愛心

 深い闇が窓の外を埋め尽くし、風の音ばかりがやけに大きく響いていた。
 カタカタと揺れる窓枠に意識を取られて視線を上げた綱吉は、手にしていたリモコンを膝に置いて時計を探し、首を右に巡らせた。
「もうこんな時間か」
 天井からぶら下がるハンモックでは、黄色いナイトキャップを被った赤ん坊が、目を開けたまま眠っている。大きく膨らんだ鼻ちょうちんが、蛍光灯の灯りを浴びてやけにつやつや輝いていた。
 テレビ画面から目を逸らした途端、さっきまでそこにあった集中力は一気に霧散した。入れ替わりに押し寄せてきた睡魔に負け、口を開けて欠伸を零した彼は、せめてもの抵抗と腕を振り上げ、体を前後に揺らした。
 画面上では二等身の愛らしいキャラクターが、農具片手に次の指示を待っている。
 それは荒野を開拓して農地を広げ、家畜を育て、といったほのぼのした時間を楽しむためのゲームだ。モンスターとの戦闘で、手に汗握るような臨場感は一切含まれない。
 まだ始めたばかりなので、育てられる野菜の数は非常に少ない。ハルが貸してくれたのだが、果たしていつまで飽きずに続けられるだろう。
「むーん……」
 そろそろ眠らないと、明日起きられなくなってしまいそうだ。日付が変わる直前を指示している時針に眉根を寄せ、綱吉は意を決して立ち上がった。
 コントローラーを拾ってセーブ画面を呼び出し、データを保存する。映像が切り替わるのを待って本体の電源を押した彼は、機器が動きを止めるのを静かに見送った。
 小さな子供が多い沢田家の夜は早い。この時間でまだ起きているのは、もう綱吉くらいだろう。
「ん~~」
 自分もそろそろ寝よう。二度目の欠伸を噛み殺して目尻を擦った彼は、その前に、とコントローラーを蹴り飛ばさない場所に退避させてテレビの電源を切り、出入り口へ向かった。
 先にトイレを済ませてこよう。夜の空気は冷えており、長時間座ってじっとしていたのもあって、尿意はそれなりに溜まっていた。
 この年齢でオネショでもしようものなら、一生の恥だ。身震いして内股に膝をぶつけ合わせた彼は、扉を開けようとしたところで、ふとした違和感に首を傾げた。
 ドアはきちんと閉めたはずだ。だのに何故か、壁との境界線に僅かな隙間があった。
 誰か訪ねて来た記憶は、一切無い。閉め方が緩かったのかと不思議に思いながらドアノブに手を掛け、回さぬまま外に押し出す。冷えた空気が足元から登って来て、パジャマに素足だった彼はヒッ、と喉を引き攣らせた。
 あげそうになった悲鳴を寸前で飲み込んで、闇に落ちた空間に目を細める。最低限の光が残るだけの廊下は、ひっそり静まり返っていた。
 奈々も家事を終えて、既に夢の中だろう。
「さむ……」
 吐く息が白く濁ることはないけれど、昼間に比べたら随分と気温は下がっているはずだ。上着の一枚でも羽織っていればよかったと後悔しても今更で、綱吉はひんやりしたフローリングに爪先を下ろした。
 さっさと小用を済ませ、布団に潜り込もう。今夜はどんな夢が見られるかと内心ワクワクしながら、綱吉は階段を降りるべく、電気をつけたままの部屋を出た。
「ん?」
 沢田家の小さな子供は、みんな腕白だ。元気が有り余っているランボたちが走り回るのに邪魔にならぬよう、もしくは彼らに壊されぬよう、廊下には不要なものは置かない決まりになっていた。
 だのに何故か、綱吉の目に、暗がりに影を落とす異物が映し出された。
 階段の手前に輪郭だけが浮き上がるそれはずんぐりむっくりしていて、綱吉の腰の高さまであった。
 あれはなんだろうか。正体を探って目を細め、頼りない光の中で推し量ろうとした綱吉の動きを感じ取ったのか。
「っ!」 
 それは突如動き出し、彼に向かって一直線に駆け出した。
「ひぃ!」
 まさかお化けか、幽霊か。一瞬ホラー映画の情景を想像した彼だったが、違う。体当たりの末に背中に腕を回し、抱きついてきたその小さな存在に、彼は充分思い当たるものがあった。
 薄いブラウンの髪がパジャマの上から綱吉の胸を擽る。ぎゅっと噛み締められた唇と、硬く閉ざされた瞼を下に見て、綱吉は一気に脱力して肩を落とした。
 フゥ太だ。
「なっ……も~~。びっくりした」
 気の抜けた声で呟き、ぐりぐりと顔をこすり付けてくる弟分の肩を掴んで引き剥がしに掛かる。しかし彼は嫌がってかぶりを振り、綱吉に絡めた腕の力を強めた。
 とはいっても、相手は子供。彼くらいならば綱吉の腕力でも、ねじ伏せるのは容易だった。
「こら、フゥ太。どうした?」
 語気を少しだけ強め、締め付けを緩めるよう言って肩を押す。それでやっと顔を上げたフゥ太は、薄明かりの中で赤い頬を膨らませ、直ぐに伏した。
 その間、ひと言も声を発しようとしない。どうしたのか問うても、黙って首を振るだけだ。
 部屋のドアを開けたのは、まず間違いなく彼だ。しかし、どうして入ってこなかったのか。綱吉はゲーム中だったが、ずっと画面に見入っていなければならないものでもなかったので、彼の相手をすべく中断するのも容易だったのに。
 要らぬ遠慮を働かせた年下の少年に肩を竦め、綱吉は俯いている彼の頭をくしゃくしゃに掻き回した。
 シャンプーをしたのだろう、毛先は乾いているものの、頭皮に近い部分はまだ少し湿っていた。
「眠れないのか?」
 いつまでもこうしているわけにもいかず、綱吉は声を潜め、できるだけ優しく問うた。その瞬間だけハッとして、フゥ太が顔を上げる。暗がりで見開かれた瞳はまたしても直ぐに闇に紛れ、綱吉の視界から外れた。
