四更

 そのドアは少し立て付けが悪くて、開けるのに若干のコツが必要だった。
 そもそも建物自体が古く、現在此処を拠点としている人間の数倍の年月を重ねていた。それでも外観は決して古めかしくなく、構造もしっかりしている。最新技術を用いて防犯面は強化されているが、それも歴史を感じさせる風貌を損ねないよう、慎重に配備されていた。
 例を挙げるとしたら、例えば監視カメラ。無骨でメカメカしい見てくれは、大理石を多用した玄関や廊下には到底そぐわない。
 だから小型化が成され、尚且つパッと見そうだと分からないように装飾品の間に紛れこませ、巧妙にカモフラージュされていた。
 赤外線センサーも同様に、見た目からは判別がつかないように仕込まれている。無論生活に必要不可欠な下水道や上水道、電気にガス、インターネットも完全配備だ。
 外見だけで判断をすると痛い目を見る。人間を主に指して言う言葉だけれど、建物にも通じるものなのだ、と初めてこの地を訪れた時、綱吉はひたすら感心したものだ。
 ただ設備がいかに最新とはいえ、ドアは自動で開かない。ノブを掴み、回し、押す、或いは引いて、ようやく道が開かれる。便利のようで不便、しかしこの適度な不便さが、却って心地よかった。
 科学の発達で生活はどんどん便利になっていくけれど、たまには原点に立ち返り、アナログな生活を楽しみたい。だからこの城とも呼べる屋敷での生活は、思っていた以上に快適だった。
 その城を留守にして、三日。やっと安眠できるベッドに帰って来た彼を待っていたのは、ひとつの報せだった。
「お邪魔しま~す」
 空には月が浮かび、墨汁をひっくり返したような闇がその周囲を覆っている。満月に近い所為で、星の明かりは逆に少ない。
 都心部から離れているので、町のネオンも此処までは届かない。ベランダに出れば遠く、水平線の手前に密集する煌めきを目にするのは可能だが、あの町並みを彩る光が城の外郭を照らすのは無理もいいところだ。
 周囲には鬱屈とした森が広がり、入り口とは逆方向は切り立った崖。非常に見晴らしの良い場所に建てられた城は、天然の城砦だった。
 何度か増改築が繰り返されているので、所々で建物が歪な繋がり方をしている。それが侵入者を拒む役割も担っているのだが、慣れない間は綱吉にとって、この城は迷路に等しかった。
 今ではどうにか、滅多に立ち入らない地下部分以外は把握している。急な来客が百人あっても問題なさそうな広大な敷地に暮らす人間の数は、かなり少ない。
 少数先鋭といえば聞こえは良いが、未だ実権が九代目の掌中にあり、十代目は目下見習い修行期間中ともあれば、その後継者筆頭に付き従いたがる物好きが少ないのも道理だろう。しかも十代目その人が実力も未知数の、遠い島国出身とあれば、尚のこと。
 ヴァリアーを倒し、正統な継承者を名乗るのを許されたとはいえ、彼の存在を危ぶむ声は今も大きい。
「……」
 キィィ、と低く軋んだ音を立てたドアにひやりとしながら、綱吉は息を殺し、第一歩を踏み出した。
 一応断りの挨拶はしたが、自分にさえ聞こえるか否かという小声だったので、部屋の主の耳に届いた可能性は非常に低い。忍び足で細い隙間から身を滑らせて、綱吉は慎重に、開けたばかりのドアを閉めた。
 古びた蝶番が擦れあい、彼の指先に震動をもたらす。廊下との境界線を閉じる瞬間が、一番緊張させられた。
 バタン、と大きな音でも立てようものなら、ここまで気配を殺してきた意味がない。それだけはどうか勘弁、と信じても居ない神様に心の中で懸命に祈り、彼は鼻を膨らませた。
 幸か不幸か、祈りは聞き届けられたようだ。これまでにないくらいに静かにドアは閉ざされ、外から紛れ込んでくる空気の流れが途絶えた。安心した途端にドッと湧いた汗に額を濡らし、バクバク言う心臓を宥め、彼はその場で膝を折った。
 小休止、と心の中で呟いて、顔を扇いで熱を飛ばす。唇を舐めて潤いを補給した彼は、目を瞬かせてから後ろを振り返った。
