犒労

「ふぁ~、ああ……」
 聞こえて来た大きな欠伸に一瞬ぎょっとして、バジルはファイル棚から視線を外した。首を巡らせて右を向き、声の発生源の眠そうな顔に肩を竦める。
「大分お疲れのようですね」
「うん……」
 短く声を掛けると、語尾の掠れた返事がひとつ。しきりに目尻を擦っては、またこみ上げてきた欠伸を噛み殺し、唇をむにゃむにゃと動かしている彼に思わず苦笑が漏れて、バジルは目に掛かった長い前髪を脇に追い遣った。
 耳に引っ掛け、視界をクリアにしてから身体ごと向き直る。執務机との間には三メートル程度の距離があったが、それでも座っている青年の眠そうな顔はよく見えた。
「昨晩は、何時に?」
「んー、よくは覚えてないんだけど」
 じっとしていると、それだけで睡魔に襲われるらしい。頭にやった手で元から癖だらけの髪を掻き回した彼は、眉間の皺を深くして数秒考え込み、壁際に置かれた大きな柱時計に目をやった。
 このデジタル最盛期にありながら、未だに一日一回人間が螺子を巻いてやらねばならない年代物のそれは、どっしりとした風格で部屋の一角に陣取り、此処を訪ねてくる人を圧倒した。
 銀板の上で踊る針は、正午に至る二時間前を指し示している。溜め込んだ雑務に勤しむべく、彼が革張りの椅子に座ってからまだ三十分と経過していない。
 起床が遅いのはいつものことなので、深く気にも留めていなかったが、よくよく見れば彼の目の下には大きな隈が出来ていた。眼孔は落ち窪み、どことなくやつれた印象を受ける。
 バジルは取り出そうとしていたファイルをそのままに、棚の前から離れた。
「多分、三時か、……四時行ってたかも」
「それはまた」
 苦虫を噛み潰したような顔で呟かれた彼の台詞に、呆れつつも出来るだけ表情には出さぬよう心がけ、横に広い執務机の右側に居場所を移し変える。椅子を軋ませて顔を上げた彼は、肌色もどことなく優れなかった。
 寝不足なのは明白で、いったい何故、とバジルの空色の瞳が静かに問いかける。彼は苦笑し、照れ臭そうに頬を掻いた。
「いや、まあ、ね?」
「沢田殿」
「ごめんなさい」
 机に片手をつき、ずい、と顔を寄せてきたバジルの迫力に負けて、綱吉は降参だと素直に頭を下げた。
 そういえば昨日か、一昨日か、日本から航空便が届いていた。発送元は、北米大陸発祥の某大手通販サイトだった筈。
 厳重に梱包されていたが、箱自体は小さかった。ならば内容物は、もう一段階小さかろう。
 綱吉の反省ぶりもあわせると、中身が何であったかは楽に想像がつく。イタリアと日本の往復生活に入って早数年経つ彼だけれど、どうやらコンピューターゲームとだけは縁が切れずにいるらしい。
 最近は携帯型の機種でも色々なソフトが出ているので、暇な時間を見つけてはぽちぽちと小さな画面と格闘しているようだ。あの荷物の正体が日本で発売された新作だと考えると、綱吉が睡眠不足に陥ったのも頷ける。
 原因は理解した。しかし、承服しかねる。
「沢田殿」
 恐縮している綱吉を前に嘆息を繰り返し、バジルは弱りきった声で彼の名前を呼んだ。下向いていた大きな琥珀が恐る恐る上に移動し、即座に伏せられる。怒られるのを待っている小さな子供のような反応に、バジルからまた溜息が漏れた。
 テレビゲームの類と縁を結ばぬまま、この歳まで成長した彼にとって、綱吉がどうしてこうも必死に、盤上であらかじめ設定された動きしか出来ないゲームに夢中になるのかが分からない。プログラムされた動作をなぞるだけの相手を打ち負かしたところで喜びなどなく、決められたあらすじをなぞるだけの仮想現実にも興味は沸かなかった。
「だって、続編だったんだよ。前のもすっごく面白くてさ」
「そういう話を聞きたいのではありません」
 段々と怒りを滾らせていくバジルの気配を鋭敏に察知し、急遽言い訳を開始した綱吉にぴしゃりと言い切る。両手を振り回して、いかにそのゲームが面白いかを訴え出ようとした矢先だっただけに、綱吉は前歯で舌を噛んで呻いた。
 睨みつける眼差しは、普段の彼の温厚ぶりを隠してかなり厳しい。萎縮して肩を丸めた綱吉は、椅子の上で小さくなって唇を尖らせた。
「だってさー、だってさー」
 いくらボンゴレの十代目を継承したといっても、沢田綱吉たる人間がいきなり聖人君子になるわけではない。ゲーム好きは変わらないし、寝坊癖だってそのままだ。
 興味ある事全てを諦めろ、と言うのはいくらなんでも横暴すぎる。ちょっとくらい息抜きを許してくれても良い筈で、不満げな視線を右にいる人に投げかければ、バジルは盛大な溜息の末にしばし瞑目し、額を隠す前髪を掻き上げた。
「気分転換したい、というお気持ちは分かります」
「でしょ?」
「ですが、節度は守っていただきたいです」
「……うぐ」
 綱吉の言い分が正論だとすれば、バジルの主張も正論だ。
 いくら趣味だからといって、仕事に差し障るほどに没頭されては困る。沢田綱吉はこの世にひとりしかいないのだから、当然代替は利かない。綱吉の決断を待ってからでないと行動に移れない人間もいる、という事くらいは、常に頭の片隅に留めて然るべきだ。
 今日はこの場に居合わせたのがバジルひとりだったから良いものの、もしボンゴレの重鎮が集う席であった場合、この程度の説教では済まなかっただろう。いったいどう弁解するつもりだったのか、是非教えてもらいたい。
 つらつらと早口に捲くし立てるバジルを前に益々小さくなり、綱吉はしゅん、として下唇を噛んだ。
