星明

 夜の学校は、恐い。
 小学校の時に耳にした怪談はどれも滑稽で、馬鹿らしかった。二宮金次郎像がグラウンドを駆け回るとか、理科室の骨格標本が踊りだすだとか、そういうものは、年齢を重ねるにつれて段々と嘘だと分かるようになった。音楽室の肖像画が笑う、美術室の石膏像が歌う、などというものも、何かあるのではないかと戦々恐々した結果、そう見えただけの、ただの錯覚でしかない。
 一番笑えるのが、トイレの花子さんだろう。いったい日本全国に、どれだけの花子さんが存在するのか。
 そもそも綱吉は男子なので、女子トイレ限定で出没する花子さんには縁が無い。もし実在したとしても、夜の学校の女子トイレに間違って侵入すること自体、殆どありえない。
 ただ今日に限っては、そのうっかりミスを起こしそうで恐かった。
「うぅ、トイレ行きたくなって来たかも」
 小さい声で呻き、半袖から伸びる腕をさすって暗がりに目を向ける。一歩進む度に足音が遠くまで響いて、彼は逐一震え上がった。
 夏場だというのに廊下を覆う大気は冷えていて、外で感じた蒸し暑さは欠片も残っていなかった。昼間は大勢の生徒で賑わう校舎も今はひっそりと静まり返り、生き物の息吹は存在しない。
 照明の消えた教室は真っ暗で、見慣れた景色とは全くの別物だった。
 廊下の窓の向こう、並盛の町並みだけは辛うじてぼんやりとした光に満ちている。非常灯の細い明かり以外に足許を照らすものは無くて、綱吉は廊下に薄く伸びた光を頼りに、慎重に足を前へ運んだ。
 冬場とは違うので、吐く息が白く濁ったりはしない。だが心理的にはそんな感じがしてならず、彼は己を強く抱き締めると、やっと辿り着いた階段にホッと胸を撫で下ろした。
「一段、増えてたりしないよね」
 上に行くに従って届く光の絶対量が減り、闇が視界を埋め尽くす。首を振って恐い想像を否定した彼は、そろり、右足を持ち上げた。
 上履きの底でしっかりと足元を踏みしめて、滑り落ちないよう気を配りながら、恐怖心を増幅させる暗がりに突き進む。だが勢いが良かったのは最初だけで、踊り場まであと数段のところで、彼の歩みは完全に止まってしまった。
 振り返れば薄明かりが彼を手招き、こちらへおいで、と誘っていた。
「うぅぅ」
 弱りきった表情をして奥歯を噛み締め、彼は鼻を鳴らした。
 時間は、夜の八時を少し回ったところだった。
「怒ってるかな」
 本当ならもうとっくに約束をした場所に到着しているはずなのだが、思いの外校舎内の暗闇に梃子摺らされて、なかなか思うように足が進んでくれなかった。
 言い訳ならば幾らでも頭に浮かんでくる。ただ向こうがそれで納得してくれるかどうかについては、確証は得られなかった。
 真っ白い制服は、ほんの少し汗臭かった。今日一日着ていたのだから、それも当然だろう。夕方、帰宅した際に一度脱いだのだが、夕食を終えてこっそり家を出る直前、再び袖を通した。
 お陰で湿っぽく、皺だらけだ。そのひとつを指で押し潰し、胸の前で両手を結び合わせた彼は、蜂蜜色の髪をふわふわと泳がせ、咥内に溜まった唾をひと息で飲み込んだ。
 緊張の所為か、さっきから心臓が喧しくて仕方が無い。そのうち鼓膜を突き破って外に飛び出してしまうのではないか、と思えるくらいに、バクバク言っていた。
「……ええい!」
 本来、下校時刻を過ぎた学校は、教員の帰宅を待って正門も、何もかも施錠される。だが彼が通ってきた道だけは、何処もかしこも鍵が外れ、通行できるようになっていた。
 正門脇の通用門と、正面玄関だ。
 そんな事を出来るのは、学校責任者くらい。該当人物を脳裏に思い描いた彼は、決意をこめて叫ぶと、恐怖を振り払って右足を高く掲げた。
 二段飛ばしで踊り場まで駆け抜け、反転して残る階段も一気に飛び越える。途中、一度足を滑らせて転びそうになったが、ぎりぎりのところで踏ん張って堪え、最後の関門とも言える分厚い扉を両手で押した。
 ドアノブを回し、出来上がった隙間に滑り込む。刹那、彼の顔を冷たい風が撫でた。
 ザッ、と耳元で音がして、掬い上げられた髪の毛が視界の端を泳いだ。つられて上向けた瞳の先には、藍と紫が混ざり合ったような、深い闇が広がっていた。
 空全体は暗いのに、雲だけが嫌に白くて、奇妙な感じだった。
「あ、……」
「遅い」
「ふわっ」
 左手をドアに残したまま肩で息をし、眼前に広がる景色に目を瞬く。口を間抜けに開いて呆然としていたら、不意に右手から声がして、彼はビクッ、と全身を竦ませた。
 得体の知れない暗闇よりも、こちらの方がよっぽど恐ろしい。折角引いていた汗を額に流した綱吉は、頬を引き攣らせ、戦々恐々としながら振り返った。
 屋上を照らす照明も、殆どない。だが校舎内よりもずっと明るくて、その姿を瞳に映し出すには充分過ぎるくらいだった。
「ヒバリさん」
「十二分の遅刻」
「ご、ごめんなさい」
 掠れる声で名を呼べば、容赦ない一言と共に手刀が落ちてきた。
 脳天を真っ二つに切り裂いた一撃に首を引っ込め、両手で頭部を庇って謝罪を口にする。自由を取り戻した扉は勝手に元の場所に収まり、大きな音をひとつ響かせた。
 そちらにも吃驚してしまって、綱吉は思わず爪先立ちになった。ヒッ、と喉を引きつらせて悲鳴を飲めば、腕を引いた雲雀が緩慢に笑った。
「出る時に何か言われたの?」
「あ、いえ。そういうわけじゃ」
 時計の針は午後八時十五分手前を指し示している。約束は八時丁度だったので、綱吉の遅刻だ。
 夜間の外出を親に咎められたのかと訊かれて、彼は首を横に振った。両手を下ろして脇に垂らし、制服の裾に指を絡めて弄り回す。随分と落ち着きが足りない様を見下ろし、雲雀は怪訝に顔を顰めた。
「沢田?」
「間に合うと思ったんですけど、間に合わなかった、ていうか、なんていうか」
 正面玄関で上履きに履き替えてから此処まで来るのに三十分近くかかったとは、口が裂けても言えない。
 視線を逸らして言い淀んだ綱吉に首を傾げ、雲雀は気持ちを切り替えるべく深い息を吐いた。
 授業に遅れたわけではないので、今日は特別に許してやる事にする。もっとも、正直言えばこの十分少々の間、不安でならなかった。ただそれを言うのも女々しい気がして、雲雀は過去の自分をくしゃくしゃに丸めてゴミ箱に投げ捨てた。
「お化けでも出ると思った?」
「ぎく」
 代わりに意地悪く口角を歪めて問えば、綱吉は肩を跳ね上げ、左胸に両手を添えた。
