面影

 それを見つけたのは、本当にただの偶然だった。
 幼い日に、毎日のように駆け回った野山。わざわざ外に出て行かずとも、屋敷の裏に回るだけで、もうそこは天然のアスレチック場だった。
 どんな悪戯をしようと、遅くまで遊ぼうとも、誰も叱る者はいない。何処へ行こうと、何をしようと、――その結果怪我をするような羽目に陥っても、誰にも文句を言えない。そう、全てが自己責任だった。
 お陰で自分自身を守る術も、効率よく物事を動かす術も、弱い奴らを蹴散らす術も。気がつけば自然に身に着いていた。
 その日も、大人には劣るが同年代の子供よりは勝る足取りで、薮だらけの斜面を切り開き、今まで行ったことのない場所を目指して突き進んでいた。
 鎌を持たぬ手は傷だらけで、頬にも引っ掻き傷が無数に散らばり、血が滲んで、じくじくとした痛みもあちこちから生じた。いつも以上に険しい道程に、引き返すかで何度も迷ったはずだ。けれど何故か、先を急がなければならないような気がしたのも確かだ。
 よく分からないまま、今思えば導かれていたのかもしれない、生い茂る植物を払い除けて道なき道を分け入って進む。それがある瞬間、本当に唐突に、何の前触れもなく途切れた。
 切り開かれた急斜面に気付かぬまま足を前に踏み出して、地面がないことに気付いたのは転地がひっくり返ってからだった。咄嗟に受身を取ったので大事には至らなかったが、思わぬ衝撃に吃驚してしまい、動けるようになるまで相当の時間が必要だった。
 息を整え、かぶった泥や枯葉を払い除けて立ち上がり、後ろを見る。
 明らかに人の手が加えられていると分かる、平らに均された空間の真ん中に、この場に恐ろしく不釣合いなものがふたつ、並んでいた。
 赤茶けた地面がむき出しになり、草の数は他の場所に比べると驚くほど少ない。山の中腹にあって傾斜があってしかるべき場所に、平らな空間がある事自体が驚きだった。
 長らく風雨に晒され続けた墓碑は苔生しており、表面に刻まれた文字は幼子の目では読み取れなかった。なにかが記されているのだけは辛うじて分かったが、それが何を意味しているのかを理解出来るほど、心は成熟していなかった。
 だが痛烈な印象は残された。丁度夕焼け時で、墓碑の前に立って開けた方に目を向けると、緑の木々がフレームの役目を果たし、町を朱色に染める太陽がとても綺麗に見えた。
 以来何度か、気が向けばその地に足を運んだ。興味惹かれて家の者にも問うてみたが、残念な事に、誰一人としてあのふたつ並んだ墓碑の下で眠る人の名前を知らなかった。
 それどころか存在自体を知らない者の方が多くて、自分たちの屋敷の敷地なのに、と幼心に随分と憤慨したものだ。
 けれど月日が過ぎるに従って、彼の足もまた裏山から遠退いた。町に繰り出す時間が徐々に増え、正体不明の墓碑の事も、あそこから眺める夕焼けの鮮やかさも、すっかり忘れて思い出す事もなくなった。
 懐かしい記憶を蘇らせるきっかけとなったのは、ひとりの少年の存在だった。屋敷の門の前でぼんやり突っ立っていた、彼の名前は沢田綱吉。
 考えてもみなかった方向から、ずっと謎だった墓碑の正体が知れた。しかし、何故ふたつ並んでいるのかに関しては、ついぞ分からぬままだった。
 彼の先祖の墓が何故この地の、あんな辺鄙な山の中に、まるで周囲から存在を隠すかのようにひっそりと建っているのかに関しても。
 イタリアで、現代にまで続くマフィアの祖となった人物にしては、質素すぎる気がした。訪ねる者もなく、直系である沢田綱吉でさえ、夏休みの課題で調べるまで知らなかったくらいだ。
 何故、どうして、が頭から離れない。
 今を生きる人間が知らないのならば、調べる方法は限られてくる。屋敷の片隅で静かに時を待っていた重い鉄製の、大きな鍵を彼が手にするのに、そう時間は掛からなかった。
 埃が積もり、薄暗く黴臭い蔵の中で見つけた、何冊かの和本。但しその多くは虫が喰って穴が空き、旧仮名遣いの崩し字も、おおよそ人の読めるものではなかった。
「恭さん」
「なに」
 飴色の座卓を前に正座していた雲雀は、右手の障子越しに語りかける声に目線をずらすことなく問うた。
「御出でになられました」
 板張りの廊下の向こうの空は、綺麗に晴れ渡って白い雲が悠然と泳いでいる。たったそれだけで読みかけだった本を置いた雲雀は、座布団の上で立ち上がって戸を左に滑らせた。
 縁側の先、靴脱ぎ石のそのまた向こう。灰色の砂利が敷き詰められた庭園の隅の方で、いつもながら居心地悪そうに畏まっている小さな存在を見出した彼は、読書に明け暮れるうちに凝り固まってしまっていた頬の筋肉を緩め、肩の力を抜いた。
 肩を回して腕の凝りを解し、草壁が既に用意していた靴に爪先を捻じ込んで庭へ降りる。彼が砂利を踏む音を聞いて、綱吉も緊張を緩めてはにかんだ。
「すみません、いつも」
「いいよ。君も、飽きないね」
 あの日からカレンダーは何枚か進み、年も変わった。夏の日差し厳しい中を登った斜面は、今では枯れ色ばかりが目立った。
 呆れ半分に呟いた雲雀に、綱吉は照れ臭そうに頬を掻いた。
 彼の服装は、長袖の上着に、五本指の手袋。ジーンズで、靴は汚れの目立つスニーカー。背中には見慣れた色のリュックが隠れていた。
 本格的な山登りをするには軽装過ぎるが、近所の裏山を登るだけなのでこれくらいが丁度良い。あまりにも重装備だと、かえって疲れてしまう。
