女郎花(後編)

「あと、間抜けだった。何も無い場所でよく転んでたし、舞は最後まで覚えきれないし、詠唱が複雑な術はてんで駄目だった。どっちかと言うと、考えるより身体が先に動いてたな。俺も良く引っ叩かれた」
「…………はぁ」
「痛ぇーんだぜ。細っこい腕してんのにさ、信じられないくらいに」
 俯いていた綱吉は、不意に後ろから聞こえた明るい声に目を見開いた。
 雲雀が見比べて優劣をつけるなど、恐らく永遠にありえない。ふたりは別の存在なのだから、並べて考えること自体愚かだ。けれど綱吉にはそれが分からない、自分は駄目人間だと思い込んでいるから。
 誰にも負けないと自信を持って言えるのは、雲雀が大好きだ、という事くらいではなかろうか。
 だったらそれをもっと誇ればいいのに、却って萎縮してしまっている。
 いじらしくてならない。その百分の一でも彼の心が自分に向けば良いのに、そうならないのがまた悔しい。
 人にとっては遠い過去、神にとってはつい昨日のことのような思い出を振り返って口ずさみ、ディーノは泣きたくなった気持ちを誤魔化すようにして、緩く握った拳を自分の頬に押し当てた。
 こんな風に殴られたのだと示し、呆気にとられる綱吉に目を細める。
「……嘘だ」
「本当だって。ツナよりもっと乱暴だったぞ、沸点が低くて」
 蛤蜊家の規模を考えると、これを創設した初代は想像出来ないくらいに立派な人物だったと思いがちだ。けれど違う。単に懐が深く、平等に皆を愛そうとしただけだ。
 本人もこんな大層な組織になるだなんて、設立当初は考えていなかったに違いない。苦労も多かったが、過程を楽しんでいる趣も感じられた。
「それにな、ツナ。なにもあいつがひとりで蛤蜊家を作ったんじゃない。俺も手伝ったし」
 初代の傍には常に大勢の人がいた。最愛の人は無論のこと、思想や理念を同じくする仲間が集い、互いに協力し合いながら、蛤蜊家の基礎を作り上げたのだ。
 初代ひとりの威光ばかりが強調されて伝わっているが、それは歴代の当主の権限を強めようとして、敢えてそういう伝え方がされているだけだ。歴史に埋没した真実は、今に残る記録よりも遥かに多い。
 白い歯を見せて笑ったディーノを肩越しに振り返り、綱吉は大きな手が降って来るのを見て首を竦めた。薄茶色の髪をくしゃくしゃにかき回されて、指に毛先が引っかかって痛いのに臍を噛む。
 比べること自体が間違いで、気にすべきではないというのがディーノの見解だろう。それが一番良いのは、綱吉も散々考えたのだ、分かる。
「でも、俺ね、ディーノさん。凄い我が儘になっちゃった」
「うん?」
 堂々巡りの袋小路に迷い込んで途方に暮れて、何度も妥協点を見出そうと足掻いた。
 雲雀が好きだという気持ちには、自信がある。たとえ世界がひっくり返ろうとも、来世別の人間に生まれ変わろうとも。
 再び彼を見つけ出し、好きになる自負はある。
「我が儘って?」
 今でも充分我が儘ではないのか、という疑問は胸の奥底に封印し、ディーノは鸚鵡返しに問うた。
 身を揺らした綱吉が、膝の頂点に顎を乗せた。目の前を真っ直ぐ見詰め、薄ら指し始めた陽射しに目尻を下げる。
「なんていうか、我慢出来ない」
 綱吉は雲雀が好きだ。そして雲雀も、綱吉を好いてくれている。大切に思ってくれている。
 以前はそれでよかった。けれど今は違う、それだけでは満足できない。
「ただ好きってだけじゃ、嫌なんだ。あの人より、もっと俺のこと好きだって、そう言ってくれなきゃ嫌なんだ。同じくらい好きじゃなくて、俺の方が十倍も、百倍も、千倍も好きだって言ってくれなきゃ、やなんだ」
「……おいおい」
 迷いのない彼の力強い台詞に苦笑し、ディーノはここまで思われている雲雀に嫉妬すると同時に、少しだけ彼を哀れに感じた。
