花冷

 気候は日増しに穏やかになり、雪の下で辛抱強く待ち続けていた木の芽が一斉に羽を広げる春。
 カレンダーを捲り、来たる季節に備えてクローゼットの整理もひと段落終えた家が多かろう、そんな時期だった。
「ひぃぃぃ……」
 壁に吊るされた年代物の水銀計を見て、綱吉は全身に鳥肌を立てた。
 奥歯をカチカチ鳴らし、足元から登って来た寒気を堪えて足踏みする。己の身体を抱き締めて腕をさすり、薄い布の下で摩擦熱を呼び起こす。
 だがその程度で体温が上昇に転じるわけがなくて、彼は垂れ落ちそうになった鼻水を啜り、かぶりを振った。温度計は十度を大きく下回り、この季節ではありえないところで停止していた。
 どうりで寒いはずだと、数字で示されて改めて思い知る。
 季節外れの寒気団が接近中と、テレビの天気予報が告げていたけれど、どうせたいした事は無いと高を括っていた。それが、まさかこんなにも冷え込むとは、世の大半の人も思っていなかったに違いない。その中の一人に紛れ込んだ綱吉は、昔懐かしいデザインの室内温度計をもう一度眺め、深々と溜息をついた。
 部屋を暖めるのに使う薪も、先週片付けたばかりだ。昨日まであんなにぽかぽか陽気だったのに、夜が明けてみればまるで別世界。急激に冷え込んだ上に、天気も悪くて、空は一面どんよりとしていた。
 見るからに重苦しい雲を頭上に置いて、気が沈まないわけが無い。彼は壁を離れて反対側に歩み寄り、小さな窓から空を仰いだ。太陽の姿はどこにも見えず、居場所さえ厚い雲に遮られて把握できなかった。
 時計は午後の早い時間を指し示しているのに、外は明け方か、夕暮れのような薄暗さだ。寝坊して今頃起きた人が、まだ朝早い時間だと勘違いしてまた布団に潜り込んでしまうくらいの。
 自分を例にとって考えて、苦笑を零す。口元に手をやって隠していたら、背後のドアがコンコン、と軽い音を立てた。
「はい」
 ノックに返事をして、体ごと向き直る。グレーに薄い縦縞が走ったスーツを翻した彼は、訪ねて来た人を直感的に悟り、顔を綻ばせた。
 迎え入れるための笑顔を準備して、寂しさを心の中に押し留める。ちょっとでも表に出したら、聡い人だから、直ぐに感じ取ってしまうに決まっている。困らせたくはなくて、だから綱吉は本音を瓶に閉じ込めて蓋をした。
「僕だけど」
「どうぞ」
 案の定ノックの後に響いた声は、あの人のものだった。間髪入れずに入室を促し、綱吉は暗い窓辺を離れて応接セットに歩み寄った。
 厚みのある一枚板のドアが開かれ、黒光りする靴の爪先が先ず室内に潜り込んだ。続けて長い脚、しなやかな腕が現れて、最後に凛とした佇まいの青年が綱吉を見た。
 掌でソファを提示した彼に頷き、雲雀はドアを閉め、ネクタイに指を入れて結び目を少しだけ緩めた。
「ゆっくり眠れましたか」
「畳じゃないと、どうもね」
 リラックスした雰囲気に安堵を覚え、綱吉はテーブルを挟んで向かい側のソファへ移動しながら問うた。雲雀は黒髪を掻き上げて怠そうに返し、肩を交互に回して骨を鳴らした。
 綱吉が日本の並盛を離れてから、季節は一巡した。二度目の春がやって来たと思いきや、足踏みした上で冬に逆戻りしてしまっているけれど。
 雲雀はひとり並盛に残り、並盛中学校風紀委員会を母体とする財団法人を立ち上げた。ボンゴレ雲の守護者でありながら、大空の守護者であるボスの綱吉には従わず、独自の理想と理念の下に活動を続けている。
 それはとても守護者らしからぬ行動であり、そしてとても雲の守護者らしい判断だった。
 ボンゴレの年寄り連中の意見は半分に割れて、未だに決着を見ない。しかし一度選ばれた以上、雲雀恭弥は死ぬまでボンゴレ十代こと目沢田綱吉の守護者だ。この決定は、どれだけ老獪が声高に不満を叫ぼうと、覆ることは無い。