 一方の雲雀はといえば、綱吉以上の身軽さで、寒い季節であるに関わらず上着を羽織らずにいた。
 キルトのシャツに、スラックスは紺。足元は、あろう事か革靴だ。
 それでも彼は、あの急斜面を苦とせずに登ってしまう。昔はよく駆け回っていたと綱吉も聞かされているが、毎回驚かされてばかりだ。
「寒くないですか?」
「動いていれば平気」
 思わず心配になって問うた綱吉に、彼は腰を左右に捻りながら言った。
 それは暗に、早く出発しようという提言だ。言葉尻を汲んで笑った綱吉は、リュックの肩紐を握り締めて中身を揺らした。
「お気をつけて」
 仰々しく頭を下げるリーゼントの男に見送られ、雲雀を先頭にして二人連れが庭を横断する。
 雲雀の屋敷と裏庭とを区別する、明確な境界線などというものは存在しない。手入れが行き届いている空間と、そうでない場所。あえて見分けるとしたら、そこぐらいだろう。
 夏場は緑豊かで、賑やかな視界だった山も、すっかり冬の様相を呈していた。
 今は温暖化の影響なのか、滅多に雪は降らない。降っても積もるのは稀だ。が、雲雀の言葉を借りるなら、彼が幼い頃はそれなりの頻度で降雪があり、山の斜面は真っ白に染まったらしい。
 降った雪は直ぐには消えず、春先まで残る。積もっても三日と経たず溶けて無くなってしまう町の様子からは、考えられなかった。
「そこ、危ないから」
「はーい」
 綱吉による雲雀宅への、月に一度の訪問は、半年近くの間欠かさず続いていた。
 それなのに、綱吉は未だに裏山の道順を覚えられない。一ヶ月で山の景色は激変してしまって、目印を定めてもすぐに見失ってしまうからだ。
 お陰で、今も雲雀のエスコートが必要だ。余計な手間を取らせたくないのに、結局彼を頼らなければならないのが、少しだけ悔しい。そして残りの大半は、嬉しかった。
 指差された場所にあった岩を避け、頭を低くして枝を潜る。リュックの中身が重いので、足取りは自然と鈍くなった。
 油断すると、すぐに差をつけられておいていかれる。裏山とはいえ広大で、迷うと下山も楽ではない。綱吉は歯を食い縛ると、白い息を弾ませて見慣れた背中を追いかけた。
「うあっ」
「沢田?」
 しかし焦りが出たのか、存外に脆かった足元を掬われて、彼は悲鳴を上げた。
 崩れ落ちた土の塊が、点々と斜面を転がり落ちていく。ひっくり返った甲高い声に雲雀も振り返り、顔の前を横切る枝を掴んだ手を放した。
 駆け寄ろうとする彼の姿に照れ笑いを返し、大丈夫だからと首を振る。
「ちょっと、滑っただけです」
 雲雀は難なく通り抜けていった場所だ、際立って危ない地点でもない。足元は柔らかいが傾斜は緩く、転んでも怪我をする可能性は低い筈だ。
 手袋の付着した土を払い落とし、何処も異常が無いのを確かめて綱吉は上半身を揺らした。元気そうな彼の姿に、雲雀もホッと胸を撫で下ろす。
「辛くなったら休憩するから、言いなよ」
「はい」
 そんなに厳しい行程でもないのに、雲雀は心配性だ。けれど彼の気遣いは素直に嬉しくて、綱吉は相好を崩し、しっかりと頷いた。
 背の高い木々も、葉があるのと無いのとでは随分と見た目が違う。初めて来た時はあまりの広さに圧倒されっ放しで、周囲に目を配る余裕など殆どなかった。
 肩で息を整えて、空気は冷たいに関わらず噴き出た汗を拭う。防寒具が却って暑くて、彼は首に指を入れて襟を広げた。
 前を向けば、雲雀はとうに歩き出している。知らず距離が開いていて、追いつこうと彼は右足を前に繰り出した。
 乾いた地面を踏みしめる音を後ろに聞いて、雲雀は肩越しに振り返った。綱吉が順調についてきているのを確かめて目尻を下げて、邪魔な枝を打ち払う。初回はトンファーを使ったが、今はくの字型の鎌を使うようにしていた。
 刃物の方が切れ味鋭い分、余計な力を使わずに済む。落とした枝が後ろに飛ばぬように注意しながら、彼は汗に湿った黒髪越しに遠い空を仰いだ。
 風が無いのであまり寒さは感じない。荒い息遣いが聞こえて後ろを窺うと、綱吉が顔を真っ赤にしてふぅふぅ言いながら一メートルほど後ろを歩いていた。
 ぼんやりとしていると、追い抜かれてしまう。雲雀は肩を竦め、残り僅かとなった道程を急いだ。
 途中で右折して幅三十センチもない小川を経由し、水を汲んでから元の道に戻る。空のペットボトルいっぱいに汲んだ沢の水は、氷よりも冷たかった。
「あれって、飲めないんですか?」
「飲んでもいいよ、お腹壊しても知らないけど」
「……遠慮しときます」
 よく旅番組などで、こういう山深い場所を流れる水を手で掬って飲むシーンがある。ちょっと真似てみたくなって訊けば、雲雀は素っ気無く言ってボトルの蓋を絞めた。
 零れないようしっかり栓をして、それを左手に持って歩き出す。右手に握るのは、年季の入った鎌だ。刃の根元部分が錆びて、少し赤い。
 あれが刺さったら、破傷風どころの騒ぎではなかろう。日頃から、ナイフどころか包丁さえ持つのも稀な綱吉は、おっかなびっくり雲雀の後ろに付き従い、大股に川を跨いだ。
 水の流れる音が次第に遠ざかり、暫くすると何処から響いてくるのかも分からなくなる。後ろからのようで、右から聞こえる気もする。こうやって方向感覚を失うのかと、綱吉は左の耳を塞いで唇を舐めた。
 雲雀が居てくれてよかった。
