小春日和の陽射しは優しく柔らかで、風も程よい温さを持ってどこまでも穏やかだった。
雲は少なく、薄水色の空が頭上一面を覆っている。風にそよぐ木立が時折ざっ、と大きな音を立てるけれど、それも決して不快な雑音ではなく、逆に心を鎮めてくれる心地よい音色だった。
自然が奏でる長閑な楽に聞き入り、紛れ込む小鳥の囀りに頬を緩める。地面に降り積もる濡れ落ち葉の上を滑るように進んで、彼はこの辺りではひと際太く、立派な胴回りをした古木の傍で足を止めた。
六尺を越える背丈を持つ彼の、丁度肩の高さ辺りに大きな洞があった。樹齢数百年を刻む大楠は、冬場でも緑が朽ちることはない。天に向かって枝を伸ばし、沢山の葉を茂らせて地表に安らぎの場を作り出していた。
冬篭りの準備中らしき栗鼠が一匹、足元を急ぎ足で駆け抜けて行った。はち切れんばかりに頬を膨らませていたので、団栗を集めて塒に溜め込んでいる最中なのだろう。
茶色に白の筋が走る毛並みを見送り、彼は眩いばかりの金髪を掻き回した。
「ったく」
いくら聖域の中は比較的安全とはいえ、肉食の獣が全く居ないわけではない。近隣の山々には狼や猪も出没するのだから、もう少し警戒心を強めておいて欲しいと、彼は肩を竦めて嘆息した。
右足を前に繰り出し、大楠までの距離を一気に詰める。のんびりとした空気を楽しんでいた森の獣達が彼の姿に驚き、慌てふためきながら逃げていった。
驚かせてしまった。一目散に尻尾を巻いて走っていく草食動物たちに目をやって、彼は一寸傷ついた顔をして、鼻の頭を掻いた。
そんなに心を荒立てていたつもりはなかったのだが、若干の腹立たしさを抱いていた分が外に漏れてしまったらしい。野生の獣は存外にこちらの感情に敏感で、彼は気持ちを引き締め、唯一大楠の根元に居残った存在に目を細めた。
「ツナ」
呼びかけるが返事はない。腰を曲げて戯れに額に掛かる前髪を擽ってみるものの、反応は返ってこなかった。
瞼は固く閉ざされ、動かない。窄められた唇から安定した呼気が漏れているので、具合が悪いというわけではなさそうだ。
単に眠っているだけ。それを証拠に、彼の腰元には読みかけの書が落ちて、枯葉に角が埋まっていた。最初は幹に凭れかかっていたであろう身体も斜めに傾き、今にも横に倒れてしまいそうだ。
「ツーナ」
もう一度呼んでみるが、結果は変わらなかった。
ディーノは羽織っていた緋色の打掛の裾を掬うと、膝を折ってその場に屈みこんだ。寝入る綱吉の右前に陣取り、足で踏まぬよう気をつけながら打掛を広げ直し、頬杖を着く。
長着の裾が左右に割れて、太く逞しい脚が木漏れ日に晒された。
「起きねえな」
辛抱強く待ってみるが、綱吉は目覚めなかった。楽しい夢でも見ているのか、時折頬が緩んで瞼がひくひくと動く。
眠っている時でさえ表情豊かな彼に目尻を下げ、ディーノは落ちてしまっていた本を拾い、間に潜り込んでいた枯葉を引き抜いた。
紺色の表紙を撫でて汚れを取り除き、紐で綴じられたそれを広げて目を通す。何十人という人の手を経て来た紙面は黄ばみ、手垢が目立った。
「延喜式か」
退魔師として基本中の基本である書物を、何故今更綱吉が広げていたのか。恐らくはリボーンに叱られて、基礎からやり直すよう求められでもしたのだろう。
幼少期のとある事件をきっかけに、彼は退魔師としての能力の大半を失った。残ったのは人の目に映らぬものを視る、その力だけだった。
が、彼の傍には常に雲雀が居た。雲雀は綱吉と違って視る能力は持たなかったが、その代わりにこれを滅する力を持っていた。
ふたりが揃えば、大抵のことは叶った。彼らの魂が根の深い部分で交じり合い、繋がっているのも、両者の行動を大いに助けてくれた。
言い換えるなら、綱吉は戦わなくて済んだ。ただ視ているだけで、後は雲雀に任せておけば一から十までやってくれるものだから、必然的に彼は修行を怠けるようになった。
