連係

「退屈」
 突然、前触れもなく真後ろでぼそりと言われて、漫画雑誌に目を落としていた綱吉はぎょっとした。
 寄りかかっていたパイプベッドから背中を浮かせ、腰を捻って振り返る。ページを捲ろうとしていた指が薄い紙を抓み損ねて、親指の爪が人差し指の腹を擽った。
 急にどうしたのかと目で問い掛けるが、人のベッドを占領し、胡坐をかいて座っていた青年は不機嫌に顔を歪ませただけで、じろりと睨みを利かせた後は、ダンマリを決め込んだ。
 肩に羽織った学生服の裾でシーツを擦り、座ったまま膝を動かして綱吉に躙り寄る。あまり近付き過ぎると落ちてしまうので、ある程度の距離は保たれたが、彼が迫ってくる恐怖に綱吉は冷たい汗を流した。
 ぎこちなく笑い返し、息を吐いて緊張を解く。読みかけの雑誌を閉じて床に置くと、彼はそっぽ向かせた視線を戻し、面白く無さそうに頬を膨らませた。
「退屈なんだけど」
「そんな事言われても」
 いきなり人の部屋に押しかけてきて、居座っているのは彼の方だ。用件を問えば特にないと言われて、何か欲しいものがあるのかと聞けば、これもまた無いと返された。
 ならばいったい何をしに、彼は此処に来たのか。どうせいつもの気まぐれだろうが、急に訪問される側からすれば、心臓に悪くて仕方が無い。
 ムスッとした顔の雲雀を見上げ、綱吉は弱りきった表情で眉間の皺を深めた。
 こういう時こそ居て欲しいリボーンは、生憎と留守にしていた。ビアンキと一緒に桜見物だとかで、夜遅くにならないと帰って来ないと聞いている。
 どうしてこうもタイミングが悪いのか。愚痴を言ったところで始まらないが、思わずにはいられない。綱吉も雲雀に倣って口を尖らせ、ややして重い溜息を吐いた。
 はあ、と聞こえた声に雲雀は右の眉をピクリと持ち上げ、何もしていないに関わらず疲れた顔をしている綱吉を斜め後ろから見詰めた。
 薄茶色の髪は四方八方に向かって跳ねて、まるで毬栗かなにかのようだ。しかし鋭そうに見える棘も、実際に触れてみれば意外なほどに柔らかいのを、雲雀は既に知っている。
 試しに手を伸ばすが、触れようとした寸前で綱吉が首を振ったので、彼は慌てて肘を引っ込めた。
「?」
 間近で生じた衣擦れの音に、綱吉が一歩遅れて振り返る。若干赤い顔をしてそっぽ向いている雲雀をそこに見出し、彼は苦虫を噛み潰したような顔をした。
 かれこれ三十分近く、こんな調子だった。
 雲雀が入って来た窓は全開を維持し、端に寄せられたカーテンが風を受けて軽やかに踊っていた。床に落ちた陽射しがフローリングに反射して、天井でゆらゆらと泳いでいる。そちらに目をやった綱吉は、続けて壁時計の数字を読み、肩を竦めた。
 コーヒーの一杯でも供しようかとしたのだが、要らないと言われてしまった。不要と拒否されているのに敢えて用意するのも失礼かと、結局綱吉は、彼が来てから一度も部屋を出ず、それどころか殆ど動いていなかった。
 日曜日の昼下がり、ぽかぽか陽気に包まれて、子供達はきっと今頃昼寝の真っ最中。
 耳を澄まして階下の様子を窺い、自身も欠伸を零して、後ろから睨んでくる気配に綱吉は首を竦めた。
 恐々振り返れば、案の定雲雀が凄い形相をしていた。目を吊り上げて、今にも隠し持ったトンファーを取り出して殴りかかってきそうな雰囲気だ。
 しかし実際にそんなことにはならず、彼は盛大に嘆息して背中を丸めた。見る間に怒気の波が引いていくのに胸を撫で下ろし、綱吉は黒髪を掻き毟っている彼に怪訝な目を向けた。