「でもー」
「でもも、へったくれも、ありません」
 もうちょっと自覚というものを持って欲しい。
 小学生ではあるまいし、物の道理というものをいい加減理解するよう訴えて、最後に彼は力の抜けた吐息を零した。
 額に手をやり、色の薄い髪をくしゃりと握り締める。跳ね放題の綱吉とは違い、彼の髪はサラサラで柔らかく、指の間をすり抜けた毛先は主を慰めて優しく肌を撫でた。
 机の角に両手を添え、その間に顎を置いた綱吉は、またこみ上げてきた欠伸を必死に押し殺しながら額を下向けた。
 並ぶ指の凹凸で顔を擦り、押し寄せてくる眠気を追い払う。擦られた皮膚は赤くなったが、充血した眼は依然そのままだった。
「ふぁ、あぁ……」
 どうしても防ぎきれなかった大きな欠伸に、説教を終えたばかりのバジルは呆れてものが言えなかった。目尻を擦って涙を拭った綱吉は、もうひとつ口を開閉させて緩く首を振り、鼻を膨らませた。
「沢田殿」
「分かってるよー、もう」
 これ以上叱られるのも嫌で、綱吉は語気を荒げて体を起こした。机を力いっぱい叩いて音を響かせ、風圧でそこにあった書類を何枚か吹き飛ばした。
 床に落ちた一枚を拾い、憤然としている彼に愁眉を開く。こうしている間にも時間は過ぎるばかりで、処理すべき仕事は溜まっていく。ちらりと時計に目をやったバジルは、ならば、と血気盛んになっている綱吉に向かって書類の山を押し出した。
「では、先ずこちらに目を通してください。午後までに」
「げっ」
「急いでくださいね」
 時計の針は着実に進んでいる。先ほど確かめた時よりも三十度近く進んでいる分針に顔色を青くして、綱吉は信じられないと目を見開いてバジルを凝視した。
 満面の笑顔を向けられて、ぐうの音も出ない。唖然とし、次いで泣きそうに顔を歪めた綱吉だったが、今は一刻一秒も惜しく、仕方なくスクリーンセーバーが起動していたノートパソコンの画面を呼び起こし、積み上げられた山の解体を開始した。
 届いていたメールの数も半端ではない。順番に開いて行ったのではとても追いつかない為、差出人と、用件を要約したタイトルで優先順位をつけていく。最初に開いたのは、綱吉が頭の上がらない人筆頭株である九代目からの連絡だった。
「うげ……」
「どうかされましたか?」
「この前提出した奴、不備があるからって突っ返された」
 添付ファイルあり、のアイコンが表示されていたので、まさかとは思ったが予想通り。左手で頭を抱え込んだ綱吉の渋い表情に苦笑し、バジルは自分もまた彼の仕事を補佐すべく、動き出した。
 棚の前に戻り、必要な分だけ取り出して自分の机に並べ、見比べながら数値をパソコンの表計算ソフトに入力していく。カタカタという音が殆ど途切れる事無く続き、慰めの言葉ひとつかけてくれないバジルを恨めしげに見て、綱吉は結んだ両手に額を置いた。
 下向いて溜息を吐き、改めて九代目からのメールに目を通す。今回こそは一発クリアだと意気込んでいたのに、何が悪かったのかさっぱり見当がつかない。
 初っ端から躓かされて、やる気が一気に減退した。寝不足もあって頭が働かず、この処理は後回しにして次に向かう。右手でマウスを操りつつ、左手でホッチキス止めされた書類の表紙を捲ると、目に飛び込んできた大文字に彼は目眩を覚えた。
「うああああぁぁ」
 これ以上頭を抱えなければならない事が増えて欲しくないのに、現実はその逆を行く。急に呻き声をあげて机に突っ伏した綱吉に驚き、バジルは椅子を引いて振り返った。
 卓上ライトに照らされた彼の怪訝な視線を受け、綱吉は下を向いたまま左手だけを持ち上げた。立ち上がったバジルに、落ちる寸前で踏み止まっている書類を渡す。
 それは先月分の決算報告だったのだが。
「これは……」
「ランボの奴!」
 重要機密の判が押された表紙を捲ると、出て来たのはクレヨンによる落書きだった。印刷された文字は辛うじて読めないこともないが、このまま次の部署に回すことなど、到底許されない。
 肩を小刻みに震わせて怒りを堪える綱吉に、最早かける言葉も見付からず、バジルは緩慢に笑って冷や汗を流した。
「直ぐに再発行してもらうよう、手続きを取ります」
「おねがい~」
 見てはいけないものを見てしまった、と表紙を戻して畳み、他の書類に紛れてしまわないように右手に持って告げる。綱吉は最早起きあがる気力すら残っていないらしく、空っぽになった左手をヒラヒラさせるに留めた。
 見えていないと分かっていても一礼し、退席を申し出る。小走りに駆けて行った彼の律儀さに肩を竦め、朝から既に疲労困憊の綱吉は何度目か知れない溜息を零した。
 癖の強い前髪を指に絡め、メールを順番に開いていく。急ぎのものと、そうでないものとを的確に見分け、油断すると落ちてくる眠気を掻い潜って出来る範囲で仕事をこなしていく。
 十分としないうちにバジルが戻って来たが、どこか疲れた顔をしているので、綱吉の代わりに財務課から小言を頂戴したのだろう。
「ランボには、後できつく言っておかないと」
「先日も同じ台詞を耳にした気がします」
 このやり取りも、既に数え切れない。
 綱吉たちが多忙になるにつれて、あのいたずらっ子に構ってやれる時間が減った。元々寂しがりやで、誰かと一緒にいないと落ち着かないような子である、大人たちの仕事場にもちょこまかと現れては、ちょっとした悪ふざけをやって逃げていく事が増えた。
