嚮後

 メローネ基地での戦闘を終えて、来るべき決戦の時に備えて各々特訓に励む日々が続いていた。
 真相の説明を求める京子やハルらとの冷戦も無事に終結して、食卓は再び豊かになった。団結した時の彼女らの底力を思い知らされて、今後は出来る限り、あのふたりを怒らせないようにしよう、と男子は秘密裏に結託もした。
 世界の危機が着実に迫り、もっと緊迫感が漂っても良い気はした。が、緊張したところで状況は何も改善しない。ならば存分にリラックスした上で、今出来る最善を尽す以外に道は無かった。
 ディーノから言い渡された修行は、傍目には順調か否か、よく分からない。だが未来の自分が託してくれたものが此処にある以上、きっと負けることはない。根拠は何も無いけれど、何故か不思議と、そう思えた。
 そうしてふと、此処に居ない人のことが気になった。
「大丈夫かな」
 スクアーロに連れて行かれた山本と、ディーノと共にいるという雲雀のふたりのことだ。
 山本はスクアーロを信頼しているようだし、スクアーロも山本の剣の腕は認めている節があった。だからあのふたりは、喧嘩を繰り返してもきっと大丈夫だろう。それに山本はいつだって呑気で、飄々としていて、こちらがどんなにムキになってもあっさり受け流してしまう。最後は怒っている自分が馬鹿らしく思えて、どうでも良くなってしまう。彼の性格は、ある意味得だ。
 対して、雲雀はどうだろう。
「ディーノさんと巧くやってればいいんだけど」
 ヴァリアーとの指輪争奪戦の最中も、あのふたりは共に修行の旅に出ている。といっても、ディーノが雲雀を挑発してあちこち逃げ回り、それを雲雀が追いかける、という図式だったらしいけれども。
 ディーノは懐が広いから、多少の事では怒らない。無論、大事な部下に手を出されでもしたら、怒髪天を衝く勢いになるのは確実だが。
 彼のそういうところが、雲雀と共通している。外見も性格もまるで異なるふたりだけれど、きっと彼らは根本的なところで似ているのだ。だからあちらも、なんとかなっているに違いない。多少の不安を覚えつつ、綱吉はそう自分に言い聞かせて頷いた。
 空腹を訴える腹を服の上から撫で、止まりかけていた歩みを再開して廊下を突き進む。目指すのは、先日無事に復帰を果たした少女らが待つ台所兼食堂だ。
「今日はなんだろ」
 温かく、美味しい料理が食べられるのは至福の極みだ。ただ、奈々の手料理に長い間ありつけていないのが、少し寂しい。
 無事に過去に帰ったら、我が儘を言って沢山大好物を作ってもらおう。指折り数えて涎を垂らし、舌なめずりした彼は若干急ぎ足で角を曲がった。
「うわっ」
「おっと」
 そうしたら急に目の前に壁が現れて、行く手を阻まれた綱吉は止まりきれずに頭からそれにぶつかった。ただ予想したほど固くはなくて、さほどダメージは来なかった。
 咄嗟に目を閉じたので衝突したものの正体が直ぐに把握できない。しかし聞こえた声には覚えがあって、後ろにたたらを踏んだ綱吉は、額に手をやって薄目を開けた。
 振り返ったディーノが、鮮やかな金髪を揺らして苦笑していた。
「悪い、ツナ」
「ディーノさん。来てたんですか」
 十年前よりもずっと精悍さが増して、ぐっと大人っぽくなった彼に覗き込まれ、綱吉は顔の前で手を振った。同じ人の筈なのにどうしてか、こちらのディーノに会うと照れ臭くて仕方が無い。
 ちょっと距離を置いて向き直り、彼の後ろにビアンキもいるのに気付いて綱吉は首を傾げた。
「どうかしたんですか?」
 頬に手を当て、なにやら考え事をしている彼女から視線をずらし、高い位置にあるディーノの目を見詰める。二十台の彼もかなり背が高かったが、綱吉の知らない十年で更に伸びたらいし。上向ける首の角度が、些か急勾配だった。
 苦しい姿勢で見上げてくる綱吉に肩を揺らし、ディーノは若干猫背になった。お陰で楽になった綱吉はホッと息を吐き、改めて何かあったのかと問うた。
 するとディーノはビアンキをちらりと振り返り、困った様子で肩を竦めた。
「ディーノさん?」
「いや、さ。恭弥の事なんだけど」
「ヒバリさんの?」
 長い襟足を掻き上げ、首に手を回したディーノが若干言い難そうに口ずさんだ。その彼の言葉を引き継がんとして、ビアンキが前に出て色気のある表情でそっと溜息をついた。
 その妖艶で、大人びた姿に僅かに頬を赤く染めた綱吉に微笑み、彼女は爪の長い人差し指を己の唇に押し当てた。
「それがね、食べてないらしいのよ」
「え?」
「いや、食うには食ってるんだ。けど、量がな。一日に握り飯一個とか」
「ええ?」
 端的なビアンキの説明に綱吉が素っ頓狂な声をあげ、そこまで酷くは無いとディーノが慌てて弁解を口走った。が、それもあまりフォローになっていなくて、綱吉は背筋をピンと伸ばし、猫みたいに髪の毛を逆立てた。
 吃驚して声が裏返った彼に、大人二名が揃って苦笑した。
