形代

 それがどういう状況なのか、というのは、実際にそうなる少し前にある程度の説明を受けて、想像はしていた。
 あとは天命を待つのみ。自分達は今やれる事を全力で成し遂げ、最後のトリガーは引かれた。走馬灯というものを想像していたけれど、意外にも何の記憶も巡っては来ず、ただ流れて行く天井の光がいやに眩しくて、目を開き続けるのが辛いと、そんな事をぼんやり考えていた。
 闇は直ぐに訪れて、音さえも聞こえなくなった。仮死状態がどういうものなのかを把握はしていても、体感するのでは訳が違う。そして残念ながら、今になっても未だ自分がそういった環境に置かれていたのだという自覚は、産まれてこなかった。
 目が醒めた時にはすべてが終わっていて、失われた秩序までもが復活を遂げていた。ひとりの少女と青年の尊い犠牲を払い、世界は本来の、あるべき形を取り戻していた。
 それだからこそ余計に、実感が持てないのだと思う。やり遂げたはずなのに微妙な物足りなさを感じるのは、きっとその場に自分が居合わせられなかったからだろう。
 それは残る守護者達も、多少の差はあれど、感じているようだった。特に早い段階で十年前の己と入れ替わった獄寺や山本には、後から事情を説明するのが大変だった。
 ミルフィオーレファミリーの白蘭、という存在そのものが成立しない未来が再構築され、激化したマフィアの抗争で命を落とした人々は救われた。十年前からやって来た彼らの活躍は記録には残らず、ただ一部の人間の記憶にのみ刻まれる思い出と化した。
 直接その光景を目にする機会がもてなかったからこそ、こうして平和な時間が当たり前に存在しているのが不思議で仕方が無い。何も持たない両手を広げ、彼は自嘲気味に微笑んだ。
 ボンゴレリングも、そしてボンゴレ匣も、こうこの時間には存在しない。数多に産み出された匣兵器自体もが、トリニセッテ復活の最中になかった事にされてしまった。
「ちょっと、可愛かったのにな」
 厄介極まりない生物兵器は少しも惜しくないが、あの愛嬌たっぷりの天空ライオンは失い難かった。十年前の、新たに築き上げられる時間へと向かったあの泣き虫のライオンは、元気にやっているのだろうか。
 掌に乗るくらいの大きさしかなくて、弱虫で意気地なしで、けれどいざという時にはその秘めたる力を出し惜しまない。誰かに似ていると、守護者の全員が声を揃えてそう言ってくれた時は、嬉しさ半分、悔しさ半分だった。
「あーあぁ、コピーでも作っておけばよかったかな」
 静かに腕を下ろし、直後に持ち上げて高く掲げ、そのまま後ろに体重を移動させる。ばったりソファに崩れ落ちた彼に、それは無理な相談だと語る人間は、生憎とこの場にひとりも居なかった。
 ボンゴレ匣は唯一無二の存在。同じものを複数作り上げようとしても、それは無駄な努力にしかならない。
 もっとも、あの見た目の愛くるしさを真似るだけなら、なんとかなっただろうか。とはいっても、臆病なのか豪胆なのか分からない、あの二面性までもを写し取るというのは、矢張り無謀な企みと言わざるを得まい。
 それに、匣兵器自体がこの時間軸から消失してしまったのだ。記憶を頼りに再構築しようにも、土台となる技術が全て消し炭になってしまった今、あれを再度作り上げるには厖大な時間と、知能と、資金が必要だろう。
 公私に渡るパートナーを失った獄寺の悲しみは、想像に難くない。誰よりもあの子猫、もとい豹を可愛がっていただけに、彼の落胆振りは目に余るものがあった。
「かわいかったな~」
 自分にも小動物を愛でる趣味があったのかと、今更ながらに思う。
 丁度これくらいのサイズだった、と胸の前で手を向き合わせた彼は、だらしなくソファに横になって両足を投げ出した。
 履いていた靴を揺らし、まず踵を外してから勢い良く真上に蹴り出す。慣性の法則で靴だけが空を舞い、裏返って床に落ちた。
 反対の足も同じようにして靴下だけになり、開放感と爪先を見舞った寒さに同時に身を震わせる。見詰めた先にある天井は、あの日見た光景とは随分違っていた。