 最初はキャンディーをばら撒いたり、玩具片手に遊んで欲しそうに見詰めて来たりする程度だったのだが、それでは効果が無いと知ると、段々行動がエスカレートしていった。
 派手な事をすればするほどみんなが構ってくれる、という間違った方向に学習した彼の行いは、日に日に傍迷惑な内容に切り替わっていった。どんなに叱られたとしてもへこたれないのは、五歳当時からまるで変わっていない。だがいい加減、もう十歳にもなろうとしているのだから、やっていいことと悪いことの分別くらいつけて欲しい。
 うんざりした様子で、けれどランボが何を寂しがっているのかも分かっているので無碍にも出来ず、綱吉は口角を歪めて目の前のモニターを指で小突いた。
「失礼します」
「どうぞー」
 ノックが聞こえ、外から声がかかる。返事をして直ぐにノブが回って、獄寺が顔を出した。
 黒のスーツに身を包み、きっちりとネクタイを締めている。長く伸びた銀髪を無造作に顔の左右に垂らした彼は、顔を上げると真っ先に綱吉の顔を見て、険しかった表情を緩めた。
 むしろ緩め過ぎて、酷くだらしない顔を作った。
「……なに?」
「ああ、いえ」
 ドアに片手を添えたまま、戸口で惚けている彼に怪訝に声をかける。用があるから来たのではないのかと目で問えば、ハッと我に返った獄寺はわざとらしい咳払いをひとつして、居住まいを正して中に入って来た。
 背中を向けて仕事中のバジルをちらりと見やり、スキップするように綱吉の方へ歩み寄る。踵を揃えて机の半歩手前で立ち止まり、小脇に抱えていた書類を恭しく差し出した彼に、綱吉は文書の打ち込みを中断して顔を上げた。
 ニコニコと笑っている彼につられて微笑み、受け取った紙を広げる。不動産投機に関わる文言が連なった文面に、ひと目で読む気が失せた。けれど綱吉が理解していと先に進まない事業でもあるので、我慢して読み解いている間、獄寺は両手を胸の前で結び、そわそわと全身を揺らし続けた。
 真剣な顔をして書類と格闘している綱吉を、どこか夢見心地に見詰めている。これもまた以前からのことで、飽きない獄寺を冷めた目で観察し、バジルは長く伸びた自身の前髪を軽く引っ張った。
「分かった、これで進めてくれていい」
「有難う御座います。あの、それで十代目」
「ん?」
 最後まで耐え抜き、読み終えた綱吉が深く息を吐いて閉じた書類を獄寺に返す。仰々しい手つきで受け取った青年は、落ち着かない様子で視線を泳がせ、急に声のトーンを落とした。
 そこにいるバジルをやけに気にしながら、執務机に近付いて綱吉との距離を詰める。
「今日の、ご昼食のご予定は」
「お昼? あー、お昼かあ」
 仕事に没頭していると、つい時間の経過を忘れてしまう。大きな柱時計に目をやると、十一時を軽く回っていた。
 いつの間に、と思いながら椅子の上で居住まいを正し、背筋を伸ばした綱吉は人差し指の爪で唇を引っ掻いた。ぷっくりとした厚みのある下唇が、へこまされた分を取り戻してぷるん、と震える。無自覚の彼の行動に息を呑み、緊張を露わにした獄寺の前で、綱吉は急に姿勢を右に倒した。
 机の前に居座る獄寺を避け、壁際の机に向かっているバジルに向かって叫ぶ。
「バジル君、今日のお昼ってどうなってたー?」
「げげっ」
「はい?」
 何気なく聞いた綱吉の前で、獄寺がひとりだけ妙に狼狽して両手を背中に隠した。背凭れを軋ませて振り向いたバジルが小首を傾げ、キーボードに手を添えたまま眉間に皺を寄せた。
 今日の予定を目まぐるしく計算して、ふと思いついて獄寺を見る。
 人の顔を睨んでいた男は、視線が向いたと知るや否やふいっと他所向いてしまった。
「今日は特に、会談の用意は無かったかと思います」
「ふ~ん」
 自分のスケジュールを全く把握していない綱吉にも内心呆れつつ、この時間を狙ってやって来た獄寺のせこさにも肩を竦めて、事実をありのままに告げる。
 生返事の綱吉に対し、誰も見ていないところでガッツポーズを作った獄寺だったが、
「ただ、このペースですと、沢田殿……」
「だよねえ」
 言い難そうにバジルが言葉を濁し、それだけで理解した綱吉が力の無い笑みを浮かべた。
 会話に混じれずにきょとんとしている獄寺に向き直り、綱吉は神仏を拝むポーズで彼に手を合わせた。
「お昼、ごめん、無理。終わりそうに無い」
 誘ってくれたのは嬉しいが、と前置きして頭を下げた綱吉に、獄寺は乱気流に巻き込まれた飛行機に乗り合わせた気分で肩を落とした。
 しかし彼も、これくらいでは諦めない。すぐさま気を取り直し、
「では、ご夕食は」
「夕食は九代目がご一緒にどうかと、昨日のうちから」
 言うが早いか、上からバジルの声が被さって、獄寺の台詞は途中で切れた。
 中途半端に前屈みの姿勢を維持し、ヒクリと頬を痙攣させた彼がぎこちない動きで左を向く。事実のみを口にしたバジルは非常に涼しげな表情をしており、それが獄寺には癪でならなかった。
「獄寺君も来る?」
 ふたりきりでの夕食さえも、誘う前から断られてしまった獄寺に綱吉がそうと知らず追い討ちをかける。無邪気に問いかけられて返事が出来ず、彼は持ち込んだ書類を握り締め、力なく首を振った。
 温厚な九代目だから、同席者が増えても怒らないだろう。しかし綱吉の後見人であるあの老人が図々しい獄寺に対してどういった感情を抱くかは、想像に難くない。
「いいえ。では、俺はこれで、失礼します」
「そう? うん、あとは宜しくね」
「承知しました」