 首を縦に振ろうとして躊躇して、逡巡の末に横に振る。その間もずっと無言で、何かを言おうとして開かれた唇は、音もなく閉ざされた。
「そっか」
 言いたくないのなら無理をして聞くまい。綱吉は適当な相槌をひとつ打つと、ぽんぽん、と彼の頭を軽く掌で叩いた。
「トイレ、一緒に行くか?」
「……うん」
 長い間寝間着ひとつで廊下に座っていたものだから、フゥ太の身体もすっかり冷えていた。風邪を引かなければよいのだけれど、と心の中で嘆息して、当初からの自分の予定に彼を誘う。今度は肩を叩いた綱吉の言葉に、フゥ太は蚊の鳴くような声で頷いた。
 ぴったり張り付いていた彼が後ろに下がったので、出来上がった空間に足を運び、綱吉が階段手前にあるスイッチを押した。すると瞬時に頭上の、球形の蛍光灯に光が宿った。
 瞬きをするよりも早く点灯した輝きに、フゥ太が大仰に反応して息を飲む。顔を強張らせた彼の手が綱吉の手に伸びて、爪が食い込んでいるのにも気付かずにぎゅっと握り締めてきた。
 手の甲に走った小さな痛みを堪え、彼は大丈夫、と反対の手でフゥ太の頭を撫でた。
「足元、気をつけろよ」
「うん」
 階下に向き直り、そろりと慎重に段差を下る。手は繋いだままで、なかなか動きたがらない彼とペースを合わせるのは、それなりに大変だった。
 滑り落ちぬようゆっくりと、時間をかけて一階へ降り立つ。玄関の常夜灯が優しい輝きを放つ中、ふたりは壁に影を重ねて奥のトイレに向かった。
 リビングにも、台所にも誰も居ない。ビアンキもどうやら就寝中らしいと、真っ暗闇のリビングのドアを眺め、綱吉は低い廊下の天井を見上げた。二階の様子を想像して、フゥ太に手を引かれてはたと我に返る。
「先どうぞ」
「うぅん」
「じゃ、遠慮なく」
 流石に一緒に入るわけにはいかない。綱吉が言うと首を横に振られたので、押し問答する時間も惜しいからと、彼は銀色のドアノブに手を伸ばした。
 繋いでいた手が解ける。指先から体温が逃げていく。
「あ……」
「どした?」
「ううん、なんでもないよ」
 心細げな声が彼の口から漏れて、綱吉は振り返った。ドアの隙間から零れる光に爪先を晒したフゥ太は、綱吉の大きな瞳が自分に向いたと知ると、途端に明るい声を出して小さく舌を出した。
 ちょっとおどけた素振りを見せて、後退して場所を譲る。どうぞ、と言わんばかりに手を前後に振られて、綱吉は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「フゥ太」
「ツナ兄、先に使っていいよ」
 急に空元気を振り撒く彼に向き直り、戸惑いを含んだ声で呼ぶ。そんな声を聞きたくないと彼は首を振って、早く行けと半開きの戸を指差した。
 明らかに情緒不安定な態度にそっと嘆息し、綱吉は緩やかに手を伸ばした。
 口を開こうとした彼の額に掌を押し当て、指を横倒しにして視界を覆う。突然目の前を塞がれて、フゥ太は呻くような声を発して唇を開閉させた。
 握り拳が胸元を彷徨い、やがて下に落ちた。
「目閉じて、百数えて待っててくれるか?」
「……うん」
 綱吉が静かに言えば、彼は素直に頷いた。綱吉が手を離しても瞼は閉ざされたままで、サラサラと流れる髪の毛に左目が隠された。
「いち、にぃ、さん……」
 ゆっくり紡ぎだされる数字に苦笑して、綱吉は大慌てでトイレのドアを潜り抜けた。寒さと緊張からなのか、なかなか思い通りに行かないものの、懸命に搾り出して事を済ませる。
 流れも激しい水に両手を浸して軽く洗ってタオルで拭い、廊下に出た時には、約束した百秒に到達する直前だった。
「きゅうじゅうなな、きゅうじゅうはち、きゅうじゅうきゅう」
「百」
 ランボのように指折りながらではなく、背筋をしゃんと伸ばして数字を口ずさみ続けたフゥ太が、綱吉の声を合図に目を開けた。薄めのブラウンの髪を揺らし、瞬きを繰り返して其処に佇む相手を見定める。
「ツナ兄」
「じゃ、俺も百数えるかな」
 声に出して確認して、即座に頷き返されて彼は嬉しそうに微笑んだ。
 無邪気な笑顔に綱吉も嬉しくなって、意地悪のつもりはなかったのだが、思い付きを口にした。するとフゥ太は急にもぞもぞし始めて、膝と膝をぶつけ合わせながら恐る恐る綱吉に訊ねた。
「う、とね。……二百でいい?」
 遠慮がちな問いかけに笑みを返し、綱吉は深く頷いた。
「三百でも、五百でも、一万でも待っててやるよ」
 言いながら、綱吉よりもずっと色の薄い、滑らかな髪を撫でてやる。フゥ太は首を竦めて擽ったそうにして、くるりと踵を返すと電気がついたままの個室に駆け込んだ。
 ドアを閉めて、けれど施錠はしない。綱吉は傍の壁に背中を預けて寄りかかり、自分にしか聞こえないくらいの音量で、一から順に数え始めた。
 瞼を閉ざし、視界を闇に染める。やがてその中心に鮮やかなオレンジ色の輝きが浮き上がり、燃え盛る炎の中から憎悪に狂った男の顔が現れた。
 色の異なる双眸の、その片側に浮き上がる不気味な文字。マフィアが憎いと叫び、全てを滅ぼしてやるのだと豪語した男の行方は、ようとして知れない。
 聞く話によれば、生半可な力では到底脱出出来ない牢獄に閉じ込められているという。肉体の自由は奪われ、ただ生かされるだけの状況は哀れに思うけれども、かといってそれであの男が引き起こした惨劇が帳消しになるわけではない。
