妬心

 日に日に上昇する気温は人間の我慢の限界を試し、過大なる湿気がこれを後押しした。
 茹だるような陽気にあてられて額に汗を集めた綱吉は、人目が途絶えると同時にネクタイに指を入れ、その結び目をぞんざいに解いた。
「あっちぃー」
 もう片手を団扇の代わりにし、二本の紐に別れたタイはそのまま襟の下に残す。次いで喉を締め付けていたもうひとつの物、即ちシャツの第一ボタンに指を掛けた彼は、立て続けに上からふたつを外していった。
 一気に襟元が広がって、空気の通り道が完成した。一応後ろを振り返って誰もついてきていないのを確認し、彼は最後に、熱を吸収して、しかも重い黒のジャケットから腕を引き抜いた。
 空になった左袖を揺らし、落とさないように注意しながらもう片方も自由にする。一気に肩が軽くなって、訪れた開放感に喉を鳴らし、彼は心地よさげに目を閉じた。
「すずしー……」
 先ほどとは正反対の感想を呟いて、手早く脱いだばかりのジャケットを折り畳む。縦に半分にして肘に引っ掛け、汗を吸って重くなっている髪の毛をぞんざいに掻き回すと、全身に蔓延っていた暑苦しさも少しは楽になった気がした。
 ゆるりと首を振って息を吐き、前髪を梳きあげて視界を広げる。真っ直ぐ伸びる通路に窓はなく、天井には等間隔で照明が設置されていた。
 そこかしこに建設機材が放置されて、通路は足の踏み場に困るほどだ。それらを器用に避けながら進む彼は、程無くして響いてきた羽虫の羽音のような、低い機械音にホッと胸を撫で下ろした。
 施設の主が帰還したのを知り、技術者がこの区域の空調システムを稼動させたのだろう。火照った肌を擽る冷たい風に、綱吉は気持ち良さそうに目を細めた。
 生命維持の為に必要最低限の酸素は常に循環させているものの、それ以外のシステムは基本的に使用者がいない限り、止めている。自家発電設備は儲けているが、それにも限界というものがあるので、基本的にこの施設は省エネ志向だ。
「もうちょっと下げてくれても良いけど、贅沢も言ってられないからな」
 ようやく完成形が見えてきた施設内をゆっくり進みながら、小さな声で呟く。与えられた資金は多大だったけれど、それでも充分でなかった。拘る部分には拘った結果、内装に手を入れる余裕が殆どなかったのは、致し方あるまい。
 こうやって冷房を入れてもらえるだけでも有り難いと思わなければいけない。自分に言い聞かせ、綱吉は渇きを覚える喉を撫でて道を急いだ。
 目指すは彼の私室、兼執務室だ。
 愛想のない真っ白い壁と、申し訳程度に置かれた家具たち。必要最低限の物を揃えただけだが、それも実用性を重視した結果だ。面白みはないが自分には充分過ぎるもので、後はテレビのひとつでもあれば良いと思っている。
「ま、見てる暇なんかないんだけど」
 部屋に戻ったとしても、休憩を挟む暇さえない。食事は車で戻る最中、車内で簡単に済ませた。出来るものならテーブルについてゆっくり食したかったのだが、時間が惜しい。
 なにせ数年前まではダメツナと呼ばれていたような人間だ。仲間の誰よりも動きが鈍く、効率の悪いやり方でしか仕事が出来ないため、ひとつを終わらせるのにもかなりの時間が必要だった。
 これでも最近は改善されてきた方なのだが、周囲の目にはそうは映らないらしい。手厳しい仲間達を思い浮かべ、彼は嘆息と同時に肩を落とした。
「っと、こうしてる場合じゃないんだった」
 見え始めた扉に気持ちを切り替え、歩調を心持ち速める。仕事は楽しいものではないけれど、自分で選んだ道というのもあって、他の誰かに任せてしまうのだけは嫌だった。
 足音を大きく響かせ、最後の一歩を刻み付ける。前に出ようとした身体を無理にその場に縫い付けて、彼は左足を軸に身体の向きを九十度入れ替えた。
 ドアノブなどという古典的なものは存在せず、あるのは一枚の大きな板だ。無論木材ではなく、それなりの強度と耐震性を持った強化素材が用いられている。
 綱吉は肘に掛けていた上着を広げると、その内ポケットに手を入れて薄いカードを取り出した。
「ふぅ」
 自分のアジトなのだからこんな手の込んだことは必要ないと思うのだが、万が一の為にと、皆が言って聞かなかった。仕方なく扉横に設置したアクセスキーを起動させて、スロットの下部に現れた電卓のような九つのボタンにパスワードを打ち込んでいく。
 この数字を知る人間は、綱吉の部下の中でも側近中の側近だけだ。人数は、五人。獄寺、山本、了平、バジル、そして。
「あ、もう、疲れた。たっだい――」
「ワンっ!」
