案外

 三日前の帰り道では、地上の落ちる影はもっと長かった。
 錯覚かもしれないけれど、そうでないような気もする。振り返り見た西の空にはまだ太陽が家々の屋根の上に残り、綱吉たちを明るく照らしていた。
「もうちょっとで夏だなー」
 一日中半袖で過ごすのも苦にならなくなって来たと嘯き、彼は白い袖から伸びる腕を交互に撫でた。
 衣替えも過ぎて、夏はもう目の前だ。夏休みまではまだ一ヶ月以上あるけれども、今から考えるだけで胸がわくわくする。
 長期休暇ほど楽しみなものはない。辛く苦しい勉強から解放されて、悠々自適に羽を伸ばせる。勿論、大量の宿題が出されるわけだから、遊んでばかりもいられないのだけれど。
「あー、早く来ないかな」
 夏休みの前には期末試験があるというのも忘れ、期待に胸膨らませて鞄を抱き締める。頭に思い浮かぶのは、愛らしい水着に着替えた京子の姿だ。
「あはー……たのしびぃてぇ!」
 自分がカナヅチなのも忘れて、海ではしゃぎ回る自分たちを妄想して、だらしなく鼻の下を伸ばす。直後、髪型の所為で本来よりずっと大きく見える綱吉の頭がいきなり前に吹っ飛んだ。
 悲鳴をあげる最中に舌を噛んでしまい、奇怪な声をあげてしまった彼は前に数歩ふらつき、落としそうになった鞄を慌てて胸に引き寄せた。右手で大事に抱え直し、激痛を訴えて少し腫れてしまった後頭部に左手を添える。指の腹に微かな膨らみを感じた瞬間、引きかけていた痛みがぶり返して、彼は肩を跳ね上げた。
 噛み締めた奥歯をカチリと鳴らし、顔のパーツを鼻の周りに集めて渋い表情を作る。両手を使って頭を抱え込んだ彼は、人の後頭部に向かって容赦なくゴム弾を発射した赤ん坊を下から仰ぐようにねめつけた。
 道の脇、宅地との境界線を成している塀の上。そこに、拳銃を片手にした、黒スーツに身を固めた赤子が立っていた。
 白い煙を噴いている凶器を右手に構え、銃口に向かってふっと息を吹き掛ける。その自称世界最強のヒットマンことリボーンは、不敵な笑みを浮かべて綱吉を睥睨すると、素早く武器を収納して居丈高に胸を反らした。
 馬鹿と煙は高いところが好き、というけれど、この見た目だけ赤ん坊の男もまた、恐らくは高い場所が好きだ。自分の背丈が低いから、見下ろされるのが嫌いなのだろう。現に彼は少し前まで、綱吉の親友である山本の肩の上にいた。
 沢田家に居候中であるリボーンは、当然ながら綱吉と帰り道が同じだ。四辻で山本と別れた後は、こうやって他所のお宅の塀を器用に歩いていた。
 幅十センチもない細い道なのに、バランスを崩して落ちることもない。彼の体格だから出来ることで、綱吉ではとても真似できそうになかった。
「いってててて。何するんだよ、リボーン」
 じんじんする後頭部を慰めながら、目尻に浮かんだ涙を堪えて綱吉は頬を膨らませた。苦々しい表情で唇を噛み締めている彼を見下ろして、しかしリボーンはふっ、と鼻で笑っただけだった。
 両手を広げて肩を竦められ、ただでさえ腹立たしいのに、余計に苛々が募って仕方が無い。その場で地団太を踏んだ綱吉は悔しげに鼻を鳴らし、凹んでしまった鞄の表面を撫でて形を整えた。
「ったく……」
 折角人が幸せな幻想に浸っていたというのに、無粋な邪魔が入って一気に霧散してしまった。空想くらい自由にさせてくれても良いだろうに、と窄めた口でボソボソ愚痴を零していたら、聞こえていたリボーンが、またニヒルな笑みを浮かべ口角を歪めた。
「心配しなくても、そんな楽しい夏休みなんざ来ねーぞ」
 期末試験の結果如何では、彼の夏休みは全日猛勉強に消える。遊びに出かける暇など一切ないとの宣告に、綱吉は聞きたくないと耳を塞ぎ、嫌々と駄々を捏ねる子供のように首を振った。
 だが実際、そういう結果になりそうなので、怖い。中間試験の結果は惨憺たるもので、折を見てリボーンはその事を声に出し、綱吉に気持ちを引き締めるよう強要してきた。
 勉強は嫌いだ。思い出して不機嫌な顔をして、彼は大粒の瞳をまっ平らに引き伸ばした。
