口遊

 高らかと鳴り響くチャイムの音色に、静まりかえっていた教室がにわかに活気づいた。
 教卓の国語教師が広げていた教科書を閉じ、顔を上げてぽりぽりと頭を掻く。少し前まで彼の声に熱心に耳を傾けていた生徒達は、今や気もそぞろに合図を待ち構えていた。
 中途半端なところではあったが、皆の集中力が切れてしまった以上、授業を続けても仕方がない。ブーイングが始まる前に、と諦めて、彼はテキストを置いて授業終了の号令を発した。
 日直が「起立」と叫び、教室内に居た全員が揃って立ち上がる。一礼の後は無礼講で、やっと終わった午前の授業に、綱吉は大きく伸びをした。
 背筋を後ろに反らして骨を鳴らし、軽く腰を捻って深呼吸をひとつ。ものの五分前まで睡魔と格闘していたのが嘘のように、彼の表情は実に晴れ晴れとしていた。
「ん、ん~~」
 気持ちよさそうに声を出し、疲労を訴える肩を交互に叩いて目尻を擦る。待ちに待った昼休みに突入したわけで、早々に弁当を持った山本が彼の机に歩み寄ってきた。
 背高の彼の後ろには、同じく昼食の入った袋を片手に獄寺が立っていた。
「ツナ、飯食おうぜ」
「うん」
 開口一番言われ、即座に頷いて返す。そして綱吉は机の脇につり下げていた鞄を取って、ファスナーを引いた。
 奈々が持たせてくれた弁当箱を取り出して、軽くなった鞄は再び机のフックに。獄寺が綱吉の前の席から椅子を引っ張り出す音が、ガガガ、と震動を伴って響いた。
 山本も空いている机を持ち上げて、綱吉の隣に並べた。正月のおせち料理でも入っていそうな特大サイズの弁当箱がどん、と置かれており、自分の物と比較して綱吉は苦笑した。
「相変わらず、凄いね」
「ん? そうか?」
 下段は白米に梅干しが二つ、上段にはおかずがぎっしり。二食分くらいありそうで、とても食べ切れそうに無い量だが、野球部所属の彼にとっては、これでもまだ少ない方らしい。
 昼休み前にも、彼はおやつとして菓子パンを齧っていた。放課後の部活の前にも、小腹が空いて動けなくなるのは嫌だからと、いつも何か口に入れている。
 一日三食どころか、五食だ。それで全く太らないのだから、彼の新陳代謝の良さは並ではない。
「よーっし、いっただっきまーす」
 苦笑いを浮かべた綱吉に微笑み、彼は準備を整えると、早速弁当の包みを開いた。両手を叩き合わせて元気よく叫び、箸を片手に大量の白米を口に運び始める。
 食事の量もさることながら、彼は食べるのも早い。うかうかしていると好物を盗み取られてしまいかねず、綱吉も彼に倣って両手を合わせると、山本に比べて小ぶりの弁当箱を開いた。
 獄寺はコンビニエンスストアで買ったパンに、牛乳。恐らくこの三人の中では、彼が一番小食だった。
「獄寺君、そういうのばっかり食べてるの、良く無いよ」
「分かってるんですけど、つい、面倒で」
「母さんに頼んで作ってもらおうか?」
「いえ、十代目のお母様に、俺なんかの為にお手を煩わせる訳には」
 唐揚げを頬張り、細かく噛み砕いた末に飲み込んだ綱吉が、もそもそと焼きそばパンを齧る獄寺に言う。奈々は人に構うのが好きだから、頼めば嫌な顔ひとつせずに用意してくれるだろうに、彼は仰々しく首を振り、謹んで辞退を申し出た。
 深く頭まで下げられては、強く出られない。肩を竦めて嘆息し、綱吉は窓から注ぐ柔らかな日射しに目を細めた。
 自分たちは今、こうして机を並べ、昼食で胃袋を満たそうとしている。獄寺は兎も角として、綱吉や山本は、親が弁当を持たせてくれている。
 だが、そうではない知り合いも、少ないながら存在した。彼らは今頃、何処でどうしているのだろう。なんの脈絡もなしに思い出した顔に、綱吉は細く尖った箸を舐めた。
 親を持たず、家と呼べる場所も持たず。誰も寄りつかない廃墟をねぐらにしている、同年代の子供達。
 彼らの置かれた状況と、自分が身を置く環境とがあまりにもかけ離れすぎていて、気になるのに手を出せない。このままでは良くないと分かっているのに、頑なな彼らの心に歩み寄る術が、綱吉は未だに見つけられずにいた。
「……」
