三文

 その日は偶々、目覚まし時計が鳴るよりも早く目が醒めた。
「あら、どうしたの」
 本来なら二度寝を試みるに充分な時間だったのだけれど、何故か今日に限ってはそういう気分になれなかった。ベッドでゴロゴロしていてもつまらなくて、肌寒い中、どうしようか逡巡した末に結局起きることにして、パジャマのまま部屋を出た。
 同居中の子供たちはまだ夢の中で、リボーンでさえハンモックを揺らして鼻ちょうちんを膨らませていた。日の出直後なのか外はまだ薄暗く、夜の名残が空には色濃く現れていた。
 冷えた空気が家中に広がり、一歩進む毎に足の裏が凍りつきそうになる。階段をゆっくりと降りて玄関の前でターンし、一階の奥へと。洗面所へ行こうとしていた彼を目敏く見つけた奈々が、台所から顔を出して不思議そうに言った。
 エプロンをして、身だしなみもすっかり整えた彼女の声に思わずビクッとしてしまう。何も悪い事はしていないのに、ついつい緊張してしまって、綱吉は頬を引き攣らせた。
「いや、その」
「具合でも悪いの?」
 咄嗟に言葉が出てこなくて、視線を泳がせた愛息子を心配そうに見詰め、奈々は頬に右手を添えた。眉間に皺が寄り、心配そうな表情を作り上げる。
 いつもなら遅刻ぎりぎりの時間になるまで起きて来ないのに、何故か今日に限って普段より一時間近く早く起き出してきた。通常ではないと彼女が勘繰るのも無理ないことだが、たまには自分だって早起きすると、綱吉は僅かながら反感を抱いた。
 無用な心配だとはねつけ、そっぽを向いて歩き出す。返事はしない。我ながら子供っぽい拗ね方だと思ったが、どうにもならなかった。
 後ろから奈々の溜息が聞こえた。しかし彼女はそれ以上何も言わず、慌しく朝食の準備に戻ってしまう。
「心配するなら、もっとちゃんと心配してくれればいいのに」
 腹が痛いのでも、熱があるのでもないのだから、心配されるのは鬱陶しいと十秒前は感じていたのに、掌を返したように真逆の事を呟く。相反する心を同時に抱えながら、彼は当初の目的通り洗面所に足を運んだ。
 鏡に映る自分の頭は、相変わらずの爆発ぶりだった。そこに寝癖が加味されて、およそ人の手では達成し得ない造形美を築き上げていた。
「む、う」
 思わず頬を膨らませて唸り、蛇口を捻って両手を濡らす。氷点下を思わせる冷水にひゃっ、と声が出て、咄嗟に腕を引っ込めたくなった。
 それを堪えて両手を湿らせ、跳ね放題の髪の毛に擦り付けていく。水分を吸った毛先は、その一瞬だけは重そうに頭を垂れたけれど、乾けばまた直ぐに元通りだ。
 そうなる前に櫛を通して、ある程度形を整えてから、再度両手で水を掬う。今度は顔にぶちまけて雑に洗い、目尻に少しだけ残っていた眠気を排水溝に流した。
 顎から垂れ下がる雫を弾いて蛇口を締め、手探りでタオルを探して湿り気を取り払う。時間があるのでドライヤーでも使おうかと考えたが、面倒臭い、の判断であっという間になかったことにされた。
「ふぅ」
 代わり映えのしない顔を鏡に見て、肩を落とす。一晩で劇的に変化するなどありえないと分かっていても、背が伸びるなり、髪質が変化するなり、なにかあってもバチは当たらないだろうに。
 タオルを戻し、唸り声をあげている洗濯機を振り返る。
 沢田家は子供が多く、中でもランボは稀に見る悪戯者だ。毎日全身泥だらけにして、一日に何回も着替えている。