 雲雀は山本や了平ほど大食漢ではないが、綱吉や獄寺よりは食べる方だ。そして風紀委員の活動で運動量も半端ないので、どれだけ食べても太ることはない。
 その彼が、一日一食、しかもおにぎりひとつだけしか口にしていない。唐突にもたらされた情報に、綱吉は眩暈を覚えた。
 額に手を遣り、唇を舐めて脳裏を過ぎった記憶に首を振る。そんなわけが無い、と即座に否定に掛かるが、ディーノは神妙な顔をして緩慢に微笑んだ。
 その表情が、今語られた内容に嘘が無いのを教えてくれた。目の前が急に暗くなった気がして、綱吉は奥歯を噛み締めた。
「そんなの、なんで……」
「さあな。俺もあれこれ考えて、あいつの好物とか色々集めてみたんだが」
 死ぬ気の炎の特性や扱い方、指輪の種類に匣兵器を有効に使う手立て、などなど。この時代での戦いに関する知識は、淀みなく吸収しているという。だからそちらの面だけなら、雲雀の成長は著しく、なんの心配もないとディーノは言う。
 だが、それ以外は酷く不安定なのだそうだ。
 まず喋らない。匣や炎にまつわるあれこれには質問をするが、他の事には一切言及せず、追求もしてこなかった。だからいつも自分が一方的に喋って終わると、ディーノは盛大に嘆息し、やれやれと肩を竦めた。
 修行時以外は寝ているか、起きていてもぼんやりしている。十年後の雲雀が愛用していたものにはまったく興味を示さず、触れようともしないという。
「知らなかった」
 初めて聞かされる、こちらに来てからの雲雀の状況に愕然とし、綱吉はぼそりと呟いた。
 独白のつもりだったが、場に居合わせた面々には聞こえていた。ふたりとも微妙に困った顔をして、ディーノはガシガシと乱暴に頭を掻き毟った。
「その、リボーンにな」
 綱吉には絶対に教えないよう言われていたのだと暗に匂わせて、彼は言葉を濁した。
 直ぐに察した綱吉は、黄色いおしゃぶりをぶら下げた赤ん坊を思い出し、渋い顔をした。カチリと奥歯を鳴らして唇を噛む。苛立たしげにした彼に微笑み、ビアンキは蜂蜜色の前髪ごと、彼の額を小突いた。
「貴方がそういう顔をするからよ」
「む」
 雲雀の近況は、とても気になっていた。しかし情報は入ってこず、かといって自分からあちらの陣地に入り込む勇気もなかった。
 知りたいのに、誰も教えてくれない。自分から訊くのもなにやら気恥ずかしくて、長らく悶々としていた。もっと早くに教えて欲しかったと目で訴えるが、即座に話を逸らされてしまって、彼は地団太を踏んだ。
「お前の集中の邪魔になるかもしれないだろ」
「それは、……むぅ」
 やんわりとディーノに指摘され、綱吉は反論を途中でやめた。確かに彼らの言う通り、雲雀が食べていない事を知っていたら、綱吉は自分の修行どころではなくなっていた。
 だが、ならば何故今それを公表したのか。疑り深い目を投げると、ディーノは瞼に掛かる前髪を後ろへ払い除け、両手を腰に置いた。
「そうも言ってられなくなったって、とこ?」
「なにかあったんですか」
「いや、そんな大袈裟じゃねーんだけど」
 いつもは時間通りに鍛錬場に来る雲雀が、今日に限って寝坊した。たったそれだけの事なのだが、逆を返せばそうなってしまうくらいに、彼が衰弱している証拠だった。
 必要最低限にも届かない食事で過ごして来たのだから、体力の低下は否めない。しかしディーノとの特訓は欠かそうとしない。何かを焦っているようであり、何かに不満があるのは間違いないのだが、彼自身が語ろうとしないので詳細はなにも分からない。
 お手上げだ、とディーノもついに音を上げて、リボーンに助言を求めに此処にきた。その道中ばったりビアンキと出くわして、立ち話をしているところに綱吉がやって来た、と。
 ここまでの状況を大雑把に説明されて、綱吉は口をヘの字に曲げた。
「だから、そういう顔しないの」
「してないよ」
 むくれた彼の頬を突き、ビアンキが笑みを零した。彼女の細い指を払い落とし、綱吉は右に逃げて壁に肩からぶつかっていった。
 雲雀がろくに食事をせず、弱っていると聞いてじっとしていられない。だが綱吉が行ったところで、彼の為に何か出来るわけではないのも事実だ。
 ディーノでさえお手上げだと、降参して他人に助けを求めてきたというのに、十四歳の綱吉が、いったい彼に何をしてやれるだろう。
「ともかく、満足に食事をしていないっていうのは問題ね。好物は与えてるのよね」
「犬猫みたいに言うなよ。ってか、ああ」
 塞ぎこんだ綱吉に肩を竦め、ビアンキはディーノに話を振った。彼は軽く反論をした後で小さく頷き、刺青の入った手で顎を撫でた。
「俺の知ってる限り、アイツが嫌いじゃないものは全部出してみたんだが。なーんでか、そういうのに限って絶対手をつけようとしねーんだ。最近じゃ、草壁が握った塩むすびばっか食ってる」
 たまに梅干などの漬物も口に入れているが、他の副菜には手を出さない。洋食は特に全く興味を示さず、好きな筈の寿司にさえ見向きもしない。
