感応

 リボーンが日本の、並盛の、沢田家光邸にやって来るまでは、毎日がとてもつまらなくて、何をやっても面白くなくて、どうして自分はこの世に産まれてきたのだろうかと考えることさえあった。
 だけれど考えたところで答えなどなくて、訊ける相手も居なくて、ただ無為に時間が過ぎていくのをぼんやり眺めるより他無かった。
 あの頃は本当に何もかもが虚しくて、景色も色褪せて見えた。
 黄色いおしゃぶりを持った赤ん坊が家庭教師としてやってきて、芋づる式に色々な人間が沢田邸にやってきて、並盛に居ついてしまった。昔から其処にありはしたものの、係わり合いを一切持たなかった相手とも多数の接点が出来て、周囲は一気に、賑やかになった。
 お陰で望まない戦いに挑まされ、不本意な争いにも巻き込まれた。気がつかないうちに事態は随分と突拍子も無いところに至っており、心は置いてけぼりをくらって微妙に理解が追いつかない。
 そうなのか、そうなんだ。そう言いながら新たな事実を教えられる度に分かったフリをして頷いてきたけれど、心の底ではこんなのは嫌だと思っていた。分かりたくもない、知りたくもない。考えたくも無いと、そう拒絶反応を起こしていた。
「……パラレルワールド、か」
 チョイスの最中で負傷した入江正一の告白も同様で、あまりにも荒唐無稽すぎる真実に圧倒されるばかりで、どう受け止めるべきなのかも決められないでいた。ただ状況は悪化する一方で、兎に角勝ち残って生き延びない限り、世界も、自分の命も、守りたかったものの全ても失われるのだというのだけは、痛感させられた。
 闘いは避けられない。現状を打破するには、相手を攻撃して勝利するしかない。だがその勝利の条件をどこに定めて良いのかも、最後まで結論は出なかった。
 打ち負かすだけでいいのか。二度と悪行に手を出さないようにさせるに、誰に処罰を託すべきか。骸のように脱出不能の牢獄に押し込めればそれで事足りるのか。
 否。
 理屈ではない直感が、その程度では温いと告げている。もっと根本的な解決方法を選択せよと、白蘭という男の危険性を訴えるなにかがそう、綱吉の耳元でずっと囁いていた。
 殺せ、と。
 あの男は危険すぎる。生かしておけばいずれまた、なんらかの手段を講じて世に君臨すべく現れるだろ。
 平行世界を渡る能力を持つというあの男が、ただ黙って己の凋落を受け入れるとも思えない。虎視眈々と機会を狙い、自分を陥れた世界の全てに復讐を目論むはずだ。
 防ぐ手立ては、ひとつだ。あの男の命そのものを、この世から抹消する。それ以外に有効な手立ては残されていない。
「なんか、な」
 暗がりの中で己の掌を見詰め、彼は肩を竦めた。続けたかった言葉は心の中でのみ呟いて、風に流れて飛んでいかないように蓋をした。
 どうしてこんなことになったのだろうか、と。
 争いごとは嫌いだった。誰かを殴って傷つけるくらいなら、どれほど不条理だろうとも自分が殴られて済ませようと決めていた。痛いのは自分だけでいい。どうせこの命に意味などなく、魂は誰よりも劣っているのだから、こうなるのは仕方の無い事なのだと、ずっとそう言い聞かせてきた。
 道を踏み外したのがどの段階だったのかを考えれば、他ならぬリボーンが、家にやって来た日だろう。彼によって打ち込まれた一発の弾丸が、沢田綱吉に巡る時のすべてを塗り替えてしまった。
「はは」
 初めて出会った日を思い出して、不意に笑いがこみ上げてきた。押し殺す必要もなかったので声に出してみたが、それは意外にも響かず、乾いたまま彼の手の中に落ちた。
 握り潰せば音もなく砕け散る。跡形も残らない。空っぽの掌を揺らし、彼は小さく溜息を零した。
