屈託

 遠慮がちなノックの音でふと我に返り、没頭していた作業の手を止めて獄寺は顔を上げた。
 咥えていた煙草の灰はいつしか長くなり、あと少しで唇まで燃えてしまうところだった。それに気付いた彼は返事をするより先に、すっかり吸い尽くしたシケモクを灰皿に押し込んだ。
 吸殻はこんもりとした山を成し、銀色の円盤を埋め尽くしている。今にも雪崩を引き起こしそうな状態で、そろそろ捨てなければ拙いと思うのだが、どうにも行動を起こす気になれなかった。
「おっと」
 手は無意識に胸ポケットを探っていて、次の煙草を取り出そうと動いていた。そこへまたノックが聞こえて、客人があったのを思い出し、彼は急ぎ立ち上がった。
 胡坐を組んでいた膝に置いていたものが、ごちゃごちゃと滑り落ちていく。床に敷いて広げたわら半紙の上から退いて靴を履き、軽く着衣を叩いて汚れを落として、最後に乱れた髪の毛を手櫛で整える。
 戸口に向かう途中でちらりと見た、棚のガラスに映った彼の姿は、貧乏臭い技術者の顔になっていた。
「参ったな」
 しかしドアのノックは続いており、顔を洗ってくる暇も与えてもらえない。仕方ないかと諦め、彼は黒ずんだ手もそのままに頑丈なドアの前に立った。
 スイッチひとつで開閉する扉は、今はロックしているので内側から操作しないと開かない。
「はい」
 時計は見なかったが、もう随分と遅い時間の筈だ。夕食後にひとり部屋に引き篭もってからかなり過ぎている気はするが、あれから何時間経っているのか、正確な数字は思いつかなかった。
 ともあれ、深夜であるのは間違いなかろう。そんな時間に訪ねてくる物好きは誰なのか、好奇心が疼いた。
 返事の末に施錠を外すべくボタンを押す。即座にぷしゅっ、という空気の抜ける音がして、目の前の扉が右に滑っていった。
 ドアポケットに収納された一枚板から目線を戻し、正面を見る。角度を若干下向きに調整すれば、鮮やかな稲穂が軽やかに揺れていた。
「十代目?」
 蜂蜜色の髪の毛を其処に見出し、獄寺は僅かに声を上擦らせた。
 半歩下がり、距離を作って改めてドアの前にいた人物を見詰める。あまりにも吃驚し過ぎた為か、綱吉は若干恥ずかしそうに照れ笑いを浮かべた。
 長袖のパーカーに、裾を絞ったスウェットのパンツ。リラックスできる服装は、就寝時の格好そのままだ。
「こんばんは」
「あ、はい。こんばんは」
 開口一番言われて、獄寺は面食らったまま頷いた。鸚鵡返しに夜間の挨拶を口ずさみ、目を眇める。
 彼の手には盆が握られていた。茶色の、丸盆だ。その中央には、湯気を立てるコップがひとつ。
 透明なガラスの三分の二が、白い液体で埋まっていた。綱吉が動く度に、震動を受けてちゃぷちゃぷと表面が波立つ。格別匂いはしないが、温められた牛乳だというのは、想像がついた。
「邪魔した?」
 それと、これと、繋がらない。綱吉が訪ねて来た理由が分からずにきょとんとしていると、彼はやや臆した様子で、上目遣いに訊ねて来た。
 咄嗟に首を振り、目に掛かる前髪を横に払い除ける。後ろで結んだままだった紐を解くと、癖がついた毛先が襟足に踊った。
 軽く撫でて形を整えてから、黒く汚れた手を背中に隠す。彼の無言の否定に、綱吉はホッとした様子で頬の緊張を解いた。
 緩んだ表情につられ、獄寺もはにかんだ。こんな戸口に立ちっ放しで会話するのもどうかと思い、部屋の奥へ導こうとして寸前で思いとどまる。腰を捻りかけた半端なところで動きを止めた彼に、前にでかかった足を引っ込めた綱吉は首を傾げた。
「獄寺君?」
「すみません、十代目。何か御用でしょうか」
 室内に招き入れるのを止めて、向き直る。道を塞がれた綱吉は、僅かに顔を顰め、口を尖らせた。
