思料

「うー、寒っ」
 横殴りの風を浴びせられ、上半身が泳ぐ。前髪を掬われて右にふらついた綱吉は、奥歯を噛み締めて呻くように呟いた。
 冷たい空気を頬に感じた瞬間、脇を締めて身を竦ませて堪える体勢に入ってはいたのだが、構えたところで寒風を避けるのなど不可能だ。手袋やマフラーでいかに防御しようとも、目出し帽を被るわけにはいかない顔は、どうしても無防備にならざるを得ない。
 息を吸うと鼻の奥がツーンとして、身体の中から冷やされていく。
「ったく。さっさと帰ろうっと」
 身を縮こませて腕をさすり、摩擦熱で体温を高めて独り言を繰り返す。その場で足踏みをした彼は、目の前に広がる灰色の光景に顔を顰め、歩みを再開させた。
 新年が来て一ヶ月が過ぎ、暦の上ではもう春だが、ぽかぽか陽気に恵まれるにはまだまだ時間がかかりそうだ。曇り空は陽射しを遮り、昼間でも気温はさほど上がらない。日本海側では雪が降っているという話だが、生憎と都心への通勤圏内に入る並盛町は、そういった豪雪とはあまり縁が無い。
 積もっても、三日と経たずに溶けて無くなってしまう。だが、きっとそれくらいで丁度良いのだ。
「はー」
 肺の中に沈殿していた二酸化炭素を吐き出すと、呼気は真っ白に染まり、直ぐに消えてなくなった。
 夏場は緑鮮やかに葉が繁っていた道端の木も、今はすっかり丸裸で、見るからに寒そうだ。自分に置き換えて寒気を覚え、身震いした綱吉は、慌てて首を振って想像を打ち消した。
 一秒でも早く帰りたい。右手に持った鞄を前後に大きく揺らして、繰り出す一歩の幅を広くする。歩数を減らして、小走りでアスファルトを蹴り飛ばした彼は、角を曲がったところで自分の家が見え始めたのにホッと胸を撫で下ろした。
 あと少しで、この寒波吹き荒ぶ外から逃げられる。学校帰り、太陽がゆっくりと西に傾きつつある中を駆け抜け、彼は閉じていた門扉を勢い良く押して庭に駆け込んだ。
「着いたー」
 両手を跳ね上げて万歳のポーズを取り、振り回された鞄の重みに引きずられて、最後はおっとっと、と前に跳んで転倒を回避する。肩を丸めて息を吐いて、膝に両手を置いて呼吸を整えた彼は、開けっ放しでは置いておけないと今し方抜けたばかりの門に戻り、しっかりと閂をかけて通路を塞いだ。
 郵便受けが空なのを確認して自分に向かって頷き、急に軽くなったように思える鞄を片手に玄関へ急ぐ。
 いつもの癖で何も考えずにドアを引くが、鍵が掛かっているのか重い音がして、肘に衝撃が来た。
「あれ」
 思いがけずドアに抵抗されて、綱吉は目を見開き、小首を傾げた。
 無用心だとは思うのだが、沢田家の玄関は大抵の場合、鍵が外れっ放しだ。小さい子が庭で遊ぶ事も多いし、専業主婦の奈々は買い物で外出する以外は、大抵家の中に居る。
「出かけてるのかな」
 綱吉の帰宅時間に合わせ、奈々は買い物を切り上げる事が多い。だからこんなことは珍しかった。
 ドアをもう一度引っ張るが、ガタガタ言うだけで数ミリも開かない。無言を貫く大きな一枚扉を見上げ、彼は口を尖らせた。
「俺、鍵なんか持ってないぞ」
 諦めてドアノブから手を離し、半歩下がって右足でドアを蹴る。が、そんな程度で壊れるくらいに軟弱ならば、玄関として何の役にも立たない。
 誰か中に居ないものか。大勢居る居候までもが全員出払っている可能性は低いと判断し、彼は通学鞄をその場に置くと、ポーチを出て庭に降りた。
 夏場は芝が生い茂る小さな庭も、今は枯れて物寂しい光景を晒していた。花壇に色は乏しく、背の低い枯れ草だけが風を受けて揺れていた。
「寒いな」
 やっと暖かい場所に避難出来ると思っていたのに、裏切られた。呼び鈴は門扉の外にしかなくて、わざわざ戻って押すのも面倒だ。
 子供達もビアンキも、日中は二階の部屋ではなく一階のリビング、もしくは台所を生活の場にしている。綱吉のように自室にひとり引き篭もり、テレビゲームに興じるなんてことは、殆どない。
 庭に面したリビングの窓にはカーテンが掛かっており、中の様子は窺えなかった。