 夜の学校は、オカルト好きにはたまらないホラーゾーンだ。裏を返せば、恐がりの人間は余程でない限り近付きたくない場所でもある。綱吉は、見た目から判断するに、後者だろう。
 彼の見せた態度も、それを証明している。引き攣り笑いを浮かべた紅色の頬に目を細め、雲雀は左手を伸ばして癖毛だらけの頭を撫でた。
「僕がいるのに」
 嘆息交じりに囁いて、指の間をすり抜ける細い毛を押し潰す。上から力を加えられた綱吉は、足を肩幅に広げて腹に力をこめた。
「それは、そうなんですけどっ」
 抵抗して押し返し、雲雀が怯んだ隙に後ろへ下がって脱出を果たす。階段を駆け上って来た時よりも息が切れて、汗が流れた。
 首筋を伝い落ちたそれの不快感に舌打ちし、綱吉は手の甲で拭ってズボンに擦りつけた。
 並盛中学校風紀委員委員長、雲雀恭弥。学生でありながら実質この中学校を支配している彼ならば、たとえお化けだろうと、幽霊だろうと、許可なく学内に入り込んだ存在を許してはおかないだろう。
 モンスター相手に獅子奮迅の活躍を見せる彼を想像した綱吉は、あまりに現実離れした妄想に肩を揺らし、笑みを零した。
「頼もしいな」
 お世辞半分に告げ、両手を背中に回してくるりと身体を回す。雲が多いものの、空は綺麗に晴れていた。
 梅雨明け宣言はまだで、天気予報も明日以降の悪天候に警鐘を鳴らしていた。が、この空模様と見る限り、夜明け前から大雨になる、という話は、とても信じられなかった。
「てるてる坊主のお陰かな」
「なに?」
「なんでもないです」
 ぼそりと言えば、聞き取れなかった雲雀が声を高くした。綱吉は慌てて手を振って否定の言葉を口にして、呵々と喉を鳴らした。
 急に楽しそうに笑い出した彼に首を捻りつつも、不機嫌にしているよりはずっと良いと思い直し、雲雀は肩を竦めて満天、とは言い難い空を仰いだ。
 並盛町は都心部に近く、遠くに目を向ければ摩天楼らしき光が僅かながら望めた。反対方向に目をやれば海が見える筈なのだが、今は夜というのもあって、空と一体化していて区別がつかなかった。
 近隣にあまり背の高い建物が無いので、見晴らしは良い。ただそれも今の間だけで、そのうち駅前にはマンションが乱立し、景観は大きく変わってしまうだろう。
 十年後の町の姿を想像し、雲雀は短く息を吐いた。
「大丈夫だったの?」
「うーん、どうかな」
「?」
「黙って出てきちゃったから」
 まだくるくると回っている綱吉の手を掴み、引き寄せて問い掛ける。動きを阻害されて背筋を伸ばした彼は、質問に曖昧な返事をして、小さく舌を出した。
 予想外の答えに雲雀は目を丸くし、数秒してから力なく肩を落とした。
「沢田」
「だって、リボーンにバレたら、絶対駄目って言うし」
 保護者の承諾なしに夜間外出を敢行した綱吉を咎め、雲雀は声を低くした。しかし彼は拳を上下に振ると、やむを得なかったのだと訴え、頬を膨らませた。
 母親である奈々なら、あまり遅くなり過ぎないのを条件に、許してくれただろう。だがもうひとり、綱吉には保護者的存在がいる。言わずもがな、黄色のおしゃぶりを持つ赤ん坊、リボーンだ。
 綱吉の家庭教師を公言している彼は、見てくれに似合わずにスパルタで、どういう訳か知識も経験も豊富だ。日々綱吉を立派なマフィアのボスにするために勤しんでおり、教え子の、先日終わったばかりの期末試験の結果が宜しくなかったのもあって、今まで以上に締め付けを強め、監視も強化していた。
 ゲームは勿論のこと、放課後の寄り道も禁じられてしまった。授業が終わったら真っ直ぐ家に帰り、宿題を片付けた後は予習と復習に専念するよう、耳に胼胝ができるくらい言われている。
 そんなだから、夜に三時間ほど出かけたいと言っても、認めてもらえるわけがない。
「だからって」
 言い分は分かるが、見過ごせる問題ではない。綱吉の期末考査が惨憺たる結果だったのは雲雀も知っており、リボーンの言いたい事も分かって、彼は声を荒げた。
 それを制し、綱吉は雲雀の胸を叩いた。
「だって、……来たかったんだもん」
「沢田」
「折角ヒバリさんが、誘ってくれたのに」
 頬をぷっくり膨らませて息を吐き、拗ねた声で呟く。上目遣いに見詰められて、淡く色付いた琥珀の艶に呑まれそうになり、雲雀は困った顔をして歯軋りした。
 男に媚を売る婀娜な視線に、咄嗟に首を振って目を逸らす。
「ヒバリさん?」
 本人には、人を誘惑している自覚が無い。だから余計に困ってしまって、雲雀は彼の肩を掴むと強引に引き剥がし、誤魔化すように前髪を掻き上げた。
 並盛中学校の特別教室棟屋上で、夜八時に集合。そう提案したのは、雲雀だった。
「後で怒られても知らないよ」
「じゃあ、ヒバリさんも一緒に怒られてください」
「遠慮しておくよ」
「えぇー?」
 軽口を叩きあい、機嫌を取り戻した綱吉が甲高い声を発して雲雀を肘で小突いた。口を蛸のように尖らせて拗ねるが、目は笑っているので、本気で怒っているわけではなさそうだ。
 年相応の少年の顔をした綱吉に安堵の息を吐き、雲雀はシャツを抓んで喉元から素肌に風を送り込んだ。
 艶を深めた琥珀はとても甘い色をしていて、蟲惑的な彩を放って雲雀を魅了した。
 一寸でも油断すればたちまち腹の奥底で飼っている獰猛な獣が目を覚まし、鎖を振り解いて暴れ出しかねない。ただでさえ此処は暗く、周囲から隔離されているのだ。助けを呼んだところで誰も来ないというのを、綱吉は分かっていない。
「厄介だな」
「ヒバリさん?」
「なんでもないよ。おいで」
 早々に自制の箍が外れそうになった自分に苦笑し、呟く。上唇を舐めた彼の横からひょっこり顔を出した綱吉に素っ気無く言って、雲雀は先に立って歩き出した。
 とはいえ、屋上の際限は直ぐそこだ。あっという間に行き止まりに到達して、彼はそこで身体を反転させた。
 手招かれ、綱吉が小走りに駆け寄る。転落防止用のフェンスは高く、綱吉の背丈を軽く越えていた。
 随分前に山本がこれを乗り越え、落下した事がある。あの事故の反省から、錆び付いていた柵は全部撤去され、より頑丈なものに取り替えられていた。
 雲雀は無邪気に近付いて来る綱吉に笑みを零すと、膝を折ってフェンスの前に腰を下ろした。足を伸ばし、曲げた右足に両手を並べて背筋を伸ばす。
 頭上に広がるのは雲、そして星空だ。
「よ、っと」
