憂慮

 広い、広いだけの空間に、ひとり。
 ぽつん、と取り残されてしまった。
「あー……」
 他の仲間が各々の修行に励む中で起きた、女子達の反乱。京子にハルが声をあげ、それに追随する格好で大勢が彼女らに肩入れし、こちらはすっかり背水の陣だ。
 家事の一切をボイコットする、という彼女らの抵抗は、思いの外堪えた。食事はカップ麺に頼り、洗濯ひとつまともに出来ない。湯沸しを忘れた水風呂にダイブした時は、凍え死ぬかと思った。
 絶対的に食事量が足りないので、常時空腹と戦わなければならない。ろくに眠ることさえ出来ず、疲れは溜まる一方だ。
 トレーニングルームのほぼ真ん中で大の字に寝転がった綱吉は、天井から降り注ぐ光を右手で遮り、けだるげに息を吐いた。
 今日も朝から保存食の硬いパンに、缶詰オンリー。昼は恐らくカップラーメンで、夜は、考えたくも無い。食事当番を買って出た獄寺があろう事かオーブンを壊してしまったので、今やトースト一枚焼くことさえ出来ない状態だった。
 生魚の一匹でもあれば、山本が捌いてくれるのだけれど。それにしたって、米さえろくに炊けないわけだから、寿司を握ってもらうにも限界がある。
 もっと家庭科の授業を真面目にやっておけばよかった。後悔が胸を過ぎるが、それとて今更だ。
 目を閉じると、次々に美味しそうな料理が思い浮かび、消えていく。この辛く苦しい戦いが終わりを迎えたら、絶対に奈々に頼んで、大好物を沢山作ってもらうのだ。
 白蘭に勝って、この世界の窮地を救って、元の時間に戻って。
 元の生活に戻って。
 他でもない、奈々の手料理がこの世で最高のご褒美だ。
「……あぁ、うん」
 思うのに、心は晴れない。物憂げな顔をして首を左に倒すと、未だまともな開匣に成功していないボンゴレボックスが目に入った。
 オレンジ色を基調として、ボンゴレの紋章が大きく刻まれている。他にも細かな意匠が施されていて、これだけでも結構な価値があるように思われた。
 深く吸い込んだ息を長い時間かけて吐き出し、綱吉の為だけに作られた匣をしばしじっと見詰める。彼の視線を感じているのか、少しすると匣がカタコトと不安定に揺れ始めた。
 照れているのか、なんなのか。あの凶暴な獣にそんな殊勝さがあるとは思えない。
「あぁぁ」
 大きな溜息をついて視線を外した彼は、再び天井を仰いで左右に広げた手を軽く揺らした。
 修繕はされているものの、トレーニングルームの崩壊具合は酷い。その大半は、綱吉が十年後の雲雀を相手にした特訓で出来たものだ。主に、綱吉が彼に吹っ飛ばされて。
 十年経っても雲雀は容赦なかった。そして強い。
 彼があれだけ強くなったのに、十年後の彼らでは――沢田綱吉では、白蘭に勝てないという。
 たかだか一マフィアの争いごとが、世界の存亡の危機に直結する。話が壮大すぎて、未だにピンと来ない。
 しかしこれは、紛うことなき現実だ。そして綱吉は、そういった世界規模のピンチ以上の危機に直面していた。
 このままでは白蘭に勝つ、負ける云々の前に、栄養失調で餓死してしまう。気を抜くと直ぐに腹から気の抜けた、非常に物悲しい虫の声が響いて、彼の空腹具合を周囲にも報せた。
 ぺたんこの胴回りを服の上から撫で、もうひとつ溜息を零す。これは彼ひとりの問題ではなく、男子全員が同じ状態だ。だから綱吉だけが苦労しているような顔をするわけにはいかない。
 だけれど、ひとりきりになるとどうしても考えてしまう。
 彼女らにも、真実を伝えるべきではないのだろうか、と。
 だが思うたびに了平の怒り顔が思い浮かび、彼の拳の硬さを思い出し、そして不安げな少女らの顔が重なった。
 綱吉が守りたいと思うものの筆頭に、彼女らはいる。無論、共に戦ってくれる仲間もそうだ。今は此処に居ないが、奈々や家光や、学校の友人知人に、一度は敵であったけれどもヴァリアーの皆も、守りたいと思っている。