 盆の上のミルクが揺れる。まるで彼の心をそのまま表すかのように、荒々しく。
「用って程じゃない、けど。獄寺君、まだ起きてるんだって思ったから」
 拗ねた表情をして、彼は踵で廊下を叩いた。
 綱吉自身、何故獄寺を訪ねようと思ったのか、その理由が巧く説明出来ないらしい。苛立った様子に気付かれぬよう嘆息し、彼は銀髪を撫でた。
「どうして、俺が起きていると」
「通り掛かったら、明かり、漏れてたから」
 質問を変えると、幾分ホッとした様子で綱吉は上唇を舐めた。途切れ途切れに告げられて、獄寺は自分たちが立つ場所を見下ろした。
 ドアの下には、僅かに隙間がある。廊下が明るいと分かりづらいが、消灯時間になると天井のライトは一斉に消えて常夜灯のみの薄暗さになるから、室内の照明が灯っているのが分かったのだろう。
「そうですか」
「うん」
 納得して頷けば、綱吉も首肯した。そしてまた会話が途切れて、気まずい空気がふたりの間を漂った。
 綱吉が眠る直前だったのは、格好を見れば分かる。廊下に出た理由は、寝入る前のトイレを済ませるつもりだったというのも、想像できた。分からないのは、彼が持つ温かなミルクだ。
 コップになみなみと注がれたそれを自分で飲むつもりならば、コンロや流し台のある台所で済ませるのが最も手っ取り早い。部屋で飲むにしても、ならば冷める前にさっさと自室に戻るべきで、此処で立ち話をする余裕はない筈だ。
 だから、とそこまで思考を巡らせて、獄寺は綱吉がやたらと室内を気にしている素振りに眉を寄せた。
「十代目?」
「タバコ臭い」
「あっ。……すみません」
 さっきまで吸っていたので、臭いが服に染み付いてしまっていた。顰め面で言った綱吉から慌てて退き、獄寺は着ていたシャツの裾を引っ張った。
 その隙に、綱吉が出来上がった隙間から身を滑らせた。室内に足を踏み入れると、人がいなくなったと探知したセンサーが自動的にドアを閉める。獄寺の前で、ドアポケットから飛び出した扉が音立てて滑っていった。
「うわっ」
 吃驚してしまい、仰け反った彼の後ろで綱吉がさほど広くない部屋をゆっくりと見回す。
 内装は、ないに等しい。機能性を重視して至ってシンプルで、悪く言えば面白みが足りない。綱吉が使っている個室と間取りも同じで、家具はベッドと収納棚と、あとは作業台があるくらいだ。
 天井の角に設置された排気口が、低い唸り声をあげて懸命に室内を換気していた。ベッド脇の床にわら半紙が広げられて、そこに様々な工具が無秩序に散らばっていた。
 中央に、開匣済みの匣がひとつ。収納されていたものが、その隣に。
 髑髏を模った装飾が施された手甲だ。細長い胴体部分がスライドして、そこに弾薬を装填する。発射口は髑髏の口で、其処を大きく広げるか、狭くするかで、射出される炎の角度や威力も変わって来る。
 今は分解されて、パーツの一部が取り外されて床に並べられていた。下手に触れて紛失騒ぎになるのだけは御免で、近付かず、綱吉は作業台に向かった。
 そちらは使われておらず、不要な工具が端に揃えられているだけだった。
「調整中?」
「あ、はい」
 この匣兵器を愛用している獄寺が、これを壊すわけがない。だから自分が使いやすいようにカスタマイズしている最中なのだと当たりをつけて問えば、彼は数秒の間を置いて首を縦に振った。
 盆を置いた綱吉が、振り返って淡く微笑む。その表情ひとつで疲れが抜けていくようで、獄寺は頬を赤く染め、照れ臭そうに笑い返した。
 しかし二秒後、愛しい人の表情が曇り、険しくなる様についていけず、彼は頭を掻こうとしていた手を肩の位置で泳がせた。
「十代目?」
「吸い過ぎ」
