知音

 長い影がふたつ、並んで道に伸びている。踏み越えて、追い越そうとしても、叶わない。
 それでもしつこいくらいに追いかけて、ジャンプして、気がつけば曲がり角にきていて、いつしか影は右方向に離れていった。
 そんな些細な事でさえ嬉しいようで、小さな男の子と女の子は、手を握ったまま楽しそうに声を立てて笑った。
 五歳か、もう少し下か。幼児独特の真ん丸く赤い頬が、とても愛らしかった。
 兄妹かと思ったが、顔が似通っていないので違うだろう。帰り道を急ぐ幼子ふたりの背中を遠巻きに眺め、綱吉は微笑んだ。
「ご近所さん、かな」
 あの子たちの関係性を思うままに呟き、それも違う気がして小首を傾げる。傍らの人物にも感想を求めるべく視線を投げると、羽織った学生服を揺らした彼は口をヘの字に曲げた。
 自分に聞くな、と言わんばかりの目で見下ろされて、少し居心地悪くなった綱吉は照れ笑いを浮かべた。胸の前で人差し指を小突き合わせ、小さく舌を出す。
「なんだって良いじゃない」
「それはまあ、そうなんですけど」
 全く見知らぬ、どこに住むなんという名前の子なのかも分からない相手の事を、あれこれ詮索したところで、何の意味もなさない。面白おかしく脚色されるのは、あちら側としても迷惑極まりなかろう。
 とどのつまり、どうだっていい。興味なげな態度を表明した雲雀に肩を竦め、綱吉は同調しつつもまだ幼い二人連れを気にして、前方遠くなった影に目を眇めた。
 仲良く手を繋いで、とても楽しそうで。一緒にいられるのが嬉しくて仕方が無いと、そんな雰囲気が離れていても伝わってきた。
 見ているだけでこちらまで幸せな気分になる。微笑ましい光景だと思うのに、雲雀はそうではないらしい。
「可愛いじゃないですか」
「そうだね」
 小鳥の囀りのような甲高い笑い声が響き、前を指差した綱吉に雲雀は遅れて頷いた。
 そこは認めるのだ。自分で言ったに関わらず、何故だかちょっとだけもやっとして、綱吉は緩く拳を作って左胸に押し当てた。
 乾いた唇を舐めて、右に左にぶれ動く心を懸命に宥める。そんな彼を見下ろし、雲雀は小さく嘆息して前を行く子供達を視界の中心に据えた。
 別に追いかけているわけではない、道が偶々同じだけだ。
 一日が終わってしまうのを名残惜しみながら、少しでも長く一緒にいられるように、わざと遠回りしているように見える。まだ小さい彼らには、町を一周するのもひと苦労だろうに、歩みから疲れはまるで感じられなかった。
 繋いだ手は一度も離れず、硬く結ばれている。
「あ」
 電信柱の影を踏み越えた綱吉が、先に気付いて小さく声をあげた。
 女の子の家に着いたのだろう、男の子が手を離した。バイバイ、と手を振って、女の子も寂しげに振り返す。それだけだったなら、きっとどこにでもある光景だった。
 違ったのは。
「う、わあ」
 最近の子はマセている。そんな風に思いながら、綱吉は左手でぺちん、と己の顔を叩いた。
 男の子がちょっと背伸びをして、哀しそうにしている女の子にキスをした。それは触れるだけの、軽いくちづけ。
 大人を真似た別れの挨拶を済ませて、照れ臭そうにしながら男の子が走っていく。
 女の子以外に見送る目があるのも知らず、道を勢い良く曲がった彼の姿に、綱吉はもぞもぞと身を捩った。
「兄妹でも、ご近所さんでもなかったみたいだよ?」
「そうですね!」
 予想は大いに外れた。茶化した雲雀の顔がまともに見られなくて、綱吉は大声を張り上げた。
