年輪

「はいはーい」
 ぴんぽーん、というやや間延びした呼び鈴の声に背筋を伸ばして返事をし、綱吉は炬燵から足を引き抜いた。
 膝に乗っていたランボと、背中に張り付いていたイーピンを下ろしてリビングを出る。向かいに座っていたフゥ太が、温めた牛乳に息を吹きかけながら、視線だけを持ち上げた。
「誰?」
「さあ」
 買い物に出ている奈々が帰って来たにしては、戻りが早すぎる。それに彼女は鍵を持っているので、わざわざ呼び鈴を鳴らさずとも勝手に中に入ってくるはずだ。
 真ん丸い目をした弟分の問いかけに小首を傾げ、片開きのドアから廊下を窺うが、扉を隔てているので外の様子は当然だが分からなかった。
 ドアの磨りガラスにも、人影は無い。
 沢田家には小さいながら庭があって、門扉から少し歩かなければ玄関に辿り着けない。だから外からベルを鳴らしている人が居るのだろう。
「宅急便か、なにかかな」
 獄寺が遊びに来る時は、余程で無い限り先に電話をくれるが、今のところそれはない。他に誰かが訪ねてくるという話も聞いていない。
 思い当たる節は荷物の配達くらいで、判子を出してからにした方が良いか考えつつ、あまり待たせるのも悪いので、彼は先に廊下を抜けて上がり框から爪先を下向けた。通学用の靴の踵を踏んでスリッパ状にして履き、二つある鍵を上から順に外していく。
 体重をかけてドアを開けると、冷たい風が顔面に突き刺さった。
「うっ」
 反射的に身を竦ませ、肩を強張らせて彼は呻いた。硬く目を閉ざし、早々にドアを閉めたい気持ちに駆られて腕の力を緩める。
 寸前、見えた景色に噛んだ唇を解いて、風に押されて重いドアを思い切り突き飛ばした。
「山本?」
 同時に叫べば、門扉の外に立っていた背の高い青年が、荷物ごと右手を掲げて左右に振った。
「おーっす」
 元気の良い声に寒さなどどこかに吹き飛んでしまって、目を丸くした綱吉は急ぎ外に出た。勝手知ったる他人の家宜しく、山本も綱吉の姿を見た瞬間、左手は閉じられていた門の閂を外していた。
 庭の、丁度真ん中で合流を果たし、綱吉は見上げなければいけないのを悔しく思いながら、山本の前で二度飛び跳ねた。
「どうしたの?」
 両手は背中に回して結び、下から覗きこんで問う。彼は右手にぶら下げた紙袋を揺らし、落ち着きがなくそわそわしている親友の頭を軽く小突いた。
 一度は閉まった玄関のドアから、フゥ太を筆頭に、現在沢田家に世話になっている子供たちが三人、団子になって外を窺っていた。一番下にいるイーピンが山本を指差して何かを言ったが、生憎とこの中で中国語が分かる者はひとりもいない。
「とりあえず、入って」
「ああ、悪い」
 会って直ぐ終わる用事なら、山本はわざわざ庭まで入って来ない。だから簡単な用件ではなかろうと判断し、綱吉は家を指差して言った。
 山本も礼を言って頷き、歩き出した綱吉に続いて屋内に入った。ドアが閉ざされると風が止んで、ホッとする温もりが彼らの頬を撫でる。点けっ放しのテレビの音が廊下に響いていて、見ていないなら切ってくるよう言い、綱吉は脱いだ靴を片側に寄せた。
 出来上がった空間に山本が滑り込み、ひとり分靴が足りないのに気付いて視線を浮かせる。
「おばさんは?」
「買い物。なに、母さんに用だった?」
 まとわりついてくるランボを押し退けた綱吉が、質問に振り返って笑った。珍しいこともあるものだと表情が告げているが、そうではないと首を振り、山本は持っていた紙袋を前に差し出した。
 仕草から手渡そうとしているのは容易に知れて、両手を伸ばした綱吉が、大きくて少し重い袋を受け取った。中を覗きこむと、オレンジの縞が走った白い箱が見えた。