 急変した彼に動揺が隠せず、声が上擦った。怪訝にする獄寺に綱吉はばっさり言い切り、作業台に寄りかかって足の先でわら半紙の上に並ぶ品の一画を指示す。
 焦げ跡の残る其処には、銀色の灰皿が置かれていた。
 こんもりと積み上げられた吸殻を作ったのは、誰なのか。此処が個々人に与えられた私室であり、他の誰かが居座っていたのではない限り、これらは全て獄寺の手で押し込まれたものだ。
 そもそもこのアジトで、喫煙者は他にいない。いるとすれば草壁くらいだろうが、彼はボンゴレではなく、雲雀が率いる風紀財団側の人間だ。
 ひと箱やふた箱程度では、こんな量にはならない。これ全てが今日一日分の喫煙量だとは、流石に綱吉も思っていない。ただ部屋全体にまで染み付いた臭いが、彼が部屋に篭もっている間は煙草を友としている状況を物語っていた。
「いや、その。これは」
「煙草が体に良くないの、前から言ってるよね」
「それは分かってます。ですが」
 十年後の世界にやってきて暫くの間、彼は禁煙していた。だがそれは、手持ちの煙草が尽きてしまって次が手に入らないから、という状況に甘んじていただけらしい。
 地下のアジトを拠点として活動を開始して、少しして。ニコチン切れを起こしていた彼の為にと、ジャンニーニが余計な気を利かせて買い与えてしまったが為に、彼の禁煙生活は一週間と経たずに終了してしまった。
 綱吉はそれが不満だった。出来るだけ吸わないようにと、口を酸っぱく言い聞かせておきながらこの有様で、腹立たしくて仕方が無い。
 ただ、これまでにも何十回と怒っておきながら変化が見えないので、些か疲れてしまった。人を説教するにもエネルギーが必要で、眠る前に心をささくれ立てたくない心理も働き、彼は薄茶色の髪をくしゃりと掻き回して肩を落とした。
「まだやるの?」
「え? あ、そうですね」
 溜息ひとつで気持ちを切り替え、顔を上げて問いかける。間の抜けた顔をして一呼吸置いた獄寺は、分解中の武器に視線を流して考え込んだ。
 彼のことだから、一区切りつくところまでやりたいと考えているのだろう。しかし、もう夜も遅い。本人は気付いていないかもしれないが、もう日付が変わる時間帯だ。
 リボーンが設定した子供達の就寝時間は、夜十時。とっくに過ぎている。
 眠れなくて、気晴らしも兼ねて食堂に出向いた綱吉は、道中で明かりのついている部屋を見つけた。了平や山本の部屋は真っ暗で、耳を澄ましても物音ひとつ響かない。ただ、獄寺の部屋のみが違っていた。
 凝り性で、妙なところに拘りを持つ彼だから、ひとつのことに取り組み始めたら寝食を惜しまないところは、技術者組のメンバーに似ている。彼の武器はトリッキーなものが多く、細かな微調整が必要となる品揃いだから、特にそう感じるのかもしれない。
 了平や綱吉の拳に、山本の刀、雲雀のトンファーといった、直接敵を打ち負かす武器とは違い、彼は中・遠距離攻撃を得意にする。いざと言う時に動作不良を起こされでもしたら大問題で、こまめに整備と点検が必要なのも、分かる。
 分かるが、かといってあまり根を詰めすぎるのもどうかと思う。
 僅かに表情を暗くして、綱吉は両手の指を絡ませた。緩く握り、人の存在も忘れて考え事を開始した横顔を見詰める。
 真剣な姿は時としてとても男らしいが、今の綱吉には切なさしかもたらさなかった。
 人知れず溜息を零し、彼は腰を捻って作業台に置いたガラスのコップを見下ろした。湯気の数は減り、手鍋で沸騰直前まで温めた熱はかなり下がっているだろう。表面には膜が張って、端の方が引き攣ったように皺になっていた。
「駄目だよ、寝なきゃ」
「寝ますよ、終われば」
 右の太腿に両手を置いた綱吉の言葉に、振り返った獄寺が即座に切り返してくる。それは、終わらなければ眠らないのと同義なのに、彼は気付いていないのだろうか。
