天禄

 目覚まし時計は何の役にも立たないと気付いてもうかなりの年月が過ぎているのに、未だにこれを信用しては裏切られ、今日もまた朝が来た。
 計画よりも三十分以上遅い目覚めに奈々も、リボーンもすっかり呆れ顔だ。しかしいちいち構ってなどいられず、綱吉はパジャマを勢い良く脱ぎ捨てると、慌しく制服に着替え、洗面所に駆け込んだ。
 寝癖だらけの髪に櫛を入れる暇さえ惜しい。叩きつけるように水を顔に浴びせて雑に擦り、嗽をして眠気を追い払う。次いで食堂を兼ねる台所へと駆け込んで、彼は誰よりも遅い朝食を胃袋に掻き込んだ。
 座ってゆっくりする余裕など何処にも無くて、立ったまま忙しく茶碗の中身を口に押し込み、咀嚼もせぬまま水の力を借りて飲み込む。壁時計と睨めっこの末にぎりぎりのところで勝利を得た彼は、ガッツポーズをするどころか忙しく踵を返し、二段飛ばしで階段を駆け上った。
 散らかり放題の部屋で鞄を発掘し、今日の時間割を頭に思い描きながら教科書を詰めていく。ノートまで揃えていたら間に合わないのは確実で、一冊あればいい、とそこにあったものを適当に掴んで隙間に捻じ込んだ彼は、その足で階段を、転びそうになりながら滑り降りた。
「いっふぇきふぁす!」
「ツナ、お弁当」
「ぬあー!」
 玄関で靴を履いていたら奈々が台所から顔を出して、風呂敷に包んだ四角い箱を揺らしてくれた。
「むぐ……ん、投げて」
「馬鹿言うんじゃありません」
 口の中に残っていた朝食を奥歯で擂り潰して飲み込んで、一息ついてから玄関で両手を広げる。靴を脱いで取りに行く手間を惜しんだ息子のひと言に、母親である奈々は憤然とした面持ちで肩を竦めた。
 ならば靴のまま上がりこんで良いとでも言うのだろうか。時は一刻を争う状況なのに、なんたる仕打ちだろう。
「母さん」
「ツナ兄、はい」
 焦れて、急かして声を大にする。薄汚れた運動靴姿で地団太を踏んだ綱吉を見かねて、奈々の手から弁当を受け取ったフゥ太が、天使の笑顔と共に配達役を買って出てくれた。
 タタタ、と小走りに駆け寄って、両手で持った包みを差し出す。あどけない笑顔と共に渡された弁当に感激して、綱吉は思わずこの血の繋がらない弟分を抱き締めたくなった。
「ツナ」
「おっと。遅刻するー!」
 それを踏み止まらせたのは、足元から聞こえた低い声だ。
 見ればリボーンが、厳しい顔をして立っている。それで我に返った彼は慌てて弁当を鞄に押し込み、玄関のドアを押し開けた。
 陽射しは眩しい。今日も暑くなりそうだと心の中で呟いて、彼は始業開始のチャイムまでの残り時間を大雑把に計算した。
 仰々しいほどの団体様に見送られて家を出て、鞄を肩に担いで道を走り出す。既に空気は熱を帯びており、一歩進むたびに息が弾んだ。
 遅刻はしたくない。その一心でアスファルトの大地を蹴りつけ、身体を前に運ぶ。途中から、同じく少し寝坊した生徒らと肩を並べるようになり、中学校が見え始めた頃には誰もが駆け足だった。
 正門前に居丈高に構える風紀委員の間をすり抜け、厳しい目を掻い潜って下駄箱へ急ぐ。並べられたスノコの手前で靴を脱ぐと、彼は手早く上履きを取り出し、中身を入れ替えた。
 教室に駆け込むのとほぼ同じタイミングで、予鈴が鳴り響いた。
「はー……」
 今日もどうにか、風紀委員への反省文提出は回避した。教室後部のドア前で大きく息を吸って吐いて、綱吉は安堵に頬を緩めた。
「おはよう」
「おはよー」
