青嵐ける

 其処で足を止めたのは、ただの偶然だった。
 右足の靴紐が解けてしまった。このままでは歩く最中に踏んで、下手をすれば転んでしまいかねない。だから人の流れが途切れた頃合を見計らって、歩道の端に寄って膝を折って身を屈めた。四つ足で並走していた猫が行き過ぎかけて、慌ててUターンして戻って来た。
 黒ずんだ紐を蝶々結びにして具合を確かめ、立ち上がる。興味深そうに動向を見守っていた斑に苦笑して、夏目は右脇に抱えていた紙袋を左手に持ち替えた。
 清々しい陽光が地上を遍く照らしている。気温は上昇傾向にあり、まだ春だというのに汗ばむ陽気だった。
 黄土色の薄い紙袋を庇代わりに掲げて陽射しを遮り、彼は緩く首を振って爪先で地面を叩いた。
 コンクリートの感触を靴底越しに受け止めて、斑に合図を送る。早々に歩き出した巨大な猫を追いかけ、夏目は商店街の一画を通り抜けようとした。
「ぬ?」
 ところが歩みは直ぐに止まって、彼を置き去りにした斑が三メートルほど距離を置いて振り返った。
 右に並ぶ商店のひとつに見入り、夏目は惚けた顔をしていた。
「夏目?」
 周囲に人の姿が無いのを素早く確かめ、猫の姿を借りた妖怪が彼の元へ舞い戻る。短い前足で脛を小突くが、反応は芳しくなかった。
 いったい何に気を取られているのかと、おやつが待っている家路を急ぎたい斑は不機嫌に店舗に目を向けた。
 そこは、花屋だった。
「まったく」
 おいしそうな食べ物屋だったなら大歓迎というところだが、生憎と此処には食用の花は売っていない。どれも観賞用で、中には多少なりとも毒性を持つ物も含まれている。
 赤や黄色、そして緑色が溢れる店構えに舌打ちし、斑はもう一度、動かない夏目の足を叩いた。
「あっ」
 それでやっと我に返った夏目が、短い声を出してビクリと身体を震わせた。
 急ぎ俯いて足元を覗き込み、規格外サイズの真ん丸い猫を見て微笑んだ。
「ごめん、先生」
 頬を緩めた彼に踏ん反り返り、斑は藤原の家に続く道に尻尾を振った。
 早く帰りたいのだろう、そういう雰囲気が言葉を介さずとも伝わって来た。傍らを通り過ぎる人が、猫と会話するように見詰めあう夏目に目を細めて去っていく。彼ら一般人には、猫と戯れる男子高校生の図にしか見えないはずだ。
 この、バスケットボールがふたつくっついたような体型の猫が、実は数百年を生きる妖怪の仮初の姿だと言って、どれだけの人が信じるだろうか。
 夏目は昔から変なものが視得た。それが世間では妖怪と呼ばれる代物で、大勢の人たちの目には見えないものだと理解するのには、かなりの時間と、労力が必要だった。
 自分には当たり前の世界が、他の人にとってはそうではない。本当に此処にいるのだとどれだけ訴えても、周囲の大人たちは全く耳を貸そうとしなかった。
 嘘つき呼ばわりされて、厄介者として扱われた。
 実の親は、とうに亡い。優しい人たちだったと聞いてはいるけれど、両親亡き後に面倒を見てくれた親戚一同は、その優しい両親と血が繋がっているとは思えない連中ばかりだった。
 成長するにつれて自分の立場も段々と理解出来て、世界には人間と、そうでないものとが共生しているのだと気がついた。
 だが、だからといって、それでどうなるのだろう。気付いたところで、区別は出来ない。人とかけ離れた姿かたちをしている妖怪は多いが、そうでない連中もそれなりの数に登る。妖怪を当たり前のように視られる夏目にとって、其れどちらなのかを瞬時に判断するのは難しかった。
 だから、言わなくなった。区別がつかないのであれば、つくまで黙っておくことにした。
 結果、彼は愛想が悪い、無口でつまらない人間だという評価が下された。心から笑えるようになったのは、つい最近のことだ。
「夏目?」
 足音が遠ざかり、人気は失せた。人の言葉を発した猫に曖昧に微笑みかけ、夏目は視線を浮かせた。
 見詰める先にある花屋に一歩近付き、身を屈める。滋から頼まれた雑誌を片手に中腰になった彼は、隙間がないくらいに並べられた鉢植えに感嘆の息を漏らした。
