怠業

 グラウンドでは三年生の男子が、サッカーボールを追いかけて所狭しと走り回っている。威勢のいい掛け声が飛び交う中、綱吉は陽射しを避けて運動場を囲む木立の隙間を小走りに駆け抜けた。
 体育の時間でもないので、ボールを蹴り飛ばすエリアに明確な線引きは無い。東西の両側に置かれたゴールにボールを押し込みさえすれば、後は体力の続く限りどこまで逃げ回ろうと本人の自由だ。
 短い昼休みを存分に満喫している彼らの輪に混じる気は、欠片も無い。所詮何をやってもダメダメのダメツナは、ボールに爪先さえ掠めぬまま終了のホイッスルを聞くのが常だ。
 縦横無尽に駆け回る上級生から目を逸らし、日陰でも温かな空間に視線を向ける。冬を終えて春を迎え、硬かった蕾は一斉に綻んで鮮やかな色彩を放っていた。
 若々しい緑の葉が、風が吹くたびにざわめき立つ。心を擽られる音色に耳を傾けながら、彼は周囲をぐるりと見回した。
「うーん」
 喉の奥で小さく呻き声を零し、髭の生える兆候が一切見られない滑らかな顎に指を置く。軽く右に首を傾がせた彼は、眉間の皺をやや深くして、唇を前に突き出した。
 困った顔をして数秒間考え込み、振り返って校舎の壁に設置された大時計を見た彼は、休憩時間の残りを即座に計算して、肩を落とした。
「何処行っちゃったのかな」
 探し人の影がまるで見当たらない。昼食を食べ終えて教室を出るところまでは確認しているのだが、その後の行方はようとして知れなかった。
 何人かに話を聞いて、屋上ではなくグラウンドの方に出て行ったという情報は手に入った。下駄箱を覗いてみたら彼の上履きが収まっていたので、外に出たのはどうやら間違いないらしい。
 けれど広い運動場を占拠しているのは主に上級生で、野球部がキャッチボールをしている光景には出会えなかった。
 校舎裏手のような、表からは見え難い場所に隠れられていたら、お手上げだ。体育館でも覗いてみようかと、反対側に聳える細長い建物を睨み、綱吉は頬を膨らませた。
 あと十分もすれば昼休みが終わる。本鈴が鳴る前に教室に入っておかないと遅刻扱いにされてしまうから、急がなければいけない
 どこかで入れ違いになって、探し人の方が先に教室に戻っている可能性だってある。どうしたものかと嘆息した彼は大袈裟な身振りで頭を掻き毟り、風に巻き上げられた砂埃に慌てて目を閉じた。
 乾燥した風に煽られ、跳ね放題の髪の毛が稲穂のようにそよそよと揺れ動いた。膝を折って身を屈めた彼は、数秒待って静かになった周囲に息を吐き、唇に残った砂粒と一緒に唾を吐いた。
「何処行ったんだよ、ほんとに」
 濡れた唇を拭いながら愚痴を零し、足元の空気を蹴り飛ばす。その勢いでくるりと反転し逆方向を見た彼は、居並ぶ木立の間に奇妙な物体があるのに気付いて顔を顰めた。
 グラウンドの端、敷地を区切っている背の高い塀の手前。廃材置き場に近い、用がなければあまり人が近付かない区画だ。
「なんだろ」
 怪訝にしながら呟き、綱吉は自分の直感を信じて足を前に繰り出した。
 この春に新調したばかりの運動靴は、日頃の行いの所為か爪先が既に真っ黒だ。右側の紐が緩んで蝶々結びも歪だけれど、解けなければどうでもいい。彼は大股に進み、頭上を流れた木々の囀りに目を細めた。
 春は全ての生命が活気付く季節だ。寒い冬が終わり、やっと心も体も自由になれた。そんな錯覚を胸に抱いて微笑んだ彼は、近付くに連れてはっきりと見え始めた違和感の正体に肩を竦めた。
「こんなとこに」
 腰に手をやって嘆息し、地面に直接寝転がっている山本の姿に愁眉を開く。ようやく見つけ出した親友は、桜の木の根を枕に高いびきをかいていた。
 いくら気候が穏やかになってきているからといっても、朝晩はまだ随分と冷え込む。上着なしで出歩くにはちょっと勇気が必要な、少し不便な時期だ。
 だというのに彼は規定のネクタイを外してシャツのボタンも上から二番目まで外して、襟元を寛げていた。ベージュ色のブレザーも前が全開で、これでは規則通りに着こなしている綱吉が、まるで馬鹿みたいだ。
 シャツの裾もズボンの上に出して、風で捲れたのか片側だけが胸元に向かってひっくり返っていた。これでは腹が冷えてしまいかねないと思うのに、山本は実に気持ち良さそうに寝息を立てている。
「むー」
 貴重な休憩時間を潰して探し回っていた綱吉の苦労も知らず、こうも呑気に寝入られると腹が立つ。その場で足踏みをした綱吉は、彼を起こすべく距離を詰め、利き腕を伸ばした。
