ぱしゃん、と水が跳ねる音を聞いて、彼は閉じていた瞼を持ち上げた。
白い雲が重なりあう、その向こうに霞んだ太陽が見える。陽射しは弱く、お陰で気温もさほど上がらない。西から吹く風は時折鋭く、冷たい刃となって彼の頬を嬲って行った。
煽られた金髪を右手で押し留めて目を細め、長く同じ姿勢で居た為に硬くなった筋肉を解きほぐすべく、彼は右から先に膝を起こした。
「あ、ディーノさん」
立ち上がると、空との距離が少しだけ近くなる。雲の多い頭上を仰いでいたら、不意に軒下から声がかかった。
手桶に手拭いを引っ掛けた少年が、明るい薄茶色の髪を揺らして彼を見上げていた。大粒の瞳は鮮やかな琥珀色で、綺麗に澄み渡る彩は、眺めているだけで寒さに凍り付いた心を溶かしてくれた。
「終わった?」
「終わりました」
緩く傾斜している屋根の端まで寄って、屈んで真下を覗き込む。問われた綱吉は元気一杯に頷き、ぶら下げていた桶を揺らした。
またひとつ、水音が空を伝う。鼓膜を打つだけでも身震いしたくなる冷たさに肩を抱き、彼は少し離れるよう手を振って合図を送ると、羽織っていた緋色の打掛をしっかりと掴んだ。
鮮やかな緋色に、見事なまでの刺繍が金糸で施されている。図柄は天に舞う馬と、大輪の牡丹。婚礼衣装として用いらたとしてもなんら問題を感じない、職人の技が映える一品だ。
それを落とさぬように握り締め、綱吉が下がった分だけ出来た空間に狙いを定める。躊躇なく屋根の縁を跨いだ彼は、己の体重など存在しないとでも言わんばかりの身のこなしで、地上に舞い降りた。
綱吉を縦に二つ並べてもまだ高い場所から、苦もなく降りて来た青年に驚きもせず微笑み、彼は桶の中で波立てる濁った水に視線を向けた。
並盛山の中腹にある神社の社殿、その扉は今、開放されていた。丹色の鳥居をくぐって真っ直ぐ石畳を進んだ先、短い階段を登ったところには賽銭箱が置かれていて、通常人はそこから先には進まない。せいぜい本殿をぐるりと囲む回廊を巡る程度だ。
観音開きの扉の中では、綱吉が灯した蝋燭の火が、まだゆらゆらと揺れていた。か細い橙色の光に照らされ空間は、それでもまだ薄暗く、陰影濃く浮き上がって荘厳でありながら、どこか不気味だった。
中央に小さな祭壇が設けられ、絹の緞帳が全面を覆っている。これが取り払われるのは祭りの時だけだ。
社殿内部の床は板敷きで、扉の造りが格子状である為に隙間風は入り放題。おおよそ寒さを逃れるのに適した場所ではないのだが、目下のところ、ディーノの寝床は此処だった。
秋の終わりが迫り、いよいよ本格的な冬の到来を前にして、彼の寝所を少しでも綺麗にしてやろうという、綱吉の配慮である。
「本当にお布団とか、いいんですか?」
神社とは神聖な場所だ。神の存在を意識し、感じ取る場所でもある。そんな重要な施設である社殿を塒にするなど、罰当たりな行為ともいえよう。けれどディーノは残念ながら、その罰を与える側の存在だった。
並盛神社に祀られているのは、他ならぬ彼自身。今はリボーンに力の大半を封印され、ただの人と変わらぬところまで堕ちているけれども、ディーノは立派な、太陽の運行を司る神の一員なのだ。
だから、いわばこの社殿は、彼の地上での家に等しい。何処で寝ようが、どのように過ごそうが、彼の自由だ。
もっともそうと知らぬ人からすれば、不届き千万な行為に違いない。だからなるべく村人と接触せぬように、というのが、ディーノがこの地で過ごす為に雲雀とリボーンが課した命題だった。
晩秋の並盛神社は閑散として、乾いた風が西から東に吹いていた。
「ああ、平気。なんとでもなるさ」