 そうだと分かっていても、面と向かって「あの若造が」と言われると腹が立つし、気分も宜しくない。だから彼らを黙らせるためにも、たまには本部に顔を出すようにとしつこく言い連ねて、最近になって願いはやっと叶った。
 たった三日。
 されど、三日。
 電話やメールでのやり取りは頻繁だったけれど、直接顔を合わせるのはほぼ一年ぶり。互いの近況を報告し合い、昔話に花を咲かせるには、いくら時間があっても足りなかった。
 満足できた、とは言い難い。首に手を添えて左右に揺らした彼に苦笑して、綱吉は胸を過ぎった切なさに唇を噛んだ。
「今度、注文しておきますね」
 イタリアの古城は何処もかしこも洋風だ。雲雀が熟睡できる環境の整備が間に合わなかったのは、単純に綱吉の落ち度だ。
 空元気を振り撒いて告げた彼に目を細め、雲雀は一瞬だけ強まった鋭い気配を即座に消した。
 気付かれないようにそっと嘆息し、招かれたソファに腰を下ろして右を上に脚を組む。尻で踏んでしまったジャケットの裾を引っ張って左右に広げると、彼は先ほど緩めたネクタイが気になるようで、ついに解いてしまった。
 細長い紐を膝の上で遊ばせて、折り畳んで小さくしてから上着のポケットに押し込む。
「慣れませんか」
「堅苦しいのは嫌いだよ」
「俺も」
 学生服のネクタイとは、訳が違う。格式ばった格好を強いられる環境は、綱吉も苦痛だった。
 脚を組み替え、広げた腕を背凭れに預けた雲雀に同意して、綱吉も向かいのソファに座った。テーブルのポットカバーを持ち上げて、中身を取り出す。白い陶器のカップに注がれた紅茶は、まだ温かかった。
 艶やかな飴色の液体から、柔らかな湯気が何本も立ち上る。差し出された雲雀は黙って受け取り、砂糖もミルクもなしにひとくち啜ってソーサーに戻した。
「今日は冷えるね」
 体の中からじんわりと熱が広がっていくのを感じながら、ぼそりと呟く。綱吉は頷き、砂糖をたっぷり入れた紅茶を口に運んだ。
「こんなのは、珍しいんですよ」
「ふぅん」
 先週は最高気温が二十度を超えたのに、今日はその半分にも届かない。テレビや、獄寺から仕入れた情報をさも自分が調べたことのように並べ立て、綱吉は大皿に盛られたクッキーを一枚取り、頬張った。
 緩慢な相槌ひとつで終わらせた雲雀が、紅茶の揺れる水面から綱吉に視線をやった。続けてはめ込み式の小さな窓を見て、最後に沈黙している暖炉を振り返る。
 慌しく動いた彼の目線を追い、半分になったクッキーを口に押し込んだ綱吉が首を傾げた。
 膝の上で両手を重ねた彼は、不思議そうにしている綱吉に目を細め、ふっ、と力なく笑った。
「ヒバリさん?」
「そういう事を言われるとね」
 彼らしくない表情に眉根を寄せ、綱吉が身を乗り出す。両手を叩きつけられたテーブルが突然の地震に見舞われて、紅茶の泉が激しく波立った。
 綱吉の行動を咎めるように陶器が音を響かせ、気を取られた彼は下を向いた。そこに雲雀の声が重なって、どちらを優先させるかで迷い、綱吉は音もなく唇を開閉させた。
 思い切って前を向く。中腰の彼を笑って、雲雀は頬杖をついた。
「なんだか君が、ずっと昔から此処で暮らしていたみたいに聞こえるね」
 黒水晶の瞳が優しく、どこか寂しげに細められた。
「あ……」
 彼の視線は左に流れ、すぐに綱吉から外れた。向かう先は、窓。先ほどから小雨がちらつき始めており、外の気温はまた一段と下がったに違いない。
 肌寒さを覚えて肩を撫で、息を吐く。先に顔の向きを戻した綱吉は、行儀良く並べた膝に両手を置き、居心地悪く身を捩った。
 雲雀はまだ外を見ている。しかし彼が眺めているのが、部屋から臨む灰色の空でないのは確かだ。
 綱吉が並盛を離れてから、一年。日本にいた頃は全く喋れなかったイタリア語も、日常生活に支障が出ない程度には操れるようになった。新聞を自在に読み解くところまではいかないものの、店で買い物をしたり、バスに乗ったりする分にはなんら問題ない。