「なになにー?」
 小さな子供たちも早速興味を示し、ズボンやシャツの裾を抓んで引っ張ってくる。
 トレーナーが伸びるのを嫌がり、身を捩って追い振り払った綱吉は、答えを求めて山本に視線を投げた。
「ん。店のお得意さんがくれたんだけど、うちじゃ食べないから」
 紐を解いて左から靴を脱いでいた山本が、目線だけ持ち上げて手短な説明を加えた。
 具体的な品名は解らないままだが、兎も角食べ物だというのは分かった。途端、食い意地の張った五歳児が歓声を上げ、綱吉から袋ごと奪い取ろうと飛びあがった。
「あ、こら」
 寸前で気付いて腕を高く掲げ、届かない場所まで持ち上げて避ける。綱吉の腰にタックルして来たランボは、ズボンにしがみ付いたままずり落ち、涙目で人の顔を睨んだ。
 イーピンが彼を叱るが、何を言っているか解らないので効果は低い。
「はは。おばさん居ないんじゃ、切り分けられないかな。バームクーヘンなんだけど」
「へえ」
 斜めに傾いた袋の底を反対の手で支え、綱吉は緩慢に頷いた。
 山本の家は寿司屋を経営しており、彼も時々手伝っている。並盛で寿司屋、といえば竹寿司が出て来るくらいに有名で、毎日大勢の客で賑わっていた。
 その常連客が、気前良く贈ってくれたのだという。しかし山本の父親は和菓子なら兎も角、洋菓子はあまり好きではないようで、置いてあっても食べないのだそうだ。
 ひとりで食べるには量が多くて、けれど折角貰ったものなので腐らせてしまうのも悪い。そこで子供の多い沢田家にお裾分けすることに決めたと、山本は人好きのする笑顔を浮かべた。
 一連の説明に、空腹を抱えていた子供たちの間からはおぉ、というどよめきが起こった。
「でも、いいの?」
「なにが」
「だって、これ、本当は山本が貰ったものなのに」
 思いがけない菓子の差し入れは嬉しいが、悪い気もする。山本は好き嫌いがなくて、甘いものも辛いものも平気だ。バームクーヘンだって、その気になればひとりでぺろりと平らげてしまえるくらいの胃袋を持っている。
 はしゃいでいるランボを他所に、申し訳なさそうに訊いた綱吉の頭をまた小突き、山本は気にしなくて良いと目を細めた。
「こういうのはさ、大勢で食べるのが美味いだろ」
「そっか。ありがとう」
 額を押されて姿勢を後ろに傾けた綱吉が、紙袋を大事に抱え込んではにかむ。オヤツが待ちきれない五歳児の五月蝿さにも辟易して、彼は右の人差し指を立てた。
「いち、にぃ、さん……リボーンと、ビアンキと、あと母さんもいるから」
 黄色いおしゃぶりをぶら下げた赤ん坊と、その愛人を宣言している女性も今は不在だ。このふたりを含めると、全部で八人。
 指折り数え、分けやすい数になってよかったと綱吉は胸を撫で下ろした。
「ツナ兄、早く。早くー」
「分かった、分かったからちょっとだけ待って」
「大丈夫か?」
「平気だよ、それくらい」
 フゥ太も嬉しさが堪えきれず、ついに綱吉の手を掴んで甲高い声を上げた。自分で切り分けるつもりでいる彼に山本は不安になったが、難しい料理を作るわけでもなし、問題ないと綱吉は頷いた。
 果たして、無事に、とは少々言い難いけれども、真ん中に穴の開いた丸太状のバームクーヘンは、大きさがまちまちながら八等分され、子供らの前に姿を現した。
 元が大きかったので、切り分けてもかなりのボリュームがある。白い小皿いっぱいの年輪模様を見下ろして、フォークを片手にちびっ子は大はしゃぎだ。
「いただきまーす!」
「ちゃんと山本にお礼言ってからな」
