車胤

 梅雨時の生温い風が、銀色の髪を右から左に押し流した。
「おっと」
 視界に紛れ込んだ前髪を押さえ、獄寺が小さく呟く。一部を人差し指に巻きつけて脇に払い除けた彼は、かけていた眼鏡を少しずらし、残る銀髪を掻き上げて後ろに流した。
 綱吉には垂涎もののストレートヘアを乱してひとまず視界を確保した彼は、鼻の上で傾いていた眼鏡を直し、立てていた膝を下ろした。
 胡坐を作り、交差させた足首の上に両手を置く。その体勢で見詰められて、綱吉はシャープペンシルでノートを叩いた。
「湿気が凄いっすね」
「うん」
 日本の夏は厄介だと嘯き、彼は曇り空が広がる窓の外に目をやった。注目が逸れて心持ちホッとして、綱吉は増える一方の黒い点を爪で削った。
 数式を書き写し、問題を解き始めて直ぐに手は止まってしまった。どうやれば解が導き出せるかがさっぱり思い浮かばなくて、神経質にノートを小突き続けた結果がこれだ。
 そのうちページ全体が真っ黒になるのではないか。そんな事を考えているうちに、視線を戻した獄寺が小首を傾げた。
「十代目」
「その呼び方、どうにかならないかな」
 どうしたのか問われて、答えをはぐらかして言い返す。棘のある口調にも関わらず、獄寺はきょとんとした後に照れ臭そうに笑った。
 そういう顔をする意味が、綱吉には分からない。右手に持ったシャープペンシルの尻で顎を叩き、彼は大仰に肩を竦めて嘆息した。
 手を広げ、握っていたものを机に転がす。そう広くも無いテーブルは、教科書にノート、そしてオレンジジュースが入っていたコップで、足の踏み場も無いくらいだった。
 床の上にはポテトチップスの空き袋に、洗濯してある衣服が積み上げられていた。壁際では漫画雑誌が幅を利かせ、ベッドの上も今朝起きた時のまま、布団は片側に寄せ集められていた。
 そこかしこにゴミが散乱し、お世辞にも綺麗とは言えない環境だ。しかし獄寺は全く気にする様子もなく、再び右膝を立ててそこに身を寄せた。
 期末試験が間近に迫っている。試験範囲が発表されて既に久しく、科目日程も先日廊下に張り出された。部活動も、試合前のもの以外は禁止されたが、元々帰宅部の綱吉にはこれは関係ない。
 放課後の時間が余るのは、いつものことだ。そしてこの時間を利用して勉学に励むよう言われるのも、毎度のことだ。
 ただ今は、その口煩い赤ん坊は居ない。ビアンキや奈々と一緒に、夕食の買い出しに出ている。
 獄寺から明確な返事はない。愛想笑いで誤魔化されてしまって、綱吉は頬を膨らませ、手元の教科書に目を落とした。
「どうですか」
「駄目、さっぱり」
 もう五分以上筆が止まっているのだから、気付いてくれても良いだろうに。お手上げだと両手を掲げた綱吉に苦笑し、獄寺は折り癖がついた綱吉の教科書に手を伸ばした。
 天地を入れ替えて問題に目を通し、机に戻す。
「大体、なんだってこんな、面倒な方法でやらなきゃいけないんだよ」
 蛸のように口を窄ませて文句を言い、綱吉は書き写した問題に拳を突きたてた。
 ドンッ、とテーブル自体が揺れて、空っぽのグラスから水滴が散った。氷さえ溶けてしまって、少しだけ色の着いた水が底の方に沈んでいた。
 沢田家とは違う家の風鈴が、ちりりん、と鳴っている。耳に涼しい音色ではあるが、肌に張り付く湿気の鬱陶しさが勝って、却って不快感が加速した。
 シャツの襟に指を入れ、綱吉は両足を広げて天井を仰いだ。
「あー、もう。無理」
「十代目」
「だーかーらー」