「でも、エアコン動いてる」
 ガラス窓一枚を隔てた先に誰か居るのか、居ないのか。判断しあぐねて視線を泳がせた彼は、外壁に張り付くように設置された室外機が低い唸り声をあげているのを見て、緩慢に頷いた。
 誰も居ないのなら、エアコンは切ってあって然るべきだ。そんな電気代の無駄を奈々がするとも思えないので、きっと家の中には人が居る。
 綱吉は稼働中の室外機から離れ、リビングの窓前に戻って軽く右手を握った。
 映し出される半透明の自分に向かって、コンコン、と二度ガラス戸を叩く。しかし直ぐに反応は返ってこなくて、彼はムッと頬を膨らませて顔を顰めると、少し強めに、もう三度、ノックを繰り返した。
 最後にもうひとつ、ゴン、と骨に響くくらいに強く叩く。
「いちっ」
 勢い余っただけなのだが、誰も気付いてくれないのに腹を立てていたのも確かだ。
 衝撃よりも大きく響いた音に驚いて、反射的に口から悲鳴が飛び出ていた。しかし実際にはそんなに痛くなくて、彼は顰め面のまま右手を裏返し、若干赤くなっている肌に息を吹きかけた。
 窓は依然沈黙し、綱吉に何も答えてくれない。カーテンが揺れることもなければ、向こうから誰かが顔を出すなんて事も一切なかった。
「ぬぬ……」
 もしや子供達は、昼寝中なのだろうか。
 授業が終わって真っ直ぐ帰って来たので、正確な時間は不明ながら、まだ夕方の四時には届いていないはずだ。三時のおやつで腹を膨らませた幼子が、炬燵に入ってそのうち眠ってしまった、という可能性は否定できない。
 実体験を踏まえて想像し、綱吉は途方に暮れて天を仰いだ。
「嘘だろー」
 悲壮感たっぷりに声を張り上げ、がっくり肩を落とす。途端に背中を木枯らしが駆け抜けて行って、足元から迫り上がって来た寒気に彼は身を竦ませた。
 爪先立ちで己を抱き締め、奥歯を噛み鳴らす。少しでも暖を取れる場所を探して右往左往するが、生憎と空はどんより曇り空、心安らげる空間は何処にも見当たらなかった。
 歯軋りして、鼻を啜る。唇に牙を立てると、乾燥した皮膚に唾液が潜り込んで痛みが生じた。
 このまま外で奈々が帰るのを待つなど、絶対に嫌だ。
「なんで俺、鍵持ってこなかったんだろ」
 それに、奈々も奈々だ。出かける用事があって遅くなるのなら、朝のうちにひと言言っておいて欲しかった。
 恨み言を呟き、その場で足踏みを繰り返す。ジッとしていると寒いので、身体を動かしていないと凍えてしまいそうだった。
 振り返り、ブロック塀越しに外を窺うが、通り掛かる人の影は近くには見当たらなかった。当然買い物籠をぶら下げた奈々の姿も、どこにも見えない。
「あー、もう」
「何やってんだ」
「母さんが帰って来るの、待ってるんだよ!」
 見て分からないのか、と後ろからの問いかけに苛立って怒鳴り返し、拳を上下に振り回す。悔しくて地団太を踏んでいた彼は、そんなわけで声の主が誰か、直ぐに思い出せなかった。
 何処から響いたのかも、気付くのが遅かった。
 一頻りひとりで暴れて、土の大地を踏みしめて、枯れた芝生を蹴り飛ばし、はたと我に返る。
「はえ?」
「入らねーのか」
 今、自分は誰と会話をしていたのだろう。周囲には誰も居なかったはずなのに。
 やっとその疑問に辿り着いた彼は、振り下ろした拳を解きながら腰を捻り、沢田家の玄関に視線を向けた。
 厚みのあるドアが、三十センチばかり開いていた。
「あ、……えええー」
「遅かったな」
「リボーン。なんだよ、居たのかよ」
 何故ドアが開いているのか、誰も其処に立っていないのに――と思って目線を下向けたら、とても低い位置に覚えのある帽子が見えた。緑色のカメレオンを肩に乗せた、身の丈五十センチもない赤ん坊が、その下に。
 小さすぎて視界に入らなかった。言えば容赦なく弾丸が飛んできそうなことを心の中で呟いて、綱吉は脱力し、額に手をやって項垂れた。
 早合点していた少し前の自分を思うと、情けなくて、恥ずかしい。勝手に赤くなる頬を片手で隠し、彼はドア前に佇む鬼家庭教師に苦虫を噛み潰したような顔を向けた。