 暫く休養するように言われて、連れてこられたのが此処だ。
 並盛町地下に建築したアジトは真六弔花の攻撃で崩壊してしまっており、使い物にならない。かといってあの家に帰るのも、この歳になってしまうと気恥ずかしさが勝った。そう言うと、彼は問答無用で綱吉の首根っこを捕まえて、此処に運んでくれた。
 バイクで。
 二人乗りは本当に久しぶりだった。いつ以来だったかを思い出そうとして、結局答えが見付からないくらいに。
 彼と一緒に風を切るのが好きで、彼の見ている景色を自分でも見たくなって、年齢に達した時に真っ先に免許を取りに行った。大型バイクに跨って足が届くのか、と要らぬ心配までされたが、遅い成長期に突入したばかりというのもあって、余計なお節介は杞憂に終わった。
 木目が鮮やかな天井は高く、左方向から射す光はとても柔らかい。開けっ放しの窓にガラスは嵌められておらず、代わりに白く薄い紙が張られていた。
 障子戸の向こう側は、見事な山並みが広がっていた。その手前には池が配され、枝ぶりも立派な松がそこかしこにそびえ立っている。風は涼しく、時折小鳥の囀りが耳を撫でた。
 大きく迫り出した軒の先には、これまた木製のベンチが置かれていた。背凭れはなく、本当に腰掛ける目的以外に使い道が無い横長の椅子だ。そちらにも人の姿はなく、何処からか紛れ込んだ木の葉が一枚、寂しげに佇んでいた。
 室内に視線を戻し、ソファの周囲をぐるりと見回す。内装も和風一択であるが、置かれた家具は、景観と帳合いが取れるように色を組み合わせた洋風のものが多用されていた。
 ほぼ正方形の部屋の壁、四つあるうちの三つまでもが仕切りを持たず、解放されていた。残る一辺に大きな柱時計が置かれ、その隣には縁取りがあろう事か漆塗りの薄型テレビが置かれていた。
 世界観に調和するようにとの配慮から、家具ひとつにとっても慎重に選ばれたというのが、見ているだけで感じられた。
 贅を尽くし、しかしそれを大袈裟に主張しない。部屋全体がひとつの美術工芸品のようだが、変に肩肘張らずに過ごせる、適度に和らいだ空気が彼を包み込んでいた。
「なごむ……」
 縁側に小鳥が飛来して、チチチ、と軽やかなリズムで囀っている。藍色と、薄い翠の羽根を持ったあの鳥の名前は、なんと言うのだろう。
「だらしないよ」
「いちっ」
 脱力した四肢をソファに投げ出していたのを引き戻し、背筋を伸ばして姿勢を改めようと動く。その瞬間、外に気を取られていた綱吉の後頭部を、柔らかなものが撫でるように押し当てられた。
 痛くはなかったのだが、咄嗟にその言葉が口から飛び出していた。首を竦めて肩を丸めた彼を呆れ顔で見下ろし、いつの間にかソファの後ろに構えていた青年は、反対の手で支えた盆を前に回し、綱吉の方へ差し出した。
 漆塗りの丸盆には、鮮やかな赤と青の薩摩切子のグラスがふたつ。表面に汗をかいた容器の中身は、氷が入っているわけでもないのに、とても冷たそうだった。
 第一印象というものは、強烈だ。それを改めて感じながら、綱吉はそろりと右手を浮かせ、赤色のグラスに指を掛けた。
 細い一本足に支えられたグラスを絡め取り、盆から浮かせて引き取る。雲雀は残りのグラスを抓み持って、役目を終えた盆を脇に挟んだ。
「……いただきます」
「どうぞ」
 鼻を近づけて匂いを嗅ぐと、少しだけ懐かしい味が口の中に広がった。人間の脳は味覚までも記憶しているのかと妙な感心を抱きつつ、グラスを傾ける。麦茶は、想像した通りの冷たさだった。
 ひとくち飲み、追加でもうひとくち分を口に入れて、グラスを引き剥がす。半分に減った麦茶を揺らし、綱吉は前に身を乗り出した。
 流木を使っている、という背の低いテーブルは、きちんと計測されて切り刻まれた材木とは違い、人間の都合で定められた形を持たなかった。長方形と言えばそうなのだろうが、角は一部が尖り、反対側は凹み、見方によっては流線型を成していた。