並盛の冬の寒さは厳しい。雪は大量に降り、南の街道も閉ざされてしまう。昨年は村を流れる川の一部凍ったし、そんなだから凍死者も毎年必ず出る。年老いた人と、乳幼児が特に危うい。
その点、ディーノは傍目には立派な成人男子。体力には自信があろうし、綱吉もそこはあまり心配していないが、夜ともなれば気温は一気に下がって、指一本動かすのさえ億劫になるくらいだ。
社殿には火鉢もなければ、寝具もない。暖を取る術が無いというのは、幾ら彼が神の末席に座しているとはいえ、矢張り寒いのではなかろうかと思わずにいられなかった。
「心配してくれんのか」
「そりゃそうですよ」
ディーノにはなるべく近付かないよう、雲雀にはきつく言われている。けれどどうしても気になってしまって、綱吉はちょくちょく神社に顔を出しては、この手間の掛かる金髪の神様の面倒を見ていた。
綱吉の行動や思考は、言葉を介さずともすべて雲雀に伝わってしまう。恐らく今夜も説教を食らうに違いないが、最近では彼も少々諦め気味だ。
綱吉は雲雀が好きだ。そしてディーノや獄寺、山本も皆、均等に大好きだった。
基本的に彼は、人を嫌ったりしない。どんなに嫌な思いをさせられた相手であっても、最後の最後には赦してしまう――獄寺隼人や、六道骸の時だってそうだった。
どれだけ口を酸っぱく言い聞かせたところで、根は頑固な綱吉は聞き入れない。雲雀にべったりの彼だけれど、思考まで彼の言いなりになってやるつもりはなくて、自分の判断を優先させる。己が信じた相手を他者が貶し、侮辱しようものなら、彼は自分の事のように激しい怒りを抱き、反発する。
だから無理矢理引き剥がそうとしても、逆効果にしかならない。綱吉はディーノを大切に思っている。彼は幼い雲雀を保護し、育ててくれた恩人でもあるから。
「そっか、嬉しいな。んじゃ、どうしても耐えられそうになかったら、ツナの寝床に行って良いか?」
「ヒバリさんが良いって言えば、良いですよ」
「……それ、絶対に不可能じゃね?」
「そうとも言いますね」
腰に両手を当てたディーノが明るい声でさりげなくとんでもないことを言い、冷静に受け流した綱吉は口元に手をやってくすくすと笑みを零した。
神社と沢田家は、林の中に伸びる道で繋がっている。屋敷の隣には道場があり、昔はそこで武術等を教えていたらしい。今は門下生もおらず、雲雀や山本が鍛錬に使うのみだ。
その道場の北側に、嘗て門下生が使っていた離れがある。ニ間あり、片方を綱吉が、片方を雲雀が私室として使用しているけれど、夜間に用いられる寝具は何故かひと組だけだった。
大抵は綱吉が雲雀の布団に潜り込み、そのまま朝を迎える。いっそ間の壁を取り払ってしまおうかという話も、一時期は出ていたのだが、梅雨の頃に起きた騒動の最中に立ち消えてしまい、以後話題にすら登らずにいた。
綱吉の寝床は、裏を返せば雲雀の寝床だ。そこにディーノが紛れ込もうとすれば、必ず雲雀とひと悶着起きる。
あの男が布団を譲り渡すわけがなく、最初から無駄な提案だったと教えられて、ディーノは癖のある髪の毛を掻き回した。
「ちぇー」
「必要だったら、持ってきますから。敷布団はもう無いけど、かいまきなら」
「寒かったらこれ被るし、大丈夫だろ」
綿入りの分厚い長着の事を口に出した綱吉だが、ディーノはもう既にそれに相応する厚みたっぷりの打掛を持っている。普段は羽織るだけだが、必要とあらば袖を通すのも厭わない。
緋色の布地を目の前で振られ、琥珀の目を丸くした彼は数秒置いてはにかんだ。
「そうですね」
言って、彼は握り続けて痺れてきた手を揺らし、辛抱しきれずに桶を足元に置いた。