 彼の左隣に滑り込んだ綱吉が、掛け声をあげて同じくしゃがみ込んだ。
 足元の汚れなど一切無視し、夜気で冷えたコンクリートにぺたん、と座る。夏用の薄手の制服越しにひんやとした感触が伝わって来たが、自身の体温で直ぐに分からなくなった。
 膝を曲げて胸に寄せ、両手で包むように抱いた綱吉が傍らを見て照れ臭そうに笑った。
「えへへ」
 年端の行かない子供のような笑顔を浮かべられて、雲雀は肩を竦めた。
 綱吉の態度の端々から、とある感情が滲み出ていた。嬉しい、楽しい、大好き。言葉にせずとも肌で感じる想いを受け止め、雲雀は左手を浮かせた。
 目を向けぬまま宙を漂わせ、手探りで綱吉の膝に触れる。横から加えられた熱に吃驚した彼は、その瞬間こそ緊張した面持ちで頬を強張らせたが、そっぽ向いている雲雀の耳がほんのり赤いのに気付いて、相好を崩した。
「ふふ」
 目尻を下げて微笑み、綱吉は膝を抱いていた右手を横に滑らせた。途中で手の甲と掌の向きを入れ替え、上に被さっていた雲雀の手を握りしめる。
 指を互い違いに結び合わせた彼に雲雀は目を見開き、横目で隣を窺って、表情を和らげた。
「晴れてよかった」
 独り言を呟いて、綱吉から再度空に視線を移し変える。同じものを見上げた綱吉も、頬を緩めて頷いた。
「俺、てるてる坊主まで作っちゃった」
 左手でブイサインを作った彼に苦笑して、雲雀は返事の代わりに繋いだ手に力をこめた。痛くない程度に強く握って、綱吉の鼓動に自分のそれを重ねていく。
 左指を広げた綱吉は、若干遠慮がちに雲雀の方へ身を寄せた。
 星を見に来ないか、と誘われたのは七月の初めだった。
 丁度一学期の期末試験の最終日で、全教科のテストが片付いた開放感で学校全体が浮き足立っていた。
 数日としないうちに採点された答案用紙が返却されて、今度は悲壮感が一帯に漂うのだが、後のことなど誰も考えたがらない。やっと自由になったと歓喜の声をあげ、踊り狂う生徒さえ出る始末だった。
 テスト期間中は学校も午前中だけで、最終日の午後は丸まるフリー。どうしようかという話になって、部活も休みだった山本が、商店街へ繰り出さないかと提案した。
 そこを運悪く風紀委員に見付かってしまい、咎められた。雲雀に捕まったら咬み殺される、という話になって、獄寺共々三人は逃げたのだが、足が鈍い綱吉だけが逃げ遅れた。
 もっとも綱吉とすれば、雲雀の姿が見えた瞬間に速度を落としたので、自分から捕まりに行ったようなものだ。
 寄り道は校則違反だから禁止だと口を酸っぱく言われ、戻って来た獄寺と山本が喧嘩腰になりそうになったところで解放された。寸前に耳打ちされた小声での誘いに、聞き返す余裕はなかった。
 ちゃんと聞こえたかどうか、雲雀も不安だったのだろう。後から携帯電話のメールでも、日時と場所の連絡が来た。
 七月七日、午後八時。並盛中学校特別教室棟の屋上で、一緒に星を見よう。
 必要なことだけを羅列した、酷く素っ気無い簡素な文章ではあったけれど、この一文を打つために雲雀がどれだけの気持ちを込めたかは、充分に伝わって来た。
 翌日の朝になって、雨天中止、というこれまた短いメールが届いて、綱吉は慌てて天気予報を確認し、てるてる坊主の作成に取り掛かった。
 梅雨明けの報せは、まだ来ない。約束を取り交わした日に見た週間天気予報では、今日の天候は綿雲に小さな傘が張り付いていた。
 駄目かもしれない。試験が終わったというのに憂鬱な顔をして空を見上げる日々が続いたが、今日は朝からずっと、綱吉はご機嫌だった。
 願いが通じた。天に届いた。久方ぶりに見るお天道様はとても眩しくて、沈みきっていた綱吉の心から憂いを取り除いてくれた。
 そのお陰か、リボーンにも見付からずに家を出られた。偶々彼の入浴が普段よりも早かっただけなのだが、今日は最高についていると思わせるに充分だった。
 雲は多いが、空は見える。空が一寸でも見えるなら、それは晴れだ。
 どこまでも続く大空を仰ぎ、綱吉は雲間に輝く星に目を細めた。
 とはいっても、見えるのはほんの僅かだ。
 日頃は気にしないが、矢張りこの町も空気が汚れているらしい。天頂に瞬く星の数は少なく、月明かりもどこか儚い。二等星の星が辛うじて見える程度で、天の川など望むべくもなかった。
 雲に隠れてしまっている、というのもあるだろう。折角晴れたのに、勿体無い。
 星見と呼ぶにはお粗末な結果だが、こうして雲雀と一緒に居られるのだから、綱吉としては満足だった。
「ベガ、アルタイル、あと、……」
「夏の大三角?」
「はい」
 ただ、会話が無いのは辛い。話の種になればいいと思って呟くと、案の定雲雀が口を開いた。
 フェンスに預けていた背中を浮かせて座り直し、綱吉の方を見ながら小首を傾げる。即座に首肯を返した彼は、あとひとつを探してこめかみに指を置いた。
「デネブ」
「そう、それ」
 思い出すより前に言われてしまったが、悔しくない。左手で膝をポーン、と叩いた綱吉は逆に嬉しそうに声を弾ませ、肩から雲雀にぶつかっていった。
 何が可笑しいのかカラコロと喉を鳴らし、甘えて擦り寄ってくる彼を黙って受け止め、雲雀は首筋を擽る薄茶の髪に頬を寄せた。
 こと座のベガ、わし座のアルタイル、そして白鳥座のデネブ。この三つの星を繋ぐと、俗に夏の大三角と呼ばれる図形が完成する。うち、綱吉が口にしたベガとアルタイルが、七夕伝承で知られる織姫と彦星だ。
 年に一度の逢瀬しか許されない、可哀想なふたり。あまりに過酷な運命を想うと胸が締め付けられるようで、綱吉は鼻を啜り、傍らに座す青年を盗み見た。
「なに?」
 しかし雲雀もまた綱吉の方を見ていて、思いがけず目が合った。
 先に質問されてしまい、答えに詰まった綱吉は空笑いを浮かべると、誤魔化しに頭を掻いた。膝をもっと寄せて背中を丸め、繋いだ手をぎゅっと握り締める。
 思った事を正直に告白するなど、恥ずかしくて出来そうにない。自分達は一年中、望めば好きな時に会える。それはとても幸せで、贅沢なことなのだと強く感じた。
「晴れて良かった」
「そうだね。滅多に無い事らしいから」
「え?」
「ん? 七夕に晴れるの、珍しいんだよ」
 頬を手に染めながら呟く。隣から相槌が返って来て、綱吉は声を上擦らせた。
 自分が考えていた内容と、雲雀が口にした内容が、あまりにも違っていたので驚いてしまった。思わず間抜け顔を晒した彼に首を傾げ、雲雀は勘違いを続行して言葉を続けた。