 表面だけは磨き均されて、物を置いても転がったり、倒れたりしないようになっている。ただ組み合わせた板がもとより歪なので、所々に小さな穴や窪みが存在した。
 そのテーブルの反対側に回りこみ、雲雀は背凭れの無い籐編みの椅子に腰を下ろした。こげ茶に近い飴色で、座る部分に控えめなクッションが縫い付けられている。
 軽く膝を曲げて座りを安定させた彼は、持っていたグラスを真っ先にテーブルに置き、綱吉のそれに並べた。端に盆を天地正しく添えて、その上に先ほど綱吉の頭を叩いたものを載せる。
 新聞だ。
 ネットワーク化が進んだこの時代、紙の書物はデータ化されたそれにとって代わられた。今や新聞紙というものは、細々と生き延びるだけの過去の異物と成り果てていた。
 だが電子化された文字は肌に合わない人種も確かに存在しており、雲雀もそのひとりだ。彼はインク臭いそれを雑に広げると、切子のグラスを片手に、興味を引いた記事を中心に小さく折り畳んだ。
 彼らが高校生の頃は、こうやって新聞を読む人が満員電車の中でもちらほらと見受けられた。そういえばリボーンも、ああやって食卓で、食後のエスプレッソを楽しみながら文字を追っていた。
 懐かしい顔を思い出し、黙々と細かい文字を追う雲雀を盗み見る。赤い切子細工のグラスに再度手を伸ばした彼は、少し温くなった麦茶を一気に飲み干し、縁側に目をやって頬杖をついた。
 囀っていた小鳥の姿は、どこかに消えてしまっていた。その代役、というのではないのだが、雲雀と時同じくして登場した黄色い小鳥が、ベンチの上で羽根を休めて丸くなっていた。
 似たような羽色の、同じような体型をした小鳥がその傍に、二匹。サイズは右端が最も大きく、横に並ぶ鳥はひと回り小さかった。
「……増えてる」
「もう一羽、草壁のところにいるよ」
「えぇえ?」
 一瞬ひやりとしたものを感じて、綱吉がボソリと呟く。新聞を広げてまた畳んだ雲雀が、視線を手元に固定したまま言った。
 即座に素っ頓狂な声を上げた綱吉は、勢い余ってソファから立ち上がった。声に驚いた小鳥が、一斉に羽根を広げて空に飛び出していく。ただ一番大きい鳥だけは、肝が据わっているのか慣れているのか、ゆったりのんびり、ベンチに居座り続けた。
 まだふたりが中学生だった頃に起きたとある事件、その最中で雲雀に懐いてしまったのが、あの鳥だ。最初は敵側にいたはずなのに、いつの間にか雲雀の肩が定位置となり、今に至る。
 あれと同じ姿かたちの鳥は他に見ない。百科事典にさえ載っていないのだから、どこかの実験室で遺伝子改良されて産み出された変異体だろう、というのが現時点での綱吉側の定説だ。
 つがいになって繁殖しているとは聞いていない。寝耳に水の話に彼は口をあんぐりと開き、新聞から顔をあげようとしない雲雀を呆然と見詰めた。
 と、その彼の肩が小刻みに震え始めた。
「くっ……」
 笑っている。押し殺しきれなかった声が聞こえて、一瞬きょとんとしてから、綱吉は背筋を粟立てた。
「ヒバリさん!」
「ははは、はは」
 真っ赤になって怒鳴りつけると、ついに堪えきれなくなった彼が新聞を膝に落とし、腹を抱えて噴き出した。
 年に一度あるか、ないか、という雲雀の爆笑する姿に憤慨し、綱吉は拳を振り上げた。もう少しで手にしていたものを床に叩きつけるところで、これ一個の価格を想像して慌てて自分を引きとめる。
 雲雀はまだ笑っており、呼吸困難に陥って苦しそうだった。
「ヒバリさん」
「はは、は、あぁ……。冗談だよ」
「ふが!」
 口を開閉させて肺に酸素を送り込み、口元を拭った雲雀がついでとばかりに睫を弾いた。生理的に浮いた涙を追い払い、胸を撫で深呼吸を二度繰り返す。
 軒の向こう側を飛びかっている小鳥に向かって手を伸ばし、窄めた口から息を吐くと、漏れ出た微かな音に反応したそれらが一斉に振り返った。
「わ」
「このサイズにするのが大変だったよ」