 独占欲が強すぎて、過去の存在にまで競争心を抱いている。
 けれど、その感情もまた、ごく自然なもののように思えた。
 好きだから誰にも奪われたくないし、目移りして欲しくも無い。綱吉にとっては今と、これからが重要なのであって、自分だけを見てもらうためには、矢張り過去の存在は邪魔なだけだ。
「ツナは、恭弥のこと、本当に好きだな」
「うん」
「俺は?」
「ん? 好きですよ」
 独白に間髪入れず頷いた綱吉に、ちょっとした悪戯心で問いかける。前に身を乗り出した彼は振り向き様にあっけらかんと言い放ち、ディーノを面食らわせた。
 これもまた逡巡も一切無しの即答で、訊いた方が唖然としてしまう。間抜けに口を開いたまま惚けているディーノに、綱吉は怪訝な顔をして首を傾げた。
 雲雀も好き、けれどディーノも好き。
「……期待しちまうだろ」
「ごめんなさい」
 ただその「好き」の質にも違いあって、両者に向けられる感情の間には大きな壁がある。
 どうやっても越えられない絶壁を自覚しながら、こうもあっさりと言われてしまうと、あらぬ勘違いを引き起こして、思い続ければいつかは、という考えを引き起こしてしまいそうになる。
 否、ディーノはとっくの昔からその想いに囚われている。
 溜息混じりに囁かれ、はっとした綱吉は小さな声で謝罪した。膝の上で丸くなる彼の頭を撫でながら、金髪の青年は首を横に振り、気にしなくても構わないと告げた。
「俺はもう割り切ってるから、いいけどな。他の連中には、気をつけろ」
「うぐ。……本当、ごめんなさい」
 視線を上向かせたディーノの脳裏に、現在の沢田家の様子が浮かび上がった。人の姿を探して移動させ、土間で忙しく働いている奈々を先ず見つけ出す。続けて勝手口を出た先で、大量の薪を前に獄寺と山本が話し込んでいるのが見えた。
 話の内容までは聞こえないが、察するに綱吉に関してのあれこれだろう。
 つくづく罪作りな子だと心の中で嘆息し、ディーノは意識を切り替えた。右に首を向け、掃除を終わらせた幼い精霊をその場に見出して顔を綻ばせる。綱吉も気付き、羨ましそうに指を咥えているランボに向かって利き腕を伸ばした。
「おいで」
 手招きをすれば、もじゃもじゃ頭の男の子が両手を広げ、歓喜の声を発した。辮髪の女の子も、最初は恥かしそうにしながらも、堪えきれずに綱吉に向かって走り出す。
 ディーノの配慮で結界に小さな入り口が出来た瞬間、勢い良くぶつかって来た二人ごと綱吉を抱きかかえ、彼は苦笑した。
 窮屈にならぬよう、綱吉の腰に回した手を緩め、足も左右に広げてやる。空間が広がり、綱吉は遠慮なく脚を伸ばして小さな精霊たちを胸に抱え込んだ。構ってもらえるのが嬉しいようで、どちらの顔も笑顔満開だった。
「こら、ランボ。くすぐったいだろ」
 胸によじ登ったランボが頬を寄せてきて、彼の髪の毛が綱吉の顎や首を掠めた。場所を独り占めしようとする彼にイーピンがなにやら怒鳴り、小さな手で頻りにランボを叩く。それでも譲ってもらえなくて、彼女の小さな瞳に薄ら涙が浮かんだ。
 見かねた綱吉が片手でランボを端に寄せ、自由を取り戻した左手で彼女を招く。ふたりを横並びに抱くと、華奢な綱吉の胴体はそれだけで隠れてしまった。
 誰からも好かれ、愛される綱吉は、与えられただけの愛情を平等に相手に返す。並盛村の人間は皆仲が良く、これまで彼は、明確なまでの悪意というものに、あまり触れてこなかった。
 しかし、これから先は解らない。もし蛤蜊家の十代目を継ぐとなれば、これまでのように安穏とした日々を過ごすのは難しくなろう。
