締盟

「十代目ー!」
 遠くから獄寺の呼ぶ声がして、綱吉は閉じていた瞼を少しだけ持ち上げた。
 枕にしていた両手を解き、腕を広げて大の字になって寝転がる。そうして彼は、眼前に広がる大空に向かってそっと嘆息した。
 獄寺の呼び声は、まだ続いている。近くなったように思えば遠ざかって、彼が実に慌しく、あちこちを駆け回っている様子が窺えた。
「十代目、何処ですか。じゅうだいめー!」
 悲壮感漂わせる絶叫に、屋敷の人間もさぞや彼に注目していることだろう。最早恒例と成り果てている光景であるけれど、皆から笑われていることに、彼はそろそろ気付いて良い頃だ。
 綱吉ももう成人を目前に控え、大人としての風格を少しずつだけど備えてきている。出会ったばかりの頃の、世の中の道理などお構いなしだった中学生時代とは違うのだ。
 だというのに、獄寺の綱吉に対する接し方は、以前と全く変わらない。むしろ色々な出来事を経て、余計に束縛が強まった感じがする。
 常に綱吉が視界に入っていないと安心できないようで、姿が見えないと途端に携帯電話が鳴り響き、何処にいる、いつ戻る、誰と一緒か云々、しつこく聞いて来る始末だ。
 お前は母親か、と周囲も呆れ果てており、それとなく注意をしてくれているのだが、まったくもって暖簾に腕押し、糠に釘。逆に愛されているのだからと、もっと獄寺に構ってやるよう言って来る面々もいて、綱吉の周囲は実に姦しかった。
 少しくらいひとりの時間が欲しい。ただでさえ毎日忙しく、人と会う約束は際限ないのに。
 誰とも顔を合わさず、誰とも会話せず、ただぼんやりと空を眺める時間くらい、許されても良い筈だ。自分で決めて、自分で選んだ道だけれど、こうも息が詰まるものだとは思わなかった。
 ヴァリアーの面々や、過去に闘った相手を見る限り、平時はもっとのんびりとした生活を送れるものと思っていたのだが、根本的に考えが甘かったと言わざるを得ない。
 元々おっとりした気質で、急かされてあれこれやるのが嫌いな性格なので、一遍にあれをしろ、これもしろ、と言われても頭が追いつかない。幸いにも有能な部下に恵まれたお陰でさほど苦労していないが、これから先の事を考えると、憂鬱になる。
 獄寺の過剰なまでの干渉が加われば、なおのこと。
 イタリア暮らしが長かった彼だから、慣れない環境で綱吉が不便を感じないようにと、あれこれ世話を焼いてくれているのだとは分かっている。だけれど、幾らなんでもシャワーくらいひとりで浴びられるし、髪だって洗える。子供じゃないのだから、着替えだって自力でなんとかする。
 何でもかんでも面倒を見ようとして、逆に鬱陶しがられているのだと、出来るならば自分で気付いてもらいたい。両手の平を屋根に押し当てて上半身を起こした綱吉は、部分的に凹んでしまった髪の毛をぐしゃぐしゃに掻き回し、他の寝癖と混ぜて分からなくさせた。
 黒に近い濃紺のシングル、三つボタンの上着は前が全開にされ、下に着込んだ白いワイシャツに通したネクタイも結び目は緩められてかなり下の方にあった。襟元は広げられて、あまり肉付きの良くない肌に鎖骨が浮き上がっていた。
 日本家屋とは違い、こちらの屋根は平らだ。
 地面にフライパンと卵を置いておけば、それだけで目玉焼きが完成するような灼熱の太陽は遠ざかり、気候は多少ながら過ごし易いものに変わった。相変わらず南国の太陽は眩しいけれど、夏の盛りを過ぎて、季節は冬に向かおうとしていた。
「じゅーだいめー!」
 獄寺の声が今まで以上に近い場所から聞こえ、一瞬ビクリと身構えて綱吉は自分が登って来た経路を振り返った。