「沢田」
「はい」
「キャッチボールでもしようか」
「はい?」
 そうしたらいきなり名前を呼ばれて、素直に返事をしたら奇妙な事を言われた。
 思わず声が裏返り、目が点になる。凡そ雲雀らしからぬ台詞に吃驚してしまい、二の句が継げなかった。
 ぽかんと間抜けに口を開いた彼をまたも睨み、雲雀は苛立ちに顔を顰め、握り拳でベッドを殴った。シーツから埃が立ち上り、陽射しの中でキラキラと輝いた。
 これが山本だったなら、綱吉は何の違和感も抱かなかったに違いない。野球部に所属し、投打に活躍している彼ならば、ボール片手のお誘いは不思議でもなんでもない。
 だが、今此処にいるのは雲雀だ。並盛中学校風紀委員会委員長にして、泣く子も黙る最強の不良。運動神経は抜群ながら、協調性の無さが災いして、団体戦など永遠に参加不可能な雲雀恭弥だ。
 呆気に取られている綱吉に顰め面を作り、雲雀はもう一発シーツを殴って胸の前で腕を組んだ。
「嫌なの?」
「ひっ」
 凄みを利かせた声で問われ、我に返った綱吉は顔を引き攣らせた。
 嫌だと言ったら、今度こそトンファーで滅多打ちの刑にされそうだ。一応まだ彼の両手は空っぽで、そうと知られぬようにホッと胸を撫で下ろしてから、綱吉は額に浮き出た汗を拭った。背中を伝った雫の冷たさに息を飲んで、奥歯を噛み締めた彼は、慎重に言葉を選び、口を開いた。
「あの、嫌ってわけ、じゃ、ないんですけど。うち、ボールは、ちょっと」
 子供達が遊びに使う、掌大のゴムボールくらいならある。しかしそれを正直に教えて、雲雀を調子付かせてやる必要も無い。
 人差し指を小突き合わせてしどろもどろに断ろうとした彼に益々むっとして、雲雀はやおら、首を振った。
 横に。
「そうじゃない」
「?」
「そっちじゃなくて」
 綱吉の解釈を否定し、戸惑っている彼に苛々しながら、左の人差し指で膝を叩く。トントン、とリズムを刻みながら暫く考え込んで、彼は巧く説明出来ないのが悔しいのか、前髪を掻き毟った。
 いつだって不機嫌な彼だけれど、普段とは少し趣が違っている。綱吉は不思議そうにしながらも黙って待ち、向き合う形で座り直した。
 膝が漫画雑誌の角を打ち、端がベッドの下に潜り込んでしまった。引き出そうと思ったけれど上で雲雀が身じろいだので、彼は出しかけた手を引っ込め、緩く握って背中に隠した。
 苦悶の表情を浮かべた雲雀が、向けられた琥珀の視線を真っ直ぐ見詰め返して首を振った。
「僕は、退屈なんだけど」
「それは、……だって」
 会話がスタート地点に戻ってしまって、綱吉は口篭もった。
 言い返そうとしたものの、途中で言葉が切れてしまって後が続かない。あ、ともう、ともつかない呻き声を短く発して、彼はもう片手も後ろに回した。
 一緒に視線を伏して瞼を閉ざした彼を見下ろし、雲雀は崩した胡坐をどうにかしようとして、結局はまた胡坐を作って頭を垂れた。
 交差させた足首に両手を置いて、重ね合わせる。靴下のちょっと湿った感触は快いものではなくて、彼は直ぐに肩を左右に広げて、手の甲からベッドに落とした。
「僕は」
 口を開いて息を吸い、音に変換して、吐き出す。綱吉が顔を上げて、目が合った。
 どきりとしてしまって、それで声が変なところで途切れる。不思議そうにされて、雲雀は気まずげに言い直した。
「僕は君に、会いに来たのに」
「え?」
 響いた言葉にきょとんとして、綱吉は生まれつき大きな目を丸くした。素っ頓狂な声を零し、睨まれて慌てて両手で口を覆い隠す。