 二羽が羽根を広げ、庇を潜って室内に滑り込んできた。我先に雲雀の指を追い求め、二匹とも殆ど同時に彼の人差し指、及び手の甲に着地を果たした。
 テニスボールほどの大きさが肩を並べ、餌を強請る幼鳥のように嘴を広げた。ピィ、という声は聞かれなかった。
「ロボット?」
「そう」
 その代わりに、綱吉の鼓膜を弱く叩く音があった。独自のモーター音に、関節を駆動させる機械のリズム。見た目の可愛らしさに気を取られていたら、きっと気付けなかった。
 綱吉の直感が、これが命を持つものではないと告げていた。
 怪訝な問いかけに首肯した雲雀が、聞き手をテーブルに差し向けた。肘から先を軽く上下に揺すると、震動を受けて小鳥たちは彼の手から飛び降り、流木のテーブルに居場所を移し変えた。
 うち一匹が綱吉を見上げ、首を右に傾がせた。
「へぇぇ……」
 見れば見るほど、本物にそっくりだ。円らな瞳までもが精巧に再現されている。何も知らない人であれば、簡単に騙されてしまいそうだ。
「今は通信機能くらいしかないけど。一匹持っていく?」
「良いんですか?」
 手を伸ばせば、何の疑いもなく傍によって、頭をこすり付けて来た。肌触りも本物に非常に近くて、それでいてほんのりと温かい。
 もう一匹を肩に停まらせた雲雀の言葉に、綱吉は顔を上げた。両手で抱き上げて、顔の近くまで持って行って甲高い声を発する。鳴かないのが残念でならないが、仕草を眺めているだけで心が癒されるようだった。
 喉の辺りを擽ってやると、身を捩って逃げようとする。そういう仕草まで、実にリアルだった。
 ロボットの小鳥相手に興奮している綱吉を尻目に、本物の黄色い鳥は縁側で独自に寛いでいた。拗ねているようにも見えるが、実際どうなのかは綱吉には分からない。
「こんなの、いつの間に」
「前にあの子を連絡役で飛ばしたことがあるんだけどね。通信機の電源自体が長く持たなかったから、改良しているうちに」
 最初はただの無機質な信号発生装置だったものが、何処をどう間違ったのか、気がつけばこんな形状になっていた。
 明らかに誰かの趣味が反映されている完成品に苦笑し、綱吉は頬を緩めた。
「かわいい」
「ピ」
「あはは。お前も可愛いよ」
 率直な感想を口に出せば、ベンチの上で本物の小鳥が鳴いた。自己主張しているあちらも褒めてやって、精緻なロボットをテーブルに戻す。下ろす角度が急すぎたのか、それは巧く着地出来ずにコロン、と転がってしまった。
 慌てて起こしてやると、翼を広げて顔を洗う仕草を取る。落ちた時に顔を打ったので、痛がっている振りをしているのだろう。
 綱吉はもうこれが機械だと知っているから、小鳥の仕草が微妙にニセモノめいて感じられた。知らなかったらどう思っていたかは、想像すら出来ない。
 お人形遊びにしては芸が細かすぎるロボットから視線をずらし、彼は雲雀が拾って置いた新聞を見た。
「なんか、浦島太郎気分」
「うん? ――ああ」
 上下が逆さまでも、数字くらいなら読み取れる。印刷されている今日の日付は、綱吉が抱く季節感と大きくずれていた。
 知らない間に秋が過ぎて、冬になっていた。そしていつの間にか春になって、夏になる。綱吉は時間から取り残され、未だ歩き出せずにいた。
「これから時計を合わせていけばいいよ」
「そうなんですけどね」
 ずれてしまった体内時計は、周囲とも微妙な軋轢を生んだ。
 記憶だけが残されて、記録には刻まれない。何が変わって、何が残ったのかという差を埋める作業も、なにもかもが手探りだ。
 僅かなずれ、微かな差異、言葉で説明し難い違和感。そういったものが常に付きまとい、眠りから目覚めたばかりの綱吉の精神は再び暗闇に放り込まれてしまった。
 時が過ぎるに連れて、この時間が当たり前のものとして身体に馴染んでいくのが分かる。だが、あの日見上げた天井の白さが消えるわけではない。
 切子細工のグラスを指で弾き、透明な音を響かせて目を細める。言いたい事は頭の中にあるのに、それを言葉に表せないもどかしさが胸を緩く締め付けていた。