 朝の挨拶がそこかしこから飛び交い、綱吉もそのうちのひとつに加わって、改めて教室を見回した。
 京子や黒川は既に登校済み、獄寺の姿は無い。彼の事だから、どうせまたサボりだろう。
「おはよう」
「おっす、ツナ」
 適当にその辺にいる生徒に挨拶を送ると、斜め後ろから声が掛かった。頭の上から降って来たそれに振り返ると、高い位置で見知った顔が笑っていた。
 黒髪を短く切り揃え、人好きのする笑顔を浮かべている。中学二年生ながら背丈がもう百八十センチに届きそうなクラスメイトは、野球部のエースで、学校の人気者だ。
「おはよう、山本」
「今日は遅刻しなかったな」
「言わないでよ、それは……」
 どうにかぎりぎり間に合っただけであって、褒められるような状況ではない。渋い顔で首を竦めた彼を笑い、山本は楽しげに肩を揺らした。
 背中を力いっぱい叩かれて、早く席に着くよう促される。言われずともそのつもりで、綱吉は手の形に凹んでしまったシャツを引っ張り、鞄を下ろして自席に向かった。
 窓から二列目、後ろから数えて三番目。そこが綱吉の、現在の席だ。
「よ、っと」
 椅子を引き、腰を下ろして後に鞄のファスナーを引いて、中身を確認する。教室前方に張り出された時間割と照らし合わせながら、自分の記憶が正しかったと胸を撫でおろし、綱吉はひっくり返っていた弁当箱の天地を入れ替えた。
 きっと中身はぐちゃぐちゃになってしまっているに違いない。悲惨な昼食を思い浮かべてがっくり肩を落とした彼は、細波立つ教室内をぐるりと見回しながら、左手で鞄内部を弄った。
「ん?」
 指の背が弁当箱に行き当たり、縁をなぞりつつ進ませると、直ぐに行き止まりに出てしまった。
「あれ」
 全開になったファスナーの一辺を右手で抓み、入り口を広げて中を覗きこむ。小首を傾げた綱吉は、怪訝に眉を寄せ、左手をもう一周させた。
 しかし弁当の包み以外、何も見付からない。口をタコのように窄ませて、彼は次に、鞄の外に設けられたポケットを広げた。
「……」
 生徒手帳と、飴玉の包み紙がひとつ。他には何も入っていなかった。
 ぐ、と喉の奥で小さく呻き、今一度鞄の中身を確認する。風呂敷包みを引き揚げて底を漁ってみたものの、ゴミ屑が数個出て来ただけで、彼が探しているものは影も形も、存在していなかった。
「え、えー?」
 机の上を荷物でいっぱいにして、彼は素っ頓狂な声をあげた。
 授業開始が近付いている。クラスメイトも多くは席につき、教科書とノート、及び筆記用具を机上に準備していた。
「ツナ?」
 さっきからずっと鞄を相手にガサゴソやっている彼を見守っていた山本が、痺れを切らして名を呼んだ。
 右斜め後ろの席から身を乗り出して、綱吉の顔を覗き込もうと試みる。しかし角度が悪く、ほぼ人一人分の距離があるので、叶わなかった。
 山本の呼びかけにも反応せず、綱吉は俯いたまま顰め面を作り、唇を引っ掻いた。貧乏揺すりで椅子をガタガタ言わせ、狭いスペースに並べた所有物を右から順に確かめていく。
 教科書、ノート、そして弁当。後に残るのは、空っぽの鞄。
「うあ、あー!」
 更に、降って湧いたように思い出した、昨日の記憶。
 両手を振り上げて突如奇声を上げた彼に、教室内にいた全員がぎょっとして振り返った。合計四十を越える目で見詰められた綱吉は、二秒後にはたと我に返り、顔を赤くして椅子の上で小さくなった。
 背中を丸めて顔を伏し、周囲からクスクス漏れる笑い声に耳を塞ぐ。だからといって根本的な解決になるわけでもなかったが、彼は数秒間そうやって外界と己とを遮断し、チャイムと同時に情けない顔をして首を振った。