 しかし庇よりもずっと奥に引っ込んでいる綱吉に気付く事無く、彼のものだろう足音は下の方を通り過ぎて行った。
「……よかった」
 思わず胸を撫で下ろし、安堵の息を吐いて背中を丸めて、綱吉は苦笑した。
 獄寺には悪いが、もう暫く独り相撲をしていてもらう事にする。それに、午後の会議にはちゃんと出席するつもりでいるので、彼の探索は全くの無意味だった。
 腕に巻いた時計の文字盤を確認しようとして、彼は楕円形のそれに反射する日差しに顔を顰めた。昼ごはんを食べるだけの猶予も計算に入れて、此処でゆっくりしていられる時間を算出する。
「あと一時間ちょっとかな」
 それまで誰にも見付からなければ、自分の勝ちだ。
 景品もなにもない、ただの自己満足の勝負であるけれど、小学校の時に宝探しゲームをした時のようなワクワク感が胸を埋めて、綱吉は含み笑いを零した。
「あー」
 心持ち大きな、けれど誰にも聞かれないように絞った音量で声を張り上げ、彼は両手両足を投げ出した。薄汚れた屋根に寝転がり、日焼けも気にせず陽光に全身を曝け出す。
 スーツを着るのに抵抗はなくなった、ネクタイも自分で締められるようになった。空港で飛行機に乗る手順も覚えた、日常会話程度ならイタリア語も、英語も不便が無くなった。
 たった三ヶ国語だけなんてお話にならないと、後はフランス語とロシア語、中国語を習得するようにと言い張る、家庭教師の鬼っぷりも変わらない。本当はこういう時間も、語学勉強に勤しむべきだというのは分かっている。
 食事時のマナー、会合時での発言順の決め方、目上の者に対する挨拶の仕方、等など。学ぶべきことは数え切れず、一分一秒だって無駄に出来ない。
 だけれど、綱吉はまだ二十歳にもならない健全な青少年なのだ。遊びたいし、美味しいものを食べに行きたいし、たまにはサボタージュを決め込みたい。
 リボーンからしてみれば、お前はいつだってサボってばかりではないか、と言いたくなるのも分からないではないが。
「ちょっとくらい、良いじゃないかさ」
 思い出して唇を尖らせ、綱吉は肘を曲げて両手を頭の下に差し込んだ。目を閉じ、燦々と降り注ぐ陽射しを瞼で遮って日向ぼっこを楽しむ体勢を作る。獄寺は諦めたのか、呼ぶ声はしなくなった。代わりといってはなんだが、車のエンジン音が鼓膜を叩いた。
 誰か来たのだろう。但し、訪問者の予定は聞いていない。
「本部からかな」
 今日の会合は、ボンゴレ十代目のファミリー内のものだ。もっとも、構成員が若年者ばかりなので、いつも話が脱線して雑談に集中し、議題がひとつも片付かずに時間が過ぎてしまうことが多々あった。
 そうでなくとも、守護者の主要メンバーが数人欠けた状態で、まともに機能するわけがない。雲、霧の席は何度会合を催しても、常に空っぽだった。
 こんな調子だから、本家も痺れを切らし、誰か適当な仕切り役を派遣してきたのかもしれない。九代目がいかに温厚で、長い目で見守ると主張していても、ボンゴレは彼ひとりが動かしているわけではないのだから。
 後継者がしっかり育たないのは九代目の責任だ、と責める声も方々から聞く。十代目として自分を指名し、未来を委ねてくれた彼に報いるためにも、綱吉は日進月歩の勢いで頑張らなければいけないのだが。
 根を詰めすぎると、逆にダメになる。休息は必要不可欠だと自分に言い訳をして、彼は来訪者が誰かを想像しながら吸った息を吐いた。
「いい天気だなー」
 こうしていると、中学校時代を思い出す。あそこの屋上は、昼食の弁当を広げるにも、昼寝をするのに絶好の場所だった。
 雲雀に見付かると大騒動だったが、風紀委員も毎日見回りに来るわけではないので、隙をついて突入するのが獄寺や、山本たちとの密やかな楽しみでもあった。