 習うより慣れよ、とは良く言ったものだ。全くもってその通りだったと、出国前にあれこれ心配していた自分を思い出し、綱吉は皮肉な笑みを浮かべた。
「そんなつもりじゃ」
 まだ一年しか経っていないと、改めて気付かされる。だが毎日が戦争状態で、ゆっくりする暇もなく、時間は怒涛のように過ぎて行った。
 いつの間にか此処での暮らしに慣れてしまっていた。宗教も、習慣も、言語もなにもかも異なるこの国に染まり、知らぬうちに日本の匂いを忘れてしまっていた。
 久方ぶりに雲雀に会った時、綱吉は嬉しいと思うと同時に、彼を懐かしいと思った。
「……俺、変わりましたか」
「うん」
「どんな風に」
「君は?」
 質問したつもりだったのに、はぐらかされて訊き返された。背筋を伸ばした彼の瞳に見入り、数秒の間を置いてから綱吉は首を振った。
 雲雀は一年前と何も変わっていないように見えた。背が伸びて、肩幅が広くなって、髪が少し短くなって、身体中に刻まれた傷跡も増えていた。しかし綱吉の目には、彼は以前から何一つ変わらないように映った。
 無言の返答は、雲雀には些か不本意だったらしい。口をヘの字に曲げられて、綱吉は困惑を顔に出した。
「ヒバリさん」
「嘘だよ。君は何も変わっていない」
「一寸くらいは」
「背も伸びてないし、髪の毛も相変わらずだし、触ればどこも柔らかいし、アレの狭さだって……」
「うわぁぁぁぁぁあぁ!」
 やや憤然とした面持ちで言い連ねていく彼の、最終的に行き着く先がどこなのか。ソファで踏ん反り返った雲雀の不穏な台詞に綱吉は顔を真っ赤にして、それ以上は言うなと悲鳴を上げた。
 大声を被せられて自分の声さえ聞こえなくなった雲雀が、ムスッとして口を閉ざす。一気に体温が急上昇して、肩で息をして汗を拭った綱吉は、苦虫を噛み潰したような顔をして目の前の男を睨んだ。
 彼は不敵な笑みを浮かべ、余裕綽々の表情を浮かべた。
「ともあれ、そういう事だよ」
「うぅ……」
 巧く誤魔化されてしまった気がするが、下手な事を言えば蒸し返されてしまいそうなので黙り、綱吉はソファに戻って天井を仰いだ。
 時計の針はゆっくりながらも確実に前に進み、ポットの紅茶はすっかり冷めてしまった。もう渋すぎて飲めないと、蓋を開けて中を覗きこんだ綱吉が嘆息して、雲雀はまたも窓を見た。
 白いものがちらついている気がして、近くから確かめるべく立ち上がる。
「雪」
「え、嘘」
 手持ち無沙汰にクッキーを抓んだ綱吉が、持ち上げたそれを落として勢いよく振り返った。雲雀は首肯して、慌しく駆け寄った彼に道を譲った。
 分厚いガラスに額を貼り付けて、綱吉は大粒の目を見開いた。
「うわ、……すご」
 率直過ぎる感想に雲雀は肩を竦め、ふわふわ踊る蜂蜜色の髪越しに灰色に曇る景色を見て眉根を寄せた。
 雪といっても、地面に落ちた瞬間溶けて消える淡雪だ。間違っても積もることはないだろう。しかし予想外の天候に、人々は綱吉動揺驚愕し、ガタガタ震え上がるに違いない。
 屋内にいるうちは、まだ良い。暖炉に火が入っていないとはいっても、密閉空間なので人いきれで自然と気温は上がる。
「寒そうだね、外」
「そうですね」
「どうしようかな」
 屋外に見入ったまま綱吉が相槌を打つ。真後ろから聞こえた思案気味に沈んだ声に、彼は五秒してから振り返った。
 腕を組んだ雲雀が、分かり辛いが困った顔をして立っていた。
「ヒバリさん?」
 何を迷っているのか目で問うと、気付いた彼は腕を解いて手を振った。薄紫のシャツの襟に指を入れ、軽く揺らして若干右にずれていた中心線を直す。開けた首元は白く、妙に艶めかしかった。
 一昨日の事を思い出して顔を赤くした綱吉を知らず、雲雀は彼と入れ替わる格好で前に出た。窓枠に手を置き、煙る景色に嘆息する。吐いた息がガラスにぶつかり、砕けて消えた。
