慰労

 思えば、誰かの為に何かを買って帰ろうだとか考え付いて、あれやこれやと店を物色するのは初めてではなかったか。
 車庫入れを済ませ、運転席のドアを閉じたバジルは、続けて後部座席のドアを開き、そこに置いていた自分の上着と、小さな紙袋をひとまとめに持ち上げた。
 鍵はポケットの中だが、所有者がある程度距離を取ると自動的に閉まる仕組みだ。紙袋を潰さぬように注意しながらジャケットに袖を通して身なりを整えた彼は、目に掛かる長い前髪を耳に引っ掛けて後ろに流した。
 サラサラと絹のように艶やかなそれは、ちょっと動くだけでも簡単に外れて前に戻ってしまう。それでも懲りずに後ろに遣りながら、彼はガレージに居並ぶ車の数を数えた。
 四輪駆動車から真っ赤なスポーツカーまで、どこのショールームなのかと思える程に車種は幅広い。持ち主の個性が見事に反映された光景に肩を竦め、バジルは遠く、建物のある方角に目を向けた。
「笹川殿に、獄寺殿に、あれは山本殿のでしたか」
 今は無人の車を指差しながら、所有者の顔を思い浮かべてそれぞれの名を呟く。世界的に有名な日本車のロゴマークを宙に描き出し、彼は足早にガレージを後にした。
 気が急いてか、いつもより歩幅が広い。紙袋を前後に大きく揺らして勝手口に等しい裏手のドアを抜け屋内に入ると、なにやら作業中だったらしい女中に見つかって会釈されてしまった。
「沢田殿は?」
「お部屋にいらっしゃいますよ」
「感謝します」
 別に見られて困ることは何もしていないのだが、先に相手に気付かれたことに、バジルは些か己を恥じた。周囲への注意が散漫になっている証拠だと自分を戒め、腹に力を込めて無理な笑顔を作る。
 なんでもないように装ってエプロン姿の女性に問えば、彼女はふっくらした紅色の頬を緩ませ、柔和な笑みを作った。
 母親程の年齢の、恰幅の良い女中に律儀に頭を下げて教えてくれた礼を述べる。彼女は大仰に手を振り、声を立てて笑った。
 気にしないでくれと言われて微笑み返し、バジルは広い廊下に足を向けた。先ずは帰還の報告を済ませようと、当初の予定通り綱吉が居るという彼の執務室を目指し、玄関ホールから二階への階段を登る。
 きっと獄寺や山本たちは、表から堂々と入ってくるのだろう。守護者であるか否かの違いは、思いの外大きい。
 少しだけ彼らを羨ましく感じ、バジルは首を振って打ち消した。自分には自分の役割がある、それは守護者の誰にも出来ない事だ。そう繰り返し言い聞かせ、彼は最後の一段を強く蹴った。
 廊下の中央には濃い緋色の毛氈が敷かれていた。そのなるべく端を通り抜け、幾つか並ぶドアを越えて先に進む。
「気に入っていただけるでしょうか」
 そしてゴールが見え始めたところで、彼は初めて抱いた不安を声に出して呟いた。
 なにせ綱吉は、次期ボンゴレ頭首だ。他人からの贈り物など、それこそ数え切れないほどに受け取っている。その中には目玉が飛び出そうになるくらいの高額なものも、当然含まれるだろう。
 それに比べれば、こんな町中の小さな雑貨屋に売られていた品など、ゴミのようなものだ。
 選んでいる時は楽しかったのだが、足を前に繰り出すに連れて、気持ちはどんどん沈んでいった。
「……やはり、止めておきましょうか」
 綱吉に、変に気を遣わせてしまうことにもなりかねない。
 日本人は義理堅いと聞いている。贈られたら異なるものを贈り返す、というやり取りが毎年夏や年の瀬にあって、それが非常に面倒臭いという話も、小耳に挟んでいた。
 彼に喜んで欲しくて買って来たのに、逆に負担に思わせるのは本意ではない。ついに足を止めたバジルは、右手に持った紙袋を胸の高さまで掲げ、角張った縁を指で広げた。
 水色のリボンが結ばれた品が見え隠れして、彼は嘆息して低い天井を仰いだ。