 深い飴色の床板は薄ら淡い光に照らされて、甘く輝いていた。床に敷かれた絨毯は白色に近い灰色で、縁の部分が起き上がって四方を囲んでいる。
 各所に配置された家具はどれもアンティークで、市場に出回れば目玉が飛び出そうな値段がつけられるに違いない。ドアの直ぐ横に置かれている腰ほどの高さのチェストに右手を預けた綱吉は、そこを支えにして音もなく身を起こした。
 高い天井からぶら下がるシャンデリアに、光は宿っていない。水晶を思わせる煌びやかな装飾は沈黙し、遠くから届けられる儚い光を受け止めて、虹色の輝きを天井に向けて放つのみだ。
 十二畳程の広さがある部屋の中心部には、どっしりとしたソファとテーブルが置かれている。ドアを入って正面には、横に広い執務机が構えていた。
 左側の壁にはびっしりと書棚が並べられ、どの段にも隙間が無いくらいに分厚い書籍が押し込められている。部屋の中心を通って入り口と対角線上には、隣室に続くドアが申し訳なさそうに控えていた。
 灯るライトは、部屋の壁に合計四箇所、設けられた間接照明のみだ。
 直接人を照らすのではなく、一度壁に当てて光を拡散させている。決して明るくは無いが、眩しくないので目には優しい。ぼんやりと淡い輝きが、心を安らげるにも一役買っている。
 足元を照らすには充分な光が供給されており、ひと通り周囲を見回した綱吉は、人気の無い空間に小首を傾げた。
「あれ?」
 時計を見れば、現在時刻はもう深夜と言って良い頃合だった。日本的に言えば、丑三つ時。草木も眠り、夢を楽しむ時間帯だ。
 だが、部屋の明かりは灯ったままだ。いくら間接照明とは言え、ライトにスイッチを入れたままでは眩し過ぎる。
 もっともベッドルームは奥のドアを抜けた先にあるので、この部屋が明るいままでも、就寝するにはなんら不都合は無い。ただ部屋の主の性格上、それは妙な気がした。
「むぅ」
 綱吉だったら、部屋の電気を点けたままでも、眠ければ構わず眠ってしまう。学生時代に得た、どれほど騒がしい授業でも、お構いなしに昼寝が出来る技術は、未だ健在だった。
 お陰で資料に囲まれると、眠くなっていけない。スパルタな家庭教師の怒りの顔が思い浮かんで、胃がキリキリと痛んだ。
 留守にしているのだろうか。ドアには鍵が掛かっていなかったので、席を外している可能性は無きにしも非ず、だ。
 漆黒の闇に溶けそうなスーツを撫で、綱吉は刻まれた皺の一本をなぞりながら頬を膨らませた。
 肌触りは上質で、仕立ても非常に丁寧だ。袖口を飾るカフスには薄らとボンゴレの紋章が刻まれている。現時点でこれを身につけるのを許されているのは、九代目と、彼だけだ。
 残念そうに肩を落として溜息を吐き、垂れ下がった前髪を掻き上げて背筋を伸ばす。今一度室内を見回すけれど、動く気配は他に見当たらなかった。
 折角来たのだから、一応寝室を覗いていくことにしよう。落胆は否めないが、せめて寝顔だけでも拝見しておきたいという気持ちが、彼の背中を押した。
 慎重な足取りで右足から前に出て、起毛も長い絨毯の縁を跨ぐ。踏みしめると、ふんわりとした感触が靴底を伝って登って来た。
 広い部屋のやや北よりを進み、横断しようとした綱吉は真っ直ぐ前を見据えていた。背筋はピンと伸びて、凛とした姿勢を崩さない。幼い頃は猫背気味だったものの、鬼家庭教師による強制的な矯正により、姿勢だけは一人前だ。
 人前で堂々としていられるようになったのも、彼のお陰だ。感謝の極みで、言葉すら出ない。
 お陰で今でも頭が上がらないわけだが。
「……ん」
 そんな彼が前を見詰めたまま、瀟洒な応接セットの横を通り過ぎる。前後に揺らしていた左手が起こした風に煽られてか、背丈の低いテーブルにあった紙が一枚、はらりと落ちた。
 木の葉のように揺らめきながら絨毯に散った紙切れに意識を取られ、ハッとして斜め後ろを振り返る。今し方彼が通り過ぎたソファの上に、蠢く巨大なイモムシがあった。