 気が付けば箸が止まっていて、獄寺に変な顔をされてしまった。
「十代目、どこかお加減が」
「へ? え、あ、違う。ごめん、なんでもない」
 具合が悪いのかと心配する声で我に返り、急いで中断していた食事を再開させるが、どうにも味がしない。無理矢理口に押し込んで咀嚼して、胃に押し流す作業をただ黙々と繰り返す彼に獄寺は小首を傾げたが、疑問を口に出すには至らなかった。
 弁当も残り半分を過ぎ、ラストスパートに入る。もっとも山本はとっくに食べ終えており、片付けも済ませ、若干手持ち無沙汰に頬杖をついていた。
「お?」
 その彼が不意に呟き、視線を浮かせた。
 ザザザ、と不快なノイズが教室の何処からか発生し、すぐに消えた。気付いた綱吉も一旦手を休め、音の出所を探って前方の黒板上部に視線を定めた。
 四角形の無骨なスピーカーが、一瞬の沈黙の末、今度はピーという甲高い音を奏でた。
 それもまた、じきに無くなる。そうしてやっと、電子処理された人の声がぼそぼそと聞こえ始めた。
『えー、並盛中学校のみなさん、今日もお昼休みを楽しんでいますでしょうか?』
 未だ照れが残るのか、若干辿々しい男の声が、教室に居残っていた生徒のみならず、学内にいる在校生全てに向かって語り出す。この人物の顔は知らないが名前だけは把握していて、綱吉は放送委員の三年生の問いかけに、心の中で頷いた。
 放送委員会が活動の一環として、昼の休憩時間を利用して独自に番組を作り、流しているのだ。たまにゲストを呼んでトークをしたり、学内でアンケートを取ってその結果を発表したりと、活動は多岐に渡った。
 メインで喋る生徒は大体決まっており、その知名度は風紀委員長の雲雀に次ぐものがあった。
『それじゃあ、お待ちかね。今日の一曲目は、これ!』
 ダラダラと取り留めないトークが繰り広げられた後、マイクの音が遠ざかり、替わって後ろで流れているだけだった音楽のボリュームが急に大きくなった。
 人気歌手の、二年ほど前に流行った歌が綱吉の鼓膜を打つ。良く知っているリズムに、彼の身体は勝手にスイングした。
「へー、今日はこの歌手の特集かな」
「かもな」
 張りのある歌声に聞き入り、山本が楽しげに呟く。最後のひと切れを口に入れた獄寺が相槌を打ち、残っていた牛乳を一気に飲み干した。
 スピーカーが悪いのか、それとも放送室で操作している生徒の腕が今ひとつなのか、響き渡る楽曲の音質はあまり宜しくない。だがバックミュージックとして聞き流すには充分で、綱吉も弁当箱にこびり付いていた米粒を抓み、舌に転がした。
「ご馳走様でした」
 箸を持ったまま両手を合わせ、食事を終わらせる。軽くなった弁当箱を鞄に戻す頃には、歌は二曲目に突入していた。
 食堂に食べに行っていた生徒も、半分ほど教室に帰って来ていた。残り半分はグラウンドに出て、太陽の光を浴びながら食後の運動を楽しんでいるのだろう。
 満腹だと腹を撫でた山本に笑みを零し、綱吉は廊下から戻ってきた京子に軽く手を振った。
 彼女の隣には、黒川の姿もあった。長い髪を掻き上げて背中に流し、軽やかに足音を響かせながら教室を横断して綱吉達の元に歩み寄る。
 にこやかな笑顔を浮かべる京子を見ていると、心が自然と和らいだ。
「お昼ご飯、もう食べた?」
「うん。京子ちゃんも?」
「うん、お兄ちゃんと一緒に」
 なんでも、了平が弁当を持って行くのを忘れた為に、昼休みが始まってすぐに三年生の教室に届けに行ったらしい。そうしたら何故か引き留められてしまって、彼のボクシングに対する情熱を聞かされながら、机を並べて一緒に食べて来たという。
 つき合わされた黒川はうんざりした顔をしていたが、妹である京子は慣れているのか、まるで苦に感じていない。それどころか楽しかったとまで言われてしまって、綱吉は光景を想像し、冷たい汗を流した。
 その間にもスピーカーからは音楽が流れ続ける。生徒らの雑談を邪魔しない程度のボリュームで、粛々と。
 真面目にトークに耳を傾けている人は、果たしてどれくらいいるのだろう。全校生徒の一割にも満たないのではなかろうかと、綱吉はざわめく教室を見回して思った。
