橡実(後編)

 膝に綱吉を乗せ、縁側に座り直す。陽射しはとうに失せ、西の丘陵に残っていた明るさもあと僅かだった。
「ん……」
 甘えた声を零して口を尖らせると、肩を揺らした雲雀が呆れ半分にくちづけてくれた。続けて鼻の頭にも軽く触れて音を立て、蜂蜜色の髪にも顔を寄せて離れる。
 背中を撫でる手は大きくて、温かかった。
「君は僕を吸い殺す気?」
「だって」
 朝に分けてもらって以後、今まで何も口にしていなかったのだ。空腹は絶頂を迎えて、我慢が利かなかった。
 膨れ面で反論を口ずさみ、綱吉が雲雀の肩を乱暴に叩く。余裕で受け止めた雲雀は困った顔で微笑み、柔らかな色合いの髪を手櫛で梳いて整えた。
 綱吉だって、その気になれば自力で霊気の確保は可能だ。神山として名高い並盛山には、それこそ余る程に溢れている。いくら不慣れとはいえ、空腹に耐えかねたのならば、雲雀を探すよりも自分でどうにかした方がずっと早い。
 だのに綱吉は、雲雀を求めた。
 不器用な愛情表現を嬉しく思い、雲雀は表情を緩めた。
 素直に会いたかったと言えばいいのにそうしないのは、昼間の件が尾を引いているからだろう。意固地になっていたと自分を反省し、雲雀は彼の肩に顎を置き、小さな体を抱き締めた。
「おかえり」
 掠れるほどの声で囁けば、心にも響いた綱吉が直後にはにかんだ。
「ただいま」
 手を伸ばして雲雀の背を抱き締め返し、明るい声で返す。屋敷に帰り着いたのはもうずっと前だったけれど、今やっと家に帰って来た気分になって、綱吉は可笑しくて声立てて笑った。
 目尻を下げ、身体全体を使って雲雀に甘えて抱きつく。ディーノの体温も心地よかったけれど、矢張り雲雀の腕の中が一番落ち着けた。
 思い返していると伝わってしまったようで、その瞬間だけ雲雀がむっとした。顔を上げると至近距離で目が合って、拗ねている彼に相好を崩し、綱吉は伸び上がって彼の唇に触れた。
 ただ重ねるだけのくちづけを贈り、悪戯っぽく肩を竦めて距離を取る。
「ディーノさん、良い人じゃないですか」
「君に下心がある」
「でも俺は、ヒバリさんだけですから」
「知ってるけどね」
 誰に対しても等しく愛情を振り撒く綱吉だから、本人にそのつもりは無いのにそれを勘違いして近付いて来る輩も多い。山本や獄寺だけでも充分鬱陶しいのに、これ以上五月蝿い羽虫を増やしたくないのが、雲雀の本音だ。
 誰にも譲らないし、渡すつもりもない。心の中で決意を呟くと、聞こえた綱吉はまたも声を立てて笑った。
 何に対して不安になっていたのかと、昼間の自分を顧みて馬鹿らしく思えた。雲雀はこんなにも自分を好いてくれている、その思いは真っ直ぐだ。
 たとえ過去がどうであろうとも、今此処に居る彼を独占しているのは、他ならぬ自分だ。それは大きな喜びで、同時に綱吉の誇りだった。
「ヒバリさん」
「うん?」
「ヒバリさんが俺に隠し……あ、やっぱいい」
 ディーノにした質問を、今なら彼に直接ぶつけられるような気がした。けれど直前で臆してしまい、口篭もって首を振る。
 言いかけて途中で止めてしまった綱吉を怪訝に見下ろし、雲雀は俯いた彼の前髪に唇を寄せ、軽く息を吹きかけた。
「いつか、時が来たら話せることもある」
「それって、今は駄目って事ですか?」
「僕も全部が全部、覚えてるわけじゃないからね」
 前髪の隙間から目を向けた綱吉が、若干不安げにしながら問う。雲雀は肩を竦め、申し訳なさそうに言った。
 綱吉だって、産まれてから今日までの日々を、欠くことなく覚えているわけではない。下手をすれば昨日の夕餉で何が供されたかも思い出せないのだから、雲雀の言葉も頷けた。
