迷子

「ガウッ!」
「こーら、ナッツ。あんまり遠くに行くんじゃないぞ」
 鮮やかな朱色に染まった雲が、西の空一面に広がっていた。
 地平線に近い位置を泳ぐ太陽が完全に沈みきるまでに、まだ少しの猶予がある。残り時間を大雑把に計算して、綱吉は視線を下方に移し変えた。
 彼の前方では、小さな生き物が元気良く走り回っていた。
 光の加減によっては黄金色にも見える、オレンジ色の炎を鬣に持つ獣が、草地を行き交うトンボを追いかけて飛び跳ねている。珍しいのか、それとも単に動くものに反応しているだけなのか、これまで動物を飼った例の無い綱吉には分からなかった。
 ナッツ、と名付けられたそれは、一見すると猫のようだが、れっきとしたライオンだった。もっとも、地上に生息する百獣の王と呼ぶにはあまりにも愛らしすぎる外見をしているし、性格も臆病で、恐がりだった。
 いったい誰に似たのか。言いたくなったが、簡単に認めるわけにもいかなくて、綱吉は肩を竦めた。
「キャピッ」
「ナッツ?」
 家庭教師であるリボーンから肌身離さず持ち歩くよう言われている、首にぶら下げたチェーンに通したリングは、今現在は、ひとつだけだった。
 本来はふたつ並んでいるべきものだ。もう片方は、捨てたわけではない。そこではしゃいでいる天空ライオンことナッツが、指輪そのものなのだ。
「ああ、もう。だから言ったのに」
 大空の炎を与えて解き放ち、自由に動けるようにしたのは綱吉だ。十年先の未来での戦いを経てこの時代に帰る最中、復活を遂げたアルコバレーノの奇跡により、連れ帰ってきた動物たち。
 元々はボンゴレ匣という小箱に収められていたのだが、どういう理屈か、彼らはこの時代では姿かたちを模った指輪に変貌を遂げた。
 苦しい戦いを共に勝ち抜いた仲間であり、かけがえのない同士。これからもずっと一緒に居られると分かった時は、兎に角嬉しかった。
「ほら、大丈夫か?」
 その天空ライオンを助け起こして、綱吉は折った膝を伸ばした。草にサンバイザーが絡まって身動きが取れなくなっていたナッツは、綱吉の手に甘えてゴロゴロ喉を鳴らし、上機嫌に伸びをした。
 この辺りの仕草は、猫そのままだ。ライオンも猫科だというから仕方が無いかもしれないが、一応は獰猛な獣の王なのだから、それらしき雄姿を見せて欲しいところだ。
「ガッ、ガウゥ」
 よしよしと頭を撫でてやり、気まぐれに小さな鼻を小突く。顔の中心部を弾かれたナッツは若干恨めしげに綱吉を見上げ、拗ねたのかぷいっ、とそっぽを向いてしまった。
 しかし反抗的態度も長続きせず、目の前を横切ったトンボに気を取られ、愛らしい獣はその場でぴょん、と飛びあがった。
「ガウッ、ガウー」
 短い前足を懸命に伸ばして捕まえようとするけれど、届かない。何度ジャンプしても結果は同じで、やがて疲れたのか、ナッツはしょんぼりしながら地面に穴を掘った。
 拗ねたり、笑ったり、怒ったりと、表情の変化はなんとも目まぐるしい。今しばらくは穴掘りに夢中で、そこから動く気配は無さそうだと判断し、綱吉は土手の上に置いたままだった自分の鞄を取りに戻った。
 振り返れば川の水面に夕日が反射して、赤々と眩しく輝いていた。五十メートルほど先の橋はコンクリート製で、年季の入ったトラックがガタゴトと音を立てて対岸に渡っていくのが見えた。 
 並盛町の郊外を流れる川は穏やかで、水嵩もさほど高くなかった。河川敷は一面草で覆われて、昆虫達の格好の隠れ家だった。
 学校の帰りに立ち寄ったのは、他でもない。この一帯は人通りが少なくて、ナッツを自由にするのに人の目を気にしなくて済むからだ。