「お寿司?」
「ああ。あいつ、高いネタばっかり食うんだぜ」
 咄嗟に声を上げた綱吉を振り返って、ディーノは首肯した。知ってるか、と聞かれて彼は首を振り、琥珀色の瞳を翳らせた。
 何かが心に引っかかったが、明確な言葉として浮かんでこない。魚の小骨が突き刺さったみたいに、胸の変なところでチクチクと小さな痛みを発しているのに、手が届かなくてどうにも出来ない。そんなもやもやした違和感が、綱吉の中に残った。
「ヒバリさん、お寿司、好きなんだ」
 知らなかったと正直に告白して、綱吉は押し黙った。
 そんな彼の微妙な変化に気付かず、ディーノは大仰に首を縦に振り、ビアンキに助けを求めて縋る目を向けた。
「な、どう思う、毒サソリ。なんか良い案ねーかな」
「そう言われてもね、私は彼に詳しくないし。兎に角今は、あの子の興味を引くものを辛抱強く与え続けるしかないんじゃないの?」
 獄寺隼人という気難しい弟を持つ彼女ならば、妙案が思いつくのではないか。期待の眼差しを向けるディーノをすげなくあしらい、ビアンキはしっしっ、と畜生を追い払う仕草で手を振った。
「そんな冷たい事言わずに、さ。頼むよ。それが駄目だったから、こうして頼んでんじゃねーか」
「知らないわよ」
 神に祈るポーズで両手を結び合わせた彼に呆れた顔をして、ビアンキが長い髪を掻き上げた。
 一応考えてはみるが、彼女は雲雀恭弥とさほど交流が無かった。ディーノの方が付き合いも深いはずだと嘆息交じりに呟いたところで、ふと何かを思い出し、左を見る。
 壁際にいた綱吉と目が合って、彼はきょとんと首を傾げた。
「なに?」
「雲雀恭弥の、好物ねえ」
 意味深な笑みを浮かべ、ビアンキは艶っぽく呟いた。

 それから約一時間後、綱吉は薄暗い廊下をひとり歩いていた。
 ビアンキ、及び京子とハルが作ってくれた弁当箱を胸に抱え、トボトボと、どこか心細げにして。
「うぅ、なんだってこんなことに」
 事の始まりは、ボンゴレ側アジトに来ていたディーノの背中に激突した事だった。その彼から雲雀がろくに食事をしていないと教えられて、自分には何もできないと落ち込んでいたところ、ビアンキからひとつの提案が下された。
 子細は省略して要点のみを抽出すると、彼女は綱吉に、雲雀の好物を持って出向き、食べるように説得して来い、と言った。
 断る権利など当然なく、また綱吉も彼の様子が気になっていたので、自分の目で確かめられるのなら、とふたつ返事で承諾した。が、いざ境界線を越えて風紀財団側のアジトに入った途端に気後れが生じて、一気に帰りたくなった。
 安請け合いするのではなかったと後悔しても、もう遅い。ここでもし何もせずに帰りでもしたら、女性陣からどんな顰蹙を買うか、分かったものではない。
 事情を聞き、京子とハルが大急ぎで作ってくれた弁当はまだ温かかった。
 昼食がまだの綱吉の分も一緒なので、箱の中身はふたり分。急ごしらえにしては内容も豪勢で、量も充分過ぎる程あった。
 おにぎりには色々な具が入っているが、外見からでは中身が何かは分からない。ひとつだけハズレが混じっているから、と京子がお茶目な事を言っていたのが少々気がかりだが、引きの悪さには定評がある綱吉だ、きっとそのハズレが雲雀の口に入ることは無いだろう。
 それにしても、と彼は薄紫の包みに収まった大ぶりの弁当箱を撫でた。
 雲雀はどうして、急に食べなくなってしまったのだろう。いきなり未来に飛ばされて、事情も分からぬまま戦いに巻き込まれ、頭が混乱しているのだろうか。
 かつての自分を引き合いに出し、どうにもしっくりこなくて綱吉は首を傾げた。
 あの雲雀に限って、これしきで食欲を落とすとは思えない。彼の事だから、強い者と戦えると知れば逆にやる気を出し、喜ぶはずだ。現にディーノの弁を信じるなら、彼は修行には欠かさず参加している。
 強くなるには、まず身体を作らなければいけない。体力をつけ、筋力を鍛えるには、食事はとても重要な要素を占めている。それが分からないほど、雲雀は愚かではない筈だ。
 なにか別の、誰にも分からないような事情があるのか。それを、綱吉が出向いたところで教えてもらえるとは限らないのに。
 意味深だったビアンキの笑みを思い返し、綱吉は深い溜息をついた。
 確かに雲雀には会いたい。未来に飛ばされてきた彼の顔を見たのは、あの丸い大きな装置の前が最後だ。アジトに戻る途中の道で彼は独断行動にでて行方が分からなくなって、その後はディーノが見付けて連れて来たと、そう教えられただけだ。
 順番でいえば、未来に来たのは了平が最後だ。が、彼とは同じアジトで共同生活を営んでいる。だから状況が分からないのは雲雀だけで、それが不安だった。
 会ってどうするとかいうのは、全く考えてこなかった。弁当を渡して、きちんと食べるのを確認するだけなのだが、果たしてどうやって切り出せばよいのか。
「あー、もう」