 食べられないものに興味は無い斑だったが、夏目があまりにも熱心に見入るものだからと、偏屈に眉を顰めつつ同じものに顔を向けた。
「なんだ、これは」
「カーネーション」
 低い声で問えば、高い位置から返答があった。
 首を上向けた斑だったが、声の主は前方に注目しており、視線は絡まなかった。
 カタカナ言葉に縁遠い斑はピンと来ないようで、怪訝にしながら赤い花に焦点を戻した。
 ギザギザのある赤い花びらが何枚も重なり合って、優雅に微笑んでいる。まだ蕾のものも多いが、先端から綻び始めているので、そう日が経たずにこちらも咲くだろう。
 小さな鉢植えに、十個近い蕾がある。これらが一斉に咲き誇る姿を想像して、夏目は目尻を下げた。
 店には他にも色々な花が売られていたが、中でもカーネーションの数は群を抜いていた。どうしてかと考えて、直ぐに答えに行き当たり、彼は嗚呼、と頷いた。
「そうか、母の日なんだ」
 五月の第二日曜日、即ち今日は母の日だ。
 これまでは馴染みなく、無縁と言っても過言ではなかったイベントだ。背筋を伸ばして足の裏全体に体重を分配し、彼は感慨深げに呟いて、空いた手で喉の辺りを撫でた。
 鉢植えの他に、カスミソウを織り交ぜた花束もあった。こちらのカーネーションは蕾が少なめで、既に咲いているものが中心だった。
「ほう?」
 彼の独白を拾った斑が、若干声のトーンを上げた。それは何か、と説明を求める眼差しを感じて、夏目は腕を下ろし、はにかんだ。
「簡単に言えば、母親に感謝してカーネーションを贈る日、かな」
「なんだそれは」
「そういう日なんだよ」
 端的な説明に斑は顔を顰めた。が、他にどう言えば良いか分からなかった夏目は無理矢理に説明を終わらせて、右手を腰に据えた。
 鉢植えのサイズは手の平大から、立派なものまで色々あった。サイズが大きくなるに従って、値段もあがっていく。一番安いのは、一輪だけにリボンを結んだものだった。
 スタンダードな赤色だけでなく、淡いピンク色のものもあった。これまで深く気にも留めてこなかったけれど、カーネーションひとつにとっても、随分と色のバリエーションが多い。
 知らなかったと嘯いて、夏目は花を買いに来た女性に道を譲った。
 夏目は実母の顔を覚えていない。腕に抱かれた記憶も、殆ど残っていなかった。
 空っぽの手を広げて見詰めて、ぎゅっと握り締める。これまではそれを不思議に思うこともなかったし、いないのが当たり前だったから、哀しいと思いさえしなかった。
「……」
 短く息を吐き、彼は拳を解いて胸に押し当てた。
「どうした」
「いや」
 一瞬目に留まった白色に、彼は唇を噛んだ。夏目の様子が変わったのを敏感に受け止めた斑が訊いたが、彼は首を振って返すだけで終わらせた。
 人よりもずっと長い歳月を生きる妖怪は小さく嘆息して、次の質問を諦めた。
 鉢植えを飾る赤は鮮やか過ぎて、却ってどこか毒々しかった。血の池に沈むなにかを想起させて、ボール大の猫は狭い額に皺を寄せた。
 買い物を済ませた女性を見送る形で、エプロンをした店員もがドアを潜り、外に出て来た。目が合って、夏目は軽く会釈を返し、花を吟味しているように装って膝に手を添えた。
「ちょっと、ごめんなさいね」
 呼びかけられて、ハッとして顔を上げる。いつの間にか店員が如雨露を片手にしていて、彼は慌てて摺り足で後退した。
 踏まれかけた斑が不服そうに煙を吐く。常識外の体格の猫に目を細め、店員は並べられた売り物が乾かぬよう、優しく水を注いでいった。
 花びらが濡れて、緑の葉に雫が跳ねた。降り注ぐ人工雨を、身体全部を使って受け止めた花たちは、先ほどよりも幾許か赤色を薄め、微かに感じていた毒々しさもすっかり遠くなった。
 胸を撫で下ろした夏目は、視線を感じて気まずげに唇を噛んだ。
「ゆっくり選んでね」
「はい」
 店員に、買うものと決め付けられてしまった。もっとも、此処に立ち止まってから既に五分以上経過している。そう思われても仕方が無かった。