 頬を膨らませて不満を表明するが、獄寺は聞き入れない。
「ご心配なく、十代目。ちょっとくらい眠らなくても、問題ありませんから」
 徹夜くらいなんでもないと胸を張られても、褒められない。方向性を間違えている獄寺に顰め面で返し、綱吉は作業台に浅く腰を置いた。
 綱吉の不機嫌に一寸だけ気後れした顔をしながらも、獄寺は撤回する意思を見せなかった。
 ズボンの汚れを払い、腰を屈めて落ちていた部品を拾いあげる。顔の前で角度を変えてしつこいくらいに眺めてから、彼は何かを思いついたらしく、急に「そうだ」と声を高くした。
 作業台に腰掛けていた綱吉は一瞬ビクリとしたが、自分に話しかけたのではないと二秒後に理解し、ほうっと胸を撫で下ろした。
 彼は綱吉が此処にいるに関わらず、膝を折ってわら半紙にしゃがみ込むと、靴を脱ぎ捨てて本格的に腰を下ろしてしまった。散らばるパーツの真ん中に出来た空間に陣取り、手探りで別の部品を見つけ出して先ほどの物と重ね合わせる。
「獄寺君」
「ちょっと待ってください。こいつを、こう……で、こっちをこうすれば」
 呼びかけると遮られて、背中を向けたまま振り向きもしない。手際が良いのか悪いのか、彼はブツブツ言いながら何度か小さなパーツの組み立てを実行し、気に入らないと分解してまた違う組み合わせ方に挑戦していた。
 思わず溜息が零れて、綱吉は無機質な天井を仰いだ。
「冷めちゃうな……」
 折角持って来たホットミルクも、出番が与えられずに寂しそうだ。
「待てよ、違うな。こうだろ、それであっちが、こうなって、ってことは、だ。あれ、どこ行った」
 前方では相変わらず獄寺がひとり作業に没頭し、見失ったパーツを探して右手を右往左往させた。
 整理が行き届いているとは言い難く、わら半紙も彼が動くたびに引きずられてガサガサ言うものだから、隙間にもぐりこんでしまうパーツも出ていた。
 ちょこまか動く彼を眺め、綱吉が欠伸を噛み殺す。右腕を高く掲げて後ろへ反らしていると、衣擦れの音ではっとした獄寺が、四つん這い状態でわら半紙を捲りながら顔を向けてきた。
 忘れていた存在を思い出し、気まずげに苦笑を浮かべて足場を元に戻す。
「あの、十代目は、いつまで」
「君が寝るまで」
 綱吉が訪ねて来た元々の用件をも聞いていなかったと、根本的な事も忘れていた自分に恥じ入り、彼は遠慮がちに問うた。
 途端にムッと頬を膨らませ、半ば意固地になった綱吉がつっけんどんに言い放つ。彼は流石に目を丸くし、とんでもない、と首を振った。
「そんな。当分終わりませんので」
 部屋に戻って眠るように言外に告げるが、綱吉は聞き入れない。
 放っておけば、獄寺は本気で徹夜をしかねず、それが原因で体調不良でも起こされでもしたら大変だ。だから獄寺がちゃんとベッドに入って布団に包まるのを確かめるまでは、此処にいる。
 ムキになって捲くし立てた彼に閉口し、獄寺は困ったように銀髪を掻き乱した。
 思案気味に眉を寄せ、少ししてから決断した眼差しで首を振った。
「いいえ、矢張り十代目は部屋にお戻りください」
「嫌だってば」
「十代目」
 昼間はランボと了平を相手に、この時代での戦いに必要不可欠な匣の扱い方について教えている彼には、自分の時間というものがあまりない。方向性の全く違う二人を同時に扱うのは大変だろうし、子供にも分かり易く説明する為に、彼は知恵を絞っている。
 限られた時間を有効に使いたい。そして彼が見出した最も活用し易い時間が、睡眠時間だった。
 己の体力さえ堅持出来れば、多少眠らずとも平気だというのは綱吉も知っている。けれど気付いた以上、見逃せない。彼が徹夜で作業するのはこれが初めてではない雰囲気に、綱吉は唇を噛んだ。
