吃逆

 いつから、なのかは具体的に思い出せない。
「ひっ、く」
 腹の奥深くで何かが引き攣ったかと思うと、気道を逆流した空気が音を伴って口から溢れ出した。
 咳やくしゃみとは違う。鼻も、別段むずむずしない。
 ただ時折、予告もなく横隔膜が震えた。
「ツナ?」
 外に向かって飛び出した、酔っ払いのような声。甲高いそれを耳にした瞬間、斜め前を歩いていた山本が振り返った。
「十代目?」
 僅かに遅れて、山本とは反対側にいた獄寺もが綱吉に向き直る。長い銀髪がサラサラと揺れて、露になった瞳が訝しげに歪んだ。
 思いの外大きく響いてしまったしゃっくりに、思いがけず注目を浴びる羽目に陥った。綱吉は照れ笑いを浮かべて頬を掻き、なんでもない、と言おうとして口を開いた。
 刹那。
「ひぅっ」
 またも、予兆もなしにしゃっくりが飛び出した。
 下顎を前に突き出し、舌を咥内でくるん、と丸める。喉で声を止めようとしたのが却って悪かったようで、引き攣った声はさっき以上に大きな音となって廊下に響いた。
 自分の声なのに別人のそれに聞こえて、綱吉までもが驚いてしまう。ピンと伸びた背筋を数秒してから丸め、猫背になった彼は、己を注視する二対合計四つの眼に苦笑した。
 小さく舌を出し、胸の目で人差し指を小突き合わせて小さくなる。
「あの、……」
「しゃっくりか」
 無言で見詰められ続けるのは、居心地が悪くて仕方が無い。甲高い声を滑稽だと笑ってくれる方が、まだ心理的負担も少なくて、綱吉は足を止めてしまったふたりを恐る恐る仰ぎ見た。
 途端、山本がハッと我に返って呟いた。
「ああ、うん」
 絶えた会話が久方ぶりに再開しそうな雰囲気にホッとして、綱吉は二度頷いた。喉と胸の辺りを順に撫でて行き、最後に腹を押さえて空腹感を堪える。
 いつからかは思い出せないが、気がついた時には始まっていた。長らく忘れていて、止まったかと思えばまた始まるので、どうにも厄介だ。それも集中したい時に限って起きるので、気が削がれてならない。
 控えめに笑い、愚痴を零す。一頻りひとりで喋った後、上目遣いにふたりを窺うと、獄寺はいやに神妙な顔をして、山本は正反対に明るい顔をしていた。
「あー、それ、分かる」
 最初に言葉を発したのは山本で、彼は元気溢れる声で大いに頷き、綱吉に同意を示した。
 やや大袈裟な反応ながら、同調してもらえたのが嬉しくて、綱吉は胸を撫で下ろしながら顔を綻ばせた。上唇を舐め、少しだけ彼の方に身を乗り出す。
「でしょ?」
「だよなー。しゃっくりって、なんであんなに良いところで起きるんだろ」
 一打逆転の打席でバットを構えていたら、急にしゃっくりが出てタイミングが狂わされ、ホームランどころか空振り三振。あの時は本当に悔しかったと、当時のことを思い出しながら、山本は拳を震わせた。
 昔の記憶でありながら、たった今三振したばかりのような悔しがりように、綱吉は目を細めた。
「ケッ。それがテメーの実力だろ」
 一方の獄寺は、頭の後ろの手をやって結び、そっぽを向いて悪態をついた。
 口を尖らせた彼に、山本は一瞬だけ剣呑な目つきをした。が、瞬き一回のうちに怒りの表情を掻き消し、いつも通りの彼に戻ってしまう。背筋が粟立つほどの殺気を感じて身震いした綱吉は、高い位置にある山本の顔を窺い見て、肩を竦めた。
 獄寺が山本に対して、並々ならぬ敵愾心を抱いているのは、綱吉も知っている。山本だけではない、彼は綱吉以外の相手には、誰にだってこんな態度だ。