 幼稚園児の癖に、とか、まだ早過ぎる、だとか。頭の中では色々と、目の前で起きた、ある意味ショックな出来事に対する感想がごちゃごちゃに入り乱れる。爪を立てて頬を引っ掻き、羨ましい、という単語がぽっと沸いて出たところで、彼は大きく首を振った。
 挙動不審な様を笑い、雲雀が歩き出す。斜め後ろを半歩遅れて、下を向いたままの綱吉が続いた。
「……ちぇ」
「なに」
「別に、なんでも」
 頬を膨らませて不貞腐れた声を出し、落ちていた小石を蹴り飛ばす。むくれている彼に雲雀がどうしたのか問えば、素っ気無い返事でそっぽを向かれてしまった。
 夕焼けよりも赤い顔の彼に目を眇め、雲雀が声を殺して肩を揺らした。
「して欲しいの?」
「違います! ……あ、いや」
 笑みを過分に含んだ質問に、反射的に怒鳴り返してから、発言内容を振り返って彼は口篭もった。落ち着きなく瞳を彷徨わせ、口をすぼめたり、広げたり、落ち着きが足りない。
 益々赤くなった彼に、今度は声立てて笑って、雲雀は自分の唇に押し当てた人差し指を彼に差し向けた。
 ちょん、と撫でるように叩いて、離れる。通行人もいるこの場では、今はそれが限界だった。
「うぅ」
 低い唸り声をあげて、不満げな綱吉は八つ当たりに雲雀の脇腹を叩いた。
 痛くはない、どちらかといえばくすぐったい。学生服に出来た新しい皺を撫でて伸ばし、雲雀は先ほどの小さなカップルを思い出して目尻を下げた。
「初恋って」
 その隣で、綱吉がボソリと呟く。
 雲雀が横顔を見詰めていると知った上で、彼は暮れなずむ夕日を睨んだ。どことなく棘のある、険を強めた眼差しに、雲雀は眉目を顰めた。
「叶わないって、良く言うのに」
「そう?」
「そう」
 自分自身はあまり聞き覚えの無くて、雲雀は不思議そうに問い返し、綱吉は即座に首肯した。
 初恋は叶わない。心の中で二度繰り返し、しっくり来ない語感に雲雀は口を尖らせた。
「叶わなかったの?」
「うぐ」
 何気なしに訊けば、ちょっと低い位置から呻き声が聞こえた。
 上下に弾んでいた髪の毛が後ろに行って、足を止めてしまった綱吉を振り返って雲雀が肩を竦める。もう冬だというのに学生服の下は白色のシャツ一枚の彼は、寒そうな格好ながら平然として、たっぷり着込んでモコモコしている綱吉に相好を崩した。
「沢田?」
「そうですよ!」
 早く答えるよう急かし、腕を伸ばして綱吉の頭を叩く。跳ね返して綱吉が喚く。火を噴きそうなくらいに顔面を赤く染めて、彼は悔しげに歯軋りした。
 真一文字に唇を引き結んで、わなわなと拳を震わせる。大きな琥珀色の瞳が熱を帯び、僅かに潤んで艶を増した。
 鮮やかな色彩に目を細め、雲雀はしっとりと微笑んだ。
「誰?」
「ぬ、うぐ」
 叶わなかった綱吉の初恋。興味津々に問われて、彼は口篭もった。
 表情に照れを残したまま、困った様子で俯いて肩に担いだ鞄を前にやって抱き締める。金魚のように口をパクパクさせて酸素を掻き集めて、上目遣いに雲雀の様子を窺って、答えを欲している相手の姿に臍を噛む。
 言わないと許してもらえそうになくて、観念した綱吉は降参とばかりに頭を垂れた。
「幼稚園の、先生」
「へえ」
 至って普通だ。
 母親や、親戚、近所の人以外で初めて接した年上の女性。親身になって世話をしてくれて、色々教えてくれて、遊んでくれる相手に、淡い恋心を抱くのは良くある話だ。
 その初恋が実ったら、それこそ問題があろう。
 薄笑いを浮かべている雲雀を横目で睨み、綱吉は丸々と頬を膨らませた。
 窄めた唇から一気に吐いて凹ませ、大股に足を前に繰り出す。雲雀を追い越して、置き去りにする勢いの彼の拗ねた態度に、雲雀はくっ、と喉を鳴らした。