 退魔師を統括する組織の頂点に立つという事は、即ち何百人といる人間の思惑をひとつにまとめるという事だ。綱吉に好意的な感情を抱く者もいれば、そうではない人間も当然いるはずだ。彼らが向ける黒く濁った感情は、そのまま綱吉に伝わってしまう。
 人の心の闇さえ見抜くと言われた初代の、見魔の能力を引き継いでしまった彼にとって、あの屋敷は魔の巣窟にも見えたことだろう。
「ツナ」
 子供たちとの手遊びに夢中になっている少年に低い声で呼びかけ、ディーノは瞼を伏した。
 肩越しに振り向いた彼は、物憂げな表情をしている青年にきょとんとし、いつの間にか彼に右手を握られているのに気付いて頬を赤く染めた。
「ディーノさん」
「ツナ、お前は……継ぐのか」
 綱吉の意識を一瞬で奪い取った男に、ランボが怒りを露にした。結び合った手を叩いて、今すぐ放すように訴える。綱吉も最初戸惑いを隠せなかったが、彼の声が震えているのに気付き、続けて放たれた問いかけに目を見開いた。
 大きな琥珀が揺らぎ、視線は斜め下に流れて伏された。
「わかん、ない……です」
 昨年の今頃は、何も考えずにいられた。雲雀とずっと一緒に居られると、疑うことなく信じられた。
 今年に入ってから色々あって、ありすぎた程で、頭の中はまだ整理がつかない。蛤蜊家十代目襲名の話もそうだが、雲雀が神格を得た――取り戻したというのもあって、自分たちの関係の終わりを否応無しに意識させられるようになった。
 人と、神と。
 寿命の違いは、なによりも大きい。ならば短く限りある命を、一秒でも長く彼と共に過ごすのに使いたいと願うのは、自然な流れだ。
 だのに周囲が邪魔をする。彼のとても小さな願いさえ、聞き入れられない。
「分からない、って」
「だって、本当に分からない。どうして俺じゃなくちゃいけなかったんだろう。他にやりたい人がいるなら、その人がやればいいんだ」
 答えになっていない返答に、ディーノが右の眉を持ち上げた。語気が荒くなり、怒っているように感じたのかもしれない。綱吉は握られた手を振り解こうと揺らし、早口に捲くし立てた。
 視線は絡まない。自分の思い通りに事が進まない苛立ちが、奥歯を噛み締めている横顔から窺えた。
 蛤蜊家は巨大な組織だ。その頂点に君臨するには、下の者を納得させられるだけの力が必要だ。ただ血筋が良いというだけでは、決して認められない。実際、過去には直系に関わらず力量不足を指摘され、当主に選ばれなかった者が大勢いる。
 力、血筋、強い決断力と行動力。これらが揃わなければ、蛤蜊家当主は勤まらない。もっとも、目下ディーノの腕の中にいる綱吉を見る限り、他の追随を許さないのは初代の直系という点のみに感じられた。
 ディーノ自身、何故候補に綱吉の名が挙がったのか、それも筆頭格で選出されたのかが分からない。
 これまで最有力と言われていたのは、九代目の嫡子。ただ彼は数年前に事件を起こし、以後行方不明のままだ。生きているか、死んでいるかどうかさえ分からないというから、よっぽどである。
 病床に伏している九代目の容態が思わしくない話も、耳にしている。
 本家は焦っている。後継者を決めぬまま九代目がこの世を去りでもしたら、権力に執着する老獪に支配された蛤蜊家は、内部分裂を引き起こしかねない。
 綱吉を候補者に選んだのは九代目の意志だが、そこに何らかの思惑が絡んでいるように感じられて仕方がなかった。
「ツナは、じゃあ、どうしたい」
「…………」
「言えよ、俺しか聞いてない。今は、誰にも聞こえない」
 周囲に立ち込める神気の壁は、今も健在だ。子供達が通った入り口は既に閉ざされており、雲雀との伝心も寸断されたまま。
 ランボやイーピンは幼くて、難しい話は理解出来ない。神妙な顔をしているふたりを前に、自分たちは邪魔だろうかと顔を見合わせながら迷っている。