 汚れ物が多いので、必然的に洗濯機を回す回数も増える。横を見れば順番を待つ洗濯物の籠がずらっと並べられて、反対側には物干し台行き手前の、洗濯済みの物が平たい籠に並べられていた。
 まだ時間は午前七時に達していない。いったい奈々は何時に起きて活動を開始したのか気になって、綱吉は顰め面を作った。
 先ほどの素っ気無い自分の態度を反省しながら、まだ濡れている髪の毛を掻き回して洗面所を後にする。台所を覗き込むと、味噌汁の味見中だった奈々が小皿を片手に振り返った。
「朝ごはん、食べる?」
「出来てるの?」
「もう少しね。先に着替えてらっしゃい」
「は~い」
 炊飯器のタイマーを覗き込んだ奈々に言われて、綱吉は間延びした声で返事をした。
 食卓には焼きたての厚焼き玉子や、ほうれん草のおひたし等が並べられている。その隣にはスクランブルエッグとソーセージが威張っていて、和洋入り乱れる光景に、思わず苦笑が漏れた。
 綱吉や奈々には和食が、子供たちには洋食が。支度も面倒臭かろうに、愚痴も言わず彼女は黙々と手を動かしている。到底真似できないと呆れると同時に、ある種の感動さえ抱かされた。
 廊下に戻り、先ほどとは逆のルートを辿って二階へ戻る。階段を踏みしめるギシギシという音が、凛と冷えた空気を震わせた。
 リボーンはまだハンモックで横になっていて、綱吉が立てる物音にも反応しない。彼のことだから起きている筈だが、最強のヒットマンも寒いのは嫌なのか、肩まですっぽり毛布に包まっていた。
 狸寝入りを決め込む赤ん坊をちらりと見るだけに済ませ、綱吉は散らかり放題の部屋をぐるりと見回すと、昨晩のうちに準備しておいた制服を両手に抱え込んだ。
 蹴り飛ばした毛布の上に広げ、アイロンの当たった白いカッターシャツを広げる。
「さむっ」
 着替えるには、先ず今着ているパジャマを脱がなければいけない。こればかりは勇気が必要で、ままよ、と脱ぎ捨てると途端に体温がサッと逃げて行き、ひんやりとした空気が彼の華奢な胴体を撫でた。
 足踏みして熱を作りながら、急いで制服に袖を通す。ネクタイは後で結ぶことにして、紺色のカーディガンを着込んでやっと、ホッと人心地つけた。
 右の靴下の爪先がかなり薄くなり、もう少しで穴が開きそうだ。そうなる前に奈々に繕ってもらわなければいけない。忘れないように心に刻み込んで、彼は脱いだばかりでまだ温かいパジャマを抱え、慌しく部屋を出て行った。
 素足だった先ほどとは違い、歩くペースも心持ち軽やかになる。絶賛稼働中の洗濯機横の籠に持って来たものを押し込み、綱吉は空腹を抱えながら台所の敷居を跨いだ。
 子供たちの姿は無い。ただ奈々がひとり、一所懸命に皆の食事を準備している。
「おはよう」
 そういえばさっきは言わなかったと思い出し、朝の挨拶を細身の背中へ送る。彼女は肩越しに振り返り、嬉しそうに目を細めた。
 炊飯器が真っ白い湯気が噴き、炊きあがるまで残り時間が僅かなのを教えてくれる。白く瑞々しい、艶がかった白米を頬張るのは、至福だ。想像して思わず唾が出て、綱吉が大袈裟な仕草で口元を拭った。
「どうしたのー、今日は」
「どうもしないよ」
「雨が降らなきゃいいけど」
「悪かったね」
 食器の準備をしに棚の前へ移動した奈々の言葉にむっとして、思わず悪態をついてしまう。だが空腹には抗えず、彼は早々に自分の席に就こうと歩き出した。
 直後、後ろから呼び止められた。
「ああ、ツナ」
「うん?」
 今思い出したような声を出されて、椅子の背凭れを掴もうとしていた彼は振り返った。中途半端なところを泳いだ手を引っ込め、身体ごと向き直る。