「困りました」
 誰かに何かを贈った経験など、片手で足りるほどしかない。ボンゴレの門外顧問に所属し、世界各地を飛び回る生活がずっと続いていたが、その間故郷で待ってくれている人などひとりも居なかったからだ。
 振り返ってみると、随分と寂しい人生だ。自嘲気味な笑みを浮かべた彼は、ともあれ綱吉の顔を一度見てから考えようと決め、止まっていた歩みを再開させた。
 綱吉が慣れない海外生活と多忙さに潰れてしまわないように、という九代目の配慮から、バジルが此処に派遣されてそれなりの時間が過ぎていた。仕事内容は主にスケジュール管理に仕事の補佐、稀に綱吉の代理人という格好での出張もある。
 今回もその一環で、半島のとある田舎での取引に出向いた帰りだった。
 綱吉は母語である日本語以外には、なんとか会話レベルに達したイタリア語と英語しか操れない。ロシア語での商談が出来るようになるには、まだ当分時間が掛かりそうだ。
 相手側は綱吉が駄目なら彼に匹敵する人材、遠回しに守護者の誰かを寄越すよう言ってきた。しかし残念ながら、彼らも揃ってロシア語には不慣れだ。唯一操れる六道骸は、気まぐれを働かせて表に出てこない。
 通訳を同席させる案もあったけれど、それでは時間が掛かるし回りくどい。急遽矢面に立たされたバジルに、断る権限は無かった。
「手土産は、商談成立の報告だけで充分だったかもしれませんね」
 丸まる二日間、旧時代の設備しかないホテルに缶詰にされて、どうにか合意にまでこぎつけた。思い出すだけで疲れが戻って来て、慰めに肩を撫でた彼は目を覆う前髪を横に払い除けた。
 綱吉の喜ぶ顔が目に浮かぶ。こんなチンケな品よりも、そちらの方がずっと得るものも多かろう。
 気を取り直して咳払いをして、彼は重厚な造りのドアの前に立った。にわかに緊張して来た心臓を宥め、ノックしようと拳を作った彼の耳に、ふと、不自然な音が紛れ込んだ。
「……?」
 おかしい。
 耳を澄ませばドア越しに話し声が聞こえるが、途切れ途切れに届く内容は全くもって綱吉に係わり合いの無い事だった。
 ガレージに並んでいた車を思い出す。獄寺、山本、そして笹川了平。
「まさか」
 彼らにだって仕事があるはずだ。綱吉だけでなく、守護者全員のスケジュールにもひと通り目を通し、把握しているバジルは、嫌な予感を覚えて唇を噛んだ。
 どうして今頃思い出すのだろう。この三人、本来ならこの屋敷に居られる訳が無い。
「沢田殿」
 獄寺はイタリア北部に、山本は中国に、了平はアメリカに。それぞれに大事な商談を抱え、時差に苦しみながら慣れない異国で戦っている筈の彼らが、どうしてここに居るのか。
 もっと早くに気付くべきだったと、ひと仕事終えて浮かれていた自分を思い知り、バジルはこめかみの鈍痛を堪えてドアを叩いた。 
 呼びかけても直ぐに返事は無くて、その代わりに聞こえていた声が途切れた。
 ドアの向こう側の状況を想像し、顔を引き攣らせたバジルが覚悟を決めてドアノブに手を伸ばす。右に回して押すと、出来上がった隙間からドタバタという足音が溢れ出した。
「失礼します。ただ今戻りました」
 構わずに呼びかけ、一気にドアを押す。開かれた空間のほぼ中央で、菓子を咥えた山本と了平が、盆踊りの練習でもしていたのだろうか、滑稽なポーズで停止していた。
 獄寺は床に這い蹲り、大振りの箱を頭の上に掲げていた。中身は遠目だから分からないが、推測するに、山本たちが食べている菓子だろう。
 ちょっと離れたところでは、牛柄模様のシャツを着たランボが、腹を出して寝転がっていた。鼻ちょうちんを膨らませているので、眠っているのは間違いない。
 最後に綱吉の姿を探し、バジルは暫く見ない間に随分立派な壁と化している書類の山に肩を落とした。