 か細い声で告げ、深々と頭を下げて退室していく彼に綱吉が手を振る。何をそんなに落ち込むことがあるのかと不思議がっている彼の鈍感さに、バジルは獄寺への同情を禁じえなかった。
 嵐が去り、部屋は再びふたりだけになる。静かな空間にキーボードを叩く音と、紙が擦れる音が響き、合間に綱吉の頭を抱えて呻く声が挟まった。
 時計の針は二つ並んで上を向き、その時だけボーン、と低い音が柱時計から立ち上がる。揃って顔を上げた彼らは、過ぎた時間の速さに肩を落とし、疲れた面持ちで唇を舐めた。
「少し休憩しましょう」
「俺はいいよ」
「では、何か片手で抓めるものを用意させます」
 獄寺の誘いは断ったが、空っぽの胃袋を満たさないと空腹が気になって仕事にならない。立ち上がったバジルの申し出に感謝しつつ、メニューは任せると告げ、綱吉は罫線もない白い紙にボールペンを走らせた。
 自分以外誰も解読できないような汚い字でメモを取り、頭の中で文章を組み立て直しながらパソコンに打ち込んでいく。バックライトの白い光に照らされて、根詰める彼の顔色は一層悪く見えた。
 適度に休憩を取らせないと、空腹以外の理由で倒れかねない。プリンターを兼ねるファックスの傍にある電話に手を伸ばしたバジルは、内線で食堂に掛けてふたり分の昼食を手早く注文した。
 程無くして湯気を立てるホットサンドイッチと、眠気を払うエスプレッソが届けられる。けれど味を楽しむ暇もなく、手を休めずに食事を終えた彼らは、午前と同じように執務に没頭した。
 中断を強いられたのは、
「ツーナ!」
 台風は時として人々の予想を大きく裏切り、ありえない進路を取ることがある。髭面の部下を連れた金髪の青年がノックも無しにドアを押し開いて、顔つき合わせて真剣に相談していた綱吉とバジルは、零れ落ちんばかりに目を丸くした。
 ディーノの後ろからは、状況を察してか申し訳なさそうな顔をしてロマーリオがついてくる。Tシャツにジーンズという、カジュアルを通り過ぎてラフすぎる格好の青年は、惚けている綱吉の心情などまるで意に介さず、真っ直ぐ机に向かって歩いてきた。
「ツナ、久しぶり」
「ど、どうも……」
「ああ、わりーな。仕事中か」
 そういうお前はどうなのか、と平日の昼間に関わらず他所の屋敷にまで出張してきたディーノを見詰め、綱吉は乾いた笑いを浮かべた。
 後方でロマーリオが両手を合わせてひたすらへこへこしているが、その主人であるディーノ本人は全く気付く様子も無い。
「えーっと、ディーノさん?」
「今日いらっしゃる予定は、伺っていませんでしたが」
 綱吉のスケジュールにはない、突然の訪問だった。目で問うた綱吉に答える形でバジルが質問を繰り出すと、ディーノは金髪を雑に掻き回し、白い歯を見せて屈託なく笑った。
「ああ。なんかさ、朝起きたら急にツナに会いたくなってさ」
 親指を立ててポーズを決めて、ウィンクをひとつ。本人はそれで自分が格好良いと思っているのかもしれないが、集中を乱された二名は至極迷惑な顔をして、冷たい視線を彼に投げた。
 それで少しは挫けてくれる相手なら良いのだが、ディーノは軽く受け流して何処吹く風だ。
「はあ……」
 たったそれだけの事で、急に思い立って会いに来てくれるのは嬉しいが、出来るならこちらの都合も考えて欲しい。何も聞いていなかったのでもてなしの準備は当然出来ていないし、相手をしてやるだけの時間的余裕も無い。今日中に片付けなければならない仕事は大量で、とてもではないがディーノと気楽なお喋りは出来そうになかった。
 対応しあぐね、困った顔で綱吉はバジルを見た。彼も似たり寄ったりの表情を浮かべ、頬を引き攣らせている。
 喜び勇んで抱きついてくるくらいの事を予想していたディーノは、綱吉の反応があまりにも渋いのにやっと気付いて、不満げに口を尖らせた。
「ツナぁ~」
「すみません、今ちょっと立て込んでいて」
 ランボみたいな声を出して甘えた目で見詰められるが、今こうしている時間も惜しくて綱吉は素っ気無く言い返した。中断していた相談を再開させ、画面を指し示してバジルに判断を仰ぐ。顎に指を置いた彼は丸い目を細め、数秒間黙り込んだ。
 折角遠路遥々やって来たというのに全く相手にして貰えず、放置を食らったディーノがつまらなさそうにムスッと頬を膨らませる。拗ねられても綱吉の時間が増えるわけではなく、無視を貫いていたのだが、痺れを切らした三十路近い男に背中から圧し掛かられては、流石に反応しないわけにはいかなかった。
「……重いです、ディーノさん」
「いーじゃねーか、ちょっとくらい~」
「良くないです!」
 彼も一応、キャバッローネファミリーを取り仕切るボスの立場にある。それなのに、こんな事でよいのだろうか。
 入り口近くで畏まっているロマーリオの苦労が偲ばれて、綱吉はこめかみの鈍痛を堪えた。
 離れてくれるよう頼むが応じてもらえず、体を揺さぶって強制排除に移るが、子泣き爺となったディーノは益々綱吉にしがみ付いて拒否を表明した。
「ちょっとくらい良いだろう、ツナ」
「ですから……」
 そのちょっとの時間さえも惜しいのだと訴えるのに、耳を貸してもらえない。綱吉が座ったまま椅子ごと暴れるので距離を取ったバジルも、しぶといディーノに苦笑するばかりだ。
 しかも悪いことに、開けっ放しのドアからは、騒動を聞きつけたボンゴレの人員が何事かと中を覗きこんで来た。綱吉にまつわるトラブルは枚挙に暇が無いから、今回はどんな事件が起きるのかと、どの顔も興味津々だ。