 何が楽しくて、あんなにも面倒でつまらない事を覚えなければならないのか。数学の公式はまるでちんぷんかんぷんだし、国語の授業で小説の主人公の気持ちを読み取れ、と言われても何がなんだかまるで話が見えてこない。理科の実験は爆発しそうで嫌だし、体育はなにより苦手だった。
 毎日懲りずに学校に通うのだって、京子や山本や、獄寺達と一緒に過ごす時間が大切だからだ。眠くなるだけの授業という苦行も、その為だけに懸命に耐えている。
 だからリボーンがどれだけ綱吉の成績向上に躍起になろうとも、綱吉にはその気が全く無いので効果が無い。たまに飴を目の前にぶら下げられて、必死になって食いついてしまうこともあるけれども。
 根底にあるのは、こんな赤ん坊の思い通りになどなってやるものか、という意地だ。彼が綱吉に求めているのは、立派なマフィアのボスになること。そんな物騒な職業に就くつもりなど毛頭ない綱吉は、故に彼に逆らうことで、この未来を回避しようと目論んでいた。
 とはいえ、今のような激痛を伴うとんでもない仕打ちを頻繁にふるわれては、心根がぽっきり折れてしまいそうだ。それに、リボーンにはこれまでにも何度となく助けられている。
 彼に全く恩義を感じていない、と言えば嘘になる。実際にリボーンはとても頼りになるし、助けが必要な時には常に的確な助言を与えてくれた。
 彼が綱吉の前に現れたからこそ、今の綱吉は毎日が楽しいと思えるようになった。それまでの不登校な生活を改めて、過ぎ行く時間の中でかけがえのない体験をして、大切なものを何個も手に入れた。
「む、う……」
 低い声で唸り、綱吉は頭から手を下ろした。早々に話を切り上げて歩き出した赤ん坊の背中を睨みつけるが、その眼力は最初に比べるとかなり弱かった。
 学校の授業が終わるタイミングを見計らったかのように、下校すべく校門を出た綱吉を待ち構えていた赤ん坊。わざわざ中学校まで出向いた理由を、彼は寄り道をして遊び惚けていないか確かめる為、と言った。
 みんなで山本の家に遊びに行ってゲームをしようか、という話が出ていた最中だったので、彼の登場にはかなりドキリとさせられた。疑いの目を向けられて、慌てて真っ直ぐ帰る旨を告げてしまったために、結局遊びに行くという話自体、立ち消えてしまった。
 ゲームは逃げたりしない。日を改めてリボーンの監視の目が無い時にやろう、とは直接言葉を介して伝えられなかったけれど、目配せで山本は理解してくれたに違いない。そう思いたい。
「別に、迎えに来なくたっていいのにさ」
「何か言ったか」
「なーんにも」
 ただちょっと楽しみにしていたので、残念でならない。リボーンは本当に油断のならない存在だという思いを強めて、綱吉は爪先で強く地面を蹴り飛ばした。
 右肩に鞄を担ぎ、肘と脇の間に挟んで固定する。西日は穏やかだったが昼の暑さがまだ過分に残っており、日向を歩いているうちに段々と背中が熱を持っていった。
「暑いな……」
 ぽつりと呟き、胸元に手をやる。首の付け根できっちり絞めているネクタイも、もう緩めて良いはずだ。
 風紀委員の目が怖くて、学校の中ではきちんと着るようにしている制服も、帰り道なのだから崩してよかろう。急ぎ周囲に視線を走らせた彼は、最後にリボーンの黒い背中を見上げ、結び目に指を入れて左右に揺さぶった。
 寡黙に突き進む赤子は、綱吉のこの動きに気付いているだろうに、何も言わなかった。
 首を振り、喉元を広げて呼吸を楽にした綱吉は、人心地ついたと胸を撫で下ろし、上唇を舐めた。真っ直ぐ伸びる道の先に目を向けて、家までの距離を凡そで計算する。
 見慣れた景色に感慨深いものを感じるわけもなく、綱吉は事務的に足を動かし、リボーンに続いて角を左に曲がった。
 彼はこうやって塀の上をずっと移動しているけれども、塀が続くのとは反対方向に曲がらなければならなくなった場合、どうするのだろう。ふとそんな疑問が湧き起こり、綱吉は脳内に並盛町の地図を呼び出した。
 刹那。
「あてっ」
