大憂

 毎夜、八時きっかり。
 日本にいても、イタリアに居ても、フランスにいても、アメリカに居たとしても。
 必ず綱吉がいる現地時間で、夜八時丁度だ。綱吉の携帯電話には、毎夜同じ人物から、飽きもせず着信が入った。
 何処に居ても、どんな状況にあっても。彼のいる国が真夜中であっても、夜明け前であっても、食事時であっても、たとえ会議が紛糾中であったとしても。
 そこが戦場だったとしても。
 綱吉の電話には必ず、夜八時に、少し早いお休みなさいのコールが入った。
 無いのは、面と向き合って同じ場所にいる時だけ。手を伸ばせば届く距離にいながら、夜七時五十九分に律儀に電話を取り出した彼をきつく叱って以来、傍に居る時は耳元で囁くのが約束事項になっていた。
 いつから始まったのかは、もう覚えていない。そうしてくれ、と頼んだ記憶もない。むしろ最初は鬱陶しくて、止めろと言い続けていたような気がする。
 それが毎夜の楽しみになったのは、いつ頃だっただろう。
 気がつけば、当たり前になっていた。多少のタイムラグはあれど、必ず八時、几帳面で律儀な彼の性格そのままに電話が鳴る。綱吉はそれを三コール以内に取る。短い言葉を交わす。通話を切る前の決まり文句は、また明日。
 だのに。
「……なんか」
「沢田殿?」
「なんか、変な気分」
 午後七時、五十五分。妙な胸騒ぎを覚え、綱吉は口元を手で覆い隠した。
 隣に居たバジルが怪訝な顔をして姿勢を前に倒し、下から綱吉の顔を覗きこむ。心配そうな眼差しを横から感じ取り、彼は説明に苦慮して苦笑いを浮かべた。
「お加減が」
「ううん」
 具合が悪いのかと案ずる声に首を振り、綱吉は口元にやった手を上に滑らせて前髪を掻き上げた。深呼吸をひとつして唇を舐め、心臓の裏側で不意に沸き起こったもやもやした感情を押し殺す。何か薄暗いものにそこを撫でられた気がしたのだが、現実にはそんな事起こるわけがない。
 だから錯覚だろうと思いたかったのに、妙に感触がリアルで生々しく、脳裏にこびり付いてなかなか離れていかなかった。
「顔色が悪いです」
「平気だよ」
 大丈夫だと言い張るが、バジルも引き下がらない。綱吉自身、今一瞬感じた悪寒がなんだったのか分からないので、心配されても困るだけだ。
 彼は服の上から胸を撫で、そこに収めた携帯電話を指でなぞった。
 小型化が進み、腕時計内蔵型やイヤホン内蔵型などが多数開発されているけれど、やはり原点である形が一番落ちつく。スライドタイプのそれを取り出して時計を確認すれば、もう数十秒で午後八時に至るところだった。
 傍らの青年も、綱吉がなにを待っているのかを心得ている。邪魔しないようにと距離を取り、まだ少し肌色が優れない綱吉を見守る体勢に入った。
 しかし。
「……あれ」
 七が八になっても、液晶画面は光らなかった。
「おかしいな」
「ですね」
 一分経って綱吉が首を捻り、二歩近付いたバジルが同意した。ふたりしてデジタル数字を見守り、息を呑む。多少遅れる事があっても、差分はいつだって三分以内だった。
 廊下の真ん中に立ち尽くすふたりの横を、怪訝な顔をして女中が通り過ぎていく。高い天井に足音が響き渡り、沈黙が耐え切れ無くなって綱吉は深く溜息を零して首を振った。
「なにかあったのでしょうか」
 バジルの問いかけにも答えられず、唇を浅く噛んで画面を睨みつける。
 彼の機嫌悪さが通じたのか、五分が過ぎようとして、ようやく電話が鳴った。
「もしもーし!」
 憤りのままに応答に出て、ぞんざいな口調で呼びかける。しかし向こうが鳴らしたくせに、相手の声はなかなか聞こえてこなかった。
 代わりに、綱吉が求めているのとは違う男の怒号が微かに鼓膜を震わせた。
「……ん?」