 特に年上が嫌いらしく、雲雀や、ディーノ相手にはもっとつっけんどんになる。女子や子供に対しても似た調子なので、特にハルとは顔を合わせるといつだって喧嘩になった。
 もっと皆と仲良く出来ないのだろうか。間に挟まれた綱吉は人知れず嘆息し、続けて起きたしゃっくりを飲み込んだ。
 声には出なかったがビクリと震えた肩で分かったらしい。山本が手を伸ばし、触れてきた。
「大丈夫か?」
 跳ね上がって直ぐに沈んだ肩を撫でられて、喉に残った違和感に喘いでいた綱吉は首を振った。
「平気」
 不意打ちで襲ってくるので吃驚しただけだ。空気の通りが良くなった鼻腔から冷気を招き入れ、肺を収縮させて呟く。しかし山本の表情は、どうにも優れなかった。
 獄寺も、腕を組んでなにやら神妙な顔で考え込んでいる。
「しゃっくりは横隔膜の痙攣によって発生して、だな……」
 なにやら小難しい事をひとりブツブツ言っており、思索の邪魔をしては悪い、というよりは余計な事を言って意味が分からないことを捲くし立てられたくなくて、綱吉は肩を竦めるに留めた。
「いつからだ?」
「わかんない」
 獄寺の横顔を眺めていたら、反対側から問われて即座に振り返る。今度は横に首を振って、綱吉はあまり目立たない喉仏を撫でた。
 朝起きて、身繕いを整えるところまではなんともなかった。食事時も、問題なかったように思う。気がついたのは、午前の修行中だ。
 炎の純度を向上させて、より硬度の高い死ぬ気の炎とする為にも、集中力は欠かせない。だのにしゃっくりが起きる度に意識が拡散し、炎が弾けて消えてしまう。
 これでは修行にならない。折角大空の匣を手に入れたというのに、この調子だと巧く連携出来ず、戦いを有利に運べない。
 今は匣の中でしばしの休憩に入っている天空ライオンの顔を思い出し、綱吉は盛大に嘆息した。
「ひっく」
 瞬間、またしゃっくりが飛び出して、山本に笑われた。
「ほんとに大丈夫かー?」
 呆れ調子に聞かれて、今度は即答出来なかった。綱吉は渋い顔をして目線を逸らし、まだ考え事に没頭している獄寺に気付いて苦笑いを浮かべた。
 こちらも、大丈夫だろうか。
「獄寺君、前」
「え? ――どわっ」
 一応注意したのだが、間に合わない。廊下に積み上げられていた段ボール箱に足を掬われて、前方不注意だった彼は見事にすっ転んだ。
 痛そうな音が響き、間近で聞かされた綱吉もが思わず首を引っ込めた。肩を強張らせて脇を締め、身を縮こませて己を抱き締める。
 立ち上った埃は直ぐに霧散して、後に残されたのは潰れた箱の山と、そこに大の字になって埋もれる獄寺の姿だった。
「はひぃ、いったお何の音ですか?」
 どうやら受身を取ることすら出来ず、顔面から突っ込んでいったらしい。顔を伏したまま指先、足先をピクピクと痙攣させている。転がり落ちた空箱を避けて彼に近付いた綱吉の後ろのドアからは、騒音を聞きつけたハルがドアから勢い良く飛び出して来た。
 いつの間にか、彼女らの陣地である台所の近くまで来ていたらしい。
 見れば散乱する段ボールの側面には、野菜や肉のイラストが入っていた。そして潰れてしまった箱の多くは空っぽだった。
 中身を取り出した後、開いて畳む前に一旦外に出しておいたものらしい。もしこれが満杯だったなら、被害は想像を絶するものになっていたに違いない。野菜は基地内の畑でも収穫できるが、肉類は外部から購入するより他、術が無いからだ。