 そんな態度にも若干腹を立てて、雲雀は口を尖らせ、顔を背けた。
「それなのに、君は」
 声のトーンを落としてボソボソ紡がれる声は、非常に聞き取り辛い。腰を浮かせて身を乗り出した綱吉を横目に見て、彼は足を投げ出し、牽制した。
 蹴られそうになった綱吉が後ろに仰け反り、両手を支えに転倒を回避する。点になった綱吉の目に映る雲雀の耳は、黒髪で大半が隠れているものの、ほんのり赤かった。
 どういった意図での発言か、いくら馬鹿だと自他共に認める綱吉だとしても、その真意が分からない程愚かではない。彼もまたカーッと顔を赤らめ、奥歯を噛み鳴らした。
 数秒間無言で見詰めあい、先に雲雀が目を逸らした。不貞腐れたように伸ばした足をまた引き寄せて、踵をぶつけ合わせて指を丸める。
 不機嫌を隠さない彼に綱吉は恐縮しきりだが、かといって彼の言い分を丸ごと受け入れるなんて出来ない。そもそも無言の時間が続いたのだって、彼が飲み物の提供すら拒み、ベッドに陣取ってしまったからだ。
 話しかけても素っ気無い返事しかくれないから、喋りかけてはいけないのかと思った。何をしに押しかけてきたのかも教えてもらえなくて、自分の立ち位置が不安になった。
 相手にしてもらえないのが悔しくて寂しいから、自分から彼に構うのもやめた。彼が奇抜な注文をしてこないのを良い事に、読んでいる途中だった漫画雑誌に没頭した。
 自分に非があったのは、綱吉も素直に認める。だが全面的にこちらが悪いように言われるのは、気に食わない。
「だったらヒバリさん、もっとちゃんと、こう、……」
 言葉にして伝える努力をして欲しいと、膝の上で両手を上下させて指を蠢かせる。落ち着き無い彼の仕草を一瞥して、雲雀は立てた膝に頬杖をついた。
「君こそ」
「俺は、ちゃんと」
「僕が喋りかけても、直ぐに黙る」
 咎める口調で揶揄されて、綱吉は語気を荒くした。だがそれを上回る迫力で雲雀に言われ、彼は咄嗟に息を飲んだ。
 瞬きすら忘れて目を丸くし、呆然と彼の顔を見詰める。違う、と咄嗟に否定の言葉を口ずさもうとしたけれど、唇が細かく震えて巧く音にならなかった。
 綱吉が積極的に話しかけても、雲雀はろくすっぽ返事をしない。だが聞いていないわけではないので、短い相槌をひとつかふたつ、必ず返す。
 そしてふたりの会話は、いつだってそこで終わりを迎えた。
 始まりが雲雀でも、結末は大抵同じだ。綱吉はおっかなびっくり返事をして、雲雀が合いの手を返して、そこで終了。会話を途切れさせるのは、いつだって綱吉の方だった。
 気付いていなかったわけではない。だが、認めたくなかった。
 指摘されて、綱吉は背筋を戦慄かせた。温い汗が音もなくこめかみを伝い落ちて行き、後に残された感触に身震いして、息を吐く。
 真正面から見据えてくる雲雀から気まずげに顔を背け、彼は膝で両手を挟んだ。
「それは、だから、ヒバリさんがいつも」
「僕が?」
「……あんまり、喋ってくれないから」
 彼が多弁な方ではないことくらい、綱吉も知っている。だとしても、この口数の少なさは異常だ。
 喋る時には沢山喋るくせに、その反動なのか、普段はとても無口。綱吉と一緒にいても、それは変わらない。
 トンファーを手に群れている不良を叩きのめして回っている時のほうが、彼はよっぽど生き生きしていた。
 彼の気持ちが分からない。一緒に居られるのは嬉しいはずなのに、時々とても不安になった。