 会話が途切れてしまい、一気に部屋の空気が重くなる。開放感たっぷりの室内空間が却って居心地の悪さを増大させていた。
 逃げ道は沢山存在するのに、ここから動けない。ソファに浅く腰掛けて俯いた綱吉を、機械仕掛けの小鳥がテーブルの端から覗き込んだ。
「君の選択は、なにも間違っていなかった」
「気休めですね」
「正しかったかどうかは、僕にも分からない。慰めじゃないよ」
 ダイヤの形に刻まれた青の隙間に光が差し込み、テーブルに不可思議な紋様が描き出されている。それを戯れに揺らして、雲雀は残り僅かのグラスを傾けた。
 中身を空にし、それを赤と並べて置く。乾杯、ではなかろうが、薄い縁が互いにぶつかって澄んだ音が響いた。
 思った事を言っただけと付け足した雲雀を隻眼で見上げ、綱吉は瞼を閉ざして光を頭から追い出した。彼の言葉は風呂場の歌声のように膨らんで歪み、奇怪なエコーを繰り返していつまでも綱吉の耳に残った。
 幼い自分たちに世界の命運を託し、重い運命を背負った少女を生贄として捧げた。
 そうやって手に入れた平和な世界に、今こうしてのほほんと生きているのが辛い。
 戦ったのは、自分だ――但し過去の。この時代には永遠に到達することのない、同じだけどまるで違う、沢田綱吉。
 十四歳の自分がもしあんな状況下に置かれたとして、平静でいられたかの自信はない。今の、この年齢に到達した自分ならば、如何なる艱難辛苦にも立ち向かえたかもしれないけれど。
 結果的に、十年前から引き寄せた少年少女らは、見事に大儀を成し遂げて世界の秩序を回復させた。非常に喜ばしく、感謝の言葉をどれだけ尽しても足りないくらいだ。
「してないんでしょ、後悔」
「そうですよー」
 ソファの上でぐーっと背筋を逸らした綱吉は、雲雀の言葉に両手を振り、掌で顔を覆い隠した。目を塞ぎ、見える景色を塗り替える。天井は、今この限りでは彼の前から消えてなくなった。
 後悔はしていない。世界は平和に満たされたのだから、悔やむところは何もない筈だった。
 しかしぽっかり開いた穴は塞がらない。傷は治ったのに、あの瞬間に欠けたなにかが未だに戻らない。
「十年って、大きいですね」
 不意にぽつりと呟いた彼に、飛んできた黄色い鳥に人差し指の止まり木を提供していた雲雀が眉を顰めた。怪訝にしながら生きている本物の鳥を撫で、前後の脈絡を無視した綱吉のひと言を頭の中で反芻させる。
 改めてソファに目をやると、彼は背凭れに深く身を沈め、相変わらず上ばかりを見ていた。
「そうだね。十年前の君は、とても小さかった」
「……変な事してませんよね」
「さあ、どうかな」
 含みのある返答が成され、ピクリと眉を跳ね上げた綱吉がゆっくりと背筋を真っ直ぐに戻した。正面から険のある目で睨みつけられても平気な顔をして、雲雀は長い脚を優雅に組み、目を眇めた。
 十年の間にすっかり表情は柔らかくなり、それに応じて変な色気がついてしまった。見詰められてドキリとして、内心の動揺を悟られまいと鉄面皮を装った綱吉が腹に力を込めた。
 口を尖らせる青年に柔和な笑みを返し、雲雀は半眼して唇を小突いた。
「そんなに心配しなくても、手は出してないから」
「信用出来ない」
「拳は出したけどね」
 声を低くした綱吉のひと言に、雲雀は肩を揺らした。
 この時代での、否、消えてしまった時間での戦い方を知るには、実戦形式を取るのが一番早い。だから容赦なく叩きのめし、打ちのめし、厳しく鍛え上げた。
 倒されても、倒されても諦めずに食らいつき、立ち向かって来る。最初はとても小さくて弱かった存在が、ある一瞬を境に大きく変貌を遂げた。
「面白かったよ」
 あの年代は理詰めで攻めるよりも、経験をひとつでも多く積ませる方が、成長が早い。超直感などというご大層なものまで持っているので、なかなかどうして、想像していたよりも歯応えがあって楽しめた。
 喉を鳴らして笑っている雲雀の顔は、かなり意地悪だった。
「左様で」