 早速食べようと元気一杯に叫んだ彼らにちくりと釘を刺し、綱吉は炬燵の上座で胡坐をかいている青年に目配せした。そこまで気を使ってもらわなくても良いのにと山本は苦笑したが、一斉に「ありがとう」と言われて、悪い気はしない。
 一緒に用意された熱い紅茶に先に口をつけ、咥内を軽く漱いで湿らせてから幾重にも重なった生地に沿ってフォークを突き立てる。
 ランボは塊のまま豪快に口に運び、食べ滓をいっぱい零して行儀が悪い。イーピンとフゥ太は小さく切り分けてから食べており、性格の差がはっきりと現れていた。
「うん、美味しい」
 最後にフォークを持ち上げた綱吉が、しっとり焼きあがったバームクーヘンの切れ端を口に入れて数回咀嚼する。久しぶりに食べた気がすると嘯き、年輪の外側に塗られた砂糖を舐めて嬉しげに目尻を下げた。
 食べている間はランボも静かで、暫くの間、食器がぶつかり合う音だけがカチャカチャと響いた。
「ツナ、もっとー」
 そして一番目に食べ終えたランボが、足りないと言って空になった皿を持ち上げた。彼の口の周囲、及び炬燵の上にはボロボロと崩れた滓が散らばっており、それらを集めるだけでも結構な量になりそうだった。
 もっと丁寧に食べていれば、こんなことにもならないのに。せっかちな彼に大きく溜息をつき、綱吉は奪われないよう自分の皿をランボから遠ざけた。
 途端に幼子は頬を膨らませ、もっと寄越せと騒ぎ立てる。しかし此処で分け与えてやると調子に乗って更に欲しがるので、心を鬼にして綱吉は彼を無視した。
「ツナのケチー!」
 まだ全部食べ終えていないのは、綱吉と、イーピンと、そして山本のみ。綱吉に断られた彼は思い切り人の腰を蹴り飛ばし、その反動を利用してイーピンに飛びかかった。だがそうなることを読んでいた彼女に手痛い一撃を食らい、頭に大きなタンコブを作って大声で泣きじゃくった。
 五月蝿いことこの上なく、何度目か知れない溜息を零し、綱吉は最後のひと欠片を口に入れた。
 流石のランボも、客人である山本にまではせびりにいかない。指を咥えて涎を垂らし、しょんぼりしながらリビングを出て行った。
「母さん達の、食べちゃダメだぞ」
「いーっ、だ」
 今は居ない三人の分は、ラップをかけて冷蔵庫の中だ。そちらに手を出しに行くかと思って声を荒げた綱吉だったが、ランボは扉を潜る直前に顰め面で振り返り、走って階段を登っていった。
 疑って悪かったと、謝る暇さえなかった。
「俺の、分けてやればよかったかな」
「いいよ。ランボはもうちょっと、我慢を覚えないと」
 微妙に気まずい気持ちになって、浮かせた腰を落とした綱吉に山本が呟く。緩く首を振って彼の提案を断り、もそもそと炬燵の中で足を伸ばした彼は、なかなか食べ終わらないでいる傍らの人物に小首を傾げた。
 フゥ太とイーピンが使い終えた食器を片付けてくれたので、炬燵の上は一気に物寂しくなった。ふたり分の紅茶と、ひとり分のケーキの皿だけが残される。
 山本のバームクーヘンは、まだ半分も減っていなかった。
「……嫌い?」
「いや」
 野球部で活躍する彼は大飯食らいなので、大きめに切った分を渡したのだが、余計なお世話だったろうか。不安になって声を潜めると、彼はフォークをくるりと回し、首を横に振った。
 ランボを追いかけ、子供たちは二階へ上がってしまい、広いリビングには今やふたりだけだ。
 駆け回っているのだろう、どんどんと天井が音を響かせる以外は至って静かで、それがやけに落ち着かない。もうちょっと時間をかけて食べるべきだったと、もう片付けられて残っていない自分の皿を思い出し、綱吉は炬燵布団の下で両手を握り合わせた。