「それは君も同じじゃないの?」
 雲雀からすれば、綱吉こそ普段のお喋りが急激になりを潜めてしまって、面白くない。山本や獄寺達を相手に、いつも楽しそうに笑っているくせに、雲雀とふたりきりになった途端、彼はガチガチに緊張して、舌足らずになった。
 表情も強張って、滅多に笑ってくれない。他の連中には大盤振る舞いなのに、だ。
「そんな事」
「ない?」
「……」
 否定しようとして、先に言われてしまって、綱吉は俯いた。唇を噛み締めて、黙り込む。
 これではいつもと同じだ。繋がらない会話に苛立ち、雲雀は髪を掻き回して肩を落とした。
「沢田」
 やや棘のある口調で名前を呼ばれ、恐々顔を上げる。短気な自分を押し殺した雲雀が額にやった手を下ろし、前に伸ばそうとして、慌てて引っ込めた。
 奇妙な動きをみせた彼の指先を見送り、綱吉は居住まいを正した。
「ヒバリさん」
「だから。……キャッチボール」
「?」
 身を捩り、正座を崩して足首を左右に広げる。楽な姿勢を作った彼をチラチラ見ながら雲雀が言って、意味が分からなかった綱吉は小首を傾げた。
 数秒の沈黙がふたりの間を行き交う。握ったり、広げたり、忙しく動く雲雀の指先ばかりをじっと見詰めていたら、早々に限界に到達したのか、彼は乱暴に自分の太腿を殴り、綱吉の方に身を乗り出した。
 急に高い位置から迫られて、圧倒された綱吉が再度後ろに仰け反って逃げた。両者の距離は埋まらず、雲雀は苦々しい顔つきで舌打ちし、左手で顔半分を覆った。薄い皮膚に爪を立てて、引っかかれたそこが赤くなるのも厭わない。
「大体、君って」
「……?」
「君、ほんとに僕のこと、好きなの?」
 合間に呼吸を何度も挟み、ややくぐもった声で問う。低い声に鼓膜が震えて、脳髄を貫いた言葉に綱吉は瞠目した。
 瞳の表面が乾いて鈍い痛みが生じても、彼はなかなか瞬きしようとしなかった。苦虫を噛み潰したような顔をしている雲雀を凝視して、どういう理屈か本人も分からないまま、不意に「はっ」と息を吐いて笑った。
 小刻みに揺れる肩を左手で押さえつけ、奥歯を噛み鳴らす。寒くも無いのに歯の根が合わず、カチカチと不愉快な音が咥内に響いた。
 心臓が鷲掴みにされたみたいにぎゅっと小さくなって、萎縮した血管が血液の流れを阻害する。脳に酸素が行き渡らない影響か、綱吉の瞳から光が消えた。
 鮮やかな琥珀が見る間に曇り、翳っていく。
 好き。
 先にそう言ったのは雲雀だ。放課後の校舎、夕日が照る廊下を鞄抱えて歩いていた時に、すれ違った彼に呼びとめられた。
 振り返った先にいた彼は、西日を浴びて少し眩しかった。表情は髪の毛の影の所為もあって、はっきりと見えなかった。
 彼の唇がその二音を紡いで、綱吉は一瞬、何を言われたか分からなくて惚けた。間抜けな顔をしてぼんやり立ち尽くしていたら、雲雀は思いの外優しい顔をして笑ったのだ。
 その瞬間に、全部理解した。
 ボンッ、と音を立てて頭を爆発させた綱吉に呵々と喉を鳴らして、雲雀が行き過ぎたばかりの道を数歩戻った。鞄を胸に抱き締めて、夕日以外の理由で顔を赤くしている綱吉を撫でて、早く帰るように囁く。
 頷くしかなかった。
 ただ、想いを告白されたからといって、ふたりの関係が劇的に変わる、なんて事はなかった。
 たまに綱吉が呼ばれて応接室に出向いたり、今日のように雲雀が、半ば無理矢理綱吉の部屋にあがりこんだりするくらい。どこかに一緒に出かけることもなければ、長電話するなんて事もなかった。メールの往復も稀で、返事が一日遅れなんて事も、しょっちゅうだった。