底が石畳と擦れあい、ゴリ、と小さな音がする。縁に引っ掛けられた手拭いの端が、水面をゆらゆらと泳いでいた。
「はー」
「寒いか?」
赤くなった掌を顔の前で並べて息を吹きかけた綱吉は、ディーノの問いかけに視線を上向かせ、直ぐに首を振った。
但し掌は左右重ねられ、互いをぶつけ合わす事で摩擦熱を呼び起こしている。水仕事を終えたばかりなので指先が悴み、いつも以上に感覚が遠い様子が窺えた。
爪の周囲の皮膚は赤くなって一部が捲れあがり、割けているところもあった。
「痛いだろ」
「平気ですよ、これくらい」
触れようと手を伸ばせば、綱吉は言って肩で身を庇った。隠そうとするが、痛々しく罅割れた肌はしっかりディーノの記憶に刻まれて、彼の中に暗いものを落とした。
「恭弥の奴、ツナに何やらせてんだ」
先ほどまで自分の寝床の掃除をさせていたというのは棚に上げ、彼は怒りを隠さずに空気を蹴り飛ばした。
海老茶色の長着の裾が捲れ上がり、鍛えられた脚が膝まで見えた。雲雀と同様、彼は襦袢を身につけていない。身軽さを優先させるのは構わないが、これから寒くなるのにあまりにも無防備すぎやしないだろうか。
無頓着なところは似なくて良かったのに。そんな事を思いつつ、綱吉は皹が目立つ手を握り締めた。
「ヒバリさんの所為じゃないですよ、これ」
「けどさ」
「霜焼けも、あかぎれも、この季節はみんな同じです。俺だけ何もしないで座ってるなんて、出来ないし」
冬の寒さに肌が負けて、皮膚が硬くなったり、割けたりする。だがそれは何も彼ひとりの身に起きる現象ではない。痛いし、辛いが、誰もが通る道だ。水仕事が多い奈々は特に酷くて、血だらけになっているところを見ると心が痛んだ。
少しでも彼女の負担を、そして痛みを和らげてやりたい。だから綱吉は進んで手伝いを買って出るようにしてきた。
それに綱吉の場合、怪我をしても、雲雀がいれば酷くなる前に癒しても貰える。
「折角綺麗な手なのに」
そう説明されても納得が行かない様子で、ディーノは眉根を寄せたまま呟いた。今度は逃げなかった綱吉の左手を取り、傷に触れないようにそっとなぞる。
小さな手だった。
「ディーノさんの手、暖かいや」
「ん? ああ」
指の付け根の辺りを軽く揉むようにして握られた綱吉が、ふっくらした頬をほんのり赤らめて言った。
急にどうしたのかと最初は吃驚したディーノだったけれど、思い当たる節があって肩を竦め、苦笑した。
「そりゃそうだろ」
もう片手も差し出されたので握ってやり、両手で挟むように包み込む。ディーノの掌から春の陽気を思わせる柔らかな暖気が伝わってきて、凍えていた指先に力が戻って来るのが分かり、綱吉は目を丸くした。
試しに自由になった右手を頬に押し当てると、そこだけ体温が上昇して、温かかった。
「なんで?」
「ツナ、俺が何であるか言ってみな」
不思議そうにしている彼の額を小突き、金髪の青年は目を細めて意地悪く問うた。いくら頭が悪いと自他共に認める綱吉であっても、その質問の答えは間違えない。
ディーノは神、それも太陽神の眷属だ。
「あ、あー」
「な?」
そこまで思い出したところで、綱吉は成る程、と間抜けな声を出した。
右目を閉じたディーノの、茶目っ気たっぷりの笑顔に小さく舌を出す。言われてみれば、そうだ。彼は太陽の化身であるから、日の照っている時間は当然、その恩恵を受ける。温かくて当然だ。
「夜はな、逆にちっとばかり冷たいかもしんねーけど」
「寝床には絶対来ないでくださいね」
「ひっで!」
だから日没後は力が弱まり、肌も冷えてしまっていると言えば、綱吉は両手を背中に隠して半歩後退した。