 誰も待っていないというのに、癖で帰宅を告げる言葉を口ずさもうとした綱吉は、扉が横の戸袋に収納された瞬間、鼓膜を貫いた甲高い吼え声にぎょっと背筋を粟立てた。
 足は既に室内に入ってしまっており、続けて身体も境界線を潜る。障害物が無くなったと判断した扉は自動的に戸袋から排出されて、彼が逃げようとした瞬間、無情にも道は閉ざされた。
 止まらなかった後頭部がドアに行き当たり、ぶつかって小気味の良い音を響かせた。脳を揺らした衝撃に瞠目し、鼻を啜って喉を鳴らす。咥内にあった僅かな唾を飲み込んだ彼は瞬時に顔を引き攣らせ、もうひとつ聞こえて来た獣の声に震え上がった。
「ひぃ!」
 それ以上逃げられないと分かっているのに、逃げ場を求めてじたばたと足掻く。爪先立ちになって背中全体をドアに張り付かせた彼の足元では、小さな――何故此処にいるのかは不明の――仔犬が、上機嫌に尻尾を振っていた。
 山本の匣兵器である次郎ではない。あれは獄寺の瓜のように、晴れの炎を与えて活性化させればサイズが変化するタイプでもなし、なによりこの仔犬からは炎の波動を一切感じなかった。
 正真正銘、本物の犬だ。
「な、なな、んな!」
 軽やかな栗色の毛並みに、円らな黒い瞳。構って欲しそうな顔をして舌を伸ばしている犬にまったく覚えがない彼は、なにがどうしてこうなっているのか分からぬまま、冷や汗をダラダラ流して悲鳴を上げた。
 まだ建設中であるけれど、此処はボンゴレのアジトだ。最先端の技術を結集させた施設に入るには、幾つかある入り口のどれかを通るより他に道が無い。
 蟻の子一匹通さない精緻さを持っていると、設計者は自信を持って宣言していた。だというのに、この状況はなんだろう。
 綱吉の知らない生き物が、よりにもよってアジトの中核部である綱吉の執務室に堂々と潜り込んでいるなんて。
「遅かったね」
「はいぃぃぃ!?」
 目を白黒させて懸命に迫る犬から逃げていた綱吉の耳に、不意に第三者の声が響いた。
 壁沿いに蟹歩きをしていた彼は素っ頓狂な声をあげ、口をあんぐり開いたまま声のした方角に目を向けた。今まで尻尾を振る犬にばかり気を取られていたから気付かなかったが、部屋の中にはもうひとり、旧知の間柄の人がいた。
 三人掛けのソファの真ん中に陣取り、長い脚を優雅に組んで微笑んでいる。短く切った前髪から冴えた双眸が覗いており、距離があるものの目があって、瞬間、綱吉は総毛立った。
「ひ、ヒバリさん!」
「キャゥン」
「ひぃ!」
 反射的に大声をあげるものの、身を乗り出した瞬間に足元から甲高い吼え声が聞こえて、綱吉は慌てふためきすぐさま壁際に戻った。爪先の、親指の一点だけで自分の身体を支えている彼の顔は蒼白で、琥珀の目には薄ら涙も浮かんでいた。
 毛並みもふかふかの、とても柔らかそうな色合いをしている愛らしい仔犬相手に、心底怯えている。顔を強張らせて嫌々と首を振る綱吉の姿を遠巻きに眺め、雲雀は組んでいた脚を入れ替えると呆れ半分に溜息をついた。
「なにしてるの?」
「見ての通りです!」
 爪先立ちで壁に張り付いている綱吉を追いかけ、仔犬は楽しそうに部屋を駆け回った。短めの尻尾を落ち着きなく振り回して、綱吉に愛敬を振り撒いている。
 だのにこの青年は抱き上げるどころか、頭を撫でてやろうともしない。咬まれてもさほど痛くないだろうサイズの仔犬を捕まえて、本気で怖がっていた。
 雲雀の質問に怒鳴り返した綱吉は、その大声でまた近づいて来た犬に向かって足を蹴りだした。流石に本当に蹴るのは可哀想だからポーズだけだが、仔犬は構ってもらえると勘違いしたようで、嬉しそうに吼えて一直線に彼に向かって駆け出した。
 出来上がったスペースに飛び込み、反対側へ滑り込んで直ぐに方向転換を果たす。目の前を勢い良く横切って行った仔犬に引き攣り笑いを浮かべ、綱吉は祈るポーズで両手を結び合わせた。
 生後二ヶ月か、三ヶ月か。両手で軽々と抱き上げられるサイズしかなくて、腕白で元気一杯。人間を恐がりもせず、遊び相手と認識して後ろをちょこまかと付きまとう。
「キャン!」
「ひゃっ」
 どうにか壁から背中を引き剥がした綱吉が、ほうほうの体で雲雀のいる方に向かおうとした途端、行く手を阻むように先回りされてしまって、綱吉は心底鳴きの入った顔を作った。
 へっぴり腰が実に情けない。今や名実共にボンゴレの次期ボスとして君臨している人間が、たかだか生まれたての仔犬一匹に怯え、立ち竦んでいると知れたら、マフィア界も大騒ぎだろう。
 もっとも、綱吉とて人間だ。苦手のもののひとつやふたつ、みっつやよっつ、存在していてもなんら不思議ではない。
「楽しそうだね」