 恐らくは一週間分の食材が入っていたであろう潰れた箱の群れを見下ろし、空で良かったと綱吉と山本が揃って胸を撫で下ろす。ハルはというと、床に倒れる獄寺の姿に悲鳴をあげて、その場にしゃがみ込んでしまった。
「な、なんなんですか、もう」
 角が潰れている箱の頭を叩きながら、吃驚させないでくれと憤慨している。甲高い声は天井にまで響いて跳ね返り、獄寺の頭にも降り注いだ。
「いってー!」
「きゃっ」
 耳元でキャンキャン喚かれたのが神経に障ったのだろう、それまで痙攣を起こす以外全く動かなかった彼が、いきなり起き上がった。
 仰天したハルが、仰け反って倒れこむ。段ボールを抱き締めて姿勢を支えた彼女は、膝立ちでひとり憤慨している獄寺の顔を見上げ、唐突に眦を裂いた。
 手にしていた空箱を両手で構えて放り投げ、
「なにやってるんですか!」
 見事獄寺の顎に激突させて叫んだ。
「あー、あの、ハル……」
「どうしてくれるんですか、これ。片付けるの大変なんですよ」
 手近に転がっている箱を次々に掴んでは投げ、獄寺への攻撃をやめない彼女に綱吉は苦笑した。手を振ってやめるように言うが聞いてもらえず、始末に困って後ろの山本を振り返る。
 彼はいつも通りの朗らかな笑顔を浮かべ、一方的にやられるのをよしとせず、反撃に転じた獄寺とハルのやり取りに目を細めていた。
 我関せずの親友に綱吉は溜息を零し、額に手をやって項垂れた。
「……、ひっく」
 こんな時でもしゃっくりは、空気を読まずに出てしまう。なるべく声が小さくなるようにと努力するが無駄で、肋骨を圧迫する衝動に彼は顔を引き攣らせた。
 下を見れば、蹲った二名までもが動きを止めて、変な顔をして綱吉を見ていた。
「えと、あの、……なに」
「ツナさん、しゃっくりですか?」
「ああ、うん。さっきから、止まらなくて」
 心臓の辺りを服の上から撫で、段ボールを頭に掲げたままのハルに頷く。彼女は投げるのを止めてそれを床に下ろし、入れ替わりに立ち上がった。
 スカートの汚れを軽く叩き落し、獄寺にきちんと片付けるように命じて、即座に発せられた彼の反論に舌を出す。そもそも最初にぶつかって突き崩したのは彼だから、彼女の言い分は、確かに正論だった。
 山本がひとつ拾って壁際に置いて、綱吉もそれに付き合う。ふたりが働いているのに騒ぎの張本人たる獄寺だけが何もしないわけにはいかず、彼も渋々、銀髪を揺らしながら遠くに転がっていた箱を拾いに行った。
「しゃっくりですかー」
 最後のひとつを手に取って頂上に置いたハルが、間延びした声を発して物珍しげに綱吉を見た。
「そのうち止まると思うんだけど、なんか気になるよね」
「そうですね。あ、でもしゃっくりって」
 深く考えぬまま、楽観論を口にした綱吉に、彼女も同意すべく頷きかけた。が、途中で何かを思い出したらしく、言いかけて、止めてしまう。
 変なところで途切れた台詞に、綱吉は小首を傾げた。
 自動的に開いたドアを潜って台所を覗けば、京子とイーピンが揃って昼食の準備中だった。チャーハンの美味しそうな匂いがいっぱいに広がっており、それだけで喉が鳴る。
「ひくっ」
 そうしてまたひとつ、小さなしゃっくりが綱吉の口から漏れた。
「なんだよ、言いかけてやめんなよ」
 肩を上下させた綱吉の横で、獄寺が続きを気にしてハルを小突く。肘で叩かれた彼女は嫌そうに顔を顰めて距離を取り、テーブルの前で振り返った。
 最後に入って来た山本の後ろで、自動ドアが閉まる。了平とランボはまだ来ておらず、食事も直ぐには始められそうになかった。