 彼はポケットの中の財布を気にして右手を動かし、握ったままだった左手の力も緩めた。雑誌を包んでいる紙袋に、見事に指の形が出来あがっていた。汗が滲んで、うっすらとだが色が変わってしまっている。
 中身が無事か気になったが、此処で開封するのも憚られた。細かい皺をなぞり、心の中で滋に謝罪して、彼は水滴を浮かべた花々の海に瞳を泳がせた。
 どれもこれも綺麗で、愛らしい。紅色の濃いものは凛として、桃色のものはふんわりとした柔らかさを感じた。
「買うのか?」
 所持金は多くないが、少なくも無い。ひとつくらいなら買える額を夏目が有しているのは、斑も承知していた。
 声を潜めての問いかけに夏目は即答を拒み、逡巡して眼を真ん中に寄せた。
 買ってどうするのだろう、贈る相手はもう何処にもいないというのに。何処に手向ければいいのかさえ、分からないのに。
 奥歯を軋ませた夏目から目を逸らし、斑は花に誘われた蝶を追いかけて首を動かした。飛びかかりたい衝動に駆られるが、此処で暴れたら売り物の花まで蹴り飛ばしてしまう。
 夏目の拳骨は痛い。思い出すだけで後頭部がヒリヒリして、斑はぐっと堪えて四肢を踏ん張らせた。
 傍らの夏目は瞬きの回数を減らし、鮮やかに咲き誇る赤い花に息を飲んだ。
 この色は眩しすぎる。生きる者の熱い血潮を、否応なしに思い出させた。
 眩暈すら覚えた彼は緩く首を振り、一輪挿し用に切り売りされている花を見た。片隅でひっそりと咲く白に目を奪われて、逸らせない。
 動悸がした。ドクン、と強く脈打った心臓がこれで良いと言い、違う何かがこれは駄目だと言う。
 相反する意見が心の中で真正面からぶつかり合って、引き裂かれそうな痛みを発した。無意識に胸元を掻き毟って、夏目は乱れ行く呼吸を鎮めようと、必死に舌で酸素を掻き集めた。
「夏目」
「俺は、……」
 斑の呼ぶ声も聞こえない。彼は脆弱な腕を震わせ、脳裏を過ぎった優しい女性の微笑みに唇を噛んだ。
 贈るのならば、そう、彼女に。今の彼にとって、塔子こそが母親に等しかった。
 だが、だからといって産みの親を蔑ろには出来ない。実母がいたからこそ、夏目は塔子に出会えた。塔子の優しさに触れられた。彼女の寂しさをほんの少し埋める手伝いが出来た。
 白は、亡き母に宛てて。
 ならば、自分は――
「……」
 選べない。そっと嘆息し、彼は右手で顔を覆った。
 どちらか片方だけに、というのは無理な相談だった。今の自分は、ふたりの母のお陰でこうしていられるのだ。どちらにも感謝しているし、どちらも等しく愛している。
 赤と白、ふたつとも買うか。当面所持金不足で苦しむ機会が増えるだろうが、それくらいどうにでもなるだろう。
 だけれど、そういう解決方法で片付く問題でもなかった。
 白いカーネーションを買って、果たして何処に置くのか。塔子がこれを見て、妙な気兼ねを覚えないという保証は無い。
 答えが定まらない。気が遠くなりそうになって、夏目は薄い皮膚に爪を立てた。
 指で大半が塞がれた視界に、ひらひらと舞うものがあった。足元では斑が、蝶に飛びかかりたい気持ちを堪えてうずうずしている。獲物を狙う猫の目をした妖怪を一瞥し、夏目は肩で息をした。
 黒い縁取りが艶やかなアゲハチョウが、ゆらゆらと不安定に揺れながら宙を泳いでいた。時に風に煽られて姿勢を崩すものの、健気なほどに懸命に翼を動かし、やがて休む場所を定めて下降に転じた。
 音もなく空を滑るそれの向かう先に先回りして、夏目は瞠目した。
 沢山並んだ鉢植えのひとつ。鮮やかな赤やピンクにばかり目を奪われて、すっかり見落としていた。
「先生、ちょっと此処で待っててくれないか」
「うぬ?」
「買って来る」
 慌しく右足を前に出した夏目に驚き、折角安住の地を得た蝶が閉じたばかりの羽根を広げた。
 高く舞い上がるそれに気を取られた斑の生返事に苦笑して、夏目は紙袋を脇に抱え、両手を伸ばした。
 白地に赤く縁取りされた八重のカーネーションを抱え、彼は花屋のドアを叩いた。

2010/05/07 脱稿