 指を咥えたランボの頭を撫でてやり、綱吉は無理をして微笑んだ。
 神社には他に、人の気配はない。妖は山を囲む結界に阻まれて入れないし、この場を覗き視ようとする邪な術師の類も見えない。雲雀の式神が追加で派遣される、というのもなかった。
 だからこれから綱吉が語る内容は、ディーノが誰かに告げ口をしない限り、他者の耳に入る事は絶対に無い。約束する、と深く頷いた彼を仰ぎ見て、綱吉は愁眉を開いた。
 それからまた直ぐに苦々しい顔をして、唇を舐めた。
「ごめんなさい、ディーノさん。有難う」
「いいって。お前の為なら、なんだってしてやる」
 たとえ報われることはないと知っていても、だからといって簡単に断ち切るなんて出来ない。苦しんでいる彼の荷を少しでも軽くしてやれるのならば、世界中を敵に回したって構わない。
 大袈裟に言ったディーノに、亀のように首を竦めて綱吉は笑った。もう一度礼の言葉を口ずさみ、雲雀とはまた違う大きな手を両手で包み込む。それを胸に引き寄せて、彼は瞼を閉じた。
「行きたくない」
 下手な相槌は挟まず、ディーノは黙って遠くに目を向けた。
「行きたくない、あそこには。並盛に居たい。ずっと此処にいたい。蛤蜊家なんて、そんなの知らない。俺の家は今までも、これからも、並盛だけだ」
 ひと言ずつ短く切り分け、都度呼吸を挟み、気を吐く。これまで言いたくても我慢して、心の中に溜め込んできたのだろう。最後には感極まったのかしゃくりをあげ、琥珀の目には涙が浮かんだ。
 細い肩を小刻みに震わせる彼に視線を戻し、ディーノは首の力を抜いた。額を彼の項に乗せて、愛おしくてたまらない存在を優しく抱き締める。
「そっか」
「継がない。俺は十代目なんかなりたくない。此処に居る。俺はみんなと、此処に居たい!」
 ついに堪えきれなくなった涙を頬に零し、綱吉はディーノの腕に縋って叫んだ。
 大声に驚いた小鳥が、慌てたように翼を広げて羽ばたいた。細い枝が上下に弾んで、色の抜けた葉が一枚、ひらひらと当て所なく宙を漂った。乾いた地面に落ちて他と紛れ、最早行方を追うのも難しい。
 弱い風が吹いて、ふたりの頬を撫でる。上唇を噛み締めた綱吉は、これ以上涙が零れないように懸命に鼻を膨らませ、瞬きの回数を減らして虚空を睨んだ。
 元気を失ってしな垂れている蜂蜜色の髪を撫で、ディーノは彼の目元を手で覆った。
「そうだな。俺も、それがいいと思う」
 綱吉の視界から光を奪い、後ろから囁く。天を仰いでいるのに闇しか見えず、綱吉は色の悪い唇を開放し、鼻から吸った息を吐き出した。
 ディーノの指を伝い、透明な雫が流れて行った。
「お前は今のままがいい。お願いだ、笑っていてくれ」
 望んでもいない地位を押し付けられても、不幸になるだけだ。綱吉の言うように、なりたいと手を挙げた人間にさせればいい。候補者は他にもいたはずで、どうしても綱吉でなければならない道理はない。
 春の陽だまりを思わせる優しい笑顔を消したくない。綱吉の純真無垢な優しい心を、強欲な連中の汚らしい感情で穢されて欲しくない。
 初代の志を忘れ、我欲にひた走る組織など、最早無用だ。いっそのこと無くなってしまえばいい。
 吐き捨て、ディーノは奥歯を噛み締めた。
 過去、彼も少なからず初代に手を貸し、蛤蜊家創設の為に尽力した。その、いわばわが子同然の組織の壊滅を望むなど、愚かだと人は笑うかもしれない。だけれど、その組織の為に、今此処で愛しい子が泣いているのだ。
「あいつも……笑って許してくれるさ」
 思い浮かんだ優しい笑顔に頭を垂れ、彼は声も無く泣く綱吉を強く抱き締めた。

 綱吉に張り付かせていた式神がディーノによって消し飛ばされた時、雲雀は並盛山の奥で、自然に枯れて落ちた枝を拾い集めている最中だった。