 ただ納得はいかなくて、頬を膨らませて口を尖らせると、面白がった雲雀が小突いてきた。
 空気を吐き出し凹ませて、それでもまだ突っついてくる手を追い払う。彼の膝で体を上下に揺すると、震動を受けた雲雀の爪先が靴脱ぎ石の上でぴょん、と跳ねた。
「不満?」
「だって、俺だけ知らないのって、不公平な気がする」
 耳元で囁いて訊けば、そんな台詞が返って来た。上半身の力を抜いてしな垂れ掛かってきた彼の後ろ髪を擽りながら、雲雀は率直な意見に笑みを零し、目を閉じた。
「君しか知らないことだって、沢山あるのに」
 綱吉と共に過ごした時間は、雲雀以外は綱吉しか知らない。ひとつとして誰にも教えたくない、大切な記憶だ。
 唄うように呟き、綱吉の肩を強く抱き締める。温かなものが胸に押し寄せてくるのを感じて、綱吉は一寸だけ泣きたくなった。
 こんなにも自分は、彼に愛おしまれている。我が儘も沢山言って、困らせてばかりだというのに、昔から一貫して変わらない愛情を注いでくれる彼に、切なくなった。
 拘っている自分が小さく思えて、哀しくなった。
「ヒバリさん」
「ん?」
「好き」
「知ってる」
「でも言いたかったの」
 過去何百回、何千回、何億回と口ずさんだ思いを声に出して、彼に笑われる。今更改めて確認するまでもない感情だと分かっていても、言わなければならないような気がした。
「好き。大好き」
「うん。僕も」
 真っ直ぐに彼を見詰め、ありったけの思いをぶつけて告げる。彼は今度こそちゃんと聞いて受け止めて、頷いてくれた。
 嬉しくて、照れ臭くて、綱吉が首を竦めて笑う。くすくす言っていると雲雀が耳朶を擽って来て、払い退けた彼は雲雀の右頬に微かな傷があるのに気づいて眉根を寄せた。
 近くから見ないと分からないくらいに薄らと、赤い筋が走っている。綱吉の表情が険しくなったのを見て、雲雀は嗚呼、と左手で顔を撫でた。
「昼にね」
 薪を拾い集めている時に枝で擦ったのだと言い訳をして、雲雀は傷跡を隠した。けれど寸前、彼の心の中をリボーンの姿が流れていった。
 盗み見てしまった綱吉は目を見張り、表情の変化を悟られまいとしてすぐさま下を向いた。が、雲雀には動揺がつぶさに伝わってしまう。彼もまた、自分の失態に気付いて首を横に振った。
 向き合ったまま黙り込んで、綱吉の手が先に動いた。雲雀の衿を掴んで引っ張り、その少し右側に額を押し当てる。
 俯いたままの彼の肩を抱いて、雲雀は闇が濃くなった空に嘆息した。
「大した傷じゃない」
「それは分かってますけど、どうして」
 雲雀の力をもってすれば、四肢を粉砕されても再生が可能だ。頬のかすり傷も明日には綺麗さっぱり消え失せて、跡形も残らないだろう。
 しかし重要なのはそこではない。何故意味もなくリボーンが、雲雀を襲ったのか。
 先ほど顔を合わせた時、あの赤子は普段となんら変わるところがなかった。飄々として人を食ったような事ばかり言って、嘲笑って楽しんでいた。
 下手をすれば、もっと大きな怪我をしていた。凄まじい熱量に巻かれて木っ端微塵に砕け散る雲雀の姿を想像して吐き気に襲われ、身を縮こませた綱吉の頭を撫でて、雲雀は苦笑した。
「大丈夫だよ」
「でも、当たり所が悪かったら」
「そこまで無能じゃない」
 雲雀は、視得ないのだ。綱吉が傍にいないと、妖や魔の類の所在を把握できない。裏を返せばリボーンやディーノさえも、視覚化が解かれたら雲雀の目には映らない。
 そんな彼にとって、リボーンの攻撃は脅威だ。
 あの赤子が知らないわけがないのに、何を考えているのだろう。今回はこの程度の傷で済んだが、この先も繰り返されるかもしれないと思うと、背筋が震えた。