 猫と見紛う外見をしているが、サンバイザーをしているというのもあって、彼はちょっと目立つ。ふわふわの鬣や、尻尾に灯るオレンジ色の炎も、他の猫とは大きく違っている。
 だからあまり表立って外に出せない。家の中ならまだ良いが、大勢の目に晒すのは避けたかった。
 此処に来る途中、自動販売機で買ったジュースのプルタブを弾き、口をつけてひとくち飲む。持ち運んでいる最中にすっかり温くなってしまって、味は少し貧相に感じられた。
「むぅ」
 寄り道も、買い食いも、校則で禁止されている。が、住宅も疎らな地区なので風紀委員も流石にこんなところまで出張して来ないだろう。
 綱吉の守護者であり、その風紀委員の長たる青年を脳裏に思い浮かべて直ぐに打ち消し、綱吉は呑気に缶を揺らして鞄を担いだ。
「ナッツ、帰るぞー」
 耳元でちゃぷちゃぷと水音を響かせ、更にひとくち飲んでから声を張り上げる。夕暮れは少しの時間のうちに一層色を濃くしており、東の空からは藍色の闇が迫ろうとしていた。
 そろそろ戻らないと、家に帰りつく頃には真っ暗だ。あまり遅くなっては奈々が心配するし、リボーンの説教も五月蝿い。重箱の隅を突くような小言は出来るなら避けたくて、綱吉は川原にいるはずのナッツを呼び、返事を待った。
 が、背の高い草が生い茂る川原はシンと静まり、山彦のひとつも返ってこなかった。
「あれ?」
 聞こえなかったのかと訝しみ、綱吉はもう一度相棒の名前を呼んだ。しかし結果は同じで、薄い羽根を痙攣させたトンボが右から左に流れていっただけだった。
 これまで通りなら、綱吉が呼べばナッツは直ぐに走って来た。いつだって元気一杯で、馬鹿みたいに素直で、ドジだけれどどこか憎めない。そんな匣アニマルの顔を思い浮かべながら、彼は河川敷に降りる傾斜に爪先を向けた。
 穴掘りに夢中になり過ぎている、そう考えて短い坂を一気に駆け抜ける。途中震動で缶が大きく揺れて、中身が零れて手に掛かったが、彼は気にも留めなかった。
 砂埃を巻き上げながら草地に戻って背筋を伸ばし、周囲を見回して肩を上下させる。此処でやっと濡れた左手を気にした彼は、苦虫を噛み潰したような顔をして舌打ちし、ズボンのポケットからハンカチを取り出した。
 昨日からそこに入っていた、皺だらけで硬くなった布を広げ、缶の表面もついでに拭いて握り締める。今日こそ洗濯に出すのを忘れないようにと心に決めて、彼は残っていたジュースを一気に飲み干した。
 近くにゴミ箱が無いのを悔しく思いつつ、足元に目を向けてあの愛くるしい猫、もとい小型のライオンを探して首をぐるりと巡らせた。
「……あれ」
 だが目に入る範囲に、その姿はなかった。
 半ば唖然としながら、もう一度、先程よりもずっと注意深く気配を探るけれど、それでも見付からない。草を掻き分け少し進んだところで掘り返された地面を発見したが、肝心のナッツは影も形も残っていなかった。
「ええ?」
 俄かには信じがたい状況に瞠目し、ハッと息を吐いて顔を上げる。
「ナッツ?」
 幾らかトーンの上がった声で呼ぶが、返事はなかった。
 あらゆる物に対して興味を持ち、おっかなびっくり近付いては度々痛い目を見ている子だ。未来から戻って来たばかりの頃、奈々が操縦する掃除機に戦いを挑んで呆気なく返り討ちに遭っていたのを思い出し、綱吉は力なく肩を落とした。
「ナッツ!」
 ほんの少し語気を荒げ、その辺に隠れているはずのナッツを呼ぶ。隠れん坊をして遊んでいる暇などないのだと言外に告げるが、それでもあの愛嬌たっぷりの獣は姿を現さなかった。
 段々と腹が立ってきて、綱吉は手近な草を蹴って薙ぎ払い、空間を広げた。
「遊ぶのはお終い。今日は帰るぞ」