「どうしよう……」
 相変わらず机に広げたものは、そのままだ。
 弁当を鞄に戻し、ファスナーを閉めて机脇のホックに引っ掛ける。必要ない教科書は引き出しの中に押し込んで、そのまま中を手探りで漁ってみるものの、そちらにも当然、目当てのものは見出せなかった。
 昨日、珍しくやる気を出したのが間違いだった。
「うそだろー」
 なんてついていないのだろう。絶望の縁に追い遣られ、綱吉は両手で顔を覆い、現実から目を逸らした。
 予習をしよう、などと考えたばかりに、筆箱を鞄から取り出して、そのまま忘れて学校に来てしまった。
 シャープペンシルは部屋の筆立てにも入っているけれど、蛍光ペンは学校で使う筆入れにしか入っていない。教科書にマークを引く目的で出して来て、片付けるのをすっかり失念していた。
 普段やら無い事をやろうとするから、こんなことになるのだ。黄色いおしゃぶりをぶら下げた、自称家庭教師の赤ん坊の顔が思い浮かんで、綱吉は深く溜息をついた。
 教科書は揃っている。ノートは、社会科の一冊だけだけれど、これはこの際どうでもいい。
 問題なのは、ノートにメモを取るための筆記用具が無い事だ。
「やっちゃったよ。どうしよう」
 ポケットを探ってみたが、当然そのような品はひとつも入っていない。残る手段はペンを一本ばかり、誰かに借りるか。そう思って慌しく椅子から立ちあがろうとした彼の後頭部を、教室前方のドアから入って来た教諭の声が打った。
 小気味の良い音を響かせて打ち返した綱吉は、前のめりに倒れそうになったのを踏み止まり、口をぽかんと開いて顔を歪めた。
「きりーっつ」
 彼の絶望ぶりを知らぬ学級委員長が、教諭が教卓前に到達するのを待って号令を発した。綱吉以外のクラスメイト全員が揃って立ち上がり、行儀良く頭を下げて着席する。ガタガタ、という物音が湧き起こって、一瞬で静まり返ってしまった。
 ワンテンポどころか三テンポくらい遅れて自分も椅子に戻り、綱吉は静かなようでざわめいている教室の後方で息を飲んだ。
 小さな喉仏を上下させ、脂汗をダラダラ流して顔を強張らせる。布鞄を教卓に置いた教諭がそこから取り出したもの、それは紛れもなく、小テストの束だった。
 何十枚と積み重ねられたわら半紙の登場に、生徒の半数ほどが落ち着きを失って挙動不審に首を巡らせた。どこかで「聞いてない」という囁き声が聞こえて、そこに教諭のわざとらしい咳払いが混ざりこんだ。
「昨日までの授業をちゃんと聞いていたなら、簡単だろう」
「えー」
 中間試験が終わってまだ少ししか経っていない。期末試験も一ヶ月先で、誰もが油断していた。
 一斉に起こったブーイングも無視し、教諭は立てたわら半紙の角で教卓を叩いた。一列ずつの人数を数え、廊下側から順に配り始める。
 背筋を伸ばした綱吉は、迫り来る脅威に音を立てて唾を飲んだ。握った拳を机の下に隠し、破裂しそうな勢いで驀進する心臓を必死に落ち着かせようと試みる。
「おい、沢田」
「え、あっ」
 しかしにっちもさっちも行かないまま、前の席の生徒に急かされて、彼は思考を中断させた。
 回って来たプリントを一枚取り、残りを後ろに送る。インクの匂いが鼻について、それだけで鳥肌が立ちそうだった。
「教科書は片付けろよー」
 カンニング防止の為に、机の上には問題用紙と筆記用具以外を並べてはいけない。そんな基本的なことも忘れていた彼は、前方から飛んできた鋭い声に身を震わせ、視線を慌しく左右に泳がせた。