「コート、持って来てないんだよね」
「ああ」
 若干前屈みになった彼の襟足を眺め、綱吉は頷いた。
 確かに此処最近ずっと暖かくて、コートなど着て外出しようものなら、散々な目に遭わされるのは確実だった。日本も、雲雀が言うには晴天が続き、気候は落ち着いているという話だ。
 まさか遠路遥々訪れた異国で、冬の様相に出くわすとは予想だにしていなかったに違いない。雲雀の困惑も納得できると、綱吉は再度深く頷いた。
「ん?」
 そうしてふとした違和感に、首を捻った。
「えっと」
「空港に着いてから買うのも悔しいな」
「あ、そっか」
 言葉を挟もうとした矢先、雲雀が独り言を呟いた。それを聞いて自分の中に湧いた疑問が解決して、綱吉はぽん、と手を打った。
 ひとりでなにやらやっている彼を横目に見て、雲雀はジャケットを撫でた。親指だけをポケットに差し込んで、勢いを強めない代わりに、弱まりもしない季節外れの雪景色に見入る。
 雲雀の帰国は、今日なのだ。夜の、遅い時間の飛行機で、彼は日本に向かって出立する。次に会えるのがいつになるかは、ふたりにも分からない。
 不慣れな異国で、不慣れな仕事を、しがらみの多い人間関係の中で続けるのは、正直言って骨が折れた。どうにか一年目を終えたものの、不手際の連続でかなり気が滅入っていたのも事実だ。
 絶対に投げ出さないと決めた手前、弱音を吐くのは雲雀との電話の中だけと決めていた。ボスという立場上、人前でおいそれと情けないところは見せられないからとやっているうちに、眉間の皺が深くなって、消えなくなってしまった。
 押し殺した本音は、行き場の無いまま綱吉の中を漂っていた。
「そうか。帰っちゃうんだ」
「うん」
 ボソボソ言えば、聞こえた雲雀が短く言った。それで余計に現実が差し迫ってきて、綱吉は不意に泣きたくなって、慌てて目を閉じた。
 腹に力を込め、他の事を考えて気を紛らせようとするけれど、巧く行かない。噛み潰し損ねた嗚咽が漏れてしまって、雲雀が肩を竦めるのが見えた。
 困らせないようにしようと最初に決めたのに、貫けなかった。彼に関することだけは、最後まで自分を律しきれない。それが悔しくて、鼻を膨らませて息をしていると、見かねた雲雀に額を小突かれた。
「変な顔」
 思いの外強い力で弾かれて、脳が揺れた。後ろに仰け反り、すぐに前屈みに戻した綱吉は、赤くなったおでこを両手で庇い、涙目で彼を睨みつけた。
 雲雀は呵々と笑って肩を揺らし、暖炉傍に置かれた古めかしい大時計を見た。
 続けて袖を捲り、腕時計の文字盤を見て、両者にズレが無いかどうかを確認する。この部屋の時計は確かに旧時代の遺物だけれど、毎朝獄寺が螺子を巻きに来た時に一緒に針を合わせていくので、余程でなければ間違ったりしない。
「もうそろそろかな」
「まだ早いですよ」
 腕を下ろした彼が呟くのに反論し、綱吉は右手を伸ばそうとして、途中で止めた。
 ここで彼を捕まえたら、手放せなくなりそうだった。
 イタリアに渡って直後は寂しくて、会いたくて仕方がなかった。生活習慣の違いに戸惑いの連続で、ホームシックにもかかった。奈々の手料理が食べたいと、ランボと一緒に大騒ぎをしてみんなを困らせた。
 そうしているうちに二ヶ月が過ぎ、三ヶ月が過ぎて、環境に慣れるに従って、故郷を思い出す時間が減っていった。
 忙しかった、というのもある。他の事を考えている暇が無いくらいに、毎日が戦争だった。リボーンに鍛えられていた時の比ではない、九代目こそ真のスパルタだと痛感させられた。
 雲雀恋しさも少しずつ薄れて、電話とメールのやり取りだけで意外に平気なものだと、半年を過ぎた辺りでぼんやり考えた。
 あの男が浮気などするわけがないと、半ば決め付けのように信じていたのも、大いに影響しているだろう。見た目に騙されて寄ってくる女はいたかもしれないが、大抵の場合彼の性格を知って大慌てで逃げていく。雲雀恭弥の本性を知って、それでも隣にいたいと思う人間は、全パラレルワールドを含めても沢田綱吉くらいしか居ない。