「そういやさ」
 笑みを絶やさない京子との会話が一段落したのを見て、山本が間に割って入る。他人の机に肘を立てて楽な姿勢を取った彼は、小首を傾げた京子に続けて黒川に目を向け、最後に前方の黒板を顎でしゃくった。
 それは先程の授業で使われた時のままで、眺めているだけで眠くなりそうだった。
「なによ」
「いやさ。別に大した事じゃねーんだけど、この選曲って、いつも誰がしてんのかな、って」
 話を振っておきながら続きを言わない山本に痺れを切らし、黒川が短気を起こす。口を尖らせた彼女に苦笑して、山本は黒板の上にあるスピーカーを指さした。
 並盛中学校は週休二日制を採用しているので、一週間のうち学校があるのは、五日間。そのどの昼休みにも、放送委員は休まず番組を作っては流している。
 一ヶ月なら、約二十日間。委員が全部で何人いるかまでは分からないが、一ヶ月に一回の担当だったとしても、かなりの負担になるはずだ。
 自分の好きな歌ばかり流していては、簡単にネタが尽きてしまう。かといって、誰も聴いていないかもしれない学校の委員活動の為だけに、わざわざ自腹を裂いてCDを購入するのもどうか。
「あー。そういえば、そうだな」
 聞こえてくるアーティストの歌声は、毎日違う。今日のようにひとりの歌手を特集する日もあれば、様々な歌手の代表曲ばかりを集めた日もあった。
 山本の素朴な疑問に、獄寺も相槌を打った。背凭れに腕を絡めて椅子の前脚を浮かせた彼は、不安定な態勢で身を揺らし、天井を仰いだ。
 今まで気にも留めて来なかったけれど、言われてみれば確かに、そう。今初めて気付いた顔をして、綱吉は深く考えもせずに聞き流していたメロディーに小さく唸った。
「ああ、それね」
 実際は、どうなのだろう。この場に居合わせた誰も、放送委員に属していない。答えを知っている人も、当然居ないものと誰もが思った。
 しかし意外にも声があがり、全員の視線が一斉にその人に向かった。
 合計八つの眼に見詰められて、黒川はぎょっとし、顔を引きつらせた。
「ちょっと、なによ、その顔」
「いや、別に……」
 思い掛けず注目の的になってしまい、黒川は不機嫌そうに眉間に皺を寄せた。不愉快だと言わんばかりの表情に慌て、綱吉が言葉を濁して頬を掻く。山本は愛想笑いで誤魔化して、獄寺だけが早く教えろ、とせっついた。
 三者三様の男達に嘆息し、彼女は腕を組んで傍らの親友の様子を窺った。両手を胸の前で結び合わせた京子もが、教えて貰えるものと期待して、大粒の瞳をきらきら輝かせていた。
 可愛い親友の頼みとあっては、断るわけにいかない。腕を組んで溜飲を下げた彼女は、待ちくたびれている男三人を前にして、偉そうに胸を張った。
「あれね、別に良いのよ。リクエストしても」
「え、そうなの?」
 放送委員独自の選曲だけではないのだと、ごく手短に説明した彼女に、綱吉は素っ頓狂な声をあげた。
 思わず机から身を乗り出した彼に鷹揚に頷いて、彼女は右手で黒髪を掻き上げ、年齢にそぐわない妙に艶っぽい表情を作った。
「別のクラスに、放送委員の友達がいてね。私も何回か聞かれたわ」
 名前を挙げられたが、綱吉の知らない生徒だった。黒川の、小学校時代からの友人らしいその女子生徒は、どうにも持ちネタが少ないらしく、友人に流して欲しい楽曲がないか、頻繁にリサーチに来るらしい。
 まさしく、山本の言った通りだった。綱吉は感嘆の声を漏らして頷き、何も知らなかった癖に予想を的中させた親友に尊敬の眼差しを向けた。
 横で見ていた獄寺が、面白くなさそうに舌打ちする。当の山本は、獄寺に睨まれているのもまるで気にせず、勘が当たったと嬉しそうに笑った。
「へ~。じゃあ、花がリクエストした曲が流れた事もあるんだ?」
「一応ね」
 両手を叩き合わせた京子の質問に、黒川は婀娜な笑みで答えた。ただ彼女も、いつも真面目に放送を聞いているわけではないので、いつ、どの順番で流されたに関しては、詳しくなかった。