 筆入れを忘れて来たのを、正直に告白すべき時だった。
 このままでは解答欄全てを空白で済ますどころか、名前さえ書き記せない。そんな事をしたら、怒られるのは目に見えている。だが勇気を持って申告しようとすればするほど、思いとは裏腹に身体は固くなり、口は言葉を発するのを拒んだ。
 ついに窓際最後尾の生徒の手元にもプリントが届けられた。全員に行き渡ったのを確認した教諭と目が合ったのに、綱吉は頬を引き攣らせるばかりで、筆記用具がない旨を伝えられなかった。
 臆病者の、根性なし。自分を蔑む言葉が次々に頭の中に浮かんでは消えて、暗記していた単語や、文法までもが一緒に泡となって弾け飛んでしまった。
 あまりの運のなさに、涙が出そうだった。
「それじゃあ、今から十分か――」
「うわっ」
 拳を机に押し付け、悔しさを堪えて息を殺す。死刑宣告を受ける気分でスタートの合図に身構えた綱吉だったが、直後、ガシャガシャという甲高い音が響き、号令が掻き消されてしまった。
 カシャン、と大きな音を立てたなにかが、綱吉の足元近くで仰向けに転がっていた。
「へへ。悪りぃ、センセ」
 突如起こった騒音に水を差され、教諭が不機嫌な顔をする。笑いながら頭を下げ、椅子から立ち上がったのは山本だった。
 落ちたのは、彼の筆入れだ。缶ケースなので、何かにぶつかるたびに甲高い音が響き渡る。収められていた全てのシャープペンシル、及び消しゴムや色ペンが床一面に散らばって、彼はそれらを拾うべく、膝を曲げて屈んだ。
「早くしろ、山本」
「はいはーい」
 イラついた声で命じられるものの、彼はマイペースぶりを崩す事無くペンを拾い上げ、しゃがんだまま爪先立ちで前に進んだ。
 一番遠くに行ってしまった消しゴムを求め、綱吉の傍までやって来る。早くテストを開始したい教諭と、生徒らの注目もなんのその、山本は左手で黒いシャープペンシルを拾うと、ふらついた身体を支えるべく綱吉の机を握り締めた。
「おっと」
「山本?」
 体重を掛けられて、綱吉の机が少しだけ横に滑る。慌てて反対側を押さえた綱吉は、親友を心配する声をあげ、机を転がった物体に目を見開いた。
 山本はさっさと体勢を立て直すと、何事もなかったかのように立ち上がり、ペンケースを閉じた。此処に、綱吉の目の前に忘れ物があるのに、見向きもしない。
「やまも……」
「始めるぞ」
 プリントの縁に当たって止まったシャープペンシルを掴み、振り返ろうとした綱吉だったが、今度こそ開始を告げようとする教諭に邪魔されて、果たせなかった。
 再度号令が下されて、紙を表に返す音が一斉に耳朶を打つ。これ以上余所見しているとカンニングを疑われてしまいかねず、綱吉は仕方なく居住まいを正し、手元に残されたシャープペンシルを握り締めた。
 これが今、ここにある意味。先端を押さえて尻を弾いた彼は、ハッとして、皆が俯く中たったひとりだけ背筋を伸ばした。
「どうした、沢田」
「え、あ……いえ」
 異様に目立つ行動に、すかさず教諭からの声が飛ぶ。綱吉はつい振り返りたくなる気持ちを懸命に堪え、右手の中で黒い棒を転がした。
 尻を二度ノックすれば、芯が少しだけ顔を出した。更に追加で四度ほど押して、折れてしまいそうな長さまで呼び出して、静かに押し戻す。
 小テストをクリアするのには、充分な長さがあった。蓋を外せば、申し訳程度の大きさしかない消しゴムが付随していた。