 逃げ惑い、右往左往している綱吉を面白そうに眺め、雲雀は頬杖ついて呟いた。彼の独白は比較的音量も大きくて、またもや壁際に後退した綱吉の耳にもちゃんと届いていた。
 聞こえた瞬間目を吊り上げるが、二秒後には半泣きの表情に戻って格好悪く悲鳴をあげる。スラックスの裾に爪を押し当てて寄りかかられて、彼は硬く目を閉じ、明後日の方角に顔を向けた。
 握り締められた両手は脇のところで小刻みに揺れている。脱いだジャケットは辛うじて肘のところに留まっているが、あと少しすれば床に落ちてしまいそうだった。
 何処をどう見れば、楽しんでいるように見えるのだろう。この手酷い悪戯を仕掛けた張本人を隻眼で睨み、綱吉は鼻を啜って涙を堪えた。
 彼が犬嫌いなのは、雲雀も承知しているはずだ。唯一平気なのは、山本の匣兵器である次郎くらい。
 山本が厳しく躾たお陰で、次郎はとても行儀が良い。あまり吼えないし、牙も立てないし、人の足に爪を立てたりしない。綱吉が自分を苦手にしているのもちゃんと理解しているので、余程のことでない限り近付いても来なかった。
 なんとか慣れようとした事もあった。けれど次郎は兎も角として、他の犬は矢張り駄目だった。鋭い牙を覗かせながら吼えられるのがなによりも恐いので、サイズの大小は関係ない。
 書棚の角に寄りかかる格好で凍り付いている綱吉に嘆息し、雲雀は背筋を伸ばした。足を解き、ソファの座面を押して腰を浮かせる。
「まだ駄目なの?」
 呆れ半分に問えば、顔を上げた綱吉はみっともなくガタガタ震えながら唇を噛んだ。
「わ、わるか、った、ですね」
 呂律が回りきらぬまま叫び、詰め寄る仔犬を躍起になって追い払う。だが元気が有り余っている仔犬は挫けることを知らず、どれだけ嫌がられても果敢に綱吉に挑みかかっていった。
 首輪はしていない。鼻の辺りの毛が、他に比べて少し色が濃かった。
「こんなに小さいのに」
 その首根っこを抓み、雲雀が仔犬を後ろから釣り上げた。両手両足をじたばたさせて、茶色い塊が途端に逃げようと暴れ出す。
 脅威が遠ざかり、綱吉は露骨にホッとした表情を浮かべた。胸を撫で下ろし、左袖が床についていたジャケットをたくし上げる。途中で天地逆になったポケットから、万年筆とカードケースが転落した。
 立て続けにカタカタと音がして、気を取られた犬が下を向いて耳を垂れた。なんとか束縛を逃れようと足掻くものの、雲雀の拘束は易くない。傷つけぬよう大事に胸に抱え込んだ彼は、目に見えて安堵している綱吉に肩を竦め、甘えた顔をする仔犬の頭を優しく撫でた。
 跳ね上がった心拍数を平常値に戻すのに必死だった綱吉は、息を整えつつ汗を拭い、落ちたものを拾って渋い顔をした。
「戻ってたんですか」
「うん」
 並盛中学校を卒業して以後、自分で風紀財団を立ち上げた雲雀は、綱吉にも負けない程に多忙な日々を送っていた。
 以前の彼は並盛町を出るなど考えられなかったが、今では世界各地を自由自在に飛び回っている。その移動距離は、日本とイタリアを往復する程度の綱吉を遥かに凌駕していた。
 しかも毎回、行き先を誰にも告げない、ときた。
 雲雀の行動を把握するのは、ボンゴレの力を結集しても尚、難しい。本当に自由気ままに、独自の立場を保持して行動する男である。
 彼ほどに雲の属性を体現する人間も、類を見ない。荷物を整理してジャケットの形を整えた綱吉を見下ろし、雲雀は不敵に笑んで抱いた仔犬を顔の位置まで高く掲げた。
「どうしたんですか、それ」
 首の後ろの皮が伸びて、後ろから見ると少し滑稽だ。雲雀が手を放さない限りは安全と判断し、口元を拭って綱吉が問う。雲雀は仔犬から彼に焦点を移し変え、何故か鼻で笑った。
 未だ戦々恐々としている綱吉を睥睨し、彼は踵を返した。ソファに戻り、どっかり腰を下ろしてそこで仔犬を解放する。慣れない柔らかな足元が気になるのか、茶色の仔犬は興味津々に段差を覗き込み、クッションに乗り上げてひっくり返った。
 動作ひとつひとつが愛らしく、笑みを誘う。が、可愛らしさよりも恐怖が勝る綱吉はなかなか彼らの方に歩み寄る気になれなかった。
 されど、折角久しぶりに雲雀の方から顔を出してくれたのだ。次にいつ会えるか分からないような状況下で、このタイミングを逃すのは非常に惜しい。
 二者択一を迫られて立ち竦む彼に目配せし、雲雀はソファから落ちかけていた仔犬を両手で包み込むと、膝の上に移動させて固定した。
 最初は押さえつけられるのを嫌がった仔犬も、繰り返し頭や背を撫でられるうちに落ち着き、うとうとと心地よさげに目を閉じた。
「ぬぅ」
「そこの、神社の裏で見つけたんだけどね」