 同時に腸が煮え繰り返るほどの怒りが湧いて、綱吉は奥歯を軋ませて唇を噛み締めた。
「ヒバリさんは、なんで怒らないんですか」
「多分だけど、ね」
 そして平静でいる雲雀にも苛立ち、語気を荒くして怒鳴る。眦を裂いた綱吉に肩を竦め、雲雀はこめかみに指を置いて遠くを見た。
「君が蛤蜊家を継げば、君の周囲は今よりもっと騒がしくなるだろうから」
「……」
「視得ないままで僕がどれだけやれるのか、試したかったのもあるんじゃないかな」
 本音は違うところにあったが、そこには蓋をして鍵を掛け、綱吉に悟られないように巧妙に隠す。それらしい方便を口にして落ち着くよう促し、肩を二度、三度軽く叩けば、綱吉は一定の理解を示したものの、不満をありありと表に出して口を尖らせた。
 雲雀の衿を握る手に力を込めて、数秒間黙り込んだ末に指を解く。だらりと両脇に垂れ下げて、綱吉は顔だけを雲雀の胸に預けた。
「綱吉?」
「俺、……いかないもん」
 ぐりぐりと肌を擦りつけて来る彼に巻き込まれた雲雀の衿が、自然と左右に広がっていく。摩擦でくすぐったくてならず、両肩に手を置いて引き剥がそうとしたら、ぽつりと囁かれた声が雲雀の胸を打った。
 落ち込んで拗ねた子供の声に、彼は困った風に眉を下げた。
「綱吉」
「だって。俺、ずっと此処に居る。居たい」
 生まれ育った並盛から離れてまで、蛤蜊家に移りたいとは思わない。権力にも、財力にも興味はないし、欲しくもない。
 里での生活は確かに厳しいし、大変で、辛いことも多いけれど、此処には綱吉の仲間が大勢居る。彼らと共に笑い、泣き、時に理不尽な世の中への怒りを共有して、心豊かに過ごせたら、それだけで構わない。
 雲雀と離れたくない。母をひとり残して行くなど、出来ない。
 ぐるぐると渦を巻く思考を読み取って、雲雀は跳ね放題の髪の毛をぽんぽん、と叩いた。
 綱吉の言葉は、飾らない本心だ。蛤蜊家に対する嫌悪も同時に感じられて、雲雀は言葉を選んで薄墨色の空を仰いだ。
 夕餉の準備も整ったのだろう、奈々の呼ぶ声がする。綱吉も聞こえているだろうに返事をせず、彼は唇を噛んで雲雀にしがみ付いた。
 無理に引き剥がそうとしたら、綱吉は益々意固地になるだろう。結果は楽に想像出来て、雲雀はどうしたものかと心の中だけで嘆息した。
「行かない。行きたくない。なんで、俺なんだよ。他にいっぱい、もっと凄い人がいるじゃないか」
 蛤蜊家と沢田家の繋がりは、表向きは殆ど無い。綱吉が本家に出向いたのも、今年の春先が初めてであり、以後それきりだ。
 前知識も殆どないままに訪れ、その伏魔殿ぶりに恐れを抱き、感情的になっているとも言い換えられる。あそこに巣食う老獪たちの、値踏みするような視線が余程嫌だったらしい。
 不快感だけが頭に残り、剥がれない。その地を訪れる前までは、多少なりとも本家に好意的な印象を抱いていたようだったので、裏切られたという気持ちも幾らか働いているはずだ。
 あんなところだとは思わなかった。
 率直な綱吉のあけすけな感想を思い返して、雲雀は指にまとわりついてくる薄茶の髪を丁寧に梳いてやった。
「やりたいって言ってる人は、いっぱいいるんだから。その人たちにやってもらえばいいんだ。俺じゃなくても、いいんだ。どうして、なんで」
「それは、君を指名した人に聞いてみるしかないね」
 病床に伏す九代目の決定を覆すのは、容易ではない。恨み言を繰り返す綱吉に相槌を打ち、雲雀は雲の切れ間で瞬く星を数えた。
 簡潔極まりない彼の言葉に綱吉は絶句して、雲雀の帯を握る指を解いた。ゆるりと身を揺すって起き上がり、涙で潤む瞳に彼の姿を映し出す。