 ボンゴレの十代目を襲名してからは、すっかり三人で遊びにいくことも無くなった。互いに自由の利く時間が持てなくなって、顔を合わせてゆっくり話をする機会も減った。
 話の内容も、テレビ番組の感想や日常生活の些細な出来事といった下らないものではなく、請け負った仕事についての確認や、報告や、そういったものばかりになった。
 大人になって、社会的な責任が増したのだから仕方ないと分かっていても、割り切れない部分は多い。
 彼らに苦難を強いて、望まない仕事――揉め事処理や争い事をさせなければならない自分の不甲斐なさにも、腹が立つ。
「十代目、何処ですか。十代目ー!」
 一度は止んでいた獄寺の大声が、また空に向かって響いた。
「いい加減、出てきてくださーい。昼食抜きにしますよ!」
「ああ、それはやだな……」
 ボンゴレの雇っているシェフは皆腕が達者で、トースト一枚作るにも全力を尽してくれる。食卓に並べられる料理はどれも美味しくて、初めて食べた時はほっぺたが落ちるかと思ったくらいだ。
 イタリア料理のみならず、リクエストすれば和食も出て来た。これは山本が大いに喜んで、自分で釣って来た魚を捌いて寿司を握ってお返しにしていたくらいだ。
 空腹のまま会合に雪崩れ込むのは、出来るなら避けたい。しかし折角の有意義な独りの時間を潰して、獄寺の自己満足を満たしてやるのも癪だ。
 あの過干渉ぶりさえなければ、彼はとても良い友人なのだけれど。
「あーあ、なんとかならないかなあ」
「なんとか、とは?」
「もーちょっと、獄寺君のお節介が減れば……――」
 尻すぼみに言葉を発し、綱吉は今自分が誰と会話しているのかを懸命に考えた。
 目は閉じたままで、瞼越しに太陽の熱を感じる。鳥の声、獄寺が呼ぶ声は遠い。
 少なくとも寝転び直すところまで、綱吉は此処にひとりだった。だけれど、今確かに、自分の直ぐ傍からはっきりとした声が聞こえた。独白に対しての問いかけが降って来た。
「じゅーだいめー!」
 悲痛な叫びを繰り返している獄寺ではない、彼の声は足元遥かからしている。ではいったい、誰か。
 山本ではない、彼の声はもっと低い。了平とも違う、彼はこんなにも丁寧な物言いをしない。ランボだとは考えられない、あの子は話しかける前に飛びかかってくる。リボーンならば問答無用で拳銃をぶっ放すだろう。
 思いつかない。目を開ければ事が済むのにそれを忘れて、綱吉は冷や汗をだらだら流しながら懸命に、聞き覚えがある声の主を記憶の中から手繰り寄せた。
 ヴァリアーの面々とも違う、城の勤め人とも違う。
 以前に、いつだったかは思い出せないけれど、聞いた事がある。それなりに親しかったはずだ。
 マフィア関連で長く会っていない人物の中で、綱吉と仲が良かった人。自ずと限られてくる、その中で真っ先に脳裏に浮かび上がる姿。
 麦の穂色の髪をした、彼。
「バジル君!」
「はい。お久しぶりです、沢田殿」
 名前と顔と声が合致した瞬間、跳ね起きて振り向いた綱吉の傍らで、彼は両手を膝に揃え、礼儀正しく正座をしていた。ただ、完全に腰を沈めると痛いので、爪先は立てて腰は浮き気味だった。
 それでも穏やかな顔立ちと柔和な微笑みは、記憶の中の彼となんら変わっていなかった。髪が少し長くなり、顔立ちに凛々しさが追加されて、成長期を経た大人の男性になっていても、だ。
 同い年の筈なのに、綱吉よりもずっと大人びて見える。それが単なる人種の差だけだとはどうしても思えなくて、綱吉は目を丸くし、半端に腰を捻った状態のまま暫く動けなかった。
「バジル、君……?」
「はい」