きっぱり言い切られて衝撃を受けている彼をくすくすと笑い、綱吉は蹴り飛ばしそうになった桶を持ち上げた。汚れた水はその辺の立ち木の根元にぶちまけて、社殿裏の掃除用具を置いている場所に、天地逆にして押し込む。ぱん、ぱん、と二度手を叩き合わせて音を響かせた彼は、解けかけていた半纏の紐を結び直し、身繕いを整えた。
襦袢に、綿入りの長着。その更に上に半纏を着ているので、上半身は充分温かいが、足元は反して素足に草履という夏場と大差ない軽装だ。
踝まで長着に隠れているけれど、はみ出た爪先は砂埃を被っていてもはっきり分かるほど、赤らんでいた。
ディーノの視線に気付いた綱吉が、今度は隠しきれないと諦めて右足を前に蹴りだした。土踏まずから外れた草履が上下に揺れ、地面に下ろされると同時に小さな足を迎え入れた。
「平気ですよ」
「けどなあ」
「もっと寒くなったら、足袋も履きますから」
どこまでも心配しているディーノを安心させようと言い連ね、綱吉は胸の前で両手を小突き合わせた。
雪が降れば、雲雀が作ってくれた雪沓を履く。藁を編んで形を整えただけのものだが、足首まですっぽり覆ってくれるし、履き心地は悪くない。
昨冬のことを思い出しながら呟き、綱吉はディーノを追い越して社殿の表に戻った。少し前まで緑豊かだった境内を囲む樹木も今は丸裸に近く、黒ずんだ枝は寒そうに震えていた。
境内の片隅ではイーピンが、綱吉を手伝って落ち葉を集めてくれている。傍にはランボが居て、いつもの如く彼女の邪魔をしては怒られ、殴られていた。
季節が変わっても、時代が変わっても、あのふたりのやり取りだけは変わる事が無い気がする。少し前にあった嵐の翌日の騒動も一緒に思い返し、綱吉は笑った。
その彼の背中を、後ろに回りこんだディーノが大きな胸で包み込んだ。
「……ツナ」
耳元で甘く囁かれ、鳥肌を立てた綱吉は反射的に彼を押し返した。しかし力で敵う相手ではなく、抵抗虚しく華奢な身体はすっぽりと彼の腕に収まってしまった。
緋色の打掛も一緒になって綱吉を包み、外気を遮断した。ただでさえディーノ自身が温かいのに、冷たい晩秋の風までも遮られて、首裏には彼の呼気が浴びせられた。
「ディーノさんっ」
膝をぶつけ合わせて身震いし、綱吉は上擦った声で離れてくれるよう頼んだ。無論意地悪で悪戯好きな神様は聞き入れず、打掛の内側に彼を隠した。
軽々と綱吉を抱き上げて後ろへ下がり、社殿を囲む回廊の手摺りに背中を預ける。しかしどうにも安定が悪く、彼は諦めると膝を折り、大きくて平らな石が並べられた土台部分を前に腰を落とした。
暗がりにどっかり座り込んで、首から上だけ出している綱吉の赤く染まった耳朶に目を細める。
「嫌?」
俯いているので表情は見えないが、暴れてこないところからして、居心地良いと感じているのだろう。日陰でありながらぽかぽかと春のような暖かさに包まれているのだから、それも当然と言えば当然だ。
チチチ、と小鳥の囀る声が頭上を飛び交い、近くの小枝ががさがさと揺れる。姿を探して綱吉は視線を上向けたが、残念ながら暗すぎて見つけられなかった。
胸の前で両手を結び合わせ、日陰でも色鮮やかな緋色の打掛に目を移す。波立つ布地の上で交差する腕は雲雀のそれよりも骨張り、逞しかった。
「あったかい……」
「だろ?」
ぼそりと呟けば、聞こえたディーノが自慢げに顔を綻ばせた。
天然懐炉だと頭の中でぼんやり考え、綱吉は膝を寄せて小さくなった。打掛の中にすっぽり収まった彼は、今になって足元に移動した小鳥が、奇妙な踊りを披露している姿に目を丸くした。
ぴょんぴょん飛び跳ね、鋭い嘴を頻りに開閉している。それなのに鳴き声がしない。