 緩慢に笑う彼に向かって首を振り、綱吉は居心地の悪さを覚えて目尻を擦った。
「なんで、そんなこと、言うんですか」
「なら、聞くよ。綱吉」
 切れ切れに言葉を発して、しゃくりをあげて涙を堪える。頬を赤く染めて項垂れた彼に静かに問いかけ、雲雀は細い肩をそっと引き寄せた。
 逆らわずに従い、彼の腕の中に戻った綱吉の呼吸が安定するのを待って、雲雀は傍に転がる小刀と、それで削っていたものを一緒くたに視界に収めた。
「どうして君は、今、迷ってる?」
「っ!」
 綱吉は蛤蜊家本家には行かないと言う。継ぎたくない、と繰り返す。他の誰かがやればいいと、そう言う。
 だが、具体的な人名は、彼の口からはひとつも挙がってこなかった。
 十代目に近いと目されていた有力者に関しての知識が乏しい表れでもあるが、ひとりやふたりならば、山本達の話を聞いて知っていたはずだ。その人となりと、考え方や方針についても、リボーンから多少の知識を与えられていた筈だ。
 絶句し、上げかけた顔を直ぐに伏した綱吉は奥歯を噛み締め、意地の悪い雲雀の胸を叩いた。
「そんな事、ない」
 反論するが、語気は弱い。図星を差されての動揺がはっきりと表に現れていた。
 迷っている、と言われたら、確かにその通りだった。
「そんな事、ない」
 同じ言葉を繰り返し声に出した綱吉だけれど、音量は先ほどよりもずっと小さく、蚊の鳴くほどにしかならなかった。
 胸倉から腰まで滑り落ちた彼の手を取り、握り締めた雲雀がそこに頬を寄せる。肌に直接触れる温もりや鼓動が殊の外優しくて、綱吉はこみ上げる涙を堪えきれず、ひと粒零した。
 鼻を啜る音を聞き、もう片手で綱吉の髪を梳いてやりながら、雲雀はふたりを探して様子を見に来た奈々にそっと目配せした。
 軽い会釈を受け、彼女は大まかの事情を察して頷いた。肩の辺りで手を振り、人差し指を唇に押し当てて何も言わずに居間の方に消えていく。
 聡い彼女に向けて、心の中でもう一度感謝の言葉を述べて、雲雀はすっかり暗さを増した南の空に溜息を零した。
 日が沈んで後、夜闇が押し寄せるまでの時間はとても短い。冬至までの残り日数を数え、険しくなるだろう寒さを想像して僅かに身震いし、雲雀は温かな綱吉の額にそっとくちづけた。
 唇の隙間に潜り込んだ髪の毛を軽く食んで舌で押し返し、綱吉が顔を上げるのに合わせて前屈みだった姿勢を戻して背筋を伸ばす。それでも尚近い場所にある彼の顔を見上げて、綱吉は緩慢な笑みを浮かべた。
 恥ずかしそうに目尻を擦って涙を拭い、呼吸を整えて波打っている心臓を宥め落ち着かせる。
「昼に、ディーノさんと喋ってて、思ったんだ」
 少し赤くなっている目の下に指をやり、痛くないように撫でてやった雲雀が、その名にぴくりと反応して右の眉を持ち上げた。はっきりと分かる表情の変化に肩を竦め、綱吉はやり取りを思い出そうとしてか、半眼した。
「あの人の前でも泣いたの?」
「え?」
 だけれど思考を纏めようとしている最中で話しかけられて、折角整い始めた筋道が一気に弾けてしまった。目を丸くした綱吉は、琥珀の瞳を細めて不機嫌にしている雲雀を見詰め、ややしてから小さく舌を出した。
「ちょっとだけですよ」
「君の泣き顔を見て良いのは、僕だけなんだから」
 ぶっきら棒に言った雲雀の顔が、周囲の暗さの所為であまりよく見えない。それを少し残念に思いながら、綱吉は遠ざかろうとした彼の手を捕まえ、握り締めた。
「俺の全部は、ヒバリさんのものです」
「綱吉」
「それでね、話を聞いて、思ったんだ」
 さりげなく思いの丈を告白し、雲雀が何かを言う前にすぐさま話題を元に戻す。努めて明るく、元気の良い声を絞り出した彼の気持ちを汲み、雲雀は黙って耳を傾けた。