 展開を想像して内臓がキリキリと痛み、呻くように呟いた綱吉は奥歯を噛み締めた。
 目の前に現れた扉を前に尻込みし、その場で足踏みを繰り返す。ディーノの話では、特訓が終わった後は大体この部屋で、ひとりで寝転がっている事が多いのだという。
 覚悟を決め、綱吉は思い切って襖を右に滑らせた。
「うっ」
 それまで暗かったのが急に明るくなって、瞳が変化に追いつかない。眩しさに咄嗟に顔を逸らして瞼を閉ざした彼は、抱えた弁当を胸に押し当て、ふらつきながら半歩後退した。
 襖から引き剥がした手を庇代わりにして光を遮り、恐る恐る前方を伺って息を吐く。瞬きを繰り返すうちに目が慣れて、広大無辺な和室に唖然となった。
 どこまでも続く床は緑一色で、遠くには障子戸が見えた。一部が開かれて、地下の筈なのに庭が見えた。鳥の囀りも聞こえて、綱吉は一瞬、自分が何処にいるのかを忘れた。
「はえ?」
 黒で縁取りされた畳に、まさか土足で踏み込むわけにはいかない。出そうとした足を慌てて引っ込め、彼は踵を擦り合わせて靴を脱ぎ、恐々ながら中に入った。
 ぽかんとしたまま上を見て、右を見て、左に目をやる。大広間に人影はなく、動くものの気配も見付からなかった。
 いったい何畳くらいあるのだろうか。学校の体育館くらいはありそうなスペースはがらんどうで、見事にものけの空だった。
「いない」
 三百六十度見回しても、雲雀の姿は見えない。ディーノに言われて来てみたが、とんだ無駄足だっただろうか。
 生唾を飲み、気持ちを鎮めて咳をする。喉の奥で引っかかっていた痰を胃袋に落とした彼は、改めてぐるりと周囲を眺め、落胆に肩を落とした。
 同時にほっとしている自分を意識して、軽く落ち込んだ。
 雲雀に会いたかった。けれど、ひとりで彼に会うのは少し怖かった。どんな顔をして良いのか分からないし、どんな風に話をすればよいのかも分からない。そもそも相手はあの雲雀だ。鬼の風紀委員長、雲雀恭弥だ。
 いきなり指輪争奪戦に巻き込まれ、挙句に未来にまで飛ばされて。どちらも原因が綱吉にあると知れば、彼の事だ、きっとトンファー片手に地獄の底まで追いかけてくるに違いない。
「うわ、……良かったー」
「何が?」
「はい?」
 思わず安堵の声がでて、真後ろから響いた質問に彼は目を丸くした。
 本日二度目の素っ頓狂な声をあげ、続けて滝のような汗を全身に滴らせた。ゾッとする寒気に襲われて、彼はガタガタ震えながら必死の思いで振り返った。
 空から舞い降りた黄色い鳥が、黒い学生服の上に停まった。緋色の腕章を左袖に揺らし、白いワイシャツ姿の雲雀が、そこにいた。
「ひっ」
「五月蝿い」
「ごめんなさい!」
 喉を引きつらせて悲鳴をあげ、凄みを利かせた目で睨まれて即座に頭を下げる。弁当箱を両手で抱えて九十度腰を曲げた彼を見て、雲雀は鬱陶しそうに鳥を追い払った。
 怒りもせず、鳥は優雅に翼を広げた。高い天井目掛けて羽ばたき、機嫌よさげに並盛中学校校歌を口ずさみ始める。
 あれは十年後の雲雀の傍にいた鳥だ。嘗て六道骸の配下だった男に飼われており、いつの間にか雲雀に懐いてしまった、鞠のように丸い小鳥だ。
「ヒバード」
 確かそんな名前だったと思い出して呟くと、後ろで聞こえた雲雀がムッとした。
「なに、その変な名前」
「へ? あ、俺がつけたんじゃなくって」
 この時代でそう呼ばれていたから、気がつけば綱吉の頭にもそう刷り込まれていた。しかし雲雀が実際にそう呼んでいたわけではないし、そもそもいつ名付けられたのかも不明なのだった。
 十年前から来たばかりの雲雀が知らないのも無理なくて、綱吉は慌てて言い訳を口にし、首を振った。
 彼はまだ幾分不機嫌だったものの、他の事が気になるようで追求はしてこなかった。代わりに綱吉が抱えているものを顎でしゃくり、用件を問うた。
「あ、えっと。その」
「用が無いなら帰れば?」
 口篭もっていたら、せっかちな雲雀にそう結論付けられてしまった。追い出そうという動きを察知して、素早く逃げた綱吉は距離を取り、みんなから託された弁当箱を両手で持ち直した。
 ずっしりと来る重みを両肩で受け止めて、意を決して彼に差し出す。
 いきなり眼前に包みを突きつけられた方は面食らい、怪訝に眉を寄せて小首を傾げた。
「なに」
「あの、その。お、……俺と一緒に、お昼ご飯食べてくれますか!」
 訝しげに問われて、声を上擦らせる。緊張しています、と言わんばかりの顔をして叫んだ彼に、雲雀はきょとんとした。
 どうやって雲雀に食べさせるかを考えて、誘い文句をあれこれ用意してはみたものの、咄嗟に巧く言えなかった。珍妙な間があって、顔を赤くした綱吉をじっと見詰め、雲雀は風呂敷包みの結び目を小突いた。
 ハッとして顔を上げた綱吉の目に、不満を露にした彼の顔が映し出された。
 興味を示したかと思ったが、違うらしい。一瞬の期待はあえなく裏切られ、綱吉は悲しげに眉を垂らし、口を尖らせた。