 人間には何かと厳しい雲雀の優しい手つきに口を尖らせ、綱吉が唸る。それを無視し、雲雀は大きく欠伸した仔犬に微笑み、出会いの現場を語り始めた。
 ボンゴレ側のアジトと、雲雀の風紀財団のアジトは、表向きは全く別の組織というのもあって、隣接しているものの設備は一切共有していない。ただひとつの扉を除いては。
 そして風紀財団のアジトの入り口は、並盛神社に設けられていた。
 あまり出向いたことはないけれど、純和風の様相を取り入れた内装が施されている。畳敷きの広間は百畳をゆうに越える規模を誇り、地下であるに関わらず庭園まで造ってしまった。
 彼は何を目的にそんなものまで設けたのかと、一度で良いから真意を聞いてみたくある。だが地下で長期間の生活を強いられた場合、人が欲するのは太陽の光だ。それを感じさせる場所を用意するのもまた、つかの間の平穏を思い出させてくれるのに役に立つのかもしれない。
 長い付き合いだが、雲雀の考えは未だによく分からない。適当な想像をして溜飲を下げた綱吉は、神社裏手に広がる広大な林を思い浮かべ、緩慢に頷いた。
 捨て犬ならば、首輪をしていないのも頷ける。
 育てられないからという理由だけで住処を奪い、あまつさえその小さき生命さえ奪う身勝手な人間には、一種の殺意さえ覚える。が、人にはそれぞれに事情があり、悩みがある。一方的な決め付けだけで断罪出来るものではない。
 それでもひとつの命を軽んじた行為なのは否めず、綱吉は複雑な表情をして、寝入ろうとしている仔犬に目をやった。
 雲雀の手で頭がすっぽり包まれるくらいに、小さい。さっきはあんなにも恐ろしかった獣が、そうやって彼の手に収まっていると、急にぬいぐるみじみた愛らしさを感じるから不思議だ。
「一匹だけですか?」
「うん」
 犬は多産だから、兄弟が近くにいてもおかしくなかった。が、雲雀は迷わず首肯すると、垂れ下がる三角の耳の縁を擽り、鮮やかな栗色の毛並みをゆっくりと梳いた。
「僕の後ろをどこまでもついてくるから」
 思い出しているのだろう、雲雀の表情が和らぐ。細められた目がいつになく優しくて、綱吉は無意識にむっとして、彼が座すソファの向かいに腰を下ろした。
 ひとり掛けのそれに背を預け、肘掛けにジャケットを預けて深く身を沈める。やらねばならない仕事のことなど、とっくの昔に頭から掻き消えていた。
 クスクスと声を零して笑う雲雀というものは、非常に珍しい。ただ最近は幾らか人当たりも柔らかくなって、怒り以外の感情も顔に出て来るようになってはいた。
 出会った当初は基本が仏頂面で、笑うとしたら群れている連中を見つけた時くらい。中学校の風紀委員長として君臨していた当時の彼と、現在進行形で綱吉の前にいる青年は、まるで別人のようだ。
 だがどちらも、紛れもなく雲雀恭弥だ。
「ふぅん……」
 思い出話をつまらなさそうに聞いて、綱吉は背中を丸めて頬杖をついた。浅い眠りに突入した仔犬の顔をぼんやり見詰め、視線を感じて目線だけを持ち上げる。なにやら含みのある表情をそこに見つけて、彼は口をヘの字に曲げた。
 拗ねていると思われるのは癪だ。が、どうしても顔に出てしまう。
 雲雀以上に表情豊かで、一秒として同じ顔をしていない。見ていてちっとも飽きの来ない綱吉を見詰め、彼は呵々と喉を鳴らした。
「む、ぬ」
「君に似てる」
 理由の分からない笑顔に眉根を寄せると、思いが伝わったのか雲雀は口を開いた。すっかり脱力している仔犬の背を擽りながら、柔らかい毛足をかき回す。
 何を言われたのか直ぐに分からなくて、綱吉は目を丸くした。
「は?」
「色が」
「あ、……ああ」
 自分はそんなにも彼の後ろをついて回っていただろうか。そんな事はない筈だと目まぐるしく頭の中で記憶が駆け巡る中、さらりと付け足され、綱吉は浮かせかけた腰をソファに戻した。
 確かに栗色の毛足は、綱吉の髪の色に通じるものがある。ブラッシングとも無縁の捨て犬だったのもあって、毛並みもボサボサだ。
 似ていると言われたら、そうかもしれない。だがどうにも釈然としなくて、綱吉は自分の髪の毛をひと房抓むと、軽く引っ張った。
 上目遣いに己の髪を見詰める彼の姿に苦笑を漏らし、雲雀は身じろいで肩を揺すった。微かな震動であったに関わらず、寝入り端を邪魔された仔犬は大きな欠伸を零し、眠そうに眼を開いた。
 小さな目がこちらを見た気がして、綱吉がドキリと身構える。膝の上で動くものの気配に雲雀はその原因を悟り、自分に対して肩を竦め、起こしてしまった侘びではないが、仔犬を抱き上げた。
「飼うんですか?」
 並盛神社の裏の林に捨てられていた、可哀想な仔犬。雲雀が見つけなければ、今頃は保健所行きの車に乗っていたかもしれない。