 いや、違う。
「ヒバリさんで、良かった」
 貴方で良かった。
 お前で、よかった。
「そうそう、沢田」
「――え?」
 不意に雲雀が言って振り返り、ぼうっとしていた綱吉は、いつの間にか自分の右手が宙に浮いていると知って目を丸くした。
 大粒の琥珀を見開いて、目の前の青年を凝視する。中指が鼻先を掠めた雲雀は、どうしたのかと小首を傾げて、綱吉の手を取った。
 下ろさせて、半歩近付いて顔を寄せて来る。
「大丈夫?」
「え、あ、あ……はい。なんでも、ありません」
 一瞬だったけれど、意識が飛んだ。空高い場所から自分を見下ろしていた錯覚に陥って、そんなわけが無い、と彼は今の感覚を追い払った。
 辿々しく返事をして、不安げな眼差しを投げる雲雀に無理をして微笑む。握られた手は熱くて、火傷しそうだった。
 合間に呼吸を挟んだ綱吉の返答に、雲雀は顔を顰めて口を尖らせた。が、どれだけ目で問うても綱吉の答えは変わらない。十秒ほど見詰め合った末に肩を竦めた彼は、諦めたのかゆっくりと手を放した。
 熱が逃げていく。同時に、とても大切な何かも一緒に離れて行く気がした。
「もう直ぐだから」
「そうですね」
 此処までくれば、綱吉も分かる。色合いは異なるものの、見覚えのある景色が増えていって、彼は嬉しげに頷いた。
 空っぽになった手を握り締め、拳を作って己の太腿を軽く殴る。痛みで気持ちを切り替えて、早足に進んで雲雀の横に並んだ。
 やがて視界が急激に開け、人工的に作られた広い空間に出る。初めて訪ねた時は足を踏み外して斜面を滑り落ちてしまった綱吉だが、同じ轍は二度も踏まなかった。
 慎重に一メートル近い段差を降りて、平らに均された場所に降り立つ。赤茶けた土が踏み固められた長方形の広場の中央には、長く雨風に晒されて角が磨り減ってしまった墓碑が二基、肩を寄せ合う形で並んでいた。
 最初に訪ね来た時には、墓石の表面は苔でびっしり覆われていた。刻まれた文字を読み解くのも困難で、当時の手持ちの道具だけでは綺麗にしてやるのも難しかった。
 その後、タワシやらなにやらを持ち込んでは少しずつ削ぎ落としていき、ピカピカとまではいかないものの、今ではある程度の綺麗さを取り戻しつつあった。
 読めなかった碑銘も、今なら分かる。ただ残念な事に、葬られている者の名は、何処を探しても見つけられなかった。
 リボーンの死ぬ気弾を受けた際に、復活した綱吉の額に宿るあの炎にも似た形状の刻印が、右に。左の墓碑には、空に浮かぶ雲にも似た紋様が刻まれていた。
 そうして不思議なことに、没年が彫られているのは右の碑だけだった。
「よっ、と」
 到着と同時にリュックサックを下ろした綱吉が、早速中から雑巾とタワシを取り出した。雲雀はペットボトルの蓋を外し、何も言わずに居並ぶ墓石にかけていく。
 軽く磨いて汚れを取り除き、線香を捧げて、手を合わせる。
 この数ヶ月ですっかり慣れてしまった。お陰で一連の儀式は滞りなく行われ、あっという間に終わった。
「君さ、ライターくらい点けられるようになりなよ」
「嫌ですよ。なんか、怖いもん」
 二十センチばかりある線香が燃え尽きるまでの間は、ふたり肩を寄せ合って、他愛もない会話を。毎回、黙って雲雀にライターを差し出してくる綱吉の頭を小突いて言うと、彼は頬を膨らませて口を尖らせた。
 百円ライターがいきなり爆発して、人を火達磨にしたという話は聞いた事が無い。大袈裟な揶揄を取り出して言い包めようとした雲雀だが、綱吉は断固拒否を表明して譲らなかった。
 この様子では、これから先もずっとこの調子だろう。獄寺につられる格好で、綱吉までもが未成年での喫煙に走る可能性は、限りなくゼロに近い。
「良いんだか」
 ライターの着火が出来ないマフィアのボス、というのもなかなか滑稽だ。想像して笑みを噛み殺し、雲雀は両足を前に投げ出して綱吉に寄りかかった。
 もっとも体重を預けられた方は堪ったものではなく、懸命に押し返して向こうにやろうとするのだが、なかなか巧くいかない。
「ヒバリさん、重い」
「君が軽すぎるんだよ」
「どういう理屈ですか、それ」
 肩を突っ張らせるだけでは足りず、両手も使って押すが、びくともしない。それどころか益々寄りかかってこられて、最終的には耐え切れずにふたりまとめて地面に転がった。
 下敷きにされた綱吉は後頭部をぶつけて目を回し、落ちてきた影にハッと息を飲んだ。
「んぅっ」
 素早く重ねられた唇に呼気を奪われ、潜り込んだ舌の熱さに眩暈を起こす。隙間が無いくらいに圧し掛かられて潰されて、太腿を撫でる手の怪しい動きに、彼は慌てた。
「ン、っぁ……こ、ら!」
「いたっ」
 脇腹を擽られて背筋が粟立ち、爪先が跳ね上がる。咄嗟に握った拳で雲雀の肩を打ち、彼が怯んだ隙にほうほうの体で逃げ出して、綱吉は雑に口元を拭った。
 身体全部を使って息をして、雲雀の分も混じった唾を飲み込む。一瞬で血圧が急上昇して、苦しくて仕方が無い。
「酷いね、綱吉」
「誰がですか。だから、……もう。なんだって、ヒバリさんってば、いつもこう」
「駄目?」
「寒いからやだ」
 短時間のうちに乱された服装を手早く整え、ぶつくさと文句を繰り返す。それでも諦めきれない雲雀に訊かれて、綱吉はぴしゃりと言い捨てた。
 こんな冬空の下で、何を考えているのか。おまけに此処は、綱吉のご先祖様の墓の前だ。不謹慎極まりない。