 反対の足も持ち上げて、薙ぎ倒された草を強く踏みしめる。脅しをこめて叫んだ彼だったが、期待した結果はなにひとつ得られず、虚しい風がそよそよと吹き抜けて行くだけに終わった。
 握り拳を震わせ、呆然とその場に佇んで、たっぷり五秒経ってから拳を解く。指を緩めすぎた所為で、持っていた空き缶までもが地面に落ちてしまった。
 カン、と硬い音を小さく響かせて一度だけ跳ね、横倒しになって転がったそれに見向きもせず、綱吉は沈黙を続ける河川敷に見入った。
「ナッツ……?」
 これだけ呼んでも出てこない。いつもならとっくに顔を出し、綱吉に尻尾を振って、抱っこをねだって飛びかかって来るのに。
 空っぽの手を見詰め、唇を戦慄かせる。琥珀の目を見開いた彼は、排気ガスを撒き散らして走る車のエンジン音に総毛立ち、顔を引き攣らせて振り返った。
 土手の先の道を、四輪車が勢い良く駆け抜けていく。匣アニマルの頑丈さはお墨付きだが、猛スピードで走る車に撥ねられても平気かどうかは、綱吉には分からなかった。
 嫌な想像をして真っ青になり、彼は急いで下ったばかりの土手を駆け上がった。
「ナッツ!」
 河川敷からでは見えなかったアスファルトに舗装された道に飛び出して、声の限り叫ぶ。だが相変わらず周囲は静かで、それらしき影は見当たらなかった。
 肩で息をした綱吉が斜め下、土手と河川敷を同時に見て唾を飲む。もう一度叫ぼうとした彼だが、タイミングが合わなくて、開けた口からは何の音も出てこなかった。
 呼気が喉に詰まって噎せて、三度ばかり咳をしてあまり立派とは言えない喉仏を撫でて自分を宥める。落ち着け、と呪文の如く繰り返して鞄を強く握り締めた彼は、意識して深呼吸し、唇を引っ掻いた。
 いったい何処に行ってしまったのだろう。ナッツがこの近くにいないのがほぼ確定して、綱吉は奥歯を噛み締めた。
 あれだけ遠くに行かないよう言い聞かせていたのに、なんの効果もなかった。自分の躾けが悪いのか、それとも誰かに似て直ぐに浮き足立つ、そそっかしい性格が悪いのか。
「何処行っちゃったんだよ、もう」
 答えてくれる人が居ないと知りつつ声に出して呟き、綱吉はナッツの鬣によく似た毛色の髪を掻き回した。
 やけにトンボに興味を示していたから、それを追いかけて行ってしまったと考えるのが妥当だろう。掘った穴もそのままにして、夢中になって駆け出して、気がつけば知らない場所。今頃不安に震えているはずで、考えただけで背筋が寒くなった。
「ったく、手間の掛かる奴」
 口では面倒臭い言わんばかりの事を呟くけれど、内心焦りを抱かずにいらない。綱吉は鞄を握った手を上下させ、暮れなずむ西の空に顔を向けた。
 ナッツを探し出さないことには帰れない。あんな臆病で弱虫で、泣き虫を置いていけるわけがない。
 だが何処にいるのかさっぱり見当がつかなくて、綱吉は痺れを切らし、ジュースの匂いがほんのり残る親指の爪を噛んだ。
 その場で足踏みを繰り返し、川上と川下のどちらに進むかでまず迷う。ここで選択を誤れば、時間を大幅に無駄にしてしまいかねない。
「ナッツの馬鹿」
 こういう時こそ超直感が働いてくれればいいのに、自由に扱えないというのは厄介極まりない。右かと思ってそちらに進もうとして、二歩目が出ないうちから左のような気分に陥って、にっちもさっちもいかなくなってしまった。
 いっそ落ちている棒を拾い、倒れた方を選んでしまおうか。
 川べりの道で右往左往している彼の姿は、遠目からも大層目立った。
 視界を遮る無粋な建物は存在しない。真っ直ぐ伸びる川、それに沿って走る道。今のところ近付いて来る車の姿もなくて、見晴らしはとても良かった。