「浮かない顔だな」
「リボーン」
 背中を丸めて小さくなっていたら、後ろから声がした。振り返らずとも分かる相手だが、綱吉は腰を捻り、姿勢を低くしたまま背後に顔を向けた。
 暗がりの、遠いところに微かな炎の揺らぎが見える。既に夜遅く、空は墨で塗り潰したように黒い。住宅地からさほど離れてもいない山の中であるけれど、野良に帰った犬が居る可能性が否定出来ないため、焚き火を絶やすのは許されなかった。
 京子やハル、それに子供達は既に夢の中にある。怪我を負った仲間も同じだ。体力が残っている面々が交替で火の番に当たっているものの、正直言って誰もが疲れていた。
 それも当然だろう。チョイスが終了してから、まだたったの一日も経っていないのだから。
 十年後の六道骸の登場により、どうにか転送装置で並盛町まで戻って来られたものの、追撃の手は直ぐに伸びて、アジトは壊滅状態に陥ってしまった。この時代に頼るツテなどあるわけがなく、行き場を失った綱吉たちを助けてくれたのは、川平という不思議な男性だった。
 ハルの助言により向かった不動産屋、そこで出会った人物は、こちらが何も説明していないに関わらず、状況のすべてを熟知しているようだった。いったい誰なのか、何故助けてくれたのかも、一切不明。リボーンでさえ分からない、という。
 だがあの人がいなければ、綱吉たちが今此処にこうしていないのもまた、事実だ。
 不可思議なめぐり合わせが働いている。何処かへ消えてしまったあの男性を思い出すと、そう強く意識させられた。
「オメーの番は終わっただろう。寝ろ」
「そうだね」
 綱吉も、体力の消耗は激しかったものの、他の面々に比べれば怪我の度合いは低い。だからと自ら当番を買って出た。一部から強固な反対意見が出たが、自分の意志を貫いた。
 その焚き火の見張り番も、もう順番は終わった。少しくらい信用してくれても良いのに、次の番の太猿が結局最初から最後まで起きていて、ふたり体制になってしまったのには、笑うしかない。
 いつになく低い声で命令されて、緩慢に笑って頷いた綱吉だったけれど、その場から立ち上がる気配は皆無だった。三角に折り曲げた膝に両手を置き、木々の隙間から闇に埋もれた空を仰ぎ見る。星明りは遠く、此処が本当に並盛なのかさえ、分からなくなってしまいそうだった。
 風が吹けば木々はざわめき、細波のような音を立てる。肌寒さを覚えて身震いした彼は、下草を踏みしめてリボーンが近付いて来るのを黙って待ち、強張りを解いた。
 意識して肩の力を抜き、両手を柔らかな草の上に落とす。掌が上を向いて、指の先を硬い茎が掠めた。
「明日があるんだ。ちったぁ眠っておかねーと」
「うん」
 口煩い説教が始まって、綱吉は間髪入れずに頷いた。拍子抜けするほどに呆気なく放たれた承諾の意に、リボーンは怪訝な顔をした。
 快諾しておきながら、綱吉はまだ立ち上がらない。物憂げな視線を闇に投げ、そのうち疲れたのか瞼を下ろした。この場で休むつもりなのかを探るべく、リボーンは次に繋げるつもりだった言葉を留めたが、三十秒過ぎても彼はその姿勢のまま動かなかった。
 呼吸は安定しているし、緊張で震えているわけでもなさそうだ。眠れないから寝ない、というのとは違うと判断し、赤子は難しい顔をして視線を伏した。
「お前って」
「なんだ」
「実は凄かったんだな」
 彼の注目が外れるのを待ったわけではないが、入れ替わりに綱吉が瞼を持ち上げ、リボーンを見た。直ぐに反応した赤ん坊が、黄色いおしゃぶりを撫でながら眉間の皺を深める。続いた言葉に、彼は余計に顔を顰めた。