 聞かされる方はつまらなさそうに頬を膨らませ、両足を前に投げ出して不貞腐れた態度を取った。
 自分の知らない自分と、雲雀との思い出。確かに彼には、十年前からやって来る己を鍛えてくれるように依頼はしたけれども、こうやって面と向かって語り聞かされるのは、存外に面白くなかった。
 綱吉にもユニの命の炎から受け取った記憶はあるけれども、それはあくまでも彼女の主観によるものだ。雲雀が実際に見て感じたものと少なからずズレが生じるのは否めない。
 十四歳の、別の自分に嫉妬する日が来ようとは、夢にも思わなかった。
 潔くこの感情の名前を認めて、怒らせた肩を落とす。盛大な溜息をついた綱吉に微笑み、雲雀は瓜二つの機械人形と戯れる黄色い小鳥の頭を撫でた。
「あの子は、僕じゃない方が良いんだって」
「……?」
「残して来た僕を凄く気にしていた」
「ああ」
 十年後の雲雀よりも、自分と同じ世界の雲雀を。少ない言葉から多くの情報を受け取って、綱吉は緩慢に頷いた。
 そう言われてしまうと、今度は妙な照れが生じた。頬を薄ら朱に染めて、雲雀から目線を逸らして鼻の頭を数回掻く。どんな表情をすればいいのか思いつかなくて、出来上がったのは実に中途半端な笑顔だった。
 そうして盗み見た雲雀が、どことなく底意地悪い表情をしていて、綱吉は途端にムッと口を尖らせた。
「そんなに信用出来ない?」
「だって、ヒバリさんって」
「なに」
「あの頃から俺のこと、好きだったじゃないですか」
「ああ、そうだね」
 言われて思い出した顔をして、雲雀は深く頷いた。
 少しくらい恥ずかしがってくれても良いものを、あっさり肯定されてしまった。面食らうと同時に余計に照れ臭くなって、綱吉は膝を揃えてそこに両手を置き、丹田に力を込めて低く唸った。
 拗ねている彼を見据え、雲雀は呵々と喉を鳴らした。
「なら君は、十年前の僕が現れたら、手を出すの?」
「それは、……撫で回すくらいならしたい、かも」
 中学生当時の雲雀の身長なら、ぎりぎり抱き締められる。そんな妄想を一瞬頭に膨らませて、綱吉はハッと我に返って顔の前で手を振った。
 背を丸めた雲雀が、顔を伏して震えている。なんとも可愛らしい願いに肩を小刻みに揺らして、今やってみるかと提案し、全力で否定されてまた笑った。
「もー……」
 今日一日だけで、一年分の雲雀の笑顔を補充したかもしれない。勿体無い事をしたとひとり愚痴を零し、綱吉は無意識に手を右に泳がせた。
 何かを撫でるか、或いは捕まえようとして、指先が空振りした事で初めてそちらに意識を向ける。いったい自分が何をしようとしていたのか、咄嗟に思いつかなくて、彼は息を飲んだ。
 目を丸くした綱吉の姿に、雲雀は表情を引き締めた。斜めを向いたまま凍り付いている彼に首を傾げ、少し前までは彼の膝を独占していた存在を思い出す。
「あ、そっか」
 心の中でなにかに折り合いをつけた声を零し、綱吉は身じろいで姿勢を正した。座り直す時の手の動きが、何かを包み込もうとする動きを取っていた。
「記憶って、重さとかも、残るのかな」
「かもね」
 今となっては懐かしい重さを思い返しながら、綱吉が呟く。訊かれたわけではなかったが同意して、雲雀はテーブルの上でうとうとと舟をこぎ始めた小鳥に肩を竦めた。 
 小ぶりのロボットたちまで同じ仕草をして、眠そうに瞼を落としていた。
「寂しい?」
「え?」
 急に問われ、綱吉は素早く瞬きした。自分に話しかけられたものだと理解するのに二秒と少しかかって、泳いだ琥珀が雲雀に戻るのに更に三秒必要だった。
「どう、かな。……寂しくは――ああ、そうか。寂しいんだ」
「綱吉?」
「寂しいのが悔しいんだ。そっか。うん」
 言いかけて途中で止めて、一瞬前とは正反対の言葉を呟いて呆気なく認めてしまう。急変した彼に雲雀は顔を顰めたが、自分の手元に意識を集中させていた綱吉はそれに気付かなかった。
 空っぽの掌の皺さえも瞳に刻みつけ、緩く握って、それを額に押し当てる。