 確認の為に、先ほどよりも若干自信の無い声で問う。瞬時に首肯が返されて、やっぱり、と思うと同時に、ほんの少しだけれど悔しくなった。
 綱吉のようなアジア系は、ヨーロッパ系の人々からすると随分幼く見えるらしい。お陰で未だに学生に間違えられる。もっとも、年齢だけを見れば大学に通っていても可笑しくない年齢なのであるが。
 彼らは綱吉を、大学生には見てくれない。良くて高校生、一度だけだがバスに乗った際に小学生と思われたこともあって、それはかなりショックだった。
 きっとバジルは、歳相応に見てもらえるのだろう。羨ましく、妬ましい。
「沢田殿?」
「いや、ああ、うん。ひさしぶ……り?」
「はい。お元気そうでなによりです」
 ぼんやりしていたところを覗き込まれ、卑小な考えを抱いた自分を知られたくなくて首を振る。ぎこちない挨拶に気にも留めず、バジルは満面の笑みを浮かべ、嬉しそうに目尻を下げた。
 しかしいったいどうして、彼が此処にいるのだろう。
「そっか、さっきの車」
 獄寺の声が途絶えていた時に聞いたエンジン音、彼はあれに乗って来たのだ。
 座り直して顎を撫でた綱吉の独白に、バジルは知っていたのかと肩を竦めた。
「突然ですみません」
「ううん。なんだ、バジル君だったのか。てっきり、俺」
 膝に手を下ろし、そのまま後ろへ流して背筋を伸ばした彼は、顔を綻ばせて首を振った。
 まさか旧知の間柄の人物が訪ねてくるとは思わず、どうせボンゴレ本部から派遣された、小難しい頭の年寄りが来たのだと考えていた。先ほど思考巡らせた内容をそっくりそのまま伝えると、バジルは足を崩して楽な姿勢を作り、照れ臭そうに頬を掻いた。
「あの、沢田殿」
「うん?」
「すみません。なんと申しますか、その、……拙者が、そうなのです」
「はい?」
 非常に申し訳なさそうに恐縮しながら、バジルは長く伸びた髪を耳に引っ掛けた。しかし繊維が細い為か、毛先は絹のように白い肌をサラサラと流れて落ちていった。
 素っ頓狂な声をあげた綱吉に、彼は胸の前で両手を重ね、指を交互に絡めて軽く握った。
「九代目が、最近の沢田殿が窮屈だにしていると耳にしたようで、どうもそれが、沢田殿のスケジュール管理を獄寺殿がされているからではないか、という結論に至ったようでして」
 若干しどろもどろになりながら、バジルはまだ聞こえる獄寺の声に耳を傾けた。
 綱吉はぽかんとしたまま彼の説明を聞き、矢張り獄寺の居場所を探し、視線を下に泳がせた。
 屋根の先は当然空で、その下は中庭。屋敷はほぼ正方形で、小さな噴水のある庭を囲む形で構成されていた。
 彼らが今現在居る場所に通じる階段は、無い。梯子も当然ながら、掛けられていない。だが最上階の角部屋にある納戸にある窓は、一見すると嵌め殺しのようでそうでなくて、少しコツがいるが枠から外すのが可能だった。
 木造建築とは違い、石の建物は総重量が重く、大きな窓を作るのは叶わない。だから小柄な綱吉ならどうにか通り抜けられるが、大柄の男性は肩のところで詰まってしまう筈だ。
 バジルも見た目は華奢で、綱吉とそう変わらないように見える。だが立ち上がったら、どうだろう。身長はかなり負けているように感じられた。
「え、と。……どゆこと?」
 一部理解出来るが、一部分からない。バジルが此処に来たのは、綱吉が獄寺の過干渉に困っているという話を九代目が聞いたからだ、という事らしいが、それが何故門外顧問所属のバジル派遣に繋がるのか。
 頭の上に無数のクエスチョンマークを浮かべた綱吉に、彼は控えめな笑みを浮かべた。