 否。七頭身のイモムシが、この世の何処に存在するというのか。しかもこんな、禍々しいまでに真っ黒の。
「……っ!」
 咄嗟に悲鳴をあげそうになって、寸前で思い出した綱吉は慌てて両手で口を塞いだ。背筋が慄き、全身に鳥肌が走る。電流が駆け抜けて髪の毛が一本残らず逆立って、頭の中では激しく銅鑼の音が鳴り響いた。
 これだけ体で驚きを表現しておきながら、声が一切漏れなかったのは見事だと、自画自賛したくなった。一瞬で汗だくになった彼は声を殺しながら肩で息を整え、未だ手は口に添えたまま、背中を僅かに丸めた。
 左手を先に下ろし、右手の湿り気をスーツの裾に押し付ける。握り締めると、厚みのある布が容易く撓んだ。
「び、……っくり、した」
 殆ど声になっていない掠れた声で囁き、彼は瞬きも忘れてその光景に見入った。
 テーブルの上にはノートパソコンが一台置かれ、周囲に無数の紙の資料が散乱していた。パソコンはスリープモードに突入しており、画面は真っ黒に塗り潰されていた。
 書きかけで力尽きたのか、白い紙の真ん中に一本蛇行する線が描かれ、万年筆がテーブルの足元に転がっている。その周りにも、何枚かサイズの異なる紙が落ちていた。
 手書きと、プリンターで打ち出したものとの比率は、ほぼ半々といったところか。このパソコン全盛期にあっても、彼は自分の手で文字を書き記し、それを記憶する手段を好んでいる。書きながらの方が頭の中で整理し易いから、というのが理由らしい。
 考えること自体を簡単に放棄しがちな綱吉には、よく分からないが、彼が言うのだから、きっとそうなのだろう。
 そういえば昨年の誕生日、彼からの贈り物は万年筆だった。使うのが勿体無くて、大切に引き出しの中にしまっていたら、前回会った時に使っていないのがばれて怒られたのが思い出された。
「めずらしー」
 ちくりと痛い記憶に心臓を撫で、彼はさっきよりも幾許か大きめの声で呟いた。
 パソコンの傍に放置された携帯電話は、青と緑のランプが交互に点滅している。そしてその隣に、すっかり見慣れてしまったずんぐりむっくりな黄色い塊が。
 横に長く平らな嘴を持つ鳥が、うつらうつらと舟を漕いでいた。
 順繰りにそれらの光景を眺め、最後にソファへと視線を戻す。一時は吹き飛ぶかと思われた心臓はかなり落ち着きを取り戻し、脈拍も平常値に近付きつつあった。
 万年筆が顔を向けるその先には、だらしなく脱げかけた革靴が見えた。黒に近い紺色の靴下が続き、そこに覆い被さる格好でスラックスの裾が斜めに伸びている。
 重なり合った長い脚は細くしなやかで、これもまた斜めになってソファの上に続いていた。
 スラックスとセットの上着は脱いだ後か、この場には見当たらない。長袖の濃い紫のシャツは皺だらけだ。ネクタイ、及び喉元のボタンは外されていて、開き気味の襟元からは左の鎖骨が、実に色っぽく覗いていた。
 恐らくは、いや先ず間違いなく、作業中に睡魔に見舞われて、そのまま眠ってしまったものと思われる。左肩を下にして、肘で曲げた左腕を枕にし、右手は緩く握られて体の上に。寸前まで手にしていたと思われる複数枚の資料が、膝の上に散見していた。
 顔はテーブルの方を向いて俯き加減な為、彼の足の側に立っている綱吉の位置からでは、残念ながら表情まで見るのは叶わなかった。
 どこかの美術館で、こんなポーズを取った裸婦像を見た事がある気がする。いつ、どこで、誰の手による絵画だったかまでは、はっきりと思い出せないけれど。
「珍しい」
 もう一度声に出して呟き、綱吉はソファに横になる雲雀の姿に息を飲んだ。
 中学時代に知り合って、以来ずっと付き合いが続いている彼だけれど、こうやって仕事中に居眠りをするのは実は珍しい。過去幾度となく、あちこちで昼寝をしている光景を見かけたものだけれど、彼はいつだって、昼寝をすべくして其処にいた。