 腰を屈めて顔を覗き込み、彼の直ぐ右側に落ちている本に気付いて首を傾げる。
「なんだろ」
 先にそちらに興味が行って、綱吉は慎重に文庫サイズの本を拾い上げた。
 こびり付いていた砂を払い、落ち着いた色合いの表紙に記された文字に目を通す。初めて聞くタイトルで、筆者はカタカナだった。カバーは外されており、年季が入っているお陰か、端が日に焼けてしまっていた。
 図書館で借りてきたものではなさそうだ。どうやら詩集らしく、中を開くと短い文章が次々と現れた。
「…………」
 両手で閉じた本を挟み持ち、足元の青年を見下ろす。野球馬鹿と称されるほどのスポーツマンである山本と、外人の詩集という組み合わせは、あまりにも不釣合いに思えてならなかった。
 もう一度表紙に目を通して心の中で呟き、膝を折って屈む。人の気配を察知したのか、山本の表情が初めて険しくなった。
 眉間に皺を寄せ、ぐずる声を発して寝転んだまま仰け反る。綱吉は手にした文庫本にちらりと目をやり、縦に構えた。
「ていっ」
「いて!」
 勢い良く真下に振り下ろせば、額に角をぶつけられた山本が甲高い悲鳴を上げた。
 四肢をビクッと痙攣させ、薄目を開けて濁る視界に瞬きを繰り返す。木漏れ日が注ぐ中、自分に覆い被さる影の正体を知った山本は、全身に走らせた緊張を緩め、盛大に息を吐いた。
「んだよ、ツナか。吃驚させないでくれ」
「山本こそ」
 打たれた箇所を指でなぞり、腫れていないのを確かめて浮かせた後頭部を地面に戻す。綱吉が言い返すのを待ち、彼はゆっくりと身を起こした。
 背中に細かい砂が張り付いているが気にも留めず、短く切り揃えた黒髪をサッと撫で回した彼は胡坐をかいて座り直し、まだ残る眠気を追い払おうとしてか、大きな欠伸を零した。
 左腕を頭上高くまで伸ばし、右手は広げて口元に。目尻に涙を浮かべて背中を丸め、直後に両手で頬を力強く叩いた。
 目の前で響いた音に綱吉は目を点にして、二秒後にぷっ、と噴き出した。
「山本ってば」
「ん~~……んで、なに?」
「ああ、あのね。先生が呼んでた」
 尻を浮かせて膝を抱えた綱吉が、右手に持ったままの文庫本を揺らしながら校舎に目を向けた。琥珀の瞳が脇に流れるのに合わせ、山本も枕にしていた桜の木越しに四階建ての建物を見上げた。
「先生って、誰?」
「名前、知らない。ちょっと禿げかけてる、背の低い先生」
「ああ、あの人か」
 すぐさま綱吉に向き直って問えば、彼はちょっと困った顔をして俯き加減に言った。上目遣いに見詰められて、山本は脳裏を過ぎった候補の中から思い当たるひとりを弾き出した。
 他学年の担任だから、綱吉に馴染みが無いのも無理は無い。
「用は?」
「聞いてない。山本に急ぎで話がある、ってだけしか」
 昼休みにわざわざ教室まで出向いて来たから、よっぽどだろう。早く行ってやるべきではないかと綱吉は彼の袖を引いたが、山本は呵々と喉を鳴らして笑い、首を横に振った。
 そうして綱吉が握っている本に手を伸ばし、引き抜いた。
「多分、部活の話。悪かったな、ツナ」
 手垢がついて黒ずんでいる表紙を捲り、ぱらぱらと広げた山本が視線を下に固定したまま言った。
「俺は、どうせ暇だからいいんだけど」
「ん?」
「いいの?」
 行かなくて、ともう一度校舎に向かって顎をしゃくり、促すが、山本は動こうとしなかった。大粒の瞳いっぱいに映る己の姿に苦笑して、彼は静かに目を閉じ、頷いた。
 用件は想像がつく。部活の始まる放課後までに顔を出せば、それで事足りるはずだ。
「むぅ、そっか」
「ありがとな。探してくれたんだろ」
「そうだよ。何処にも居ないし」
 言葉少なな山本の説明に頷いて無理矢理自分を納得させ、綱吉は頭を撫でに手を伸ばした彼を避け、頬を膨らませた。
 行き場を失った利き手を引っ込めた山本が、何が面白いのかまた楽しげに笑った。
「いやさ。教室だと似合わねーとかって五月蝿いだろ」
「うん。……あ、いや」
 詩集を顔の横にやった彼の言葉に、間髪入れずに頷いてから、綱吉は自分の失言を慌てて否定した。しかし山本は気を悪くする様子もなく受け流し、本の背表紙で自分の太腿を叩いた。
 獄寺辺りは特に、お前に高尚な文学が理解出来るのか、とでも言って口さがなく罵るだろう。周囲の雑音を気にせず読書に集中する為には、教室を遠く離れて誰にも見付からない場所に避難する必要があった。
 山本の心境も分かる。だが何故に詩集なのか。
 悪いとは言わないが似つかわしくないのは事実で、点と点を結ぶ答えを求め、綱吉はじっと彼を見た。