 話し込んでいるうちに、曲が切り替わる。今度はスローテンポのバラードで、アコースティックギターの音色が綱吉の耳に心地よく響いた。
「歌、か……」
「まあ、そんなわけだから。なんか面白いCDとかあったら、提供してやってよ」
 放送委員がリクエストを受け付けている事実は、意外に知られていない。少しでも友人の手助けになれば、との黒川の発言に、京子が真っ先に頷いた。
 彼女の事だから、早速明日にでもお気に入りのアーティストのアルバムを持ってくるに違いない。いったい京子は、どんな音楽を好んで聴くのだろう。好奇心を刺激され、綱吉は椅子の上でもぞもぞと身を揺らした。
 その脳裏に、ふっと湧いて浮かび、消えた姿があった。
「どうしてるかな」
 独り呟き、机の縁を押して背中を背凭れに食い込ませる。話が一段落したのを受けて、京子達は自席へ戻って行ってしまった。
 休憩時間の終わりも近付いており、山本が手早く机を戻し、獄寺もそれに続いた。ガタゴトと物が擦れ合う音が周囲に響いて、何故か落ち着かなくなった綱吉はトイレと断り、席を立った。
 同伴しようとする獄寺をやんわりと窘め、ひとり廊下に出る。残り少ない昼休みを楽しむ声があちこちから響いて、スピーカーから流れるメロディーは殆ど耳に届かなかった。

 学校が終わり、自宅に帰って、部屋のドアを開ける。中に居たリボーンに適当な事を言って彼の注意を逸らした綱吉は、鞄を置くと、制服を脱ぎもせずにフローリングに腰を落とした。
 膝立ちで這うように進み、壁際に置かれた棚に手を伸ばす。着替えも無しにゲームか、と訝しんだリボーンだったが、綱吉の注意がゲーム機本体とは別の所にあると気づき、眉を顰めた。
「どれがいいかな」
 ひとりごちる彼の声に耳を傾けつつ、ハンモックの上で身動いで、手にしていた雑誌を閉じる。黄色いおしゃぶりをひと撫でした彼は、落ちないようバランスを取りながらゆっくり起きあがった。
 床の上では綱吉が、決して整理整頓が行き届いているとは言いがたい棚を前に、なにやら考え込んでいた。雑に詰め込まれた物を幾つか引っ張り出して、端を重ねた状態でトランプのように広げていく。
 着飾った女性の写真の隣に、アニメ調のイラストが続いた。やや横長の方形はどれも薄く、平らだった。
「どうした?」
「んー? いや、ちょっとさ」
 素早くハンモックから飛び降りて、遅れて落ちてきたレオンを受け止めたリボーンが低い声で問う。綱吉は振り返りもせず曖昧な返事をして、右から順にCDジャケットを小突いていった。
 シングルもあれば、アルバムもある。ただ数は、全てを足してもさほど多くない。
「どれも微妙だな」
「それが、どうかしたのか」
「大した事じゃないよ。なんか、オススメの曲はないかなって、そういう話」
 昼休みでの会話を知らないリボーンは、そんな極端な説明をされても何の事だかさっぱり分からない。口を尖らせた赤ん坊に苦笑して、綱吉は初めて自分で買ったアルバムを手に取った。
 それは奇しくも、本日昼に流れていた、あのアーティストの物だった。
「これは、ダメだよなぁ」
 同じ歌手の曲が連日流れてはいけない、という決まりはないのだけれど、どことなく推薦しづらい。頬を掻いた彼は大人しくそれを床に置き、隣のジャケットを手に取った。
 先程の物よりも厚みが無く、持ち上げた感触も心持ち軽い。
 少し前に流行した、アニメ番組の主題歌だ。クラスの男子が何人か騒いでいて、これを知らない奴は遅れている、的な風潮が現れたので、慌てて買ったものだ。
 当然自分の好みからは大きく外れていて、買って損をした一品といえる。捨てても良いのだが、折角なけなしの小遣いを振り絞って手に入れたものなので、なかなかきっかけが掴めずにいるうちに、存在自体を忘れていた。
 綱吉はそれを顔の横で二度振り、完全に興味が尽きたのもあって、後ろに放り投げた。
 ベッドのクッションに沈んだのか、跳ね返って転がる音はしなかった。リボーンが呆れ顔をするのも無視し、意識を手元に戻した彼は、顎を撫でながら数秒間黙り込み、眉間に皺を寄せた。
「うーん」