 身じろいだ綱吉は、後ろに下がろうとして現在地が雲雀の膝の上だというのを思い出し、慌てて両手を跳ね上げて彼の肩にしがみ付いた。
 ほっと安堵の息を吐いて、瞬きもせずに見詰めてくる雲雀の視線に気まずそうに腰をくねらせる。降りたいのかと思って彼を抱えようとした雲雀だったが、どうやら違ったようで、すぐさま抵抗として抱きつく力が強められた。
「綱吉?」
「蛤蜊家を作ったのは、初代で。ディーノさんも、手伝ったって」
「うん?」
「ヒバリさん、も……だよね」
 背中に両手を遣り、雲雀の肩口に顎を置いて開け放たれた座敷を見詰めながら、綱吉が呟く。落ちないよう支えてやるべく細腰に腕を回そうとしていた雲雀は、耳元で響いた彼の声に動きを止めた。
 痙攣を起こした指先が空を掻き、掴むものを求めて綱吉の帯に行き当たった。
「そう、……だろうね」
「ヒバリさん」
「言っただろう」
 曖昧な返事で答えを誤魔化そうとしていると勘繰り、綱吉の語気が荒くなる。鼻を膨らませて不満を表明した愛し子に苦笑して、雲雀は彼の背中を撫でながら首を振った。
 黒髪が肌を擦り、耳元で微かに音がする。さらさらと流れて行く毛色は、空を覆う闇よりももっと深く、鮮やかだった。
 過去の、初代と共に過ごした時間の記憶は、今現在の雲雀にも引き継がれている。かといって、その全容を覚えているわけではない。先にも綱吉に説明した通り、それは所々で途切れて、非常にあやふやなものだ。
 そうだったかもしれない、としか雲雀には言えない。所詮それらは、彼にとっては他人の思い出だ。ディーノほどにつぶさに、鮮明に覚えているわけではない。
 詳しく思い出そうとしても、壁に行き当たってそこから先に進めない事もある。なにより、自分の記憶に重なる形で思い出したりすると、本当の、今この時間に存在している雲雀恭弥すらも見失ってしまいかねない。
 だから意識して思い出さないようにして、極力関わらないようにしている。不意に脳裏を過ぎるものに関しては仕方が無いと諦めるより他無いが、それ以外は本当に、余程強く望まない限り、覗き見る真似はしないよう心がけている。
「あまり、ね。気分も宜しくないからね」
「そう、……かな」
「君は、自分じゃない他の誰かに、僕との思い出を覗き見られたい?」
「あ、それは嫌」
 訊かれて、綱吉はきっぱりと断言して頷いた。
 確かに心の中を覗かれるのは、快いものではない――雲雀だけは別だけれど。
「でも、そうだね。傍に居たのなら、協力は惜しまなかったと思うよ」
 話の流れを元に戻し、雲雀が暗闇に目を凝らして呟く。彼の瞳が映している光景を想像して、綱吉は頭を垂れた。
 彼の肩に寄りかかり、二度、三度、心を鎮めるべく深呼吸を繰り返す。緊張で次第に強まる脈動を出来る限り平常値に押し戻して、彼は意を決して顔を上げた。
 動きに気付いた雲雀が柱に右肩を預け、斜めから綱吉の顔を覗き込んだ。
「あの」
「うん」
 言おうとして、言葉が途切れてしまう。相槌を返し、続きを促した雲雀の黒い瞳を見詰め、綱吉は喉まで出掛かっている言葉に躊躇した。
 ディーノは言った。皆で力を出し合い、助け合った結果誕生した蛤蜊家は、自分たちの子供のようなものだ、と。ならば当時其処に居た、嘗ての雲雀にとっても、同じ事が言えるはずだ。
 初代の高い志は、耳にしている。その上で現状の蛤蜊家を思い返すと、ただただ、哀しくて仕方が無い。
「ヒバリさんは、今の本家を、どう」
「どうとも」
「……?」
「君の感じている本家が、今の僕にとっての本家だから。君が嫌いだというのなら、嫌いだよ」