 やったところで分からないのだから、やるだけ無駄だ。声高に叫んで諦めを表明し、彼は踵で床を踏み鳴らした。
 万年最下位を記録している綱吉にとって、試験ほど嫌いなものはない。小学生の段階で既に学力は遠くに置き去りにされていたのだ、中学生になった途端に改善されるわけもなく、予想通りドンケツが彼の定位置だった。
 相対する獄寺は、その正反対の場所にいる。女子が騒いで止まない美貌と、先生さえ言い負かす知力の両方を持ち合わせた彼は、綱吉にとって天敵にも等しい存在である筈だった。
 もし彼が、イタリアから渡って来たマフィアでなかったら、こうやって机を挟んで向き合うことだってなかっただろう。
 綱吉をマフィアのボスにする為にやって来たリボーン、それを追うようにしてやって来た獄寺。最初は自分がボスになるのだと息巻いていた彼だが、ひょんなきっかけで綱吉に心酔し、彼に付き従うようになった。
 偶然の結果でしかないが、綱吉は彼の命の恩人となった。今ではボスになるのではなく、ボスとなった綱吉の右腕として活躍するのが、彼の夢だ。
 もっとも綱吉には、その意志は欠片もないのだけれど。
「沢田さん」
 マフィアになどならない、それはリボーンが来た当初から言い続けているある種の決意だ。
 平穏無事と生きて来た彼には、そんな職業は物騒以外のなにものでもない。それなりに平凡で、それなりに幸せで、それなりに満ち足りた生活を送れれば良いのであって、スリルに満ちた人生は望んでなどいない。
 それなのに周囲は聞く耳持たず、獄寺もリボーンも、綱吉はボンゴレの十代目を継ぐものと勝手に決め付けていた。
「う……」
 獄寺が綱吉を呼ぶのに使う呼称が、それを証明している。そんな物騒なものにはならないと言い張って訂正を求めた矢先、さらりと言われて、綱吉は口篭もった。
 十代目、と言われ慣れて来たからだろうか。その呼び方をされると、妙に気恥ずかしい。
「そう仰有らずに。頑張りましょう」
「いいよ。どうせ、赤点しか取れないって」
 試験前の放課後を有意義に過ごすべく、獄寺は綱吉に勉強を教えると言って押しかけて来た。余計なお世話、と言いたいところだが、折角の好意を無碍にするのも申し訳なくて、渋々教科書を広げた。
 そうして既に三十分近くが経過していた。
 ノートの空白は大きい。他の人だったなら、もうとっくに次のページに進んでいても可笑しくないが、なにせダメツナと方々から言われている彼だから、一筋縄でいくわけがなかった。
 ぶすっと鼻を膨らませた綱吉に肩を竦め、獄寺は眼鏡のズレを直した。
「十代目」
「また」
「では沢田さん、どれが分かりませんか」
「全部!」
 大声で叫び、綱吉は上半身を支えていた腕を床から浮かせた。重力に引っ張られた背中が傾ぎ、倒れる。着地点にあった通学鞄が、突然の襲撃を受けて真ん中で凹んだ。
 大の字になった彼を見下ろし、獄寺は今にも泣き出しそうな色をした空に目を細めた。
「沢田さん」
 吹く風は温い。多量の水分を含んでいるので、春先に比べて随分重たかった。
「夏休みに遊びに行くんじゃなかったんですか?」
「うぐ」
 首の向きを戻した彼のひと言に、投げやりになっていた綱吉は呻いた。苦虫を噛み潰したような顔をして、憎々しげに天井を睨む。
 ひとつでも赤点を取ったら、リボーンから手痛いお仕置きが待っている。積みあげられた問題集の塔を前に、夏休みの一ヵ月半を無駄に過ごさなければならない未来が、彼を手招きしていた。