 勝手に熱を持った頬を叩き、心を鎮めた綱吉が緩慢に頷いて返す。口からしつこく息を吐いて肩を上下させて、今し方言われた内容を頭の中で反芻した。
「そう、なんだ」
「知らない?」
「あんまり、覚えてない……」
 一年前の今日のことなど、覚えていない。ただ来年なら、今年の七夕が晴れていたというのは、覚えていられる気がする。
 爪の先で唇を引っ掻いた綱吉の独白に相好を崩し、雲雀は左手を解いた。コンクリートの足元に両腕を突き立てて、斜めに傾いでいた背中を真っ直ぐに起こす。
 金網がギシギシ言って、置き去りにされた右手を見下ろし、綱吉は鼻を啜った。
「……っ」
 くしゃみのような、そうでないような息が漏れて、肩が跳ねた。
 喉を引き攣らせた彼の気配を察知し、雲雀が瞬時に振り返る。黒髪が空気を含んで膨らみ、横に流れて行った。
 丸めた手を口元にやって首を竦めていた綱吉は、至近距離から視線を浴びせられて一瞬怯んだ。そんなに大袈裟な反応をされるとは思っていなくて、琥珀の目を大きく見開き、不思議そうに切れ長の目を見詰め返す。
「ヒバリさん?」
「寒い?」
 どうしたのか問えば即座に訊き返されて、彼は自分の服装を思い出した。
 並盛中学校の夏場の制服は、夏仕立ての黒いスラックスに、白い半袖シャツ、そしてネクタイだ。冬場は黒い学生服を愛用している雲雀も、この季節だけは他の生徒と殆ど同じ服装をしている。唯一違うとすれば、左袖に留めた腕章だろう。
 七月に入って蒸し暑い気候が続いているが、太陽が地平線の向こうに消えたこの時間帯は、流石に少し冷えていた。
 言われて露出していた腕を撫でた綱吉は、心配そうな眼差しに首を振り、平気だと笑った。
「大丈夫ですよ」
「そうやって油断して、夏風邪を引いて寝込むんじゃないの?」
「それは、うぅ……」
 あながちありえない話でもなくて、問い詰める雲雀に返事が出来ず、彼は唇を噛んだ。
 なんとかは風邪を引かない、とは良く聞く言葉であるけれども、残念ながら綱吉はこれに当てはまらなかった。毎年のように冬になったら流感を患い、鼻をずるずるさせて通学している。学校を休もうにもあまり熱は出なくて、くしゃみや咳ばかりが長期間続いた。
 夏風邪は治り難く、長引き易いという。あの辛さを夏場にも経験せねばならないのかと考えると、それだけで憂鬱になった。
 言葉を詰まらせた綱吉に笑みを零し、雲雀は真っ直ぐ伸ばした両足を肩幅に広げた。空間を作り、そこをぽんぽん、と叩く。
「おいで」
 手招きもされて、綱吉は首を傾げた。
 どこに、と言いそうになって、雲雀が今し方用意した場所に目を向ける。次に含みのある表情を見上げて、綱吉は瞬間、ボッ、と真っ赤になった。
「え。ええ?」
「嫌?」
「そうじゃないっ、けど」
 素っ頓狂な声をあげれば、雲雀にしては珍しい甘えた声で返される。咄嗟に伸び上がった彼を上目遣いに見詰め、雲雀は心の中でほくそ笑んだ。
 綱吉を困らせるのは本意ではないけれど、こういう可愛らしい態度が見られるので、ついつい悪戯を仕掛けてしまう。企み通り弱りきった表情を作った綱吉は、依然耳を赤く染め、浮かせた腰を下ろして左右の膝をぶつけ合わせた。
 膝抱っこはこれまでにも何度かされている。ただ、いつもは雲雀の方からで、それも何も言わずに後ろから抱き寄せての結果そうなった、というパターンが殆どだった。
 こんな風に誘われるのは初めてで、恥ずかしい。もじもじと地面に「の」の字を書いて照れている彼に肩を竦め、雲雀は仕方無しに腕を伸ばした。
「あっ」
 首の後ろの、僅かな隙間を掻い潜った彼の手が、綱吉の左肩を掴んだ。強引に引っ張られて、防ぐ暇もなく上半身が右に傾いだ綱吉は、急に斜めになった視界に目を丸くし、肩と頬に触れた硬さに息を飲んだ。
 咄嗟に動いた左手が無意識に雲雀を押し返そうとしたが、指先がシャツに触れた途端に力が抜けて落ちていった。腿の上で弾んでひっくり返ったそれをヒクつかせ、綱吉は肩を抱いた雲雀とのゼロ距離に胸を高鳴らせた。
 元々近かったのに、もっと近くになった。彼の左手は綱吉の肩を包んだままで、時折リズムを取っているのか、トントン、と指が動いた。
 綱吉の右腕は逃げ遅れ、間に取り残された。前に出すか、それとも後ろに引くかで迷い、結局どちらにも動かせずにその場で硬直させる。指先が痺れて、爪が剥がれそうだった。
「……」
 心臓がバクバクと凄まじい勢いで跳ねるのが、隣にまで伝わってしまいそうで恐い。雲雀はあまりスキンシップを好まない方だが、一度スイッチが入ると途端にべたべたと触ってくる。その落差が綱吉は少し苦手だった。
 肩を抱き寄せられた状態のまま身動き取れずにいる彼に顔を寄せ、雲雀は跳ねていた髪の毛を一本食んだ。
「お風呂、入って来たの?」
 その際、仄かな甘い匂いが鼻腔を擽って、深く考えもせずに呟く。耳元で響いた低音にハッと息を吐いて、綱吉は勢い良く身を起こした。
 預けていた体重を取り戻し、右肩を突っ張らせて彼を軽く押し返す。
「ごめんなさい。俺、汗臭いかも」
 入浴する暇など、当然なかった。夕食をとり、歯磨きをするのが精一杯だった。もしなにか臭うのだとしたら、それは今日一日袖を通し続けていたこの制服が吸った、汗の臭いだろう。
 他に思いつくものがなかった綱吉は慌てて距離を取ろうと画策したが、抵抗は無駄な足掻きにしかならず、再び雲雀の肩に連れ戻されてしまった。
 今度は両手をクッションにして間に置き、衝撃を吸収させて顔を上げる。下から覗きこむと、雲雀は笑って首を振った。
「良い匂いがする」
「そんな筈……」
 頬擦りをした上で嗅がれて、恥ずかしさに身じろいだ綱吉が小声で否定の言葉を口にした。が、雲雀は構う事無く彼に鼻を寄せ、ふわふわの髪の毛から溢れる香りを楽しんだ。
 匂いを嗅がれるだけなのに、変にくすぐったい。止めてくれるよう懇願するが、綱吉が嫌がっているに関わらず彼は離れようとせず、却って強く抱き締めた。
 放り出していた右手も使い、綱吉の肩を引き寄せる。ぐっ、と力を込められて、急に体の向きが変わった彼は驚きに目を見開いた。
「わっ」
 急変した視界の真ん中に雲雀の顔が現れて、声も出ない。呆気に取られたままぼうっとしていたら、不敵に笑った雲雀に顎を舐められた。
「ひぅ」
「うん、やっぱりこっちの方がいい」