 もっとも、ヴァリアーの面々はプライドが高いし、そもそも戦闘スキルが最初から高い。こんな事を考えていると知れたら、綱吉に頼らずとも、己の身くらい守り通してみせると言って、突っぱねられそうだ。
 想像して苦笑を浮かべ、直ぐに無表情に戻る。眩しさに負けて瞼を閉ざした彼は、暗がりに浮かぶ光の残影をも振り切ろうと、首を倒した。
 コトン、と物音がしたのは、彼の動きに合わせて大空の匣までもが揺れ動き、己の重みに負けて向きを変えたからだろう。
 依然中に宿るものの正体は分からぬままだ。地球上の生き物を模しているとはいうが、一度見た限りではとてもそうは思えない。
 この匣を無事開くことが出来れば、勝てるのだろうか。皆を守り通せるだろうか。あるべき場所に、皆を帰してやれるだろうか。
 だけれど、過ぎた時間は戻らない。見聞きして得た情報も、消せない。知ってしまった事実を、なかったことになど出来ない。
 京子やハル、彼女らの存在は綱吉にとってかけがえないものだ。失いたくない。だからこそ、巻き込みたくなかった。ヴァリアーとの指輪争奪戦の際だって、最後まで了平のついた相撲大会という見え見えの嘘を貫き通した。
 余計な心配を掛けたくない。気苦労を負わせたくない。
 何も出来ずに、ただ無事に帰って来てくれるのを祈るだけの生活がどれほどに疲れるかを、綱吉は既に知っている。
「……よっ、と」
 寝転び続けるのに飽きて、彼は身を起こした。乱れた頭を掻き回し、無責任だとずっと責め続けてきた父親の顔を脳裏から追い出す。
 この時代の綱吉の両親は、どうしているだろうか。イタリアを旅行中で、連絡が未だに取れないと聞いている。あの男のことだから、奈々を護りながら飄々と敵の攻撃をかいくぐり、どこかでのほほんとしていそうなものだけれども。
 そう願うしか、今の綱吉に出来ることはない。
 こんな不安で重苦しいばかりの感情を、彼女らにも背負わせたくない。心配で、怖くて、けれど口に出すと本当になりそうで誰にも言い出せずに、胸に押し込めるより他に術がない日々を、送らせたくはない。
「そう、なんだよな」
 空っぽの掌を見詰め、綱吉は肩を丸めて呟いた。
 メローネ基地での戦闘で作った傷も、徐々に癒え始めている。だが栄養が足りていないのもあって、なかなか完全に塞がってくれない。
 奈々や、京子たちの献身的な世話を思い、彼はふらふらと上半身を前後左右に揺らした。
「あいつ、は」
 そうしてふと、瞼の裏を通り過ぎて行った人物の顔に、自嘲を交えた笑みを零す。
「あいつは、怖くなかったのかな」
「なにがだ?」
「うわ――っどぁ!」
 細い足首を左右の手でそれぞれ握り、達磨のように身体を揺さぶっていた綱吉の独白に、不意に相槌が混じった。
 予想していなかった第三者の声に驚き、前のめりに倒れかかって尻が浮く。跳ね上げた両手を即座に下に転じてつっかえ棒にして、辛うじてみっともない転倒だけは回避した綱吉は、でんぐり返しをする前段階という滑稽な体勢で停止し、そろり、後ろを振り返った。
 床に置きっぱなしだった大空の匣を抓み上げたリボーンが、いつもと同じあの黒いスーツ姿で立っていた。
「こんなところに置いとくんじゃねー」
「り、ボ……がふっ」
 そうして彼は、やおら綱吉の右の膝を蹴り飛ばした。
 横から力を加えられ、辛うじて保っていた姿勢を崩される。堪え切れなくて、綱吉は顔から床に沈みこんだ。
 小さな鼻が見事に潰れて、真っ赤に腫れたのが見ずとも分かった。しかも数センチ滑ったので、皮膚が擦られて余計に痛い。
「いっつ、ぁ……なにするんだよ!」
 左手で顔の中心部を押さえて庇い、即座に起き上がった綱吉が怒鳴り散らす。あまりの痛さに目には涙が滲んでおり、表情は歪んで実に見苦しい。
 手にぶつかって呼気が拡散されて、声は若干くぐもって響いた。そんな喧しいばかりの彼の罵声を何処吹く風と受け流し、リボーンは涼しい顔をしてにんまりほくそ笑むと、右手に持った匣を高く放り投げた。
「あっ」