 綱吉こそ、本当に雲雀が自分を好きなのか確信が持てない。好きだと言われたのだって、夕焼けが鮮やかだったあの日の一回限りだ。
「ヒバリさんこそ」
「なに」
 後ろに手を衝いて身体を支え、呻くように言う。矛先を向けられて、雲雀は不機嫌に眉根を寄せた。
 口をヘの字に曲げた彼を見ていると、我慢しているのが馬鹿らしくなってきた。
 綱吉だって彼に色々気を使って、喜ばせようとか、楽しませようとか、あれこれ考えた時期もあったのだ。しかし悉く空振りして、あまりのなしの飛礫具合に疲れてしまった。
 季節のイベントは一切無視、長期休暇中も滅多に連絡を寄越さない。彼と居るよりも、獄寺や山本たちと一緒に居る時間の方が、数倍長かったくらいだ。
 あの日の言葉は聞き間違いだったのか。それともとうに飽きてしまっていたのか。最初から冗談のつもりだったのか。
 考えれば考えるほど分からなくて、虚しくなった。聞いて良いものかどうか、自分から言い出すべきことかも判断つかなくて、宙ぶらりんのまま今日に至る。
 眼を中央に集めて睨んでくる雲雀に唇を噛み、綱吉はずっと押し殺してきた思いを胸の中で膨らませた。ギリッ、と臼歯が軋んだ音を立て、息苦しさに彼は喘いだ。
 短い間隔で息を吐き、
「ヒバリさんこそ、俺のこと、ホントに好きなんですか!」
 渾身の思いを込めて叫ぶ。
 硬く目を閉じて、唾を散らす。前方から押し寄せる風圧に前髪を揺らして、雲雀は呆然と目を丸くした。
 膝の上で細かく震えている、力みすぎて血管の浮き出た小さな手に一旦視線を向けて、雲雀は瞬きひとつで綱吉の顔に焦点を合わせ直した。
「え……?」
 掠れるほどの声を漏らした後は絶句して、ただひたすら瞬きを繰り返す。呆気に取られている彼の前で荒く息を吐き、肩を上下させた綱吉は、雲雀から表情らしいものが消えていく様をぼんやり見送った。
 切なさが胸を過ぎり、寂しさが尾を引いて後ろをついて駆け回る。皮肉に口元を歪め、笑おうとして、彼は。
 前方で林檎よりも赤くなった雲雀の頬を見て、背筋を戦慄かせた。
 音もなく開閉された唇が瞬時にそっぽを向いて、瞳が泳いで壁を射る。綱吉の方を一度だけ窺い見て、彼の視線が自分のあると知った瞬間また背けてしまって、以後は動かない。
 耳の先や、首にまで広がっていく鮮やかな赤をつぶさに見て取って、綱吉は一時萎えかけた気持ちがじわじわ膨らんでいく感慨に打ち震えた。
 太腿の辺りがもぞもぞして、心臓の辺りがぐるぐるする。ぎゅうっ、と縮こまったかと思えば急激に拡張して、血液が銅鑼を叩きながら全身を駆け巡った。
 足の先から鳥肌が這い上がっていく。最後にぶるりと震えた彼は、雲雀に負けず劣らずのとろこまで顔を赤く染めて、恥ずかしそうに顔を伏した。握りすぎて硬くなっていた拳を解き、熱っぽい頬に押し当てて身を捩る。
「なんで君が照れるの」
「ヒバリさんが変な事言うから!」
 二十秒くらいが過ぎた辺りで雲雀がわざとらしい咳払いをして、綱吉に向き直った。片足を引き寄せて腕に抱き、呆れ半分の声で問う。綱吉は顔を隠したまま首を振り、全部を彼の所為にした。
 言われていない。雲雀は何も言っていない。しかし今の彼の態度は、言葉で告げるよりもずっとはっきりと、彼の感情を表現していた。