 直接会えなくても、話は出来る。テレビ電話を使えばリアルタイムの映像も見られる。
 だから三日前まで、一年も離れていたという実感はあまりなかった。
 イタリアと日本は遠い。遠いけれど、一瞬で音声は伝わる。そもそも並盛にいた時だって、綱吉と雲雀はそれほどべったりくっついていなかった。適度に距離を保ち、相手を束縛せず、過干渉もせずと、そんな関係だった。
 綱吉の言葉に雲雀は目を細め、ややしてから首を横に振った。
「だって」
 フライトは深夜だと聞いている。此処から空港まで、車での移動だとしても一時間と少しで充分だ。
 どう計算しても時間が余ってしまう。結局は彼を困らせるしか出来ない自分を恥ながらも、止められなくて、綱吉は言葉を連ねて彼の前を塞いだ。
 行かせない、そう告げる態度に肩を竦め、雲雀は一段と暗さが増した空を仰いだ。
「そうだ。もう一泊していってくださいよ。この悪天だったら、飛行機も飛ばないかもしれないし」
 彼の横顔に向かって言い放ち、妙案だと手を叩く。幾らか焦りを含んだ声に振り返り、雲雀はもう一度首を振った。
「駄目。明日、会談の予定が入ってる」
 すげなくあしらわれて、綱吉は頬を膨らませた。
 イタリアに発つ前から決まっていた予定であり、風紀財団にとって協力が欠かせない組織が相手なので、欠席するわけにもいかない。時差ボケを解消させる暇さえないが、承諾したのは雲雀本人だ。
 彼が出来ると判断したのだ、ならば彼は絶対にやり遂げる。たとえこの場に留めようとする綱吉の腕を引き千切ってでも。
「でも、飛行機が」
「もし欠航になるようなら、別の方法を探す。どちらにせよ、行動は早いほうがいい」
 この程度の雪で空港が閉鎖になるわけがない。綱吉も分かっているけれど、諦め切れなかった。
 遠くを見据えた雲雀のひと言に、絶望の帳が降りて彼を包む。震える拳を脇に垂らし、綱吉は唇を噛み締めて俯いた。
 会えなくても平気だという気持ちは、まやかしだった。
 三日前、雲雀がイタリアに降り立った日。空港の出口まで迎えに行った綱吉は、彼の姿を認めた瞬間、周囲の制止も振り切って走り出した。雲雀がゲートを潜るのが待ちきれなくて、空港職員ともみ合いまで起こした。
 予定していた歓迎パーティーも全部キャンセルして、空港近くのホテルに彼を連れ込んで、そこで夜を明かした。長時間の移動で疲れている彼に無理強いして、一晩中抱き合って過ごした。
 お陰で昨日一日、ふたりとも散々だった。城で待っていた人たちに謝罪して回って、ボンゴレの重鎮への挨拶も駆け足で済ませた。分単位どころか、秒単位のスケジュールを強制されて、息つく暇も許されなかった。
 あっという間だった。傍に居なくても平気だなんて思っていた自分が、今は信じられない。
 だけれど彼が帰国して、綱吉はイタリアでひとりに戻って、一週間もしないうちにその状況に慣れてしまうのだろう。
「どうしても……?」
「うん」
 声を絞り出して問うが、期待した返答はついに得られなかった。
 イタリアに渡る決断を下したのは、綱吉だ。日本に、並盛に残ったのは雲雀の意志だ。
 綱吉は肩も使って呼吸を整え、キリキリと締め付けられたように痛む心臓を撫でた。心を落ち着かせ、顔を上げる。目尻に残る涙を袖に吸わせて拭い、深呼吸を駆け足で二度繰り返した。
「電話しますね」
「うん」
「メールも。返事、ちゃんとくださいよ」
「分かってる」
 時差があるので思うように行かないことも多いけれど、地球半周分の距離も回線を通せば一瞬だ。物理的な遠さを感じさせない文明の利器が、非常にありがたかった。
 努めて明るい声を出した綱吉に頷き、雲雀が手を伸ばした。跳ね放題の髪の毛をくしゃくしゃに掻き回し、最後にぽんぽん、と叩くように撫でて離れる。