 悔しげにしている彼を見上げ、獄寺は言葉を探して視線を泳がせた。頬を手の甲で擦り、黒ずんだ油汚れに後から気付いて肩を竦める。
「聞いてください、十代目」
「……なに」
「俺は、平気です。それに、元々俺は夜型でしたし」
「そういう問題じゃない」
 彼が綱吉と並ぶ遅刻魔で、朝はいつも眠そうだったのを思い出す。だけれど、それとこれとは話が別だ。今はあの頃とは違う。少しでも体を休め、疲れを取り除き、体調を整えておくべきなのだ。
 腹立たしさを押し殺し、低い声で言った綱吉に微笑み、彼は手元の匣兵器を撫でた。
 とても丁寧で、愛しんでいると分かる手つきに、綱吉はついムッとなった。軽い嫉妬を覚える。自分がこれだけ懸命に訴えているというのに、獄寺は武器の方が大事なのか、と。
 渦を巻く汚らしい感情に胸が痛む。本当に一瞬だけだったが、彼の手から匣兵器を取り上げ、粉々に打ち砕いてやりたい気持ちになった。
 服の上から左胸をぎゅっと掴み、堪えた彼の心情を知らず、獄寺は前髪の隙間から覗く澄んだ瞳をやんわりと細めた。
「俺、実を言うと……あんまり腕力ないんです」
「……うん?」
「十代目や、悔しいですが野球馬鹿や芝生頭のように、直接敵に殴りかかるなんてこと、俺には出来ません」
 ぽつり呟き、彼は顔を伏した。もう一度、遠距離攻撃主体の匣兵器を撫でる。精巧な髑髏をなぞる様は、知らない人が見れば異様な光景に映っただろう。
 だけれど綱吉は知っている。彼がこの武器を頼りに、幾つかの死線を潜り抜けてきた事を。
 いわばあの武器は、獄寺にとってのかけがえのない戦友だ。
 綱吉は開いた手を見詰め、緩く握った。
「それって、野蛮だってこと?」
「まさか」
 甲を上にすると、細かな傷が沢山現れた。実戦ではイクスグローブを装着するとはいえ、拳自体に衝撃が来ないわけではない。打撲の痣は数え切れず、特に関節部分は、他の部位と微妙色が違っていた。
 意地悪だと自分でも思う質問を繰り出せば、獄寺は即座に首を振り、否定した。
 そうして髑髏を模った武器を両手で抱きかかえ、口の内部に設けられた発射口を指で押した。流石に今は弾丸となるダイナマイトを装填していないので、何も出てこない。
 それでも冷やりとするのを止められず、綱吉は右の腰を左手で抱いた。
「俺は、接近戦が出来ません。無論、多少なりとも格闘技の覚えはありますが、正直言えば苦手です」
 綱吉とて武術を習った経験はない。もし柔道で勝負をしろと言われたら、勝てる見込みは一切無い。綱吉の闘いは死ぬ気の炎、及び超直感の恩恵にあずかるところが大きい。
 だがそれは、今の獄寺の話には関係の無い事だ。思ったことは口に出さず、ただ黙って頷いた彼に微笑み、獄寺は腰のベルトにぶら下がる匣を順に撫でていった。
 それは十年後の彼が編み出した、彼独自の戦い方だ。防御、攻撃、そのどちらにも特化した、されど非常に複雑な戦法。しっかり見たことは無いが、恐ろしくトリッキーであり、且つ難解だ。
 そして矢張り、攻撃方法は遠距離からの射撃に頼る部分が大きかった。
 唇を舐めて一呼吸置いて、獄寺がわら半紙の上で身じろいだ。膝を起こし、腰を浮かせて向きを変える。作業台前の綱吉を正面に見て、彼は恥ずかしそうに頬を赤らめた。
「俺は、敵に攻撃を、当てることは出来ます。でも、当てに行くことは出来ないんです」
「……?」
 出された例え話が理解出来ず、綱吉は首を右に倒した。眉間に浅い皺を三本刻んだ彼に肩を竦め、獄寺は左手で空気を殴る仕草を取った。
「俺は、こうやって直接、敵に拳を当てる戦い方はしません」
「ああ」
 先ほどの話と繋がるのだと、綱吉は間を置いてから合いの手を返した。