 咄嗟に首を竦めて目を閉じた綱吉を他所に、彼はひとり悦に入って頷いている。背中と腰を抱かれて、綱吉は雲雀の膝の上で苦虫を噛み潰したような顔をした。
 腕の力だけで軽々扱われるのは、不本意極まりない。同年代の平均身長より低いし、体重も軽いけれど、綱吉だって一応は男だ。
 父親は筋骨隆々の鍛え抜かれた体格をしているから、いつか自分もそうなれると信じている。周囲は諦めが悪いと言って笑うが、半分は家光の血が流れているのだから、可能性だって半分残っていてもいい。
 雲雀との体格差や力の差を見せ付けられた気がして不満げにしていたら、今度は鼻の頭にキスが落ちてきた。
「石鹸の匂いかな」
 綱吉が何故不機嫌にしているのか、その理由を知りもしない雲雀が呑気に言った。目を閉じてうっとりしている彼を睨むが、視線が絡まないので伝わらないのが悔しい。頬を膨らませていると、笑った彼に小突かれた。
「どうしたの?」
「別に」
 此処で正直な感想を述べたら、雲雀はきっとまた笑うだろう。背丈も、腕の太さも、鍛え方も何もかも違うのだから、これくらい出来て当然だ、と。
 言われると分かっていて教えるのも癪で、黙っていたら次に額を小突かれた。前屈みになった彼に至近距離から見詰められ、綱吉は目を逸らすとぶすっとした声でボソボソ言い返した。
 何故拗ねているのかについて、雲雀は嗅がれたのが嫌だったのだろうと解釈した。彼にとっては、綱吉が思った通り、華奢な体躯を扱うなど造作もなくて、膝に抱き上げるのも最初から計画のうちだった。
 腕力の差を悔しがっているなど夢にも思わぬまま、首を少し右にずらして綱吉の肩口に額を埋める。襟に鼻筋を押し当てて舌を伸ばせば、シャツの折り目の先に潜むしなやかな首はもうそこだった。
「っ」
 擽るように舐められ、綱吉がピクリと肩を震わせた。
「ヒバリさん」
「好きだけどな、君の匂い」
 たとえそれが石鹸の香りであろうと、汗臭さだろうと、綱吉の匂いであるのには違いない。囁くように呟いて肉の薄い皮膚をもうひと舐めすると、首を竦めた綱吉が身を捩り、雲雀の胸を押した。
 若干塩辛い液体を唾液と混ぜて飲み込んで一旦満足したのか、雲雀は抗う事無く応じた。随分すんなりと離れてもらえて、逆に不審を感じた綱吉は怪訝にしながら目の前の男を見詰めた。
 意地悪く眇められた瞳が、真っ直ぐ自分に向いていると知って、恥ずかしくなる。言い表しようのない感情が旨の中に渦巻いて、内側から彼を擽った。
 じっとしていられなくて膝をもぞもぞさせて、綱吉は口を尖らせた。
「ん?」
「俺だって」
 直後、ぼふん、と勢いつけて顔面タックルされて、雲雀は右の眉を跳ね上げた。
 雲雀の胸にしがみ付き、逞しい背中に腕を回した綱吉が喚く。首を振って額をこすり付けられて、胸郭に僅かな痛みを覚えた雲雀は苦笑した。
「沢田?」
「俺だって、俺だって」
 たったひとつしか年齢は違わないはずなのに、こうも余裕綽々とされるのは、実に腹立たしい。彼も少しは焦れば良いのだと、心の中で愚痴を零し、綱吉は同じ単語を何度も繰り返した。
 言いたいのに、続きが出てこない。簡単な作業がどうしても出来なくて歯軋りして、彼は力任せに雲雀の肩を殴った。
「俺だって、ヒバリさんの匂い、好きなんだから!」
 痛がる雲雀を無視して叫び、ぎゅっとしがみ付いて顔を伏す。鼻筋を第三ボタンの辺りに埋めて息を吸い込むと、ほんのりと汗の混じる男っぽい匂いがいっぱいに広がった。
 触れ合わせた場所からは、雲雀の鼓動が聞こえた。とくん、とくん、と一定のリズムで脈打っている。もう少し高速回転していてくれれば良いものを、それは平常値と殆ど変わりなかった。
 すまし顔の雲雀を思い浮かべて頬を膨らませ、綱吉は犬になった気分で彼の匂いをたっぷり嗅いだ。
 クンクン、と鼻を鳴らされて、どうして良いか分からなくなった雲雀は、浮かせた手を綱吉の肩に下ろした。
 自分がやっている時は分からなかったが、匂いを嗅がれる、というのは存外に恥ずかしい。綱吉が拗ねるのも無理は無いと今更理解して、雲雀は困惑に瞳を泳がせ、胸元で踊っている蜂蜜色の髪を梳いた。
 反対の手は背中に滑らせ、猫背を撫でて下に向かって走らせる。
「……っ」
 程無くして辿り着いた柔らかな場所を軽く揉めば、人の胸に突っ伏していた綱吉が瞬時に飛びあがった。
 頬を引き攣らせて琥珀の目を真ん丸にして、背筋を伸ばして雲雀の顔を見詰め返す。久しぶりに目が合った気がしてはにかむと、綱吉はてんで正反対の顔をして腰を揺らした。
 気を良くして左手を左右に動かすと、それにあわせて綱吉の下半身も細波のように揺れ動いた。
「どうしたの」
「え、あの、……手」
「手?」
 頬を赤くしてしどろもどろに言い返した綱吉の声が、震えている。膝立ちになって腰を浮かせるが、追いかけた雲雀の手がすぐにふくよかな臀部を捕まえて、彼は弱りきった表情で鼻を鳴らした。
 尻の上で蠢く物は、他ならぬ雲雀の左手だ。ふたつある膨らみのうち、右側をしつこく撫で回しては、時に力任せに握って揉みしだく。
 ヒッ、と短い悲鳴を上げた綱吉が益々逃げようと足掻くが、もう片手で腰を束縛されていて、遠くへはいけなかった。
「手がどうかした?」
 分かっていながら敢えて訊いて、雲雀は意地悪く口角を歪めた。少しだけ荒くなった呼吸を耳朶に浴びせられ、彼の肩に手を置いた綱吉は肘を伸ばして突っぱねたが、敏感な首を舐められて、抵抗は済し崩しに封じ込められた。
 尻に気を取られたら、頸を弄られる。汗ばんだ肌を擽る熱に声を堪えていたら、今度は太腿を回りこんだ手が膝の内側に潜り込んだ。
「やっ」
 無理矢理足を広げるよう強要されて、身体を支えきれない。腰を沈めて雲雀の膝に舞い戻った綱吉は、ついでとばかりに内腿をなぞられて背筋を粟立てた。
 二本の足を跨ぐ格好の彼を見下ろして、雲雀が淡く微笑む。その、見方によってはうっとりとも、ゾッとも出来る表情を目の当たりにして、綱吉は冷たい汗を流した。
「ヒバリさん」
「触って良い?」
 止めてくれるよう頼もうとしたが、先手を打って質問されて、綱吉は息を止めた。
 面と向かって言われると、嫌だと言い辛い。が、かといって彼にあちこち触られて平静でいられる自信もなかった。
「それは……」
「駄目?」