 逃げていく体温が惜しくて、綱吉は彼の袖を掴み、手繰り寄せた。
「ヒバリさん」
 言いたい事は山ほどある。伝えたい思いも、数え切れない。
 だけれどいざとなると、何も出てこなかった。
 真っ直ぐに彼を見詰め、折角止めた涙を浮かべて目を潤ませる。瞬きもせずにいる彼に微笑み、雲雀はまだ赤みを残す額を撫でてやった。
「失礼します」
 その手で細い肩を掴み、引き寄せようとした雲雀の背中を、第三者の声が叩いた。続けざまにドアをノックされて、瞼を閉ざそうとしていた綱吉は不貞腐れた顔をして頬を膨らませた。
 お互いに聞き覚えのある声に嘆息し、空気を読まない草壁に返事をする。
「なに」
「恭さん、そろそろ」
 出発の時間だと手短に告げた草壁は、遠慮してかドアを開けなかった。扉越しの台詞に綱吉がびくりとして、雲雀は壁時計に目を向けた。
 まだもう少しあると思っていたのに、その僅かな猶予さえあっという間に消えてしまった。
「分かった」
 名残惜しいのは事実だが、かといって感情を優先させていては何事も立ち行かない。現に綱吉は、一昨日に騒動を起こしている。彼が予定を変更して、急遽雲雀を空港から連れ出したお陰で、周囲がどれだけ迷惑を被ったかは今更論ずるに至らない。
 これ以上周りを巻き込むわけにはいかない。耐えるのも仕事のうちだと自分を戒め、綱吉は伸びようとする手を懸命に押し留めた。
 小刻みに震えている綱吉を振り返り、雲雀は一瞬躊躇した。なにか気の利いた台詞のひとつも言えたなら良かったのに、こういう時に限って何も浮かんでこなかった。
 四月の雪はまだ降り続いている。外気温は低いが、空港までの移動は車なので、寒さに凍える心配も少なかろう。水滴が垂れる窓ガラスの向こうに嘆息して、雲雀は爪先で床を叩いた。
「あ、待って」
 方向転換し、出口へ向かおうとした彼の背中に向かって不意に甲高い声を発し、綱吉は胸の前で両手を結び合わせた。
 振り返った彼と目が合って、小首を傾げる仕草だけで用件を尋ねられる。綱吉は背筋を震わせて伸びをして、落ち着きなく視線を左右に泳がせた後、ばたばたと騒音撒き散らして走り出した。
 テーブルセットの横を素通りし、奥のドアを開けて中に駆け込む。あんなところに部屋が、と思っているうちに、またひと際大きな物音が聞こえて来た。
 ビクッと肩を強張らせた雲雀が、様子を確かめにいくかで迷い、決めあぐねている間に、今度は後ろからノックが聞こえた。草壁だ。
 時間を急かすのではなく、外まで聞こえて来た音にどうかしたかと問われた。だが雲雀だって分からないのだから、答えようがない。返事を渋り、苛々している間にまたドタバタと足音がして、若干髪型を乱した綱吉がひょっこり顔を出した。
「えへ、へへ」
 照れ笑いを浮かべて誤魔化しながら戻って来た彼の手には、さっきまでなかったものが握られていた。
 細長い布、マフラーだ。
「使ってください」
 両端を左右の掌に載せて差し出した綱吉に目を点にして、雲雀は直ぐに我に返って苦笑した。
 その色と柄には見覚えがある。何年前かのクリスマスに、雲雀が綱吉に贈ったものだ。
 これと同じものが雲雀の、日本の自宅にもある。お揃いを狙ったわけではない。そちらは雲雀が、綱吉に貰ったのだ。
 何故かふたりして、どんな運命の悪戯か、同じものを互いに贈り合った冬。あの頃はまさか、離れて暮らす日が来るとは思ってもいなかった。
 懐かしい記憶が蘇って、少しだけ恥ずかしくなる。有り難く借りることにして、雲雀は撓んでいる真ん中を掴んで引き抜いた。
 少しだけ色がくすんでいるけれど、糸が解れたり、傷になっているところは見当たらない。大事に箱に仕舞いこむのではなく、ちゃんと使ってくれていたのだと分かって、嬉しくなった。
「借りるよ」