「跳ね馬の仕業?」
「はい」
 言いたくはなかったが、聞かれた以上答えないわけにもいかない。渋々頷いて認めると、雲雀は羽織った学生服の下で肩を広げ、腰に手を当てた。
 遠くを見て嘆息する様は、怒っているというよりは、呆れている色合いが強く出ていた。
 という事は、雲雀も自分が食事を削っている自覚があるのだ。食べられないのではなく、自分でそう決めて食べていないのだ。心持ち顔色が悪い彼を眺めて、綱吉はそう判断した。
 元気そうに見えるけれど、どこか覇気が無い。中学校の応接室を我が物顔で占拠していた彼とは、微妙に違っている。
 また風呂敷包みを突かれて、綱吉は迷いつつも結び目を解いた。
 はらり、と逃げた布が彼の左手を覆い隠した。出て来たのは銀色の、とてもシンプルでオーソドックスな容器だった。箸が二膳、蓋の上で横並びになっている。
 光を反射する弁当箱に肩を竦め、雲雀は戸惑っている綱吉を見下ろした。
「君が?」
「いえ。京子ちゃんと、ハルと」
 ビアンキは作るものすべてが毒になるので、傍で見ながら指示を出すだけに留めていた。出来上がったものを綱吉も見せてもらったが、とてもおいしそうに仕上がっていた。
 思い出したら空腹感が蘇って、彼は咄嗟に右手で腹を押さえた。鳴らなかったが、仕草で大体のことは理解したらしい。雲雀が、今日初めて笑った。
「ふぅん」
 綱吉も腹が減っているのだと教えられて、雲雀は弁当への興味を強めたようだ。ディーノが言っていたような、食べたがらない雰囲気はあまり感じられない。
 この調子なら巧く行くかもしれないと嬉しくなって、綱吉は両手で弁当箱の底を支え、彼に一歩踏み込んだ。
「ね、食べましょうよ。美味しいですよ。おにぎりと、卵焼きとかも入ってるし」
「へえ?」
「あとは、ソーセージに、サラダもあっただろう。あとは、ハンバーグも!」
 相槌を打った雲雀の反応が良くて、綱吉の顔が緩んだ。頬を上気させて、調子に乗って覚えている限りのメニューを口ずさむ。
 力いっぱい叫んだところで、雲雀の表情が凍りついた。
「え?」
 一瞬前までは確かにあった和気藹々とした雰囲気が消え去り、綱吉は瞬きを連発させた。
 何故だろうか。なにも悪いことは言っていないはずなのに、雲雀が怒っている。訳が分からなくて、綱吉は困惑に瞳を泳がせた。
「ヒバリさん……?」
「へえ、ハンバーグ?」
「そ、うです。ヒバリさん、好きだって、俺、聞いたから」
 とても静かに、だから却って怖い声色で訊かれて、綱吉はおずおずと頷いた。
 弁当箱に詰めるメニューは、ビアンキがディーノの助言を受けながら決めた。雲雀が好きなものを中心に、ごくありきたりな、日常で口にするようなものをその周囲に。
 だから完成した弁当は、ごくごく平凡で、面白みの無いものだった。その分懐かしくもあって、綱吉は毎日奈々が持たせてくれていたものを思い出して、ちょっとだけしんみりした気分になった。
 雲雀もきっと喜んでくれるに違いない。みんなが皆、そう思っていた。
 綱吉も、そのひとりだった。
「ふーん」
 相槌ひとつ打って、雲雀は顔を歪めた。険のある目つきで睨まれて、綱吉は震え上がった。
 彼の嫌いなものはひとつも入っていない。それなのにどうして、彼はこんなにも怒っているのだろう。
「ヒバリさん?」
「誰に聞いたの?」
「え?」
 凄みを利かせた声で問われ、何のことだか分からなかった綱吉は目を丸くした。大粒の琥珀の瞳に雲雀の姿を大きく映し出し、短い間隔で呼吸を繰り返した末に、直感で質問の内容を理解する。
 彼はこう言いたいのだ。自分の好物を、誰に聞いたのか、と。
「えと、ディーノさ……っ!」
 瑪瑙色の目をした青年を思い浮かべ、綱吉がその名をつむぎ出す。しかしすべてを言い切る前に、突如雲雀に突き飛ばされ、綱吉は後ろにふらついた。
 バランスを崩し、持っていた弁当が落ちそうになった。慌てて肘を突っ張らせて支えるが、畳に足が滑って踏ん張りが利かなかった。
「うあっ」
「いらない」
 短く、素っ気無く吐かれて、もう一発肩を殴られた。懸命に保っていた最後の糸が引きちぎられて、綱吉は呆気ないほど簡単に、頭から畳に沈んだ。
 放り投げた弁当箱が弧を描き、低い位置で落下に転じて彼の横に落ちる。角から畳にぶつかったそれは、跳ね返る際に蓋と本体が分離して、詰め込まれていた食べ物を吐き出した。
 痛みで顔を顰めていた綱吉が、音で気付いて目を丸くする。慌てて手を伸ばすがもうどうにもならなくて、辛うじて掴み取った卵焼きが手の中でぐしゃりと潰れた。
 おにぎりも、ソーセージも、サラダも、ハンバーグも。
 何もかも外に飛び出してひっくり返り、ぐちゃぐちゃだった。
「あ……」
 呆然として言葉も出ない綱吉が、瞬きを忘れて状況に見入る。肩で息をした雲雀は、床に這い蹲って手を伸ばしている彼を見下ろし、忌々しげに舌打ちした。