 呆れているのか、当惑しているのかは、僅かな表情の変化からでは掴めない。ただ綱吉はどちらでも良かったようで、不機嫌に尖ったリボーンの口元を見て、気の抜けた笑みを浮かべた。
 それで益々気を悪くしたリボーンが、一段と低い声で凄みを利かせる。
「当たりめーだ。俺はな」
「最強のヒットマン、だろ」
 しかし先手を打ち、続く台詞を横から攫った綱吉がまた笑った。彼は嘆息と共に帽子の鍔を引き下ろした。
 表情が隠れてしまった二頭身の赤ん坊に小さく舌を出し、綱吉は頬杖をついて猫背になった。
 白蘭と対峙した時、リボーンは迷うことなくユニを守った。自分の命など一切顧みず、彼女を守る為だけにこの男は銃を取った。
 一方の綱吉は、迷った。即断出来なかった。
 ふたりの間に、どんな違いがあったのか。無論経験や、知識や、能力の差はあれど、綱吉にはリボーンにあったものが、決定的に足りなかった。
 覚悟。そして、自信。
 必ず助ける、必ず守る。守り抜く。そう覚悟せしめるだけの己自身に対する自負が、思う程に身に付いていなかった。
 手に入れたと思った。掴んだと思っていた。だけれど、足りなかった。
 直前のチョイスでの敗北と、入江正一の負傷と、彼から告げられた戦いの真相で動揺していたのもある。そんな状況下では、気持ちを切り替えるなどどだい無理な話だった。
 目の前の状況を理解するだけで精一杯で、不利を好機に切り替える絶好のチャンスを自分で潰すところだった。
 リボーンが居てくれなかったら、あの後どうなっていたか。想像するだけで恐ろしい。
「なあ、リボーン」
「さっさと寝ろ」
「もし、俺とお前が出会わなかったら、どうなってたんだろう」
「……」
 説教を無視し、綱吉は頬杖解いた手で膝を抱えた。斜め前の闇を見据え、目線を合わせぬまま言葉を紡ぎだす。リボーンは返事せず、押し黙った。
 パラレルワールドという概念が出た時、誰しもが似たような事を考える。もしも今と違う世界があるのだとしたら、そちらの自分はどうしているだろうか、と。
 難しい二者択一を迫られた場合、どちらを選んでも後悔することがある。本当にこれが最良だったのか、あちらを選ぶ方が良かったのではないか。日頃は忘れていても、ある拍子にふっと思い出して思い悩むのは、誰にだって経験がある事だ。
 そんな「もしも」の世界が実在するのだとしたら、覗き見たいというのも人間として当然の欲求だろう。だが、それは決して果たされてはいけない願望だ。白蘭はその禁忌を破り、己の能力を自分の欲望のために利用した。
 もし、あの日に。
 もし、あの時に。
 もし、ああしていたら。
 考え出せばキリがなく、望んでも詮無い。
「さぁな」
「なんだよ、冷たいな」
 少しくらい同調して、話に乗ってくれてもいいのに。不貞腐れた声で、けれどどこか楽しげに不満を言った綱吉に嘆息して、リボーンはまだ何か言いたげにしている彼に顎をしゃくった。
 無言で続きを促されて、綱吉は目尻を下げた。
「もしお前が居なかったら、俺はマフィアの後継者だのなんだの言われることもなくて。そしたら、獄寺君が日本に来ることもなくて。山本や京子ちゃんと仲良くなることも、やっぱりなくて」
「ああ」
「そしたらみんなをこんな風に、危ないことに巻き込むこともなかったんじゃないかな、って」
「……」
 一度だけ相槌を打ち、リボーンはその後口を噤んだ。無愛想な彼に肩を竦め、綱吉は再び闇に目を向け、立てた膝に顎を置いた。
 身体を小さく、コンパクトにまとめている姿は、まるでこの世界から自分の存在を隠したがっているように映った。