「はい」
 左右の手で広げ、首に巻きつける。玄関に出てからでも良いと内心思ったが、今すぐにこうしたい気分だった。
 二重にして、余った端は背中に流す。白い首のみならず喉元も隠れて、露出する肌の面積が減った。窓越しに伝わる外の冷気も遮断されて、熱が篭もって暖かかった。
 つい先月まで自分が使っていたものが、雲雀の首に絡み付いている。己の一部が彼を寒さから守るのだと考えると、綱吉も心が弾み、寂しいと感じていた気持ちが少しだけ和らいだ。
 空になった手を後ろに回して、綱吉は半歩下がった。雲雀の立ち姿を視界いっぱいに収めて、満足そうに頷く。
 雲雀は首の圧迫感を緩めようと微調整を繰り返し、形を整えて手を下ろした。笑っている綱吉に微笑み返して、しんしんと雪が降る外に目を向ける。
「すぐに返せないね」
 綱吉もこの後、直ぐではないが予定があった。本当は空港まで見送りに行きたいのだけれど、先だっての騒動もあって周囲が軒並み反対してくれた。
 彼を運ぶ車はレンタカーで、運転は草壁だ。かの大柄の男は雲雀と一緒に日本から来て、一緒に帰る。マフラーだけを配達してもらうことは出来ない。郵便で送る、という手段もあるけれど、それはそれで味気なかった。
 柔らかなマフラーを撫でた雲雀に顔を向け、綱吉は爪先で床を二度叩いた。
「じゃあ」
 別れの時間は刻々と迫っている。きっとドアの向こうでは、草壁が今か今かと辛抱強く待っているに違いない。
 瞳を伏し、綱吉は思い切って背筋を伸ばした。
「来年、返してください」
 早口に告げた彼に瞬きして、雲雀は肩の力を抜いて笑った。
「来年?」
「はい。次の、……冬に」
 常識外れの寒さが戻って来たものの、今は春だ。今日は偶々こんな天気だけれど、どうせ三日と続かないだろう。だからマフラーが手元になくとも、綱吉は別段困らない。
 そして次の冬が巡ってくるまで、まだ半年以上ある。
 それまでに再会出来るかもしれないし、出来ないかもしれない。そんな不確定な未来の中で、ひとつくらい約束を残しても許されて良い筈だ。
 綱吉の言葉に考え込む素振りを見せて、雲雀はマフラーに指を這わせた。自分が愛用しているものと全く同じ素材が使用されているに関わらず、肌触りが微妙に違う。染み付いた匂いも、完全に別物だった。
 思案気味に眉根を寄せた彼を見上げ、綱吉はもう半歩後退し、窓に寄った。灰色の空を視界の端に置いて、落ちていく白い粒を追いかけて瞳を泳がせる。
「次の、冬の……出来るなら、うん」
 雪の日に雲雀に貸すのだから、返してもらうのも雪の日が良い。
 そんな思いが胸を過ぎり、彼は頷いた。
「最初の雪が降る日に、返してください」
 何気ない思い付きを口にして、夢見がちな少女みたいだと自分を笑う。両手を口元にやって目を細めた彼に呆れ、雲雀は腰に手を宛がった。
「それはまた、随分と条件が限定的だね」
 溜息混じりに言われて、綱吉が目を瞬いた。
 振り返り、琥珀の目を真ん丸くする。それはやがて細くなって、自分の提示した条件が非常に厳しいと気付く頃には、まっ平らになっていた。
 冬の始まりなんて地方でもまちまちで、ましてや雪の降る日など、よっぽど天気予報の精度が良くなければ当てるのは難しい。日本で調べて、急いでイタリアに発ったとしても、間に合うかどうか。
「そうだった」
 距離的な問題があるのだとすっかり失念していた。呻くように言って、彼は自分の馬鹿さ加減にほとほと呆れ、額に手をやって肩を落とした。
「無理に決まってるよ」
「そうでもないよ」
「え?」
 叶いっこない、無謀な要求だった。後悔が押し寄せて、簡単に足元を掬われて転んだ綱吉だったが、雲雀はそうは思っていないらしい。あっけらかんと言い放たれて、彼は目を丸くした。
 聞き間違いかと首を傾げるが、雲雀は大真面目な顔をして、やがて噴き出した。からからと喉を鳴らし、きょとんとしている綱吉の頭を叩く。