 オレンジ色の匣が、くるくる回転しながら宙を舞う。
 床に置いておくな、と言った本人がそんな暴挙に出るとは思わなかった。落とされてはたまらないと、綱吉が咄嗟に手を伸ばす。しかし彼が受け止めるべく滑り込む前で、リボーンは難なく匣をキャッチし、挙句綱吉を避けて後ろに飛びずさった。
 ズザザ、と埃を撒き散らして綱吉の華奢な体躯が床を滑る。頭の上で閉じた両手は空っぽで、潤む琥珀は恨めしげにリボーンに向けられた。
「ふふん」
「リボーン!」
 滑稽な独り相撲を演じた綱吉を鼻で笑い、黄色いおしゃぶりをぶら下げた赤ん坊は満足そうにひとつ頷いた。
 人の大切な匣を右手に遊ばせて、左手はスラックスのポケットに。どこまでもふてぶてしい態度なのに、彼がやると妙に堂に入っている。
「こら、返せよ」
「進んでねーみたいだな」
「なにが」
「このダメツナ」
 鼻と、今し方削った顎を順に撫でて、綱吉が右手を前に出す。掴み取ろうとしたがまたもや逃げられて、彼は腹立たしげに叫び、己の膝を叩いた。
 赤ん坊から発せられた静かな問いかけにも、ぞんざいな返事しか出来ない。そうしたら横っ面にビンタが飛んできて、容赦ない一撃に綱吉はもんどりうって倒れた。
 さっきから床と仲良しな自分が、いい加減嫌いになりそうだ。
「いってぇ……」
 最早反論も、反抗する気力も萎え、そのまま床にへたり込む。四肢を投げ出した彼を下に見てリボーンは嘆息し、帽子の鍔を持ち上げて肩を竦めた。
「ツナ」
「うっさい。もー……なんなんだよ」
 名を呼べば、投げやりな返事があった。頭を押さえながらのろのろと起き上がり、服の埃を払って膝を広げてしゃがみ込む。不貞腐れた顔は、もとより幼い顔を一層幼くしていた。
 拗ねている彼に大空のボンゴレボックスを投げ返してやると、綱吉は大慌てで両手を広げ、どうにか落とさずに受け止めてホッと胸を撫で下ろした。
「もっと大事に扱えよ」
「やる気ねーみてーだし、要らねぇのかと思ってな」
 この匣の有る、無しで世界の命運が二分されるかもしれないのだ。それを、ゴムボールのようにぽんぽん放り投げないで欲しい。
 無事手元に戻って来た匣の表面を労わるように撫で、腰のベルトに戻した綱吉は、あまりに乱暴なリボーンの言い分に憤慨し、口を尖らせた。
 やる気が無いのではない、ただ力が湧かないだけだ。けれどリボーンから言わせれば、やる気さえあれば空腹などどうとでもなる、とのこと。集中できてないから他所に気持ちが向いて、すきっ腹が辛くなるのだ。
「俺なんか、三日くらいなら飲まず、食わず、平気だったぞ」
「嘘だー」
「疑うのか?」
 いったいいつの話なのかと笑い飛ばそうとして、銃口を突きつけられて綱吉は表情を凍りつかせた。手は勝手にホールドアップの体勢をとっており、全身が首に押し当てられた冷たい金属に拒否を表明していた。
 大きな黒い眼に不敵な笑みを浮かべ、リボーンが呆気なく負けを宣言した綱吉から距離を取る。いつの間に取り出したのか全く見えなかった拳銃を脇腹のホルスターに素早く戻して、彼の両手はあっという間に空になった。
 一朝一夕で身に着くような技術ではない。拍手を送りたくなるくらいの見事な手捌きにぽかんとしてから、我に返った綱吉は慌てて首を振った。
「それで、何か用?」
 リボーンは京子やハルの味方について、綱吉以下男子とは一定の距離を取るようになっていた。彼女らが反抗を表明して以後はあまり姿を見せなくなっており、昨日は丸一日顔も合わせなかった。
 寂しくなったから、なんていう殊勝な理由でないのは明らかだ。ならば降参するように言い包めに来たのか。
 ぶすっとした声で問うた綱吉の警戒を読み取り、リボーンはふっ、と気の抜けた息を吐いた。
「オメーが寂しがってんじゃねーかと思ってな」
「誰が!」
 考えていた逆の理由を言われて、綱吉は反射的に怒鳴り返していた。
 こんな乱暴者の赤ん坊と離れ離れになれて、むしろ清々しい一日を過ごせた。殴られたり、蹴られたりする心配もなく、悠々自適に過ごすことが出来た。