 余程気に入った歌手でなければ、CDは買わない事にしていたのだった。先程の、流行に踊らされたものは別として。
 それ以外は、レンタルショップで借りてきて、MDに落としている。今時そんなものを、と言われそうだけれど、綱吉はパソコンを持っていないから、他に手立てがなかった。
 音楽データを多数取り込める機器も販売されているが、中学生の小遣いでは手が出ない。奈々に頼んでも、どうせ使いこなせないだろう、と言われて終わりだ。
 確かにそうかもしれないが、やる前から決めつけられるのは、正直良い気分がしない。やりとりを思い出して頬を膨らませた彼は、残るシングルCDを前に両手を振り上げ、そのまま後ろに倒れて行った。
 背中を床に沈め、天井を仰ぐ。上からぬっと影が降ってきて、何かと思う前に脳天に衝撃が来た。
「あいてっ」
「先にする事があるだろうが」
「いってえ……もう」
 さっさと着替えて、部屋を片付けて、宿題と予習復習に精を出せと、そう言われて、綱吉は渋々身を起こし、頭を撫でた。
 たんこぶにはなっていないけれど、ズキズキする。なにもいきなり蹴る事はなかろうに、とぶつぶつ愚痴を零していたら、聞こえていたリボーンに、今度は臑を蹴られてしまった。
 跳び上がらんばかりに驚き、痛がって、綱吉は涙目に彼の行動を非難した。が、黄色いおしゃぶりの赤ん坊は平然と聞き流し、肩を竦めてへっ、と鼻で笑った。
 人を小馬鹿にした表情に腹が立つが、これ以上彼に逆らっても、もっと痛い目を見るだけだと分かっている。振り上げた拳を我慢して引っ込め、綱吉は仕方なく制服の襟に手を遣り、ネクタイの結び目を解いた。
 襟の下から一気に引き抜いて、皺の寄ったそれを手で馴染ませる。
「あ」
「ん?」
「そういえば、アレ、何処やっただろ」
 その最中、ふっと脳裏を過ぎったとある記憶に、彼は不自然な声を上げた。
 すかさずリボーンが反応するが、綱吉は気付かない。慌ただしくネクタイを放り出して先程の棚の前に戻った彼は、身を屈め、散らしたCDを片っ端に捲っていった。
 しかし目当ての物が見付からないのか、頻りに首を傾げている。いったい急にどうしたのか、黒服の赤ん坊は慌てふためいている綱吉に肩を竦め、嘆息した。
「ツナ、さっきから何を探してんだ」
「そうだ、リボーンは知らない?」
 他のことに一切手をつけないで、必死になって棚の中身をひっくり返している。彼の周囲には、ゴミなのかそうでないのか分からないものが次々に積み上げられて、かなり大変な事になっていた。
 これらをもう一度棚に戻せ、と言われても、きっと出来ないだろう。そんな事を考えながら、リボーンは同じ質問を繰り返した。
「何をだ?」
 彼の目的の品が分からない以上、答えようがない。主語を端折った綱吉に顎をしゃくると、彼はちょっと間をおいて状況を理解し、言葉足らずの自分を恥じて照れ臭そうに頬を掻いた。
「だから、ええっと。俺がこの前買ってきた」
「ああ、アレなら」
 巧く説明出来ないでいる彼の言葉を皆まで聞かず、リボーンは瞬時に全てを理解し、棚とは別の方向に指を向けた。
 ベッドの上には、先程綱吉が投げたシングルCDが裏を上にして落ちていた。が、赤子の小さな手が指し示す先は、もっと上だ。
「あ、そっか」
「英語の勉強になるだとかなんだとか言って、買って来た奴だろ」
「うぐ、……そう」
 何故あれだけのヒントで分かったのか、とても気になる。だがそれを声に出す前にチクリと言われてしまい、綱吉は口をもごもごさせた。
 歌詞の意味も分からない癖に、彼が説明書すらない洋楽CDを買い込んできた時には、正直かなり呆れた。当時を思い出して溜息を吐いたリボーンを睨み、綱吉は背筋を伸ばし、ベッドによじ登った。
 壁に固定した突っ張り棚に並べた四角いケースを何枚か手に取り、表と裏を交互に見る。彼の目の前に、トランペットを構えた男性の写真や、マイクを手に目を閉じる男性の姿が次々に現れた。
「……よし」
 何かを決意したように頷き、彼はそれらを大事に抱え、床に戻った。学校から持ち帰った鞄を拾ってファスナーを引き、中身を取り出しもせずに追加で今運んできたものを押し込んでいく。