 奈々は茶碗を両手で抱えながら、小首を傾げて目を細めた。
 彼女がこういう顔をする時は、大抵何か面倒な頼みごとがある時だ。十四年間一緒に暮らしているのだから、分かる。返事をする前に尻込みして、綱吉は母から距離を取ろうと右足を後ろに滑らせた。
 が、彼女もまた自分が産み、育てた子供の考えなど全てお見通しだ。
「ツーナ。お願い、新聞取ってきて」
「えー」
 もし彼女の手が空だったなら、掌を叩き合わせていたに違いない。依頼を聞いた途端に綱吉は不満の声を上げたが、日々忙しい母親の手伝いを何もしないのは悪い、と思っていただけに、逆らえない。
 口を尖らせて頬を膨らませると、肩を竦めた奈々に笑われた。
「そんな顔しないの」
「ちぇ」
「いい事があるかもしれないわよー?」
 ケラケラと喉を鳴らし、彼女はカウントダウンを開始した炊飯器の横に茶碗を置いた。鍋を掻き混ぜて味噌を溶き、具沢山の汁物を完成させる。段取り良く事を運ぶ母の背中を見ながら地団太を踏むと、ちっとも動き出さない息子に苦笑して、彼女は明るい声を出した。
 良い事。思わず胸が高鳴る響きだが、人を煽てるための常套句だという警戒心も同時に働いた。
「どんな?」
「さあ。でも良く言うでしょ」
 いぶかしみながら問えば、彼女はちょっと肩を竦めて視線を外した。コンロの火力を弱め、可愛らしいメロディを奏で出した炊飯器に顔を向ける。
 数秒の間を置いて、悪戯っぽい笑みを浮かべて目を細めた。
「早起きは、三文の徳だって」
「ああ」
 人差し指を立てて頬に押し当てた彼女の弁に、綱吉は脱力しつつ頷いた。
 そういうことわざは、確かに存在する。だけれど今時三文と言われても、ろくな金額ではない。
 その程度の得があったところで、嬉しいわけがない。反論を試みた彼だけれど、奈々は何処吹く風と受け流し、綱吉よりも華やかで柔らかい笑みで振り返った。
「でも、なぁんにもないよりは、いいでしょう?」
 奈々に頼みごとをされて、既に得をするどころか損をしている気分だ。上手にはぐらかされてしまって、納得がいかない。
 ただ、これ以上は粘れない。依頼を済まさない限り、奈々は綱吉に朝食を供してはくれないだろう。結局は、郵便受けに新聞を取りに行かざるを得ない。
 世知辛い。どうやっても奈々には敵わなくて、悔しげに下唇を噛んで綱吉は足早に台所を出た。
 後ろで笑う声がする。振り切るように廊下を突き進み、彼は汚らしく並ぶ靴を前に溜息をついた。
「もう……」
 早起きなどするのではなかった。
 今更悔いても後の祭りであるが、思わずにはいられない。無自覚に溜息を零し、そこにあった奈々のサンダルに爪先を引っ掛けると、綱吉はこの段階で既に覚えている寒気に震え、腕をさすった。
 横向きに転がったランボの靴を避けて扉に進み、施錠を外してドアを押し開ける。途端に冷たい冬の風が彼の頬を嬲り、整えたばかりの髪の毛を引っ掻き回した。
「ふわっ」
 寒い。
 反射的にドアを閉めようとして、与えられた仕事を思い出して堪える。踏み止まり、三十センチばかりの隙間から外に出ると、あんなに強く感じた風は意外に弱く、穏やかだった。
 天頂に雲は少なく、寝起き直後に見た夜の残滓も殆ど見受けられない。
 青色の絵の具を塗りたくったような空を見上げて吐く息は、気温の低さを象徴して白く濁った。
「ああ……」
