い。超能力にも多大な興味を寄せており、常々自分にも秘められた力が無いかと、スプーン片手に精進に励んでいる。
 指輪に百年以上前に生きていた人の意志が宿っている段階で、自分たちは既にオカルトの領域に足を踏み込んでいる。十年先の未来を一足先に体験してきたのだって、世間一般の人々に語り聞かせたところで誰も信じないだろう。
 いわば、自分たちの存在自体が既に不可思議な現象だ。だが獄寺はそうは考えないようで、日々UFOとコンタクトを取る術を探して研究に余念が無い。
 興奮に色めき立った獄寺の顔が近い。鼻息を浴びせられた綱吉は仰け反り、一歩半後退した。
「にょおぅ……」
 胸に抱いた瓜が力の無い声を発した。綱吉の手首に前脚を引っ掛け、じっと獄寺を睨んでいる。しかし人間の視線とは高さが違うので、ふたりとも全く気付かなかった。
「嬉しいっす、感激っす。俺、十代目と通じ合えたんですね!」
 握り拳を震わせた獄寺が、感極まった声で叫んだ。
 ガッツポーズまで作って喜びを噛み締めている彼に、返す言葉が見付からない。それはちょっと違うと思うのだが、どう言えば良いか分からなくて綱吉は笑顔を引き攣らせた。
 恐らくは瓜に触れた時に、嵐の炎が大空の炎に反応したのだ。瓜は獄寺の分身のような存在だから、理屈としては少々無理があるけれども、そういう事が起きる可能性は否定出来ない。
 確かにこれもテレパシーの一種かもしれないが、かといってそうだと断言するのは憚られた。同意できずに緩慢に笑っていたら、獄寺がムッと顔を顰め、口を尖らせた。
「十代目は嬉しくないんですか」
「いや、ぁ。その……」
 生憎と、綱吉はそこまで不思議現象に興味は無い。間近で起きたら面白いな、と思う程度で、真剣に原理を追求する気力も知力も、体力も持ち合わせていなかった。
 頬を掻いて誤魔化そうとした彼の肩を不意に掴み、獄寺は唇を噛み締めた。
「十代目、これは大事なことなんです。画期的なことなんです」
「う、ん?」
「考えてもみてください。テレパシーが通じるという事は、通信機が要らなくなるという事です。通信機は機械です。何かあった時、壊れて使い物にならなくなることだってありえます。ですがテレパシーなら、機械が必要ありません。いつ、どんな状況下でもお互いの無事を確かめ合うことが出来るんです!」
 瓜ごと綱吉を前後に揺さぶり、熱の篭もった論説を展開させていく。途中から聞くのを止めた綱吉は、こめかみに鈍痛を覚えて項垂れた。
 予鈴が鳴る音が聞こえた。早く教室に戻らなければ午後の授業が遅刻扱いになってしまう。しかし獄寺はお構い無しに持論を展開して、話し止む気配は見られなかった。
 熱中するあまりに周りが見えなくなっている彼に首を振り、綱吉は中断を求めて口を開いた。
「にょぉん」
 弱々しい声が聞こえて、彼はハッと息を吐いて下を見た。
 うっかり瓜を握り締めていた。これでは苦しかろうと慌てて力を緩め、解放する。
 刹那。
「イッ!」
 チリッと来る痛みと熱に襲われて、綱吉は右肩を跳ね上げた。地面に放り出された瓜が器用に四本足で着地を決めて、両耳から赤い炎を轟々と吐き出す。
 さっきまで弱っていたのに、急にどうした事だろう。目を見開いた綱吉は、右手の甲に走った赤い筋に奥歯を噛み締めた。
「いってぇ……」
「十代目、大丈夫ですか。おい、こら、瓜! 十代目に何しやがる」