 綱吉の質問に雲雀は半眼し、軽く吼えた犬に向かって小首を傾げた。
「そうだね、どうしようかな」
 人の言葉が分かっているとは思えないが、仔犬は彼の質問にあわせて甲高く鳴いた。嬉しそうに尻尾をパタパタさせて、自分を抱き上げている雲雀に向かって身を乗り出す。
「っ!」
 直後、綱吉は信じがたい光景に瞠目し、背を戦慄かせた。
「くすぐったいよ」
 仔犬の舌が雲雀の鼻先を掠めたのだ。
 雲雀が言うが、話の通じる相手ではない。仔犬はしきりに舌を動かし、雲雀の顔を、それこそ余すところなく舐め始めた。
 口では嫌がっている雲雀も、まんざらでないのか、仔犬を遠ざけようとしない。逆に自分に近づけて、好きなようにさせていた。
 涎でべとべとになっていく雲雀を呆然と見詰め、ハッと我に返った綱吉は強く握り締めていた拳を慌てて解き、背中に隠した。
 ソファの上で跳ねるように動いた彼を一瞥し、雲雀は湿った髪を嫌い、首を振った。落ちそうになった仔犬を抱き直し、口元を拭って淡く微笑む。
 はっ、はっ、という仔犬の荒い呼吸が妙に大きく部屋に響いた。
「どうしたの?」
「……別に」
 そっぽを向いてしまった綱吉に雲雀が話を向けたが、彼は素っ気無く言って口を噤んだ。大粒の瞳は醜く歪み、顔には大きな字で「不機嫌です」と書かれていた。
 いったい何に対して怒っているのか、手に取るように分かって、雲雀は声を殺して笑った。
 綱吉が歯軋りしている。悔しげにしている彼の方に仔犬を向けると、綱吉はソファの上でビクリとした後、口をタコのように尖らせた。
「連れて来たのは、君に預けようと思ったから、なんだけど」
「はい?」
「その様子じゃ、難しそうだね」
 綱吉が犬を苦手としているのは当然心得ていたし、無理な相談だというのも最初から分かっていた。しかし雲雀は仕事で日本を離れる機会が多く、折角建造した巨大な拠点で過ごす時間も僅かと、多忙を極めていた。
 誰も居ないことの多いアジトで仔犬を飼育するのは、かなり厳しい。かといって保健所に連れて行くのはあまりにも可哀想で、ならば残す手段は里親を探すこと。しかし先にも述べたように雲雀は忙しく、その余裕はない。
 それに、こんなにも懐かれてしまったのだ。いくら仔犬の為にならないと言われても、手放すのは惜しい。
 ならば、自分に近しい存在に預けて、帰国する度に顔を見に行けば良い。
 理路整然と並べられた理屈に綱吉は頬を膨らませ、低い声で唸った。
「嫌です」
「そうだろうね」
 雲雀が自分を頼ってくれたのは嬉しく思うが、苦手なものは、苦手だ。
 次郎のいる山本に任せても良いが、彼もああ見えてなにかと忙しい。綱吉の代わりにあちこち飛びまわっているし、なにより匣兵器とそうでない生き物とでは飼育方法も大きく異なる。
 そもそも匣兵器は、炎さえ与えておけば食事は不要だ。中には好んで食べ物に手を出すものもあるが、それは希少な例だ。
 しかしこの仔犬には餌が必要だし、排泄の世話もしてやらなければならない。身体を温め、清潔を保ち、寂しくないように傍に誰かがいてやらなければいけない。
 きっぱりと拒絶した綱吉を前に、雲雀はそう落胆した様子もなく頷いた。
「分かってるなら……」
 最初から断られると分かった上で、仔犬を連れて来たのだ。それは雲雀の意地悪以外のなにものでもなく、反発を抱かずにはいられない。
 不愉快そうに顔を顰めた綱吉にもうひとつ頷き、彼はポケットからハンカチを取り出して濡れた顔を拭った。しかし片手で支えた犬が暴れて、折角綺麗にしたところをまた濡らされてしまった。
「む」
「一応、念の為にね。僕が知らないうちに、平気になっているかもしれなかったし」
 落ち着いて話も出来なくて、雲雀は仔犬を一旦膝に下ろした。改めて顔にハンカチを宛がい、布に水分を吸わせていく。
 大人びたその仕草を横目で見て、綱吉は膝に揃えた両手を握り締めた。
「だけど君がそう言うなら、仕方が無いね。お前、……ああ、雌だったっけ」
 ひと通り顔を拭い終えた雲雀が、ハンカチと交換で仔犬を摘み上げる。今度は簡単に舐められない距離を保って見詰め、綱吉が一瞬顔を赤くしたのを目で笑い、口を開く。
「君、うちの子になるかい?」
「ワフ!」
「――え?」
 呼びかけを訂正した雲雀のひと言に、意味を解したわけでもなかろうが、タイミングよく仔犬が吼えた。
 聞き間違いを疑った綱吉が目を見開き、背筋を震わせて肩を怒らせる。しかしソファから立ち上がることも、みっともなく喚き散らすことも出来ず、彼はやがてぷしゅん、と音を立て、萎びた風船のように小さくなった。