「なに? なんの話?」
「ツナさん、しゃっくりが止まらないそうなんです」
 話題の乗り遅れた京子が、菜箸片手に振り向いた。すかさず仲の良いハルが、要所だけを掻い摘んで端的な説明を行って、言うことがなくなった綱吉は黙って頷き、椅子を引いた。
 準備が終わるまで、まだ暫くかかりそうだ。かといって折角来たのに部屋に戻るのも億劫で、ここで待たせてもらうことにする。残る男子ふたりも同じつもりらしく、それぞれが決まった席に着いて頬杖をついた。
「そうなんだ。大丈夫?」
「うん、ありがとう」
 京子の心配そうな声に、綱吉も努めて明るい声を出して頷く。みんなして大袈裟だと心の中で照れ臭さを覚え、また気道を登って来たしゃっくりを、今回は意識して体の中に押し留めた。
 上半身がピクッとしたが、音には出ない。実のところ、病気でもないのに皆が過剰反応するのが、少し面倒臭く感じていた。
「しゃっくりかー。大変だね」
「そうですよね、あれ鬱陶しいですよね」
 京子が綱吉にではなくハルに喋りかけ、彼女も頻りに頷いて同意を示す。あれだけ姦しく話しているのに、しっかり手は動いているのだから、女性というものは不思議だと、椅子の上で寛ぎながら、綱吉は思った。
 もっとも、獄寺はあまり快く思っていないようで、行儀の悪い座り方をして、ケッ、と息巻いた。
「喋ってねーで、さっさと飯持って来いよな」
「五月蝿いですねー。そんなこと言うと、獄寺さんのお昼ご飯、抜きにしちゃいますよ」
「んだと、こら!」
「まあまあ、ふたりとも。落ち着いて」
 空腹で今にも倒れそうだと彼は言うが、何処からどう見てもそうは思えない。あまりにも露骨な獄寺と喧嘩腰のハルの間に割って入り、綱吉は椅子を引いて立ち上がった。
 それを山本が、呑気に笑い飛ばす。
「そういや、さっき言いかけてたのって、なんだ?」
 そうしてすかさず、ハルに向かって話しかけた。
 獄寺への怒りが逸れて、彼女も目を丸くしてから表情を崩した。緩慢に頷き、振り下ろそうとしていた拳を解いて、食器棚に向かう。その寸前、綱吉は彼女と目が合った。
 どこか物憂げな表情をされて、引っ掛かりを覚えて首を捻る。
「ひっく」
 油断していたらまたしゃっくりが出て、彼は喉を撫でて椅子に座り直した。
 居住まいを正して正面を向くと、またもハルと目が合った。嫌に人の顔を直視してくる彼女に、腹の奥がもぞもぞして、変な感じがした。
「ハル?」
「あの、これって聞いた話なんですけど」
 ただ綱吉が聞く前に、彼女は取り出した大皿をテーブルに置いて、山本に向かって言った。出し掛けた手のやり場に困った綱吉が、どうにも居心地悪くしながら身を捩る。
 相槌を返した山本は、続きを促して彼女に掌を向けた。
「だから、ホントかどうかは分からないんですけど。しゃっくりって、百回続けてやると、死んじゃう、……て」
 それで勇気を貰った彼女が、ちらり、ちらりと綱吉を見ながら、恐る恐る告げた。
 その場に居合わせた、聞いていた全員が、一瞬何を言われたか分からなくてきょとんとしてしまう。特にいきなり不治の病を宣告された綱吉は顕著で、目をぱちくりさせて自分自身を指差した。
 大仰に畏まったハルが、深く頷く。固唾を飲んでの仕草は、見る側にとっても非常に物々しいものだった。
「え、ちょっと。待って。だって、たかがしゃっくりだよ?」
「でも、ハルはそう聞きました」
 いつ、誰から教えられたのかは思い出せないが、確かにこの耳で聞いたのだと彼女はきっぱり言いきった。