 思わず声が漏れて、肌を刺す冴えた空気に淡く微笑む。寒いが、寒くない。空気の冷たさと陽射しの緩やかな暖かさが、どことなく不思議だった。
「よっ、と」
 ポーチの段差を掛け声と共に飛び降りて、庭を分断している飛び石を順に乗り越える。庭木も花壇の花もすっかり冬の装いで、常緑樹の緑も少し色がくすんでいた。
 何処かから迷い込んだ落ち葉を避けて右足を前に繰り出し、サンダルで小石を蹴り飛ばして門扉へと急ぐ。朝刊は投函済みで、郵便受けの蓋が少しだけ外向きに傾いていた。
 息を弾ませて駆け寄り、隙間から引きずり出して左手に持つ。間に色とりどりの広告が何枚も挟まっていて、細長く折り畳まれていた。
 此処で広げては、広告の束が落ちてしまう。それに綱吉は、あまり新聞を読まない。リボーンには世の中を知るためにも読むように、と小言を言われているけれど、あの細かな活字を目で追うだけで、睡魔が襲ってくるのだ。
 それに、朝は何かと忙しい。ただでさえ時間が足りていないのに、のんびりとニュースを眺めている暇など綱吉にはなかった。
「でも、たまには読んでみるかな」
 乾いた紙の端を指でなぞり、呟く。今日は早起きしたので、いつもよりかは余裕があった。
 気まぐれに呟いて、澄み渡る冬の空を仰ぎ見て、家に戻ろうと踵を返す。足首から流れ込む冷気は、綱吉の体温をじわじわと奪い去ろうとしていた。
 しかし不意に後ろ髪を引かれたような気がして、彼は何もないに関わらず彼は振り返った。
 門扉の向こうは、アスファルトに覆われた大地だ。並盛町の住宅街の一画で、整然と並ぶ一軒家は此処が計画立てて開発された場所だと教えてくれる。
 朝方なので人気は乏しく、寒々とした光景が広がるばかり。奈々同様家族の食事を準備しているだろう匂いが、あちこちから流れて来て綱吉の鼻腔を擽った。
 くしゃみが出そうになって、数秒堪えたが我慢出来ずに噴き出す。
「っしゅ!」
「ツナ?」
 沢田家を取り囲む塀は、あまり高くない。胸の高さまでで、外からも中からも見晴らしは良い。
 だから前を通り掛かる人にも、綱吉の姿は丸見えだった。
 顔を下向けて鼻を押さえた彼の耳に、聞き慣れた声が響く。おおよそこんな時間に、こんな場所にいるはずのない人の呼びかけに、一瞬自分はまだ夢の中にいるのではないか、と疑った。
 顔の中心部に手を置いたまま、左脇に新聞を挟んで背筋を伸ばす。ゆっくりと声のした方に目を向けると、案の定そこに、背の高い青年がひとり佇んでいた。
 彼は綱吉が気付いたと知ると、心持ち駆け足に塀の前を進み、門扉のところまでやって来た。
「やまもと」
「はよっす」
 軽く右手を挙げて挨拶に代え、人好きのする笑顔を浮かべた山本が、綱吉に向かって白い歯を見せた。
 まだ朝の七時にもなっておらず、早朝練習があるにしても今から登校は早すぎる。それに綱吉の自宅は、微妙に山本の通学コースから外れていた。
 だから何故彼が此処に居るのかが、綱吉には分からない。思いは顔に出ていたらしい、彼は肩を竦めて揺らし、目を細めた。
「ジョギング」
「あ、そっか」
 喉の奥でクスっと笑いながら告げられた言葉に、綱吉は目を丸くして頷いた。
 確かに今の山本の格好は、学生服ではなく上下揃いのスウェットだった。軽くて、それでいて保温性があり、運動するに適している。
「ツナは、……朝刊?」
「うん、そう。母さんに頼まれたから」
 お互いにこんな時間に会うとは思っておらず、驚きを隠せない。言われて挟み持っていた新聞を右手に持ち替えた綱吉ははにかみ、照れ臭そうに頬を掻いた。