「誰も見てないのに」
「そういう問題じゃなくって、ですねー……――」
 前にも聞いた気がする台詞を、不貞腐れた声で言われる。こめかみの辺りが痛くなって、指で叩きながら顔を上げた綱吉は、寛いで座っている雲雀の姿を前に凍りついた。
 琥珀の目を溢れんばかりに広げて、全身の毛を逆立てる。何かに驚き、怯え、憤慨する。複数の感情が入り乱れる表情を突如目の当たりにさせられて、雲雀もまた瞠目した。
「つなよし?」
「っ!」
 さっきからどうにも様子が変だ。急変した彼に怪訝な顔をして、右手を伸ばして触れようとする。しかしそれより早く、腰を浮かせた彼の方から胸元に飛び込んできた。
「つ、ぅ……!」
 体当たりの末に腰から背中に腕を回して、人を突き飛ばさん勢いでしがみ付いてくる。さっきとは逆パターンで地面に倒れこみそうになって、どうにか持ち堪えた雲雀は、上半身を揺らしながら苦しげに息を吐いた。
 恐る恐る綱吉の背に手を回して撫でさすり、肩口に顔を埋めている彼を呼ぶ。触れた肌が震えているのは、布越しでもはっきりと分かった。
「どうしたの、急に。……幽霊でも見た?」
 それは夏の風物詩であって、冬の季節にはあまり馴染みが無い。茶化したつもりで言った雲雀だったが、その瞬間、綱吉の華奢な体が大きく波打った。
「――!」
 急に起き上がって泣きそうに顔を歪め、唇を数回開閉させて、やおらかぶりを振る。肩を激しく上下させて息を繰り返した彼は、反応出来ずに居る雲雀を置いて場を離れ、周囲に散乱する、家から持って来たものをリュックサックに詰めていった。手の動きは忙しなく、タワシの水気を払いもしない。
 線香からはまだ白い煙が薄く立ち上り、彼が起こす風に煽られて右に、左に不安定に揺れた。
「綱吉、なに、どうしたの」
「帰りましょう、ヒバリさん。早く。帰りましょう!」
 底の形が凸凹になったリュックを右肩に担ぎ上げ、返事の代わりに叫んで彼は雲雀の腕を取った。肘にしがみ付いて必死の形相で訴え、何度も後ろを振り返っては頻りに墓碑の辺りを気にする。
 まさか本当に幽霊でも見たと言うのか。訳が分からず、雲雀は二基並んだ墓石に目をやった。
 と、間に綱吉の茶色い頭が割り込んできた。彼は大粒の瞳を歪めると、口をヘの字にしてその場で繰り返し飛び跳ねた。
「帰りましょう、今すぐ。早く」
「あ、ああ」
 喉が引き裂かれんばかりの叫び声をあげて、綱吉が力いっぱい雲雀を引っ張った。堪えるのは難しく、彼は渋々ながら頷き、足を前に繰り出した。
 ようやく動き出した雲雀に安堵して、綱吉は息を弾ませて手を放した。リュックを両肩に担ぎ直し、小走りに駆け出す。一足飛びに斜面を飛び越え、
「早くっ」
「沢田、そこは危ない」
 空中で腰を捻り、振り返った綱吉の目に焦る雲雀の姿が大きく映し出された。
「――え?」
 何が起きたのか一瞬分からなくて、彼は惚けた顔をして瞳を動かした。
 左右揃った足が宙を薙ぎ、吹き飛ばされた土埃が微かな軌跡を刻んでいる。墓碑のある空間は周囲より一メートルほど掘り下げられていて、駆け上った先にはちゃんと地面があるはずだった。
 雲雀はいつも、必ず同じコースを使って、此処に綱吉を連れてくる。だから綱吉は、その道程以外で広場の外がどうなっているのかを、全く知らなかった。
 危ない、と言われたのを思い出して、ふと下を見る。ゼロコンマの速度で時間が進む。なにもかもがスローモーションで、だからこそ彼の反応もまた非常に鈍かった。
 ひっ、と頬を引き攣らせて息を吸う。否、吐く。肌から見る間に血の気が引いて、青紫色に変色した唇が何かを叫ぼうとして、開かれた直後に閉ざされた。
 地面が、ない――
「沢田!」
 急斜面。何故雲雀が他の道を使わずにいるのか、その理由をようやく知った彼は、悲鳴をあげる暇さえ与えられずに生い茂る薮の中に吸い込まれて行った。
 尻から降りて、続けて背中に衝撃が来る。リュックサックが踊り、頭の後ろまで浮き上がった。
 身体の方が沈むのが早い。肩紐が引っかかって鞄はそれ以上遠くへは行かず、クッションの役目を果たすどころか逆に綱吉の後頭部を容赦なく殴った。
 スニーカーの踵が柔らかな地面を削り、露出する岩に腰骨がぶつかって激痛が走った。
「つあ!」
 軽い肢体は呆気なく弾かれ、予期せぬ方向に顔が向く。見開いた眼前に鋭い枝が見えて、彼は咄嗟に両手で顔を庇い、首を竦めて目を閉じた。
 耳の後ろを、自分の呼吸する音が流れて行く。ブレーキを利かせることも、受身を取ることさえ出来ぬまま、綱吉は襲い来る激痛を想像して奥歯を噛み締めた。
 遠い昔に聞いた、知らない誰かの悲痛な叫びが、深い闇に飲まれて消えた。

 ザザザ、と土を吹き飛ばし、薮を掻き分けて近付いて来るものの気配に、綱吉は力なく瞼を開いた。
 瞳を焼く光は柔らかく、さほど眩しくない。しかし物の輪郭ははっきりと映し出せず、何もかもが朧で、虚ろだった。
 近くで鳥の囀る声が聞こえて、慌しく動く気配に急ぎ飛び去っていく。あれはなんという名前の鳥だったかと、鳴き声と羽の色を頼りに思い出そうとするけれど、意識は依然ぼうっとして、濃い靄に包まれていた。
「沢田!」
 音がまた一段と近くなり、続けて切羽詰った叫び声が鼓膜を震わせる。半眼のまま瞬きを繰り返した彼は、肺の奥底に沈殿していた二酸化炭素を全部吐き出し、返事をすべく身を起こしにかかった。