 またしても頭を、今度は真上から押し潰されて、彼は甲高い悲鳴をひとつあげた。
 鞄が肘のところまでずり降りてしまって、重みに引きずられた身体がそちら側に傾いた。しかも彼を押し潰した重みは、あろう事か人の頭を足場にして反対側へと飛び跳ねた。
 自分の身になにが起きたのか、過去にも似たような事をされた経験がある綱吉は直ぐに理解した。
 おっとっと、と横っ飛びで塀の手前まで移動し、ぶつかりそうになったのはなんとか前に繰り出した手で押し返して回避する。ふらつく足を叱咤して肩で息を整え振り返れば、案の定、リボーンが向こう側の塀の上で自慢げに胸を張っていた。
 人を踏み台にして移動を果たした彼に頭が真っ白になって、言葉が何も思い浮かばない。絶句している綱吉にほくそ笑んだ赤子は、ふふん、としたり顔で笑い、新たに得た細い道を悠然と歩き出した。
「リボーン」
「早く帰らねーと、夕飯に間に合わなくなるぞ」
 まだ日暮れまでは時間がある。夕飯がそんなに早く始まるものかと声を荒げて抗議するが、なしの飛礫なのはやる前から分かりきっていた。
 振り上げた拳のやり場に困り、仕方なく溜息と共に肩を落として怒りを遠くへ追い払う。あの常識外れの赤ん坊のやる事に、逐一真面目に相手をしていたら、こちらの体力がもたない。
「あーあぁ、もう」
「どうした」
「お前なんか、さっさとイタリアに帰っちゃえばいいんだ」
 人を足蹴にしておいて、謝罪のひと言もない彼には、ほとほと愛想が尽きそうだ。確かに世話になっているところは多々あるけれど、そういう点を差し引いても、この態度は目に余る。
 やり返すのは諦めたが、不満は完全に消えきらない。胸の奥で燻る不満がひょんな拍子に加勢を強めて、気がつけば綱吉はそんな事を口走っていた。
 素っ気無く告げられた嫌味に、リボーンはしかし殆ど反応らしい反応を見せなかった。大粒の黒い瞳は微動だにせず、眉間に皺が寄ることもない。あまりの無表情ぶりに、却って綱吉の方が不安になった。
 聞こえていなかったわけではあるまい。どんな小声での囁きですら聞き逃さない地獄耳を持っている彼が、こうもはっきりと響く声で、面と向かって告げられたのだ。
「……リボーン?」
「オメーが、俺が必要ないくらいに立派なボスになったら、帰ってやるさ」
 黙りこくられて落ち着かなくなった綱吉が、心細げに名前を呼ぶ。それが引き金になったのか、赤子は不敵な笑みを口元に浮かべ、生意気な台詞を吐いた。
 リボーンが綱吉の前から消える。その大前提に、彼がボンゴレ十代目の継承が設定されている。
 そういう将来図自体がありえないと、綱吉は考えている。ならば、詰まるところ、リボーンは永遠に自分に付きまとって離れない。最低最悪な未来予想図に唖然として、彼は疲れた顔をして額を手で覆った。
「なんでそうなるのさ……」
「そうなるように、俺が頼まれたからだ」
 イタリアにいるボンゴレ九代目直々の依頼だから、こちらの都合だけで反故には出来ない。綱吉の意思などお構いなしの説明に反感を抱かないわけがなく、彼は頬をぷっくり膨らませると、不機嫌な足取りで歩みを再開させた。
 非常に分かり易い、子供じみた拗ね方をする教え子に肩を竦め、リボーンはまだまだ続く塀の先に視線を転じた。綱吉を追いかけて足を前に繰り出し、細い隙間も軽い足取りで簡単に飛び越える。
 常人を軽く凌駕する運動神経をここぞとばかりに発揮する彼を一瞥し、綱吉はやがてソロソロと道を斜めに横断し始めた。
 リボーンとは反対側の塀沿いに進んでいたものが、徐々に歩幅も小さくして、押しかけ家庭教師の居る方に近付く。肩を竦めて背を丸める姿は、明らかに何かに対して怯えを抱いていた。
 ススス、と音もなく忍び寄る綱吉の揺れる頭に視線を定め、リボーンは怪訝に首を傾げた。
 脇に挟んでいた鞄も、いつの間にか胸の前に移動していた。両手でしっかり抱き締めて、変に腰が引けて身体が斜めに歪んでいる。竦めた首の上、琥珀色の双眸も真正面ではなく、何かを気にしてか、前方斜めを向いていた。