「獄寺殿も任務がありましょうし、そちらに支障が出るのは喜ばしい事ではありません。獄寺殿が何故、沢田殿をああも心配されるのは、沢田殿のスケジュールを管理して、お傍にお仕えする者がいないからではないか、というのが九代目のお考えのようでして」
 確かに今現在、綱吉の身の回りのことは獄寺が率先してやっている。予定の管理に、飛行機のチケットやホテルの手配、その他諸々。彼自身も忙しい身の上なのに、進んで綱吉に関わろうとして、過剰に世話を焼いて鬱陶しがられている。
 別行動をとっても、毎日三回以上無事を確認する電話が掛かってくる。綱吉も、獄寺本人も、心休まる時が無い。
 だから多忙極まりない現嵐の守護者から、綱吉に関わる仕事を取り除いてやろうというのが、九代目の配慮だった。
「……?」
 回りくどい説明に疑問符ばかりが増えていく。益々きょとんとしている綱吉に、バジルは最後、肩を竦めて笑った。
「つまりは、沢田殿の秘書官という事で、拙者が」
「へえー……え?」
 自分を指差して告げた彼に、やっと耳馴染みのある単語が出て来たとホッとして、直後に綱吉は小首を傾げた。
 そういう役職があるのは、テレビドラマやらで見たことがあるので知っていた。しかし自分にそういう人がつく、というのは、今まで考えた例もなかった。
 現状で事足りていたし、獄寺の過干渉ぶりを除けば問題を感じたこともない。自分で出来ることは自分で、それが基本スタンスだった。
 思いもよらぬ九代目からの提案に、また突拍子も無い事を、と心のどこかで呆れる。しかし同じくらい、いやそれ以上に、心遣いに感謝し、バジルとの再会を喜ぶ自分が居た。
「それは、気持ちは嬉しいっていうか、……決定事項?」
「はい。沢田殿が不要であると仰有るならば、九代目も撤回されましょうが」
 それはつまり、獄寺がいかに文句を言おうと、不要論を唱えようと、一切が無駄、という事だ。九代目直筆の証である死ぬ気の炎入りの任命書を見せられた銀髪の青年は、さぞや狼狽している事だろう。
 昼飯抜きを叫んでいた彼を思い出して、乾いた笑みが零れた。
「けど、なあ。獄寺君、なんていうか」
「十代目には俺がついているから帰れ、と」
「あぁ……」
 車で到着したバジルを出迎えた際に、既にひと悶着あったようだ。相も変わらず誰彼構わず喧嘩を売る獄寺を思い、綱吉は頭を抱え込んだ。
 顔を両手で覆い隠し、指の隙間からバジルを窺う。何を考えているのか分かりづらい、飄々とした風にも見える彼は、この数年ですっかり大人の風格を身につけていた。
 確かに彼はしっかりしているし、年齢も近いので変に気構えずに済む。指輪争奪戦の際に、短期間であったけれど一緒に生活をしていたこともある。
 涼しい顔をしている彼をじっと見詰め、綱吉は答えに渋った。
「バジル君は、それでいいの?」
 自分の意思よりも先に、彼の本音が気に掛かった。
 恐る恐る問いかけると、眩い陽射しの中、彼は目を細めてにっこりと微笑んだ。
「無論です。また沢田殿とご一緒出来るかと思うと、嬉しいです」
 話を聞かされた時は、迷う事無く二つ返事で頷いたという。満面の笑みを浮かべた彼の、媚び諂う事の無い正直な告白に圧倒されて、綱吉は気まずげに下を向いた。
「沢田殿は、お嫌ですか?」
「そうじゃないんだけど、さ。なんていうか、やっぱりねえ」
 獄寺と彼が喧嘩をするのは、目に見えている。バジルがいかに優秀であろうとも、我が強い彼の事だ、絶対に認めないだろう。
 たとえ綱吉が、バジルを必要だと言っても。
 ファミリー内の争いは避けたい。皆が分かり合い、分かち合える環境を作るのがボスである綱吉の務めだ。だから人間関係のいざこざは困るし、無用な争いは控えて欲しい。
 天を仰いで深く溜息をついた彼を見詰め、バジルは肩を揺らした。