 リボーンが言った「遅かったな」が、帰宅が、なのか、それとも鍵を開けて待っていたリボーンに気付くのが、のどちらに掛かるのかは分からない。が、彼の事だから、後者だろう。
 前髪を掻き上げて後ろに流した綱吉は、気まずい思いでポーチまで戻り、一足先に屋内に消えたリボーンを追って玄関を開けた。
 奈々の靴は、見渡す限りどこにもなかった。
「母さんは?」
 さっさと靴を脱いでリビングに向かおうとしている背中に問いかけると、リボーンは首から上だけで振り返った。薄汚れた運動靴の紐を解いていた教え子の視線を受けて、静まり返った台所方面に目を向ける。
 綱吉もつられて、何の物音もしない、電気も消えた廊下の先を見た。
「ママンなら、買い物だぞ」
「まだ帰ってないんだ?」
「遅くなるかも、とは言ってたな」
「ふぅん……」
 気の抜けた声で相槌を打ち、綱吉は上がり框を靴下で踏んだ。鞄のファスナーを開いて弁当箱を取り出し、左手に持って奥へ向かう。暖簾を潜って入ったキッチンは、リボーンの言う通り、がらんどうだった。
 換気扇の回る音だけが、羽虫のように耳元で渦を巻く。食器や調理器具は綺麗に片付けられていて、空気はひんやりしていた。
 長い間、人が通った気配がしない。布巾に包まれた空の弁当箱をテーブルに置いた綱吉は、庭以上に心寂しい光景に息を飲み、左手で右肘を握り締めた。
「ランボたちも、いないのかな」
 リビングからは何の音も聞こえない。リボーンがいるはずなのに、家の中は人気に乏しかった。
 だけれど、思えば少し前までは、これが当たり前だった。広い家に綱吉と奈々しかいない日々。だのにいつの間にか、大人数での生活に慣れて、それが当たり前になっていた。
 最初は騒々しいのが迷惑でならず、早く出て行ってくれるように願っていたというのに。
 自分の心変わりの早さに苦笑を禁じ得ず、綱吉は自嘲気味に口元を歪めると、背筋を走った悪寒に身を竦ませた。
 寒い。
「うぅ、冷えるな~」
 折角家の中に入ったというのに、これでは何の意味もない。彼はじたばたと足を踏み鳴らすと、幾らか軽くなった鞄を小脇に抱えて洗面所へと駆け込んだ。
 幼い頃からの習慣で、石鹸での手洗いと嗽を素早く終えて、指先に残った痺れをタオルで必死に拭い取る。それでも一度冷えたものはなかなか元には戻らなくて、彼は罅割れかけている唇にまたも牙を突き立てた。
 このまま二階に行っても、部屋はもっと寒かろう。そんな中で着替えるなど、常軌を逸した行為としか思えない。
「あー、もう。やだやだ」
 嫌な想像をしてしまったと首を振り、足拭きマットを蹴り飛ばして廊下に戻る。ドスドス足音響かせて彼が目指したのは、階段ではなかった。
 本来曲がるべき場所で逆に進路を取り、閉まっていたドアに手を掛ける。ノブを下げて戸を開くと、出来上がった隙間から温い風が一気に溢れ出てきた。
 肌を擽る乾燥した空気に、喉が鳴った。
「こら、リボーン。暖房入れすぎだぞ」
 普段、綱吉が部屋のエアコンに電源を入れようものなら、子供は風の子だなんだと言って容赦なく叩き切るくせに、この様はなんだ。
 腹立たしさが否めず、ついボリュームが大きくなる。指を掛けていたドアノブを突き飛ばしてリビングに上がりこんだ彼は、部屋の真ん中に鎮座する炬燵で寛ぐ赤ん坊の姿に、猿のように金切り声を上げた。
 中折れの帽子を脇に置き、綱吉以上にツンツンの黒髪を露にしたリボーンは、入ってくるなり喚き散らした綱吉へ迷惑そうに一瞥を加えたものの、直ぐに興味を失ったらしかった。ぷいっ、と効果音が見えそうな露骨さで顔を逸らし、何もない空間に見入ってしまう。
 あまりにもあんまりな態度に一層腹を立てた綱吉だが、言ったところでどうせ聞きはしないのだろう。納得行かないままに無理矢理溜飲を下げて、彼は急激に上昇を開始した体温に汗を流した。
 上着のボタンを左手で外しながら窓辺に寄り、カーテンに半分隠れているエアコンのリモコンを取るべく右手を泳がせる。が、目当てのところにそれはなくて、彼は首を傾げ、振り返った。