 口から出任せを次々に発して、息を切らせた綱吉は最後に思い切りそっぽを向いた。
 こんな白々しい嘘、リボーンなら簡単に見抜いてしまえる。分かっている。けれど言わずにいられなかったのは、理不尽な状況に追い込まれて尚飄々としている彼が、悔しかったからだ。
 肩で息をして、溢れ出た汗を拭う。そのついでに目尻の涙も袖に吸わせた彼は、無言を貫くリボーンを気にして、琥珀の瞳を泳がせた。
「そうか。んじゃ、俺は帰るぞ」
「……うあ、待った」
 邪魔だからさっさと帰れ、とも言ってしまったのを思い出し、踵を返したリボーンに慌てて手を伸ばす。黒いジャケットの裾を辛うじて捕まえるのに成功した綱吉は、制止の声を発した瞬間ににんまりと笑って振り返った赤ん坊に、苦虫を噛み潰したような顔をした。
 こういうところまで、しっかり見抜かれてしまっている。それが尚更、悔しい。
「ちぇ」
 舌打ちし、手を放す。リボーンは踵を軸にして身体を反転させ、座る綱吉に向き直った。
「なんだ」
「……いや、別に」
「そうか。んじゃ」
「あああ、もう!」
 背中に手を回して結び、どこか尊大に問う彼に言葉を濁す。瞬間、リボーンはくるりと方向転換してくれて、綱吉はまたも前のめりに倒れながら彼の右手に縋りついた。
 聞きたい事があった。しかし聞いて良いものかどうか、聞いて答えてくれるかどうかも分からなくて、躊躇が生じた。
 ただこのまま延々同じやり取りを繰り返すのも、鬱陶しくて面倒だ。綱吉は小さな紅葉の手を開放すると、疲れた顔をして深呼吸を二度繰り返した。
 薄茶色の髪を雑に掻き回し、諦めた様子で肩を落とす。唇をひと舐めして気持ちを鎮めて、彼は琥珀を揺らがせた。
 見詰める先にいるのは、百戦錬磨の最強のヒットマン。見た目は赤ん坊ながら様々な知識を持ち、武器の扱いに長け、人を惹き付けて止まない不可思議な魅力に溢れた人物だ。
 外見に騙されると痛い目を見ると、綱吉に教えた人物でもある。
「あのさ、お前って、……いたよな。あの」
「なにがだ?」
「だから、前に言ってたろ。その、……えぇっと」
 主格たる部分をはぐらかし、綱吉は何故か顔を赤く染めて視線を泳がせた。人差し指を小突き合わせて恥ずかしそうに身動ぎ、床に放り出していた脚を集めていつの間にか正座を作る。その間もずっと、彼の目はリボーンから逸れたままだった。
 そんなに言い辛い内容なのだろうか。恥らう教え子を前に首を傾げ、リボーンは辛抱強く十秒待った。
 そして十五秒経って痺れを切らし、ひとり勝手に照れている綱吉の横っ面を思い切り叩いた。
「ふぎゃ!」
 ランボのような悲鳴をあげて、これで何度目か知れない床との激突を果たした綱吉が、べそをかいて赤い鼻をさすった。琥珀の目は涙に濡れて歪み、口はヘの字に曲がっていた。
「暴力反対」
「オメーがさっさと言わねぇからだ」
 自分は悪くない、と言い張って綱吉の訴えを退け、彼は踏ん反り返って尊大に構えた。
 どれだけ言ったところで、聞く耳を持って貰えないのは過去の教訓から学んでいる。綱吉は奥歯を噛み締めてやり場のない怒りを抑え込むと、五回も深呼吸を繰り返して無理矢理心を落ち着かせた。
 左胸をトレーナーの上から撫で、苦い唾を飲み込む。
「だから、さ。お前って、……あ、愛人とかって、いるんだろ?」
「ああ。羨ましいのか?」
「違う!」
 随分昔に、確かにリボーンはそんな話を綱吉にした。ビアンキが日本にやって来たばかりの頃のことで、彼女はリボーンの、あろう事か三番目の愛人だという話だった。
 当時は真に受けなかったが、十年経っても相変わらずリボーンにぞっこんな彼女を見ていると、この話もあながち嘘ではなかったと思えてならなかった。
 座り直した綱吉が、揃えた膝に両手を並べて軽く握った。まるで祈るようなポーズを取った彼をちらりと見て、赤ん坊は依然真っ赤な綱吉にほくそ笑んだ。