「ああ、ヒバリさんの」
「うん?」
「ディーノさん。ヒバリさん、怒ってる」
動きから怒りを表現しているのだと気付いた綱吉は、小鳥の目を覗き込み、下からディーノの腕を小突いた。
この小鳥は、雲雀の式神だ。
「お、本当だ」
注意深く観察すれば、小鳥に生命が宿っていないと容易に知れた。
霊力を吹き込まれて動く紙人形は、外見だけなら本物の小鳥と全く相違ない。知らぬ人が見れば簡単に騙されてしまうほど、雲雀の式神は精巧だった。但し元が紙故の性か、啼くことは出来ない。
こういった鳥を模した式神の役目は、遠隔地への偵察や、報せを届けるのが主たるものだ。使役者の特性によって、鳥の姿もまた異なってくる。雲雀はその名の通りの茶色い羽を持つ小鳥であり、山本は燕の形を取る。
その雲雀の式神が、綱吉を抱きかかえるディーノの周囲を跳びはね、時に彼のむき出しの足を嘴で突いた。
痛くなく、むしろくすぐったい。だが式神を通してこの情景を見ているだろう男の憤慨ぶりは充分伝わって、ふたりは揃って苦笑した。
「どうする、ツナ」
「うーん……良いじゃないですか、ちょっとくらい~」
ディーノは少しだけ腕の力を緩め、綱吉の胸元にあった手を膝の辺りまで下ろした。肩を包んでいた温い空気が遠ざかり、急に肌寒さを覚えて綱吉が身を捩る。それでも尚前方を見たまま誰かに向かって文句を言っているので、伝心でも雲雀に叱られたのだろう。
口を尖らせて拗ねる彼の声だけが、ディーノの耳朶を打った。綱吉と雲雀は、魂の根の部分が混ざり合っており、心の中に思い描いた映像さえもがつぶさに相手に伝わってしまうのだ。
彼らはこの現象を、伝心と名付けた。
言葉を介さずとも、お互いの意思疎通が叶う。それはとても便利に思えて、非常に不便だ。なにより隠し事が出来ない。
だから雲雀も綱吉も、己の心を読まれぬように鍵を掛ける術を習得している。もっとも綱吉はこれがとても苦手だった。考えている内容が顔に出易い素直な性格に育ったのも、大いに災いしている。
対して雲雀は、多方面に鍵を掛け、綱吉に悟られぬよう細工した記憶を多数持ち合わせていた。
「変な事言わないで。もう……だから、俺はヒバリさんだけだってば」
この場に居合わせない雲雀との会話は、声に出さずとも良いのだが、つい綱吉は口を開いて不満を次々に吐き出した。
片方しか聞こえなくても、綱吉の声や表情から、大体の内容は予想がつく。どうせディーノと綱吉が一緒に居るのが気に入らない雲雀が、今すぐ離れろだの、心変わりしたのかだの、一方的に喚き散らしているのだろう。
独占欲丸出しの雲雀に肩を竦め、ディーノはちょっとした悪戯心を起こして地上を這う鳥に視線を向けた。一度は下ろした両手を上向かせ、まだ宙に向かって喋っている綱吉の顎と頬を掴む。
「うぐ」
口を開こうとしたところを邪魔されて舌を噛んだ綱吉が、後ろから首を倒して顔を寄せて来る男に琥珀の目を見開いた。
押さえ込まれ、逃げられない。迫る唇から漏れた吐息が、彼の鼻筋を擽った。
「あ」
刹那、ぺちん、という可愛らしい音がひとつした。
「ツナ~~」
「あ、あれ。ごめんなさい、つい」
くちづけられると思った瞬間、体が勝手に動いて彼を平手打ちしていた。ぶたれた方は、さして痛かったわけでもなかろうに涙目で、情けない顔をして少しだけ赤くなった頬を撫でた。
一部始終を見ていた小鳥が、まるで腹を抱えるように翼を広げてくるりと回った。声はしないものの、式神の向こうにいる雲雀も滑稽だと笑っているに違いない。
踊り狂う式神を前に奥歯を噛み締めたディーノは、悔しさから鼻を膨らませ、握り締めた拳を震わせて地面目掛けて振り下ろした。