 海や山に遊びに行くのも叶わない。日がな一日机に向かい、訳の分からない数式や、英単語や、化学記号と格闘させられても良いのかと、獄寺の声が力強く訴えた。
 そんな夏休み、楽しくない。彼に言われずとも分かっている。綱吉は耳に痛い説得に唇を噛み締め、仕方なく身を起こした。
 目の前で、獄寺が露骨にホッとしているのが気に食わない。だが勉強しないままでは赤点確実で、そしてリボーンが用意する地獄の夏休みも一気に現実味を帯びる。
 付け焼刃でも、何もしないよりは抗った方が良い。自分に言い聞かせ、綱吉は再びシャープペンシルに手を伸ばした。
 教科書が元の位置に戻され、問題文に目を通し、彼は眼を真ん中に集めた。
「ううー」
「沢田さん?」
「でも、でもさ。こんなの覚えても、将来なんの役に立たないと思う」
「マフィアのボスになれば、使わないかもしれないですね」
「…………」
 ちくりと嫌味を言われて、押し黙るしかなかった。
 密かに根に持っているらしい。にこやかな笑顔に隠された獄寺の黒い部分を垣間見た気がして、綱吉は口を尖らせた。
 長文の応用問題は時に引っ掛けが混じり、彼を混乱させた。文章に散りばめられた数字や、ヒントと思しき文言をひとまずノートに書き出して、それぞれを適当に組み合わせていく。が、元の式が間違っているのだから、正しい解が導き出されるわけもない。
 自分が何を求めているのかも分からなくなって、彼はぐしゃぐしゃに頭を掻き回した。
「先ほどやった式を使えば、簡単ですよ」
 獄寺が助け舟を出すが、綱吉の混乱に拍車がかかっただけだ。ヘの字に曲がった唇に苦笑を浮かべ、獄寺はひと言入れて立ち上がった。
 トイレに行くのかと思ったが、違う。綱吉が目で追いかける前で、彼はテーブルを大外に回りこんだ。
「失礼します」
 言って、彼は綱吉の左隣に座った。
 テーブルは狭いので、密着せざるを得ない。半袖から伸びる腕が腕に触れて、汗か湿気か、兎も角どちらかの所為で嫌にぴったりと張り付いてしまった。
 思いの外熱くて、咄嗟に逃げようと腰が浮く。が、覗き見た獄寺の顔は平然としており、特に苦に思っているわけでもなさそうだった。
 涼しい顔をしている彼に妙な対抗心が湧き起こって、綱吉はぐっと腹に力をこめた。一センチ弱持ち上げていた尻を元の場所に戻し、座りを安定させて右手のシャープペンシルを真っ直ぐに立てる。
「昨年の購入者総数が、この数字だというのは、分かりますね?」
「うん」
 問題の内容は、とある商品の購入者数を導き出すよう求めるものだった。昨年度の購入者数は分かっているが、今年の数字は伏せられている。購入者は主に二十代と、三十代で、その比率が文中に示されていた。
 更に各々の年代の購入者がどれくらい増えたかを現す数値が続いて、最終的に今年はどれだけの購入が成されたか、を答えるよう述べて、問題は締められていた。
 実に回りくどい。
「この問題、可笑しいよね。なんで今年の購入者数がわからないのに、比率だけ先に出て来るんだろ」
「じゅ……沢田さん、それは触れてはならない約束です」
 それに購入者数も、妙に少ない。四桁に届かないようでは、この会社は潰れるのではなかろうか。
 そんな事を口にしたら、獄寺が引き攣り笑いを浮かべた。
 憤然とする綱吉を宥め、彼もシャープペンシルを手に取った。落ちてくる銀髪をしきりに耳に引っ掛け、背中を丸めて白いノートに数字を書き込んでいく。
 彼が動く度に、綱吉の左腕の皮膚が突っ張った。