「そんなに恥ずかしい?」
「恥ずかしいですよ!」
「じゃあ、次は?」
「え?」
「それっきりじゃないでしょ」
「やだ」
 小走りに進んで、並んで問いかける。夕焼けが西の空いっぱいに広がる中、己の影を踏みながら進む綱吉は、平然と聞いてくる雲雀に牙を剥いた。
 初恋の相手だった先生は、卒園前に結婚して辞めていってしまった。
 次に好きになったのは、小学校に入学した時に隣の席になった子だった。けれど話しかける勇気が持てぬまま学年が変わり、クラス替えが来て、教室が別々になってそれっきり。
 そのうちに綱吉とは違う、私学の小学校に通う女の子が近所に越してきて、彼女に憧れるようになった。けれど矢張り声をかけるきっかけがつかめぬまま、彼女はまた違う町へ引っ越していった。
「君って、意外に惚れっぽいんだ」
「悪かったですね」
 しかもどれもこれも、憧れを抱くばかりで行動に移ろうとしない。
 中学校にあがって、京子に恋心を抱くようになった時も、同様だ。リボーンが一肌脱がなければ、綱吉は一生、女子と言葉を交わすきっかけさえつかめぬまま、ダメダメな人生を過ごしていたに違いない。
 こうやって、夕暮れの町をふたりで歩くことも。
「今は?」
 歯茎を見せていー、と顰め面を作った綱吉に苦笑し、雲雀が指を伸ばす。広い頬に張り付いた髪を掬い取って後ろへ流してやり、ついでに耳朶を捏ねる悪戯をして、離れていく。
 一瞬触れた温もりに、胸の中をもぞもぞさせて、即答せずに綱吉は俯いた。
「沢田?」
「惚れっぽいままで居て、いいですか」
「ダメ」
 底意地の悪い彼に、仕返しのつもりでボソボソと言い返す。
 前髪の隙間から傍らを窺う彼に即答し、雲雀はムスッと顔を歪めた。
「ダメ」
 強めの語気で、もう一度。同じ単語を重ねて強調した彼が可笑しくて、ついつい綱吉は噴き出した。
 ぷっ、と息を吐いて目尻を下げて、彼らしからぬ可愛らしい反応にケラケラと声を零す。鞄ごと腹を抱え、怒った雲雀が振り上げた拳から慌てて逃げた。
 三歩前に出てくるりと振り返り、後ろ向きに歩きながら、綱吉は夕日をバックに微笑んだ。
「でも、俺、本当に惚れっぽいですよ」
「沢田」
 許し難い告白に、雲雀の眉間の皺が深まる。ギリリと奥歯を噛み締め、その悪癖は修正するように声を荒げた雲雀に向かって、彼は飄々とした態度で首を振った。
 拒否を表明し、また走り出す。雲雀が追いかけて、細く華奢な腕を捕まえた。
 それ以上行かせず、引きとめて間近に顔を寄せる。
「君はっ」
「だって、俺」
 今綱吉が好きなのは誰で、雲雀が好いているのが誰か、まさか忘れてしまったわけではあるまい。
 罵声を張り上げようと大きく口を開け、息を吸った雲雀の荒々しい瞳を真っ直ぐ見詰め、綱吉は琥珀を細めた。
「毎日ヒバリさんに惚れてるもん」
 くすっと悪戯っぽく微笑み、真剣に怒ってくれた雲雀の鼻をちょん、と小突く。
 呆気にとられた青年は、続けて唇に触れた指先を目で追って、直後苦々しい表情で奥歯を噛み鳴らした。
 自分自身の唇を突いた綱吉が、楽しげに笑って舌を出した。
「さわだ!」
 雲雀が怒鳴り、腕を伸ばす。捕まえた手を握って、無理矢理引っ張る。早足で残り僅かの距離を一気に越えて、閉じた門扉に綱吉の背中を押し当てる。
 目を見張った綱吉が、五秒後に照れ臭そうに頬を染めた。
 沢田、と書かれた表札の真横で、雲雀は鏡のような琥珀を覗き込んだ。
「惚れた?」
「どう、かな?」
 キスの後の楽しげな囁きに、答えをはぐらかした彼はクスクス笑った。

2009/12/16 脱稿