その長きに渡る怠慢が、此処に来て彼を苦しめていた。
度重なる騒動、そして戦いを経て、綱吉は全体のうちのほんの一握り、それも厳しい条件付であるけれども、力を取り戻した。
これを見逃すリボーンではない。沢田家に根を下ろし、この地を守護してきた黄色い頭巾の赤ん坊は、今まで無精してきた分を一気に取り戻させようと、綱吉をこっぴどく叱り、術の会得を急がせた。
退魔師を統括している蛤蜊家本家は、後継者に綱吉を指名した。その彼が、術のひとつもまともに使えないようでは、良い恥晒しだ。彼を幼い頃から見てきたリボーンにとっても、綱吉を笑われて嬉しいわけがない。
「懐かしいなー」
遠い昔にも、似たような本を広げて読んだ事がある。思い出して呟き、ディーノは薄い紙をぱらぱらと捲っていった。
最後まで行かずに途中で閉じて、地面に突き出ている木の根の上にそっと置く。傾いて落ちないようにしてから、彼はすぅすぅ寝入っている綱吉の方へそっと身を寄せた。
危機が迫っているとも知らず、彼は呑気に寝こけている。頬を緩めて笑みを浮かべて、重い頭をもう一段階右にずらした。
「おっ」
あと数寸で顔が触れるところまで来ていたディーノは、突然動いた彼に驚いて慌てて身を引いた。綱吉の上半身はずずず、と沈み、先ほどディーノが延喜式を置いた木の根に肩を添えて、やっと止まった。
上半分と、下半分が互いに違う方向を向いて、かなり苦しそうだ。にもかかわらず彼はまだ目覚めず、だらしなく口を開いて涎を垂らした。
「ふにゃ、む……」
可愛らしい寝言を零し、ディーノの失笑を買う。笑われているとも知らず、綱吉は無邪気な寝顔を晒してごろん、と身体を丸めた。
木の根を枕にして横になった彼に手を伸ばし、遠慮なく蜂蜜色の髪の毛をかき回す。それでも彼は目を開かなくて、余程深い夢の中を漂っているようだった。
疲れているのかもしれない。
昨今の騒乱で並盛村は甚大な被害を受け、復興作業が今も続いている。冬を越えるための食糧も充分ではなくて、何処にどれだけ配分するかの議論は、村長の屋敷で今日も夜通し行われるはずだ。
雲雀は頻繁に村の雑事に呼び出され、綱吉に構ってやる暇もなかなか作れずにいた。四六時中彼と一緒に居た綱吉にとっては、寂しい毎日だ。
折角雲雀が戻って来たのに、今度は別の案件で引っ張りだされて、帰って来ない。そしてリボーンは、綱吉がひとりの時間を狙って修行に精を出すよう仕向けてくる。
「ツナ、おきろよ。起きろって」
長着に隠れた細い肩を掴み、前後に揺さぶる。少しの力しか加えていないのに、軽い肢体は大きく波打った。
「む、う~……」
流石にこれは堪えたのか、綱吉の眉間に皺が寄った。窄められた唇からは不満げな呻き声が漏れて、ディーノは期待に胸を膨らませた。
しかし、それでも彼は目を覚まさなかった。いったいどんな楽しい夢を見ているのか気になったが、流石に人の心を盗み見る技量は持ち合わせておらず、ディーノは不満げに頬を膨らませ、打掛の下で腕を組んだ。
足首に絡みつく枯葉を払い除け、緋色の打掛を引きずって距離を詰める。真上から覆い被さるように身を屈めて息を潜め、彼は綱吉の顔のすぐ傍に手を置いた。
自分の影で視界は一気に暗くなった。その中でも綱吉の肌色は際立って白く輝いており、彼は息を潜め、慎重に綱吉との距離を詰めていった。
重力に引かれて垂れ下がった前髪が、綱吉の肌に触れた。薄い皮膚を擽られ、むずがった彼の表情は少し険しさを増す。それでも瞼は開かず、あの鮮やかな琥珀色を目にするのは叶わなかった。
勿体無いと思いつつ、この好機を逃すのも惜しくて、ディーノは相反する感情を心の中でぶつけ合わせた。
「ツナ」
しっとりと名を紡ぎ、一寸の距離で止まる。あと少し首を前に傾がせるだけで、桜色の唇は彼のものだ。
「ツナ……」
恋焦がれる気持ちを抑えきれず、声が自然と大きくなった。必死の思いで訴えかけて、制御の枠をすり抜けた欲望を懸命に自分の中に繋ぎとめる。