 背中を丸め、首から上だけを前に突き出す。
「えぇぇ……」
「他にないだろう?」
「連れて、行くって、ことですか?」
「うん」
 か細く非難の声をあげた綱吉に、ソファで足を組んだ雲雀が嫣然と微笑む。優雅な姿に一瞬見惚れそうになって、首を振って気持ちを引き締めた彼は自分の頬を軽く叩き、背筋を伸ばして身を乗り出した。
 途切れがちの質問に、雲雀は間髪入れずに頷いた。
 仔犬を仰向けに膝に寝かせて四肢を擽り、伸ばした指を甘噛みさせて、反対の手で頭を包むように撫でる。逡巡の間を持たなかった彼をじっと見詰め、綱吉は眉間の皺を一本増やした。
 雲雀がこういう態度を取るときは、覚悟を決めた時だ。絶対に撤回しないだろう彼の頑固さを思い、綱吉は唇を舐めた。
 たかだか犬の分際で、生意気な。一瞬脳裏を過ぎった見苦しい嫉妬に臍を噛み、仲睦まじいひとりと一匹を睨みつける。
 雲雀と共に過ごせる時間は少ない。学生時代のように好きな時に、好きなだけ一緒にいられたのが嘘のようだ。
 しかも彼は予定を誰にも告げずに行動するものだから、行方を追いかけるだけでも一苦労。無事でいるのか、元気にしているのかの連絡も、彼から入るのをひたすら待つしか術が無い。
 だがもし、綱吉が此処でその仔犬を引き取ると言ったら、どうだろうか。
 雲雀はちょくちょく様子を窺いに、此処に来るだろう。遠く離れた異国の地にいても、元気にしているかの確認の電話を入れてくるかもしれない。
 不器用な性格の所為でなかなか繋がらない会話が、仔犬を潤滑油として進むかもしれない。
 ぽっと頭の片隅に咲いた可能性は、良い事尽くめの気がした。
「ぐ……」
「名前はどうしようかな。首輪も買ってやらないと」
 これから先のことを真剣に考えている雲雀を上目遣いに見やり、直ぐに顔を伏し、綱吉は小刻みに震えている拳を重ね合わせた。
 仲間達も、綱吉の提案ならばさほど反対はしないだろう。番犬として期待できるし、まだ幼い子供達の良い遊び相手にもなる筈だ。動物が一匹いるだけで場の空気が和らぐのも、匣兵器の存在で既に実証済みだ。
 残る問題は、ただひとつ。
「ワンっ」
「ひぃ!」
 不意に響いた吼え声に大袈裟に反応して、綱吉は顔を引き攣らせた。裏返った悲鳴に雲雀も独り言を中断して、強張った彼の顔を見据える。直後に噴き出されて、綱吉は耳まで真っ赤になった。
 この犬嫌いをどうにかしなければ、飼って世話をするなどどだい無理な相談だった。
 しかし。
「予防接種も受けさせないと駄目だね」
「あ、う……と。ヒバリさん」
「なに?」
 うつ伏せになった仔犬の喉を擽り、雲雀が呟く。人生の一大決心を遂げた綱吉の呼びかけにも、反応は薄い。
 視線を持ち上げた彼はその先で必死の形相をしている青年を見出し、小首を傾げた。左手で仔犬を構いつつ、次の発言を待って居住まいを正す。
 待ち構えられて、綱吉は奥歯を軋ませながら鼻を膨らませた。
「や、えっと、その。その仔犬、やっぱ、……うちで」
「ワフ?」
「ひぃ!」
 呼ばれたのが分かったのか、仔犬が尻尾を振って振り返った。愛嬌たっぷりに見上げられて、彼は半泣きになりながら喉で停滞している言葉を懸命に上に、上に運んだ。
 ここで言わなければ、きっとずっと後悔する。脂汗をダラダラ流しながら涙目でなにかを言おうとする彼を眺め、雲雀は心の中でひっそりとほくそ笑んだ。
 潤む琥珀が熱を帯び、甘露を思わせる色合いを醸し出す。甘そうな雫を目尻に浮かべた綱吉は、この状況を楽しんでいる雲雀の心境にかまける余裕もなく、鼻で息を吸うと握り拳を上下に振り回した。
「う、……うちで、ひっ、ひ……」
「ひ?」
「引き取ります!」
 声を引き攣らせ、怒鳴るように叫ぶ。突然の大声に仔犬は吃驚して吼えたが、これだけは綱吉の耳にも届かなかった。
 汗だくで、肩で息をする彼は、まさに全力疾走を終えた直後のようだった。
 ぜいぜいと息を切らし、興奮に顔を赤く染めている。玉となって頬を滑った汗が顎から下に落ちて、途中で行方を追うのを諦めた雲雀は、緊張で強張っている彼に目を細め、クッ、と喉を鳴らした。
 コロコロと丸い仔犬が元気良く尻尾を振り、綱吉に顔を向けた。相変わらずの愛想のよさで、一心不乱に飼い主を名乗り出た青年を見詰め続ける。
 抱き締めて欲しいと訴えかけるその純粋な瞳に頬を引き攣らせ、彼は音を立てて唾を飲み込んだ。
「嫌だったんじゃないの?」
 おいで、と手招こうとして、途中で動きを止めてしまった彼に、雲雀が冷ややかな声で問い掛ける。中途半端なところを泳ぐ右手を引っ込めた綱吉は、泣きの入った顔で小さく首を振った。