「なんか、ずるいな。それ」
 高い霊力を持って産まれてきたが為だけに、その他大勢と違うからと不当な弾圧を受ける人々を救おうとして、初代は蛤蜊家を作り上げた。本来は多くの者達に門戸を開き、迫害されている人々を平等に受け入れるのが、彼の組織のあるべき姿だった。
 だが現実はどうだ。時が経つに連れて初代の思いは否定され、打ち砕かれ、今となってはただの強欲の権化だ。
 人の意見に判断を委ね、任せてしまっている雲雀に若干の反感を抱き、綱吉は肩を落として小声で言った。聞こえた雲雀は淡く微笑み、まだ赤い彼の頬を指の背で擽った。
「僕がどうこう出来ることじゃないからね」
 雲雀は、本家には属していない。彼は未だ一人前の退魔師として認められていないからだ。
 外から意見を言ったところで、中まで浸透するとは言い切れない。小童の戯言と笑い飛ばされ、真面目に受け止めてもらえないのが常だろう。
 彼が本家をどう思おうが、本家は知ったことではない。嫌われようが、好かれようが、あの巨大な組織は痛くも痒くも無い。
「ただ、九代目の人となりはある程度聞いている。とても思慮深く、この状況を愁いでいたと」
「……」
 九代目は蛤蜊家の当主を継いだ後、組織の抜本的改革を試みようとして、失敗している。当主の権限は強いが、周囲の反発が強固なれば、行動のすべては簡単に封じ込められてしまう。
 雲雀の手が綱吉の背中を何度も往復する。上から下へ、そしてまた上へ。眠くなる心地よい感触に瞼を半分閉ざし、綱吉は会ったことも無い人を思った。
 その九代目には、息子がひとり居た。実力者揃いの覇裏鴉を統率し、十代目に最も近い人物と目されていた。
 だが、その彼ももう居ない。数年前に行方不明となり、生きているのかそうでないのかも、まるで情報がつかめていないという。
 綱吉はその男の代わりに選ばれた。運命の悪戯を感じながら、彼は雲雀の鎖骨に鼻筋を埋め、いっぱいに匂いを嗅いで心を落ち着かせた。
「ヒバリさんは、俺が十代目になったら、……嬉しい?」
 恐る恐る問いかけて、反応を窺って息を止める。固唾を飲んで返事を待っている彼の背をなぞりながら、雲雀は苦笑した。
「嫌なら、ならなくてもいいよ」
「嫌だよ」
 無理強いされてやるものではない。言外にそう告げて視線を伏した雲雀にきっぱり言い切って、綱吉は彼を押し返した。
 身を起こし、雲雀の膝に座り直して強い眼差しで彼を射る。臆しもせずに受け止めた雲雀が微笑むので、綱吉はそれ以上反論する気も失せて肩を落とした。
「いや、なのにな」
「綱吉」
「十代目になんかなりたくない。だけど、このままなのも、嫌なんだ」
 常々、自分は我が儘だと思う。ぼそっと呟いた彼の項に指を遣り、雲雀は俯いている綱吉を胸元に引き寄せた。
「何が嫌?」
「本家が」
 あそこには、獄寺を良いように使い捨てにして、綱吉を謀殺しようとした輩がいる。
 血族外から退魔師になった山本は、本家で謂われない迫害を受けた。
 骸たちだって、霊力があるというだけで周囲から蔑まれ、真っ当な生活を送れなかった。彼らにもちゃんとした居場所があったなら、あんな風に退魔師を怨み、呪い、馬鹿な真似に走ることもなかっただろうに。
 綱吉は幼い頃からリボーンや家光に、退魔師のあるべき形を教わってきた。
 自分たちの力は、決して特別なものではない。神々が困っている人々を助ける為に、少しだけ力を貸し与えてくださっただけなのだ、と。
 奢ってはならない。私欲の為に使ってはならない。私闘の為に用いてもならない。ただ慎ましやかにあれ、と。
 ところが、今の本家はどうだろう。彼らこそ、あるべき姿を見失ってはいないだろうか。