 背中に大きな籠を背負い、中には道すがら集めた枝が大小構わず詰め込まれていた。彼はこめかみに走った小さな痛みに顔を上げると、手にした枝をその場に放り出し、奥歯を鳴らして苛立ちを露にした。
「また、性懲りも無く」
 どれだけ言い聞かせれば、綱吉は理解するのだろう。あの男は嘗て綱吉に邪な欲を抱き、押し倒そうとした前科がある。充分反省したと本人は言うが、だからといって彼が犯した罪まで消えるわけではない。
 確かにディーノには、返しきれない恩がある。だがこれとそれとは、別問題だ。
 それにも関わらず、綱吉はディーノのところに通うのを止めない。なにかと面倒を見たがり、世話を焼きたがる。手の掛かる弟が増えたようだと、よりにもよって数百年、数千年の時を生きる神を捕まえて言い放った時は、耳を疑った。
 それだけ綱吉の懐が広い証明でもあるが、野良猫を拾って来て面倒を見るのとはまた訳が違う。誰にも彼にも笑顔を振り撒くから、雲雀としては気が気でない。
 綱吉を嫌う人間は、この世に存在しない。本気でそう思っていた時期が、雲雀にもあった。
 井の中の蛙だったと思い知らされたのは昨年の冬の入り口。丁度、こんな風に乾いた風が里に吹き荒れる頃だった。
 鎌鼬の兄弟を捕まえて操っていた男達に綱吉が襲われて、雲雀がこれを駆逐せんと奔走した。しかし止めを打つ前に油断が生じ、守ろうとした存在を逆に危険に晒してしまった。
 あれからもう一年が過ぎようとしている。月日が過ぎるのは、本当にあっという間だ。
「一年、か……」
 大昔は百年過ぎようが、二百年過ぎようが、さして気にも留めなかったというのに。今は一日が貴重で、一秒だって惜しい。
「まったく」
 籠の中でガサガサ言う枯れ枝ごと身体を揺さぶり、雲雀は急斜面で難なく方向転換を済ませた。右手で傍にあった木の幹を掴み、支えにしながら慎重に綱吉の気配を探る。伝心は、ディーノの神気に阻まれて届かなかった。
 二度呼びかけるが応答はなく、弾かれているのをありありと感じる。内緒話は面白くなくて、現地に乗り込むべく彼は軽く膝を曲げて脚に意識を集中させた。
 が。
「っ!」
 いざ飛び出そうとした瞬間、右斜め前方から鋭い敵意を感じ取り、彼は反射的に進路を変えて左に跳んだ。
 降り積もる枯葉を弾き飛ばし、一瞬にして十丈ばかり移動して警戒心を露にする。先ほどまで彼が立っていた場所には、浅いながら小さな穴が出来上がっていた。
 吹き飛ばされた土や、粉砕された木の葉が縁を飾っている。衝突の凄まじさは言わずもがなで、直撃を食らっていたならば腕の一本は折れていたかもしれない。
 想像して眉目を顰め、こんな芸当がこの場所で出来る存在を順に脳裏に描き出す。
 ディーノは目下、綱吉と一緒に並盛神社だ。とすれば、残るはひとりだけ。
「童、なんのつもりだい」
 姿は見えないが、存在は感じられる。近くにいるだろうと当てずっぽうで西を見ながら呼びかけると、不意に左手の空間が波打った。
 素早く身構え、攻撃に備える。しかし縦長の楕円に広がる波紋は地上一丈ばかりのところで静かにそよぐだけで、何も変化は起きなかった。
「こっちだぞ」
「――!」
 耳元で癖のある声が響き、怪訝に眉を寄せていた雲雀は本能で右腕を振り翳した。
 ただ空気ばかりがある一画を打ち下ろし、微かな手応えに瞠目する。ガサガサと足元に繁る雑草が二つに割れて、一目散に雲雀から遠ざかっていった。
 姿の無い獣が走り去るような動きに顔を顰め、音が途切れるのを待たずに雲雀は地を蹴った。途中、邪魔になる背中の荷物を放り出して高く跳び上がる。
 葉が落ち切った枝に腕を引っかかれるが気に留めず、雲雀は黒髪に紛れた小枝を振り払って雲の多い空に身を躍らせた。不安定な細い足場に難なく着地を果たし、百八十度開けた視界に息を吐く。