 歩き難かろうに、歩を進めるにつれて綱吉の体勢はどんどん壁に寄っていった。前方不注意で電信柱にぶつかりかけても、改めようとしない。激突寸前で気付いて道路の中央近くまで避けたものの、そこを過ぎればまた肩が擦りそうなくらいに塀に身を寄せた。
 いったい彼は何を気にして、こんなにも怯えているのか。この先に何があったかと考えてみるが、思い当たる節はついぞ見つけられなかった。
 眉を潜めたリボーンを知らず、綱吉は戦々恐々しながら慎重に一歩を大地に刻みつけた。あまり深く考えぬまま、リボーンについていく形で帰り道を選択してしまったのを今更ながらに後悔する。普段は使わない道順だったので気付くのが遅れたが、この道の途中には、居るのだ。
 綱吉の大嫌いなアレが、いるのだ。
「うぅぅ」
 どうして角を曲がる手前で思い出さなかったのかと、悔いたところでもう遅い。リボーンが家までの最短経路を選ぶことくらい、ちょっと考えれば分かっただろうに。
 まったくもって、とんだ疫病神だ。
 舌打ちして塀の上を軽々歩く赤ん坊を睨みつけるが、逆に何を怖がっているのか目で問われ、綱吉は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「ツナ」
「なんでもないよ」
「そうか?」
「なんでもないったら!」
 返答を拒み、彼は反射的に声を大きくして叫んだ。
 この道が怖い理由を知られたら、きっとまた馬鹿にされる。そんなものが駄目なのかと、指を指して失笑されるに決まっている。
 だが、嫌いなものは嫌いだし、苦手なのだからどうしようもないではないか。
 怖いと分かっているものに自分から積極的に近付くほど、綱吉は愚かではない。リボーンに引きずられる格好で犯した手痛いミスに舌打ちして、彼は遠くから聞こえた微かな物音にハッと背筋を強張らせた。
 頬が引きつり、不自然な笑顔を浮かべた状態で停止する。大袈裟な反応を見せた彼に顔を顰め、リボーンは冷や汗に額を濡らしている教え子と、進行方向とを交互に見比べた。
 綱吉が苦手とするものは、かなりの数に登る。運動、勉強もさることながら、嫌いな食べ物も相当な品数が揃っていた。特にピーマンを苦手とし、コーヒーも砂糖とミルクをたっぷり入れて、鼻を抓んでやっと飲めるような状態だ。
 エスプレッソを愛飲するリボーンを捕まえて、よくぞそんな苦いものを平気で飲めるな、と嘯くような子供だ。それが歳を経て、経験を重ねていくうちにどう化けるのかが、今から楽しみでならない。
 自分の好奇心は心の裡に隠し、リボーンは綱吉が大仰に肩を竦めた原因を探って耳を澄ました。程無くして何処からともなく聞こえて来た吼え声に、彼は得心した様子で嗚呼、と頷いた。
 犬だ。
「ダメツナ」
「……うっさい」
 ぼそりと呟かれた言葉を頭にぶつけ、綱吉は口をタコのように尖らせた。小声でなにやらボソボソ反論を企てるが、結局適当な台詞は見付からなくて、憤然としたまま唇を閉ざす。
 隠しておきたかった事を簡単に見抜かれたのが悔しく、また恥ずかしい。
 この先の家では犬が放し飼いにされており、綱吉が前を通る度に姦しく吼えるのだ。柵があるので簡単には外に出てこないと思うのだけれど、それでも鋭い牙を覗かせて険しい表情で吼えられて、恐怖心を抱かない方がおかしい。
 最初に吼え掛けられた時の事を思い出して身震いした綱吉は、いよいよ鞄をぎゅうぎゅうに抱き締めて、鳥肌立った腕をさすって冷や汗を拭った。
 幼い頃に犬に追いかけられた、嫌な記憶もが同時に蘇る。あれは恐い生き物だという意識が根深く残り、お陰で近くに来られただけで竦んで動けなくなってしまう。リードに引かれた散歩中の犬でさえ、通り過ぎるまで直立不動で見送るしかない。
 一度抱いた苦手意識を完全に払拭するのは難しい。特に幼少期に刻み込まれた経験はトラウマとなって、大人になってからも、時に人の心を縛り付ける。
 だが、たかだか犬一匹にこうも過剰反応するのは、いただけない。いずれボンゴレのボスとなり、世界中のマフィアを支配下に置こうという男が、暗殺者よりも愛玩動物を恐れるなど、笑い話にもならない。