 ガスコンロの火を止めた京子も、頬に手を当てて唖然としている。獄寺などは吃驚し過ぎて凍りつき、椅子から転げ落ちそうになっていた。イーピンも、お玉を口元にやって驚きを表現している。
 山本ひとりだけが頬杖着いたまま姿勢を崩さず、彼女の話に耳を傾けていた。
 急に話が大きくなって、綱吉はテーブルの下で足を前後に振り動かした。両手を広げて、神妙な顔をする彼女に懸命に訴えかける。が、哀憐の表情を浮かべたハルは聞き入れず、拳を口元に押し当てると涙を堪えて息を詰まらせた。
「どうしましょう。このままじゃツナさんが……」
「だから。ただのしゃっくりだ、ひっく、か、ら」
 ガタガタ音を立てて再度立ち上がり、幾らなんでもあり得ないと叫ぶが、焦ったからだろうか、言葉の間にしゃっくりが挟まった。
「十代目、大丈夫ですか」
 それを聞いた獄寺もが、悲壮な顔をして立ち上がった。
 大丈夫もなにも、しゃっくりは病気ではない。そのうち自然に収まるはずだと言いたいのに、言葉が巧く出てこない。替わりに何度も、これまでは大人しかったしゃっくりが、立て続けに発生した。
 ひっく、ひっく、と肩を震わせ、綱吉は息苦しさに唇を噛んだ。
「大変です。ツナさんが死んじゃう」
「早く止めねーと」
 そんな世迷言、今時五歳児だって信じない。だのにハルの言葉を額面どおりに受け取り、鵜呑みした獄寺までもが、焦ってその場で右往左往を開始した。
 助けを求め、綱吉が京子とイーピンの方を見る。彼女らはふたりほど信じては居ない様子だったが、反論するだけの材料も持ち合わせていないようで、困惑した様子で綱吉に首を振った。
 となれば後は山本しか頼れない。
「ひっく」
「ああ、また」
「どうやって止めりゃいいんだよっ」
 振り向けば、またしゃっくりがひとつ。それを聞いたハルと獄寺が同時に飛びあがって、綱吉は泣きたくなった。
 心配してくれるのは嬉しいが、過剰反応しすぎだ。それに、百回とは誰が決めた数字なのだろう。朝からずっとこの調子なのだから、とっくにその回数は通り過ぎていそうなものを。
 むしろ此処数回のしゃっくりは、ふたりが騒ぎ立てるから起きたようなものだ。
 細かく痙攣する腹の内部に意識を向け、綱吉は渋い顔でベルトの辺りを撫でた。
「んじゃさー。とりあえず、驚かせてみるってのは?」
 放っておけば自然と治まる。けれど言ったところで信用してもらえそうにない。困り果てて苦虫を噛み潰したような顔をして、他人事なのに慌てているふたりを交互に見る。
 今にも掴みかかってきそうな彼らを止めたのは、傍観者を決め込んでいた山本だった。
 両肘をテーブルに立ててその上に顎を載せ、彼は白い歯を見せて楽しげに言った。
「山本?」
「ほら、よく言うじゃねーか。いきなり吃驚させたら、しゃっくりが止まるって」
「そういえば、言いますね。聞いた事あります」
 彼の発言に、じたばた暴れまわっていたハルの動きがピタリと止んだ。両手を叩き合わせ、妙案だと目を輝かせる。
 獄寺も、山本の提案なのには納得が行かない様子だったが、綱吉のしゃっくりを止められるのならば、と渋々同意してみせた。
 残る問題は、だ。
「な、なに」
「どうやって驚かすか、だよな」
「ツナさん、驚いてみてください」
「いや、あの。もう充分驚いてるんだけど……」
 一斉に顔を向けられ、綱吉は内心ドギマギしながら唇を舐めた。