 しかし。
「いづっ!」
 思わぬところから激痛が走り、後頭部が一センチも浮かないうちに、彼は地面に舞い戻った。
 左足が動かない。いや、痛くて動かせない。
「な、に……」
 それ以外でも身体中のあちこちが、まるで罅割れた陶器の置物のようにボロボロで、ずたずただった。
 不用意に動かせば首と胴体が千切れてしまうような、そんな恐怖に駆られて彼は総毛立った。全身に鳥肌が立ち、冷たい汗がドッと噴き出して声さえ出ない。歯の根が合わず、口の中でカタカタと嫌な音が響いた。
 此処だ、と手を挙げることも出来ずに、ただじっと時が過ぎるのを待つ他無い。自然に湧き出た涙が余計に視界を濁らせて、葉の落ちた木々の間から見える太陽を隠した。
 影が落ちて、荒い息遣いが降って来た。
「沢田、見つけた」
「ひ、ば……」
「動かないで良い。足、以外に怪我は?」
 ホッとした様子で名前を呼ばれ、魂が震えた。反射的に手を伸ばし、彼に縋ろうとしたら言葉で制されて、ジッとしているよう掌を額に押し当てられた。
 冷えた指先が心地よく、それだけで涙が溢れてくる。嗅ぎ慣れた汗の匂いを間近に感じた事で、いかに自分が不安を覚え、恐怖に怯えていたのかが分かった。
 四肢の力を抜いて、筋肉の強張りを解いていく。長く麻痺していた神経に電流が走り、遅れて脊髄を駆け抜けた痛みに脳が悲鳴を上げた。
「づあ、ぁっ」
 雲雀が軽く触れた左足から生じた激痛に、まともに息も出来ない。喉の奥で悲鳴を押し潰した彼に顔を顰め、雲雀はポケットから出したハンカチを広げた。
 それを半分に、更に半分に折り畳んで細い紐にして、綱吉の右腕に巻き付ける。何故そこに、と最初は不思議だったが、出血が酷いのは足ではなく、腕の方だった。
 咄嗟に顔を庇った際に、枝で切ったのだ。捻った足の痛みに負けて、今の今まで気づかなかった。
「折れてはいない、と思う。捻挫だね、腫れてきてる」
 斜面を一気に滑り落ちて、この程度の怪我で済んだのは奇跡だと彼は言った。助け起こされて振り返ると、確かにかなりの高低差がある。苦労して登った山道の、半分以上を一瞬で下り終えてしまったようなものだ。
 肩を使って息をして、じんじん響く痛みを堪える。雲雀の手を借りながら立ち上がろうとするが、左足に体重をかけた途端、右の膝が砕けてしまった。
「うあっ」
 みっともなく悲鳴をあげて、万歳をして真後ろに倒れこむ。雲雀が支えていてくれなかったら、頭から地面に倒れこむところだった。
 肝を冷やし、片足を庇って蹲る。右腕の傷以外にもあちこち裂けて、血が滲んでいた。きっと服を脱いだら、そこかしこに打撲の痕が出来て黒ずんでいるに違いない。
「歩けそうにはない、か」
 ゆっくり下ろしてもらい、半ば尻餅をつく格好で座った綱吉に肩を竦め、雲雀は腰に手を当てて嘆息した。
 首を巡らせた彼の視線の先には、彼の暮らす屋敷の屋根がある。まだ結構な距離があるにも関わらず、瓦葺の日本家屋はとても大きく感じられた。
 木々の間に見え隠れする遠景を眺め、綱吉は熱っぽい息を吐いて額の汗を拭った。
「沢田」
「はい」
「暴れたら落とすからね」
「はい?」
 絶えず襲ってくる痛みに顔を歪め、声を殺して耐えていると、不意に名を呼ばれた。
 視線だけを持ち上げて、琥珀の中心に雲雀の姿を映し出す。が、言われた内容が直ぐに理解出来ず、彼は小首を傾げた。
 と思ったら、急に膝を折った雲雀に両手を差し出された。
「あ、あの?」
「暴れたら、残りの崖も突き落とす」
「ひぃぃ!」
 物騒な事をさらりと言われて、綱吉は竦みあがった。痛みも忘れて丸く、小さくなった彼の背中に雲雀の右手が触れる。左手は膝の裏に潜り込み、右足の腿を包みこんだ。
 ズボンの上から柔らかな、それでいて打ち身だらけの肌を撫でられて、綱吉の幼い喉がヒクリと鳴った。
「よいっ、しょ、と……と」
 雲雀が何をするつもりなのか、瞬時に理解して全身を強張らせる。萎縮した綱吉を抱え込んだ彼は、腹の奥底から搾り出した掛け声と共に、曲げていた膝を一気に伸ばした。
 途端、肩にずっしりと重みが圧し掛かって、踏ん張らせていた左足が緩い斜面を僅かに滑った。踵が土に埋まり、短い筋が二本、大地に刻まれる。
「ひばっ」
「舌噛むから、喋らない」
 不安定な場所で綱吉を抱き上げるのには、無理がある。それなのに雲雀は意に介さず、こめかみに青筋を走らせた。
 いつになく焦っている感じがする。ふと胸を過ぎった違和感に、綱吉は恐る恐る手を伸ばして彼にしがみ付いた。
 首に腕を回して、身を寄せる。振り落とされぬように自ら姿勢が安定するよう動いた綱吉を見下ろして、雲雀は笑った。
「早く、帰りたいんだろう」
 違う、焦っていたのは綱吉の方だ。雲雀は単に彼の意思を汲み、応えようとしているだけだ。
 崖を転がり落ちる前のやり取りを思い出して、綱吉は顔を赤くした。雲雀の体温に触れているだけで、痛みがスッと和らいでいく気がした。
「は、い」
「話は、後で」
 緊張を緩め、小さく頷く。素直な反応に雲雀は一瞬だけ目を細め、直ぐに険しい表情を作って多少はなだらかになった斜面を見下ろした。
 普段使用している経路からは、かなり離れている。いつも使っている獣道に合流するには遠回りが必要で、かなりの時間がかかると予想できた。