 山本は無言のまま、フォークを器用に操って、バームクーヘンの薄い層を削り取った。
 外輪部分は丸々残されており、表面をコーティングした白い砂糖の層もそのままだ。内側から、外側へ。少しずつ穿りだしているので、湾曲した形状も綺麗に残されている。
 一風変わった食べ方に、綱吉は目を瞬いた。
「山本」
「んー?」
 横倒しにした薄い膜をフォークで折り畳み、真ん中を突き刺して口の中へ。そんな面倒な事をやっているから、なかなか先に進まない。
 いつもはランボ同様、食べ物は大口を開けて豪快に食べる彼なのに、珍しい。率直な感想を述べた綱吉に、山本は噛み砕いたケーキを飲み込んで肩を竦めた。
「そうか?」
「だって、山本って、もっと大雑把っていうか……あ、悪い意味でじゃなくてね」
 こんな風にちまちまと食べるようには見えないと言いたかったのだが、言葉の選択を誤った。慌てて言い繕い、顔の前で手を振った綱吉に笑いかけ、山本は作業の手を止めて紅茶を啜った。
 もうかなり温くなっている液体で喉を潤し、少し考え込んだ彼は深く息を吐きながらカップを置いた。濡れた縁をなぞって拭い、一度だけ肩を上下させて照れ臭そうに傍らを見る。
 細い目で見詰められ、綱吉は僅かに緊張した面持ちで足を揃えた。
「いや、さ。別に意味はねーんだけど。ガキん頃に、これってどうなってるんだろうって気になって、それからかな」
 幼い頃の癖が未だに残って、バームクーヘンを前にするとどうしてもこの食べ方をしてしまうのだ、と彼は鼻の頭を掻いた。
「それだけ?」
「それだけ」
 あまりにも意外な、理由らしい理由もない説明に、綱吉はきょとんと目を丸くした。素っ頓狂な声を出して聞き返すが、深く頷かれて次に繋ぐ言葉が思いつかない。
 そういうものなのかと視線を斜めに流して腕を組み、分かったような、分からなかったような顔をして、二度頷く。
「結構面白いぜ。綺麗に捲れると、良くわかんねーけど嬉しいし」
「あは、確かにそれはちょっと、あるかも」
 取り立てて凄いことではないのだが、上手に剥ぎ取れると楽しい。その気持ちなら少しは分かって、綱吉は声を弾ませ、背中を丸めて炬燵に頬杖をついた。
 山本が次の層に挑戦する様を静かに見守り、成功するのを心の中で祈る。
「あんまり見るなって」
「いいじゃん」
「緊張する」
 だが山本は気になるようで、炬燵の下で綱吉の足を蹴ってきた。思わずやり返すが、短く言われて、彼突き出そうとしていた肘を引っ込めた。
 そう言われてしまうと、綱吉は黙るしかない。仕方なく目線を脇へ逸らすが、どうしても気になってチラチラ盗み見るのを止められない。
 山本の緊張が乗り移ったかのようで、伸ばした足の先が痺れた。
「おっし」
 無事に剥ぎ取れたのだろう、山本の気合の篭もった声が聞こえた。
「俺も、次からそうしようかな」
「はは。止めとけって」
「どーせ、俺は不器用だよ」
 バームクーヘンを食べる機会が次に何時やってくるかは分からないが、覚えておこうと思う。ただ無機質に食べるよりも楽しめそうだと思ったのに、山本に笑い飛ばされて綱吉はむっとした。
 細かい作業が苦手なのは本当だけれど、決め付けられるのは癪に障る。
 頬を膨らませて拗ねていると、炬燵の中で、山本の足が綱吉の脛を撫でた。
「そんな事ねーって。面倒臭いだけだぜ」
 自分を棚に上げて言い、剥いだ皮を口に入れる。少ない咀嚼で飲み込み、息を吐いた彼はかなり薄くなったバームクーヘンに目を眇め、皿の縁をフォークで叩いた。