 乱暴に扱われて憤慨し、押し退けて肩を怒らせた綱吉は、不意に真顔に戻った彼にどきりとして言いかけた言葉を呑んだ。
「簡単だよ。僕と一緒にいればいい」
「……はい?」
 スッと音もなく身を寄せて、至近距離から囁く。熱風を浴びせられた綱吉は竦みあがり、聞こえた台詞への反応が遅れた。
 素っ頓狂な声を出してしまい、またしても雲雀に笑われた。羞恥から頬に熱が走り、カーッと赤くなる。奥歯を噛み鳴らした彼は、やっと正常に戻った脳が彼の提案を分析して、結果を提示したのを受け、背筋を震わせた。
 雲雀と一緒に居る。それならば確かに、最初に雪が降る日でもマフラーの返却は可能だ。
 だが、どうやって。綱吉がイタリア行きを誘った中で、唯一首を縦に振らなかったのが彼なのに。
「並盛にも雪は降るよ」
「それは知ってま……はい?」
 きょとん、とした後は憤りに喘ぎ、頬を膨らませて拗ねた綱吉を小突いて雲雀が言う。咄嗟に言い返し、手を払い除けた綱吉は、二秒が過ぎてから再び目を点にした。
 それはどういう意味かと見詰められて、雲雀は意地悪く微笑んだ。
「帰っておいで」
「は……ええええ?」
 反射的に返事しそうになって、寸前で気付いた綱吉が目をひん剥いた。頭の天辺から声を出した彼に肩を揺らし、雲雀は腹を抱えた。
 いきなり何を言い出すかと思えば、そんな事、出来るわけがない。綱吉は自分からこの国に渡ると決めたのだ。他ならぬ自分が、ボンゴレ十代目を継ぐ為に。
 今は辛抱の時期だと弁えている。雲雀と一緒にいたいから、という理由だけで投げ出して、飛び出すわけにはいかない。
「君はこの一年間、僕とどうやってコンタクトを取っていた?」
「それは、電話と、メールと」
 あと、テレビ電話も便利だった。指を三本折った綱吉が、意味ありげにしている雲雀に小首を傾げる。その彼の前髪を掬って指に絡ませ、雲雀が軽く引っ張った。
 前のめりに姿勢を崩されて、綱吉は右足を前に出して踏ん張った。
 不敵な笑みを浮かべた雲雀が、口角を歪めて目を細めた。
「事足りたでしょ?」
 同意を求められ、今度は頷かざるを得なかった綱吉は口を尖らせた。
 それと同じ事を、イタリアに向けてやれというのだ。マフィアの重鎮達を相手に、面と向かってではなく、回線越しで謁見しろと。
 ふざけるな、と言いたかった。だがそれがもし、叶うのなら。
「無茶でしょ」
「そう?」
 未だ綱吉を後継者として認めない連中を黙らせて、ボンゴレの全権力をこの掌中に収めれば、或いは可能かもしれない。文字通り綱吉がトップなのだから、下位に順ずる人間は誰一人として文句を言えないだろう。
 しかし、無理がありすぎる。いったいどれだけの労力が必要になるのか、雲雀は考えた事があるのだろうか。
 疑わしげな目を向けられて、彼はほくそ笑んだ。
「僕はやるよ。財団を、必ずそこまで押し上げてみせる」
 力強い言葉にハッとして、綱吉は瞠目した。揺ぎ無い信念を抱き、必ず達成してみせると誓った彼が眩しくて仕方が無かった。
 きっと彼ならばやり遂げるだろう。対して自分はどうか。考えて、綱吉は唇を噛んだ。
 直ぐに結論を出せないでいる彼に肩を竦め、雲雀は目尻を下げた。
「まだ半年以上あるよ」
「…………」
 次の冬が来るまで、まだ猶予は残されている。勿論、ぼんやりしていたらあっという間だけれど。
 背中を叩かれ、雲雀と、彼の首に巻きつけられた自分のマフラーを同時に見て、綱吉ははにかんだ。
 深呼吸をひとつ挟み、心を鎮め、胸に手を添えて瞑目して、
「次の冬。雪が、最初に降る日に」
「雪の降る頃には、並盛で」
 ふたり同時に誓いを口ずさみ、噴き出して、額をぶつけ合わせて。
 じゃれ合い、笑って。
 涙を誤魔化し、綱吉は心に灯った輝きを大事に抱き締めた。

2010/04/14 脱稿