 雲雀と喋っている間から、否、特殊弾による仮死状態から目覚めた瞬間から感じていた虚無感の正体。それが思いも寄らぬところから落ちてきて、彼の胸にストンと収まった。
 知っているのに、知らない。
 その場にいなかった、体感しなかった、共有できなかった。傍観者にすらなれなかった。
 終わってから事の顛末を教わって、それで分かったような気になっているだけ。まるで映画館で、誰かが書いた脚本通りに演技している皆を見ているような、そんな距離が存在した。
 それが悔しくて、寂しいのだ。
「……そっか」
 トリガーは、自分の一時的な消失。復活までの間に起きた出来事は未だ夢のようで、この実感のなさこそが、未だ拭いきれない世界とのズレの正体。
 こちら側が現実だというのに、本当はまだどこかで疑っている。自分はまだ深い、深い眠りの只中にいるのではないかという懸念が、心の奥底で燻って消えない。
 色を失った唇が力なく音を吐き、伏せられた瞳は虚空を漂う。知らないうちに居なくなってしまった多くの存在の、その大きさを改めて思い知ると共に、その場に立ち会えなかった切なさが胸を過ぎる。
 パンッ、と。
「っ!」
 いきなり乾いた音が響いて、ハッと目を瞬いた綱吉は短く息を吐き、顔を上げた。
 音に驚いた小鳥も眠りから引きずり出され、慌てふためいた様子で羽根を広げ、頭からテーブルに倒れこんだ。
 なにもそんなところまで真似しなくてもいいのに、そうインプットされているのか、ロボットまでもが同じ行動をとろうと足掻く。滑稽だが笑う余裕もなくて、綱吉は唖然と開いた口を急ぎ閉じ、両手を合わせた体勢で停止している雲雀を見た。
 彼は鈍い動きで前屈みを修正し、背筋を伸ばして両手を解いた。掌を下にして膝に添え、滾る怒りを鎮めようとしてか、何度も肩を上下させては噛み締めた唇の隙間から長い息を吐き出した。
「ひ、ひばり、さん……?」
「夢ならもう醒めてる」
 身を起こした黄色い鳥が、安眠を邪魔した雲雀に向かって咎めるような声で鳴いた。これを上回る音量で、凄みを利かせて怒鳴るように言った彼に目を丸くして、綱吉はきっぱり告げられたひと言に唇を噛んだ。
 顔を背けるのを許してもらえなくて、言いようのない息苦しさに襲われて、泣きたくなった。
「そうだけど」
「戦ったのは、君だろう」
「でもそれは」
「君が否定してどうする」
 選んだのも、決めたのも、導いたのも綱吉だ。たとえ実際に拳を振るったのが十年前からやって来た沢田綱吉だとしても。
 最初に運命に抗い、戦うと決めたのは彼自身だ。
 テーブル越しに熱い呼気を浴びせられて、瞳を潤ませ、綱吉は首を振った。十年経っても少しもマシにならない癖毛をぐしゃぐしゃに掻き回して、鼻を啜り、口から息を吐く。
 整理のつかない心を持て余し、突如湧き起こった怒りとも取れる感情に足元を掬われた。
「でも俺は、――俺だって、其処にいたかった」
「それは僕だって同じだ!」
 抗いきれなかった叫びに、雲雀が罵声を上げて呼応する。ヒクン、と喉を鳴らした綱吉は、椅子を蹴り倒して立ち上がった雲雀の形相に息を飲み、自分の発言を振り返って唇を戦慄かせた。
 勢い任せに吐き出したことばが、どれほどの威力を秘めているか。後先考えない自分を悔やみ、綱吉は嗚咽を堪えた。
 肩を怒らせた雲雀も、大人気ない自分の態度を恥じているのか、膨れ上がった怒気は一瞬で萎み、消えてなくなった。短い黒髪を梳いて、肩を落として座ろうとし、そこに椅子が無いのを思い出して気まずげな顔をした。
 頭上を行き交う喧騒を嫌い、小鳥たちは軒並み部屋を飛び出してしまった。パタパタという羽音は直ぐに聞こえなくなって、静か過ぎる空気がふたりに冷や水を浴びせかけた。
「……ごめんなさい」
 やがて長い沈黙を経て、綱吉が搾り出すような声で言った。
「いいや」
「俺だけ、辛いみたいなこと、ないのに」
 即座に雲雀が否定に走るが、それを拒み、綱吉は右手で左肘を握った。