 いきなりそんな事を言われても、困ってしまう。しゃっくりを止めるのには、その人を驚かせるのが良いというのは、綱吉も知っていた。しかし、今まで試した覚えもなければ、試されたこともない。
 これだけ言われているのであれば、効果はあるのだろう。しかし、いざ驚け、と言われて出来るものでもない。
「ひっく」
「ああ、またー!」
「わっ!」
 それどころかまたしゃっくりに苦しめられて、ハルが悲鳴を上げた直後、綱吉の真後ろでいきなり京子の大声が響いた。
 一瞬どきりとしたが、それだけだ。振り向けば彼女は、両手を口の左右に添えて拡声器代わりにして、丸い目を見開いて立っていた。
 いつ移動したのか、全く気付かなかった。
「……どう? ツナ君」
「え? って、ひっく」
「んだよ、全然駄目じゃねーか」
 あちこちから声が飛び交い、誰と話をしていいのか分からない。恐る恐る京子に聞かれて、返事をする前にしゃっくりが出た。後ろでは獄寺が悲壮感たっぷりの声で喚き散らし、山本は頭を掻きながら呑気に笑った。
 言いだしっぺの彼を叱り、獄寺は憤慨しながらそこにあった空のコップを掴んだ。
「どうすんだ?」
「水だ、水」
 荒々しい足取りでテーブルを離れ、戸惑うイーピンが見守る中、彼はコンロの脇を抜けて流し台に向かった。
 蛇口を捻って勢い良く水を流し、そこに透明なコップを突っ込む。見る間にガラス容器の中は冷水で満たされ、縁を飛び出した分がシンクに大量に溢れ落ちていった。
 勿体無い、と見ていたハルが渋い顔をして呟くのが聞こえた。
「さあ、十代目」
「あの……なに、かな?」
「どうぞ。これをぐーっと、ひと息に!」
 しかし彼の耳には届かなかったようで、獄寺は幸せそうな笑顔と共に振り返り、水で満杯のグラスを綱吉に差し出した。
 縁ぎりぎりまで入っていた水道水は、彼が動く度に波立ち、溢れ出て、床に零れる。ボタボタと飛び散る液体には、温和な京子も流石に嫌な顔をした。
「獄寺君?」
「どうぞっ」
 しかし女子の険しい眼差しをまるで意に介することなく、彼は大声で叫ぶと、グラスを勢い良くテーブルに置いた。またも表面が大きく波打ち、一部が零れて小さな水溜りが三つほど出来上がった。
 コップの中身は、あんなに沢山入っていたはずなのに、半分近くまで減っていた。五歩にも満たない短い距離を移動するだけで、この有様とは、かなり酷い。
 横目で獄寺を窺えば、彼は満面の笑みを浮かべ、綱吉がグラスに手をつけるのを待っていた。
「水なんか、どうすんだ?」
「あー、ハル、知ってます。確かお辞儀するみたいに頭を下げて、上側から飲むんですよね」
「違う!」
 山本の質問に、横からハルが割り込んでその場で二度飛び跳ねた。そうして、誰も聞いていないのに関わらず、自ら頭を下げて実践してくれた。
 が、到底あり得ないポーズで水を飲むフリをした彼女を、獄寺は一蹴した。
 何故か偉そうに胸をふんぞり返し、皆の注目を浴びて鼻を高くする。
「そうよね。ハルちゃん、そんな飲み方したら、水が零れちゃう」
「えー。でも、ハル、前にこうやるんだよって、お父さんに聞きました」
 大学で教鞭を取っている彼女の父親が言うのならば、そうなのか、とも思ってしまう。が、何度頭の中で今し方見せてもらったポーズを再生しても、あんなに背中を丸めた状態で水を飲むのは不可能としか思えなかった。
 もっとも、そういう体勢だからこそ、しゃっくりが止まるのかもしれないけれど。
 改めて水の入ったコップを見詰め、綱吉は困惑気味に傍らの獄寺を仰ぎ見た。