「山本……」
 自分にだけ聞こえる音量で呟き、貸し与えられたシャープペンシルを大事に胸に引き寄せる。クラスの誰よりも遅れてプリントを裏返した彼は、素早く空欄に自分の名前を書き込み、歯抜けの問題文に目を走らせた。
 折角彼が気を利かせてくれたのだから、恩に報いるためにもこの小テストを頑張らなければいけない。そう自分に言い聞かせて問題文をザッと読み取った綱吉は、妙に引っ掛かりを覚える自分の頭に首を傾げた。
「あ、れ。どうしよう、分かる」
 一時は本気で尽きたと思っていた運が、急に戻って来た。彼は声を上擦らせると、目の粗いわら半紙に文字を記入し、次々に空白を埋めて行った。
 偶々昨日、予習をしようとして広げたページが、そっくりそのままプリント上で踊っていた。それがたとえ、授業がどこまで進んでいるのかが分からず、覚えのない箇所から読み進めて行った結果だとしても。
 自分で驚くほどに、答えが頭の中に浮かんでくる。猫背気味に机に齧りついた綱吉は、忘れてしまう前に、と急ぎ足で右手を動かした。
 腕時計を見ていた教諭が、終了予定時刻が迫ると同時に右手を持ち上げた。肩の高さで一旦停止して、秒針がきちんと頂点に届くのを待ってから、肘を伸ばして空気を切り裂く。
「そこまで」
 ピシャリと頭を叩く鋭い声に肩を竦め、綱吉は途中まで埋めた欄に慌ててペン先を押し当てた。
 最後尾の生徒が回収の為に立ち上がる。気忙しく、他よりもずっと汚い字で最後の一文字をサインし、綱吉は全力疾走を終えた直後の顔をして頬を膨らませた。
 横に来たクラスメイトにプリントを預け、未だ右手にしっかりと握り締めたままのシャープペンシルを見詰める。綱吉は何も言っていないのに、様子から状況を察してくれた山本には、どれだけ感謝しても足りないくらいだった。
 消えかけたツキが、あの一瞬で蘇った。そう思わずにいられないくらいに、劇的な出来事だった。
 昨日読み返した部分がテストに出たのは、ただの偶然だ。しかしそれでも、運が良かったと言わざるを得ない。最初は筆入れを丸ごと忘れて悲壮感たっぷりだったのが、山本のお陰で何もかもひっくり返ってしまった。
 珍しく高得点が期待できるかもしれない。鼻を膨らませて興奮に頬を染めた彼は、それにしても、とようやく周囲を見回すのを許された状況で、斜め後ろを振り返った。
 しかし、今はまだ授業中だ。小テストが終わったという開放感に満ち溢れた教室も、直ぐに柏手を打つ音で引き締められてしまった。
 テスト用紙の回収を済ませた教諭が、授業の再開を告げて皆に席へ戻るよう檄を発する。鳴っていないチャイムが響いた錯覚に陥っていた生徒らは、目に見えて落胆を顔に出し、渋々椅子に座り直した。
 綱吉もそのひとりで、結局、またしても山本に礼を言うタイミングを逃してしまった。
 早く言わなければ有り難味が薄れてしまうようで、もどかしくて仕方が無い。授業が再開された後も落ち着かず、腰の辺りを常にもぞもぞさせて、彼は真後ろの席の女子から大層な不況を買った。
 五月蝿いと小突かれて、恐縮して小さくなって、授業を聞くともなしに聞いて時間が過ぎるのをひたすら待つ。
 山本が分けてくれた運がまだ残っているのか、授業中に当てられることもなかった。ツキは逃げていない。そこいらで売っている安物のシャープペンシルだというのに、今の綱吉にはこれがとても心強いお守りに感じられた。
「山本」
 チャイムが鳴る。それと同時に号令が下る。