「六十七、六十八、ろくじゅ……」
 ぼんやり考えながらも、口は数字を刻み続ける。あの男を思い起こさせる値にぶつかって、綱吉はそこで始めて言葉に詰まった。
「ろく……七十、七十一、七十二……」
 結局は声に出さず、飛ばして先に進む。我ながら情けないと思うが、どうにもならなかった。
 戦いの記憶は、綱吉の中に重く冷たい澱を残した。これまで人を殴ったことなんて、本当に数える程度しかないのに、その少なかった回数を遥かに越える拳を、綱吉はあの男に向かって繰り出した。
 仲間が大勢傷つき、倒れる中、自分に出来る事を探した結果だった。お陰で皆が命を取りとめ、並盛には表面上平和な時間が戻って来た。
 だけれど記憶は消えない。体に刻まれた傷は癒えても、見えない心の傷がどうなっているのかまでは、誰にも分からない。
「二百七十三、二百七十……」
 数字は増えて、足元に降り積もる。このまま埋もれてしまうかもしれないと危惧を覚える頃、トイレのドアが軋んだ音を立てた。
 タンクで水がひっくり返る音が聞こえて、綱吉は膝を伸ばして姿勢を正した。
「ごめんね」
「いいさ」
 申し訳なさそうなフゥ太に微笑みかけて、綱吉は彼が出て来るのを待ってスイッチを押した。照明を消し、ドアをきちんと閉めて階段へ戻る。上を見れば眩しいので、必然的に視線は足元に向いた。
 登ろうとして、クンッ、と後ろから引っ張られる。右足を一段目に載せた状態で振り返ると、フゥ太が人のパジャマの裾を抓んでいた。
「どうした?」
「……なんでもない」
 聞けば彼は手を解き、下唇を突き出した。拗ねているようなそんな声に小首を傾げ、綱吉はややしてから苦笑した。
「一緒に寝るか?」
 手が届く範囲に居てくれないと不安で、けれど寂しいと感じているのを知られるのは嫌。相反する感情が複雑に入り乱れているのだろうと、幼子の心中を思い描きながら訊ねると、彼はパッと目を輝かせた。
 弾かれたように顔を上げたフゥ太に微笑みかけるが、彼の笑顔はまたしても見る間に萎んでしまった。頬が強張り、視線は伏され、ふたりの間を当て所なく彷徨った。
 抓まれたパジャマの皺は増えたのに、彼の返答はノーだった。
 ふるふると首を横に振ったフゥ太に、綱吉はそうと悟られぬ程度に眉目を顰めた。
「僕、そこまで子供じゃないもん」
 幾らかの怒気を含んだ声が、いやに哀しげに廊下に響いた。
「そっか」
 綱吉は理由を問い詰めずに相槌ひとつで済ませ、肩を竦めて目を細めた。
 まだ齢十歳にも満たない子供が、子供ではないと言い張ったところでまるで説得力が無い。しかし否定すればムキになるだけなのは分かっているので、綱吉は敢えて何も言わずに階上へと視線を流した。
 眠気はどこかに消えてしまったが、フゥ太は少し眠そうにしている。彼を早く布団に連れて行ってやって、自分も今夜は休もう。そう決めて、綱吉はまだ何か言いたげにしている彼の背中を押した。
「フゥ太は、ランボたちのお兄ちゃんだもんな」
「……うん」
 彼と一緒の布団で眠っている五歳児二名を思い浮かべ、囁くように告げる。フゥ太はピクリと肩を震わせると、数秒置いてから頷いた。
 彼を先に行かせ、綱吉はゆっくり階段を登った。手摺りに右手を預け、万が一フゥ太が足を滑らせた時には受け止めてやれるよう、細心の注意を払う。
 その彼は時々左右にふらつくものの、綱吉の心配を嘲笑うかのように、足取りはしっかりしていた。
 最後の一段を登り終えて、階段の電気を消すかでしばし迷う。これを消せば二階の廊下を照らす灯りは、綱吉が点けたまま放置してきた彼の部屋から漏れる、細い光だけになってしまう。
 フゥ太たちが寝室に使っている部屋は、綱吉の部屋の先にある。どうしてもっとドアを大きく開けてこなかったのかと後悔しながら、振り向いたフゥ太に無言で見詰められ、彼は仕方なくスイッチを押した。
 それまでふたりを上から照らしていた光源が途絶え、周囲が音もなく闇に沈む。腹に布が、僅かに食い込んだのは、フゥ太が反射的に、パジャマを握る手に力を込めたからだろう。
 いかに強がろうとも、所詮彼はまだ九歳。綱吉よりも、五つも年下だ。
 小学三年生当時の自分は、どんな子供だっただろう。ふとそんな事を考えて、綱吉は手探りでフゥ太の肩を引き寄せた。
「どした?」
「なんでも、ない」
 手が触れた瞬間は大仰に身を強張らせ、綱吉の手だと理解すると同時に緊張を解く。指先から伝わる彼の動きに半眼し、綱吉は気付かなかったフリをして明るい声で訊いた。
 ちょっとだけ意地悪な質問に、むくれたフゥ太が首を振った。髪の毛がパジャマを擦って、くすぐったい。
 控えめな音量で笑い、綱吉は歩き出した。彼がはぐれぬように手を繋いだまま、静かに自室のドアを開く。
 室内は彼が廊下に出た時のままで、ハンモックのリボーンは鼻ちょうちんを器用に膨らませていた。窓の外は、まるで墨で塗りたくられたかのように一面真っ黒だった。
 再び明るい中に舞い戻った綱吉はホッと胸を撫で下ろし、フゥ太から手を離した。
 宙に残された指が、掴むものを求めて空を掻く。見開かれた双眸を知らず、綱吉は廊下と部屋を区切る仕切りを踏み越えた。
「あ……」
 闇の中にひとり取り残されてしまう。背筋が震え、心臓が小指の先よりも小さく萎縮する恐怖に竦み、フゥ太は唇を戦慄かせた。
「んー」