「大丈夫ですよ、多分ですが」
「どうして?」
「先ほど、獄寺殿が」
 ほら、と地上部分を指差した彼に姿勢を戻し、綱吉は首を傾げた。視線を巡らせ、中庭に面する回廊で途方に暮れている嵐の守護者を見つけて咄嗟に頭を低くする。
 向こうからは見えないと分かっていても、ついつい警戒してしまう。猫のような俊敏な動きにクスクス声を零し、バジルは伸ばした手を引っ込めて緩く握った。
「沢田殿がさっきから何処にも見当たらないと仰有っていらしたので。それで、沢田殿を先に見つけた方が、秘書職に相応しい人材であると」
「……はあ?」
「ですので、拙者の勝ちです」
 いたずらっ子の顔をして、口元に丸めた手をやったバジルに素っ頓狂な声を返し、綱吉はボサボサの髪の毛を掻き毟った。
 獄寺に見付からずに過ごせれば勝ち、という景品の無い勝負をひとりでやっていた当人を他所に、その綱吉を景品にした賭けが行われていようとは。いったい彼らは、綱吉の事をなんだと思っているのだろう。
 渋い顔をして奥歯を噛み、背中を丸めた綱吉に、バジルが非礼を詫びる言葉を発した。
「すみません、勝手に」
「あー、そういえば、気になってたんだけど」
 九代目の決定は絶対で、どの道バジルはボンゴレ十代目ファミリーに加えられていただろう。獄寺の抵抗は、無駄な努力にしかならない。だとすれば、早々に決着をつけてくれたのは、むしろこちらとしては有り難い、のひと言に尽きる。
 だからそれはもう構わなくて、綱吉は額に手をやるともう片方の手を揺らし、空中に幾つもの円を描いた。
「なんで、さ。バジル君は」
「はい」
「……俺、此処に隠れてるの、今まで誰にも見付かったこと無かったんだけど」
 こそこそと逃げ回っているという自覚がある手前、あまり大きな声で言うのも憚られた綱吉の疑問に、バジルは屈託のない微笑みを浮かべた。
 日頃から綱吉と、なにかと一緒に居る獄寺が此処を見つけ出せず、逆に今日初めて城に来たバジルが易々と発見してしまった。城には二十を越える部屋があり、更には地下室や書庫、倉庫といった、隠れるに適した場所も無数に存在している。敷地自体も馬鹿みたいに広く、果樹園やバラ園もあるので探す場所は枚挙に暇が無い。
 それにも拘らず、先ほど城に着いたばかりの彼は、今こうして綱吉の隣にいる。
 不思議だ。
「大方の場所は、獄寺殿が既に探した後でしょうから」
 出迎えに出て来た獄寺は、身なりは整っていたけれど顔が汗だくで、息を切らしていた。それはつまり、あちこち駆けずり回った直後だったという証拠だ。
 確かに車が到着するずっと前から、獄寺は大声を張り上げて綱吉を探していた。毎回良くやる、と呆れ半分、申し訳なさ半分で、懸命な呼び声をバックミュージックとして聞きながら、綱吉は平らな屋根で大の字に寝そべっていた。
 屋敷の中にいないのであれば、無難に考えれば所在地は外しかない。しかし対象となる敷地は広い。だから、と怪訝がる綱吉に目尻を下げ、バジルは人差し指を立てた。
 それが何を意味しているのか分からず、綱吉は首を傾げた。
「沢田殿は、暗い場所、苦手でしたね」
「う」
「あと、狭い場所もあまり得意ではありませんでした」
「……うん」
 あっけらかんと言われ、返す言葉が見付からない。バジルは指を上向けたまま身動ぎし、綱吉の方へ少しだけにじり寄った。
 場所を譲ろうかで迷い、さほど接近してこなかったのでその場に留まった綱吉が、揺れ動く指先に誘われて視線を浮かせ、空を見た。
 綺麗な青空。雲がぷかぷかと泳いで、小鳥が戯れながら飛び去っていく。