 雲雀の左手が右太腿を往復している。親指だけを切り離し、残る四本は揃え、掌全体を使って柔肌の感触を楽しんでいる。何度も同じ場所を撫でるものだから、スラックスの皺はすっかり押し潰されて、布が皮膚にぴったり張り付いていた。
 触れられているのとは全く違う場所がぞわぞわする。甘えた声で強請られて下を向けば、返事をせっついた雲雀が舌を伸ばした。
「んっ」
 鼻の頭を舐められて、勝手に顔が上を向いた。至近距離で目があって、嬉しそうにした雲雀が直後、瞼を閉ざした。
「ン」
 何も言わず、ただくちづけられた。唇が触れ合った瞬間、綱吉の脳天に雷が落ちたような電流が走り、爪先が痺れた。
 覆い被さるように口を塞がれ、二秒と経たずに離れていく。開けっ放しの口から息を吐くと、間近で浴びせられた雲雀が浅く笑った。
「触るよ」
「っ、ダメ!」
 痺れを切らした彼の宣言に、咄嗟に声を張り上げるが、聞いてもらえるわけがない。再び問答無用でキスを奪われ、押し潰される恐怖に喘いだ綱吉は首を竦めて目を閉じた。
 腰を擽っていた手が脇腹を遡り、肩甲骨をなぞって背骨を伝って降りて行く。ベルトとウェストの隙間に潜り込んだ指が、中に押し込められていたシャツの裾を引っ張りだした。
 冷えた夜気に素肌を触れられ、綱吉は身を捩った。
「ふぁ、あ、やンっ」
 寒いのに、雲雀に触れられた場所から熱が湧き起こって止まらない。頭を振ってキスから逃げ、首を仰け反らせると、今度は喉仏に噛み付かれた。余り目立たないそれに牙を立てられて、本能的に生じた恐怖に膝が笑う。
 無意識に助けを求めた手が、雲雀の襟を掴んだ。
 左肩を抱き寄せられて、折角作った距離が一気に詰まった。肘を折り畳んで間に挟み、その空間だけはどうにか確保して、綱吉は尻を後ろに突き出している体勢に泣きたくなった。
「沢田」
 熱っぽい声で呼ばれて、目を閉じたまま首を振る。顔を上げずにいると、焦れた雲雀が顎を抓み、触れるだけのキスを繰り返した。
 ちゅ、ちゅ、と可愛らしい音を立ててくちづけられて、頑なだった心が段々解れて行くのが分かる。巧く乗せられているだけだと思うのだが、雲雀の腕に抱きかかえられて、長い間突っぱね続けるなど、最初から無理な相談だった。
 キスの合間に髪を梳かれ、宥めるように背を撫でられ、上腕を軽く揉まれた。四肢を覆っていた強張りは徐々に緩み、襟を握っていた手は力を失ってするりと膝に落ちた。
「ふ……」
 雲雀を追いかけて伸ばした舌を咥内に戻し、突っ張らせていた肩を落として息を吐く。濡れた唇を拭われて、綱吉は赤い顔を伏した。
 用は済んだはずなのに、親指は離れていかない。下向いたまま瞳だけを上にやると、雲雀もまた浅く肩を上下させ、じっと綱吉を見ていた。
「ぁ」
 思わず声が漏れて、綱吉は弾みで彼の指を噛んだ。
 牙は立てず、唇で挟む。指は逃げていかない。湿っぽい皮膚に襲われても平然としているのが何故か悔しく思えて、綱吉は思い切って下唇を突き上げた。
 浮き上がった右親指を咥内に引きこみ、舌の先端でちょんちょん、と小突く。それでも反応は全くなくて、彼は鼻から息を吸って吐き、頬を膨らませた。
「ふふ」
 綱吉の百面相を、雲雀が笑う。眇められた目に内心ドギマギしながら、綱吉はやっと動いた彼の指を、舌で包み込んだ。
「あふ……」
 口を開けて深呼吸し、同時に彼の指を第二関節まで飲み込む。滑った粘膜を爪の先で擽られて、痛みとはまた違う感覚に、綱吉は背を震わせた。
 咽頭を潰されそうな生理的恐怖が、発作的に彼を追い出そうとする。雲雀の指をもっと味わっていたいという欲望がそれを押し留め、溢れんばかりの唾液を分泌させた。
 汚い、という思いは一切なかった。雲雀の指の腹を、爪を、余すところなく舐めまわし、自分の唾液を浴びせかけて彼の体臭を集める。コクン、と飲み込む際に口を閉ざすと、前歯で皮膚を削られた彼が肩を揺らした。
「美味しい?」
「んぁ、や……」
「僕にも頂戴」
 腕を引っ込められて、遠ざかった指を追いかけて綱吉は身を乗り出した。それを反対の手で制し、雲雀は艶を帯びた琥珀を覗きこんで笑った。
 顎を抓んで上向かされて、降りていた唇に残っていた唾液を奪い取られる。難なく咥内への侵入を果たした舌に粘膜を擽られ、粘ついた水音が頭の中にまで響いた。
 その卑猥な音に頬を染め、綱吉は潜り込んできた彼の舌を押し返した。表面を擽られ、小突かれ、歯列をなぞられて、その都度ふたりの間から淫靡な音色が生れ落ちた。
「はふ、はっ、あ……ンっ」
 苦しそうに息を吐き、吸って、雲雀の肩に縋って爪を立てる。千切れた唾液の糸が鼻に跳ねて、冷たさに身を竦ませた彼の背を抱き、雲雀がうっとりと目を細めた。
 スラックスから引き抜いた裾を捲り、素肌に直接触れる。布越しではないリアルな感触に仰け反り、綱吉は目を見開いた。
「ひゃぅ」
「可愛い」
「あ、ヤだ」
 か細い悲鳴をあげて腰を引いて逃げるが、簡単に追いつかれた。ぴったりと肌に掌を押し当てられて、雲雀の熱が侵食を開始する感覚に打ち震える。
 彼の手で、自分が自分のものに作りかえられてしまう。萎縮した心臓が短い間隔でトトト、と鳴いて、脇を締めた綱吉は自分の胸倉を掴んでシャツを掻き回した。
 雲雀がそれ以上進めないよう、服の下のゆとりを減らした彼を軽くねめつけ、雲雀は不機嫌に口を尖らせた。
「沢田」
「え、あ、……待って」
 咎める声で名前を呼ばれ、身震いした綱吉がキスを強請った彼との間に手を割り込ませた。中指で唇を引っかかれ、ムッとした雲雀が舌を伸ばしてそれを絡め取る。第二関節の節目を舐められて、綱吉はピクリと肩を跳ね上げた。
 彼の手がいつになく執拗で、そして熱を帯びているのは決して気のせいではない。夜、他に誰も居ない学校で、というシチュエーションが、彼の欲望を加速させているのは疑う余地がなかった。
 憂さ晴らしに指の腹を咬まれ、ちくりと走った痛みに綱吉は顔を顰めた。
「そんなに嫌?」
 彼が最終的に何を求めているのか分からないほど、綱吉も馬鹿ではない。それを証明するかのように、綱吉を上に載せた雲雀の足が、さっきから小刻みに上下運動を繰り返していた。
 内腿を刺激する微動に煽られた欲が内側で燻り、出口を探して下腹部で暴れている。尻を鷲掴みにされて胸元に引きずり込まれ、腰までぴったり密着させられて、重なり合った部位から布越しに燃え盛る炎を感じた。
「っ!」
「……」