 樹齢百年近い樹木の頂に片足で立って全体重を支えながら、彼は今し方何かを掠めた右手を振った。手応えは軽く、寸前で回避されたのだというのは見えずとも分かった。
 何が目的なのかは分からないが、霊体が視得ない雲雀の弱点を衝いており、実にいやらしい。
「いいけどね」
 周囲をくまなく見渡せるというのは、裏を返せば下からも丸見えということだ。これしきの高度、リボーンにとっては屁でもなかろう。
 予想通り雲雀を打ち砕くべく、遠くから金切り音が彼の鼓膜を震わせた。
 ひゅっ、と尖兵の風が吹く。前髪を掬われて眺望が開け、切れ長の目を見開いた雲雀は素早く抜き取った拐を両手に交差させた。
 正面から受け止めるが、足場の悪さから踏み止まれない。彼の爪先はいとも容易く宙を泳ぎ、重力に導かれるままに下降に転じた。
「ちぃっ!」
 大地に彼を叩きつけようとする霊気の塊に舌打ちし、あと数寸で激突するところで弾き返す。高密度の霊気の弾丸は、何の罪も無い樹木の幹の真ん中を抉って四散した。
 左手を伸ばして肘を曲げ、力を脇に逃がして彼は身を横に流した。立て続けに三発、同じような弾丸が彼を追いかけて地面を抉る。巻き込まれた草葉が木っ端微塵に砕け、破片が雲雀の頬を掠めた。
 一瞬熱が走り、遥か後方に置き去りにされた赤い雫に奥歯を噛む。里に戻る前に治しておかないと、綱吉に殴られそうだ。
「どこから……」
 視得ない、というのは厄介だ。
 たとえどれだけ強力な力を保持していようとも、当たらなければ何の意味もなさない。だから今の彼は、退魔師としては半人前にも劣る存在だった。
 息を殺し、注意深く霊気の弾丸の発射台を探す。けれど向こうも移動しているのだろう、予想をつけて拐を繰り出すが、以後は掠りもしなかった。
 熊笹の生い茂る薮に突っ込み、身を隠すがこれも意味は無い。直感で危険を感じ取った直後、案の定株ごと吹き飛ばされて、爆風に煽られた雲雀は後ろ向きにたたらを踏んだ。
 巻き上げられた小石が、顔を庇う腕を打つ。砂利を噛んでしまい、唾に混ぜて吐き捨てた彼は再び斜面を走った。
「童、どういうつもり?」
 呼びかけるが声は無く、返事の代わりに今度は空中から弾丸が雨のように降って来た。
 近くで羽を休めていた鳥が慌しく飛びあがり、獲物を求めて彷徨っていた狐が尻尾を巻いて逃げ出す。並盛山の動物の営みの破壊さえ辞さない一方的な攻撃に、雲雀は苛立ちを深めて虚空を睨んだ。
 頬の傷を右の親指で払い、奥歯を噛む。
 頭に血が上り、冷静な判断力を直ぐに失うのは悪い癖だ。いつだって冷淡に、一歩距離を置き、状況を正しく把握するところから始めなければいけない。耳に胼胝が出来るくらいに聞かされたリボーンの説教を思い返し、なんの皮肉だと彼は嗤った。
 呼吸を整え、耳を澄ます。いっそのことと割り切って瞼を下ろせば、世界は瞬時に闇に閉ざされた。
 その中を、小さなものが駆け回っている。視覚効果としては現れないが、光り輝く存在が彼の周囲を注意深く蠢いているのが分かった。
 肩の力を抜き、自然体を作って唇を舐める。チカッ、と輝きが一際強く瞬いた。
「……」
 ゆらり、右に姿勢を傾ける。直後、耳を劈く轟音が彼の直ぐ脇を奔り抜けた。後方で凄まじい爆音が生じ、沸き起こった暴風に黒髪が煽られてバサバサと逆立つ。長着の裾や袖もが風に流され、彼の四肢に絡みついた。
 次いで彼の身体は左に動いた――柳の枝がそよぐように。
 再び耳元を、圧縮された霊気が超速度で駆け抜ける。掠めた耳朶が熱を発し、その瞬間だけ雲雀の顔が歪んだ。
 三度、瞼の奥で光が輝く。
「――そこ!」
 刹那、咆哮をあげて雲雀は大地を蹴った。