 もとより、綱吉は出来るだけ目立たず、地味に、景色のひとつになるくらいに存在感を消して生きて来た。それが突然、この世の命運を左右する戦いのど真ん中に放り込まれたのだから、逃げ出したい気持ちに駆られるのも致し方の無い事かもしれなかった。
 頬を右膝に押し当てて凹ませた彼は、幾らかの自嘲を含んだ笑みを浮かべ、半眼した。
「それで、俺は。今頃家の布団の中でぐだぐだしてるんだ。面白くも無いゲームがクリア出来ないのに苛々して、明日学校行くの嫌だなとか、宿題やってないとか、テストが返ってくるのが憂鬱だとか、そんな事を夢の中でも考えてるんだ」
 どうやって授業をサボるか、母親にどんな嘘をつくのかだけは必死に考えて、他の事はどうでもいいと見て見ぬフリをする。この世がどうなろうと知ったことではなく、ただ自分を囲む狭い世界が現状を維持するのだけを切望する。
 そんな、実に馬鹿らしい思いに終始して、一生を終えるのだ。
 誰とも争わず、誰ともいがみ合わず、下ばかりを見て、自分で自分を見下して。
 曖昧に笑った綱吉を暗がりの中で見上げて、リボーンは首に提げたおしゃぶりを撫でた。ちらりと後ろを振り返り、歩み寄る影が無いのを確かめて、最後に煌々と夜を照らす焚き火に目を向ける。
 今、綱吉とリボーンが此処で語らいあっている事実を知っているのは、見張り役の太猿くらいだ。
 ボンゴレ側の戦力が年端も行かない子供ばかりだというのを目の当たりにして驚き、ろくに戦えぬ自分を恥じ、ならば戦いの場以外ではせめて大人として彼らを守ろうと、そういう背中をした男だ。
 子供の無邪気さが無い分、場の空気を察して状況を読み解く能力も持ち合わせている。綱吉が何故疲れた身体を押して見張り役に手を挙げたのか、そして何故皆と離れた場所で、されど遠くなり過ぎぬ場所に長時間留まっているのかも、おおよその見当がついているのだろう。
 そしてそこにリボーンが立ち入り、戻って来る様子が無いのも、また。
 見た目に反して聡く、思慮深い男を思い浮かべて表情を緩め、リボーンは遠くばかり見ている綱吉の脛を、力いっぱい蹴り飛ばした。
「いって」
 弁慶の泣き所を攻撃されて、綱吉は姿勢を崩して前のめりに倒れた。投げ出した両手を左右に広げ、不恰好な前屈姿勢を取った彼を笑い、赤ん坊はおおよそ年齢不相応な表情を作った。
「リボーン」
「本気でそう思うか」
「……もしもだよ」
 この世界最強の殺し屋を自負する家庭教師がやってきて、日々ドタバタが繰り返されるようになってから、綱吉の人生は一変した。
 誰も期待していなかった人間が、大勢の命運を双肩に背負い、困難に立ち向かう。そんな事、ダメダメのダメツナな彼しか知らない人間は、一切信じないだろう。
 綱吉自身も、まだこれが悪い夢の延長線上だとぼんやり思っている。そうであればいいと、心のどこかで考えていた。
 だから、思う。もしリボーンがあの日、沢田家のポストに出張家庭教師のチラシを入れなければ。それを奈々が見て、興味を示さなければ。彼女の要請に、リボーンが応えなかったら。
「ありえねーな」
 彼の妄想を鼻で笑い飛ばし、リボーンは肩を揺らした。
 小さな手を腰に当て、ふんぞり返って自信満々に言い放つ。あまりにもあっさり言われてしまって、聞こえたはずなのに綱吉はきょとんとした。
 意味を理解するのに数秒必要で、待っている間、リボーンはぽかんと間抜けに開いた彼に口に銃口を突っ込んでやりたくなった。そういう悪戯は悪くないが、変に騒いで皆を起こすのは本意ではない。綱吉だって同じだろう。
「なんで」
 語尾の上がらない、平坦なトーンの質問に口角を歪め、赤子は不遜に喉を鳴らした。
「オメーの名前は、なんだ」
「えっ」