砂地に広げられた掌が触れる。瞬間、ぶわっ、と空気が彼を中心に弾けた。
「っ!」
巻き上げられた砂以外に、目に見えない何かが渦を巻いて外に押し出される。下から吹き上げる突風に髪を乱し、咄嗟に瞼を閉じて塵を避けた綱吉は、耳鳴りにも似た金切り音を堪えて耳を塞いだ。
足を掬われた小鳥が頭から地面に転がり、でんぐり返しを繰り返して徐々に形を崩していく。茶色かったものが本来の札の色を取り戻し、書き記された墨文字がするりと抜け出て掻き消える。そうして紙自体も、霞のように消えてしまった。
風が吹き抜けた後の大地には薄らと波模様が残され、肩で息をしたディーノがどうだ、と言わんばかりに胸を反らした。彼の膝から斜めに姿勢を傾かせていた綱吉は、今も残る耳の違和感に目を瞬かせ、明らかに異質な静寂に眉目を顰めた。
息を吐き、吸う。
「ディーノさん」
「ざまあみろ、恭弥の奴」
飲み込んだ空気の質が、さっきまでと明らかに違う。雑味が消えて、霊気の密度が上昇していた。
此処に居ない相手に向かって吐き捨てたディーノの袖を引き、綱吉は戸惑いを顔に出した。唇を舐め、そこにこびり付いている霊気を唾液に混ぜて飲み込む。
そこに微かながらディーノの匂いを感じ取って、綱吉は気まずげに下を向いた。
「……?」
さっきまであんなにも喧しかった雲雀の声が、何故か今は聞こえない。鼓膜の辺りで空気が膨張して、聴覚自体が鈍ったような錯覚に陥る。だけれど傍に居るディーノの声はしっかり、はっきり聞こえた。
野鳥の囀りも、ランボとイーピンが駆け回る声も遠い。透明な膜を何枚も重ね合わせたその中に漂っている、そういう印象だ。
「ああ」
綱吉が何に戸惑っているのかを理解し、金髪を掻き上げた青年は横柄に頷いた。社殿を支える柱に背中を預け、姿勢を楽にして綱吉の腰に腕を巻きつける。
肩に顎を載せられ、耳朶に彼の艶やかな髪が触れた。
「それで。ツナ、俺に何か聞きたいことがあるんだろ?」
「どうして、それ」
「気付かないとでも思った?」
結界、というよりは周囲の霊気をディーノが吹き飛ばし、己の霊気が満ちる空間に作り変えてしまった、という方が正しかろう。今この近辺に限り、他の霊気は一切干渉できない。雲雀の式神が消えてなくなったのも、その所為だ。
リボーンに力の大半を封印されているとはいえ、彼が神である事実に変わりはない。これくらいのこと、指一本でやってのけてしまえるだけの強さが、彼には備わっている。
改めて人と神の間にある壁の高さを思い知らされ、綱吉は下唇を噛んだ。
何故雲雀の言いつけを破ってまでディーノに接近し、接触を試みたか。無辜の好意から生じた行動ではなく、思惑があっての事と見抜かれていたのが、恥かしくてならなかった。
「ディーノさん、意地悪です」
「なんだよ、今更だろ」
彼の袖を指で捻り、頬を膨らませて口を尖らせる。ディーノは笑って、綱吉の跳ね放題の頭に顎の位置を移し変えた。
上から圧し掛かられ、背中を丸めた綱吉は窄めた唇から息を吐き、精霊の子供たち以外周囲には誰も居ないのを確かめ、膝に両手を添えた。足を三角に曲げて厚い胸板に寄りかかり、急かすディーノの頭を押し返す。
綱吉は嘘が苦手だった。
下手に誤魔化そうとしても、顔に出るのですぐに見抜かれてしまう。喜怒哀楽が激しく、感情が豊かで、一秒として同じ表情をしていない。単純で、知恵が少々足りておらず、難しいことを考えるのも苦手。
但しそんな彼でも、迷いや悩みや、愁いはある。そういう細かな心の機微を敏感に受け止め、ディーノは綱吉を暖かな腕で包んだ。