 目が合って、ニカッと笑いかけられる。つられてぎこちないながらも笑い返してやると、彼は綱吉に座るよう言い、彼自身はその真後ろに立った。
「えっと。普通に飲めばいい、の?」
「はい」
 ハルがやったような珍妙なポーズはしなくて良いらしい。獄寺の明朗な返事にほっとした途端、喉の渇きを覚えた綱吉は唾を飲んだ。
 右手を伸ばし、テーブルで鋭く輝くグラスに指を引っ掛ける。その後ろで、獄寺の両肩が持ち上がった。
「ん?」
「はひぃ? 獄寺さん、何やってるんですか」
 指先にひんやりした感触が生じたと思った瞬間、綱吉の耳が両側からいきなり塞がれた。前触れがなかったので驚いてしまい、ビクリと震える。向かい側ではハルが、綱吉の頭上を指差して素っ頓狂な声をあげた。
 頭を圧迫されて、首が伸びる。聞こえる音もどことなくくぐもっており、頭の中でぐわん、ぐわん、と鐘が鳴った。
 グラスを素通りさせた手でテーブルの縁を掴み、綱吉も振り返ろうと足掻いた。が、両側から頭を押さえ込まれているので巧く行かない。
「十代目、ほら、早く。今のうちです、ひと息にこう、ぐぐーっと」
「え? え? っく」
 訳が分からぬまま、綱吉は戸惑いの声をあげて、最後にしゃっくりを付け足した。息を吸うのと吐くのが同時に行われ、目の奥がチカチカする。喉に空気の塊が詰まった感じがして、身動きが取れない分、いつも以上に苦しかった。
 獄寺は早くしろと捲くし立て、ハルはさっさと離れろと五月蝿い。
「ツナさん、大丈夫ですか。ちょっと、乱暴は止めてください」
「うっせーな。イタリアじゃ、こうやってしゃっくり止めるんだよ!」
 唾を飛ばして彼女に怒鳴った獄寺曰く、耳を塞いでもらいながら冷たい水を一気に飲むと止まる、だそうだ。
 ならば先に言ってくれ、と首を振って彼の手を振り払った綱吉は、息を切らしてぜいぜい言い、口元を拭った。
 どうにかこうにか居住まいを正し、息を整えて胸を撫でる。事情の説明を受けてから再度チャレンジしてみたのだが、残念ながらしゃっくりは依然止まらず、不意を衝いて口から飛び出した。
「全然駄目じゃないですかー」
「ツナ君、大丈夫?」
 冷たい水の一気飲みは、苦しい。しかも耳を塞がれた状態なので、いつもと感覚が違って、尚更気持ちが悪かった。
 京子に背中を撫でてもらい、空になったコップを渡す。綱吉は二度咳き込んでから背筋を伸ばし、ハルに責められて打ちひしがれている獄寺に肩を竦めた。
「ひっく」
「止まらねーな」
 山本の呟きに頷き、綱吉は顎に残っていた水滴を取り払い、深く息を吐いた。
 色々なアイデアをあれこれ出し合って、試してみるのはいいのだが、どれも失敗ばかり。挙句、治まるどころか余計に頻度がひどくなっている気がする。
 違和感が募る腹部をなぞり、パーカーの皺を伸ばして彼は苦笑した。
「そのうち、ひっく、止まるとは、ひっく」
「だと良いんだけどな」
 会話の節々にしゃっくりが挟まって、話しづらい。頻りに喉を撫でる綱吉に肩を竦めて、山本はふっと視線を遠くに投げた。
 ハルと京子はああでもない、こうでもない、と互いの意見を出し合っており、昼食の準備はすっかり忘れ去られていた。イーピンが出来たてのチャーハンが入った皿を前に途方に暮れており、この騒動もそろそろ終わりにしなければ、いつまで経っても食事にありつけない。
 妙な事になったものだと、彼は短く切った髪を掻き回した。
 女子ふたりは話しに夢中でこちらを見ておらず、獄寺に至っては部屋の隅っこでひとり反省会中だ。イーピンだけがきょろきょろしており、綱吉は椅子の上でしゃっくり相手に格闘している。