 これは京子とハルが協力し合い、一所懸命作ってくれたものだ。
 何も食べたがらない雲雀の為を思って、みんなで知恵を出し合って作り上げたものだ。
 材料だって充分ではなかった。自分たちが食べる分を少しずつ削って、此処に詰めてくれたのだ。
 それを、こんな風に扱われて、哀しくないわけがなかった。
 あまりのことに涙が溢れて、綱吉の頬を濡らした。その冷たさで我に返った彼は黄色い粒々がこびり付いた手を広げ、短く息を吐いて背後を振り返った。
 どこか気まずげにした雲雀が、そっぽを向いて立っている。綱吉が自分を見ていると知ると、彼は踵で畳を蹴り、歩き出そうと膝を持ち上げた。
 その辺を旋回していた小鳥が、彼を追い越して開け放たれたままの襖から廊下へ姿をくらました。目で追いかけた綱吉は、卵焼きの滓がこびり付いた手を畳につきたて、押す勢いを利用して立ち上がった。
 そのまま雲雀目掛けて突進し、振り向いた彼の足にタックルを仕掛ける。
「でやあ!」
「なっ」
 怒号を上げ、全体重をかけて彼をひっくり返す。両足を掬われ、さしもの雲雀もこれには抵抗できなかった。
 ドスン、と背中から落ちた衝撃が、捕まえたままの彼から伝わってきて、綱吉は噎せた。一瞬力が緩み、すかさず雲雀に肩を蹴り飛ばされて逃げる。膝立ちになって痛みを堪えていると、学生服を落とした雲雀が憎々しい形相で睨んできた。
「なにするの」
「そっちこそ!」
 場の勢いだけで怒鳴り返し、綱吉は横薙ぎに腕を払った。そのまま後方の、ひっくり返って滅茶苦茶になっている弁当だったものを指差し、鼻を啜って音を響かせる。
 しゃくりを上げた彼に気勢を削がれ、雲雀はぽかんと口を開いた。
「食べ物を粗末に、しちゃいけない、って、言われたでしょう!」
 幼稚園児に躾けるみたいに叫んで、彼は畳を平手打ちした。バシンッ、と痛そうな音がして、雲雀は唖然として黙って頷いた。
 確かにあれは、勿体無いと正直思う。何もかも床にぶちまけられており、もう食べられそうになかった。
 もうひとつしゃくりあげ、鼻を擦った綱吉が二度立て続けに咳をした。いがらっぽい喉を撫でて宥め、奥歯を噛み締めて雲雀をねめつける。もとより愛らしい顔立ちなので迫力は無いが、変に茶化すことも出来ず、雲雀は黙った。
 彼とて、最初からこうなるように願っていたわけではない。ちょっと驚かせるつもりが、思っていた以上に力が入ってしまい、その上綱吉も踏ん張りきれなかった。それだけだ。
 隙あらば流れ落ちそうになる涙を堪え、真っ赤になっている彼を見ているうちに、怒っているのが段々馬鹿らしくなってきて、雲雀は嘆息した。
「教えてないんだよね」
「……む」
「跳ね馬には、教えてなかったんだけどね」
 主語を欠いた彼の台詞に、綱吉は眉根を寄せた。
 雲雀は畳に腰を沈め、軽く曲げた膝に両手を引っ掛けた。暫く俯いていたかと思うと不意に天井を向いて、木目を数えて自嘲気味な笑みを浮かべ、綱吉を不安がらせた。
 訊いてよいものかどうか分からずに困惑していると、表情で察した雲雀が喉を鳴らして笑った。
「僕は一度もね、跳ね馬に好物を教えた覚えが無いんだよ」
「は、あ」
「それなのに彼は、これ好きだろう、あれ好きだろう、と次々に持ってくる」
「……」
「気持ちが悪い」
 ボソリと吐き捨てられた最後のひと言に、今の雲雀の心境が全て込められている気がした。
 居住まいを正して彼に向き直った綱吉は、まだ指の間に残っていた卵焼きを気にして、広げた手を太腿に擦りつけた。人に説教しておきながら自分だって粗末にしていると、思っても声には出さず、雲雀は足を崩し、胡坐を作った。
「やっぱり、って。そういう顔をするんだ」
 天を仰ぎ、ぽつぽつと言葉を並べていく。綱吉は背筋を伸ばし、無意識に喉を撫でた。
 ずっと引っかかっていた小骨が、今になってストンと落ちた気がした。
「ヒバリさん」
「今呼んだのは、僕の方?」
 思わず口ずさめば、聞こえた彼が嘲笑した。己を指差して問い、綱吉が返事に窮すると肩を揺らして声を響かせた。
 そしてやがて、力なく項垂れて、黒髪を掻き毟った。
 そんな彼を前に、綱吉はディーノから聞いた話をひとつずつ思い返していった。
 雲雀が食べたがらなくなって、ディーノは彼の好物を沢山用意したと言っていた。それでも食べてくれなくて、ついに自分ではどうすることも出来ないと悟って、助けを求めてやって来た。
 だが雲雀は。
 此処に居る中学生の雲雀恭弥は。
 彼に、ディーノに、自分の好物を教えた例は無いと言う。
 伝えた記憶が無い物事を、何故ディーノは知っているのか。
 確かにあの青年は、雲雀が何を好み、何を嫌っているかまで、弁当を作る際に事細かく説明してくれた。果たしてディーノは、それらの事を誰から教わったのだろう。
 不貞腐れた顔をしている雲雀を見詰め、綱吉は右手の人差し指と親指を擦り合わせた。