 綱吉よりも幾らか読みやすい、しかし特有の癖がある文字が紙面に踊る。無駄に左上が長いXの隣にプラス記号、そしてやたらと下に長い小文字のYが続いた。
 イコールで結ばれた先に、大きさがバラバラの三桁の数字。昨年の購入者総数だ。
「エックスを二十代、ワイを三十代とします。合計すれば、こう」
 アルファベットの下をシャープペンシルで小突きながら獄寺が言って、綱吉を窺った。そこまでは、幾らなんでも分かる。間髪入れずに頷いた綱吉に、彼は小さく頷き返した。
 鼻の上に左指をやって眼鏡を軽く押し上げ、彼は再び下を向いた。最初の式の下に、次の式を構築していく。
 小数点が紛れ込んでいるのを横から眺め、綱吉は途端に渋い顔をした。
「そして、これが……十代目?」
「それって、どこから出て来たの?」
 説明を始めようとした矢先、口を尖らせている綱吉に気付いて彼は首を捻った。
 すかさず綱吉が質問を投げかけ、「1.2」という数字を指し示す。そんな数は、問題のどこにも表記されていなかった。
 見落としかと疑って教科書を引き寄せた綱吉だけれど、どれだけ読み返してもそれに該当する記述は見当たらない。ぶすっと頬を膨らませた彼に苦笑を浮かべ、獄寺はテーブルに対して斜めに座り直した。
 距離が開いたお陰で、蒸し暑さが少し遠退く。本来はホッとすべきなのに、何故かわけもなく孤独感が強まって、綱吉はテーブルの縁を爪で引っ掻いた。
「貸してください。ええと、ほら、ここに」
「二割り増し?」
「はい」
 どうやらもっと前段階から説明してやる必要があるらしい。理解が追いついていない綱吉に手を伸ばし、教科書を受け取った獄寺は、何故書かれてもいない数値が出て来たかを教えるべく、文章の半ばを指差した。
 背を丸めて顔を近づけた綱吉に首肯して、彼はテキストを机に戻した。
 瞳だけを動かした綱吉が、首から上を突き出している滑稽な体勢を改める。浮かせていた腰を床に戻し、膝でトントン、とリズムを取る。
 獄寺が筆を取って、ノートの空白部分に何かを書こうとして、思い留まって肩を引いた。
「十代目は、二割が二十パーセントだというのは、分かりますよね」
「え?」
「表記が違うだけで、意味は同じなんです」
「あ、あぁ。うん、……なんとなく」
 唐突に訊かれて面食らった綱吉が、自信無さそうに頬を掻いた。
 よく野球などで勝率二割だとか、三割だとか言われている。五割引きと五十パーセントオフの表示が同じ意味あいだというのも、説明されれば頷ける。
 やっと獄寺が言いたい事が分かって、綱吉は先ほど疑問に感じた数値を見詰めた。
「二割り増しだから、えっと」
「はい、一.二、ですね」
 噛み砕いて説明されて、どうにか理解出来た。同じ理屈で行けば、獄寺がその隣に記した数字も、何故出て来たのかが分かる。
 昨年の二十代の購入者数がXとして、今年はその二割り増し。三十代の購入者数は三割五分増し。
「ああ、なんとなくだけど、分かって来たかも……」
 頭の中に掛かっていた靄が晴れていくのが分かる。まだ不安はあるが、答えに辿り着くための道筋がおぼろげに見えた気がした。
 唇を掻いて呟いた綱吉に深く頷き、笑みを浮かべた獄寺がペンを置いた。後は綱吉に任せると言って退き、立ち上がる。
 衣擦れの音を横で聞いて、綱吉は咄嗟に左手を持ち上げた。
「十代目?」
「だからその呼び方は」
 シャツの裾を掴まれた獄寺が、意外そうな顔をして首を下向けた。不思議そうに呼びかけられて、綱吉は一瞬言葉に詰まり、顔を背けてボソボソと小声で言い返した。