 流石は年頃といったところだろう。純情な青少年には、この手の話は少々刺激が強すぎる。
「それで。俺の愛人が、どうかしたか」
 暗にビアンキの事を示しながら言った彼に、綱吉は一瞬の間を挟み、前髪を掻き毟って後ろへ流した。
「いや、だからさ。お前って、……相手に最初から教えてた?」
「なにを」
「お前が、その。……殺し屋? だってこと」
 疑問系にしたのは、今でも目の前にいる赤ん坊が、そんなご大層な職業だと信じたくない部分があるからだ。彼がヒットマンである証拠はそれこそごまんとあって、そうでないことを証明する方がずっと難しいのは分かっている。それでも、彼の手が血塗れているとは思いたくなかった。
 恐る恐るの質問に、リボーンは直ぐには返事をくれなかった。考えているのか、どうなのか。眉の一本も動かない無表情ぶりから、彼の心の内を読み取るのは不可能に近かった。
 息苦しさを覚え、綱吉は握った手に力をこめた。空気を押し潰し、膝を叩く。
「何が聞きたい」
 やがてリボーンがいつになく低い、僅かに怒気を孕んだ口調で問い返してきた。綱吉は思わずビクリとしてしまい、数秒の逡巡の末、緩く首を横に振った。
「分からない。ただお前が、もし、お前の事を何も知らない子に好かれて、そしたらお前は、どうしたのかなって」
 大っぴらに出来ない職にある裏社会の人間が、日の光眩しい世界に生きる人間と共存が可能なのか、どうか。
 マフィアと、一般人と。
 綱吉と、京子たちと。
 真実を知る前と、後とで関係はどう変わったか。破綻したか、逆に繋がりが深まったか。
 己らの未来が見えないからこそ、前例を探りたくなる。同じような状況に置かれたことのある人間が身近に居るとしたら、話を聞きたく思うのは、致し方のないことだ。
 だけれど、果たして聞いて良いのかどうかも、分からない。過去の古傷を抉る可能性だってある。前例と同じように事が運ぶとも限らない。
 手を解き、指を互い違いに動かして絡ませて、綱吉は俯いた。表情を隠し、リボーンから自身を遠ざけようと蠢く。
「聞いてどうする」
「……」
「怖いか」
 低い声での質問に、綱吉は答えない。ただ続けざまに発せられた言葉には、ピクリと肩を震わせた。
 怖い。知られることが、怖い。
 これまで隠し続けて来た事を糾弾されるのが。理不尽な争いに巻き込んでしまった事を咎められるのが。
「……違う」
 眦を裂いて自分に向かって怒鳴るふたりを想像して、綱吉はかぶりを振った。弱々しい、けれどはっきりとした声で告げる。のろのろと頭を持ち上げた彼の目は、真っ直ぐ前を向いていた。
 マフィアである事を隠していたことは、後悔していない。巻き込んでしまったことは大いに悔いているが、時間が取り戻せないのならばこの後悔は最早無駄でしかない。
 許してもらおうだとは思わない。必ず連れて帰ると決めている。それで帳消しに出来るわけではないが、自分に出来る精一杯で、彼女らに報いたい。
「俺が怖いのは、……不安にさせてしまうことだ」
 まとまらなかった思考が、一本の道となって伸びていく。その先に佇む答えを手にとって、彼は大事に胸に抱え込んだ。
 これから先、ずっと。元の時間に戻った後も、綱吉の戦いに、京子たちは否応なしに巻き込まれることになるだろう。
 たとえ一般人であろうとも、綱吉の関係者と見れば敵は容赦しない。ボンゴレリングを継承した綱吉以下守護者の全員が、マフィアの覇権を狙う存在に常に命を脅かされることになる。
 綱吉はまだ良い。他の仲間も、皆、強い。自分の身は自分で守れる。
 京子らにも、もれなく護衛がつくだろう。彼女らの生活を壊すような輩は、野放しにはしておけない。
 そこまではいい。
「今のまま、何も知らせないでおけば、俺達が戦いで怪我をしても、転んだ、とか言っておけば誤魔化せる。でも教えてしまったら、もし俺たちが急にいなくなって、何日も帰ってこなかったら、心配すると思うんだ」