 もう少しでゴールに辿り着く。厚みと高さのバランスが崩れ、ちょっとでも力加減を誤ると倒れてしまいそうだった。
 砂糖が塗された白い面を見ていると、今し方自分も食べたばかりだというのに、咥内に唾が溜まってくる。ランボに通じる意地汚さを恥じ、綱吉は太腿の上に両手を揃えると、無理をして山本から視線を外した。
 挙動不審な彼の態度に苦笑し、山本は焼け色のついた生地を眺めた。
「さっき、ツナ、俺のこと大雑把つったけど」
「え? あ、……ごめん」
 悪気があって言ったのではないのだが、根に持たれていたらしい。即座に視線を持ち上げて振り向き、謝罪を口ずさんだ彼に首を振り、山本はフォークを一旦置いて温い紅茶に口をつけた。
 舌に残る甘みを洗い流し、人心地つかせて居住まいを正す。
 ほう、と息を吐くと、続きを待って神妙な顔をしている綱吉を目が合った。
「いや、うん。確かにそういう面もあるしな」
 何処となく居心地悪そうに身を捩った彼に笑いかけ、山本はカップを置いた。入れ替わりにフォークを利き手に握り、厚み一センチを割り込もうとしているバームクーヘンに先端を向ける。
 此処まで来ると最早原形を留めず、これだけ見せられたら元がなんであったか、直ぐには分からないかもしれない。
 リボーンであれば、食べ物で遊ぶな、と叱るだろうか。
「悪口言われたって思ってないから、安心しろよ」
 むしろ綱吉が、自分に対してどういう印象を抱いているのかが分かって、新鮮だった。大雑把、という言葉にあまり良い意味は含まれていないけれど、大らかである、と解釈して間違いなかろう。
 実際綱吉も、直ぐに言い直してくれている。単に言葉が思い浮かばなかっただけだ。
「こういう細かい、みみっちいことするって、思ってなかった?」
「う、うん。その……ごめん」
 一枚ずつ剥いでいく、その食べ方はこれまで綱吉が抱いてきた山本武という人物像に相反している。彼なら豪快に、齧り付くくらいの勢いを見せてくれると、誰だって期待するだろう。
 だけれどそれは、綱吉の決めつけだった。知りもしないで、彼を分かったつもりでいた。
 軽く落ち込み、重ねて謝罪の言葉を告げる。山本は呵々と笑い、本来の厚みの五分の一以下になったバームクーヘンにフォークを突き刺した。
 ゆっくり、倒さないよう慎重に、注意深く。見守る側が息を止めて拳を作ってしまうくらいで、五秒後に息苦しさからハッとした綱吉は、恥かしそうに頬を染めて俯いた。
「おっし、新記録樹立……かな?」
「覚えてるんだ?」
「さあなー、どうだったろ」
 皿に横たわった薄い一枚を口に運びいれ、噛み砕きながら山本は目線を上向かせた。曖昧な返答に、身を乗り出しかけた綱吉が首を傾げ、斜めになっていた姿勢を戻した。
 炬燵に熱せられた足を端にやり、殆ど聞こえなくなった二階からの子供たちの声に耳を澄ます。妙な事をしていなければいいが、少し不安になった。
 後で様子を見に行った方が良かろう。勝手に人の部屋に潜り込んで、教科書やノートに落書きでもされていたら堪らない。
「俺って、そんなに雑かな」
「え?」
 気持ちが他所に向かっている間に、山本が不意に呟く。掠れるほどの小声で、危うく聞き逃すところだった綱吉は慌てて彼に顔を向けた。
 なにやら思い悩んでいる様子が窺える彼の横顔に、綱吉は誰にも見えない場所で膝をぶつけ合わせた。
「そんな事は」
「でも、そうかもな。あんまり難しいこととか、考えるの苦手だし」
 左腕を後ろにやり、そこに体重を預けて背筋を後ろに逸らした山本が、白い歯を見せて笑った。