 どこからどうみても、大丈夫ではない。無理をしているのが見え見えなのに、懸命に強がっている。
「嫌、って、いうか。なんていうか」
 雲雀との接点を増やすため、という不純な動機を本人に告げるのは難しかった。視線を泳がせてソファの上で腰を浮かせては沈める仕草を繰り返し、彼はそわそわと身を捩って頬を掻いた。
 今にも綱吉に向かって飛びかかろうとしている仔犬を背中から押さえ込み、雲雀は必死に巧い言い訳を考えている恋人に目尻を下げた。
「だって、……そうだ。検疫とか、あるでしょう?」
 やがて胸の前でちょんちょん、と人差し指を小突き合わせた綱吉が、今思いついたばかりの理由を口にして唇を尖らせた。
 人間は兎も角として、動物が国境を越えるにはそれなりに手続きが面倒だ。思い立ったら即行動がモットーの雲雀には、厳しい足枷となるのは間違いない。
 そういう方向から来たか、と少なからず感心して、雲雀はじたばた暴れる仔犬を宥めてその背を撫でた。
「平気?」
「平気です」
 念押しして確認し、綱吉が力強く頷くのを待って、彼は立ちあがった。
 ソファから滑り落ちそうになった仔犬を寸前で捕まえて確保し、両手で挟んで持つ。
「ヒバリさん?」
「じゃあ、実験」
「へ――えええええ!?」
 そうして彼はすたすたとテーブルを回りこみ、向かい合わせに座っていた綱吉の左で手を広げた。
 しとやかに告げられた言葉に目を見開き、綱吉は自分目掛けて落ちてくる茶色い物体に仰け反って避けようとした。
 情けない悲鳴を上げてソファごと後退を図る。が、ここで逃げれば雲雀に大見得を切った意味がなくなるし、なにより無防備な仔犬が床に落ちてしまう。打ち所が悪ければ怪我をすることだって考えられて、彼の頭の中を実に様々な想像が駆け巡って行った。
 琥珀の目にぐるぐる渦を巻き、逃げるのと、踏ん張って受け止める選択肢を入れ違いに引っ張りだす。ゼロコンマ二秒の短期間で決断を迫られた彼は、最後に手の中に残った札を高く掲げ持ち、鼻息荒く両手を伸ばした。
 ストン、と肘の間に転がり落ちたそれは、思っていた以上に軽かった。
「ひくっ」
 喉を引き攣らせ、目の前を真っ白にしたまま感触だけで腕に乗った物体がなんであるかを判断する。温かくて、丸くて、ちょっと臭い。じっとしていると向こうからもぞもぞ動いて、不安定な足場でよろめき、ただの棒と化している綱吉の腕から右足を滑らせた。 
「いぁ」
 直感で危険な状態と悟り、瞬きひとつで焦点を定めて急ぎ肘を引っ込め、脇を締める。潰さぬように注意深く胸に抱え込んだそれは、やや不自然な体勢で綱吉を見上げ、鼻をヒクつかせた。
 人間の赤ん坊を抱くのも緊張するが、それよりも小さいとあって、余計に変な力が入ってしまう。あまつさえ苦手としている犬を強制的に抱かされたのだ、顔が強張らない方がおかしい。
 だが仔犬は綱吉の緊張などお構いなしで、パタパタと短い尻尾を振り回していた。ようやく近くから見上げるのが叶った綱吉に目を輝かせ、嬉しそうに小さく吼える。
 炸裂した高音に意識が吹き飛びそうになったのをどうにか堪え、綱吉は懸命に、これはぬいぐるみだと自分に言い聞かせた。
 ちょっとリアルな人形だと思えば、きっと大丈夫に違いない。繰り返す呪文で己の心を騙し、雲雀が見守る中、彼は非常にぎこちない笑顔を仔犬に向けた。
 瞬間だった。
「ヒッ――」
 ぺろり、と鼻先を温かなものが掠めた。
 喉を引き攣らせて硬直し、瞳を天井に向ける。そのまま意識は遠退きかけて、彼は二度目の生温い感触で我に返った。
 伸び上がった犬が挨拶代わりに舐めたのだ、雲雀にもそうしたように。
「綱吉?」
 瞬きした末に動かなくなってしまった綱吉を怪訝がり、傍らで見守るだけだった雲雀が呼びかける。だが反応はなくて、いきなりレベルが高すぎたかと、白目を向いている彼に肩を竦めた。
 力を失った綱吉の四肢がソファの上でゆっくりと傾き、投げ出された足がテーブルの下に潜り込んだ。両手から解き放たれた仔犬が、落ちないようにと彼の胸元にしがみ付く。そうして綱吉は、背凭れからいきなりソファの座面に頭を落とした。
 滑った腰が床に沈み、軽くバウンドして仔犬までもが一瞬宙に舞い上がった。
「ふはっ」
 その衝撃で意識を取り戻した綱吉が、長く止まっていた呼吸を再開させて口を開く。薄手のシャツに爪を立てていた仔犬はといえば、勢い良く彼の肩まで駆け上がり、綱吉を踏み台にして無人になったソファに潜り込んだ。
 キャン、と可愛らしい声で鳴き、目を白黒させている綱吉に自分の存在を思い出させる。光を取り戻した琥珀の瞳が上を向いて、