 獄寺は中、遠距離攻撃が主体で、故に敵の懐に飛び込むことは無い。接近して自ら当てに行くのではなく、遠くから狙って標的を撃ち抜く。そう言いたいのだろう。
 綱吉がしっかり頷くのを確かめ、彼は視線を伏した。
 細い指が、髑髏の輪郭をなぞって腕に装着する部分に流れる。弾丸を装填する部位を覆うパーツは外されていて、内部の空洞が綱吉の位置からも見えた。
 丁寧に汚れを拭い、傷ひとつついていない。よく手入れが出来ている証拠だ。
「俺の役目は、前線で闘う十代目たちの援護です。十代目の背後から襲いかかろうとする奴がいたら、俺が排除します。十代目が、前だけを向いていられるように」
「うん」
 常に遠くから、戦場の全体を視野に入れて闘う。どこが手薄で、どこが混戦模様を呈しているのか。突破口を開くにはどこが最適か、援軍は何処からやってくるのか。
 彼の眼が冷静にそれを捉え、状況は奮迅する仲間の耳に即座に届けられる。司令官、という呼称が相応しかろう。
 そして彼自身もただ見ているだけではなく、臨機応変に武器の形を変え、戦う。
 彼は常に綱吉を見て、綱吉を守ってくれている。
「だからこそ、俺は今、休むことは出来ません」
「獄寺君」
 力強い決意のもとに、はっきりと響く声で断言する。低い、鼓膜を突き抜けて心臓を震わせる音に慄き、綱吉は作業台から降り立った。
 詰め寄ろうとして、躊躇が挟まり足が前に出ない。握り拳を胸に押し当てた彼のショックを受けた表情を見詰め、獄寺はゆるりと首を振った。
「俺は、さっきも言いましたが、自らの手で敵を打ち砕く術を持ちません。だからこそ、百発百中でなければいけない。ここぞと言う時に外すわけにはいかないんです」
 目の前で対峙しているならば、多少の誤差も己の意思で修正は可能だろう。けれど獄寺は、それが出来ない。
 彼が言うような命中精度を誇るなど、土台無理な話だ。けれど絶対に外すわけにはいかない状況は、必ずやってくる。その時に、敵に避けられました、ではお話にもならない。
 それが武器の整備不良に起因するものだとしたら、尚更に。
 確固たる信念をもって紡がれる言葉に絶句し、綱吉は頷くことも、首を振ることも出来なかった。
 彼の言いたい事は、痛いくらいに分かる。少しでも命中率を向上させて、確実に敵を打ち倒す力が手に入れば、それだけ戦いは有利に進む。無駄弾を減らし、消耗戦を回避し、早期決着をつける手段となるのは否めない。
 一度の戦いで決着がつくのなら、仲間が負うダメージも少なくて済む。そこだけ聞いていると、良い事ずくめに思われた。
 否定するのを許さない雰囲気を感じて、綱吉は下唇を噛んだ。ふらつくように後ろに戻り、作業台に腰を強かと打ち付ける。弾みで視線が上を向き、煌々と照る天井のライトが彼の瞳を刺した。
 首を振って瞼を閉ざし、重い溜息をひとつ零す。
「ですから、十代目」
 分かってくれるように訴えて、獄寺は膝で立った。敷き詰めたわら半紙を巻き込んでにじり寄り、両手を床に突き立てる。
「十代目まで俺に付き合うことはありません。十代目こそ、ゆっくり休まれて、明日の修行に専念してください」
「獄寺君」
 真摯な訴えに、それ以上言葉が続かない。最早何を言っても無駄と思い知らされただけであり、彼の思いを汲み取るのであれば、このまま好きにさせるべきなのだという考えも生じた。
 獄寺は大丈夫だと言っている。彼を大切に思うのならば、彼の意志も尊重すべきだとも。
 心が揺らぐ。彼に休むよう命じるのは、ただの利己的な我が儘でしかないのか。
「……でも」
「お願いします、十代目」
 相反するふたつの想いが、綱吉の中で鬩ぎあう。休んで欲しい気持ちと、彼の意志を汲んでやりたい気持ちと。