 綺麗に三本、筋が走っている。深く突き刺さった場所から血が滲んで、赤味を帯びた範囲はじわじわ広がっていった。
 突然の事にムンクの叫びの如きポーズを取り、顔面蒼白になった獄寺は、二秒後には真っ赤になって憤慨し、距離を置いて唸っている瓜を怒鳴りつけた。
 四本の足を踏ん張らせて、瓜も負けていない。睨み合いが始まってしまって、綱吉は傷口を庇って鼻を鳴らした。
「にょおん!」
「十代目に謝れ」
 何かを訴えるようにして瓜が叫んだが、獄寺は耳を貸さない。横薙ぎに腕を払い、綱吉を指差して目を吊り上げた。
「にょ、にょぅ、……フーッ」
 既にエネルギーは切れかけているはずなのに、瓜はぼうぼうと紅蓮の炎を滾らせて獄寺の前で身を低く構えた。直後全身をバネにして撓らせ、地上高く跳び上がり、主人目掛けて飛びかかった。
 鋭い爪を光らせて、呆気に取られている獄寺の顔を容赦なく引っ掻く。勢いは綱吉の時の比ではなくて、獄寺の白い肌は見る間に傷だらけになってしまった。
 一頻り引っ掻き回して満足したのか、瓜はしゅたっと着地を決めて、勝ち誇った顔で鳴いた。
 獄寺はがっくり膝を折り、その場に蹲った。
「うお、ぐぁぁ」
 両手で顔を押さえ込み、苦痛に呻いて上半身を前後左右に振り回す。
 彼が瓜と頻繁に取っ組み合いの喧嘩をして、傷だらけのボロボロになっている姿は過去幾度か目にしていた。しかし今回は、これまでを上回る悲惨っぷりだ。
 折角の綺麗な顔が真っ赤に染まり、頬にも額にも、余すところなく擦過傷が出来上がっていた。蚯蚓腫れは見ているだけで痛々しく、涙が滲む瞳は憐れみを誘って直視に耐えない。
 無惨な姿を晒した獄寺と、鼻息荒く猛っている瓜とを交互に見て、綱吉は彼に掻かれた手を撫でた。
 ちくりとした痛みが、何故か胸に走った。
「あー……」
 ピンと来るものがあって、綱吉は緩慢に頷き、膝を折って蹲っている獄寺に肩を竦めた。自分もしゃがみ込み、無事だった方の手を伸ばす。
「おいで、瓜」
 そしてチチチ、と舌を鳴らして、警戒心を露わにしている子猫を誘った。
 予鈴が鳴り終わり、授業開始までもう残り時間は殆どないのだが、そんな事もうどうでも良くなっていた。
 綱吉の行動に驚いたのは獄寺で、彼は無惨な様相のまま目を見開き、吹っ飛んで行きそうな勢いで首を横に振った。
「いけません、十代目。こら、瓜! 大人しくしやがれ」
 すかさず獄寺が間に割り込んで、綱吉を庇うように腕を伸ばした。
 前に出た彼に牙を向け、瓜が目を吊り上げて唸った。小柄な体躯からシャーッ、と鋭い声を発して、敵愾心を剥き出しにする。
 獄寺の背中で前を半分塞がれた綱吉は、身を捩り、目尻を下げた。
「大丈夫だって。瓜、ごめんな」
「十代目?」
 焦りを顔に出し、綱吉に瓜を近づけまいとする獄寺の肩を押して、前に出る。狼藉を働いた嵐猫に何故か謝罪した彼に、獄寺は素っ頓狂な声をあげた。
 きょとんとした顔で見詰められて、綱吉は再度手を広げ、まだ威嚇して来る瓜に掌を差し出した。
 おいで、と軽く上下に振って、優しい笑顔を浮かべる。
「心配しなくても、お前のご主人様は、お前が一番大事だからさ」
「フーッ」
 全身の毛を逆立てている瓜に静かに語りかけ、綱吉は傍らの獄寺にも微笑んだ。彼は呆然とした面持ちで数秒間惚け、随分経ってから右の人差し指で己を指差した。