 だから綱吉にも、橋を渡って来た人の姿は視界に入っていた。が、それどころではなかったので深く考えもせずに頭から追い出してしまった。向こうが彼に気付き、進もうとしていた道を変えて近付いて来るのにも、殆ど反応せずにいた。
 いつの間にか距離は大幅に詰まり、五メートルを切っていた。
「なにしてるの?」 
 正面からの呼びかけにはたと我に返り、吃驚して顔を上げる。見えていたはずなのに見ていなかった綱吉は、此処に来てやっと、自分の前方に佇む青年の存在を認識した。
 黒髪は夕日を受けて淡く輝き、川辺から流れてくる優しい風に煽られて毛先が踊っていた。綱吉と同じ紺色のベストを着て、長袖シャツの左袖には臙脂色の腕章を留めている。スラックスも靴も髪と同色で、眩しい西日を堪える瞳はそれよりも深い闇色だった。
 右手を掲げて陽光を遮った彼の目が、一直線に綱吉を射抜く。
「え?」
 話しかけられたが咄嗟に返事が出来ず、綱吉は声を上擦らせ、目を瞬かせた。
 何故彼が此処に居るのかという疑問が脳裏を過ぎり、続けて何故このタイミングで彼に見付かってしまったのかと、自分の不運さを嘆きたくなった。
「なに、してるの」
 語尾の上がらない質問を再度投げつけられて、トーンの低さに背筋がゾッとした。寒くもないのに寒気を覚えて身震いした彼は、険のある目つきの青年に咄嗟に首を振り、担いでいた鞄を引き寄せて胸に抱え込んだ。
 並盛中学校風紀委員長、雲雀恭弥。その人となりを知らない綱吉ではなくて、彼は背筋を戦慄かせ、頬を引き攣らせた。
 一応はボンゴレ十代目候補である綱吉の守護者のひとりだが、その傍若無人さは未来から帰って来ても少しも変わらなかった。十年後の世界で出会った彼は落ち着いた大人の男性に成長を遂げていたけれど、今のこの雲雀と比べると、本当に同一人物なのかと疑いたくなった。
 どうやったら彼は、あんなにも思慮分別のある人に育つのか。その秘訣を未来で聞いてくれば良かった。
 そんなどうでもいい事を頭の片隅で考えながら、綱吉はこの場をどうやって切り抜けるかを必死に考え、冷たい汗を流した。
 反応の芳しくない彼をじっと見据え、雲雀は痺れを切らして右手を腰に当てた。
「沢田綱吉」
「ひっ、はい!」
「寄り道は校則違反だよ」
 フルネームで名前を呼ばれ、綱吉が大仰なくらいに大きな声で返事した。背筋をピンと伸ばした彼を笑いもせずに言って、雲雀が淡々と言葉を紡ぐ。
 低い声で囁くように言われ、綱吉は鞄を力いっぱい抱き締めた。
「いや、その……」
「それとも、こっちに何か用事でもあったの?」
「それは、えっと」
 なんとか誤魔化そうとあれこれ画策するものの、次に繋げる台詞がなにひとつ浮かんで来ない。重ねて問われて目を逸らし、彼は地平線に迫る太陽を眩しく見詰めた。
 苦々しい顔をして唇を舐め、弱りきった表情を浮かべて前を塞ぐ青年に向き直る。
「沢田」
「すみません。あの、えっと……うちの、その、ナッツ、知りません、か」
「?」
 下手な言い訳をするよりは、ストレートに訊いた方がいい。まどろっこしいのを嫌う雲雀の性格を考慮に入れて辿々しく問うた綱吉に、雲雀は怪訝に眉を寄せた。
 用があったのか訊いているのに、質問でやり返されるとは思っていなかったらしい。顰め面を作った雲雀を前に綱吉は膝をぶつけ合わせ、ナッツがいなくなった川原に視線を走らせた。
 瞳の動きを察知した雲雀もが、河川敷に顔を向けて、風にそよぐ草原を視野に収めた。
「ナッツ、って」
「俺の匣アニマルで、えっと、知りませんか」
 鞄から手を離し、これくらいの大きさの、と胸の前で両手を二十センチ間隔で向かい合わせる。空気を丸くこね回した彼の動きに緩慢に頷き、雲雀は記憶を巡らせて顎に手を置いた。