 咄嗟に下半身を退かせて、怯えた綱吉が顔を引き攣らせるのを、雲雀は無言で見送った。息を潜めて睨むように見詰められて、目を逸らすのを許して貰えなかった綱吉は唇を戦慄かせた。
 恐い。
 脳裏を過ぎったひと言が信じられなくて、彼は首を振った。が、実際、今の雲雀はこれまでのどの雲雀より、恐かった。
 トンファーを手に不良を薙ぎ倒していく彼よりも、綱吉を容赦なく咬み殺した時よりも。バレンタインの日に唇を奪われた時よりも、ずっと、今此処にいる雲雀が、恐ろしかった。
 顔から血の気が引いていく。急に顔色を悪くした彼を見据え、雲雀は右手を掲げた。
「沢田」
「あっ」
 掠れた声で名を紡がれて、無意識に腰が浮いた。咄嗟に跳ね除けてしまい、乾いた音ひとつが響いて、それで自分の行動に気付いた綱吉が目を瞬かせた。
 打たれた手を肩の位置で留めて、雲雀はどこか傷ついたような、そんな顔をした。
「あ、……」
 見る間に獣の彩が薄れ、尖っていた気配が沈んでいく。綱吉はホッとすると同時に酷く落ち込んで、シャツの襟を真ん中で集めて強く握り締めた。
 こうなる可能性を全く考えていなかったといえば、嘘になる。雲雀とふたりだけになって、今まで妖しい雰囲気にならなかった事の方が、実はずっと少ない。
 ただこれまでは、常に誰かの邪魔が入った。部屋でならばリボーンの、応接室では風紀委員の。特に雲雀は多忙の身であるから、ひっきりなしに携帯電話が鳴り響いて、ふたりっきりの時間の邪魔をした。
 ところが今日は、それがない。夜という時間帯が、彼を自由にしていた。
「沢田」
「ま、待って」
 切なげな声が耳朶を打つ。吐息を浴びせられて首を竦ませ、綱吉は上擦った声で叫んだ。
 キスしたがった雲雀が、寸前で動きを止めた。身を引き、動揺激しく狼狽えている琥珀の目を静かに見下ろす。
「僕が嫌い?」
 とても寂しそうに呟かれて、ハッと息を飲んだ綱吉が首を振った。
「違う。違います」
 慌てて否定の言葉を口にして、解いた手を雲雀の胸に押し当てる。弱まってしまった鼓動を手探りで見つけ出して、胸を撫で下ろすと同時に唇を噛み締めた。
 雲雀が好きだという、その気持ちに偽りはない。雲雀も同じ気持ちでいてくれると信じるし、だからこそ彼は、綱吉を求めて止まない。
 自分が意気地なしの所為で、彼を傷つけてしまった。後悔が胸に渦巻き、綱吉を飲み込もうと蠢いていた。
「俺、好きです。ヒバリさんのこと、ホントに」
 言葉でも告げて、顔を上げる。間近で見た雲雀は怒りと哀しみがない交ぜになった表情を作り、奥歯を軋ませていた。
「だったら」
「でも、あの……ごめん、なさい」
 素直に謝るしか出来なくて、綱吉は彼の言葉を遮り、頭を垂れた。
 脇から背中に両手を回し、しがみ付く。左胸に耳を押し当てると、静かだった彼の鼓動が、トクン、とひとつ高らかに鳴った。
 驚いて目を見張った雲雀は、微かに震える肩を真下に見つけ、苛立ちを腹の奥底に押し込んだ。
「沢田」
 背中に手を添えると、熱を感じた彼がビクっ、とするのが分かった。
 雲雀のことが好きだ。
 好きだと言われて、嬉しかった。彼と交わすキスはいつも情熱的で、蕩かされてしまいそうなくらいに熱烈で、甘かった。
 あの日食べたチョコレートが、まだ口の中に残っている気がする。そして雲雀はいつだってそれを探すように舌を繰って、綱吉を貪るのだ。
 思い出すだけで体の芯が熱くなる記憶に頬を赤らめ、綱吉は混乱した頭を懸命に働かせ、言葉を捜した。
「好きです、本当に、それだけは嘘じゃないから。でも、俺、まだ、違う、えっと……恐いっていう、か」
 しどろもどろに伝えて、息を吐く。鼻で吸って弱くかぶりを振り、雲雀のシャツに指を絡めて強く握り締める。顔は伏したままで、朱色に染まったうなじが星明りに照らされていた。
 人を惑わす色香を放つ肌に見入り、雲雀は意識して四肢の力を抜いた。
 背中にやっていた手を動かし、両手で小さな身体を抱き締める。綱吉は、逆らわなかった。
 まだ緊張しているが、雲雀の仕草に荒々しさがないと本能的に感じ取っているらしい。先ほどにはなかった安堵を胸に抱いて、綱吉は雲雀に擦り寄って来た。
 欲望の火種はまだ奥の方で燻っているが、勢いは弱まりつつあった。今しばらくは燃料を投下しようとも再度燃え上がることはなさそうだと知り、雲雀は肩を落とした。
 落ち着きを取り戻した自身に対し、落胆なのか、安堵なのか分からない吐息を零し、柔らかな薄茶の髪を梳く。
「沢田」
「ごめんなさい」
「いい。怒ってないから」
 関係をひとつ前進させて、それでふたりの間に何が産まれるのかは、闇の中だ。今焦って手を伸ばしたところで巧く掴み取れるかどうかの保証は、何処にも無い。
 静かに囁き、繰り返し髪を撫でる。鼻を啜った綱吉が首を振って、ゆっくり顔を上げた。
 艶めいた琥珀が月明かりよりもずっと眩しくて、雲雀は一瞬息を詰まらせ、顔を背けた。
「ヒバリさん?」
「今はそういう顔しないで欲しい」
 うっかり鎮まろうとしていた炎が再燃しかけて、口元を手で覆いながら呻くように告げる。だが鏡も無い場所で、自分がどんな顔をしているか分かるわけが無くて、綱吉は不思議そうに小首を傾げた。
 いい加減自覚して欲しいが、指摘した所為でこのあどけない表情が見られなくなるのも惜しい。もう大丈夫だと思った矢先、呆気なく本意を翻した己の貪欲さに肩を竦め、雲雀は口を尖らせている綱吉の唇を指の背で小突いた。
「焦らないから」
 綱吉が夜の邂逅を承諾した時点で、雲雀は先に進んでも構わないものと思い込んでいた。綱吉にまだその覚悟が出来ていない、とは考えなかった。
 本当は今でも、この機会を逃したくないと思っている。どんなに彼が嫌がろうとも、力の差は歴然としていて、華奢な綱吉を組み敷くことくらい造作も無い。屋上は袋小路で逃げ場もなく、大声を張り上げたところで誰も助けになど来ない。
 幾らでも方法はある。が、綱吉の同意が得られない状態で、果たして本懐を遂げたと言えるだろうか。
 傷つけたいわけではない。大事にしたいから、こうして抱き締めている。本能と理性が鬩ぎあう中、雲雀は綱吉に頬を寄せ、甘い香りをいっぱいに吸い込んだ。
「ヒバリさん……」
 綱吉の声が心持ち嬉しそうだ。嫌がって泣きじゃくる声よりも、落ち込んで謝罪を繰り返す声よりも、こんな風に笑っている綱吉の声が、一番可愛くて好きだ。