 腕を頭上に伸ばして眠る前のストレッチに入った綱吉が、筋が伸びるのに気持ちよさそうに声を零した。フゥ太の小さな手は胸元に戻され、薄緑のパジャマの上から心臓を掻き毟った。
 奥歯を噛み締め、こみ上げる涙を堪えて息を止める。本当に言いたい事をひとつも口に出せぬまま、彼は虚空に放置される自分を意識した。
 綱吉のいる明るい場所に、自分は入れない。
 入ってはいけない。
 二度とあそこに戻れない。
「っ!」
 生々しい感触が掌に蘇って、彼は懸命に悲鳴を押し留めた。
 空気が震える、その僅かな変化に綱吉は振り返り、一瞬であってもそこに佇む少年の存在を忘れた自分を恥じた。
「フゥ太」
「っは、ぁ……」
「おいで。一緒に寝よう」
 瞠目し、瞳孔さえ開きかけている彼を光と闇の中間点に見つけ出し、手を差し出す。やや早口の誘い文句に、ハニーブラウンの髪をした少年は肩を突っ張らせ、凍りついた。
 耳から入った言葉を脳細胞が分解して消化し、体の凝りを解いていく。彼の四肢から力が抜けていく様をつぶさに見て、綱吉は彼の元へ戻るべく、一歩を踏み出した。
 慎重に、怯えさせないように気を配りながら忍び足で近付き、瞳の動きだけで綱吉を追いかけるフゥ太の前に立つ。
 彼に影が落ちぬよう、部屋の明かりがちゃんと眩しく感じられるように位置取りをした彼の前で荒く息を吐き、フゥ太は忘れかけていた瞬きを繰り返した。
 は、は、と短い間隔で息を吐き、限界まで大きく見開いた瞳を徐々に細めていく。彼が落ち着きを取り戻すのを辛抱強く待って、綱吉は肩を揺らし「な?」と部屋の中に向かって顎をしゃくった。
 首を伸ばしたフゥ太がリボーンの眠る部屋を覗き込み、無人のベッドを見た。朝に綱吉が起き出した時そのままで、上掛け布団は片側に寄って急峻な山を形成していた。
 簡素なパイプ製のシングルベッドであるが、小柄な綱吉と、それよりも小さいフゥ太なら、なんとか並んで眠るのも可能だろう。
 背筋を伸ばして室内を振り返った綱吉を見上げ、フゥ太はもじもじと膝をぶつけ合わせた。脇に垂らしていた右手を持ち上げ、行こうか行くまいかで迷い、指を蠢かせる。
「来いよ。一緒に寝よう」
「あ、あの」
 綱吉は構わないと言う。それなのに決断出来なくて、フゥ太は視線を泳がせ、闇が連なる廊下の奥を伺った。
「ん?」
「い、……いい。ツナ兄、寝相悪いんだもん」
 出し掛けた手を引っ込め、急いで背中に隠した彼は、同じく出掛かった足を戻して廊下に擦りつけた。反対側の足も綱吉から遠ざけて距離を稼ぎ、これまでの小声が嘘のような明るい、大きな声で捲くし立てる。
 顔を背けて目を合わせない彼の言葉が、本心から出たものでないのは間違いない。傷ついた子供の精一杯の強がりを感じ取り、綱吉は苦い唾を飲み込んだ。
「フゥ太」
「それに、朝になって僕がいなかったら、ママンも心配するでしょ」
「……」
 自分より、他人。要らぬ心配をかけたくないという配慮を覗かせた彼に何も言ってやれなくて、綱吉は悔しさから拳を硬くした。
 ランボ、イーピン、フゥ太と、綱吉とリボーン以外の面々は、皆揃って隣の部屋で、奈々と枕を並べて眠る。ビアンキも、同じ部屋だ。今はこっそり抜け出して来たが、朝になってフゥ太が居ないと知れば、彼女はきっと驚くだろう。
 ただあの人なら、真っ先に綱吉の部屋を覗きに来るだろう。それでも不安だというのなら、綱吉と一緒に居る、とのメモ書きでも残しておけば全く問題ない。だけれど今のフゥ太には、そこまで気を回す余裕がなかった。
 これ以上同衾を強く誘っても、フゥ太は頑なになるだけだ。綱吉が心配し、彼に危惧を抱いているというのは、既にフゥ太も察している。
 気遣われて嬉しい。心配してもらえるのも、嬉しい。だけれどこれ以上気を遣わせたくない。自分の為に犠牲になって欲しくない。
 そういう感情が黒々と渦を巻き、彼をひと口に飲み込もうとしていた。
「フゥ太」
「平気。大丈夫。ごめんね、ツナ兄。おやすみなさい」
「……よーっし。んじゃ俺も、あっちで寝るかな」
「え?」
 必死の形相で主張して、深く頭を下げて去ろうとする。踵を返した彼の背中に、綱吉の明るい声が被さった。
 出そうとしていた足を床に沈め、フゥ太が吃驚した様子で振り返る。綱吉は白い歯を見せて笑い、目尻を下げた。
「いいよな。ちょっと狭くなるけど」
「ツナ兄」
「待ってろ。枕だけ取ってくる」
 返事を待たずに腰に手を当てて頷き、軽い足取りで部屋へ舞い戻る。惚けたフゥ太が我に返るより前に、綱吉は愛用の枕を左脇腹に抱え、戸口に戻って来た。
 先に行くよう促して、ドアを閉めた彼が直前で部屋の照明も消す。廊下に漏れていた光が完全に途絶え、闇がふたりを飲み込んだ。
「っ」
 居竦んだフゥ太が手を伸ばし、綱吉の袖を引っ張る。彼は飄々として、フゥ太を引っ張って廊下を歩き出した。
 もう十年以上もこの家で暮らしているのだから、部屋の配置どころか、ドアとドアまでの距離も身体が覚えている。たとえ目を閉じたままでも、手探りが許されるのなら、階下の洗面所まで行くくらいは可能だ。
 そう苦労もせずに隣室のドアに辿り着いた綱吉は、息を潜めて中を伺い、襖を横に滑らせた。
 綱吉の部屋は洋室で、ドアも内開きだけれど、隣は打って変わって和室だ。寝床もベッドではなく、合計五人分の布団を横並びに敷いている。
 幼い頃は入り浸っていた部屋も、ひとりで寝起きするようになってからはあまり足を向けなくなった。こんなだっただろうか、と豆電球の灯りが細々と照らす空間を眺め、綱吉は妙に感慨深いものを感じて頷いた。