「すみません。癖なので」
 本当はそんな事、どうでも良かった。言いたいのはもっと別のことだったはずなのに、獄寺の声を聞いた途端、何も分からなくなってしまった。
 謝罪したのに手を放してもらえなくて、獄寺は眉間に浅く皺を刻み、肩を竦めた。
「失礼します」
 呟いて、その場に再度腰を下ろす。彼が床に座ったところで、綱吉の手は引っ込んだ。
 乱れてしまったシャツを調え、獄寺は行儀良く正座を作り、綱吉の隣で身構えた。
「さ、どうぞ。続きを」
「わ、分かってるよ」
 充分過ぎるくらいにヒントは与えたのだから、後は自力で解いてみせるよう言って、獄寺が掌を返す。ついムキなって怒鳴り、綱吉はシャープペンシルをきつく握り締め、自分の字ではない数式を睨んだ。
 どちらかと言えば問題を正しく読み解けなくて手間取っていたので、式に変換されてしまえば、あとは計算だけだ。どちらかの数式の片側をXだけにして、それをもう片方の式に組み込めば良いだけだ。
 理論は知っている。だがまだ巧く操れない。歯軋りをして温い汗を流し、綱吉は懸命に頭の中で式を動かし、ペン先をノートに走らせた。
 ぷしゅん、とタイヤの空気が抜けるような音がして、獄寺は目を丸くした。
「十代目」
「こ……う?」
「正負が変です」
 持ちうる限りの知力を駆使したのだが、あっさり不正解だと告げられて、綱吉は泣きたくなった。鼻を大きく膨らませて堪え、彼の指摘がどこに該当するのかを探して目を泳がせる。
 式を組み替える際に、正を負に入れ替えるのを忘れていた。自力で発見して修正し、計算を開始する。だが今度は、綺麗な数字にならなかった。
 購入者数、というくらいだから、答えは人間の数だ。それなのに、小数点が出てしまう。四分の一人、などという数え方はありえない。
「うぅぅ」
「ここの掛け算が間違っていますね」
「ぬあ!」
 低い声で呻いていたら、横から身を乗り出した獄寺が、再度装着した眼鏡を揺らしながら言った。
 悔しさと腹立たしさで大声を張り上げ、綱吉は両手を頭にやって髪の毛をガシガシ掻き回した。
 こんなにも根気強く、丁寧に教えて貰っているのに、なかなか答えに辿り着けない自分が嫌になった。同時に、余りにも情けない自分の面倒を、辛抱強く見てくれる獄寺に感謝の気持ちと、申し訳なさが募った。
 深々と溜息をついて肩を落とし、綱吉は下唇を突き出して消しゴムに手を伸ばした。
「……ごめんね」
「?」
 間違えた箇所を消しながら、呟く。獄寺はきょとんとした顔をして、すぐに柔和に微笑んだ。
「誰だって苦手なものはありますよ」
「獄寺君には、ないじゃない」
「いえ、……姉貴が今日いなくて良かったです」
 顔良し、頭良し、運動神経も山本ほどではないが悪くない彼に、不得手なものなどあるわけが無い。そう思って拗ねた顔をしたら、目を逸らした獄寺が腹を撫でながら言った。
 言われてみれば、そうだった。彼は実の姉であるビアンキを、極端なまでに不得意にしていた。
 顔を合わせるだけで泡を噴いて倒れるのだから、幼少期に植えつけられた彼女への苦手意識は、相当なものだ。
「ぐ、む……あ、破れた」
 だがそれも、裏を返せばビアンキが居なければ完全無欠という事になる。不満は消えず、鬱屈した気持ちを抱えながらやっていた所為で、擦りすぎた紙が負荷に負けて破れてしまった。
 ビリッ、といったノートを前に渋い顔をして、綱吉は消しゴムの滓をテーブルに散らした。