 いきなりそんなところから訊き返されて、綱吉は面食らった。大きな目を忙しく瞬かせ、草の上に座り直して頬を引っ掻く。質問の意図を探って返答を躊躇するが、結局分からないから良い、と諦めたらしい。揃えた膝に両手を並べた。
 沢田綱吉。それが、彼がこの世に現れてから寿命が尽きるその瞬間まで、永劫変わることのない彼の名前だ。
「母親は」
「母さん? 沢田奈々」
「父親は」
「沢田家光」
「祖父は」
「じいちゃん? え、えっと……」
 顔もろくすっぽ覚えていない人物まで名を挙げるように言われて、さしもの彼も戸惑いを前面に押し出した。思い出せない言い訳として、どうしてそんな情報が、今更必要なのかと問い詰める。
 第一リボーンは、最初に綱吉に会った際に、どこから入手したかは不明だが、沢田家の家系図を所持していた。だからこんな基本情報、彼が知らないわけが無い。
 今更分かりきったデータを此処で再確認する意味が何処にある。声高に叫んだ彼の呼吸が静まるのを待ち、赤子はほくそ笑んだ。
「そうだ。オメーは沢田綱吉で、父親は家光だ。オメーの曾曾曾じいちゃんが、沢田家康。ジョットだ」
「う……」
 イタリアから日本に渡った初代ボンゴレは、この地に帰化し、日本人として晩年を過ごした。その血脈は粛々と受け継がれ、長い時を経て綱吉に至った。
 たとえ何十分の一だけだとしても、彼にはイタリア人の、否、初代ボンゴレの血が流れている。この事実に偽りはなく、この血筋なくして綱吉はこの世に存在しえない。
 そしてリングは、所有者を選ぶ。
「オメーも見ただろう、ザンザスがリングに拒絶される瞬間を」
 綱吉は押し黙った。頷くことも、首を振って否定することも出来なかった。
 リング争奪戦の終盤、綱吉たちから奪い取ったリングを指に装着したザンザスは、その血筋が正統な継承者に値しないと判断され、リングの炎に巻かれた。
 彼は、自分が九代目の実の息子でないのを知っていた。それ故に、己の存在意義を見出す為だけに、ボンゴレリングを欲した。
 彼が自分を認めたかったのか、それとも認めて欲しかったのかまでは、綱吉には分からない。だが彼の執念とも言うべき思いの強さには、打ちのめされた。
「なんかそれって、結局俺じゃなくても良かったって事みたいだ」
「ツナ」
「俺が偶々、初代の血筋の上にいたからっていうだけで、選ばれて」
「そうだな」
 ボソリと呟いた率直な思いを、リボーンは呆気ないほど簡単に認めた。否定したところで、その否定は嘘にしかならない。逡巡もなしに頷いた彼を横目に見て、綱吉は苦笑した。
 もし家光と奈々の間に産まれたのが綱吉でなかったとしたら、運命は違う方向に動いていたかもしれない。だが結果的に、世界は綱吉を求めた。運命がそうなるべき方向に傾き、彼はこの世に生を受けた。
 ご大層な話だと、彼は笑った。
「俺、そういうのって、あんまり好きじゃないんだけどな」
 人の一生は最初から全て決められていて、人は目に見えない何かが定めたレールの上を、ただ歩いているだけだという考え方は、肌に合わない。そんな横暴を認めてしまったら、何をやっても無駄だと諦めて、抗うのを止めてしまいたくなる。
 自分の人生は自分で決めたい。自分の進む先くらいは、自分で選びたいではないか。
「だから、色んな世界があんだろ」
「ああ……」
 そうか、と横から割り込んできたリボーンの言葉に妙に納得して、綱吉は頷いた。
 もしも、の数だけ本当に世界が存在するのだとしたら、予め定められた運命なんていうものは最初からありえない。そんなものがあったら、世界は別たれることなく、永遠に一本道だ。
 自分たちの手で未来を選び、変えられる。それが分かっただけでも、少し心が晴れた気分だった。