 無論、親しい人物が突然行方不明になったら、誰だって心配する。だから綱吉らは、彼女達に旅行だと嘘を言う。数日留守にしても、手土産ひとつを持っていけば、何も知らない彼女らはそれで納得してくれるだろう。
 余計な心配を掛けたくない。不安を抱かせたくない。了平が、京子に相撲大会の練習だと言い張っていた時の気持ちが、今ならよく分かる。
 だけれど真実を伝えないと、今のこの状況は改善しない。苦境に立たされた綱吉たちには、もう他に道は残されていない。
 ただそうなれば、これから先、綱吉達は彼女達に嘘をつけなくなる。怪我の理由を、誤魔化せなくなる。
 だから決心がつかない。彼女らを大切に思うからこそ、教えられない。
 指と指を絡めて握り、額に押し当てて呻くように呟く。搾り出された綱吉の答えに、リボーンは黙って耳を傾け続けた。
「ふむ」
「笑うか?」
「ああ、笑えるな」
 緩慢な相槌をひとつ打ち、綱吉の自嘲を含んだ質問を鼻で笑い飛ばす。
 他にもうちょっとマシな受け答えがあるだろうと、肯定されるとは思っていなかった綱吉は面食らって目を丸くし、二秒ばかりしてからがっくり肩を落とした。
 蜂蜜色の前髪をかき回して、溜息をついて背筋を伸ばす。
「笑うなよ」
「んじゃ聞くが、オメーは俺が三日ばかり居なくなったとして、心配するのか」
「え?」
 人が真剣に話しているのに、その終わらせ方は酷い。頬を膨らませて拗ねた綱吉に向かって発せられた台詞に、彼は一瞬きょとんとした。
 帽子の鍔を押し上げて大きな黒い眼を向ける赤子の顔を数秒間じっと見詰めて、考える。
 未来に来る少し前。十年バズーカーに当たっていなくなった彼を綱吉が探し始めるまで、それなりに時間がかかった。どうせ直ぐ戻って来るだろうと決め付けて、最初、あまり心配しなかった。
「……それは」
「どうなんだ」
「だって、お前だろ。大丈夫だって、みんな思うさ」
 なんとなく責められている気がして、言い訳がましく口にして彼は両手を広げた。
 懸命に訴えられて、リボーンが鼻白む。
「なんで大丈夫だって言える」
「そりゃ、お前、強いし――」
 即答して、言い終えてから綱吉はハッとした。
 合点がいった彼の顔に、リボーンがにやりと笑う。そのあまりの不敵な笑みに、してやられた気分に陥って、綱吉は頭を掻き回した。
 何故リボーンなら大丈夫だと思えるのか。それは彼が、強いからだ。彼の強さを、綱吉は十二分に知っているからだ。
 何故京子たちが不安を抱くかもしれないと、危惧するのか。それは自分たちが弱いからだ。いつか、誰かの手によって葬り去られてしまう危険性があると、綱吉自身が恐れを抱いているからだ。
「う、ん……」
 死ぬのは怖い。
 だけれどそれ以上に恐ろしいのは、寄せられる信頼を裏切ることだ。
 大丈夫だと信じて待ってくれている人たちを、悲しませるような真似はしたくない。
 あの時居なくなったのがリボーンでなかったなら、綱吉はもっと焦っただろう。そうならなかったのは、彼を信じ、彼の強さを信じ、彼の無事を信じていたからに他ならない。どんな窮地に陥ろうとも、彼ならば絶対に乗り越えられると、そう。
「ツナ、オメーはまだまだ弱い」
「うん」
「で、お前はどうする気だ?」
「うん」
 静かに問われ、綱吉は顔を上げた。ぎゅっと拳を作り、はにかんだ笑みに新たな決意を隠す。
「決まってる」
 力強く告げて、前だけを見据えて彼は頷いた。
 強くなればいい。
 彼女らに胸を張って言えるくらいに、そして彼女らが、沢田綱吉ならば何があっても大丈夫だと思えるくらいに。
 誰よりも強くなればいい。
 それまでの不安定感を一掃させ、しっかりとした志を抱いて瞳を輝かせた彼を見上げ、リボーンはそうと悟られぬ程度に笑った。
「そうか」
 相槌をひとつだけ返し、背中に手を回して結び合わせる。
 綱吉の腰元ではベルトに繋がれたオレンジ色の匣が、ふたりの言葉に頷くかのように、軽やかに揺れた。

2010/02/17 脱稿