「少々お尋ねしたい事が御座います。皆さん、此処でいったい、何をなさっているのでしょう」
 極力感情を表に出さないよう静かに問えば、男三人は一旦停止を解除して顔を引き攣らせた。
 咥えていたクッキーを噛み潰し、残り半分を床に落とした山本が半歩後退した。スーツだがネクタイを外し、襟元を広げて着崩した彼は、睨まれて顔を逸らし、助けを求めて起き上がろうとしていた獄寺を見た。
「えっ」
 その彼はぎょっとして仰け反り、抱えていた箱を床に置いて尻餅をついた。そのままずるずる下がって、この場で最年長の了平の後ろにサッと隠れた。
 山本同様ネクタイをしていない彼は口の中のものを慌てて噛み砕いて飲み込み、開き直ってか白い歯を見せてニカッと笑った。
「おう、誰かと思えば貴様か。久しぶりだな」
「そうですね。笹川殿とは一ヶ月と十二日、加えて十八時間三十六分ぶりでしょうか。それで、みなさんお揃いで、こちらで何を?」
 バジルの記憶違いでなければ、三名ともこの場にいてはならない。ボンゴレという組織の枠組みからはみ出ている雲雀や骸達は兎も角として、彼らは立派に、綱吉の部下だ。
「いや、それは、なあ」
「うむ。極限どうにもならんかった」
 笑顔を引き攣らせたバジルの質問に、山本が頭を掻いて答えを濁す。しかし了平がきっぱりと、それも馬鹿の一つ覚えのように堂々と言い放った為、台無しだだった。
 下の方では獄寺が真っ黒い背景を背負って俯き、涙で「の」の字を書いていた。
 彼らの態度と台詞から、凡その見当はついた。頭痛が酷くなり、バジルは眉間に指を置いて顔を引き攣らせた。
「それは、つまり」
 言うのも恐ろしいと途中で言葉を切るが、察した三人は揃って頷いてくれた。
 商談失敗。その漢字にして四文字が脳裏を過ぎり、バジルはハッとした。
「沢田殿」
 部下の失態は、上司の責任。彼らが此処に居るという事は、綱吉も当然三人のもたらした結果を知っている。彼が知っているのならば、当然綱吉の上に当たる人物の耳にも事の次第が届いているだろう。
 積もり積もって出来た書類の壁は、本来なら綱吉の執務机のある位置に聳えていた。
「沢田殿!」
 引き攣り笑いを浮かべている三名を押し退けて部屋を横断し、窓辺から紙の壁を回りこむ。ブランケットライトが優しい光を放つ中、バジルが見たのはミイラ寸前まで干乾びた青年の姿だった。
 机に突っ伏し、気を失っているのかピクリともしない。
「さわ、だ、どの……?」
 まさかとの思いが胸を過ぎり、恐る恐る手を伸ばして細い肩に触れる。
 直後。
「うわぁぁぁごめんなさいごめんなさい、不出来な馬鹿でごめんなさい!」
 指先がちょっと掠めただけなのに即座に反応した綱吉が、ガバッと勢い良く起き上がって机に向かって何度も頭を下げ始めた。
 いったい誰に向かって叫んでいるのか、途方に暮れてバジルは前を見た。
 さっきまでそこに居たはずの三名が、見事に行方をくらましていた。
 開けっ放しのドアから涼しい風が流れ込み、置き去りにされたランボのいびきがバックミュージックとして厳かに響き渡る。逃げ足の速さはだけは一級品だと頭を抱え、バジルはいい加減落ち着くように綱吉に言い聞かせた。
 まだ半分夢の中だった綱吉が、ぽん、と後ろから肩を叩かれてはたと我に返った。
「ごめんなさい、ごめ……ん?」
 壊れたレコードのように同じ言葉ばかりを繰り返していた彼が、瞬きひとつで動きを停止してぎこちなく首を巡らせた。
 呆れ顔で佇むバジルをそこに見出し、吃驚した様子で目を丸くする。大粒の瞳は若干色が濁り、目の下は黒ずんで隈が出来ていた。
 疲れがそのまま顔に出ている。全身から立ち上るオーラからは覇気が少しも感じ取れなくて、出張に出る前とは比較にならない彼の状態に、バジルは激しい後悔に襲われた。