「ひゃ」
 すぐさま首を竦め、彼は笑った。
「ちょ、やだ。くすぐった……やめ、って」
 堪えきれないのかからからと声を零し、懸命に自分に縋りつくものを押し退けようと両手を動かす。が、片眼を閉じたままなのでなかなか探り当てられないようで、まるでひとりで阿波踊りを踊っているようだった。
 一瞬心臓が止まりそうになった雲雀だけれども、喉を鳴らしている綱吉を見ているうちに段々色々と馬鹿らしくなってきて、肩を落として嘆息した。短く切り揃えた前髪を掻き上げて苦笑し、綱吉の額に前脚を置いて一心不乱に彼を舐めている仔犬に目を向ける。
 最初は朗らかだった表情は、時を経る毎に少しずつ曇っていった。
「…………」
「あはは、駄目だって。ちょっと、こら」
 長く不機嫌な顔をしていた反動だろうか、満開の花のような笑顔を振り撒く綱吉の口に顔を寄せた仔犬は、あろう事かその唇にまで舌を伸ばしていた。
 一見すればとても和やかな、動物と触れ合う青年の図だ。しかし不穏な気配を強めた雲雀は、頭のどこかで紐か何かが切れる音を響かせ、やおら手を伸ばし、綱吉を襲っていた小さな怪獣の襟首を捕まえた。
「ワフ?」
「あは、は、はー……」
 やっと解放された綱吉が苦しげに息を吐き、涎でべたべたの顔を袖で拭った。頭の天辺から顎の先まで、ひと通り舐められてどこもかしこもずぶ濡れだった。
 今までまともに犬と対面してこなかっただけに、こんなにも凄まじいものなのかと驚きで声さえ出ない。この先本当にやっていけるか不安でならないが、少なくとも噛み付かれなかったのは、彼にとってプラスだった。
 意外に平気かもしれない。これまでは幼少期の思い出に引きずられて、最初から恐いものだと決め付けていたけれど。
「あー、……ヒバリさん?」
 ショック療法もたまには悪くない。そんな事を考えつつ、残る涎をシャツに押し付けながら顔を上げる。刹那、彼は怒髪天を衝く勢いの青年をその場に見出し、ぎょっと背筋を戦慄かせた。
 自分が見ていないところで、いったいなにがあったのか。すっかり怯えて萎縮してしまっている仔犬を凄まじい形相で睨んでいた彼は、足元できょとんとしている綱吉を思い出して気まずげに咳払いし、口をもごもごさせた。
 心持ち顔を赤くして、小首を傾げた綱吉から目を逸らす。
「ヒバリさん?」
「病院に連れて行くのも大事だけど」
「うん?」
 くるん、と内巻きになった茶色い尻尾を弾き、雲雀は雌犬をソファに下ろした。心細げに鳴いて綱吉の方ににじり寄るのを面白くなさそうに見下ろし、顎を突き出して口を尖らせる。
 甘えてこられると愛おしさが急に膨らんで、綱吉はついつい手を伸ばし、仔犬を傍に招きよせた。温もりに餓えていた獣はすぐさま反応して、彼の顔に顔を寄せると、先ほどよりは幾らか遠慮がちに舌を出した。
「っ!」
 直後に背筋がゾッとして、綱吉はビクリと肩を跳ね上げた。仔犬も甲高い声で吼えて尻尾を丸め、背凭れの方へ一目散に逃げていった。
 振り返れば雲雀が、直立不動で立っている。背負うオーラは妙に禍々しくて、彼が怒っているのは一目瞭然だった。
「ヒバリ、さん?」
「その子、君が飼うならきちんと躾ないとね」
「え?」
 凄まじい怒気に頬を引き攣らせ、綱吉が声を上擦らせた。それに覆い被さる形で雲雀が言って、聞き逃しかけた彼は不思議そうに首を捻った。
 確かにトイレの場所や、人を咬まないように躾けるのは重要だ。しかし、粗相したわけでもないのに雲雀が怒るのが分からなくて、眉根を寄せていると、彼は盛大な溜息をついた後、膝を折ってしゃがみ込んだ。
 無防備な顔を晒す綱吉と目線の高さを合わせ、睨みつける。そんな顔をされる謂われはなくて、綱吉はムッと口を尖らせて顎を引いた。
「君も」
「ですから、さっきからな――」
 不躾に言われて機嫌を損ねないわけがなく、反論しようと口を開く。
 が、全部を言う前にその肝心の唇を塞がれ、綱吉は瞠目した。
 目の前がいきなり暗くなったかと思った瞬間、下から掬い上げるようにくちづけられた。馴染みのある、けれど随分と久しぶりの気がする熱さに眩暈がして、彼は投げ出したままの足を引き寄せ、支えを欲して手を泳がせた。
 雲雀の袖を掴み、腕を握って、忘れていた目を閉じる。けれど雲雀はすげなく首を引き戻し、離れて行ってしまった。
 名残惜しそうにして指を解いた綱吉の額を小突き、雲雀が笑う。
「君を舐めていいのは、僕だけなんだから」
「……馬鹿」
 弾かれた場所ではなく、濡れてしまった口元を覆い隠し、綱吉は耳まで赤く染めてそっぽを向いた。

2010/06/05 脱稿