 炬燵の天板の上、テレビの黒いリモコンと並ぶ形で、白色のリモコンが置かれていた。
「そっちかよ」
 途中見えていたはずなのに、素通りしてしまった。行き過ぎた道を戻った綱吉は、自分の迂闊さを悔やみながら設定温度を下げるべく、下向きの三角が表示されたスイッチを三回押した。
 普段、奈々が設定しているのよりも、随分と高い。誰が弄ったのかは、考えるまでも無さそうだ。さっきから目を合わそうとしないリボーンの後姿を横目で睨み、綱吉は浮いた汗を拭って上着から袖を抜いた。
 喉を締め付けているネクタイにも指を入れて結び目を緩め、呼吸を楽にする。ふー、と長く息を吐いた彼を久方ぶりに見上げて、リボーンは緊張を解いていく綱吉に目を細めた。
「あー、寒かった」
 空調の設定を下げたとはいえ、室温が急激に下がるわけではない。まだまだ温かい風が充満する室内で、顔を手で扇ぎながら綱吉は相反する感想を口にした。
 誰に言うとでもなしに呟き、脱いだジャケットと鞄をひとまとめにして床に置く。本当はハンガーに架けて吊るしておくべきだと分かっているのだが、生憎とリビングにはそういった小物は置かれていなかった。
 それに、多少皺が寄ったところで別段困らない。酷くなったら奈々に頼んで、アイロンを当ててもらえば大概は消えてなくなる。
 ネクタイを緩めたついでに、下に着込んでいたシャツのボタンもひとつ外して襟を広げた彼は、壁時計を見上げた後にカーテンで視界が遮られた窓を振り返り、その向こうに思いを馳せたようだ。
「ランボたちも一緒?」
 まだ誰も帰って来た気配が無い。静まり返る室内と庭から判断した綱吉の問いかけに、リボーンは炬燵に押し込んだ足を広げ、頷いた。
「ああ」
「ビアンキも?」
「そうだぞ」
 もう一度リビングを見回して、綱吉が質問を重ねる。台所は無人だったし、天井から足音が響くこともない。だから本当は、今現在家には他に誰も居残っていない事くらい、綱吉も分かっていた。
 だのに敢えて言葉に出したのには、訳がある。
「珍しいな」
「そうか?」
「んじゃ、お前だけ?」
 ビアンキはリボーンが大好きで、その為に一時は綱吉を暗殺しようとしたくらいだ。お互い理解が行き届いた今は、そんな危険な目に遭う回数も減っているが、当時の記憶は鮮明に残っている。
 そんな彼女がリボーンを置いて外出するのは、実のところ、かなり珍しかった。
 いつも、何処に行くのも一緒。流石に寝床は別だが、基本的にビアンキの行動はリボーンを中心に回っている。
 彼女が遠出するのも、リボーンが食べたいと言った食材を探しに行く時くらいだ。それ以外での買い物は、大抵の場合ふたりはワンセットだった。
「そうだぞ」
「変なの。槍でも降るんじゃ――冗談、冗談だって」
 思った事を口にすると、それまでにこやかだったリボーンの表情が僅かに尖った。不穏な空気を敏感に感じ取り、銃口を向けられる前に慌てて弁解を捲くし立て、綱吉は冷や汗を拭った。
 振り回した両手で額を擦り、唇を舐めて炬燵に目を向ける。茶色の籠に積み上げられた蜜柑は、実に魅力的な色合いで彼を誘惑した。
「よっ、と」
「ツナ」
「いいだろ、ちょっとくらい」
 着替えもせずに炬燵で寛ごうと膝を折った彼を、リボーンは険のある声で咎めた。が、彼は聞く耳を持たずに分厚い炬燵布団を捲ると、ヒーターにスイッチが入っているのを確かめて、腰を落とした。
 手近なところに転がっていたクッションを拾って尻に敷き、楽な姿勢を作って足を伸ばす。筋肉を通して骨にまで届く温かさに身震いし、彼はホッとした様子で背中を丸めた。
 両手も揃えて布団の中に押し込み、腿で挟む。顎を天板に乗せて前のめりになった、だらしない姿勢にリボーンは眉間に皺を寄せたが、言っても無駄と判断したのか、特に何も言わなかった。
「あー……幸せ」
「単純だな」
「五月蝿いな、いいだろ」
 外の寒さに比べると、此処は天国だ。