 初代の思いを忘れてしまった蛤蜊家は、最早蛤蜊家ではない。そう思うのに、思うだけでは何も変わらない。
 変えられない。
「今の蛤蜊家は、いやだ」
 本家は綱吉を守ってくれない。獄寺や山本たちの味方でもない。骸と一緒だった千種や犬達のような境遇の人間にとっての、心安らげる場所にはなり得ない。
 決断の時は迫っている。次の春が来る前に、綱吉は本家に出向くか否かを自分で決めなければいけない。
 あの魔窟に再び足を踏み入れるのかと思うと、考えるだけで身の毛がよだち、震えが止まらなくなってしまう。並盛での温かな生活を投げ捨ててまで、飛び込んでいくだけの価値があるとは、どうしても思えない。
 指名を受けたばかりの頃は、何故自分がと、そればかりを考えた。実感が沸かず、なにかの間違いであり、そのうちこの話はなかったこととして立ち消えるのではないかと、淡い期待さえ抱いていた。
 時が過ぎるにつれて、周囲が騒がしくなるに連れて、自分の置かれた状況が理解出来るようになった。
 本家に入る気は毛頭ない。雲雀と離れるつもりは一切無い。その反面、現状を知り、初代の思いを知った今、自分には関係ないからと傍観者を気取って黙って遠くから眺めている事も出来なかった。
 相反する感情を抱え、右に左に揺れて、定まらない。あれもこれもと欲張りに手を伸ばしすぎて、にっちもさっちも行かなくなってしまっている。
 ぐるぐると同じ場所を何十、何百回と巡っている綱吉の心を慰め、雲雀は彼のこめかみにそっとくちづけた。
「俺は、……並盛を離れたくない」
「うん」
「でも、放っておけない。このままじゃ、誰も幸せになんか、なれっこない」
「うん」
 整理のつかない思いを声に出して呟き、綱吉は雲雀の肩に額を押し当てた。目頭が熱くなるのを止められず、けれどこれ以上みっともなく泣きたくなくて、彼の衿に水分を吸わせて荒く息を吐いた。
 小刻みに震えている彼の頭を撫で、雲雀は左手を斜め後ろに伸ばした。
「綱吉」
 囁くように名前を呼び、顔を上げるよう促して、其処にあったものを握り締める。潰さないように注意しながら引き寄せて、綱吉がのろのろと起き上がるのを待ち、見えやすい高さまで持ち上げてやった。
 こげ茶色の、笠を被った団栗だった。
「……?」
 意味が分からなくて小首を傾げ、綱吉は睫に残っていた涙を瞬きで弾き飛ばした。
 肩を押されて降りるよう言われ、渋々従って縁側に座る。幾ら軽いとは言え、綱吉にも体重はある。長時間座られていた所為で痺れた太腿を叩き、雲雀は小刀も拾って傍に移動させた。
 団栗の他には、細く削られた木の枝が二本。うち一本は既に加工が終了しているようで、細長い棒の片側が、団栗の胴を貫いていた。
「ヒバリさん」
「昼に沢山拾ってね。ちょっと待って」
 直ぐに終わらせるからと顔も見ずに返事をして、雲雀は小刀でもう一本あった枝を器用に削っていった。表面に棘が出ないように丁寧に、途中で折れてしまわないように注意しながら、箸よりもずっと細く。
 最後に両端を鋭く尖らせ、団栗の腹に突き刺した。
 簡単に抜けないように奥深くまで貫き、具合を確かめて一旦手を休める。何を作っているのか興味津々の綱吉は、もうひとつ出て来た団栗に目を瞬かせた。
 串で貫かれたものよりも、ひと回り大きい。雲雀はその団栗に、出来上がった串の反対側をそれぞれ押し付けた。
「ああ」
「手、出して」
 完成形が見えてきて、綱吉は得心した様子で頷いた。雲雀に言われるまでもなく、利き手の人差し指を彼に向かって差し出す。
 指紋の渦巻き模様の中心で、団栗が不安定に揺れながらも堂々と立ち上がった。