 何かの作業中に睡魔に負ける、という事例は数えるほど。もしどうしても眠くなった場合は、適当なところで見切りをつけて、相応の寝床を用意して仮眠を取るよう心がけていた。
 だから彼は、滅多なことでは資料の山に埋もれて撃沈、という事はしない。綱吉は、しょっちゅうだが。
 自分を引き合いに出して苦笑を浮かべ、マジマジと寝入っている人の顔に見入る。影に入ってしまっているので細かい表情は分からないが、体勢の悪さをものともせず、気持ち良さそうに眠っている。
 胸元に注視すれば、浅い上下運動を一定のリズムで繰り返していた。呼吸は安定しており、綱吉が思うほど苦しい姿勢ではないらしい。
「…………」
 緩く握った拳を心臓の上に押し当て、彼は別の意味で沸き起こった緊張に胸を高鳴らせた。
 こんなにも近くに人がいるのに、雲雀は依然無防備に寝顔を晒したままだ。知り合ったばかりの頃は、木の葉が落ちる微かな音でさえ目を覚ますほど、神経過敏だったというのに。
 群れるのを嫌い、ひとりでいるのを好んだ彼との距離を詰めるのは、なかなかに苦労の連続だった。
 三歩進んで二歩下がる、どころか四歩、五歩と逆に間が広がってしまうことも、ままあった。だけれど時間をかけて、着実に障壁を取り除いていくうちに、気がつけばお互いに離れられないところまで到達していた。
 近付こうとしていただけのつもりが、うっかり囚われて、重なってしまった。
 取り付かれた、奪われた。いくらでも言いようはあるけれど、要するに、彼が好きだ。
「……」
 ドクドク言う心臓を宥めながら頬を紅に染め、綱吉は目覚める気配の無い青年に見入り、唇を舐めた。
 雲雀がこの城に戻って来るのは、久しぶりだ。日本にある並盛を未だ拠点にしている彼が、城に来ている。年寄りたちの無駄口の多い会議の連続でくたくたになって帰って来たところでもたらされた報せに、綱吉の心が躍らないわけがなかった。
 電話とメールのやり取りは頻繁に行っているものの、直接顔を合わせるのには到底及ばない。声を聞きたい、顔を見たい、触れて、触れてもらって、抱き締めて、抱き締め返したい。
 熱い抱擁を期待して、だけれどもう眠ってしまっているかもしれないという不安を胸に、此処に来た。雲の守護者の為だけに用意された筈が、ごく稀に綱吉の寝室にもなる、この部屋に。
 廊下からは、部屋の明かりは分からなかった。就寝中であればせめて寝顔だけでも、という思いでドアを開けた。
 起こすつもりはなかった――添い寝はするつもりでいたけれど。
 だのに、これではそれも無理だ。
「……ちくしょ」
 当初の計画を思い出し、悪態をついて口を尖らせる。雲雀がソファで寝こけているとは、予想だにしなかった。
 どうしてこういう時に限って、普段やらない事をしてくれるのか。可愛い恋人の為に、一寸くらい配慮してもらいたい、と雲雀だってまさか此処で眠ってしまうとは思ってもいなかっただろうに、文句が後から後から飛び出て、止まらない。
 ただ声に出して叫べば、寝ている彼を起こしてしまう。近くに人が居ても眠れるくらいにはなったものの、彼の寝起きの悪さは相変わらずだ。
 間違って起こして、熱いベーゼの代わりにトンファーの一撃を食らうのだけは、御免被る。
 軽い溜息を零して肩を竦め、綱吉は彼の顔を見ようと半歩下がった。三人掛けのソファの後ろを回りこんで、反対側に足を向ける。
 空調は利いているので、室内は程よく暖かい。これならば彼がうっかり居眠りをしてしまうのも仕方が無いと、一年中睡魔と格闘し続けている綱吉は深く頷いた。
 衣擦れの音が微かに響く。息を潜め、気配を殺して南側に移動を果たした彼を誰よりも早く察知したのは、意外にも舟を漕いでいた黄色い小鳥だった。
 肘掛の手前に到達した綱吉の存在に気付き、閉じていた瞼を開いて寝ぼけ眼を上向ける。嘴を、欠伸でもしているのか二度開閉させて、ヒバードと呼ばれているその小鳥は首を傾げる仕草を取った。
「っ」