 布団は大きい膨らみが左右にふたつ、小さな膨らみがその間にふたつ。フゥ太が使っていたのだろう掛け布団だけが、寂しそうに天を仰いでいた。
「ツナ兄」
「なんか、変なの」
 全員深い眠りに就いており、起き上がる気配は見られない。後ろからパジャマを引っ張ったフゥ太が止めるよう訴えるが、綱吉はお構い無しに襖を押して、人が楽々通れるだけの隙間を作った。
 スー、と襖が滑る音が微かに響き、それが合図になったのか手前側で眠っていた人が寝返りを打った。肩まで被った布団の隙間から、茶味を帯びた長い髪が見えた。
 ビアンキだ。
 とすれば、奥で眠っているのが奈々だ。綱吉は彼女らの眠りを妨げないよう注意深く足を繰り出し、境界線を越えて廊下よりも若干明るい空間に入った。
 動く度に脇に抱えた枕がパジャマと擦れ、中のそば殻が上に行ったり、下に行ったりと忙しい。闇に目が慣れて来たのもあるのだろう、辛うじて自分の手元、足元くらいは見えるようになって、綱吉はビアンキの長い脚を避けて大外回りに、真ん中の敷布団を目指した。
 流石に五枚並べるのは、この狭い部屋では無理だ。だから子供達が幼く、小さいという利点を利用して、大人用の布団を三枚隙間なく並べている。だからそこに綱吉が潜り込むのは、少々手狭だった。
 しかしここまで来ておいて、今更引き返すのも億劫だ。侵入のドキドキ感で体温は上昇し、眠気は遠い彼方へ消え去ったまま戻って来ていないが、横になって目を閉じれば、新幹線級の速度で押し寄せてくるに違いない。
 後ろを振り返るとフゥ太がまだ襖の手前で立ち往生して、助けを求める視線を綱吉に投げていた。
「おいで」
 傍には寄らず、足を止めて手招く。その上で人差し指を唇に押し当てて微笑むと、彼はやっと覚悟を決めたようで、恐る恐る右足を前に送り出した。
 襖は閉めない。どうせ漏れる灯りも、紛れ込む灯りもないのだ。季節の変わり目で、冷暖房も使っていない。
 息を殺して綱吉の元に駆け寄った彼を抱きとめて、口角を持ち上げて目を細める。悪戯が成功した子供の笑顔に、フゥ太も面白がって肩を揺らした。
「ん……」
 ししし、と口を閉じたまま前歯の隙間から息を吐いて笑っていたら、勘付いたわけではなかろうが、またビアンキが寝返りを打った。
 妖艶な溜息が聞こえて、ふたりしてビクッとしてしまう。その場で凍り付いて状況を見守るが、彼女は左腕を布団の外に伸ばした以外、大きく動くことは無かった。
 ホッと息を吐くタイミングが重なって、ふたりはまた額を小突き合わせて笑った。
「入れるかな」
「うん」
 狭いが、なんとかなりそうだ。
 暗がりにぼんやり浮かび上がる光景に頷き、綱吉は抱えてきた枕をランボの左隣に置いた。最初はイーピンと横並びだったのだろが、寝ている間に動いてか、足先だけしか布団を被っていない。辮髪の少女が行儀良く丸くなっているのとは大違いだ。
 寝相にも性格が現れていて、面白い。綱吉は幼子ふたりの隣に膝を置くと、反対側に立ったままでいるフゥ太を振り返った。
 真っ先に布団に潜り込むものとばかり思っていたのに、彼は綱吉ではない人の寝姿を見詰めて動かない。夢の中に居るビアンキのむき出しの肩に目をやって、綱吉は言いかけた言葉を寸前で押し留めた。
 部屋の奥から奈々、イーピン、ランボの順で眠っている。そして綱吉は、腹を出していびきを掻いているランボの横に身を置いた。
 フゥ太が入れる隙間は、ビアンキの横しか残されていない。そして彼は、綱吉の視線に気付くと、嫌々と言わんばかりに首を振った。
 さっきまでの明るく元気な彼から一変して、今にも泣き出しそうなところまで顔を歪めて唇を噛み締めている。急すぎる変貌に驚かされたが、冷静な部分が彼の頭を叩き、綱吉自身忘れ去りたい記憶を蘇らせた。
「……あぁ」
 六道骸に操られたフゥ太が、彼女に何をしたか。本人にその意思がなかったとしても、彼が握った三叉の槍が、彼女の脇腹を貫いたのは事実だ。
 ビアンキはちゃんと分かっているから、フゥ太を責めるような真似はしなかった。さすが暗殺者なだけあって、直前で急所を避けていたとかで、傷の治りも綱吉が案じるよりずっと早かった。
 彼女はフゥ太が悪いとは思っていない。憎しみを抱くべき相手は、人の心を踏み躙ったあの男だ。
 けれど幼い心は、分かっていてもそれを認めることが出来ない。ショックが大きすぎた。表面上は平然を装っていても、その裏側で彼がどんな思いを抱き、傷ついているのかは、綱吉には想像するより他に術が無い。
 暗い顔をしていれば、皆を心配させてしまう。そう考えて、自分の正直な感情をひた隠しにして、フゥ太は毎日を過ごしている。
 これまでとなんら変わること無い、けれど少しだけ軸がずれてしまった日常。みんなそれに気付いているのに、敢えて見ないようにして目を逸らしている。
 気付かないフリをしている。
 綱吉だってそうだ。自ら踏み込む勇気が無いから、直接的な言葉を用いるのを避けている。
「おいで」
 フゥ太が怖がっているのは、ビアンキではない。近くに居ることでまた自分ではない自分が彼女を傷つけてしまうのではないかと、それが怖いのだ。
 綱吉は無人の布団の膨らみを押し潰し、その上に腰を下ろして彼を手招いた。
 何も気付いていない風を装って、それとなくビアンキの方へ身を寄せる。ランボとの距離を広げてそこに誘導してやれば、ようやくフゥ太は肩の力を抜き、頷いた。