 そうして微妙な沈黙が流れた。
 どことなく不思議そうにしている山本の視線が、どうにも居心地悪い。
 綱吉に寝坊癖があり、遅刻の常習犯だというのは山本も熟知している。そこから考えるに、綱吉が早朝六時台に起床済みで、しかもいつでも学校に行けるように制服に着替えているというのは、可笑しいと思われるのも致し方なかった。
 奈々に茶化された記憶が蘇り、綱吉は自分の早起きが何故かとても悪いことのように思えて来た。
「……なに」
 堪えきれず、掠れる声で問いかける。それではっとした山本は、不満げな視線に慌てて首を振った。
「あ、いや。ツナがこんな時間に起きてるなんて、って」
「そんなに可笑しい? 変?」
「いや、そんな事ないって」
 予想した通りの回答に腹が立って、語気が自然と荒くなる。早口で問い詰めてくる綱吉の険しい表情に、首と一緒に手も振って、山本は取り繕うように言葉を重ねた。
 それから言い方が悪かったと反省の弁を述べ、より相応しいことばを探して視線を泳がせる。
「だから、なんてーか、その。……よかった」
 短く切り揃えた頭に右手をやって、後頭部を掻き回した彼が不意に呟いた。
 礼を言われるようなことなど何もしていない。眉間に皺を寄せた綱吉に呵々と笑って、山本は緩く首を振った。
「や。別に深い意味はないんだけど。……会えてよかったな、って」
「山本」
「なんかさ、今日は偶々、この道走ってただけなんだ」
 巧く説明出来ないのがもどかしいらしく、彼は身振りを交えながら言って肩を竦めた。
 山本は野球部に所属し、いつも笑顔が絶えない。天然ボケなところもあるけれど、真面目で、しっかり者で、責任感も強く、皆から慕われている。綱吉もそのうちのひとりだけれど、彼の天真爛漫さにはしばしば大きく振り回されていた。
 脈絡を得ない彼の言葉に首を傾げ、示された方角に目をやる。
「いつもは違うの?」
 瞬きひとつで視線を戻し問えば、彼は鷹揚に頷いた。
「大体いつも、並盛川の、河川敷を往復してるんだけど」
 言って、彼は方角の検討をつけてそちらに指を向けた。
 綱吉はつい爪先立ちになって背伸びをしたが、居並ぶ住居の壁に阻まれて、とてもではないが見えない。けれど彼の言う場所は知っている。住宅街からは少し離れており、此処からだと方向はまるで違う。
 踵を地面に戻した綱吉が、釈然としない顔をするのを受けて、山本は胸を張って腰に両手を押し当てた。
 楽しげに笑っている。だが綱吉には、彼が笑う理由が分からない。
「今日はそっちに行かなかったんだ?」
「ああ。なんとなーく、なんだけど」
 今彼は此処にいるのだから、綱吉の質問は愚問だ。けれど山本は気にも留めずに頷き、右肘を伸ばして緩く握った。
 視線が空を向く。つられて、綱吉も雲のない晴れ空を仰いだ。
「今日はこっちを走りたいなー、って思ったんだ」
「なんで?」
「いや、だからさ。ほんと、なんとなく」
「……むう」
 首を正面に戻した綱吉が訊くが、山本にも答えはわからない。気まぐれが働いて、思ったのだ。今日はいつもとは違う道を行こう、どうせなら綱吉の家の前を通るコースで。
 口を尖らせて唸った綱吉に肩を揺らし、彼は拳のまま右手を腰に戻した。
 それから、やおら真面目な表情をして前を見詰める。視線を向けられて、綱吉はきょとんと目を丸くした。
「お前に会えたらいいなって、思ったんだ」
「え」