 他人事だから楽しんでいられるのだと臍を噛み、綱吉は新着メール有りと宣告するパソコンのモニターを睨んだ。
 ディーノも、ランボと大差ない。綱吉がどんなに忙しそうにしても、駄々を捏ね続ければ最終的には折れて、相手をしてもらえると、過去の事例から学んでいるのだ。
 だから今日こそは絶対に思い通りになってやるものか、と心に誓うのだが、耳元で喧しく騒がれ続けるのは、精神的に辛い。
「沢田殿、少しくらいでしたら」
「いい、バジル君。気にしなくて」
「ツ~ナ~、そんな寂しいこと言うなよ~」
 見かねたバジルが三十分程度ならば休憩を入れても構わないと提案するが、綱吉は断固拒否して毅然とした態度で椅子に座り直した。後ろから首に腕を絡めて来ているのは、人間ではない、抱っこ人形だ。そう自分に暗示を掛けて、目の前の仕事に没頭しようと試みる。
 けれどゴロゴロと喉を鳴らして頬擦りされて、集中など出来るわけがなかった。
 ディーノが諦めるのが先か、綱吉の堪忍袋の緒が切れるのが先か。
 今回はどちらだろうか、と最早傍観者の気分で、バジルは自分だけでも仕事に戻ろうと席に向かった。
 いつの間にかロマーリオがいない。振り向いた先、空っぽの戸口に首を傾げて彼は眉目を顰めた。なにやら話し声は聞こえるが姿は見えず、覚えのある声の主が誰だったかと記憶を手繰ろうとした矢先。
「あー、ずるーい!」
 甲高い少年の声が、バジルのみならず部屋の奥にいた綱吉とディーノの耳にも届いた。
 ロマーリオの制止を振り切ったランボが、さっきまで遊んでいたであろうビニールのボールを振り回しながら叫ぶ。今日は忙しいから一緒に遊べない、と言っていたくせに、と真っ先に綱吉に怒りの矛先を向け、その場で地団太を踏んだ。
 厄介な相手に見付かったもので、綱吉はディーノへの抵抗を弱めて溜息を零した。額に手をやって項垂れ、五月蝿く喚き散らす小学生低学年に頬を引き攣らせる。
 髭面の男が困った様子で頭を掻いて、自分が悪いのでは無いとさりげなく訴えた。確かにロマーリオでは、爆弾小僧のランボを止めきれない。牛柄のシャツを着込んだ少年は、五歳当時よりは等身が伸びたものの性格は相変わらずで、遊べ、構え、と連呼しては床に転がり、じたばたと両手両足を振り回した。
 毎度のことながら騒々しく、舞い上がった埃を払って綱吉はディーノひとりだけでも頭が痛いのに、と長大息を吐いた。
 静かに仕事がしたいだけなのに、周りがそれを許さない。今日の予定が大幅に狂ってしまった、どんなに挽回しても九代目との夕食会までに全部片付きそうにない。
 山積みになっている未処理の書類と、この間も常に受信を繰り返すメール、及びファックス。綱吉に報告事項があるからとまたやって来た獄寺も、開けっ放しの扉から中を覗きこんでぎょっとした。
「な、なんなんですか、これは」
「見ての通りだとしか……」
 返事をする気力も失せている綱吉に代わり、バジルが引き攣り笑いを浮かべて受け答えする。彼の手から滑り落ちた紙の束を拾い上げ、出来ればそこに転がっているランボを回収してくれないかと、と小声で頼み込んだ。
 だが彼の言葉は獄寺の耳には届かない。彼の視線は綱吉にべったり張り付いているディーノに注がれ、羨ましそうな、悔しそうな顔をして拳を震わせていた。
「……」
 反応が無い獄寺の整った横顔を眺め、バジルは諦めた様子で集めた紙の角を整えた。
 自分の席へ戻る途中、ファックスの用紙が切れているのに気付いて膝を折る。下の棚の扉を開けて、新しい紙を補充しようとした彼の後ろで、
「おーっす、ツナ。元気にしてっかー?」
「げっ、テメーまで」
 お気楽調子な青年の声と、うんざりした様子の獄寺の低い声が轟いた。
 半ば魂が飛びかけている綱吉が、新たにやって来た人物に乾いた笑みを返す。右手を高く掲げて振り回し、少し袖が短いスーツの前を全開にさせた山本が、いつの間にか獄寺の後ろに立っていた。
「おっ、山本じゃねーか」
「あれー、ディーノさん。来てたんスか」
「そうそう、ツナの顔見にさ」
 椅子に座る綱吉の肩を抱いたまま、間にいる人たちを無視して高い位置で会話が飛び交う。
 どうして今日に限って、こんなにも集まりが良いのだろう。普段は獄寺とランボ以外城には詰めておらず、召集をかけても全員揃う方が稀だというのに。
「土産買って来たんだけど、数足りるかな」
「テメー、他に先に言うことがあんだろうが」
 右手を下ろし、入れ替わりに左手にぶら下げていた紙袋を持ち上げた山本が呑気に言い放つ。こめかみに青筋を立てた獄寺が即座に突っかかっていき、中学時代から繰り返されて来た、獄寺からの一方的な喧嘩が開始された。
 天然ボケが入っている山本には、獄寺が何故怒っているのかが理解出来ない。全く的外れな事を思いつきで口にして、彼の怒りを増幅させては、益々首を傾げて方向違いの思考を突っ走っていった。
 ランボは依然床に転がって暴れており、ディーノは椅子ごと背後から綱吉を抱き締めて暑苦しいことこの上ない。扉前では獄寺と山本の喧嘩なのか、じゃれあっているのか分からない口論が引き続き展開中で、ファックスはさっきからずっと唸りっ放しだ。
 バジルはひとり、忙しそうに走り回っている。この混乱振りを沈静化させるのを、とっくに諦めている様子が窺えた。
 綱吉も出来るならばそうしたい。が、ディーノが離れてくれない限りキーボードを叩くのさえままならなかった。