 獰猛な本能をねじ伏せた理性が勝利の雄叫びをあげている。雲雀は乾いた唇を舐め、深く長い息を吐いた。
「でもあんまり待たせないでね」
「あは」
 雲雀があまり我慢強くないのは、綱吉も承知している。思わず声に出して笑い、彼は恐る恐る雲雀の肩を抱いた。
 こめかみにキスをして、雲雀が身を起こす。どんな高価な宝石よりも綺麗な琥珀が真っ直ぐ自分を見ているのに顔を綻ばせ、彼は綱吉の手を取り、膝に下ろして握り締めた。
 少しずつで良い。そう言われた気がして、綱吉もはにかんだ。
「うん、じゃあ……練習していこうか」
「ん?」
 目尻を下げた綱吉に満足げな表情を浮かべ、雲雀が不意に囁く。何の練習かと小首を傾げていると、雲雀がいきなり鼻を抓んできた。
「イッ」
「君が恐くなくなるように、練習」
「ええ?」
「先ずはキスからね。はい、してみて」
「ええええええー!」
 綱吉を膝の上に座らせて腰を掴んだ雲雀が、ん、と顎を前に突き出した。両目共に瞼を閉ざして、早く、と急きたてる。
 素っ頓狂な声を上げた綱吉が両手を蠢かせて慌てふためくが、雲雀は薄目すら開けようとしない。黙って目を閉じ、綱吉からのキスを待ち続ける。
 何かにつけて約束を取り付けるのも、抱き締めるのも、キスをするのだって、大抵の場合雲雀が先だ。綱吉は彼からのアプローチを待って、彼のエスコートに従っているだけでよかった。
 それが、いきなり自分から行動に出るよう求められた。
「そ、そんな。無理」
「いつもしてるじゃない」
「だからって、急に言われても」
「ほら、早く」
 両手を胸の前で握って首を振る。一瞬左目だけ開いた雲雀は聞く耳を持たず、全身を使って綱吉を揺らした。
 七夕の夜、星を見に来ただけなのに、どうしてこんな展開になったのか。折角夏の星座の勉強をしたのに、披露する暇さえ与えてもらえなくて、綱吉は困惑しきった顔をして唇を噛んだ。
 なかなか応じない綱吉に焦れ、雲雀の表情は段々険しくなっていった。首を前に傾がせ続けるのにも疲れて、後ろに引っ込めて仕舞う。距離が開き、綱吉は瞠目した。
「う、……」
 薄ら目に涙を浮かべ、結局意地悪なのに変わりない雲雀に悪態をついて鼻を膨らませる。
 拗ねている彼が見られないのを少し残念に思いながら、雲雀はようやく動き出した彼にほくそ笑んだ。
 気配が迫る。熱を含んだ呼気を肌に浴びせられて、綱吉の緊張が伝染したのか、雲雀は軽く喉を鳴らした。引き結んでいた唇を少しだけ緩め、肩に添えられた手に意識を傾ける。
「ヒバリさん」
 綱吉の声が聞こえて、彼は頷いた。
 目を閉じたまま嬉しそうに微笑んで、首を前に出す。前言撤回して自分から齧り付きたい衝動に駆られたが、丹田に力を込めて防ぎ、大人しく待つ。
 あと一センチ。そこまで行って躊躇した綱吉は、ピクピクしている雲雀の瞼に恥ずかしそうに首を振り、我慢出来ずに視界を闇に切り替えた。
 目を閉じ、雲雀の姿を消して、添えるだけだった手に力をこめる。
「……」
 ふたりして奇妙な緊張感を漂わせ、少しずつ距離を狭め――
「ひぃぅぁはぉちゃぁ!」
「っ!」
 突然の綱吉の、奇怪な悲鳴にふたりは仰け反り、離れた。
 ヴヴヴ、とズボンのポケットで何かが震えている。それが彼の太腿を擽り、あらぬ声を響かせた。
「ひ、ひぃ、ひゃぁっ」
 息も絶え絶えにポケットを弄り、まだ揺れているそれを取り出す。二つ折りの携帯電話の着信ランプが、物凄い勢いで明滅していた。
 小窓に表示されているのは、「家」というひと言だけだ。自宅の固定電話から誰かが綱吉に電話を掛けている。見ただけで瞬時に悟り、ふたりは顔を見合わせた。
「あう、っと」
 兎も角出なければいけない。右手に携帯電話を構え、綱吉は渋い顔をした。
 この表示だけでは、誰がダイヤルを回したのかまでは分からない。奈々か、或いはリボーンか。
 時計を見れば、自宅を抜け出してから二時間近くが経過していた。もう少しで夜の十時に届いてしまう。いつもなら風呂に入って宿題をして、のんびり過ごしている頃合だ。
 綱吉が部屋に居ないことに、幾らなんでも皆気付くだろう。
「……もしもし」
 雲雀を窺えば、彼は黙って明滅するランプを見ていた。何も言ってくれないのを少し寂しく思いながら、綱吉は機器を広げ、通話ボタンを押した。
 右耳に添えると、奈々の声がした。
『もー、ツナってば。何してるの?』
「母さん」
『早く帰ってらっしゃい。お菓子は、今夜はやめになさい。明日にするのよ?』
「え?」
 憤慨しきりに言われ、彼は目を点にした。
 高くなった声に雲雀が眉を顰める。声が聞こえないか耳を澄ますが、無駄な努力に終わった。
 知らないところで勝手に話が出来上がっている。綱吉は小首を傾げ、一方的に切れた電話を呆然と見詰めた。
「お菓子って、なに」
「沢田?」
「よくわかんないです、けど、……あんまり怒られませんでした」
 叱られたのは確かだが、黙ってこっそり家を出た件は不問とされた。そこに第三者の関与を感じて、綱吉は眉間に皺を寄せた。
 憶測だが、夜間外出の理由が、お菓子の買出しにされてしまっていた。無論そんなわけがなくて、不審げに顔を顰めている雲雀を見詰め、綱吉は携帯電話を握り締めた。
 釈然としないままポケットに押し込み、上から形を撫でる。改めて雲雀と顔を見合わせるが、甘い雰囲気はすっかり消え失せていた。
「俺、……帰ります」
 さっきの続きなどとても出来る状況ではなくて、若干の気まずさを覚えながら綱吉は言った。
 雲雀も止めなかった。黙って頷き、綱吉が立ち上がって踵を返したところで、弾かれたように顔を上げた。
「沢田」
「わっ」
 後ろから肘を取られ、引きとめられた綱吉がつんのめりながら振り返る。驚きを素直に露にした彼に苦虫を噛み潰したような顔をして、雲雀は指を解いた。
 肌に残る他者の体温を心細く受け止め、綱吉は肘を撫でた。
「ヒバリさん」
「送って行く」
 夜は更け、道行く人の数は少ない。並盛町の治安は、風紀委員の活躍もあってそれなりに良い方だが、かといって不審者が皆無というわけでもない。
 帰り道が心配だと暗に告げた彼に、綱吉はちょっと間を置き、相好を崩した。
「はい」
 ただ残念ながら、送り狼にはなれそうにない。
 恐らくは綱吉を母親の叱責から庇ったであろう赤ん坊の姿を思い浮かべ、雲雀は口惜しげに頷いた。

2010/07/06 脱稿