 綱吉の体力が心配で、彼は早速痺れ始めた両腕を叱咤すると、奥歯を噛み締めて最初の一歩を繰り出した。
 速度に乗りすぎると、ふたりまとめて真っ逆さまだ。だから注意深く、そしてなるべく揺れないように。
「あの、俺、背中に……」
「そっちの方がいい?」
「や、その。ちょっと、怖い、かも」
 しかし五歩と行かぬうちに綱吉が先に音を上げて、一度下ろされて背中に背負い直された。
 邪魔なリュックは後日取りに来ることにして、荷物を減らして道を急ぐ。道程に終わりが見え始めた頃には雲雀は少し駆け足になっていて、震動が足に響いて痛かったが、彼の気が急く理由も分かるので、綱吉は黙って我慢した。
 裏庭の一画から、まるで転げ落ちるようにして現れた雲雀と綱吉に、丁度掃除中だった草壁は腰を抜かさんばかりに驚いた。
 枯れ葉を頭の上に、まるで王冠のように散らした雲雀が荒々しく息を吐き、肩口に顔を埋めていた綱吉も彼が停止したのを受けて恐る恐る顔を上げた。どちらも全身引っ掻き傷だらけで、綱吉の着ているジャケットなどには折れた枝が突き刺さっていた。
 巻かれたハンカチは血を吸って赤黒く変色しており、頬の傷は乾いて周囲の肉が膨らんでいる。全身を使って息をする彼らを暫くぽかんと眺めた草壁は、三秒経ってからはっと我に返り、握っていた竹箒をその場に放り投げた。
「恭さん」
「救急箱と、タオルと、ぬるま湯の準備を」
「分かりました」
 ぜいぜい言いながら合間に言葉を挟み、駆け寄って来た部下に素早く命令を下す。雲雀は脱力してずり落ちそうになっている綱吉の尻を叩くと、現在地をざっと確認して歩き出した。
 草壁が去っていった方角とは逆に進み、南に面した縁側から屋内に上がりこむ。鍵のかかっていない窓を開けて綱吉を下ろした彼は、膝を折って屈み、綱吉の靴紐を解きにかかった。
「すみません」
「抜くよ。ちょっと痛いかもしれない」
「あづっ」
 下向いた綱吉が謝罪を口にするが、雲雀は聞こえなかったフリをして左足の靴を上下に揺さぶった。刹那、足首の骨が擦れあい、内側から想像を絶する痛みが彼の全身に踊りかかった。
 痛い、というよりは焦げ付きそうなほどに熱い。いっそ膝から下を引き千切ってやりたい気分に陥って、綱吉は軽くなった爪先を涙目で睨んだ。
 靴下の上からでもはっきりと腫れているのが分かる。右足と比べると、太さは倍近く違っていた。
 靴を脱いだ後は再び抱き上げられて、雲雀の部屋へと向かう。先に草壁が準備して待ち構えていて、何があったのかの説明をして欲しそうな視線をふたりに投げかけた。
 が、雲雀は救急箱を受け取ると、手を振って彼を追い払ってしまった。逆らわずに頭を垂れて従った草壁だったが、去っていく寂しそうな背中に、綱吉はなんだか悪い事をしてしまった気分になった。
「ヒバリさん」
「脱いで」
「……うあ、はい」
 何もあんなに邪険にしなくても良いのに。そう思ったが、雲雀が発した一言で彼の心情がざっと汲み取れてしまい、綱吉は顔を赤くして俯いた。
 部屋は暖房が入っており、春かと思うくらいに暖かい。彼に手伝ってもらいながら着衣を剥ぎ取り、肌を露にした綱吉は、あちこちに出来上がった青痣の数を六つまで数えて、嫌になって止めた。
 下着一枚になった彼を下に見て、雲雀が肩を竦めて袖を捲くった。
「酷いね」
「……すみません」
「なにか、見えたの?」
 痛々しい色に染まる腫れた右足にそっと触れ、囁くように問う。綱吉の肩がビクリと、大袈裟なくらいに震えたのは、生じた痛みだけが原因ではなかった。
 見開かれた琥珀が大きく波打ち、噛み締められた唇が心細げに震える。言葉を発しようとしたのだろうが、声にならなかった。そんなところだろうと判断して、雲雀は救急箱から湿布を取り出し、足の形に合わせて何箇所かに鋏を入れた。
 裏のシールを剥がして糊面を下にして広げ、熱を持った肌に覆い被せる。
「つうっ」
 冷たいが、熱い。相反する感覚に同時に襲われて、綱吉の肩がまたひとつ、跳ねた。
「この前ね」
「……あ、ぁ、はい」
 言いたくない事を無理に聞きだす趣味はなく、雲雀は手を動かしながら早々に話題を切り替えた。
 本当は山道を登っている最中に、退屈しのぎに教えてやるつもりでいたことだ。が、話を振ろうしたその一瞬、綱吉が別人に見えた気がして、結局口に出せないままだった。
 そんな事情など知りもしない綱吉は、伸ばした左足の膝をさすりながら頷いた。
 湿布がずれないよう、雲雀が上から包帯を巻いて固定する。その手つきは慣れており、淀みなかった。
「蔵を開けてみたんだ。もうずっと、誰も入っていなかったんだけど」
「蔵って、あのおっきな?」
「そう」
 綱吉が廊下に顔を向け、少しだけ身を乗り出す。彼としてもジッとしているよりは、話をしている方が気が紛れるのだろう。
 雲雀は静かに頷き、上目遣いにちらりと綱吉の顔を見て、手元に意識を戻した。
 蔵自体は、戦後に立て替えられたこの屋敷よりも古い。この辺りは爆撃の被害も少なかったので、焼け落ちることなく奇跡的に残ったのだと、彼は滔々と口にした。
 自分たちが産まれるずっと昔の事でありながら、さも見てきたように話す雲雀が、綱吉には不思議だった。しかしどこか現実離れした雰囲気がある彼だから、あの時代に生きて、そして今も歳を取る事無く生き長らえているのだと言われても、信じてしまいそうだった。