「ん? てか、ありえないって」
「だから言ってんだろうが。リングは所有者を選ぶんだぞ」
 微妙に話の本筋がずれているのに気付き、綱吉は目を丸くして息を吐いた。少し前に立ち戻って、リボーンの発言を諳んじる。そうしたら今度は腰を蹴られて、骨に沁みた激痛に彼は地面に突っ伏した。
「なにすんだよ!」
「分かってねーから、お仕置きだ」
 大声を張り上げ怒鳴るが、リボーンは何処吹く風と易々受け流してくれた。いつも通りのスパルタぶりを発揮して、にんまりと不敵に笑う。
 これ以上口答えすると、今度はもっと痛い一撃が来ると予想して、綱吉は喉まで出掛かっていた罵声を飲み込み、眉間に皺を寄せた。
 例え話のスタート地点は、もしも綱吉が彼に出会わなかったら、だ。そうすれば綱吉はマフィアの後継者争いなど無縁のまま、自堕落な日常を延々と送っていたのではなかろうか、と。
 皆を巻き込まずに、平穏無事で、面白みもなく、新鮮味もなく、つまらない、味気ない、色の無い世界を漂い続けたのではないか、と。
 だがリボーンは、それはありえないと言う。
「リングは……俺を、選んだ」
 大空のリングをパーカーの上から握り締め、綱吉は口の中で呟いた。視線は宙を彷徨い、服を掴む右手に落ちた。
 ボンゴレリングは、正統な血筋を選び取る。どう足掻こうとザンザスがこれを得ることはない。そして九代目には、他に子が無い。無論分家筋は多々あろうが、初代から連綿と続く血筋の者として、沢田綱吉の正統性は非常に高い位置ある。
 今の状況は、こうなるべくして成された結果だ。
「俺は、逆だと思ってたがな」
「え?」
「俺が居なかった時の方が、よっぽど恐ろしいだろ」
 小声過ぎて聞き取れず、聞き返した綱吉に彼は意地悪く笑った。ふふん、と鼻を鳴らしながら言われて、一瞬考えた綱吉は視線を泳がせ、渋い顔をした。
「確かに」
 奥歯をカチカチ噛み鳴らして、物凄く嫌そうながら同意する。もしリボーンの言う通り彼が沢田家に現れないまま、ただボンゴレリングだけが綱吉の元にやって来た場合、状況はどうなっていたか。
 訳が分からないまま突如騒乱の渦中に放り込まれ、何も出来ぬまま綱吉の人生は不条理に終わりを告げていたに違いない。
 となれば、前もってある程度の準備や覚悟が出来ていた今のほうが、まだよっぽど救いがある。
 広げた手を額に押し当て、彼は天を仰いだ。なるほど、彼の言う通りかもしれない。そして今まで、そういう方向には考えた事がなかった。
「なんだよ、もう。結局今が一番良いってことか」
「だな」
 呻くように言った綱吉を呵々と笑い、リボーンは右の目尻を擦った。
 結論が出て、綱吉の肩にも今頃になって眠気が落ちてきた。どんっ、と勢い良く背中からぶつかってこられて、あっという間に全身を包み込んでしまう。大きな欠伸を零した彼を見て、リボーンもつられて口を開いた。
「ふぁ、あぁぁ……」
「早く寝ろよ。明日寝坊なんざしてみろ、どうなるか分かってんだろうな」
 明日の朝、いよいよ最終決戦が始まる。こんな風にのんびりと過ごせるのも、あと僅かだ。
 残り時間を計算したら気が滅入りそうだったので止めて、綱吉は首の後ろに手を当て、軽く頭を振った。先に歩き出したリボーンを追いかけて視線を巡らせ、暗がりにおぼろげな輪郭を浮き上がらせている赤子の背中を見やる。
 呼びかけようとしたら気配で気付かれて、彼の方から振り返った。
「どうした」
「あ、いや。……あのさ、リボーン」
 問うていいものかどうかで一瞬迷い、矢張り気になるからと自分を鼓舞して勇気付ける。握った拳を胸元に押し当てた彼を見て、リボーンは身体ごと向き直った。