 チョイス戦でのやり取りを見ていてくれたなら、雲雀もナッツをモニター越しに確認しているはずだ。並盛神社で合流した時も、炎のエネルギーを集める際に綱吉は彼を呼び出している。
 今一度知らないか目で問うて、綱吉は両手を背中に回した。
「知らない」
「……う」
「いないの?」
「居なくなった、っていうか。気がついたら」
 そもそも雲雀は、今さっき此処に着いたばかりだ。それよりも前に河川敷から姿を消したナッツを見ているわけがない。冷静に考えれば直ぐに分かることで、綱吉は上唇を噛み、雲雀の言葉に頷いた。
 彼は見事に呆れ果てた顔をして綱吉を見下ろし、盛大な溜息をついて黒髪を掻き上げた。
 仕草ひとつにとっても、凛々しくて格好良い。これでもう少し協調性というものがあれば良かったのだが、孤高の浮雲にそれを期待するのも無理な相談だろう。
 あの未来に行くのは二度と叶わないから、何故綱吉が正一と結託した際、雲雀を仲間に引き入れたのかも、分からない。確かに信頼に足る人物ではあるけれども、未来の沢田綱吉は、どうやってこの我が儘で傲慢な人物の手綱を握るのに成功したのか。
 探るような目で見上げていると、視線に気付いた雲雀が怪訝な顔をして、口を尖らせた。
「そんなの、炎の供給を止めてやればいいじゃない」
「それはそう、なんですけど。でも結局、何処にいるのか見つけないと」
 匣アニマルは所有者の死ぬ気の炎をエネルギーとしている。その源を断たれると、彼らは動けなくなり、停止する。
 今以上遠くに行くことはなくなるが、それでも捕獲するべく探さなければならないのには変わりない。それに獄寺の弁ではないが、炎を奪って弱らせるのはどうにも可哀想でならない。
 きゅぅ、と悲しげな声で鳴くナッツを思い浮かべて胸が締め付けられた綱吉の言葉に、雲雀は愛想のない相槌を打ち、首にぶら下げたチェーンを引っ張った。
 シャツの襟から飛び出した銀の鎖には、指輪がふたつ、ぶら下がっていた。
 ひとつはボンゴレリング、もうひとつが彼の匣アニマルだった雲ハリネズミだ。形状通りトゲトゲしており、刺さったら痛そうだった。
 ふたつのリングをぶつけ合わせた彼を上に見て、綱吉は視線を浮かせた。近くにいないのか、黄色い鳥の姿は見える範囲にはなかった。
 もっともあれは、匣アニマルではない。いつの間にか雲雀に懐いてしまった、不思議な鳥だ。
 学校でもたまに姿を見かける。いつも適当な小枝で羽根を休め、呑気に校歌を口ずさんでいた。
 あれはあれで可愛らしい。未来で見た雲雀の匣兵器であるハリネズミも、大きさ的にナッツとそう変わりなく、鳴き声も実に愛らしかった。
「ヒバリさんって」
「なに」
「あ、いえ。なんでも」
 ああいう小さい生き物が好きなのか。咄嗟に訊こうとして口を開いた綱吉だったが、皆まで言う前に不穏な空気を感じ取り、慌てて自制を働かせた。
 こういう時だけ超直感が働くのも、いかがなものか。顔の前で手を振って誤魔化した彼は、眉を顰めている雲雀から顔を背け、無駄に広い河川敷を見下ろした。
 草原は川沿いにずっと続いて、橋の手前で途切れていた。
「ナッツ」
「心配?」
「そりゃ。俺の分身みたいなもの、ですし」
 不安に彩られた声で名を紡げば、即座に横から声が響いた。首肯して上向き、雲雀の姿で視界の右半分を埋めて言い返す。
 だのに彼はどこか釈然としない、不可思議な顔をした。
「ヒバリさん?」
「分身、ね」
 独り言を呟き、彼はチェーンに絡んだ指輪を抓んだ。棘のある方を顔の前に持っていき、物珍しげにそれを見詰める。
 彼が胸に抱いている疑問がなんとなく分かって、綱吉は堪えきれずに噴き出した。