「今なら恭弥にも聞こえないから」
「うん……」
話し出すきっかけが掴めずにいる綱吉の背中をそっと押し、頬を擽る。後れ毛を絡め取られ、軽く引っ張られて生じた痛みに、綱吉は二度、深呼吸を繰り返した。
気後れする己を奮い立たせ、思い切ってディーノを振り返る。
「あの。……ふたりとも、俺に隠し事、してますよね」
けれど勢いがあったのは最初だけで、言葉を連ねるにつれて彼の表情は暗く影を帯び、視線は下に滑り落ちていった。
握られた腕を振って膝立ちの彼を座らせ、ディーノは困った様子で金髪を撫でた。
「ふたり、って、俺とリボ……いや、恭弥か?」
思い当たる節を探り、言いかけた人物名を途中で訂正して、彼は俯いている愛し子に問うた。間髪入れず綱吉は頷き、居住まいを正してディーノに体重を預け直した。
肩を丸めて小さくなり、言い辛そうにしている彼の細い首に目を向け、ディーノは眉根を寄せた。
雲雀もまた、太古より地上を守護する神々の一員だった。しかし彼はたったひとりを守る為に、躊躇なく力も、地位も、何もかも投げ捨てて人として生きる道を選んだ。
その末路はディーノも知らずにいた。
十年程前に山で飢え死にしそうな子供を拾い、恭弥と名付けたのは気まぐれでしかなかった。まさかその人の子が、実は嘗ての盟友であり、ひとりの人間を巡って鍔迫り合いを繰り返した相手の魂を継承する存在だったなど、夢にも思わなかった。
神としての力を失っても、完全に人になれるわけではない。その魂は巡らず、留まり続ける。
但し、魂を継いでいるとはいっても、同じ存在ではない。記憶も少なからず継承されているだろうが、今の雲雀に重要なのは未来であって、過去ではない。古きに固執する様子は、今のところ全く見られない。
あるとするなら、精霊会の頃に半端に記憶を蘇らせた綱吉の方だろう。
ディーノの来訪に触発される形で雲雀に封じられていた記憶が動き、呼応する形で綱吉の閉ざされていた、全く彼に身に覚えのない記憶までもが掘り返されてしまった。
沢田家の血に眠っていた記憶。忌まわしき過去を伴って現れた六道骸の存在も、強い影響を彼に与えたに違いない。
「……どんな人だったんですか」
思い巡らせているうちに、腕の中の綱吉は心に一区切りつけたらしい。掠れるような小声で尋ねられて、ディーノは誰を指しての問いかけなのかを瞬時に理解した。
嘗ての雲雀と、ディーノに愛された人。
蛤蜊家初代。
「どんな奴だったと思う?」
退魔師の中でも稀有な力を秘め、天才と謳われている初代は、各地に分散している退魔師を一所に集めてこれを整理した。
妖怪や精霊といった類は、通常人の目には見えない。しかし霊力に秀でた人の目には、この世の物として当たり前のように映し出される。只人との間に認識の齟齬が生じ、数の多い只人がこれを迫害する。
人は、自分とは異なる存在を嫌う傾向がある。己の目に見えるものだけを信じたがる。
初代はそういった、生きる場所を奪われるばかりの人々を救おうとした。退魔師を組織立てたのも、発言力を強めるために必要だったからだ。
けれど代を重ねる毎に、蛤蜊家は初代の理念とは遠いところに向かっていった。初代の元に集った退魔師たちは一族郎党を率い、蛤蜊家に集う権力を独占しようとした。本来は霊力優れる者たちに向けて、均等に開かれる筈だった門が閉ざされて、既に久しい。
退魔師を名乗ろうとしても、退魔師の血流でなければ認められなくなってしまった。純血主義が堂々とまかり通り、出自不明の退魔師は不当な扱いを受けた。だから山本のような存在は、この時代ではかなり珍しかった。
人々の意識から差別をなくしたいという初代の願いは、最早完全に忘れ去られた。