 礼もそこそこに椅子を蹴って隙間を押し広げた綱吉は、その場で勢い良く振り返り、両腕を伸ばして背筋を反らしている親友を呼んだ。
「ん?」
「これ、有難う」
 椅子の上で骨をボキボキ鳴らしていた彼が、怪訝な顔をして目を細める。欠伸を噛み殺している辺り、彼は授業の後半、例の如く居眠りをしていたのではなかろうか。
 獄寺といい、山本といい、堂々としすぎだ。居眠りとはもっと隠れてコソコソと、見付からないようにするものだと思っていたが、彼らを見ていると常識が覆されてしまいそうだ。
 顔の横で黒のシャープペンシルを揺らし、綱吉が足早に距離を詰める。それでやっと理解した彼は、緩慢に頷き、椅子を引いて前脚を浮かせた。
 バランスを取りながら斜めにした姿勢を安定させ、机に置かれたものに笑みを零す。
「忘れて来たんだろ?」
「なんで分かったのかな」
「分かるって」
 綱吉は特に何も言っていない。ただ鞄の中身を机に広げ、あたふたしていただけだ。
 それだけで見抜かれてしまったのが少し恥ずかしくて、上履きの踵を上下させながら問い掛ける。そわそわと動き回る彼に笑って、山本は綱吉が置いたシャープペンシルを指で弾いた。
 転がって、少し行って止まる。先回りして待ち構えていた手で抓んで、彼はそれを綱吉に差し出した。
「使えよ。まだ授業、残ってる」
「いいの?」
「俺も、一本あれば足りるし。消しゴム要るか?」
 あの時はどさくさに紛れてペンを置いてくることしか出来なかった。逆に謝られてしまって、綱吉は大慌てで首を振り、有り難すぎる彼の申し出を辞退した。
 そこまで甘えるわけにはいかない。だのに山本は、早々に筆入れを開けてまだ新しい消しゴムを取り出すと、ケースから引き抜いて裸にした。
「山本」
「いいって、気にしなくても」
「でも、これ以上してもらったら、なんか、貰いすぎだよ」
「ん?」
「え? あ、あ、いや。返すよ?」
 シャープペンシルは貸し与えられただけであって、今日の授業が全部終われば当然返却する。誤解を招く言い方をしてしまったと弁明し、綱吉は渡されたシャープペンシルを横に振り回した。
 アーチ状に捩じられた消しゴムの端が、圧力に耐え切れずに軋み始める。千切られようとしているそれを急ぎ制して、綱吉は彼の隣で畏まった。
 巧く説明出来そうになくて、困る。山本は兎に角運が良い青年で、授業で当てられても勘だけで正解してしまうくらいだ。綱吉はその逆で、指名されるだけでアワアワしてしまって、分かる問題も頭が真っ白になって答えられない。
 テストがあんなにもスラスラ解けたのだって、山本のシャープペンシルを借りられたからだ。彼の強く太い運に支えられたお陰だと、綱吉は今、本気でそう思っていた。
 だけれど実際それを言葉にするとなると、照れが混じって上手に伝えられない。どうしてもしどろもどろになってしまって、無駄に遠回りして時間を食った彼の説明に、山本は最初驚き、最後は苦笑した。
「ンな事ないって。ツナの実力だろ」
「だけど、俺、今日はほんっとについてなくってさ」
 目覚まし時計には裏切られるし、朝食をゆっくり食べる暇さえなかった。遅刻しなかったのは救いだが、それだってあと一分、一秒でも家を出るのが遅かったら間に合わなかった。
 筆箱を忘れて来たのだってそうだし、朝から小テストなど、いつもの綱吉なら惨憺たる結果しか生み出せなかっただろう。
「出来たんだ?」
「なんとか」