「あの、ディーノさん。いつまでそこにいるんですか?」
「ん? そりゃ勿論、ツナが俺の事、見てくれるまで」
 肩越しに振り返って見上げるだけではダメなのか。険を強めた視線を楽々やり過ごしたディーノが高らかと笑って、聞こえた獄寺が途端に山本から怒りの矛先を変えた。
「跳ね馬、テメーもいい加減十代目から離れやがれ!」
「スモーキンボムに命令される筋合いは無いぜ?」
 びしっ、と人差し指を突きつけて怒鳴った獄寺に不遜な笑みでやり返し、ディーノはこれ見よがしに綱吉にしがみ付いて頬を寄せた。
 彼には心地よい感触かもしれないが、ぎゅうぎゅうと締め上げられっ放しの綱吉にとっては息苦しくてならず、長く擦られた頬は赤くなってヒリヒリと痛い。
 一応身だしなみに気をつけているのだろうが、思い立ったが吉日と朝方早くに出発したからだろう、ディーノの顎にはぽつぽつと髭が伸び始めていた。
「……みんなして、好き勝手なことばっかり言って」
 山本はといえば、獄寺の標的が変わったのを受けて部屋の中へ踏み込み、持ち込んだ紙袋を掲げてガサガサと揺らした。そこにいるディーノを全く無視して、綱吉の執務机に広げられていた書類を邪魔だからと勢い良く脇へ追い払う。
 ひっ、と喉を引き攣らせて息を止めた綱吉を知らず、彼は出来上がった空間に、袋の中身をひっくり返した。
「や、やまっ」
「ツナはどれがいい?」
 吹っ飛ばされた紙の中には、現在進行形で処理中のものも含まれていた。ディーノが乱入して以降、まったくと言って良いほど手をつけられずに放置されていたが、だからといって軽々しく床に捨てられて良いものでもない。
 あまりにも驚かされて、声が巧く出ない。目を白黒させて人知れず狼狽する綱吉を他所に、山本は至って楽しげに、まるで修学旅行の土産を持って来た小学生のように、色とりどりの菓子を机に広げた。
 パッケージに記されているのは、山本が綱吉の指示を受けて出張に出向いていた国の文字だ。若干毒々しい色合いで、描かれているイラストも決して上手とはいえない。
 だがこれでもまだマシな方で、いつだったか、市場で見かけて美味そうだったからと言って、タコやタイやヒラメ、カジキマグロといった魚介類をバケツいっぱいに抱えて来られたこともあった。
 父親が寿司職人で、幼少期から魚に慣れ親しんでいた彼らしいといえばらしいが、まだ生きているタコを手渡された時は、流石の綱吉も悲鳴を上げた。
 吸盤で腕に吸いつかれた際の痛みを思い出し、渋い顔をして背の高い青年を見上げる。黒髪を短く刈り上げ、中学生当時に比べれば外見は精悍さが増したが、人好きのする目つきや笑顔はそのままだ。
 だがその無邪気さが、時として綱吉には重い。
「あり、がと。でも今は良い」
 食欲などあるわけがなく、外国製の菓子にも興味が湧かない。酷くなる頭痛を堪えて呻くように言った綱吉の顔色の悪さにやっと気付き、山本は細い目を丸くして顔を顰めた。
 身を乗り出し、机越しに顔を覗き込まれる。あまりの至近距離ぶりに怖気づいた綱吉は下がろうとして、其処に居たディーノの肩に後頭部をぶつけた。
「あいてっ」
「んあ、悪い、ツナ」
 ぎゃあぎゃあ騒いでいたランボは、気がつけば獄寺の足にしがみ付いて泣きじゃくっていた。
 昔から相性が悪かったふたりだが、妙なところで仲が良い。縋りつかれた獄寺は至極迷惑そうに足を振り回し、彼を引き剥がそうと躍起になっている。しかしスッポンの如くランボもなかなか手を離さず、彼らのやり取りは当人らにとっては必死だが、傍から見れば妙なダンスを踊っているようで滑稽だった。
「なんだ、これは。いったい何の祭だ、沢田」
「うわあ……」
 そこへ今度は、黄色のシャツにネクタイを締めた白髪の青年が部屋を訪ねてくる。そういえば彼は、今日から山本と交替で出張の予定で、事前確認があるからこの時間に来るように、と一週間前から約束していたのだった。
 十五分ほど遅刻だが、すっかり忘れていた綱吉は最早咎める気にもなれない。物珍しげに、それでいてこの後どうすればいいのか困った様子で、了平は珍しく大勢集まっている部屋の中をぼんやり眺めた。
「随分と楽しそうだな」
「ランボ、やっぱり此処にいた!」
 呑気極まりない感想を呟いた了平の横から、彼を押し退けるようにして駆け込んできたのはフゥ太だ。激しく肩を上下させて息せき切らせ、全力疾走して来たのだろう、全身汗まみれだった。
 昔は愛くるしかった彼も、この数年ですっかり大人びた。ランボ同様、外見に内面が追いついていないところもあるが、背も伸びて、今や綱吉よりも大きい。
 元々どこのマフィアにも所属せず、逆に命さえ狙われていた彼だが、長年の付き合いを経て今やすっかりボンゴレ十代目ファミリーの一員だ。戦闘能力に乏しい彼はランボの教育係に任ぜられ、綱吉の期待に応えようと日々奮起している。
 ただ教え子であるランボがあまりにも不真面目過ぎて、苦労も耐えない。
 ぜいぜいと荒い呼吸を整え、彼は見付かった、と一瞬で泣き止んだランボに足音響かせて歩み寄った。すかさず牛柄シャツの少年は、しがみ付いていた獄寺の後ろへと隠れたが、その獄寺はパッと左に避けて彼の襟首を猫のように掴んだ。
「さっさと連れて帰れ」
「言われなくても分かってるよ、ハヤト兄は乱暴なんだから。ほら、ランボ、ツナ兄の邪魔しちゃダメだって、いつも言ってるだろ」