熱っぽい息を間近で浴びせられた少年は、その瞬間嫌そうに首を振り、ぐーっと背筋を反り返らせた。
「んぅ……」
寝返りを打って反対側を向かれてしまい、ディーノは一瞬の出来事に呆然として、直ぐに相好を崩して自分の額を叩いた。
膝を起こして座り直し、背中を丸めて小さくなっている綱吉の汚れを軽く払ってやる。
「あーあぁ、絶好の機会だったんだけどなぁ」
これ程悪戯をするに適した場面があっただろうか。逃してしまうと急に惜しくなって、ディーノは自分の薄情さを笑いながら、ゆるりと腕を伸ばした。
地面に直接横たわっている綱吉の肩を抱き、引き起こす。自分の腕が枕になるように彼を動かし、素早く木の幹の前に身を滑らせた。
背中を大楠の幹に預けて寄りかかり、胸に綱吉の華奢な体躯を抱き込む。打掛を引っ張って裾を手繰り寄せて被せてやると、温かかいのが気持ち良かったのか、居眠り中の綱吉の頬が緩んだ。
晴れているとはいえ、今は冬の初め。ディーノが思っていたよりも彼の身体は冷えていて、細い腰を引き寄せて全身を打掛の内側に入れてやると、綱吉の方から鼻を鳴らし、擦り寄ってきた。
赤子が母の乳房を求めているようだ。肘で折れ曲がった手がディーノの衿を掴み、ぎゅっと握り締める。
「うはぁ」
あまりにも可愛らしい仕草に感嘆の声をあげ、彼はだらしなく鼻の下を伸ばした。
遠い過去、生まれたばかりの赤子をこうやって抱いたことが一度だけあった。まだ首も座っておらず、触ればあちこち柔らかい。落としたら大変だとか、泣かれたらどうしようだとか、そんな事ばかりを考えていた。
温かくて、小さくて、ひ弱で、けれど確かなひとつの命だった。綱吉を見ていると、あの時に感じた魂の輝きを否応なしに思い出す。
「ツナ」
そっと囁くように呟いて、乱れている前髪を梳いて整えてやる。安堵に弛緩した表情は、年齢以上に彼を幼く見せた。
雲雀は毎夜のようにこの顔を見ているのかと考えると、羨ましくてならない。少しくらい分けてもらっても罰は当たらない気がして、彼は綱吉を揺り起こすのは諦め、肉の薄い背中をとんとん、と調子をとって叩いた。
心臓の鼓動に合わせて、優しく。それは赤子をあやす仕草そのもので、後から気付いた彼は肩を竦めて苦笑した。
抱えるのになんら苦労の無い背丈の綱吉も、人間だから成長する。同年代の子らに比べてその速度は格段に遅いが、いずれはディーノの胸に収まりきらなくなってしまう。
それは少し寂しい。今のままでいてくれればいいのにと、我が儘極まりない勝手な事を思い、彼は元気良く跳ねている綱吉の髪にくちづけた。
その手は大きくて、温かかった。
背中を撫でる仕草は優しくて、心地よかった。もっと感じていたくて、もっと触れて欲しくて切なげに身を捩ると、何故か逆に遠ざかってしまう。追いかけて首を逸らすと、今度は頭をよしよしと撫でてくれた。
嬉しくて顔が勝手に緩む。猫のようにごろごろと喉を鳴らすと、手の主も笑ったようだった。
最初は母かと思った。彼女は夜、なかなか寝付けない時、こうやっていつまでも背中をさすってくれていた。
ただ、彼女の手はこんなにも大きくない。いつも水仕事に、畑仕事と忙しくしているので、指先は乾燥してひび割れていることも多かった。
折角綺麗な手をしているのに、可哀想過ぎる。自分の力が雲雀を癒せるように、彼女の痛みも軽くしてやれたら良いのにと、過去何度思ったことか。
少し切なくなって、脇をぎゅっと締めて身を縮こませる。鼻から吸った息を口から吐くと、鼻腔にはほんのりと甘い、お日様の香りだけが残された。
柔らかく、温かくて、とても安心出来る。続けて思い浮かべた人物は雲雀だったが、彼の手もまた、ここまで大きいものではなかった。
ではいったい、誰なのだろう。他に思い当たる節は見付からなくて、心の中でしきりに首を傾げ、彼は眉根を寄せた。難しい顔をして口を尖らせ、記憶の海に身を委ねて波の上を浮いたり、沈んだり、繰り返す。