 瞬きひとつの間に五条の距離を駆け、青銀の拐を高く振り翳す。迷いの無い一撃を打ち込む寸前、確かにそこに在ったものが後方に跳躍したのが、見えずとも周囲の動きから分かった。
 すかさずニ撃目を横薙ぎに放ち、足元を掬って三発目を真上から。直後ギンッ、と硬い手応えが肘から肩に伝わって、雲雀はほくそ笑んだ。
 押し潰さんと力をこめるが、口元が笑みを形作ったところで左に弾かれた上に、脇腹に蹴りが入った。あの短い手足でどうやって、と思う間もなく、至近距離からあの弾丸が彼を見舞った。
「温いっ」
 軌道は真っ直ぐで、読み易い。簡単に打ち返して前に出た雲雀は、しかしこの一寸の間で気配を見失って舌打ちした。
 近くに居るのは分かる。だが今目を閉じれば、その瞬間に向こうは攻撃に転じるだろう。瞼を上げ下ろしする、本当に僅かな時間で勝敗は決する。本能的に悟り、彼は冷たい汗を背中に流した。
 緊張で鼓動が強まり、圧迫感から呼吸が苦しい。肩を上下させるが、肌を伝う汗を拭う余裕もなく、彼は奥歯を軋ませて拐を握り直した。
 次はどう出て来るか。リボーンを相手に何年も修行を積んできたけれど、未だに彼の手の内が読みきれない。
 予断を許さない状況に、彼は無意識に己の手首を見た。
 そこに絡みつく金色の鎖。それは彼をこの地上に繋ぎとめる封印であり、本来の力の大半を封じ込める枷でもあった。
 これを施した存在を思い浮かべ、首を振る。時に力は必要だが、これに頼りすぎてはいけない。綱吉の封印は易々と解けるものでなく、なにより力を全解放した瞬間、雲雀は人としての形を失う。
 この姿に戻るのも、また易くない。
 漂う霊気の中に、特に純度の高い塊を探すべく、彼は瞳を忙しなく動かした。気を抜くことは許されない。瞬きさえ忘れて空間を凝視し、肩を強張らせた彼の頭に。
 ぽとり、と。
「……うん?」
 黒い何かが落ちた。
「なに、こ……――ぐぁ!」
 頭蓋骨に当たって跳ね返った物体に手を伸ばし、掌で受け止める。見間違いでなければそれは団栗で、ずんぐりむっくりした形状に目を見張り、近くに椎の木でもあったろうかと視線を上げたところで、彼は野太い悲鳴を上げた。
 あろう事か大量の団栗が、彼目掛けて空から降って来たのだ。
 ズザザザ、と数千個はあるだろう木の実が雪崩を起こし、雲雀を飲み込む。咄嗟に両手で顔を庇ったが、勢いは凄まじく防ぎ切れない。
 これだけあれば山の動物達も、楽に冬を越せそうだ。堪えきれずに膝を折った彼は、胸の高さまで達する椎の実に唖然とし、遅れて落ちてきたひと粒の直撃を食らってがくりと項垂れた。
「油断大敵、だぞ」
「童……」
 聞き慣れた声が響き、俯く雲雀の前方で空間が歪んだ。最初に見た波紋の中から、先ず紅葉のような手が出る。続けて頭、脚、胴体と続き、リボーンが現れた瞬間、波紋は弾けて消え失せた。
 立ち上がった雲雀は長着の中にまで潜り込んだ団栗に頭を掻き毟り、その場で帯を解いた。衿を持って左右に広げ、褌一丁で布を上下に揺する。落ちていく団栗を視界の端に見て、したり顔のリボーンは肩を揺らした。
「霊力にばっかり気を取られてるから、こういう事になるんだ」
「小狡い真似を」
「作戦と言え」
 帯に絡んでいる分も振って落とした雲雀の独白に、リボーンはすかさず空中から取り出した撥を構えた。小気味の良い音がひとつ、高らかと秋の山に轟き、頭を抱え込んだ雲雀は激痛を堪えて唇を噛んだ。
 手を開き、ぱっと撥を消した赤子はにんまり笑って、嵐が過ぎ去った後のような山の惨状に肩を竦めた。大分荒らしてしまったが、どうせ冬になればすべて枯れて、雪に埋もれるのだ。春になれば当たり前のように、新しい命が芽吹くだろう。