 綱吉の企みがさっぱり分からないリボーンだったが、質問する気も起きなかったのか、彼は黙って帽子の鍔を下げた。
 

 太陽は天頂に近い場所で輝き、穏やかな陽光が地表を照らしている。
 平日の昼間とあって、町を行く人の数は少ない。そんな中を堂々と、隣町の中学校の制服に身を包んだ男子がふたり、肩を並べるようにして歩いていた。
 片方は金髪で、顔に大きな傷が走っている。目つきはかなり悪く、常に視線を左右に泳がせて注意深く周囲を窺っていた。
 もうひとりは背が高く、両手をポケットに押し込んでやや前屈みの態勢を取っている。白い帽子を被って、細いフレームの眼鏡を掛けていた。
「犬、何処行くの」
「うっせー。嫌だったらついて来なくていいびょん」
 至極面倒臭そうに、眼鏡の青年が口を開く。語気に覇気はなかったが、咎められているように感じたのだろう、犬と呼ばれた青年が唾を飛ばして喚いた。
 住宅が両側に続く道に、他に人の気配はない。静まりかえった空間に響いた罵声は実に耳障りで、彼は眼鏡を押し上げると、これ見よがしに肩を竦めて溜息をついた。
 時刻は丁度昼飯時で、何処かからか良い匂いが漂う。反応した犬は、まるで本物の犬のように涎を垂らし、口からこぼれ落ちた分を袖で雑に拭い取った。
 あまりに汚らしい彼にまたも溜息を零し、青年は微かに聞こえてきた、雑音と呼ぶには少々無理がある音色に顔を上げた。
「……?」
 妙な引っかかりを覚え、首を傾げる。聞き覚えのあるメロディーかと思ったのだが、気のせいだろうか。
「ちぇっ。どっかに美味いモンでも落ちてねーかなー」
 ズボンのポケットに両手を押し込み、歩き出した犬が大声で呟く。彼の所為で折角聞こえていた音が途切れてしまって、青年は眉間に皺を寄せた。
「落ちてるもの食べたら、お腹壊すよ」
「黙れびょん。見つけても、柿ピーには分けてやんねーからな!」
 呆れ半分に言い返すと、途端に犬は牙を剥いて喧しく吼えた。喉の奥で唸り声を発して人を牽制するが、慣れている千種は全く意に介さず、面白くないと言わんばかりに肩を落とした。
 相手にして貰えないと、犬も楽しくない。彼は無表情を貫く千種に舌打ちすると、路面に向かって唾を吐いた。
「じゃーな!」
 ぞんざいに手を振って別れを告げて、荒々しい足取りで離れて行く。直後、見ず知らずの家の飼い犬にケンカを売ったか、売られたか、兎も角千種には見えない場所で吠え声の応酬が始まった。
 彼のそう言うところも、今に始まった事ではない。どうせ自分には関係ないと割り切り、千種は眼鏡を神経質に押し上げると、心を擽るスイングを探し求め、犬が立ち去ったのとは逆方向に足を向けた。
 特に理由があって、訪ねて来たのではない。
 そもそも彼はこの街に暮らす人間のうち、何人かとは面識があって、そしてとても折り合いが悪い。ばったり顔を合わせようものなら、騒動に発展するのは目に見えていた。
 が、何故か今日に限って、千種は犬が隣町に出向くのを止めなかった。いつもの駄菓子屋に立ち寄って、そこで踵を返すのが彼らの日課だったのに。
「……」
 どうかしている。自分の行動を顧みてそう結論づけた千種は、少し大きくなった音に視線を持ち上げ、眼鏡のレンズに太陽光を反射させた。
 大きな建物が見える。白壁に、広大なグラウンドを備えた施設。彼を呼び寄せた音楽は、そこから溢れ出ていた。
「並盛、中学校……」
 敷地を取り囲む壁は、高い。首を持ち上げても、その向こう側を望むのは叶わなかった。
 しかし、音に壁は関係ない。スピーカーから流れる緩やかなメロディーに乗り、年齢を感じさせない男性の瑞々しい声が周囲に響き渡った。
 彼がそこで聞いているとも知らず、綱吉は今日も暢気に弁当箱を広げ、いつもと同じメンバーと顔を向き合わせて忙しく箸を動かしていた。
 先程から始まった昼の放送に、真っ先に反応したのは獄寺だった。
「今日は、なんかいつもと違いますね」