「だから、良かった」
 力みの抜けた淡い微笑みに、どきりと心臓が跳ねた。
 綱吉はいつも、この時間は、大抵の場合まだまだ夢の中だ。パジャマを着て、布団に包まり、枕を抱いて、目覚まし時計のカウントダウンも意に介す事無く惰眠を貪っている。
 だから彼の望みが叶う確率は、とても低かった。
 たまたま今日に限って綱吉が早く目覚めていなければ、そして奈々に頼まれて新聞を取りにこなければ。彼が台所で渋り、奈々に不満を言うだけの時間を費やさなかったなら。
 ふたりはこのタイミングで顔を合わせることもなかったはずだ。
 偶然が生み出したこの奇跡を理解した途端、綱吉の全身の毛がぶわっ、と逆立った。
「あ……」
 言葉が出てこず、口を開いたは良いものの音が続かない。山本は相変わらずの笑顔を浮かべて、おもむろに右腕を伸ばした。
 節くれ立った太い指で髪を撫でられ、頭を軽く叩かれる。
「こんなに朝っぱらからツナの顔が見られて、俺、今日はついてるな」
「山本」
 改めて言われると、照れ臭くて仕方が無い。頬を紅に染め、綱吉は触れてくる彼の手に首を竦めた。
 今日は平日だから、学校がある。登校すれば、同じクラスなのだから、山本とも当然顔を合わせることになるだろう。だけれどそれよりも前に、その他大勢がいる中でではなくて、こうやって家の前で、ふたりだけで。
 ちょっとした偶然が積み重なって、まるでこうなるのが必然であったかのように。
 山本の手が離れていく。消えた重みと温もりが名残惜しくて、綱吉は胸を襲う切なさに唇を噛んだ。
「んじゃ、俺、もうちょっと走ってくるから。ツナも、遅刻すんなよ」
 一度握った拳を広げ、顔の横で振った山本が右足を引いた。門扉から離れて、今にも走り出しそうな彼に慌てた綱吉前に出て、閉じたままの扉から身を乗り出した。
「山本」
「うん?」
「あ、あの。また……また後でね!」
 ガッシャン、とぶつかった衝撃で外と内とを仕切る扉が音を立てた。
 前に踏み出そうとしていた足を止め、山本が小首を傾げる。早く言わなければ行ってしまうと焦った途端、言いたかった言葉が何処かへ吹き飛んでしまい、綱吉は上擦った声で、咄嗟に思い浮かんだ台詞を叫んだ。
 黒目がちの瞳を丸くした山本は、直後に破顔して嬉しそうに頷いた。
「ああ。学校でな」
 言って手を振り、元気一杯にスタートを切る。このまま町内を巡って、彼は商店街にある自宅に帰るのだろう。そうして朝食を食べて、身支度を整えて、学校へ。
 放課後にまた明日、と言って別れる時とはまるで違う。今日もまた彼と一緒に過ごせるのだと思うと、心が弾んだ。
「俺も、急がなきゃ」
 あまり外でぼうっとしているわけにはいかない。折り畳まれた朝刊を抱き締めて、今度こそ家に入ろうと踵を返した綱吉の前で、あまりにも戻りが遅いのを心配した奈々が玄関のドアを開けた。
 目が合って、吃驚している彼女に気の抜けた笑みを返す。
「ツナ?」
「えへへ」
 どうしたのかと不思議がっている実母の脇をすり抜け、彼は足早に温かい屋内に滑り込んだ。味噌汁が冷めていないかを心配しながら、新聞を片手に台所の敷居を跨ぐ。
 後ろからついてくる母親に、そうだ、と思い出して不意に振り返り、
「三文分、いい事あったよ」
「あら、そう?」
「うん」
 こんな素敵な偶然が起きるのなら、たまの早起きも悪くない。
 怪訝がっている彼女に満面の笑みを浮かべ、綱吉は気忙しく箸に手を伸ばした。

2009/12/06 脱稿