 抜き足差し足で狭い隙間に潜り込んで、コロン、と転がる。両腕を伸ばして布団の海に身を投げ出した彼は、気の抜けた笑みを浮かべて綱吉の太腿に頬を摺り寄せた。
 甘えてくる彼の頭を撫でて、綱吉は置き去りにされた枕を引き寄せた。
「ツナ兄」
「ん?」
「えへへ」
 呼ばれたので瞬きひとつで視点を入れ替えるが、単に呼びたかっただけらしい。愛らしい笑顔を浮かべた彼は目を細め、そのまま瞼を閉ざした。
 足元に撓んでいた掛け布団を掴んで引っ張り、フゥ太の肩にかけてやる。ついでに身を乗り出してランボの腹にもタオルケットをかけてやってから、綱吉はやっと横になった。
 衣擦れの音が減り、人々の寝息が嫌でも耳に入ってくる。ひと際大きいのはランボだ。背中あわせのビアンキの呼気は、殆ど聞こえない。
「おやすみ」
「ツナ兄」
 ぽんぽん、と布団の上から緩やかな曲線を描く肩を撫でてやり、眠るよう促す。自分も目を閉じて夢の世界に旅立とうとしたのだが、クイッ、と袖を引かれてスタートから躓いた。
 薄目を開ければ、フゥ太の顔が存外に近い。一枚の布団を分け合う弟分の顔を闇の中に浮き上がらせ、綱吉は続きを躊躇している彼に微笑みかけた。
「どした?」
「あの、ね。……手」
「手?」
「繋いでていい?」
 長い逡巡を経て、彼が恐る恐る右手を持ち上げる。布団から出て来た小さな手に焦点を定めると、その向こう側に居るフゥ太の輪郭がぼやけた。
 彷徨う指が、確かなものを探して震えている。彼の不安と心細さがそのまま現れている掌に見入り、綱吉は寝転んだまま肩を広げた。
「おいで」
 言うが早いか、フゥ太の身体を抱き締めて、胸に引き寄せる。あまり自然に出来なくて少し強引になってしまったけれど、フゥ太は逆らわず、素直に綱吉の狭い腕の中に収まった。
 左胸に寄せた耳から、温かで力強い心音を感じ取る。フゥ太は目を見開き、直ぐにトロン、と心地良さそうに相好を崩した。
「あのね。あのね、ツナ兄」
「ん?」
「僕、全部、……覚えてる」
 六道骸に囚われた時の事も、彼の要求を拒んで心の自由を奪い取られた時も。
 操られ、油断したビアンキを襲った時も。
 綱吉を刺し貫こうとした事も。
 全ての記憶は、彼の中に今も存在している。そして永遠に、彼の灯明が尽きるその瞬間まで、消えることは無い。
 搾り出すように紡がれた声に息を飲み、緊張が伝わるのを恐れてすぐに力を抜いて、綱吉は出来る限りの平常心を己に課した。動揺してはいけない、そう何度も繰り返し自分に言い聞かせて、すり寄ってきたフゥ太の肩に腕を回す。
 広げた掌で後頭部を支えてやると、細い髪が指の中をサラサラと流れていった。
「覚えてる。覚えてるよ。でもみんな、……忘れちゃった?」
 誰も、ビアンキも綱吉も、あの日の事を口にしない。見ないフリをして、振り返らないようにして日々を過ごしている。互いに深く傷ついた分、これ以上傷を抉らないようにと、巧妙に避けて通っている。
 嫌な事件だった。思い出すだけでも悪寒が走る。だけれど、それもまたフゥ太の経験した時間の一部だ。
 嘘ではない。夢でもない。幻でもない。あの時確かに綱吉も、ビアンキやリボーンも其処に居た。
 だのに誰ひとりとして、その時の話題を口にしない。だから不安になる。こんな風に闇に怯えているのが自分だけに思えて、声に出してはいけないことに思えて、裡に溜めこむしか道が無い。
 怖いのに、言い出せない。
 信じてもらえないかもしれないと、二の足を踏んでしまう。
「フゥ太」
「覚えてる。嘘じゃない。ツナ兄、怖いよ」
 名前を呼べば、堰を切ったかのように溢れ出した言葉が闇を切り裂いた。俯いて嗚咽を堪えて、綱吉の腕に爪を立てて握り締める。痛いが、この程度で悲鳴をあげてなどいられなくて、綱吉は腹に力を込めて耐えた。
 彼を守ろうとして、良かれと思って執った行動が裏目に出た。浅墓だったと悔いたところで、過ぎた日は戻らない。
 深く長い息を吐き、綱吉は震えるフゥ太を抱き締めて背中を丸めた。
「大丈夫」
 これが答えになっているかどうかなどは、分からないし、そもそも考えない。ただ伝わればいいと願い、綱吉は浮かんでは消える言葉の切れ端を集め、たどたどしく繋げていった。
「大丈夫だよ、フゥ太」
「ツナ兄……?」
「覚えててもいいんだ」
 消えないものを無理に消しゴムで消そうとしたら、楽しかったほかの記憶まで巻き込んで引き裂いてしまいかねない。
 だから消さない。覚えていて構わない。
 その代わりに、思い出さなくなるくらい、別の記憶で上を塗り潰してしまおう。みんなが笑っている、フゥ太が心から楽しいと思える記憶で上書きしよう。
 綱吉だって、骸との戦いや、彼と交わした言葉の数々、そして知ってしまった彼の過去を、今更無かったことになんて出来ない。
 あの男の境遇は、確かに不幸だった。その結末は、哀れと言うより他ない。だからといって、彼が犯した罪が帳消しになるわけではない。彼らに襲われた人々の、折られてしまった歯は、一生涯そのままだ。
「覚えていていい。でもな、フゥ太。もう思い出さなくていいんだ」
 腕の力をそっと緩め、抱き締めた子の顔を覗き込む。暗がりの中でも光り輝くふたつの眼に微笑みかけて、綱吉は思い出し笑いに口元を綻ばせた。
「ツナ兄……?」
「お前がこれから先、思い出すのは、ランボの寝言だったり、リボーンの鼻ちょうちんだったり、そういうのでいいんだ」