「そして沢田殿は、基本的に寂しがり屋で、ひとりになりたいと思っても、近くに誰かが居ないと落ち着かない方です。ですから、お屋敷の中でも明るく、広く、城に居る人たちの動向が探れる場所にいらっしゃると思ったので」
「うぐぐ……」
 次々に指摘される図星に唇を噛み、顔を赤くして綱吉は俯いた。並べた膝に両手を置き、そこに額を重ねて小さくなった彼に目を眇め、予想が外れていなくて良かったとバジルは言った。
 城から離れすぎると、緊急事態が起きた時に咄嗟に動けない。それは困る。
 独り閉じこもるにしても、暗く狭い場所だと気持ちまでもが暗く沈んでしまい、嫌なことばかりが頭を過ぎるから避けたい。
 出来るなら空が見える場所で、身体を伸ばせる場所で。寝転がれるだけの広さがあり、適度に暖かく、暑過ぎず、寒すぎず。
 長い間獄寺から逃げ遂せていたのに、人が変わるとこうも簡単に見つけられてしまうものなのか。バジルの巧みさに舌を巻き、苦虫を噛み潰した顔をして綱吉は背筋を伸ばした。
「出来れば、獄寺君には秘密に」
「承知しました」
 此処を暴露されたら、隠れる場所を新たに探さなければならなくなる。切実な願いを訴えた綱吉にバジルは頷き、立てた人差し指を唇に押し当てた。
 内緒に、という合図と共に右目を閉じてウィンクされて、気恥ずかしくなった。
 もっとも、どの道バジルに発見されてしまったので、次の隠れ場所を発掘しなければいけないのは間違いない。今度は彼にも見つけられない場所を、と候補地をあれこれ頭に思い描いていたら、急に目の前の人物が噴出した。
「構いませんよ、沢田殿。他を探さずとも」
「えっ」
「沢田殿が此処にいらっしゃる間は、口出しはせぬようにしますので」
 綱吉が独りになりたいのであれば、そうさせてやるのが自分の仕事だと彼は言う。追いかけるから、逃げるのだ。此処に居ると分かっていれば、バジルは無理に探さない。
 休憩を終えて大声を張り上げ出した獄寺へのあてつけだろうか、ちょっとだけ意地悪を言って、彼は舌を出した。
 惚けた綱吉は数秒沈黙し、咥内の唾を飲んで居住まいを正した。
「えーっと、……で、結局は、どうなるの?」
「沢田殿が認めてくだされば、それで」
 獄寺に拒否権はないが、綱吉にはある。九代目の決定を覆せるのは、十代目だけだ。
 獄寺にも見せた九代目からの指令書を差し出し、炎の刻印を確かめさせて、バジルは厳かに言った。今此処で綱吉が嫌だと首を振れば、彼はこの書を持ち帰り、以後城に足を向けることもなくなるだろう。門外顧問の一員として、今までどおり職務に忠実にあるだけだ。
 もし、綱吉が首を縦に振れば。
 門外顧問として、綱吉の裏方として、ボンゴレ十代目ファミリーの末端を担う事になる。
「なん、か。責任重大なんだけど」
 照れ臭くて頬を掻き、言葉を濁して綱吉は視線を泳がせた。
 獄寺には苦労を掛けっ放しで、彼の存在は綱吉の負担だったけれど、獄寺にとっても綱吉は重荷のひとつだったに違いない。それがバジルの存在で取り払えるのだとしたら。
 横目で傍らを窺うと、穏やかな笑みを浮かべた青年が、静かに答えを待っている。人を見透かしたような目をして、答えはもう決まっていると言わんばかりに。
 悔しいかな、どうやら彼からは逃げ切れないようだ。
「……じゃあ、あの。不束者ですが、宜しくお願いします」
 足を揃えて座り直し、両手をついて頭を下げる。日本の古式ゆかしい作法に則って三つ指ついた彼に、バジルもまた正座になって頭を下げた。
「及ばずながら、お助け致します」
 妙に他人行儀で畏まったやり取りに、ふたりは顔を伏したまま肩を震わせ、顔を上げて向き合った瞬間、ついに堪えきれずに噴き出した。

2010/01/06 脱稿