 呆れ調子で嘆息したリボーンだったが、ふとした拍子に怪訝な顔をし、口をヘの字に曲げた。顰め面を作った彼を尻目に、綱吉は姿の見えない犬に怯え、塀の前すれすれのところを蟹歩きで移動し始めた。
 本当は顔も見たくはないけれど、見えない場所から吼えられて逃げられなくなるのも嫌。そういう複雑な心境を覗かせた彼にもうひとつ溜息を零し、リボーンは目深に被った帽子の鍔を持ち上げて視界を広げた。
 塀の上から見えるものは、綱吉が見ている世界と少しだけ色が違う。軒を連ねる住宅地を俯瞰して、彼は犬が吼えている庭に当たりをつけて、首を傾げた。
 並盛町で大型犬を飼育している家は、何軒もない。そのひとつひとつにチェックを入れて、きちんと鎖で繋がれているかの確認もしていたリボーンだが、進路上に存在する家は把握していなかった。
 最近になって、新規に飼い出したのか。しかし綱吉のこの怯え方からして、以前にも何度となく吼えかけられたことがある、と想像できた。
 自分のチェックが漏れているのだとしたら、これ程悔しいことはない。神妙な顔つきをしたリボーンを他所に、綱吉は出来る限りその家との距離を確保しながら、なんとも情けないポーズで道の端を這うように進んだ。
 いったいどんな大型犬がお目見えするのか、ある意味楽しみでもある。嗜虐的な思考が脳裏を過ぎったが無視して、彼はのろのろ運転の綱吉を追い越し、塀の切れ目を飛び越えて隣の家の敷地に移った。
 腰を低くして着地の衝撃を緩和させ、ゆっくりと身を起こす。帽子の上では形状記憶カメレオンのレオンが、左右で離れた目を器用に動かし、壁に張り付いている綱吉を見た。
「ふむ?」
 一方のリボーンは犬がいるという敷地の入り口に目を向けて、猛犬注意の警告も何もない門扉に眉根を寄せた。
 表札に、郵便受けと、至って平凡な門構えだ。際立って広い庭を持っているわけでもなくて、沢田家のそれと同等。飾り気にも乏しい黒塗りの門の向こうに犬らしき影は見えなくて、腕を組んだ彼ははてなマークを飛ばして首を傾げた。
「犬小屋は……あるか」
 庭の片隅に置かれた小屋は、思っていたよりも小さい。なにやら奇妙な感覚に見舞われたリボーンは、直後視界の端を駆け抜けた小さな影に目を瞬いた。
「ひぃぃぃ!」
 キャイン、という可愛らしい声が聞こえた瞬間、聞き苦しい男の甲高い悲鳴が轟いた。
 下を向けば綱吉が、鞄を抱えたままへっぴり腰で立ちつくしていた。怯え切った表情は強張り、見開かれた目は充血している。歯の根が合わないのか、この距離でもカチカチと音が聞こえた。
 改めて前を向けば、先ほどの黒い門扉の向こう側に、確かに犬の姿があった。
「…………」
 ただ、リボーンが想定していたのとはサイズが大きく異なっていた。
 前脚を扉の柵に引っ掛けて後ろ足だけで立っているので少し背高に感じられるが、何処からどう見ても、その犬は仔犬だった。見ただけでは判別がつかないものの、生後一年を迎えてもいないはずだ。
 どれだけ身体をぐーっと反らしても、綱吉の腿の辺りまでしか届かない。恐がる必要など何処にも無いように思えるのに、その綱吉は既に涙目で、届く距離でもないのに嫌々と首を振った。
 仔犬は綱吉に向かって大きく尻尾を振っていた。右に左に、調子よくリズムを刻んでいる。顔も面長で愛嬌たっぷりで、長い舌を伸ばしてハッ、ハッ、と熱っぽい息を吐いていた。
 間違っても綱吉に危害を加えようとしているのではなく、むしろその逆だ。単に遊んで欲しいだけだ。
「おい、ツナ」
「ひぃぃぃ。お願いします、お願いします、ごめんなさいぃ!」
 だが肝心の彼はすっかり萎縮してしまって、誰に向かってか頭を下げて謝り、両手を合わせて神仏を拝むポーズを作っていた。
 ひょっとしなくても彼は此処を通り掛かる時、いつもこんな風なのだろうか。長く同じ場所にいるものだから、犬も勘違いしてキャンキャン吼えて、彼の注意を惹こうとしているだけで。