 今がとても大切な時期であり、時間は限られているのは綱吉も痛感しているところだ。少しでも前へ、確実に勝ち残れる道を模索するのは、悪いことではない。
 皆を守りたい。その気持ちは誰しも同じだ。強くなれるのであれば、多少の無茶も必要だというのも。
 けれど。
 揺れ動く天秤が重すぎて、支える柱が先に折れてしまいそうだった。
「獄寺君」
「徹夜はしません。約束します」
 琥珀の瞳を揺らし、彼を見詰める。真っ直ぐな眼差しに嘘偽りの彩はなくて、綱吉はぐっと息を呑んだ。
 今にも溢れ出そうだった様々な感情を押し殺し、留める。ここでボンゴレ十代目としての権限を行使するのは簡単だ、命令すれば彼は逆らえない。
 だけれどそれは、彼の決意を蔑ろにし、踏みつける行為に等しい。
 長い沈黙を挟み、綱吉はゆるりと首を振った。握り締めて痛い手を解き、作業台に置いたままだった盆の縁を抓んで引き寄せる。白く濁ったグラスはすっかり冷めて、ぬるま湯に等しい温度になっていた。
 彼はそれを左手で持ち上げ、右手で底を支えた。
「分かった」
「十代目」
「無茶はしない。疲れたらちゃんと休むって、約束して」
「はい。誓って」
 コクン、と頷いて直ぐに顔を上げ、彼に負けないくらい真剣な眼差しで見詰め返す。両手を伸ばしてコップを差し出せば、獄寺は少し怪訝にした後、顔を赤らめている綱吉に小さく噴出した。
 それが腹立たしくて、恥ずかしくてならず、綱吉は早く受け取るように怒鳴って彼に既にホットミルクではない牛乳を押し付けた。
 表面の膜に大きく皺が寄り、不可思議な紋様が刻み込まれていた。獄寺は笑顔で受け取って、掠れるような声色で礼を述べた。
「いただきます」
 綱吉の気遣いが嬉しい。妥協してくれたのも、嬉しい。
 本当は徹夜をも覚悟していたけれど、彼との会話の最中、迷いに迷っていた発射時のバランス補正の妙案が思いついた。まだ構想段階でしかないが、きっと巧く行く。そんな気がした。
 綱吉が無言で見守る中、彼は生温い牛乳を一気に飲み干した。口の周りに白い髭を生やして笑われる。拭い取って、彼も肩を竦めながら笑みを零した。
 どこかしら誇らしげに見える獄寺に目を眇め、綱吉はコップを引き取る為に前に出た。新聞に散らばるパーツを踏まぬよう注意しながら、彼の傍で身を屈める。
 受け渡しするだけなら、そこまでする必要はない。距離を詰めてくる綱吉に怪訝にして、獄寺はグラスの横をすり抜けた手を目で追いかけた。
 クスリ、と笑う声がする。悪戯を思いついた子供のような、無邪気な。
「じゅ……」
「ついてる」
 どうしたのかと問う前に、囁く声が鼓膜を打った。温かい何かが、瞬きをするにも満たない僅かな時間、彼の唇に触れた。
 視界を赤が横切り、綱吉の咥内に滑り込んでいく。反応出来ずに呆然とする獄寺の手から空っぽのグラスを引き抜いて、彼は素早く退いた。
 夢か、幻か。現実味を伴わない出来事に、獄寺は指一本動かせなかった。
「忘れないでよね。どんなに武器の精度があがっても、扱うのは君なんだから」
 熱の引いたグラスを抱え、綱吉が歩き出す。衣擦れの音に我に返り、惚けていた獄寺は慌てて振り向こうとしてわら半紙の上で転んだ。
 大切な武器を腹で潰すところで、寸前で堪えた彼を笑って綱吉がドアを開ける。
「君が先に壊れちゃ、元も子もないでしょ?」
 ぷしゅっ、と音を立てた扉が横滑りをしてドアポケットに収納され、二秒後に閉ざされた。四つん這いで右手だけを前に伸ばした姿勢で硬直していた獄寺は、たっぷり十五秒かけて姿勢を起こし、己の唇を手の甲で覆い隠した。
 今夜は、色々な意味で眠れそうになかった。

2009/12/09 脱稿