 嫌なことよりも、楽しかったことを。
 辛かったことではなく、満ち足りた時の事を。
 涙を流した時間より、笑顔でいられた時間を。
 きっと一生、忘れられない。だけれどこの先思い出す度に、フゥ太は今夜綱吉に抱き締められて、みんなで川の字になって寝た記憶も一緒に思い出す。そうしてやがて、今夜の思い出が中心になって、骸に刻まれた心の傷は隅に追い遣られていく。
「大丈夫。フゥ太、お前は此処に居ていい」
 同じ言葉を繰り返し、繰り返し音に出し、自分にも言い聞かせて綱吉は頷いた。
「此処に居ていい。違う。此処に居て欲しい。俺が、お前に、居て欲しい」
 途中で言い直し、綱吉は自分からフゥ太に頬を寄せた。愛の告白みたいだと、自分の台詞を照れ臭そうに笑い飛ばしながらも、フゥ太に回した腕は解かない。
 大丈夫。声に出すたびにそう思えてくる、不思議なことば。
 大丈夫。
 きっと大丈夫。
 絶対大丈夫。
 なにがなんでも、大丈夫。
 ある意味無責任にも思える言葉。それなのにわけもなく勇気付けられて、心が和いで、不安は遠くなる。
 魔法の呪文だと、フゥ太がぼそりと呟いた。
「うん?」
「なんでもない」
 聞き損ねた綱吉が枕の上で小首を傾げ、フゥ太は急に恥ずかしくなって彼の胸に額を押し当てた。押し殺しきれなくなった笑みを零し、目を細め、綱吉に手を伸ばす。
 抱きついて、その温かさを全身で確かめる。
「フゥ太?」
「おやすみ、ツナ兄」
「ああ、おやすみ」
 存分に甘えて、息を吐く。顔を上げた彼の威勢の良い声に、綱吉は相好を崩した。
 ずれてしまった布団を掛け直してやり、瞼を下ろす。程無くして綱吉の耳に届く静かな寝息がひとつ増え、彼は後ろをちらりと伺い、苦笑した。
「おやすみ、ビアンキ」
 居合わせたもうひとりにも挨拶を贈り、瞼を下ろす。
 身動ぎ、肩を窄めて左腕を布団に押し込んだ彼女からの返事は、無かった。

 ミルフィオーレの情報を整理しているうちに時間は過ぎて、気がつけばとっくに深夜と呼ぶに相応しい時間帯になっていた。
 椅子を引いて大きく伸びをし、関節を回して凝り固まった筋肉を解していく。蛍光灯の眩い灯りに目を細めて最後に深呼吸したフゥ太は、集中力が途切れたからと自分に言い訳して、立ち上がった。
 まだまだ調べなければならないことは多いけれど、根を詰めすぎて此処で倒れでもしたら、元も子もない。
「睡眠は大事だからね」
 山積みの資料をそのままに席を離れ、出口に向かう。反応して自動で開いたドアの向こうは、照明が消されて非常灯だけが淡く輝いていた。
 足元を照らしてくれるので、歩き回るのに不便は無い。しかし闇は人の不安を煽る。ふと、彼らはどうしているか気になった。
「……」
 少しだけ様子を、外から伺うだけでも。過去からやって来た少年らの顔を順に思い返しながら、フゥ太は予定を変更し、彼らが使っている部屋を目指してエレベータに乗りこんだ。
 短いインターバルを挟み、先ほどと似て異なる構造のフロアに降り立つ。場所はもう完璧に覚えていて、地図を思い描く必要はどこにもなかった。
 こんな時間だ、起きている人間は技術屋のジャンニーニくらいだろう。きっと彼ら――彼もベッドの中で、昼間の特訓の疲れを癒しているに違いない。
 そう信じ、自分のこの行動が無意味であるように願いながら、足音を立てないようにゆっくりと暗がりを突き進む。物陰から何かが飛び出してきそうな雰囲気に、緊張は否応なしに高まった。
 温い唾を飲んで、ベストの上から心臓を撫でる。次の角を曲がれば目的地はすぐそこで、深呼吸して心を落ち着かせた彼は、緩く握った右の拳の、人差し指と親指を擦り合わせた。
「大丈夫。だいじょうぶ」
 幼い頃に耳元で繰り返された呪文を口ずさみ、閉じた目を開く。闇に慣れた眼は、廊下に置きっ放しの様々なものの輪郭をはっきりと映し出した。
 数歩で角までの距離を詰め、思い切って曲がる。何もなければ素通りするつもりでいた彼だが、歩みは直ぐに止まった。
 最後に立ててしまった足音にびくりとして、暗がりで蹲っていた誰かがハッと顔を上げた。しゃがんで壁に背中を押し当て、膝を抱いていた。
「ツナ兄……」
「フゥ太」
 元々は五つ上だったので、その呼び方が馴染んでしまっている。けれど今の綱吉は、フゥ太より五つ年下だった。
 今や記憶の中にしか存在しない彼と寸分違わない、もうひとりの沢田綱吉。訳も分からぬまま未来の騒乱に巻き込まれてしまった、哀れな被害者。
 日付はとうに変わっている、子供は寝る時間だ。沢山の言葉がフゥ太の頭の中を騒々しく駆け巡ったけれど、結局なにひとつ音に出せぬまま、彼は開いた口を閉じた。
 綱吉も物言いたげな顔をして、視線を泳がせて最後は伏した。互いに気まずい空気に支配されて、肩が重くなる。
 こんな時間に、こんな場所で。何をしていたのかを問うのは簡単だし、凡そだが想像がつく。頭の中が整理し切れなくて、体は疲労を訴えるのに眠れないのだろう。
 ふたり部屋なので、綱吉の部屋には獄寺が居る。だから遠慮して、外に出たのだ。
 かといって、他に行く宛てもない。途方に暮れた彼は、廊下に蹲って時間が過ぎるのを待つしかなかった。
「ツナ兄」
「あ、いや。……なんでもない。ごめん。おやすみ」
 拙いところを見付かってしまったと、綱吉の表情がそう告げている。慌てて逃げの体勢に入った彼に手を伸ばし、フゥ太は一気に距離を詰めた。