 そんな事を考えて、頬を緩める。突然笑った彼に雲雀は怪訝な顔をしたが、追求はしてこなかった。
「それで? 蔵に、なにかあったんですか?」
「古い本、……日記かな。明治の頃の」
「ぶっ」
 戦前よりももっと古い時代が出て来た。それこそ教科書くらいでしかお目にかかることのない年号を耳にして、綱吉は盛大に噴き出した。
 唾が飛び、雲雀が顔を拭う。やや剣呑な目つきで睨まれて、彼は慌て両手を合わせて頭を下げた。
 へこへこ謝られて、雲雀は肩を落として溜息をついた。ついでだから、と綱吉の右手を取って、包帯代わりにしていたハンカチを解く。左足は踝から下が真っ白く覆われてしまって、ただの捻挫なのに再起不能の大怪我をしたみたいだった。
 大袈裟だと雲雀の手を見詰め、綱吉は目尻を下げた。
「明治時代の日記、かあ」
「読めなかったよ」
「ヒバリさんでも?」
「ちょっとしかね。見る?」
 まるで歯が立たなかったわけではない、と言い訳がましく付け足し、右手の傷の消毒を終えた彼は身を起こした。綱吉の返事を聞く前に立ち上がって、飴色の座卓の前を往復する。
 渡された本は黴臭く、背は糸で綴じられていた。
 初めて見る形式で、物珍しげに外側をひと通り眺めてから、表紙をめくる。虫食いだらけの、黄ばんで茶色い紙が現れた。
「……暗号?」
「まさか。崩し字だよ。書道とかで、見たことない?」
 何が書かれているかどころか、これが日本語であるのかどうかも分からなくて、彼は目を丸くして小首を傾げた。
 てんで的外れな感想を笑い、雲雀が紙面を軽く叩く。言われてみれば、と顔を近づけて唾を飲んだ綱吉は、一文字目で解読を諦め、雲雀に本を押し返した。
 苦虫を噛み潰したような顔をする彼を笑い、雲雀は本を綴じて横に置いた。
「それで。何が書いてあったんですか?」
 気まずくなった綱吉がコホン、と咳払いをひとつして、話題を戻す。雲雀はぬるま湯で湿らせたタオルを絞り、彼に差し出した。
 顔や、首の汚れと汗を拭いとって、人心地つく。今頃になって、髪の毛に紛れ込んでいた細い枯葉が一枚、滑り落ちてきた。
「鳥の話」
「鳥?」
「そう、鳥の話」
 まだ全体を読めたわけではないけれど、と前置きをした上で、雲雀は短くそう言った。
 予想外の返答に、綱吉が一オクターブ高い声を発する。雲雀は静かに頷いて、受け取ったタオルを洗面器の縁に引っ掛けた。
「とり……」
 明治時代の人も、野鳥に興味があったのだろうか。今でもバードウォッチングを趣味にする人はいるが、とそんな想像を働かせ、綱吉は乾いた唇を舐めた上で、引っ掻いた。
 夢見心地に遠くを見詰めている彼の横顔を眺め、雲雀はくすんだ深緑色の表紙に軽く爪を立てた。黒水晶の瞳を細めて、まるで誰かを咎めるかのように。
「あ、じゃあ。あのお墓の人は、やっぱり」
「そうだね。でも、まだ分からない。まだ……」
 綱吉の先祖の墓に並ぶ形で建つ、もう一基。雲を模ったものと思われる紋章を抱きながら、碑銘も何も一切記されていない、誰が眠るかも分からない墓。
 或いは、誰も眠っていないかもしれない、墓。
 微妙に含みのある物言いだったのだが、綱吉は気付かない。ガーゼの上から包帯を巻いてもらった彼は、動きづらくなった右手首を揺らして天井を仰ぎ、そのまま後ろに倒れこんだ。
 そうして背中に出来ていた傷を座布団の縁で引っ掻いて、悲鳴をあげて飛びあがった。
「何をしてるの」
「いった、あ……」
 リュックサックの凸凹で何度もぶつけたのだろう、背中も痣だらけだ。しかもどれだけ頑張っても綱吉からは見えないので、ついつい忘れてしまいがちだ。
 肩を丸めて年寄りのように小さくなった彼を呵々と笑い飛ばし、雲雀は軟膏の瓶を取って蓋を捻った。
「沁みるよ」
「あうちっ、った、あー……そういえば、鳥って」
「うん?」
「なんの鳥、だったんですか?」
 軽く拭って汚れを除き、消毒をした上で白い軟膏を上に塗りたくっていく。作業はひとつひとつ丁寧だけれど、やはり雲雀に触れられる瞬間はどうしても緊張を強いられた。
 気を紛らせたくて唾を飲み、涙が滲む目で振り返る。真後ろで胡坐を崩した格好で座っていた雲雀は、下から覗きこんでくる視線に数秒の間を挟み、微笑んだ。
「アラウディ」
 淡々と、抑揚なく告げる。理解出来なかった綱吉はきょとんとして、一層背中を丸めて毛先を畳に垂らした。
 そのままでんぐり返りをしそうな雰囲気に相好を崩し、雲雀は大量に掬い取った軟膏を思い切り彼の背中に叩き付けた。
「ひいっ!」
 痛さと、あまりの冷たさに悲鳴をあげて、綱吉がもんどりうって前に倒れこむ。小さな鼻をぶつけて潰した彼は、咄嗟に立ち上がろうとして左足に体重をかけてしまい、またも飛びあがってひっくり返った。
 ドタン、バタンと騒音を撒き散らかし、最後に仰向けに倒れた彼の暴れっぷりに雲雀は目を丸くして、やがて声を殺して笑った。
「傷に障るよ」
「だったら、もうちょっと優しくしてください」
 足を庇いながらのろのろと起き上がった綱吉が、脱いで畳んであった服に手を伸ばし、雑に広げた。
 片足だけが歪に太ってしまったので、ズボンを履くのも一苦労だ。靴も、あのスニーカーは入らないかもしれない。
「着物と草履を貸してあげる。探してくるから、ちょっと待ってて」