「そういえば、なんでハリネズミなんですか?」
 ナッツを探さなければいけないというのに、気になって訊かずにいられなかった。声のトーンを高くした綱吉を一瞥した雲雀は、不満げに頬を膨らませ、ふいっ、とそっぽを向いてしまった。
「知らないよ。僕が選んだんじゃないんだから」
「ああ、それは確かに」
 雲ハリネズミの匣兵器を愛用していたのは此処にいる雲雀恭弥ではなく、十年後の世界に居た彼だ。中学生の雲雀の言い分ももっともであり、納得顔で頷いた綱吉は、髪の短い青年の姿を瞼の裏に描き出し、もどかしげに唇を噛んだ。
 未来と言う名の過去に思いを馳せる綱吉から目を逸らし、雲雀は夕日を浴びて鋭く輝くロールのリングを爪で弾いた。
「探すんじゃないの?」
「え? あ、ああ。はい」
 白蘭を倒し、崩壊の危機にあった未来を救って、元の時間に戻って来てから数日。綱吉は雲雀を前にして、時折遠い目をする事があった。
 中学生の雲雀の向こう側に、違う誰かの姿を見ている。重ねて、比較して、それを本人に悟られまいとして緩慢に笑う綱吉はどことか寂しげだった。
 気付かないでいるフリをして、雲雀は地平線に目を眇めた。眩しさを堪えて険しい表情を作り、土手を下る一歩を踏み出す。
 言われて思い出した綱吉は、照れ臭そうに頭を掻いて鞄を脇に抱え直した。
 彼の雲雀に対する態度は、微妙に余所余所しい。十年先の未来を垣間見て、今とは明らかに違う関係を自分たちが築いていた事実に戸惑い、困惑している様子が窺えた。
 一応雲雀も、ある程度の情報は、あの時代で邂逅したディーノや草壁から聞いていた。
 不満もあった。何故自分が、ボンゴレなどと言うわけの分からない組織の為に身を投じなければいけないのか。しかしそれを口にした時、年を経たふたりは揃って苦笑して、肩を竦めるばかりだった。
 手間の掛かる子供に向けられる彼らの視線は気味が悪いほどに優しげで、昔を懐かしむ色で溢れていた。
「行き先に心当たりは?」
「それが分からないから、こうやって」
 振り向き様に問えば、綱吉は頬を膨らませて両手を広げた。
 思い当たる場所があればとっくに探していると、そう言外に告げられて、雲雀は爪先で地面に穴を掘っている彼に嘆息した。
 制服の皺を撫で、スラックスのポケットに指先だけを押し込む。急がなければ、日が暮れた後は暗くなるのも一瞬だ。この周辺は街灯も少なく、夜間は人通りも殆どない。
 ただの愛玩動物とは違う匣アニマルを自由に走り回らせられる場所を探して、此処に辿り着いたのだろう。いじらしくある綱吉の横顔を何気なく見下ろして、雲雀は首を振った。
 動きに合わせて揺れたチェーンで、カツン、と指輪がぶつかり合った。
「沢田」
 十年先の世界の沢田綱吉は、雲雀恭弥と秘密を共有しあう間柄にあった。今のふたりの距離感からは考えられないくらいに、近しいところにふたりは居た。
 今はこんな風に離れているけれど、十年という時の流れの中で彼らは互いに歩み寄った。
 一歩を踏み出してしまえば、後は早い。それこそ日暮れのように。一瞬で、太陽と大地はひとつに重なり合える。
「はい?」
 呼ばれて、綱吉は顔を上げた。手伝ってくれるのを期待して、心持ち声を高くした彼の視界を、黒い影が走りぬけた。
 肩を掴まれて、骨と骨の間に指が潜り込む。力を込められて痛くて、咄嗟に悲鳴を飲んで奥歯を噛み締めた綱吉の頬を、艶やかな黒髪が甘く擽った。
「――え?」
 引き寄せられて、踵が地面に別れを告げた。爪先立ちを強いられて、反射的に身を退こうとしたけれど、叶わない。鞄が大きく前に傾いで、角が硬いものにぶつかって止まった。