 薪を入れた籠は、遠い彼方だ。面倒だが拾いに行くより他無く、雲雀は痛みから立ち直ると手早く身なりを整え、忙しい中で妙なちょっかいを出して来た赤ん坊を睨んだ。
 彼の怒りを何処吹く風と受け流し、リボーンは黄色い頭巾をずらして真ん丸い瞳を彼に向けた。
「……なに」
「視得なかったみてーだな」
 いつもはあまり人の顔をじろじろ見ない彼が、珍しい。肩を引いて警戒を露にした雲雀に、リボーンはふっと、短い息を吐いた。
 あまりにも今更な問いかけに憤然とし、右手で頬の傷を撫でた雲雀は、苛立ちの表情を自分で招いた痛みで誤魔化した。
 雲雀の眼は、霊気を捕らえられない。ただ形や色を判別できないだけであって、気配は感じるので、凡その位置は把握できる。それでも視得る者と比較すれば、不便であるのには変わり無い。
 綱吉が傍にいれば、彼の眼から入ってくる情報が即座に伝わって、雲雀の中で処理される。が、今回はひとりだったので出来なかった。
 遣り辛さは否定しない。だが今に始まった事ではないので、雲雀はあまり深刻に考えていない。
 人を試したリボーンに疑いの目を向け、彼は真意を質すべく口を開いた。
「わら……――」
「取り戻そうとは思わないのか」
 しかし言うより早く、リボーンが捲くし立てる。きつい語気に面食らった雲雀は、一瞬彼の言っている意味が分からず惚けて、慌てて口を閉じた。
 苦虫を噛み潰したような顔をして、視線を脇へ逸らす。
「どうやって」
「簡単だろう」
「出来るなら、とっくにそうしてる」
「……その気が無い、ってことだな」
「当たり前だろう。君は、自分で言っている意味が分かってる?」
 右手を横に広げ、雲雀は怒鳴った。糾弾される側のリボーンは無表情で受け止め、やがて頭巾に手をやり、顔を伏した。
 つい最近も、似たような話題をディーノから振られた。思い出して腹立ちを募らせ、彼はくしゃりと前髪を握り潰し、足元にうず高く積まれた団栗を蹴り飛ばした。
 傾斜をころころと転がっていく。爪先が当たったのは数個だったが、周囲の団栗も触発されたように、次々と斜面を滑っていった。
 これ以上の力は要らない。今の雲雀にとって、綱吉を守り、里を守るだけの強さがあれば充分だ。
「なら、お前の眼には今、何が視得ている」
「童」
 呻くように言った雲雀を無視し、顔を上げたリボーンが質問を重ねた。
 意図が読めない。何を訊くのかと声を荒げ、雲雀は目の前に佇む小さな存在に心を波立たせた。
「なにがって、僕は」
「九代目の容態が危うい。だが、ちっとも見えてこねーんだ」
 またも人が喋っている途中で遮り、リボーンは背中に両手を回して北西に顔を向けた。体に対して大きすぎる頭部、肌色は気の所為か優れない。
 彼がなにを危惧しているのかは、腹を割って話して貰わない限り分からないが、蛤蜊家本家を気にしている様子が窺えた。雲雀は嘆息すると右手で額を覆い、雲の多い空を仰いだ。
「なにも、……」
「そうか」
 ぽつり呟けば、背を向けた赤ん坊は心持ち落胆した様子で頷いた。
「変な事頼んで悪かったな」
「やめてよね。君に謝られると、調子が狂う」
 どんな時でも太々しいリボーンが粛々としているのは、妙な感じだ。背中が痒くてならず、腕を捲くって引っ掻いた雲雀に苦笑を返し、リボーンはひらりと右手を振って姿を消した。
 ひとり残された彼は、遠くから様子を窺っていた鹿の親子に肩を竦め、綱吉への土産にしようと団栗を数個、懐に忍ばせた。
「そうだ、薪」
 里へ戻ろうとして、投げ捨てた籠を思い出して慌てて進路を変更する。
 地を蹴った彼の目に、山を覆う結界が映った。ゆらゆらと揺れるそれは、雲に薄められた陽光を浴びて、まるで虹のように輝いていた。

2010/02/28 脱稿