 設問は全部埋めた。後はどれだけ正解を引き当てているかだが、赤点になる事だけはないと自信を持って言えた。
 照れ臭そうにする綱吉に目を見開き、山本は屈託なく笑った。
「そっか。でもツナ、やっぱりそれ、俺のツキとかじゃねーと思うぜ」
「そんな事ないって。山本のお陰だよ」
「違うって。大体さ、ツナ。ツキってのは、いつだって頭の上にあるじゃねーか」
「う、ん……?」
 なにやら話がずれている気がする。天井に向けて立てた指をぐるぐる回した山本に、綱吉は眉根を寄せて首を傾げた。
 頭の上にあるツキ。それは幸運などを意味するものではなく、天体の「月」の事ではないだろうか。
「そうとも言うな」
「山本……」
「だからさ、違うって。前に野球部の監督に言われたんだけど」
 指摘すれば彼は呵々と笑った。まさか最初から意味を取り違えて話をしていたのかと、少しだけ山本に同情しかけた綱吉だったが、手を振って否定されて、大人しく言葉の続きを待った。
 曰く、幸運のツキはいつだってみんなの上にある。ただ自分が不運だと思う人は、それを忘れているだけ。見上げるのを忘れてしまっているだけだ、と。
「おもしれーだろ?」
 単に窮地に追い込まれた時は一呼吸置いて、心を鎮めるように。意味合いとしてはそんなところだが、ちょうどその時昼に関わらず白いお月様が空に浮かんでいたので、洒落っ気を交えてみたのだろう。
 白い歯を見せた山本の言葉に、綱吉は一寸の間を置いて浅く頷いた。
 瞬きの回数を減らした瞳が、まじまじと山本の姿を映し出す。紅を差した頬が微かに震えて、何かを言いかけた瞬間にはっとした綱吉は、頭を叩いたチャイムの音に首を巡らせた。
 授業の合間の休憩時間は短い。
「ツナ?」
「あ、うん。なんか、よく分かんないけど。でもそれ、……いいな」
 確かに綱吉はいつも余裕がなくて、空を、月を見上げることなんて滅多に無かった。
 運は其処に、いつだって万民に平等に与えられている。ただ各々が気付くか、気付かないか、その違いだけ。
 二時間目の担当教諭が足早に入って来て、着席を求めて手を叩いている。急かされた綱吉は、後ろ髪を引かれる思いでそれだけを告げて、はにかんだ。
 この時の山本がどんな顔をしていたか、綱吉は覚えていない。けれどきっと「だろう?」といつものように朗らかに笑ってくれたのだと思う。
「ツキは、いつも、俺達の上に」
 どんな極限状態に追い込まれても、未来が絶望しかないと言われても。
「大丈夫」
 並盛町郊外の深い森の中で、焚き火を囲んで夜が明けるのをじっと待つ。息を殺し、物音に怯え、迫り来る脅威に逃げ出したい気持ちを懸命に堪えて時を過ごす。
 眠らなければいけないと分かっていても目は冴えてしまって、綱吉は右手中指に装着した指輪をじっと見詰め、拳を作った。
「大丈夫」
 呪文のように口ずさみ、祈るように頭を垂れる。今この場に居ない仲間の無事を案じ、ひたすらに願う。
「大丈夫だよ」
 だけれど綱吉は、この祈りが杞憂であるのを知っている。彼の事だ、絶対に大丈夫だと根拠がなくとも信じられた。
 背筋を伸ばし、天を仰ぐ。深い闇に包まれた森の中でも、月だけは今夜も明るく、当たり前のようにそこで輝いていた。
「俺は忘れない」
 腕を伸ばし、手を開く。
 ただ待っているだけの時は過ぎた。今は届かないけれど、いつか必ず、この手でもぎ取ってみせる。
 ツキを。運を。
 幸運に満ちた、未来を。
「俺達は、負けない」
 呟き、彼は拳を突き上げた。

2010/06/09 脱稿