 ガタガタと震えて奈々の帰りを待たずに済んだだけでも儲け物で、至福の時を楽しみながら、綱吉は炬燵の向かい側にはみ出るくらいに足の筋を伸ばした。
 一頻り指先も温もったところで腕を引き、籠の蜜柑に手を伸ばす。探せばもっと他におやつが用意されているのだろうが、あまりにも此処が快適すぎて、リビングを出る気力は欠片も残っていなかった。
「母さんたち、いつ帰って来るんだろう」
「さあな。もうじきだろ」
「リボーンは、なんで?」
「なにがだ?」
 自問を口にすると、横から合いの手が返って来る。話しかけたつもりはなかったのだが、お互い独り言は寂しい。素直に乗ることにして、綱吉は先ほどから感じていた疑問を舌に転がした。
 オレンジ色の皮に爪を立てて穴を開け、指を入れて引き裂く。中から現れた沢山の房が集まった果実を半分に割って、彼は続ける言葉に迷い、手元から視線を浮かせた。
 リボーンは元々小さいから、座られてしまうと余計に目線が低くなる。今も炬燵の影に大半が隠れてしまっていて、会話しているのになかなか視線が合わないのは、正直喋りづらかった。
 だから彼はクッションから尻を下ろし、リボーンの居る方へ少しだけ身を寄せた。右の太腿が炬燵の脚にぶつかる。行き送れたつま先が、ヒーターに焦がされて熱を持った。
 スラックスが燃える前に、膝を畳んで胡坐を作る。じたばたと座ったまま身動ぎを繰り返す彼を見上げ、リボーンは不遜な笑みを浮かべた。
「どうした」
「いや、ちょっと。……なんでお前、行かなかったんだ?」
 どうにも尻が安定せず、若干に居心地の悪さを覚えながら、綱吉は蜜柑を更に半分に割って、四分の一を手に取った。残りは広げた皮の上に転がして、表面に張り付いている白い筋を抓んで軽く引っ張る。
 力を入れすぎたからだろうか、筋は端に行く手前で切れてしまった。
 しまった、と渋い顔をするが、どうにもならない。少し迷った末に、彼はリボーンの方を見ながら、塊のまま蜜柑の房を口に入れた。
 三つ、四つばかりの房を一度に頬張り、口を大きく動かしながら、目でも問う。大胆な食べ方をする彼を笑って、黄色いおしゃぶりをぶら下げた赤ん坊は、両手を後ろにやって姿勢を斜めにした。
「ふふん」
 なにやら含みのある笑みを零し、次の房の筋を剥がしにかかっている綱吉を見上げる。視線に気付いた彼は手を休め、怪訝に小首を傾げた。
「リボーン?」
「良かったな、俺が居て」
「ああ、うん」
 リボーンが留守番をしていてくれたお陰で、綱吉は外で待ち惚けをくらわずに済んだ。素直に礼を言い、空になった口に房をひとつ押し込む。奥歯で噛むと、潰れた薄皮からじゅわっと甘酸っぱい果汁が溢れ出した。
 舌で包んで前に流れようとするのを防ぎ、奥歯で擂り潰す。すかさず次の房を口に入れようとして、綱吉はふと、手を止めた。
 薄いオレンジ色の蜜柑から、にんまり笑っている赤子に目を向ける。
「あのさ、もしかして」
「さーな」
 一瞬脳裏を過ぎった想像に、綱吉の表情が幾らか強張った。が、赤子は答えをはぐらかし、視線も逸らしてしまう。
 けれど予想が正しい可能性は非常に高くて、綱吉は胸の奥底に湧きあがった言い知れぬ感情に膝をバタつかせ、甘い唇を噛み締めた。
「あ、えっと。……ありがと」
 日頃綱吉の部屋で生活している彼は、綱吉の通学鞄に鍵が入っていないのも、勿論知っていた。
 鍵のかかった家を前に、どうすることも出来ずに途方に暮れる姿を想像するのも、容易かっただろう。
 それに、普段よりも高めに設定されていた空調。ずっとその温度で過ごしていたのなら、彼のことだ、文句のひとつも口にしただろうに。
 口篭もった末に小さな声で礼を言った綱吉の手がスッと伸ばされ、リボーンの方へ向いた。迫る気配に視線を戻し、赤子は不審げに綱吉を見た。
「食べるか?」
 礼のつもりなのか、綺麗に剥いた蜜柑の房を揺らして、綱吉が問う。
 にんまり笑い、リボーンは立ち上がるべく炬燵布団から脚を引き抜いた。

2010/02/05 脱稿