 薄明かりの中で目が合って、綱吉はぐっと腹に力を込めて息を堪えた。
「ピ……?」
「シー」
 まだ半分夢の中に居ると思しき小鳥に向かい、通じるかどうかは分からないが、人差し指を立てて唇に押し当てる。忍び足の途中だったので馬鹿みたいに仰々しいポーズになってしまったが、今の綱吉には自分を笑う余裕すらなかった。
 やがて反対側に首を倒した小鳥は、理解してくれたのか翼を広げると、声は立てず、顔を拭うように羽を動かした。
 騒ぎ出しそうにないのに安堵して、綱吉は後ろに引いたままだった左足を引き寄せた。二本の足に均等に体重を分配させて、ソファで横になっている黒髪の青年に視線を向ける。
 瞼は閉ざされたままで、薄く開いた唇からは、さっきは聞こえなかった呼吸音がか細く零れていた。
 光の加減もあるだろうが、顔色は、あまり良くなかった。
「疲れてるね」
 自分も人のことは言えないのだが、と心の中で付け足して、綱吉はその場で膝を折った。
 雲雀の頭は肘掛の手前に、己の腕を枕にして沈んでいた。単にしゃがんだだけでは見え難いので、綱吉は膝立ちになると両肘を肘掛に載せて寝かせ、交差させた腕の上に顎を置いた。
 背中を丸めてやや前のめりになり、本来の用途とは異なる使われ方をしているソファを覗き込む。
 これだけ接近しておきながら、雲雀は依然、深い眠りに落ちたままだ。
「……すごい、ぐっすり」
 この体勢で熟睡できるのかと、うっかり感心してしまいそうだ。人に言わせれば、机に向かって座ったまま舟をこげる綱吉の方が、よっぽど器用らしいのだが。
 試しに指を伸ばし、艶やかな黒髪に触れようとして、寸前で怖気づいてやめる。その代わりに身を乗り出して寝顔を覗き込むと、硬く閉ざされた瞼の下に、薄ら隈があるのが見えた。
 疲れている証拠だ。並盛町から此処イタリア南部の島に来るのにだって、かなりの時間が必要だ。
「おつかれさま、ヒバリさん」
「ピ」
 彼と常に行動を共にしている黄色い鳥が、綱吉の言葉に合わせて小さく鳴く。可愛らしい囀りに微笑み、綱吉はもう暫く黙っていてくれるよう、指を立てて頼んだ。
 悪戯の共謀者が小首を傾げるのに目尻を下げ、彼は浮かせた左手を肘掛に戻した。
「こんなところで寝てたら、風邪引きますよー」
 笑いながら囁き、軽く息を吹きかけてやる。寒かったのか、くすぐったかったのか、毛先がそよいだ瞬間、雲雀は小さく唸り、身を揺らした。
 起きるかと思ったが、それだけだった。一瞬強張った肩は直ぐに力を失い、安らかな寝息が綱吉の鼓膜を打つ。頭の下敷きになっている左手がヒクついて、上向いていた掌がひっくり返った。
「む」
 無理に起こすつもりはない。だから自然と起きるように仕向けたのだが、弱かったらしい。
 ただ、これ以上のボリュームを出せば、問答無用でトンファーが飛んでくるだろう。お手上げか、と肩を落として天井を仰ぎ、綱吉は閉ざされている寝室に続くドアを振り返った。
 このままソファで寝かせておいたら、明日の朝目覚めた時、彼の体は筋肉痛で大変なことになっているだろう。実体験が間違いない、と告げている。腕組みをしてうんうん唸った綱吉は、どうしたものか、と小さく嘆息した。
 出来るものなら彼をベッドに運んでやりたかった。しかし身長、体重共に平均よりもひと回り小さい綱吉では、雲雀を抱え挙げるのは不可能だ。
 随分と昔、死ぬ気状態で十五歳のランボを抱きかかえたことがあったが、あの時も確か身長が足りなくて、横抱きにされたランボは足を激しく地面にこすり付けていた。
 同じ結果になるのは、火を見るよりも明らかだ。逆なら楽勝なのに、と軽く落ち込んで項垂れた彼は、額に手をやって蜂蜜色の髪を梳き上げ、眇めた目をソファに流した。
 気持ち良さそうに寝入っている男を若干恨めしげに睨みつけ、テーブルの上でまた眠りに落ちようとしている小鳥の様子を窺う。