 遠くに焚き火の、か細くも確かで、それでいて暖かい光が見えた。
「お前は、なんていうか、その。俺に会えてよかったって、そう思うか」
 もし彼が日本の沢田家にやってこなければ、綱吉の世界は何も変わらぬまま、無機質な時の流れに飲み込まれて消えていた。綱吉が彼に出会えたのは偶然の奇跡で、必然であり、そして運命の悪戯だ。
 彼が居なければどうなっていたか、想像に難くない。ゾッとする光景を脳裏に描き出し、綱吉は首を振ってこれを打ち消した。
 それは起こり得なかった未来だ。リボーンも言っていたではないか、ありえないと。
 だから綱吉は、彼と知り合えて良かったと思っている。時たまにとても憎らしく感じ、居なくなってしまえと本気で願う事もあるけれども、彼と共に過ごした時間は、最早消すことの出来ない大切な記憶だった。
 だから彼も同じ気持ちでいてくれたら、嬉しい。そう心の中で祈りながら問うたのに、何故かリボーンは直ぐに返事をくれなかった。黙って頷くなり、笑うなりすると思っていたのに、彼はいやに神妙な顔をして、口をヘの字に曲げた。
 不機嫌に歪んだ表情に、一抹の不安を覚えた綱吉は己を抱き締めた。
「リボーン」
「ツナ、いい事を教えてやる」
「え?」
「そういう質問はな、死出の旅路に出る奴にするモンだ」
 リボーンが小さな手を横に払った。風にはならなかったが、吹き飛ばされそうになって綱吉は背筋を伸ばした。
 呆気に取られ、反応が遅れる。ぽかんとしていたら、今度こそリボーンは笑った。
「そういう時じゃねーだろ?」
「あ、ああ」
 一瞬頭の中で言葉が漢字に変換できなかった。今になってようやく意味が理解できて、不穏な事を聞いてしまったのだと自分に反省を強いて、綱吉は曖昧に頷いた。
 口元に手をやって、惚けていた顔を軽く叩いて神経に電流を走らせる。苦い唾を飲んで肩で息をした彼は、からからと笑って去っていったリボーンの背中に首を振った。
 巧くやり込められて、誤魔化されてしまった気分だった。
「なんだよ、それ」
 確かに自分たちは生か死かで言うなら、微妙に死に傾いた天秤の上に立たされている。夜が明けて朝がくれば更に揺れ動き、安定を見るのがいつになるかははっきりしない。
 ただ、だからといって大人しく死の縁から奈落にダイブしてやるつもりは、毛頭なかった。
 貴方は私と共に在れて幸せでしたか。確かに後から思えば、それは旅立ちを迎えた人に縋る最後の言葉に聞こえた。
 では、いつか教えてくれるのだろうか。答えを聞かせてくれるのだろうか。
 追いかけて問い詰めようと決めて、綱吉は立ち上がった。しかし三歩目を踏み出したところではたと我に返り、今し方自分の脳裏を過ぎった言葉に赤くなった。
 死の間際まで一緒にいたい、だなんて。
 これではまるで、自分が彼の事を――
「ばっ……んな、もう。やめよう」
 今は聞かなくていい。首を振り、追求を諦めて足元を踏みしめる。しかしどの道横になるには皆が集まっている広場に戻るしかなく、彼は渋々重い足を引きずり、暗がりを抜けた。
 リボーンは、と探せば、彼はランボを押し退けて女子たちの間にちゃっかり居座り、鼻ちょうちんを大きく膨らませていた。
「寝ろよ」
「はい。有難う御座います」
 一度は敵だった男に頭を下げ、綱吉は自分に宛がわれた寝床に向かった。やや内股に、小走りに去っていった彼に怪訝な目を向けた太猿だったが、追加で質問を繰り出すことはせず、直ぐに意識を目の前の炎に戻した。
 綱吉の顔が異様に赤かった事実は、墓の下まで持って行ってやろうと心に決めて。

2010/04/07 脱稿