「沢田殿、申し訳ありません」
「え……?」
「拙者が不甲斐ないばかりに」
「え、あ、いや、あ」
 たった数日であっても、綱吉の傍を離れるべきでなかった。度重なる部下の失態に、各方面から叱責が飛んだのだろう。綱吉の疲れ具合は半端なかった。
 反省を表に出して深く頭を下げたバジルの足元で、紙袋が床に擦れて音を立てる。ほぼ真下を向いた彼の頭部を見詰めた綱吉は、言いたい事が即座に思い浮かばず、混乱した面持ちで身じろいだ。
 椅子を軋ませて振り返り、肩を落として力なく微笑む。
「おかえり。そっか、バジル君も」
「沢田殿?」
「いいんだ。怒られるのには慣れてるから」
「はい?」
 微妙に話がかみ合っていない気がして、バジルは僅かに身を乗り出した。力の無い笑顔を浮かべた綱吉は、枕にしていたお陰ですっかり皺だらけの書類を手に取り、丁寧に広げていった。
 ちょっと見ただけでは内容全てを読み取れないものの、賠償請求の文字だけははっきりと見えた。イタリア語で記されているので、予想が正しければ獄寺がまた短気を起こしたのだろう。
 失敗を積み重ねてこその人生だと、バジルも思う。守護者の面々も、あれで本当は反省しているのだと信じたい。
 努力が報われないのは仕方が無い事とはいえ、綱吉への負担は想像を超えている。
「すみません、沢田殿。なにか」
 綱吉が何を言っているのか分からなくて頭に疑問符を生やし、バジルは右手を伸ばそうとして、ぶら下げていた紙袋の存在を思い出した。綱吉は気付かずに首を振り、深々と溜息をついた後に転がっていたペンを拾った。
 疲労感が全身から滲み出ている。これ以上働かせても、効率が悪い云々を越えて彼の命に関わりかねない。
「沢田殿、昨晩は休みになられましたか」
「んー、二時間くらい?」
「ベッドには」
「あはは。ごめん、俺ちょっと臭いかも」
 重ねた問いかけに、綱吉は肩を揺らして笑った。風呂に入っていないという意味だと解釈し、バジルは嘆息した。
 仮眠も机に突っ伏してか、ソファに横になった程度なのだろう。獄寺達が使っていたと思しき茶器が並ぶテーブルセットを振り返り、すっかり荒れ果てた室内にバジルは首を振った。
 他にも使用済みの汚れた食器が、一方に寄せ集められていた。食べ残しの食物の饐えた臭いが漂って、衛生上も非常に宜しくない。
 誰も片付ける人が居なかったのかと肩を竦め、バジルは額に指をやって前髪を掻き上げた。
「バジル君?」
「沢田殿、少し横になられた方が」
「でも、みんなの分が」
「沢田殿が倒れられたら、元も子もありません」
 紙袋を握る手を腰に宛て、ガサガサ言わせる。席を離れるよう催促するが綱吉は渋り、バジルの手で揺れる袋に小首を傾げた。
 きつめの口調で言い聞かせ、背凭れと背中の間に手を差し入れて無理矢理立たせれば、彼はふらついて、そのままバジルにしがみ付いた。
「あ、……っと」
「立てますか」
「無理って言ったら?」
 上着の襟を掴んで寄りかかって来た彼を支え、バジルが足を踏ん張らせる。恐る恐る問い掛けると、今日初めて笑顔らしい笑顔を浮かべた綱吉が、探るような眼差しを向けて来た。
 この調子なら大丈夫そうだと押し返して自力で立たせ、バジルは彼を置いて早々に歩き出した。まだ夢の中のランボに苦笑して、ソファに散らばる菓子屑に苦虫を噛み潰したような顔をする。
「バジル君」
「寝室、入っても宜しいですか?」
 追いかけて来た綱吉に振り返り様に問い、頷かれるのを待って彼は再度歩き出した。お手本のように背筋を真っ直ぐ伸ばし、執務室の奥にあるプライベートルームに続くドアを押し開ける。
 カーテンが閉ざされて光が遮断された空間は、長く人が出入りしていなかったのだろう、埃っぽい空気が沈殿していた。