 空白部分は大きいけれど、下敷きを入れ替えて次のページにあっさり乗り移る。テープで補強しようという考えは起きなかった。
「うー……こう、で。こう、だから、えっと」
 左肘をついて頬杖を作り、右手のペンで神経質に紙面を叩きながら数式を解いていく。本人は呟いているつもりはなかったのだが、心の声を隠すことが出来ないでいる彼に、獄寺は相好を崩した。
 ひっきりなしに頭や頬や、額を爪で掻き、猫背の度合いはどんどん酷くなっていく。ノートまであと数センチで、殆ど机に突っ伏している状態だった。
「十代目」
「ひあぁっ」
 流石にこれは宜しく無いと、獄寺は手を伸ばして細い肩を叩いた。目の前の問題に必死になっていた綱吉は、突如横から加えられた力に背筋を粟立て、裏返った声で悲鳴を上げた。
 一気に仰け反った彼に目を丸くし、反射的に腕を引いた獄寺が二秒後に腹を抱えて笑い出した。
 予想外の反応があまりに可笑しくて、ツボに入ってしまった。失礼だと分かっていてもどうにもならなくて、彼はみるみる赤くなっていく綱吉に目尻を下げ、生理的に浮いた涙を拭った。
「いや、はは、すみま、せっ……」
「獄寺君の馬鹿!」
 笑いながら謝罪する、という器用な芸当を見せた彼に怒りを撒き散らし、こめかみに青筋を立てた綱吉は乱暴にその膝を殴った。肉が薄く、皮の下が直ぐ骨という箇所を攻撃されて、獄寺は神経に走った電撃に息を詰まらせ、身悶えた。
 ひく、と喉を鳴らして天を仰ぎ、そのまま後ろへと倒れこむ。綱吉が脱ぎ散らかした服がクッションになってくれなければ、フローリングに後頭部が直撃だった。
 舞い上がり、落ちた衣服が彼の頬を掠めた。抓んで引っ張り上げ、横になったまま顔の前に持っていく。白い、半袖のトレーナー。使われている布の肌触りには覚えがあって、獄寺は全体を見ないままそれが何かを把握した。
 体操服だ。
 洗濯後だが、鼻先に近づけると、仄かに香るものがあった。
「十代目の匂いだ」
 声に出さぬまま囁き、食らいつきたい衝動を堪える。流石に本人を前にしてそんな変態じみた真似、出来るわけがない。
 石鹸と、太陽の匂いだ。健やかに晴れ渡る、広大無辺な大空の香りだ。
 まるで綱吉の腕に包まれているような気持ちになって、彼は静かに目を閉じた。床で大の字になった彼に目もくれず、綱吉はシャープペンシルを利き手に構え持つと、三度目の正直に挑み、数字をノートに散らしていった。
 一問に何分かけているのかと、人は笑うかもしれない。開始してから既に一時間近くが過ぎだ。これが試験本番だったなら、もう終了が宣言されていてもおかしくない。
 だが綱吉には、最早時間などどうでも良かった。この問題が解けたら、自分にとってのなにかが変わるかもしれない。そんな期待を胸に抱きながら、先ほど間違えた計算式を慎重にやり直し、薄い罫線の隙間にとある数値を描き出す。
「出来た」
 もっと感動的な何かが湧き起こると予想していたのに、その瞬間呟いた声は実に無味乾燥として、味気ないものだった。
 どことなくぼんやりとした、夢うつつでの呟きにも聞こえた。薄い膜を一枚隔てたところから響いた自分の声に目を瞬き、彼は舌の先で空気を掻き回し、唾と一緒に飲み込んだ。
 声を聞きつけた獄寺が身を起こした。首だけ巡らせて動きを見守り、綱吉は回答を彼に示した。
「……お見事です」
「え」
「正解です。素晴らしいです、十代目」
「え」
 それを暫くじっと見詰めた獄寺が、空色の瞳をキラキラと輝かせた。