 幾ら暖房があるとはいえ、いつまでも下着一枚でいたら風邪を引いてしまう。上着を羽織って待っているようにだけ告げて、雲雀は口元を拭い、立ち上がった。
 そうして音もなく障子戸を開けて、廊下に出る寸前で振り返った。
「ねえ、沢田」
「はい?」
「鳥は好き?」
 外から差し込む光の加減で、雲雀が今どんな表情をしているのかが見えない。薄暗い中にあった綱吉は、左手を庇変わりにして、夕暮れ時の空の下に佇む彼に小首を傾げた。
 いつになく真剣で、そのくせどこか冗談めかせているようにも聞こえた声は、低い。僅かに掠れて、いつもの彼とはほんの少し違っていた。
 これも、光の悪戯なのだろうか。艶めく黒髪の色までもが何処となく霞んでいた。
 琥珀の目を眇め、綱吉は半端に開いていた唇を閉じた。一呼吸を挟んで喉を鳴らし、答えを探して胸元を掻き毟る。
「……好き、ですよ」
「本当に?」
「ホントに」
 何故今、その質問なのか。訳が分からぬまま正直に、裏側にそれとなく思いを隠して告げる。いぶかしむ声に間髪入れずに頷くと、雲雀は、どうやら笑ったらしかった。
 障子戸に右手を預け、彼の姿が半分、淡い光の中に消えた。
「どこかに飛んで行ってしまうかもしれないのに?」
 遅れて聞こえた声に目を瞬かせ、綱吉は人差し指を丸め、唇に押し当てた。
 視線を下向かせ、己の膝と、その先を見詰めて暫く考え込む。短く切った爪で顎を引っ掻いた彼は、前方から響いた物音にハッと顔を上げた。
 雲雀の姿がまた一歩、遠くなる。彼の言葉通りに、本当に遠くに飛び立ってしまいそうだ。
 そうしてこのまま、二度と。永遠に――――
 胸を過ぎった不吉な予感に、心臓がぎゅっと縮まった。突然やって来た息苦しさに喘ぎ、唇を開閉する。感情が見えない糸に引きずられて、体が真っ二つに引き裂かれてしまいそうだった。
「ねえ、沢田」
 雲雀の声が遠い。
 はっ、と息を吐いて、右手を握り締める。塞がり始めていた傷が無理をした所為で広がり、ズキン、と強い痛みを発した。
 左足は鉛のように重く、ぴくりとも動かない。自由の利かぬ四肢がもどかしくてならず、魂だけでも自由自在に操れるのなら、不自由な肉体を脱ぎ捨てて、今すぐに雲雀の背中にしがみ付きたかった。
「鳥は、好き?」
「好きです!」
 不安に感じることなど何ひとつないのに、胸が細波立って騒ぎ立てる。内側から己を引き裂こうとする言い知れぬ感情を懸命に封じ込め、振り払い、薙ぎ倒す勢いで、綱吉は声の限り叫んだ。
 障子戸の向こう側で、雲雀の影がビクリと動いた。
「好き、……です。好きです。たとえ遠くに行ってしまうとしても、手の届かないところに飛んで行っちゃうかもしれないけど」
 握った両手を畳につき立て、前のめりになって叫ぶ。痛む足を引きずり、腕の力だけで戸口へとにじり寄って、彼はそこにあったものを弾き飛ばした。
 鳥は自由だと、誰かが言った。好きな時に好きな場所へ行ける、大空を駈る彼らには国境もなにも関係ない。
 けれど、鳥はいつまでも羽ばたいていられない。疲れた時にしばし羽を休める枝が、夜眠るのにも安全な止まり木が必要だ。心軽やかに唄い、踊る為にも、重力に逆らい続けるわけにいかない。
 必死に思い浮かぶ言葉を繋ぎ合わせ、懸命に訴えかける。薄い障子の向こうで、雲雀の影が揺らいだ。
「俺、好きです。だって」
 遠くに行ってしまうかもしれない。
 離れていってしまうかもしれない。
 けれど。
「いつか、その翼で、俺のところへ帰って来てくれるから」
 鳥が自由だというのなら。ならば己は、彼らが自由に空を駈れるように、帰りつき眠る場所になろう。
 頬を緩め、和らいだ、それでいてしっかりと響く声で告げた彼を振り返り、雲雀は開けっ放しだった障子戸の隙間から室内を覗き込んだ。
 座布団の上で斜めになっている彼の、実に艶めかしい姿に小さく噴き出し、目尻を下げる。
「誘ってる?」
「ばっ、ちが!」
 下着一枚で四肢を投げ出している彼に意味深に問うと、真っ赤になった綱吉は咄嗟にそこにあった本を掴み、雲雀目掛けて放り投げた。
 素早く戸の向こうに隠れた彼は、ぴしゃりと音を響かせて戸を閉めた。足音が遠ざかる。けれど綱吉はもう、あんなにも大きく膨らんでいた不安を感じる事はなかった。
 夕暮れに染まる空は鮮やかで、庭に落ちる影は濃い。
 廊下を早足で突き進もうとしていた雲雀は、そんな庭で囀る一羽の小鳥を見つけ、出し掛けた足を引っ込めた。
 窓ガラスに手を添えて外を窺えば、向こうも気付いたようで嘴の先を持ち上げた。真ん丸い瞳は興味津々に彼を見詰め、首は絶えず左右に揺れ動いた。
 綱吉が山の斜面を滑り落ち、姿を見失った時、まるで在り処を教えるかのように鳴いていた鳥だ。
 馴染みのあるその鳥の名を心の中で呟いて、雲雀はコン、と握った拳でガラスを叩いた。
「あの子は大丈夫だよ」
 物音に驚きもせず、鳥は右に傾いていた首を真っ直ぐに直した。
「だから君も。さっさとお帰り」
 こんなところで羽を休めていないで、夜が来る前にあるべき場所に帰り、眠りに就くといい。
 そんな事を嘯いて、雲雀は窓辺を離れた。綱吉の為に着替えと、温かな飲み物を用意してやろうと歩き出す。
 早足に去る背中に応えるかのように、ヒバリの声が庭に響いた。

2010/01/24 脱稿