 自分が好きかと綱吉に訊かれて、一瞬惚けた後に我に返った。息を飲み、返事をしようとして言葉に詰まり、目を反らして横を向いて、結局何も言えずに頬に朱を走らせた。
 感情の起伏が「怒」以外乏しい彼が、こうも露骨に動揺し、狼狽した。こんなことは、初めてだった。
 膝でダンダンと床を蹴り、綱吉は胸を擽るえもいわれぬ感情に心を躍らせた。
 ひとり暴れまわっている彼を見ているうちに、雲雀は徐々に冷静さを取り戻して、そっと嘆息した。肩の力を抜いて相好を崩し、ベッドの上で胡坐を作り直して膝に両手を置く。
 まだ身悶えている綱吉を呼んで、顔を上げさせる。
「沢田、キャッチボールしよう」
「ほえ?」
「今日起きたの、何時?」
「え? えっと、えー……いつだっただろう」
 急な質問に戸惑い、綱吉はまだ赤みの残る頬を引っ掻いて視線を浮かせた。雲雀が占拠しているベッドを眺め、暫く迷ってから午前九時頃だとはっきりしない記憶を搾り出して告げる。
 雲雀は枕元の赤い目覚まし時計を手に取って、タイマーがセットされた時間を確認した。
「日曜だからって、遅くまで寝てるのは感心しない」
「うぐ」
 平日は大活躍の目覚まし時計も、土日祝はお役御免で終日休業だ。学校がある日ももっと早く起きるように言われて、綱吉は唇を噛んで黙り込んだ。
 折角いい気分でいたのに、台無しだ。突然の話題変更に戸惑い、探る目で彼を見る。
 恨めしげな視線を正面から受け止める彼も、無言だった。
「あ、……そっか」
 不意に気がついて、綱吉は瞬きを連続させた。
 彼は待っている、綱吉が言葉を返してくるのを。
 ボールを使わないキャッチボールの意味が、やっと分かった。
「で、でも。日曜日くらいのんびりしたいじゃないですか」
「君の場合、日曜以外ものんびりしてると思うけど?」
「うあう」
 即座に手痛いひと言を切り返されて、綱吉は天を仰いだ。ぐさっと来た台詞に少しだけ傷ついて、雲雀の言葉を脳内で再生して、はたと気付く。
 日曜以外も、のんびりしていると。
 どうして彼は知っているのだろう。
「じゃあ、ヒバリさんは?」
 風紀委員会を率いている雲雀は、普段から多忙だ。お陰で一緒に過ごせる時間は、そう多くない。顔を合わせる回数だって、一日に一度あるか、ないか。
 だけれど綱吉が彼に気付いた時、彼は既に綱吉の方を向いていた。
 綱吉が知らなかっただけで、彼はいつも、綱吉の事を見ていた。
 胸がざわめく。小さな水滴から生まれた水紋は、徐々に大きくなって綱吉を包み込んだ。
「僕は、今日は五時半」
「はやっ」
「やっておきたい事があったからね」
「たとえば?」
「さあ。当ててみなよ」
 琥珀の瞳を揺らめかせ、綱吉は意地悪く問い返した雲雀を見詰めた。
 きっと昨日の自分なら、答えを言い当てられなかった。だけれど今なら、雲雀の心が手に取るように読み取れた。
「なんで、そこまで」
 湧き起こる歓喜に魂が震えた。それなのに恥ずかしくて仕方が無くて、彼をまともに見返せなくなった綱吉は顔を伏し、結んだ両手を胸に押し当てた。
 首の後ろまで真っ赤になっている彼に目を細め、雲雀は足を伸ばした。ベッドを降りて、フローリングを軋ませて綱吉の前に跪く。
 肩を掴んで後ろに揺すられ、綱吉は渋々顔を上げた。
 あの日、夕焼けが照る中で見たのと同じ笑顔が、そこにあった。
「そりゃ、勿論」
 あの日となんら変わらない思いが、ことばとなって溢れ出す。
 満たされて、綱吉は泣き笑いの表情で頷いた。

2010/04/17 脱稿