 目の前にあったはずの雲雀の顔が無くて、代わりに夕焼けに染まる空が一面に広がった。瞳を限界まで左に寄せれば、そこにこんもりとした黒い塊があるのが見えた。
 断りもなく人の肩口に顔を寄せた雲雀が、クン、と鼻を鳴らした。彼の呼気が襟を滑って首の薄い皮膚を撫でる。浴びせられた風は生温く、彼の体温そのものを思わせた。
「っ」
 身を竦め、首を引っ込めて雲雀の肩を押し返す。もっと抵抗されるかと思いきや、彼は実に呆気なく綱吉を解放した。
 後ろ向きにおっとっと、と跳ねて距離を取った綱吉は、雲雀の鼻先が触れた頚部に手を押し当て、夕焼け以外の理由で顔を赤く染め上げた。
「な、なに」
「君の匂い」
 声を上擦らせて問えば、雲雀は淡々と告げて、親指で唇を撫でた。
 何を言われたのか一瞬分からなかった綱吉は、理解した途端に頬に走る朱を一段と強め、汗腺が集中している脇を締めた。
 そんなに汗臭いかと勘繰ったが、どうにも違うらしい。いやに神妙な顔をした雲雀は土手に視線を投げ、首に絡みつく鎖を引っ張り、外した。
 棘だらけの指輪を鎖から解き放ち、右手の中指に装着する。何をするつもりなのかは、綱吉にも馴染みのある動作だから訊かずして分かった。
 匣アニマルの解放だ。
「ヒバリさん」
「君はさっき、あの子は自分の分身だと言ったね」
「へ? あ、はい」
 ボッ、と紫色も鮮やかな炎が彼のリングを包み込む。己の手元を見詰めたままの彼に訊かれ、綱吉は首を縦に振った。
 ナッツは綱吉にそっくりだと、皆が皆、口を揃えて言った。あの子がどういった経緯でこの世界にやって来たのか、何も知らぬ奈々にさえも、良く似ていると評価されてしまったくらいだ。
 いつもは臆病で、弱虫で、泣き虫だけれど、いざとなれば驚くほどの力を発揮する。綱吉の心に過敏なまでに反応する彼は、今や綱吉になくてはならないパートナーだった。
 分身、という言葉は言いえて妙だ。もうひとりの自分だと、今回は素直に認められた。
 深く首肯した綱吉に満足げな笑みを浮かべ、雲雀は心の中で雲ハリネズミの名前を呼んだ。出て来るように、そしてもうひとつ命令を下し、指輪から解放する。
 ボンッ、と桔梗色の煙が彼の手を包み込み、咄嗟に顔を背けた綱吉の足元で何かが蠢いた。
「キュー……」
 酷く頼りなげで、それが却って可愛らしく思える鳴き声に目を見開き、慌てて下向いた綱吉の爪先で、鼻の尖ったハリネズミが一匹、棘だらけの背中を丸めて転がっていた。
 着地に失敗して背中から落ちてしまったらしい。思わず軽く蹴って天地を正しくしてやると、前方から突き刺さる視線を感じた。
「ご、ごめんなさい」
「いいよ」
 失礼を働いたと後から気付き、綱吉が口をもごもごさせる。しかし雲雀はあまり気にする様子も無く、素っ気無く言って膝を折った。
 道路の隅でしゃがみ込み、嬉しそうに鳴いたハリネズミの頭を突く。
「分かるね」
「キュ、キュー」
 静かにそれだけを諭し掛けると、途端にロールは威勢よく鳴き、くるりと身体を反転させた。背中の棘をピンと尖らせ、短い足を交互に動かして雑草が生い茂る土手を駆け出す。
 あっという間に姿は草に埋もれて見えなくなったが、動き回る際にガサガサと音がするので、見失うことはなさそうだった。
「……分かるんですか?」
「さあ?」
 犬ならばまだしも、ハリネズミの嗅覚が優れている、という話は聞いた事が無い。不安げに尋ねた綱吉に、雲雀はこれまた素っ気無く返した。
 ナッツを探し出せる自信があるから、ロールを呼び出したのではなかったのか。疑問符つきで言われてしまった綱吉は愕然とし、雲雀の失笑を買った。