 フゥ太だけは味方だと、輝かしい救世主の登場に綱吉は沈みきっていた気持ちを少しだけ浮上させた。これで、騒ぎの元凶のうち、少なくともひとりはこの場から消え去る。ディーノは山本と獄寺に相手をさせればいい、と彼は素早く頭の中で今後の計画を組み立て直して行った。
 だけれど、ランボも粘る。自分を動物扱いする獄寺の足を思い切り踏みつけると、痛がって手を緩めた彼にトドメとばかり頭から突っ込んでいった。
「ぐあっ」
 至近距離からの攻撃を避けきれず、まともに腹に食らった獄寺が野太い悲鳴を上げた。仰向けに倒れる彼に更にもう一発、男の急所に蹴りを入れたランボは、今度こそ悶絶して声にならない声を上げた獄寺を残し、部屋の奥へ駆け出した。
 居合わせた男性全員が、目の前で起きた出来事に冷や汗を流す。了平などは反射的に両手でズボンの上から局部を隠し、山本は巻き込まれてはたまらないと後退して、さりげなく机の前から後ろへと場所を変えた。ディーノの横に並び、綱吉の肩にどさくさに紛れて手を伸ばす。
 泡を噴いて倒れた獄寺に同情を抱きつつ、ぎゃはは、と姦しく騒ぐランボに綱吉は頭を抱え込んだ。
 よくよく見れば、部屋にバジルがいない。一声掛け辛い状況だったのは否定しないが、それでも置いていかれた気持ちになって、綱吉は目の前で飛び回るランボと、必死に追いかけるフゥ太のやり取りに溜息をついた。
「ツナ、外、良い天気だぜ」
「そうそう、気分転換に一緒に散歩ってのはどうだ?」
 窓の外は確かに快晴で、気温も低すぎず、高すぎず、日向ぼっこには最適といえた。山本とディーノが左右からステレオで甘い誘いを仕掛けてきて、その合間に獄寺の聞き苦しい呻き声が挟まる。
 了平は一応心配してか獄寺の傍で膝を突き、彼の肩を揺り動かした。そしてランボが何処かから取り出した小型爆弾の爆発に巻き込まれ、敢え無く吹っ飛ぶ。
 爆風の余波は綱吉にも届いて、彼の目の前でばさばさっ、と未処理と処理済の書類が同時に舞い上がった。
「あ……」
 それらは天井近くを漂い、頼りなげに揺れて落下に転じる。最早どの書類が処理済で、どれがそうでないかの判別もつかない。目の前に音立てて分厚い緞帳が降りて、綱吉の視界を真っ黒に染め上げた。
 サーっと血の気が引く音を聞いて、山本がヒクリと頬を引き攣らせた。
 椅子の上で拳を作り、わなわなと震え始めた綱吉の肩から手を引いて、ディーノは冷や汗をひとつ流した。
 爆発に巻き込まれた獄寺が、銀髪をチリチリの真っ黒にして飛び起きる。ドーランでも塗りたくったかのような真っ黒い顔面にランボは指差してげらげら笑い、ソファの影に隠れて無事だったフゥ太に後ろから両手で口を塞がれた。
「ふンガ、フガー」
「ごっ、ごめんね、ツナ兄。直ぐに連れて行くから、ね。ね?」
 ひと際焦りを顔に出し、言葉を詰まらせながらフゥ太が早口に捲くし立てた。ぶつけた頭を抱えて起き上がった了平も、緩く首を振った末に全員の視線が集中している先に目をやって、若干表情を強張らせた。
 風圧を受けてブラブラ揺れていた部屋の扉が最後にカクン、と曲がり、限界を越えた蝶番が外れ斜めに傾いた。
 ファックスが受信していた用紙もそこかしこに散らばり、山本が持ち込んだ菓子も総じて床に。
 誰もが固唾を飲み、俯きながら小刻みに震えている青年の動向を見守る。
「ワオ、今日も随分と群れてるじゃない」
「「「「げっ」」」」
 どうしてだか、今日は守護者その他が良く集まる日らしい。堪忍袋の緒が切れる直前で踏み止まっている綱吉など露知らず、今度は空気を読まない人代表格が、よりにもよってこのタイミングで顔を出した。
 濃い紫のシャツに紺色のスーツで身を固めた黒髪の青年が、不敵な笑みを浮かべて戸口で仁王立ちしている。綱吉以外の全員が寒気を覚え、雲雀に向かってこっちに来るな、と首を振った。
 だけれど全員が同じ動きをするのも気に食わない彼は、片方の眉を僅かに持ち上げて表情を歪め、居合わせた人々を右から順に眺めていった。
「ふぅん、まあいいよ。丁度面白い匣が手に入ったからね、実験ついでに、全員まとめて咬み殺してあげる」
「馬鹿、やめろ!」
 フゥ太に押さえ込まれているランボ以外の全員が、余計な事はするなと雲雀の制止に掛かった。しかしそれが却って彼の機嫌を損ねる原因となり、雲雀はムッと唇を尖らせると、話も聞かずに上着の内側に手を入れた。
 紫色の石が嵌った指輪と、雲の紋様で装飾された小さな匣を掌で転がし、切れ長の目を眇める。
「おやおや、綱吉君の部屋で暴れようとは、相変わらず物騒極まりない人ですね、君は」
「ぎゃー!」
 そこへ聞こえて来た第三者の声に、獄寺は堪えきれずに悲鳴を上げた。
 綱吉の肩がピクリと跳ねて、頬をヒクヒクさせながら前を向く。執務室の中心部に何処からともなく霧が立ちこめ、あまりにも不自然な出現を果たしたそれは徐々に特定の形を作り始めた。
 普段は呼んでも来ないくせに、こういう時に限って調子に乗って現れる。こめかみに浮かんだ青筋を増やし、綱吉は滅多なことでは人前に姿さえ見せない男に非常にぎこちない笑みを送ってやった。
 三叉の槍を構え、既に臨戦態勢に入っている。六道骸の姿を見るや否や、雲雀はどこかからトンファーを取り出して両手に握り締めた。獄寺はムンクの叫びのような顔をしており、フゥ太はランボを引きずって逃げの体勢に入っていた。
 ディーノと山本が両手を挙げて降参のポーズを取り、壁際まで後退する。了平は雲雀と骸の間に散った火花に敏感に反応し、混ざる気満々でファイティングポーズを取った。