やがて彼は、嗚呼、と緩慢に頷いた。
「と、……」
家光の手だ。
久しく会っていない家長の掌は、こんな風に大きくて、どっしりとしていて、いかにも頑丈で重そうだった。指一本ずつが節くれ立って太くて、綱吉の手と比べると本当に何もかも違っていた。
彼に頭をくしゃくしゃっ、と掻き回されるのが好きだった。雲雀の仕草よりもずっと荒っぽくて、少し痛かったけれど、彼の大らかさがありありと感じられて、ほっこりした気分になれた。
懐かしい。
奈々は何も言わないけれど、家光がいなくなってしまってからずっと寂しそうだ。そんな彼女を間近に見ていると怒りが湧いてくる。どうして便りのひとつも寄越さないのかと、家の仕事をなにもかも放り出してまでやらねばならない事があるのかと、腹立たしさが募った。
だけれど本当は、綱吉も寂しかった。
甘える先をひとつ失って、奈々が気丈に振舞うのを邪魔してはいけないと考えた。お陰で雲雀への依存度があがり、彼にべったりの時間が増えた。
最近の彼は村の仕事に忙しくしていて、あまり構ってくれないのが面白くない。ただ村は共同体だから、ひとりだけ怠けるのは許されない。皆、平等に負担を背負っている。特に雲雀は、沢田家全体の仕事をひとりで担っているようなものなので、多忙を極めた。
家光が居てくれたら。リボーンの説教が増えて、術の鍛錬を無理強いされることも増えてきたこの頃は、特に強く思う。
せめて文の一通でも届いて、奈々を安心させてくれたらいいのに。こんな風に息子の頭ばかり撫でていないで、ちゃんと家長の席に座り、仕事をして欲しい。
「とう、さん」
「……ひでぇ」
恨み言が次から次へと浮かんで消えて、顔を顰めて呻いた綱吉の耳元で、家光とは違う声がした。
独り言じみた呟きが鼓膜を叩き、震動が脳にまで伝わって綱吉に違和感を抱かせた。実父の声はもっと低く、しゃがれていた。が、今間近から響いたのは、もっと若い男性の声だった。
覚えのある音質に眉間の皺を深め、綱吉はこめかみを擽った指に首を振った。
「ん」
「ツナ?」
「んぅ……」
頭を後ろに倒して仰け反り、鼻を膨らませて息を吐く。目を閉じたまま瞼を痙攣させた彼は、はっきりと呼びかけられて、今自分を撫でている存在に当たりをつけた。
家光ではない。それが分かった途端、じわじわと足元から恥ずかしさが広がっていった。
「ふわぁっ」
薄目を開ければ、真っ先に逞しい胸板が見えた。
右手を広げると、握り締めていた灰鼠色の衿がはらりと広がり、露になっていた彼の地肌を隠した。身じろいで頭を揺らすと、角張った肩に頬骨がぶつかった。背中が温かい。打掛の裏地が暗がりの中で妖しい色香を放っている。自分の置かれた状況が直ぐに理解出来ず、綱吉は目を見開いて笑っているディーノを凝視した。
何故彼が此処に居るのだろう。そしてどうして、自分は彼の腕に抱かれて眠っていたのだろう。
記憶の前後が入れ違い、頭が混乱する。ディーノの背後に聳えるのは並盛山の大楠で、冬が近いこの季節でも鮮やかな緑の葉を沢山茂らせていた。
降り注ぐ木漏れ日を受けて、ディーノの金髪が眩しく輝く。良く磨かれた鏡に反射した光のようで、咄嗟に目を閉じて瞳を守った綱吉は、先ずは放してもらうべく足を伸ばして、彼の左肘を蹴った。
「いいじゃねーか」
「ディーノさん」
だが彼の意図を先読みしたディーノは、可愛らしい抵抗を呆気なく封じ込め、綱吉をやや乱暴に抱き締めた。
咎める声をあげて手を振り挙げるが、体勢が悪く、あまり力が入らない。寝起きなのも影響している。緩く握られた拳を左肩で受け止めて、青年の姿をした神は意地悪く笑った。
「良く寝てたな」
拗ねた顔をする綱吉の額を小突き、呵々と笑う。目を細めると、元から優しい顔つきが一層柔らかくなった。
「なんだって、俺」
「リボーンに叱られでもしたか?」