 視線が絡まないのを寂しく思った雲雀が、思い切って右足を前に出す。動き出した彼が何処を目指しているのか、分からない綱吉ではなかったけれど、逃げる気も起こらなくて大人しくそこでじっとしていた。
 静かに瞼を落とし、静謐の中のささやかな音楽に耳を傾ける。駅前は再開発が進んで発展したけれども、郊外の山間は相変わらず自然に溢れ、特に大地主の旧家の邸内は別天地だった。
「……」
 テーブルを回りこんだ雲雀の手が、音もなく彼の頭に落ちた。くしゃくしゃにかき回されて、それがとても久しぶりな気がして、くすぐったくてならなかった。
「君の戦いは、これからだろう」
「そうかな」
「拳を繰るだけが戦いじゃないだろう」
「ヒバリさんがそんな事言うとは思わなかった」
 十年前の、風紀委員長として暴れ回っていた頃の雲雀からは想像がつかない台詞が飛び出して、綱吉は声に出して笑った。仕返しに額を小突かれたけれど、さほど痛くなかった。
 白蘭という脅威は消えた。しかしボンゴレの前には、沢田綱吉の前には、未だ解決を見ない様々な難題が山積している。
 ミルフィオーレとの戦いは確かに、十年前の沢田綱吉たちの功績が大きかった。しかしこの先の未来で彼らの手を借りることは出来ない。
 前途多難だった過去をふと思い返し、綱吉は顔を見るのも叶わなかった過去の自分にエールを送りたくなった。
「どうしたの」
「ああ、いや。ナッツ達がいるなら、少しは……恩返しになるかなって」
「――ああ」
 恐らくは綱吉と同じ事を振り返って、雲雀は緩慢に頷いた。
 あの愛くるしい獣達が居ることで、彼らの未来は此処とは違ったものになるだろう。その道筋に何が待っているかは想像も及ばないけれど、助けになるようなら、嬉しい。
 この先数多の罪を背負うだろう子供達が、それでも笑顔を忘れないでいてくれれば、嬉しい。
「でもやっぱり、ちょっと、寂しいかなー」
 両手を胸の前で重ね合わせ、膝を交互に揺らしながら綱吉が言う。そこに温かな重みがないのが落ち着かないでいる彼に肩を竦め、雲雀はもう一度、綱吉の頭をぽんぽん、と叩いた。
 腕の下から見上げられて、雲雀は小首を傾げた。
「なに?」
「ヒバリさんも?」
 舞い戻ってきた小鳥の群れに目配せして、綱吉が語尾を省略して問い掛ける。何を言いたいのか瞬時に悟った彼は、はにかんで首を振った。
「嘘だ」
「嘘じゃないよ」
「じゃあ、あれは?」
 あんなにも小鳥の数を増やして、侍らせている。第一彼は、同じ匣をふたつも複製して、合計三匹ものハリネズミを持ち歩いていた。
 彼が一度に全部呼び出しているところも、綱吉は何度となく目撃している。
 空を飛び交う黄色を指差した綱吉を、雲雀はあろう事か鼻で笑った。続けて少し不本意そうに顔を歪め、最終的には何故か盛大な溜息をついて肩を落とした。
 がっくりと落胆している彼の意味が分からなくて、綱吉は眉間に皺を寄せ、口を尖らせた。
「ヒバリさん」
「君、気付いてなかったの?」
「なにがですか」
 不貞腐れた声で呼ぶと、腰に手を据えた雲雀が呆れ混じりに呟く。頭の上にはてなマークを乱立させた青年の鈍感さを改めて思い知らされて、彼は言い渋り、額を手で覆った。
「本物が戻って来たから、代わりはもう要らないんだよ」
「ええ? でも、あの子のオリジナルは、十年前に……」
 ロールと名付けられた、けれど雲雀があまり人前でそう呼ばない所為で変なあだ名を付けられていたハリネズミは、中学生の雲雀恭弥と共に、アルコバレーノの力を借りて過去へと旅立ってしまった。綱吉の天空ライオンたちと共に。
 自分は何か間違ったことを言っているのか。そう問い掛ける琥珀の瞳をじっと見下ろし、やがて雲雀は諦めたのか、肩を竦めて苦笑した。
「もうそれでいいよ」
「えー、なんなんですかー」
 力なく言って、両手を広げる。そのまま腕に絡め取られて抱き締められて、綱吉は息苦しさに暴れながら元気いっぱいに叫んだ。

2010/06/12 脱稿