 既に散々たる有様になっている執務室で、次なるバトルが開幕する――
「みんな……」
 わけがなく。
 地の底から響く声を出し、綱吉はゆらり、椅子から起き上がった。
 最上段の引き出しを引いて、中に収められているものを取り出す。左から順に手に嵌めていった彼は、最後に深く息を吐き、吸った。
 瞼を閉ざしたまま顔を上げ、琥珀の瞳をギンッ、と見開く。
 ぴしっ、と周囲の空気が凍りついた。
「みんな、今すぐ出て行けー!!」
 怒号が轟き、凄まじい熱量が綱吉の周囲に巻き起こる。
 ドカンッ、と古典的な爆発音が城中に響き渡り、局地的な地震に照明も家具も軒並み激しい揺れを起こした。手にした盆の上のものを零さぬよう、咄嗟に姿勢を低くしたバジルは、真っ直ぐ伸びる廊下の向こうから、蜘蛛の子を散らすように駆けて来る人の群れに目を瞬いた。
 膝を立てて身を起こし、呆然と彼らが通り過ぎるのを見送る。それは獄寺に山本、ディーノやロマーリオといった、先ほどまで綱吉の部屋にいたはずの顔ぶれだった。
「……またですか」
 今日は構って攻撃に折れたのではなく、キレたらしい。バジルが確認していない顔も、怒涛の勢いで走り去っていった中に含まれていた。
 彼らも毎回痛い目を見ているはずなのに、つくづく諦めが悪い。それだけ綱吉が慕われている証拠であるが、一心に愛情を集める方もこれはこれで大変だ。
「沢田殿」
 半壊している部屋の奥、最早原型を留めないパソコンを前にぐったりしている青年に向かい、役に立たない扉を念のためノックしてからバジルは中に入った。
 散らばった紙は何枚かが凍りつき、何枚かが焦げていた。ランボが泣いたからだろう、彼が放出した雷によって電化製品が悉くショートしている。ファックスは完全に沈黙し、バジルのパソコンも影響を回避出来なかったようで、画面はブラックアウトしていた。
 とてもではないが即日復旧可能なレベルではない。今日はもう、諦めるしかなさそうだ。
「沢田殿、起きていらっしゃいますか?」
「死んでる……」
 この惨状、とてもではないが九代目に報告出来ない。机に突っ伏したままくぐもった声で返した綱吉に肩を竦め、バジルは運んで来たものを机の端に置いた。
 白のティーカップに注がれたハーブティーが、心落ち着かせてくれる芳しい香りを放っていた。
 陶器が擦れる音に顔を上げた綱吉が、穏やかな笑みを浮かべている青年を見詰めた。半泣きの彼の両手は、二十七の数字が記された手袋に覆われている。
 何があったか、それだけで凡その見当がつく。バジルは嘆息と同時に肩を竦め、よしよし、と小さな子をあやすかのように綱吉の癖だらけの髪を撫でた。
 労いの言葉は特に無い。ただ優しく、毛先が指に絡まないよう注意しながら、何度も、何度も同じ場所を掌が往復した。
 ランボが駄々を捏ねるのも、ディーノが自分の仕事そっちのけで、格別用も無いのに押しかけるのも。あれこれ理由をつけて、獄寺が頻繁に顔を出すのも。
 山本が土産で気を引こうとするのも、他人にまるで愛想がない雲雀が言い訳がましく皆が集まっている時に限ってやってくるのも。六道骸が、自分だけ仲間はずれになるのを嫌って、己の体力顧みず姿を現すのだって。
 皆、理由はひとつだ。
「沢田殿は、大勢の方から慕われていますね」
 しみじみと感想を告げ、バジルは腕を引いた。下唇を噛んでいた綱吉はのそのそと椅子の上で居住まいを正し、温かい湯気を立てるハーブティーに手を伸ばした。
 息を吹きかけ、表面を冷ましてから口を付ける。咥内に広がる仄かな甘みと、胸に染み入る温かさに、涙が出そうだった。
「だからって、限度ってものがあるよ」
「誰もが沢田殿の一番になりたいのでしょう」
「簡単に言ってくれちゃってさ」
 静かに音を立てて色の薄いお茶を飲み干し、綱吉は再び机に額を押しつけた。
 午前中に、眠気を堪えながら苦心の末片づけた仕事も全部台無し、もう今日は一日何かをする気にもなれない。夜に顔を合わせる事が決定している九代目に、いかに言い訳をするか。そればかりが頭の中を駆け巡り、綱吉は深い溜息の末に目を閉じた。
 空になったカップを盆に戻したバジルが、密やかな笑みを浮かべて目を細める。邪魔をしては悪いからと、彼もまた、先程の綱吉の命令を実行すべく丸盆の縁に指を置いた。
 歩き出そうとして、ジャケットの背中側の裾が何かに引っかかり、伸縮性の無い布地がくん、と後ろに突っ張った。
「沢田殿?」
「何処行くの」
 振り向けば綱吉が、机に顔を伏したまま右手だけを伸ばしている。抓まれた自分の上着を見下ろし、バジルは破壊され尽くした部屋を改めて見回した。
「沢田殿は先程、出て行け、と皆様に」
 好き勝手暴れ回り、騒ぎ、綱吉の邪魔ばかりする連中を、そう言って追い出したのは確かだ。イクスグローブを使い、ゼロ地点突破・改で骸と雲雀のトンファーを凍らせもした。
 だけれど、あの場には。
「君には言ってない」
「沢田殿」
「あの時、バジル君は部屋に居なかった」
 精神が荒み出していた綱吉の為に温かなハーブティーを用意しに、彼はこの部屋を後にしていた。戻ってきたのは、全員が出払った後。
 綱吉の命じた人の中に、彼の顔は無い。
 頬を膨らませてぼそぼそと屁理屈を捏ねた綱吉に、バジルは微笑んだ。
「はい。では、今暫くは」
 実に手間の掛かる十代目だと嘯いて、彼は盆を持とうとしていた手で綱吉の頭を撫でた。

2010/01/11 脱稿