 雲雀が気持ち悪いと表現したのは、即ち両者が持っている記憶の差だ。恐らくディーノは、綱吉たちが経験していない十年間で、雲雀に対する知識を深めていた。しかし雲雀は、彼が知る十年という時を持ち合わせていない。
 ディーノは言っていた、雲雀はいつも高い寿司ネタばかりを選ぶと。
 だけれど此処に居る雲雀は、彼と寿司を食べに行ったこともなければ、好き嫌いについて話をした事さえ無い。
 そこに、越え難い溝が出来た。
 綱吉はいつの間にか、空白の十年というものに慣れていた。しかしまだこの時代に跳ばされて日が浅い雲雀には、そのゆとりさえなかった。言葉を交わす人間も十年後に生きる人たちばかりで、自分の抱く不快感を誰にも説明出来なかったに違いない。
 沢山ある着物やスーツひとつにとっても、気になる色形のものがあって手にとってみれば、草壁やディーノが妙に納得した顔をする。矢張り同じ人間なのだと、口にこそ出さないそう思っている態度を見せる。
 雲雀は十年後の雲雀恭弥を知らない。それなのに周囲は皆知っていて、中学生の雲雀を通して未来の彼を見ている。
 此処に居るのに、誰も此処に在る雲雀を見ない。
「ヒバリさん」
 真っ直ぐ前を向いて呼びかけ、綱吉は手を伸ばした。
「なに」
「……なんでも」
 呼んでみたかっただけだと首を振り、即座に返事があったのを少し嬉しく思いながら、綱吉は彼の手を握った。
 肌に触れた体温にビクッとして、彼は一瞬だけ肩を強張らせた。しかし綱吉が真っ直ぐ自分だけを見ていると気付くと、緩やかに緊張を解き、若干気の抜けた笑みを浮かべ、肩を竦めた。
「変な子」
 素っ気無い感想を呟き、自分からも手を握り返す。骨を軋ませる力加減に綱吉が振り解こうとしたが、巧く行かなかった。
「いった、あ。もう、ヒバリさん。あの、今なにが食べた――」
 腹に力を込め、尚も抵抗を続けながら問いかけを口にする。しかし皆まで言い切る前に、空っぽの胃袋が先に悲鳴を上げた。
 ぐぅぅぅぅ、と盛大に鳴った腹の虫に、綱吉はカーッと顔面を朱に染めて膝で畳を叩いた。
「ぶっ」
 間近で聞いて、見ていた雲雀が堪えきれずに噴き出す。肩を小刻みに震わせて声を殺すが、まるで隠しきれていなかった。
 恥ずかしいやら、憎らしいやらで、綱吉は地団太を踏んで左の拳を振り上げた。
「もうぅ!」
「おにぎり」
 憤慨して雄叫びを発した彼に、涼やかな声で雲雀が告げた。
 ダンッ、と強く膝で畳を蹴った綱吉が、二秒半後に目を丸くした。瞬きを三度繰り返し、リラックスしている雲雀をじっと見詰める。
 彼は笑って、同じ言葉を繰り返した。
「おにぎり。梅干と、おかかと」
 至極質素で、且つ平凡なメニューを口に出されて、綱吉は渋い顔をして歯軋りした。
 言いたい事は山ほどあるが、どれもこれも声になる前に霧散してしまった。ギギギ、と不快な音を口の中に響かせて、彼はやがて大きく肩を落とし、疲れた顔をして前髪を掻き上げた。
「分かりました」
「うん」
「じゃ、ちょっと待っててください。京子ちゃんに……」
 埃が積もっているわけでもないのに膝を払う仕草をして、右から起こして立ち上がろうと背筋を伸ばす。が、最後まで言う前に、横から伸びた雲雀の足にいきなり脛を掬われて、綱吉は見事に畳に滑り込んだ。
 顎から落ちて、目の前に星が散った。
「イッ!」
 悲鳴さえまともに発音できず、噛んでしまった舌が痛くて涙が出た。ずべしゃ、と漫画ならばそう表現されるだろう効果音と共にうつ伏せになった彼を横から見下ろし、雲雀は滑稽だと肩を揺らした。
 落ちていた学生服を拾って羽織った彼を睨み、綱吉は擦った以外の理由でも顔を赤くした。
「なにするんですか」
 折角雲雀が食べたいと言ったから、アジトに戻って京子たちに握ってもらおうと思ったのに。綱吉の好意を無碍にする行動に憤慨し、彼は握った拳を上下に振り回した。
 じたばた暴れている彼に雲雀は肩を竦め、ひっくり返ってそのままの弁当の残骸を見た。
「こっちにも台所はあるよ」
「ぬ」
「草壁が炊いた米がまだ残ってる」
「む」
「梅干も、おかかも全部ある」
「それは、俺に握れと」
「戻るの、面倒でしょ」
 自分も今すぐに食べたいからと言い、雲雀は両腕を頭上に伸ばして背筋を反らした。骨の鳴る音が聞こえて、綱吉は苦虫を噛み潰したような顔をした。
 水で研いで炊くところから始めろ、と言われなかっただけまだ良いが、だからといって彼の提案はかなり横暴だ。即答を避けて顔を背けた綱吉に手を伸ばし、雲雀は蜂蜜色の髪から覗く耳朶を引っ張った。
 上体を崩されて、綱吉は慌てて反対方向に身体を倒し、抓まれた耳を左手で庇った。
 雲雀は追いかけて来ず、ただ意地悪く笑った。
「いや?」
「いやだって言ったら、また食べなくなるんでしょ」
「うん」
 口を尖らせた綱吉の反論に即座に頷き、雲雀は早く、と急かして手を横に振った。なかなかやって来ない飼い主に焦れてか、廊下に飛び去ったはずの黄色い鳥が戻って来て、ふたりの頭上を旋回した。