「どうってこと、ないかな」
 料理上手の五歳児と偶然目が合って微笑みかけて、山本は傍らの親友の顔を盗み見た。
「ツナ」
「ん?」
 ともあれ、このままにしてはおけない。しゃっくりの辛さは、過去に何度も経験しているので重々承知している。
 集中力を削がれるのが、一番きつい。試合に負けた時の悔しさがにわかに蘇り、山本は慌てて首を振って打ち消した。
「山本?」
 呼んでおきながら何も言わず、それどころか挙動不審の親友に綱吉は怪訝な顔をして小首を傾げた。肩を持ち上げ、彼の袖を掴む。
 その手を素早く握り返して、山本はふっ、と息を吐いた。
「――ンっ?」
 綱吉の目の前に影が落ちる。急に暗くなったので電気が消えたのかと思ったが、違った。
 一瞬唇に触れた柔らかさ、及び熱が、急速に綱吉の全身に広がり、奥深くまで侵食を開始する。
 ち、と鳥の啄みにも似た音が響き、見開かれた琥珀に光が戻る。音もなく身を引いた山本が、右後ろで声を殺して笑った。
 目を丸くして呆然となった綱吉は、その状態で十秒ばかり硬直し、ハッと我に返って椅子を蹴り倒して立ち上がった。
「ばっ、ば、ば、ば……んな、なっ」
「吃驚したろ?」
「馬鹿!」
 呂律が回らず、言葉にならない。全身真っ赤に染め上げた綱吉は頭の天辺から湯気を吐き、人差し指を山本に向かって突き立てた。
 しかし彼は悪びれもせず、悪戯が成功した子供の顔をして、呵々と楽しげに笑うだけだ。
「ツナさん?」
「どうしたの?」
 急に大声を張り上げた綱吉に、会話を中断させた京子とハルが同時に振り返って問う。はてなマークを飛ばしている彼女らに、まさか本当の事を言うわけにもいかず、綱吉はどもり、うろたえた。
 首を右に、左に振り回し、獄寺と目が合ってまた顔を赤くする。後ろでは山本が、堪えきれなかったらしい、腹を抱えて膝を折った。
 声を立てて笑う山本に、真っ赤になってひとり慌てふためく綱吉と。何が起きたのか、その瞬間を見ていたのはイーピンだけだ。
「なんっ、でもな……ああ、もう。山本!」
「あはは。ツナ、なあ、しゃっくりは?」
 誰の所為でこうなったのか。みんな居るのに、もし見られでもしていたらどうするつもりだったのだろう、彼は。
 憤慨する親友に手を振って宥め、涙目を拭った山本が問う。
 握り拳を高らかと振り翳していた彼は、言われて初めて思い出し、はたと動きを止めた。
 騒ぎに彼に注視していた面々も、一瞬ざわついた後にシンと静まり返った。
「……止まった」
 やがて、ぽつりと。
 綱吉が呟くと同時に、ハルと京子から一斉に拍手が沸き起こった。
「え、あれ。なんで?」
「凄い、凄いです。いったいどんな魔法使ったんですかー?」
 唖然とする綱吉を押し退け、ハルが山本ににじり寄って訊ねる。今度自分がなった時に使おうとでも考えているのか、彼女の瞳は期待に満ちてキラキラ輝いていた。
 京子も、そして獄寺も、誰もが興味津々だ。そんな中、綱吉だけが頬を赤らめ、琥珀の目を歪めて首を振った。
 教えてはいけない。言わないで欲しい。己の口元を両手で塞ぎ、懸命に目で訴える。
 聞き届け、山本は肩を竦めて悪戯っぽく笑った。
「企業秘密」
 彼の声に、周囲からは一斉に不満の声があがった。そんな中、彼ともう一度目が合ったイーピンだけは、彼を真似して白い歯を見せ、人差し指を唇に押し当てた。

2010/01/28 脱稿