 綱吉自身も、いい加減休まなければ、明日の業務に差し支える。だが黙って引き下がるのも悔しくて、惜しい気がした。
「ヒバリさん。ヒバリさん。ヒバリさーん」
 これでもか、というくらいに名前を呼んで反応を窺うが、結果はこれまでと全く同じだ。動かない彼を相手にしても面白くなくて、綱吉は盛大に頬を膨らませ、不満を顔に出した。
 抱き締めて欲しい。キスして欲しい。触れて欲しい。声を聞かせて欲しい。
 欲を言えばキリが無い。ずっと離れていたのだ、一寸くらい我が儘を聞いてくれたって、バチは当たらないだろうに。
「ヒバリさん」
 熟睡している青年に手を伸ばして、またも触れる直前で思いとどまる。空を泳いだ指先は、彼の一本だけ跳ねていた毛先を擽り、去っていった。
「ヒバリさん」
 もう殴られても構わないから、揺さぶって起こしてしまおうか。そんな気持ちがぽっと頭の片隅に浮かんで、即座に駄目だ、と反対側から声が響いた。
 悪魔の囁きを聞いてはいけないと、白い羽根の天使が懸命に綱吉に訴える。疲れているのだからここは休ませてやるべきだと、正論を口にした天使を嘲笑い、黒い蝙蝠羽根の悪魔は悪戯っぽく微笑んだ。
「だって。折角。帰って来てるのに」
 脳内に響いた言葉をそっくりそのまま声に出し、肘掛から身を引いた綱吉は、揃えた膝に両手を並べた。スラックスを引っ掻き、太腿に爪を立てて嗚咽を堪える。
 ずっと会いたかった。会いたかった。
 共に過ごせる時間は貴重だった。誰にも邪魔されない空間は、限られていた。
 こちらに来ているのであれば、先に連絡を入れて欲しかった。そうすれば綱吉は、あんなちんたらとした進行の、面白くもなんともない会議を早々に切り上げて、車を飛ばして城に帰ってきただろうに。
 もっともそんな事をすれば、ご老体方の顰蹙を買って、綱吉の今後にどんな影響が出るか分かったものではないのだが。
「ヒバリさんの、意地悪」
 だからこそ雲雀は、綱吉に告げなかったのかもしれない。天使の声に耳を傾け、彼は静かに頷いた。不満だらけだった心が急速に萎んで、切なさの中に愛おしさが溢れた。
 気を遣ってくれたのだとしたら、嬉しい。だけれど、それと同じくらい、寂しい。
 折角こうして会えたのに、言葉のひとつも交わす事無く終わらせなければいけないのは、とても悔しい。
 お帰りなさい、ただ今。たったこれだけでも構わないのに、それすら許されない。ボンゴレの後継者だ、守護者だのなんだの放り出して、感情の赴くままに自由に泣き叫べたなら、どれだけ良かっただろう。
「馬鹿、すっとこどっこい。むっつり助平、おたんこなす」
 小さな声で悪口を並べ立て、笑う。不意に湧いた涙を指の背で拭って弾き飛ばした彼は、左右に激しく揺れ動く天秤を落ち着かせようと深呼吸を繰り返し、僅かに塩辛い唇を舐めた。
 無理をして笑顔を作り、膝立ちのままソファへ歩み寄る。
 うつらうつらしている小鳥の前を通り過ぎ、ソファとテーブルの間に潜り込んで、首を伸ばす。
 雲雀は眠っている。穏やかに、静かに。
 長い睫が影を作っていて、それが時々ヒクリと震えた。
「ヒバリさん」
 そうっと、呼びかける。返事は無い。分かっていたことだから、ガッカリはしなかった。
 肩を竦めて照れ笑いを浮かべ、綱吉は踵に乗せていた尻を浮かせた。背筋を伸ばし、横になっている雲雀に音もなく近付く。
「大好き」
 掠れる声で囁いて、黒髪に半分隠れている耳朶に一瞬だけ、唇で触れる。
 俯き加減で眠っているので、唇を奪うには彼の姿勢を変えさせる必要があった。だが下手に動かしたら、起こしてしまう。
 ぐっすり眠っているところを起こして、不機嫌な彼に手痛い出迎えを受けるのは得策とは言えない。明日の朝、何も知らぬフリをして驚いてやるのが、ずっと利巧だ。
 囁き声に煽られた黒い毛先がそよぎ、襟足を擽る。雲雀の爪先が微かに跳ねたが、綱吉は気付かなかった。