 嫌ならさっさと走って通り過ぎてしまえば良いのに、非効率極まりない事をして、改めない。
 だがそれでこそ、沢田綱吉だ。
「しょうがねー奴だ」
 まったくもって、面倒がかかって仕方が無い。
 そう言いながらもどこか楽しげな笑みを浮かべたリボーンは、上着に手を入れて其処にあったものを握り取った。引き抜き、身構える。
 狙いは定めない。恐怖に負けて蹲る綱吉の頭上で、彼は喧しく吼える犬に向かって酷薄な表情を浮かべた。
 直後。
「キャウゥン!」
 突如炸裂した爆発音に驚き、仔犬は高く飛び跳ねた末に背中から庭に倒れこんだ。そしてすぐさま反転して四本足で立ち上がると、落ち着きなく揺らしていた尻尾を丸め、一目散に建物の方へ走って行った。
 綱吉も壁際で固く目を瞑り、鼓膜を突き抜けていった銃声に奥歯を噛み締めた。
 キンキンする頭を片手で支え、塀の上で構えを取る赤ん坊を見上げる。
「心配すんな、音だけだ」
「う……」
 まさか犬に向けて撃ったのかと疑ったが、あっさり否定されて彼は顔を顰めた。
 銃声に驚いた犬は、尻尾を巻いて逃げていった。周囲は一気に静かになって、膝の上で逆さまになっていた鞄を思い出した彼は、若干気まずげにしながら立ち上がり、ズボンについた汚れを雑に叩き落した。
 助けられたのは確かだが、素直に喜べない。リボーンがいなければ、綱吉は十分近くここで立ち往生させられていたわけであり、感謝するのが筋だと分かっているものの、なかなか口は礼を言おうとしなかった。
 釈然としないのは、犬に、空砲とは言え爆音で驚かせたから、というのもある。
「行くぞ」
「……分かってるよ」
「しっかし、情けねーぞ、ツナ」
「ほっといてよ」
 不貞腐れた顔をしている綱吉ににやりと笑いかけ、リボーンが拳銃を仕舞いながら告げる。口を尖らせて頷いた綱吉に呵々と喉を鳴らし、黄色いおしゃぶりをぶら下げた赤ん坊はくれなずむ夕日にちらりと目を向けた。
 随分と遠回りをしてしまった。真っ直ぐ帰っていたなら、もう家についていただろうに。
 結局綱吉を寄り道させたのは自分だったか。そんな事を心の中で呟いて、彼は口角を歪め、右足を大きく前に繰り出した。
「うわっ」
「しょーがねーから、オメーの面倒は俺が一生見てやるぞ」
「ちょっと、危ないだろ。って、何言っちゃってんのお前!」
 塀の上から一直線に落ちてきた赤子を地面に激突寸前で受け止め、綱吉が素っ頓狂な声をあげる。直前に聞こえた大それた告白は、出来るなら空耳として片付けておきたかった。
 だが根っからのツッコミ性が災いして、ちゃんと聞こえて来たのだと自分から相手に教えてしまった。
「あ……」
「嬉しいだろう?」
 ふふん、と鼻を鳴らしながら言われて、咄嗟に返事が出来ない。
 一瞬にして夕焼けよりも顔を赤くした綱吉は、鞄と一緒に抱えた赤ん坊を放り投げようか迷い、歯軋りの末にどうにか思い留まった。落ち着きなく視線を泳がせながら、さっさと進むよう指示する赤子の手を叩いて落とす。
「冗談じゃないよ」
「どーだか」
「当たり前じゃないか」
 こんな生意気極まりない、我が儘放題の赤ん坊と一生一緒など、絶対御免だ。
 そう思うのに、思うほど声に力が入らない。
「ツナ」
「あー、もう!」
 一生傍に居るなど、本当は嫌なのに。
 嫌なはずなのに。
 せっついてくるリボーンに痺れを切らし、彼は地団太を踏んで絶叫した。赤い顔をして肩を揺らし、奥歯を噛み締めて鼻を膨らませる。
 これから先どうなるかなど、神様にだって分からない。けれど、ひとつだけ確かだと言えることがあった。
「分かったよ、分かりましたってば。どうぞ宜しくお願いします!」
「上出来だぞ」
 夕暮れの町中で投げやりに宣誓した綱吉を笑い、リボーンが楽しげに微笑む。
 きっと、自分たちは。
 自分たちの関係は、きっと、ずっとこの調子のまま変わらなくて。
「ちぇ。リボーンの、ばーか」
 案外、このまま巧くやって行けそうな気がした。

2010/06/02 脱稿