 その笑顔がどこか寂しげで、落ち込んでいるようにも見て取れて、綱吉は胸元で右手を握り締め、唇を噛んだ。
「で、でもさ」
 大らかで包容力があり、人間味に溢れて誰とでも仲良くなれる。好きと嫌いの領分がはっきり分かれているが、好きの範囲の方が遥かに広い。
 それが、綱吉が持つ、山本のイメージだ。大勢から慕われ、頼りにされ、好かれている。友人が少なかった綱吉にとって、彼の存在は憧れであると同時に誇りだ。
 言葉を選びながら、次第に高揚する気持ちを押し殺して訴える綱吉に最初はきょとんとしていた山本が、ふとした瞬間はにかんで、照れ臭そうに鼻の頭を掻いた。
「俺、そんなスゲー奴じゃないんだけど」
「でも! 俺の中じゃ、山本は、ホントにいい奴で、だから、えっと」
「ありがとな」
 深く信頼されているというのは、不器用な説明でも充分に伝わってきた。胸の中がほっこり温かくなり、気恥ずかしいのと嬉しいのとで、うまく笑えないのが残念でならない。
 はにかんだ彼の細められた目に綱吉は琥珀を見開き、直後自分で言った内容を頭の中で反芻させ、赤い顔を両手で隠してしまった。
 身を捩って照れている彼から視線を外し、置き去りにされているバームクーヘンの残骸を見やる。山本はフォークを逆手で握ると、思い切ってそれを押し倒した。
「山本?」
「なんか、もったいねーし」
 今まであんなに頑張って薄皮を捲りながら進めて来たのに、意外にあっさりと諦めてしまった。
 不思議そうに小首を傾げる綱吉に肩を竦め、山本は理由になっているようでなっていない台詞を吐き、細長い皮を三つに切り分けた。
「それに俺、ツナが思うほど聖人君子じゃねーし」
 大きさがバラバラの三つを重ね合わせて真ん中にフォークを突き立てて、持ち上げる。口に入れる寸前彼が言った台詞に、綱吉は眉間の皺を深くした。
 話が繋がらない。意味が解らないと説明を求めて彼を見るが、山本は気にする様子もなく、綱吉が思い描く彼の姿通り、大口を開けてバームクーヘンをひと息に食べてしまった。
 モグモグと咀嚼して、一気に飲み込む。綱吉の倍近くありそうな喉仏を上下させた彼は、唇の端についた滓も舐め取って、フォークを置いた。
「山本?」
 怪訝にする綱吉に笑って誤魔化し、彼は完全に冷めてしまった紅茶も飲み干した。ご馳走様と両手を叩き合わせ、さほど膨らんでいない腹を撫でて満足そうに微笑む。
 釈然としない顔で綱吉は膝を叩き、使った食器の片付けに立ち上がった。
「俺、そんなに良い奴じゃないぜ」
 彼の後姿に向かってひとりごち、山本は頬杖ついて炬燵に寄りかかった。
 物事を深く考えないのは、考えすぎて深みに嵌るのが嫌だからだ。どんなに思索を巡らせようとも、解らないものはどうやったって分からない。
 袋小路に迷い込みたくないから、考え始める前に思考を放棄してしまう。そうすればとても楽だと、ある時気付いてしまった。
 知りたい気持ちは無数にある、教えてくれないことへの猜疑心もある。けれど綱吉が懸命に隠そうとしている事を、自分から暴きに行って嫌われるのはもっと嫌だ。
 出来るものならば彼を丸裸にしてしまいたい。幾重にも衣を纏ったケーキのように、一枚ずつ薄皮を剥ぎ取ってやりたい。
「ちぇ」
 これが惚れた弱みというものか。
 炬燵の中に両手も突っ込み、背中を丸めて彼は口を尖らせた。
「さっさと言えよな、ツナ」
 ごっこ遊びではないのだと、早く認めてしまえばいいのに。
「もっと俺のこと、巻き込めよ」
 ひとり嘯き、彼は冷たい天板に額を押し当てた。

2009/12/12 脱稿