 彼は手探りで照明のスイッチを入れ、後ろに続いて来ない綱吉を探して背後を見た。彼は床に転がっているランボを揺り動かし、起きるよう促していた。
「沢田殿」
「ランボ、ほら。そこで寝てちゃ風邪ひくだろ」
 机をベッド代わりにしていた人間の言えた台詞ではない。聞こえた彼の言葉に嘆息して、バジルは紙袋の中身を取り、リボンを解いた。
 広い寝室の真ん中を占領しているベッドに歩み寄り、枕元のチェストにそれを置く。
「んー……ツナ、お仕事終わった?」
「まだだよ」
「や~だ。もっと、ランボさんと遊べー」
 背が伸び、体重が増え、あっという間に大きくなったとはいえ、ランボはまだ子供だ。眠たげな声で駄々を捏ねて綱吉を困らせて、彼の足にしがみ付く。
 重たい荷物を引きずって戸口から顔を覗かせた綱吉は、枕元に待ち構えているバジルに苦笑し、軽く手を振った。
「バジル君、ランボ寝かせてやって。俺、やっぱりもうちょっと」
「拙者の分は無事に終わりましたよ」
「え?」
「お手伝いしますので、先ずは体調を万全に整えてください」
 どうしても仕事に戻ろうとする綱吉に諭しかけ、バジルは目を丸くした彼に微笑んだ。矢張り勘違いをしていたらしい、話の流れから彼がそう思い込んだとしても不思議ではなかった。
 どうぞ、と手招きするバジルに呆然としながら、綱吉はランボの手を引いて寝室に入った。柔らかな香りが鼻腔を擽り、正体を探って視線を泳がせる。
 チェストの上に置かれたキャンドルの上で、オレンジ色の炎が揺らめいていた。
「それ」
「帰りに立ち寄った町で見つけたものです。最近寝付きが悪いと仰ってましたよね」
 指差せば、バジルは照れ臭そうに笑った。背中に手を回して結び合わせ、空っぽの紙袋を揺らす。
 微かに香るアロマキャンドルに、綱吉は目を瞬かせた。些細な会話までつぶさに覚えている彼の記憶力の良さに感心し、思いがけない気遣いに顔を綻ばせる。
「ツナー」
「ランボ、おいで」
 我が儘を振り翳すランボを連れて、綱吉はバジルの傍らに寄った。恭しく頭を下げた彼にはにかんで、綱吉は先に上るようランボの背中を押した。
 遅れて自分も靴を脱ぎ、スラックスが皺になるのも構わずに柔らかなクッションに身を沈める。
「二時間したら、起こしに来ますね」
「バジル君」
「はい? ……うわっ」
 一休みした後はゆっくり湯船に浸かり、温かな食事で胃袋を満たす。綱吉のこれからのスケジュールを瞬時に組み立てたバジルに手を伸ばし、綱吉は惚けていた彼を思い切り引っ張った。
 油断大敵という単語が脳裏を駆け抜ける。呆気なくベッドに転がり落ちたバジルは、もう少しで彼と頭をぶつけるところだったのに驚き、仰け反って離れようとした。
 だが綱吉は手を放さず、逆に躙り寄って両手を広げた。
「沢田殿!」
「ね、折角だし。バジル君も。このまま眠ってしまおうよ」
「はい……?」
 ランボなどは元から眠たかったのもあって、既にうつらうつらと舟を漕いでいる。上にのし掛かってくる綱吉の肩に手を回し、押し退けようとしていたバジルは聞こえた台詞に目を点にした。
 甘美な誘惑に心が揺れた。しかしバジルにだって、仕事は山ほど残っている。
「しかし」
「君だって疲れてるでしょ。それに」
「それに?」
「……ありがとうね」
 声を潜め、耳元で囁く。
 耳朶に触れた吐息に身震いして、バジルは胸に顔を埋めた綱吉の髪に指を絡めた。
「仕方がありませんね」
 キャンドルから立ち上る仄かな香りと揺れる光が、奥底に潜んでいた眠気を呼び覚ます。欠伸を噛み殺し目尻を擦った彼は、幼い日に母がそうしてくれたように、綱吉の背中を撫でた。
 心地よい感触に身を捩り、綱吉が声もなく笑った。
 明日こそはきっと良い日になる。そう祈り、彼らは静かに目を閉じた。

2010/03/29 脱稿