「弥次郎兵衛」
 左右に伸びる串の先で、二個の団栗が中央を支えている。そのお陰で、軽く小突いた程度では倒れない。
 後で顔でも描いてやろう。そんな事を考えて、綱吉は顔を綻ばせた。
「そっか。ヒバリさん、これを探してたんだ」
「なに?」
「なかなか見付からないから」
 団栗を繋ぐ串に加工するのに適した枝を探して、あちこちを転々としていたらしい。雲雀の行動の意味がやっと分かって、綱吉は胸のつかえがひとつ取れたと肩を竦めて笑った。
 指の上でぎりぎりの体勢で踏み止まっている弥次郎兵衛を小突き、目を細める。そんな綱吉を見詰めて、雲雀は膝の上に散った木屑を払い落とすべく、縁側から立ち上がった。
 沓脱ぎ石の上で背筋を伸ばし、ついでに両腕も高く掲げて首を振る。斜めに座っていた綱吉は、弥次郎兵衛を落とさないよう注意しながら視線を持ち上げ、彼の後姿に見入った。
「ヒバリさん」
「たとえ無関係に思えることだって、どこかしらで繋がってる」
「?」
「繋がって、そうと知らずに互いに支えあいながら、世界は動いている」
 振り返って呟き、雲雀は膝を折って縁側に戻った。
 串の先にしがみ付いている団栗を指で弾けば、弥次郎兵衛全体が揺れる。しかし反対側の団栗が振り子になって震動を相殺し、真ん中の団栗が倒れ伏すのを防いだ。
 上を見て、そして己の手元を見た綱吉が、何か言おうとした口を寸前で閉ざした。
「あ」
「どれかひとつでも欠ければ、こうなる」
 そんな彼の前で、雲雀が串に突き刺さっていた団栗を引き抜いた。途端に片方だけが重くなり、弥次郎兵衛は綱吉の手から滑り落ちて床に沈んだ。
 コン、と軽い音を立てて横倒しになったそれを視界の端に置き、雲雀は穴の開いた団栗を手の中で転がした。
 今の蛤蜊家も、一方だけに力が偏り、不安定に傾いている状態だ。このまま放っておけば、いずれ自身の重みに潰されて、瓦解するだろう。
 閉鎖的な組織は内に目が向きがちで、外をまるで気にかけない。自滅への道を突き進もうとしているのに、蛤蜊家の老獪は己の私欲に固執して、現状を正しく理解しようという姿勢を失っている。
 自分ひとりの力では出来なかった事を綱吉に遣らせようとしているのだとしたら、九代目は余程の博打打ちだ。
「君はどうしたい?」
 雲雀から団栗を受け取り、綱吉は空っぽの穴に串の先を押し込んだ。簡単に外れないようしっかりと奥まで差し込んで、真ん中の団栗に人差し指を添える。
 再び凛として立ち上がった弥次郎兵衛に目を細め、綱吉は遠くを見詰めた。
「九代目に、会ってみたい」
「それで?」
「話がしたい」
 何故自分なのか。本当に自分でいいのか。
 並盛を離れる気が皆目無い綱吉は、きっと本家の人間が望むような後継者にはなれない。それでも構わないのかどうかを、直接会って問い質したい。
「俺だって、ディーノさんや、ヒバリさんが守って来たもの、守りたい」
 仲間はずれは嫌だと言って、彼は悪戯っぽく笑って舌を出した。
 思いがけないひと言に雲雀は面食らい、切れ長の目を丸くした後、はにかんだ。
「馬鹿な子」
「そうですよ」
 飾らない感想に肩を揺らして頷いて、綱吉は彼との距離を詰めた。隙間がないくらいにぴったりと寄り添って、夜風の冷たさを耐える。
「ヒバリさん」
 逞しい腕に腕を絡めて名を呼ぶと、彼は一呼吸置いてから振り返った。
「いるよ。ずっと君と一緒に」
「うん」
「君の進む道が、僕の歩く道だ」
 朗々と響く声で告げて、力強く頷く。
 雲雀の眼にはどんな未来が見えているのだろう。心の中で思い巡らせ、綱吉はくちづけを強請り、目を閉じた。

2010/04/25 脱稿