 綱吉が噴き出した。
「おいで、瓜」
 強がってはいるけれど、瓜に残る炎の量は少ない。無理をして動き回ったので、今すぐにでも尽きてしまいそうだ。
 次第に弱っていく耳の炎にあわせるかのように、我を張っていた瓜の表情から険が抜けて行った。
「にょぉん……」
「お前のご主人様を取ったりしないから、大丈夫だよ」
 弱々しく鳴いた瓜が、恐る恐るといった風情で綱吉に近付いた。獄寺の腕の下を掻い潜り、手に擦り寄って甘えた声で鳴く。
 通じ合っている彼らを振り返り見て、獄寺は間抜けに口を開いた。
「はい」
「あ、はい」
 抱き上げた瓜を渡されて、獄寺は反射的に受け取って渋い顔をした。力の抜けた瓜の姿は見ていられなくて、何故あんな無理をしたのかと、引っ掻き回された痛みも忘れて胸を痛める。
 起きあがって背中に手を回した綱吉が、ふふ、と目を細めた。
「ナッツもたまにこうなるよ」
 思い出し笑いでカラコロと喉を鳴らした彼は、遅刻でも構わないから教室に戻ろうと言い、身体を反転させた。
 瓜が空腹を訴えて泣く。獄寺を酷い目に遭わせたばかりだというのに、もう忘れている。現金すぎる彼に渋い顔をして、獄寺は瓜を指輪に戻した。
 少し可哀想な気がしたが、授業に行くのに出しっぱなしにするわけにもいかない。後ろで生じた炎の流れに、綱吉は腰を捻って振り返った。
 琥珀色の瞳を揺らした彼の手をおもむろに掴み、獄寺は歯を食い縛った。
 痛いくらい握られ、物言いたげな視線を間近から浴びせられて、綱吉の肩が跳ね上がる。緊張に強張った紅色の頬に齧りつきたい衝動に駆られ、彼は懸命に己を押し留めて口を開いた。
 瓜が怒ったのは、彼が綱吉にばかり気をかけていたからだ。弱った瓜がそこにいるのに、綱吉に話しかけるのを優先させたからだ。
 だから拗ねて、怒った。
「確かに俺は、匣アニマルでは瓜が一番です」
 それを見抜いた綱吉の言葉を頭の中で反芻させて、彼は怒鳴った。瓜を宥めるための方便だと信じたいが、綱吉の笑顔に若干の不安を抱かずにはいられなかった。
 唾を飛ばした獄寺に吃驚して、綱吉は小さく頷いた。
 綱吉とて、気持ちは同じだ。親ばかと笑われても構わない。匣アニマルで最も可愛いのは、やはり自分と共に居る天空ライオンのナッツだ。
 今更な事を叫んだ彼に相好を崩し、綱吉が話を切り上げて歩き出そうとする。振り解こうと動いた彼の手を一旦放してまた掴み、獄寺は距離を詰め、綱吉の目を覗き込んだ。
 鼻を膨らませ、先ほどまでとは違う興奮に荒い鼻息を吐く。
「ですが、俺は、人間では十代目が一番ですから!」
「……へ?」
「あ」
 怒鳴りつけられた綱吉が目を見開き、それを見た獄寺が勢い任せに吐いた台詞に気付いて奥歯を噛み鳴らした。
 今なにか、とてつもない事を言われた気がする。が、聞き返すことが出来なくて、綱吉は口をもごもごさせた。
「え、えっと……あ、ああ。授業始まっちゃってる」
「そ、そうっす、ね。急ぎましょう、十代目」
 本鈴が鳴ったのに、全く気付けなかった。声を上擦らせ、他所を見ながら捲くし立てた綱吉に頷き、獄寺も傷だらけの顔を掻いた。
 背中を押されて、綱吉が先ず駆け出す。遅れて獄寺が、首の後ろまで赤い綱吉を見詰めながら足を前に繰り出した。
 彼の顔もまた、蚯蚓腫れ以上に赤かった。

2010/07/30 脱稿