 天気が良いので屋上で食べよう、という話になって、彼らが風紀委員の目をかいくぐって此処に来たのが五分ほど前。その頃にはもう放送は始まっていて、冒頭のトークは残念ながら聞くのは叶わなかった。
 屋上は風通しが良く、見晴らしも最高だ。開放感溢れる場所に陣取った三人は、思い思いに弁当を広げ、空に吸い込まれていくメロディーにそれぞれ耳を傾けた。
「珍しいよな、洋楽なんて」
「そ、そうだね」
 野球のボールくらいありそうなおにぎりを齧っていた山本が、指についた米粒を舐め取って呟く。その左隣に居た綱吉が相槌を打つが、何故か彼の表情は若干強張っていた。
 箸を進める速度も、心持ち遅い。妙に落ち着かない様子で視線を泳がせている彼に、山本は勘を働かせ、呵々と笑った。
「大丈夫だぜ、ツナ。英語だからって、別に和訳しろって言われてるわけじゃねーんだし」
 彼も、綱吉も、英語が苦手だ。大嫌いと言っても過言ではない。教科書を一読しただけで意味を理解してしまえる獄寺とは違って、ふたりとも、テキストを広げるところからして苦痛だった。
 楽しげに笑って言った彼に一瞬きょとんとして、綱吉はすぐに顔を綻ばせた。本当は違うのだが、彼の勘違いはある意味ありがたい。タコの形になったソーセージをつまみ上げ、足を数本齧った綱吉は大仰に頷いた。
「そうなんだけどね。でもなんか、英語って、聞くだけで緊張しちゃって」
「あー、分かる、分かる」
 普段耳慣れていないから、先生の下手な発音ですら聞いた瞬間金縛りになってしまう。何度も首を縦に振って同意しながら、山本は背筋を反らし、澄み渡る青空に見入った。
 獄寺はコロッケバーガーをもそもそと口に運びながら、暢気極まりない山本を睨んでいた。しかし綱吉の視線が自分に向いていると気付いた瞬間、パッと目を輝かせ、餌を待つ犬のように尻尾を振った。
 分かりやすすぎる彼の反応に苦笑して、綱吉はタコの頭を噛み千切った。
「獄寺君は、洋楽とか、聴いたりするの?」
 試しに話を振ってやれば、彼は力一杯頷き、今流れている曲も知っていると胸を叩いた。
 その瞬間、何故か綱吉がちょっと不満げな顔をしたが、有頂天の彼は気付かなかった。
「そう、なんだ」
「はい。にしても、今日の選択はなかなか良いッスね」
「うっ」
 嬉々として語る獄寺に、綱吉が微妙な相槌を返す。直後放たれたひと言に、彼はピクリと肩を揺らした。
 口の中にあった箸を噛んでしまって、前歯にゴリッ、と衝撃が来た。引き抜いて折れていないかどうかを確かめて安堵し、綱吉は笑顔を崩さない獄寺に、疑いの目を向けた。
「本当に、そう思う?」
「ええ」
 恐る恐る問えば、間髪入れずに彼は頷いた。
 そもそも獄寺は、海外で生まれ、海外で育った。日本にやってきたのはついこの間の事で、日本語の歌にはかなり疎い。
 彼が異国の地で聴いていた音楽は、綱吉に言わせれば全部洋楽だ。だからこういった英語の歌詞の方が、獄寺も耳に心地よいのだろう。
 久しぶりに聴いたと嘯き、彼は静かに瞼を下ろした。
「へえ……」
 獄寺の新たな一面を垣間見た気がして、綱吉はぼそり呟いた。中断していた食事を再開させながら、次々に流れていくメロディーに心を躍らせる。
 日本のポップスとはまるで毛色の違う、粛々としているようで、また時に騒がしい音楽を楽しんでいるうちに、食事はあっという間に終わってしまった。
 リズムが身体の中に流れていく。食べ物と一緒に噛み砕き、飲み込んで、それは今や綱吉の一部と化していた。
「ふふ」
 部屋で聴いているのと、こんな風に大勢に聴かせるのとでは、矢張り訳が違う。なんだか楽しくなってきて、彼は目を細めた。
 油断すると勝手に口が音階を刻む。耳から入ってくる情報だけで覚えた歌詞は、かなりいい加減だ。
「十代目も、この曲、ご存知なんですか?」
「へ? え、あ、えっと……うん」
 にも関わらずつい口ずさんでしまって、片付けの最中だった獄寺がすかさず顔を上げた。
 自分と同じ趣味の人間が身近に居て、しかもそれが敬愛する綱吉だったのが嬉しいのだろう。目をきらきら輝かせている彼に、綱吉は照れ臭そうに頭を掻いた。