 感嘆の息と共に零れ落ちた言葉がいかなる意味を持つのか、綱吉はなかなか思い出せなかった。琥珀色の目を丸くして、きょとんとした顔で小首を傾げる。その可愛らしい仕草に笑みを零し、獄寺は最高の賛辞で手を叩き合わせた。
 間近で響いた拍手にも不思議そうな表情を浮かべ、やがて綱吉は唇を噛み締めて肩を震わせた。
 照れとは違う理由で、頬が赤く染まっていく。胸の奥がむずむずしてならず、かといってくしゃみが出るわけでもなくて、彼はじっとしていられなくて唐突に獄寺を殴った。
「十代目?」
「俺が凄いんじゃなくて、だから、その」
 ノートごと拳を押し付けられて、獄寺が怪訝にする。綱吉は顔を伏し、朱色に染まった耳の裏を彼に見せ付けた。
 ひとりでは解けなかった。どうせ駄目だととっくに諦めて、投げ出していた。
 獄寺が傍に居て、励ましてくれたから、出来た。
 凄いのは自分ではない。
 心の中を様々な思いが駆け抜けていく。しかし綱吉はなにひとつ言葉に出来ず、悔しげに鼻を啜り、腕を引いた。身を起こし、嫣然と微笑んでいる獄寺を何故か睨み付ける。
「獄寺君って、解けない問題とか、ないんじゃないの?」
「そんな事はありませんよ」
「嘘だ。絶対に、嘘だ」
 否定されても突っぱねて、信じないとかぶりを振る。急に駄々を捏ね始めた彼に肩を竦め、獄寺は頬を撫でた銀髪を掻き上げた。
 開けっ放しの窓から、温い風と一緒に子供達の声が流れてきた。ランボとイーピンと、そしてフゥ太のはしゃぐ楽しそうな笑い声が、綱吉の苛立ちを膨らませた。
 奈々が買い物から帰ってきた。耳を澄ませば玄関を開ける音も遠く聞こえて、彼は痺れを切らし、立ち上がった。
「お茶、持ってくる」
「だったら俺が」
 そそくさと部屋を出ようとする彼に腕を伸ばすが、届かない。空振りした手を宙に泳がせ、獄寺も膝立ちになった。
 そこへ、
「獄寺君はお客様なんだから!」
 扉前で振り返った彼の怒号に首を竦め、中途半端な体勢のまま停止した彼は、足音響かせ出て行った綱吉の真っ赤な顔に目を細め、照れ臭そうに頭を掻いた。
 直接言葉ではもらえなかったが、有難うという気持ちは、充分過ぎるくらい伝わって来た。
 面と向かって言われるよりも、こちらの方がどうにも気恥ずかしい。頬を掻き、彼は綱吉が居た場所に座って教科書を手に取った。
 階下での綱吉と奈々の会話が、切れ切れに響いてくる。心地よい音楽に耳を傾けながら、彼はテキスト後半の応用問題を爪で削り、表情から笑みを消した。
 文章を読み解き、知っている式に当て嵌めていけば、答えは自然と導き出される。それは彼にとって、なんら難しい作業ではなかった。
「俺でも解けない問題は、でも、沢山ありますよ」
 相手がいないまま話を再開させて、彼は苦笑した。
「例えば」
 言いかけて、言葉を切る。誰かが階段を登ってくる足音が、彼の意識をノックした。
 淡い笑みを零し、両手で本を閉じる。瞑目した彼の脳裏に、答えの出ない問いが溢れ出した。
 どうすれば綱吉と、多くの時間を共に過ごせるだろう。彼がマフィアになっても、ならずとも、一生傍に居るにはどうすればいいだろう。
 彼の心を掴み取るのに最良の方法は、未だ見えない。
「お待たせ。お菓子、貰ってきた」
「有難う御座います」
 礼を言い、綱吉とリボーンを迎え入れるべく彼は膝を立てた。
 直後、綱吉の後ろから出て来た長い髪の女性に目を剥き、獄寺は泡を噴いて倒れこんだ。

2010/06/26 脱稿