 息を止め、彼は素早く身を引いた。雲雀に掛からぬよう、天井に向けて肺の中に溜め込んでいた空気を吐き出し、来た時同様ゆっくりと応接セットの外側にまで戻る。そこでやっと、彼は立ち上がった。
 暖炉の上に置かれたアンティークの時計に目をやれば、夜明けまであと四時間を切っている。明日の予定を頭の中で巡らせて、彼は苦笑した。
「参ったな」
 ゆっくりと話が出来るのは、朝食の席くらいしか無さそうだ。明日雲雀に会ったら、真っ先に彼の予定を聞こう。いつまでこっちに居られるのかを確かめて、無理矢理にでもスケジュールを空けなければ。
 その為にあ、先ず長引いた会議の所為で手をつける暇が無かった仕事を片付る必要がある。
「今日は、徹夜かー」
 比較的大きな声で呟いて、両腕を頭の上に真っ直ぐ伸ばす。腰を反らして背筋を伸ばし、ボキボキ言う骨に辟易して、彼は気の抜けた笑みを浮かべた。
「ま。いいや」
 会えただけでも、良かった。
 城に帰り着いた時は今にも倒れてしまいそうなくらいにクタクタだったけれど、今は少し落ち着いた。元気が戻った。
 雲雀の顔を見たら、尽きかけていた気力が湧いてきた。
 胸を撫で下ろし、綱吉は相好を崩した。
「おやすみなさい、ヒバリさん」
 未だソファをベッド代わりにしている人物に告げて、歩き出す。忍び足は止めて、堂々と部屋を横断して、彼はドアの前に戻った。くすんだ銀色のノブを掴んで回すと、年代物の蝶番が、少し哀しげな音を立てた。
 パタン、と空気が押し出される音を残し、ドアは直ぐに閉ざされた。部屋に沈黙が戻り、それまであまり目立たなかった空調の唸る声が、神経質に人の聴覚を刺激した。
「…………」
 綱吉は部屋の明かりを消していかなかった。無意識なのか、それともわざとか。判断に苦しみながら、雲雀はのっそり起き上がり、長く肺の奥底に留められていた二酸化炭素を一気に吐き出した。
 凝り固まっている左腕の筋肉を解すべく肩を回し、派手に骨を鳴らして寝入り端だった小鳥を驚かせる。パッチリ丸い目を見開いた鳥に苦笑して、雲雀は続けて右肩もぐるりと回した。
 膝の上に散らばる資料をテーブルに移し変え、落としていた万年筆を拾って、携帯電話を広げる。パソコンのキーを適当に押すと、途端に画面が光り出し、ハードディスクが回転する音が羽虫のように響いた。
 瞬時に復帰した画面の眩しさに首を振り、着信の多さに辟易して携帯電話もすぐに閉じる。両手を空にした彼は眠そうにしている小鳥を小突くと、欠伸を噛み殺し、妙な寝癖がついてしまった頭を掻き回した。
「徹夜、ね」
 起き上がるタイミングを探していたら、結局最後までその瞬間は訪れなかった。
 狸寝入りに気付いていたのか、どうなのか。去る直前に聞こえた未練がましい台詞を嘯き、伸びつつある髭を気にして、雲雀は顎を撫でた。
 人の形にへこんでいるソファから立ち上がり、綱吉がやっていたように腕を伸ばして体を左右に揺さぶる。変な体勢で寝入っていたお陰で、節々が痛くて仕方が無い。
 特に酷い凝り方をしている左肩を労って揉み解し、もう一度欠伸を零して、彼は暗闇に沈む窓の外に目を向けた。
 ソファを回りこみ、ベッドルームのドアを開ける。その更に奥に設けられた洗面所に入って鏡を覗き込んだ彼は、あまりにも酷い己の有様に閉口して、真鍮製の蛇口を勢い良く右に捻った。
 溢れ出した水に両手を添えて、思い切り顔にぶちまける。
 飛び散る水滴と共に眠気を遠くに追い払った彼は、綺麗に磨かれた鏡に映る自身に向かい、皮肉めいた笑みを浮かべた。
「さて」
 濡れた前髪を後ろに梳き流し、頬を叩いて表情を引き締める。
 綱吉はそろそろ自分の部屋に着いた頃だろうか。
「夜這いにでも行くかな」
 彼ばかりが会いたいと思っていたなんて、言わせない。
 何の為にベッドで横にならず、ソファで仕事に打ち込んでいたのか。その理由を考えもしなかった相手に若干の腹立ちを抱えながら、彼は手早く身なりを整えるべく、シャワールームのドアを開けた。

2010/02/23 脱稿