 翼を畳み、速度を落として緩やかに下降に転じる。見事雲雀の右肩に着地を果たしたそれは、何故か得意げに綱吉を見た。
 勝ち誇られた気がして、綱吉はついムッとした。
「不味くても知りませんよ」
「具を詰めて握るだけなのに、どうやったら不味くなるの」
 不機嫌なまま告げて、今度こそ立ち上がる。雲雀の妨害はなかった。
 黄色い鳥をまたもや手で追い払い、雲雀も立ち上がった。元気そうに見えるものの、その動きが記憶にある彼よりも幾らか精彩を欠いているのを、綱吉は見逃さなかった。
 サッカーボールくらいの大きさに握ってやろうか。そんな事を考えて、綱吉は顔を赤くしたまま開けっ放しの襖に目を向けた。
「おにぎりばっかりじゃ、栄養偏ってよくないですよ」
 風紀財団のアジトの何処に台所があるのかも知らないまま、ひとり先に立って歩き出す。大股で、やや早足の彼の背中を見詰め、雲雀は小鳥が羽根を休める場所を提供しようと右手の人差し指を伸ばした。
 まるで最初から彼がそうするのを知っていたかのように、黄色い鳥は翼を折り、そこに足を停めた。
「ヒバード、ねぇ」
 いったい誰が、そんな名前をつけたのだろう。想像して声を殺して笑い、彼は靴を履こうと戸口で身を屈めた少年に目を細めた。
 何がなんだか分からぬまま、断片的に聞かされた未来の情報。話を総合するに、どうやら雲雀恭弥は十年後の世界でも、沢田綱吉と共に在ったらしい。
 十年間、共に在ったらしい。
 だがその雲雀恭弥は、自分ではない。それなのに跳ね馬も、草壁も、同じものとして扱おうとする。彼らの知る十年後の雲雀恭弥に成るように、少しでも近づけようとする。
 強くなる必要性は重々認識している。だから癪だが、跳ね馬の鍛錬にはつきあっている。しかしそれ以外は、話をするのさえ嫌悪が募った。
 今思えば、意固地になっていたのは自分だった。
「僕にはあの子がいたのにね」
 もっと早く思い出せばよかった。意外に自分は精神的に脆い面があると気づかされて、雲雀は自嘲を浮かべて廊下で待っている綱吉に向かって歩き出した。
「ちゃんとデザートも食べるから、問題ないよ」
「俺、そんなの作れませんけど」
 襖を左に滑らせ、規則正しく並んでいるローファーに爪先を押し込む。横で聞いていた綱吉は不満げに零し、広い座敷に残る弁当の残骸を気にして振り返った。
 注意が他所向いた彼に手を伸ばし、雲雀は柔らかい頬に指を走らせた。
「何言ってるの。もう此処にあるのに」
 言って、琥珀の瞳が自分を見たのを確かめて、意味深に囁く。唇をちょん、と小突かれて、五秒後に意味を理解した綱吉は林檎のように真っ赤になった。
 頭の先からぶすぶす煙を噴き、右足でしきりに床を蹴り飛ばす。面白くて笑っていたら、仕返しに脛を蹴られた。
「心配して損した!」
 痛がる雲雀に大声で怒鳴り、綱吉は目尻に浮かんだ涙を指で弾いた。不貞腐れてしまった彼に苦笑して、雲雀は爪先で床を叩いた。
「草壁に片付けさせるから、問題ないよ」
 ちらりと座敷に目をやって、急に話を変えて告げる。虚を衝かれた綱吉は目を丸くして、思っていた事を見抜いた雲雀の底意地悪い表情に頬を膨らませた。
 そうしてぶーっと息を吐き、肩の力を抜いて不意に柔らかな笑みを浮かべた。
「いつものヒバリさんだ」
 身勝手で、傲慢で、我が儘で、暴君で、人の迷惑考えない、いつだって自信満々の。
 綱吉の知っている雲雀恭弥だ。
 心の底からそう呟いた彼に一瞬呆気に取られ、直ぐに我に返った雲雀は目元を緩めた。
「十年後の僕は、良い男だった?」
「はい」
 さらりと告げて、即答が返された。綱吉は言った直後にハッとして、慌てたように口元を手で隠した。
 顔に焦りをにじませて、必死に巧い言い訳を探して視線を右往左往させる。そんな分かり易い彼に嘆息し、雲雀は台所を目指して歩き出した。
「ヒバリさん」
「そう、そんなに良い男だったんだ」
「う、あの……そういうつもりじゃ」
 慌てて追いかけた綱吉が横に並んだところで呟けば、彼は落ち込んだらしく、声のトーンを落とした。胸の前で両手を小突き合わせ、下唇を突き出して上目遣いに隣を窺う。
 怒られるのを前提とした視線に、雲雀は笑った。
 手を伸ばし、広げ、綱吉の癖だらけの髪の毛を掻き毟り、肩を抱いて引き寄せる。
 逃げられなかった彼は片足立ちで斜めになり、耳元で囁かれた言葉に目を丸くした。
 すぐさま解放されて、ぽかんとしていたら雲雀に置いていかれた。呼気が触れた耳朶を片手で押さえたまま、綱吉は黒髪から覗く赤い耳をぼんやり見詰め続けた。
 そしてふと我に返って、明るく笑い、駆け出した。
「期待してます」
 満面の笑みを浮かべ、追いついた雲雀の背中に飛びかかる。前のめりに倒れかけた彼は渋い顔をして、悪戯な綱吉を叱った。

2010/04/22 脱稿