妖を視る目を持って生まれた子供たちは、親からも気味悪がられ、川原などに容赦なく捨てられた。己が持って生まれた才能を生かす術も持たず、悪事に走る者も多い。そういった人間は総じて退魔師崩れと言われ、己の権威に傷がつくのを恐れた蛤蜊家によって断罪されてきた。
蛤蜊家が彼らを庇護し、正しい知識を与えてさえいれば、起きなかった悲劇だ。
話を向け直され、綱吉は半眼した。初代の威光は幼い頃、寝物語に家光から幾つか聞いているけれど、その人となりについては文献でもあまり詳しく記されていないらしい。
綱吉が垣間見た記憶から分かるのは、唄は好きだが下手で、修行が嫌いで、舞も苦手だった、という程度。取り立てて凄いところがあるわけでもなし、何処にでもいるような平凡な子だった。
生まれた日が偶々日食だった為にずっと牢に囚われて、日の光の心地よささえ知らずにいた同族の男の子を心から憐れみ、なんとか外に出してやろうと幼いなりに奔走する、優しい子でもあった。
伝え聞くような素晴らしい力の持ち主であったかどうかまでは、分からない。綱吉が視たのは幼少の記憶ばかりで、蛤蜊家を立ち上げて以降の姿が脳裏を過ぎることはなかった。
それだけ幸せだったという事だろうか、家族が健在だった頃が。
「よく、分かりません」
結局はそれしか言えず、緋色の打掛ごとディーノの袖を握る。深く刻まれた皺のひとつを撫でて潰した青年は、緩慢な相槌ひとつを打って視線を遠くに流した。
木立の隙間から空が見える。雲に覆われて灰色一色だが、雪や雨が落ちてくる色ではなかった。
枯葉が一枚風に乗って流れて行くのを追いかけて首を巡らせ、黙り込んでいる綱吉の、元気のない髪の毛に頬を押し当てた。
「いい、分からなくて。本当なら、お前は知らないことなんだから」
「でも」
自分から話を振っておきながら答えをはぐらかした彼にはっとして、綱吉は勢い良く振り返った。跳ね飛ばされた首を縦に戻したディーノは、優しい目の色の裏に深い哀しみを隠し、首を振った。
綱吉が知りたいのは、初代と嘗ての雲雀との間にあった絆だ。
「お前は、恭弥が好きなんだろ」
「……はい」
「だったら恭弥を信じてやれよ。あいつは、俺みたいに覚えていたわけじゃない」
雲雀は何も知らぬまま、真っ白な状態で綱吉に出会い、惹かれた。過去の記憶に引きずられて、過去の思い人に似ているという理由だけで、彼に恋心を抱いたのではない。それは綱吉だって同じ筈だ。
雲雀本人からも繰り返し言われているし、綱吉もそうだと信じている。だけれど不安は払拭されるどころか、どんどん大きく膨らんで、今にも押し潰されてしまいそうだった。
「それは、分かってるんです。でも俺」
言いかけて言葉を詰まらせ、彼は曲げた膝を胸に寄せて両腕で抱き込んだ。
益々小さくなった綱吉の項に額を寄せ、ディーノは彼の心拍数を数えた。平素よりも若干落ち込んでいる。苦しい胸のうちが伝わってくるようで、切なくなった。
「自信ない?」
「……」
耳元で囁くが、綱吉は答えない。ただ彼は否定する時はきっぱり否定するので、この沈黙は肯定の意味だ。
蛤蜊家を立ち上げた初代と、自分とを比較して、あまりの大きさの違いに愕然とした。立派なことなど何一つしていない自分が、本当に雲雀の隣に居ていいのだろうかと不安になった。
そのうち雲雀に呆れられ、見放されるのではないかと恐怖した。そんなわけが無いと信じながらも、一度疑ってしまった心は簡単に消えない。
だからディーノを頼った。こんなこと、雲雀に直接訊けない。
「あいつは、……そうだな。馬鹿だった」
「……へ?」