「へー、ツナって、こういうの好きなんだ」
 聞いていた山本も話しに加わって来て、綱吉は弁当箱を撫で、頷いた。
 最初にこの歌手の存在を教えてくれた人の顔を思い浮かべ、はにかむ。あの日、偶々出会ったレコードショップで見た、一枚のアルバムジャケット。
 興味を引かれた。どんな歌なのか、聞いてみたくなった。
 気が付けば別の日に、手に取ってレジに持っていっていた。次の日には、有り金はたいてその店にあった残りのCDも手に入れていた。
 本人に確かめたわけではない。けれど、買おうかどうか迷っている様子は窺えた。だから、きっと彼も、この歌手が好きなのだと思った。
 彼が好きな歌手が、違う誰かに褒められると、嬉しい。まるで自分の事のように、くすぐったくてならない。
『今日のラストを飾る一曲の前に、本日のリクエスト主さんのメッセージを紹介します』
「お?」
 相好を崩した綱吉の後方から、久方ぶりにトークの声が混じる。いつもの放送委員のスピーチに、山本が目を瞬いた。
 綱吉もドキリとして、スピーカーを探して視線を泳がせた。
 校舎の壁に設置されているので、この位置からでは見えない。それを思い出すのに五秒ほど掛かって、その間にマイクの前に座った青年は、てきぱきと番組を進行させていった。
 いったい誰が、こんな素敵なリクエストを出したのだろう。獄寺も興味津々の様子で、屋上で正座までして聞く態勢を整えていた。
 あまりにも大袈裟な彼に苦笑を零し、綱吉は蒼天を仰いだ。
『二年生の、匿名希望君より。ええっと……』
 勿体ぶったような息継ぎの合間に、紙が擦れ合う音が混ざり込む。
『もし君が、この歌を聴いて、この歌の歌詞を口ずさんでくれていたら、俺は、凄く嬉しい』
 大きく息を吸って、朗々と響く声で告げられる、ことば。聞いているだけで恥ずかしくなってくる誰か宛のメッセージに、山本がひゅぅ、と口笛を吹いた。
 彼と同じように感じたのだろうか。わざとらしい咳払いの末に、放送委員が何かを誤魔化すように、声を大きくした。
『……ははは。いやあー、参ったな。これは、なんて熱烈な愛の告白なんだろうね!』
「ぶっ」
 音響スタッフのものだろうか、マイクが放送室で湧き起こった冷やかしの声を拾っている。その一方、屋上で噴き出した綱吉は、慌てて両手で口を覆って背中を丸めた。
「十代目?」
「ツナ、どうした?」
 いきなり咳き込んだ彼を心配して、笑っていた獄寺と山本が焦って手を伸ばして来た。
 不安そうに顔を覗き込まれるが、今、この状況で顔を見られるのは困る。思ってもみなかった第三者からのコメントに、彼は耳の先まで真っ赤になった。
 ゲホゲホと咳き込んで、蹲って小さくなる。そんなつもりはなかったのに、と声に出して叫びたかったが、それが出来る状況でもなかった。
 困難極める綱吉の現状を知らず、校門の外から放送を聞いていた青年は、続けて流れ始めた楽曲に右の眉を持ち上げ、肩を竦めた。
 他人には非常に分かりづらい笑顔を浮かべ、左足を軸にして身体を反転させる。ゆっくりと歩き出した彼の前方から、何処をどう彷徨って来たのか、犬が突然姿を現した。
「げっ」
「帰るよ、犬」
「うっせーびょん。柿ピーのくせに、俺に命令すんな!」
 向こうも彼に気付き、露骨に嫌そうな顔をした。それもいい加減慣れたもので、千種は盛大に溜息を吐き、右手を伸ばして黒曜町のある方角を指し示した。
 唾を吐き散らかして、犬が吠える。命令をしたつもりはないのだが、言い方が気に入らなかったらしい犬の悪態ぶりにほとほと呆れ、千種は眼鏡を押し上げ、背筋を伸ばした。
 中学校のスピーカーからは、耳に馴染んだ歌声が響いている。歌詞カードなど、最早必要ない。
「へーんだ」
 前方で犬がまだ悪態をついている。だが相手をして、構って欲しい様子が見え見えで、仕方なく千種は休めていた足を前に繰り出した。
 その間際、サビにさしかかった楽曲に、心を委ねる。
 誰にも聞こえないように囁かれた歌声は、静かに、並盛の青空に溶けていった。

2010/05/21 脱稿