 口角を歪めて薄く笑みを浮かべた彼は、ガサゴソと草地を蛇行するロールを追いかけて土手を下りだした。河川敷に降りて立ち止まり、斜め上を向く。無言で訴えられて、綱吉は渋々彼を追いかけた。
 ロールは右に、左に忙しく草を掻き分けて、雲雀が渡って来た橋に向かって突き進んでいく。
「信じていいのかな」
「大丈夫じゃない?」
「ヒバリさん、さっきは」
 河川敷の、人が踏み固めて作った細い道を並んで進む。不安を隠せない綱吉の隣で、雲雀は先ほどとは違う答えを呟いた。
 即座に顔を上げた綱吉が、西日の中に浮き上がる凛々しい横顔を見上げ、唇を噛んだ。もどかしさが胸を覆い、もやもやとしたものが心を埋め尽くしている。
 言葉にし辛い感情を持て余して制服の上から胸を掻いた彼を下に見て、雲雀は肩を竦めた。
「僕はあの子を、分身だなんて思ってないけれど」
 前に向き直り、目線を合わせないまま呟く。綱吉は右足で落ちていた小石を蹴り飛ばし、不思議そうに目を見開いて傍らを窺った。
 彼は依然遠くを見据えたまま、ふとした拍子に柔らかな笑顔を浮かべ、目を細めた。
「君が、あの子が僕だっていうのなら、ああ、――ほらね」
 必ず見つけ出せるはずだ。そう嘯き、彼は橋脚の手前で飛び跳ねているロールを指差した。
 瞬きして遠くに照準をあわせた綱吉が、驚きに目を見張った。
「嘘」
 無意識に呟いて、発言の失礼さに慌てて口を手で覆う。聞こえていただろうに、雲雀は怒らなかった。
「ガウッ、ガ、ガウゥ~~」
 ロールの鳴き声に続き、耳に馴染みのある鳴き声も聞こえて来た。とても心細げな声が次第に弾んで、ボリュームも大きくなっていく。
 足を止めて両手を広げると、それは綱吉目掛けて一直線に駆けて来た。
「ナッツ」
 ぼふん、と胸にすっぽり収まった分身との再会に歓喜の声をあげ、両手できつく抱き締める。元気を失っていた鬣に頬を押し当てると、強く締め上げすぎたのか、ナッツは苦しげに身をよじった。
 弱まっていた尻尾の炎もあっという間に復活して、夕日に負けない鮮やかなオレンジ色で輝いた。
「キュゥゥ」
 橋脚から戻って来たロールが、偉そうに鼻を高く突き上げるのがおかしい。ナッツの顔を擽って涙を拭ってやった綱吉は、ずり落ちてしまった鞄を直すついでもあって、膝を曲げ、屈みこんだ。
 礼を言い、棘に触れないよう頭を撫でてやる。硬いと思っていたが、意外にこの小さな生き物は柔らかかった。
 雲雀とは似ても似つかない。この子を彼の分身と呼ぶのは憚られたが、同じく姿勢を低くした雲雀は両手でロールを抱き上げると、丸くなった小動物を愛おしむように撫でて、言った。
「認めるしかないかな、僕の分身が君だって」
 独り言のように呟いた彼に唖然として、綱吉は間抜けに口を開いた。
 その失礼な表情には少しむっとして、雲雀が肩をぶつけてきた。よろめき、膝を地面に置いた綱吉は擦り寄ってくるナッツとロールを見比べ、口をヘの字に曲げて首を傾げた。
 どこまでも不思議そうにしている彼を笑って、雲雀は猫のように綱吉にじゃれているナッツの頭を撫でた。
「君と同じ匂いがする」
「……?」
 囁くように告げて、彼の手は次に綱吉の跳ね放題の髪を掻き回した。
 棘だらけのハリネズミを思わせる髪型を潰して、首を竦めた彼に微笑む。
 認めざるを得ない。未来の雲雀恭弥が何故この生き物を相棒に選んだか、その理由も含めて。
「だから分かるよ。何処にいても、この子は」
「ヒバリさん?」
「僕が一番好きな匂いだ」
 うっとりと目を細め、前のめりに身を傾がせる。
 肩口に顔を埋められ、咄嗟に彼の腕を掴んだ綱吉は目を見開き、緊張に全身を戦慄かせた。

2010/07/17 脱稿