「春だし。なんか今までと違うことに挑戦したくならね?」
 真っ直ぐな視線に照れ臭そうにして、山本が白い歯を見せた。次いで、偶々自宅で、何故かあった本を興味本位で持って来ただけだと付け足されて、そちらの理由の方が納得がいく、と綱吉ははにかんだ。
 若かりし頃の父親が読んだかもしれない本がどんなものか知りたくて、しかし読んでいるうちに睡魔に襲われた。その間に進んだページは、片手で余る程でしかない。
「やっぱ俺には無理だわ」
「山本らしいや」
「なんだよ。笑うなって」
 お陰でぐっすり眠れた。今夜からはこれを片手に布団に入る事にしようか。そんな事を口ずさんだ彼が可笑しくて、綱吉は声を立てて笑った。
 自分で言うのは良いのに、人に言われると悔しくなる。綱吉の反応に一寸だけ腹を立てた山本が、そう厚みも無い文庫本の詩集を掲げて綱吉目掛けて振り下ろした。
 ぽすん、と肩に落ちた拳は痛くない。ちゃんと考えて手加減してくれているのだと分かって、それだけで綱吉は嬉しくなった。
「あ、チャイム」
 そうこうしているうちに、時間はどんどん過ぎていく。すっかり忘れていたけれど、今は昼休みの真っ只中だ。
 校舎に設置されたスピーカーから鳴り響く予鈴に顔を上げ、綱吉が呟いた。本鈴は五分後で、それまでに教室に入って机に座っていなければ、扱いは遅刻だ。
 此処から二年生の教室までは、結構な距離がある。玄関で下足から上履きに履き替える時間も足さないといけない。トイレにでも寄っていったら、本当にぎりぎりだ。
「山本、戻ろ……うっ」
 尻を浮かせて爪先だけで全身を支えていた綱吉が、右足の裏全部を地面に押し当てて立ち上がるべく身構える。中腰の非常に不安定な体勢だった彼は、突如横から伸びてきた腕に引っ張られ、簡単にバランスを崩した。
「よっと」
 肘から落ちてきた彼を腹筋で受け止めて、山本が足を広げた。真ん中に綱吉を置いて肩を抱き寄せた彼は、吃驚して目を丸くしている親友に朗らかに笑いかけた。
 両腕で拘束されて身動きが取れない。突然の状況に混乱を来たした綱吉は、首を回して真後ろで目を細めている山本を精一杯睨みつけた。
「山本!」
「んー?」
 いきなり何をするのかと怒鳴るが、彼は何処吹く風と受け流して綱吉の襟足に額を押し付けた。
 肌を擽る他者の熱にビクッとして、身を硬くした綱吉の肩を優しく揉み解す。予鈴は余韻を残して空の彼方へ消え去り、グラウンドを賑わせていた上級生も軒並み校舎の中へ消えた。
 入れ替わりに午後の授業が体育だろう生徒らが、体操服で現れる。しかし校庭の隅に近いこの場所は、彼らの目には映らない。
 もうじき授業が始まってしまう。焦る綱吉を他所に山本は腕の力を強め、逃げたがる彼をこの場に押し留めた。
「ちょっと、山本」
「な、ツナ。どうせだし、このまま眠っちまわね?」
 抜け出そうと身を捩る綱吉の耳元で囁き、背筋を戦慄かせた彼に人好きのする笑顔を向ける。悪戯を思いついた子供の表情を見出して、綱吉は脱力して天を仰いだ。
 五時間目の授業はなんだっただろう。思い出そうとしている彼の思考を読んで、山本は喉を鳴らした。
「杉山の授業、お前だって聞いてねーだろ?」
「それは、……そうかもしれないけど」
「な?」
 国語の教諭は定年目前の男性で、ゆったりのんびり喋るので有名だ。おっとりした性格をしており、声も柔らかく深みがある。その所為で授業中、生徒達は常に睡魔と戦わなければならない。
 あの声はある意味子守唄だ。綱吉もご多分に洩れず居眠りの常習犯で、授業に出たところでどの道真面目にノートを取らない。
 悪魔の囁きに心を揺り動かされて、彼は口篭もった。
「風紀委員に見つかっても知らないよ」
「大丈夫だって。あいつらだって、今頃昼寝してるって」
 楽観的な事を口ずさみ、綱吉に甘えて頬に頬を押し当ててくる。擦りつけられて、間に挟まれた髪の毛がくすぐったかった。
 本当だろうか。疑う気持ちは大きかったけれど、山本が言うならきっとそうなのだろう。強面の風紀委員に怒られる自分の姿を脳内から追い出し、綱吉は肩を小刻みに震わせた。
「じゃー、山本。読んでよ」
「おいおい」
 詩集を小突き、強請る。山本は苦笑し、嫌がる素振りを見せながらも、右手を持ち上げて親指で表紙を捲った。
 桜の根元に腰を下ろし、幹にふたり分の体重を預けて寄りかかる。彼らの頭上を優しい風が駆け抜けて、授業開始を告げる本鈴を攫っていった。

2010/03/29 脱稿