 無我夢中だった。これといって考えがあったわけではない。今彼を行かせたら、また二度と届かない場所に行ってしまいそうで、怖かった。
 細い手首を掴んで、引き寄せる。この人はこんなに小さかったのかと、腕の中に閉じ込めて痛感した。
 ずっと近くから、その背中を見上げていたはずなのに。
「っ……」
 すっぽりと腕の中に収まった綱吉は、肌が触れ合った瞬間だけビクリと震え、直後に息を吐いて力を抜いた。
 細かく震えていた肩が、徐々に落ち着きを取り戻していくのが分かる。全身に張り巡らせていた緊張を、ゆっくりと解いていく。
 胸に掛かる体重が幾らか増えて、フゥ太は綱吉の腕を放して背中へと回した。自分の側へ押し出すように動かせば、彼はすんなり応じて、鼻筋を埋めて来た。
 どこか甘えるような仕草は、フゥ太が知っている綱吉からは考えられないものだった。彼の知る沢田綱吉はもうとっくに成人しており、大勢の仲間に囲まれて己の道を、大切な人たちを守る為に戦っていたから。
 だからこんな風に、不安に怯えて心細さに震え、他者の熱を欲して擦り寄ってくるようなことは、一度もなかった。
 いいや、あったのかもしれない。寧ろ無い方がおかしい。
「ツナ兄、ちっちゃい」
「む、う」
 頭がフゥ太の肩にぎりぎり届くかどうかという身長差も、過去に例を見ない。いつの間にか追い越していたけれど、それもこんなに大きな差にはならなかった。
 追い抜いた時は純粋に嬉しかった。こんな風に、切なさに胸が引き裂かれそうな日が来るなんて、思わなかった。
 叫びだしたい気持ちを押し殺し、明るい声で呟く。聞こえていた綱吉は身動ぎ、不貞腐れた顔で視線を持ち上げた。
 綱吉は昔から、同年代に比べて小柄なのをコンプレックスのひとつにしていた。山本やディーノといった、平均以上の背丈を持つ人たちに囲まれていたから、余計に自分の小ささが嫌だったに違いない。
 だからフゥ太が成長期を迎え、ぐんぐん伸びていった時はやたらと態度が冷たかった。数少ない綱吉よりも小さかった存在が、彼を追い抜いていく。あのランボですら、今では綱吉と肩が並ぶくらいある。
 年上の沽券に関わると吼えていた午後を思い出して、フゥ太は笑った。泣きそうになったのをどうにか堪え、目を閉じて涙を誤魔化す。
「ツナ兄」
 言いたい事は沢山あったのに、いざ声に出そうとしたら何も出てこない。彼は深く息を吸って吐き、綱吉の柔らかな髪に指を差し入れた。
 ずっと撫でてみたかった。こんな形で願いが叶うなんて、なんという皮肉だろう。
「ツナ兄」
 胸の奥から湧き上がってくるこの狂おしいまでの感情を、どう表現すればいいのか分からない。好きだの、愛してるだのいう陳腐な言葉で終わらせてしまいたくなくて、そうしたら結局何もいえなくて、フゥ太は唇を噛んだ。
 出会ったばかりの頃の彼は、凡そマフィアらしくない環境に身を置いていた。平々凡々とした中流家庭に育ち、何処にでも居るような平均的な思考を持ち合わせ、争いを好まず、揉め事を嫌った。
 穏やかに日々を過ごすのに執心し、そのくせ誰かが傷つこうとしていると知れば躊躇せずに飛び出していく。人の為に涙を流すのを恥と考えず、我欲からは絶対に拳を振るわない。
 強い人だ。
 最初、彼はマフィアでも最低の最低に分類されていた。ところが周囲の予想に反し、綱吉は次々にフゥ太のランキングを破っていった。
 情報は生き物だから、時間の経過によって、順位は少しずつ変動する。けれど綱吉は、その度合いがひと際激しかった。
 まったく予測がつかない成長速度で、彼はフゥ太の中にあった常識を打ち砕いた。彼についてきて良かったと、心の底からそう思う。
「ツナ兄」
 愛おしい名前を繰り返し口ずさみ、フゥ太は目を開けた。とても近い場所に、鮮やかな琥珀が双つ並んでいる。見詰められていたと知って少し恥ずかしくなって、彼は照れ隠しに微笑んだ。
「フゥ太?」
「ツナ兄。……心配いらない」
 怪訝にしている綱吉に緩く首を振り、真っ直ぐに彼の目を見詰め返す。前後の脈絡もなく言い切ったフゥ太に、彼は驚いたのか肩を揺らした。
 突飛な発言だと、フゥ太自身も思った。しかしこれが、今綱吉に語るべき最良のことばだと確信出来た。
 あの夜、綱吉はフゥ太が眠りに落ちるまで、ずっと傍に居てくれた。安心を与えてくれる温もりに包まれて、その夜から嫌な夢を見ることも、自分が犯した罪に怯えることもなくなった。
「ツナ兄に魔法をあげる。昔ツナ兄が僕にかけてくれた魔法、返すよ」
 彼は言ってくれた。此処に居ていい。お前は何も悪くない。
 だから。
「大丈夫」
 耳元で囁き、彼を抱く腕に力を込める。
 ピクリと反応した彼は、逃げようとした身体を意識的に押し戻し、見開いた目を伏した。
「大丈夫。大丈夫だよ、ツナ兄。大丈夫だから」
 怖がらなくていい。
 きっと、なにもかもが巧く行く。
 心配要らない。大丈夫。
「フゥ太」
「大丈夫。ツナ兄」
 あの日彼がくれた温もりのお陰で、フゥ太は今もこうして生きていられる。笑っていられる。
 どれだけ心強かったかを知って欲しくて、フゥ太は何度も、飽きるほどに繰り返した。
 中空を彷徨っていた綱吉の手が、恐る恐る持ち上がった。爪の先を掠めたベストの裾を手繰り寄せ、強く握り締める。
「だいすき」
 嗚咽が聞こえ、フゥ太は慈母の笑みで目を閉じた。

2010/03/18 脱稿