 知らない声だと心の中で首を捻り、眉根を寄せた彼の表情を見て、バジルもただならぬ空気を幾らか感じ取ったようだ。失礼を承知で耳を欹て、距離を詰めてくる。
 ノイズのような雑音、大勢の叫び声。悲鳴が多数混じっているように聞こえる、映画館の中かと一瞬馬鹿な事を考えてしまった。
「なんでしょう」
「さあ」
『……はっ、十代目!』
 甲高い女性の声はバジルの耳にまで届いて、彼もまた眉目を顰めた。そこに、唐突に大声が割り込んできた。
 耳慣れた声、しかしやや焦りを含み、掠れている。息継ぎの間隔が短くて、全力疾走した直後のように感じられた。
『すみません、十代目。遅くなってしまいました』
 時計は八時六分になった。獄寺は電話の向こうで早口に捲くし立てたが、音がぶれている。まだ走っているところなのだろうか。
 今日の彼はイタリアの、シチリアの、近年立ち上がったばかりのまだ若い、ボンゴレとは同盟関係にある組織に出向いている。綱吉の代理として、右腕たる彼が直々に。
 夜会まで参加してくるという話だったが、なにせイタリアの夕食は夜中零時近くまで長々と続けられるものなので、帰りは明日になると聞いていた。
 だから今、獄寺の現在地はエリチェの海辺に建てられた瀟洒なロッジであるはずだ。
 それなのに、この違和感はなんだろうか。胸の奥底でざわめく、粘っこいタールの津波に押し潰されそうになって、綱吉は息を呑んだ。
「獄寺君、どうしたの。なにかあった?」
 バジルと目を見合わせ、極力こちらの動揺を悟らせまいと声を潜めて問う。しかし電話口の相手は、急に声のトーンを上げた。
『いえ、ちょっと酒が入りすぎて。てんやわんやなだけです』
 自分はあまり飲んでいないので平気だと獄寺は声高に叫び、周囲の喧騒を遮った。そのわざとらしさが余計に鼻について、綱吉は奥歯を噛み締めて怒鳴りたい気持ちを押し殺した。
 獄寺の声の後ろで、不穏な空気の流れが続いている。どう考えても、酒宴の延長ではない。
 酔っ払いが拳銃をぶっ放すものか。
 なにかあったのは疑う余地が無いのに、獄寺は頑として言おうとしない。次第に腹が立ってきて、綱吉は携帯電話を潰しそうなくらいに、力いっぱい握り締めた。
 全身に蔓延る彼の力みを察し、バジルが落ち着くように肩を軽く叩いた。それで我に返った綱吉は、隣で微笑んでいる彼に若干気まずい顔をして肩を竦めた。
 電話口からは依然、誰かが怒鳴り、叫び、指示を飛ばす声が遠くから聞こえる。獄寺はそれらを聞かれぬよう、必死に声を大きくしていた。
 ただ時折、それさえも途切れて、荒い息継ぎが紛れ込んだ。
「獄寺君、今、どこ」
『エリチェ、いい所ですね。今度十代目も、どうですか。海がすっげー綺麗っすよ』
「だから、そういう話じゃ」
『ああ、すみません。ちょっと、……クソッたれ。あ、いえ、十代目がじゃなくってですね!』
 誰かに対してか悪態をつき、慌てて取り繕って声をひっくり返している。険しくなっていく綱吉の顔を眺め、バジルはパッと自分の上着から電話を取り出した。広げてなにやら打ち込み、耳に押し当てて誰かに小声で指示を飛ばす。
 綱吉は獄寺との通話に必死で、彼の動きに気を向ける余裕はなかった。
 耳を澄ませ、聞こえてくる音から状況を探ろうと意識を傾ける。ただ獄寺の声がこんな時に限って邪魔でならず、綱吉はつい、彼にまで聞こえる音量で舌打ちしてしまった。
 ハッとして、不味いと息を呑んだ瞬間だった。
『では、十代目。俺もそろそろ宴に戻らないといけませんので、これで。おやすみなさい』
 流暢な日本語で捲くし立て、直後にブツッと通話が切れた。
 目の前が真っ暗闇に落ちて、綱吉は呆然と立ち尽くした。
 どれだけ叫んでも、怒鳴っても届かない声を喉の奥で押し潰し、奥歯を噛み締める。何も教えてもらえなかった彼の悔しげな姿をちらりと盗み見て、バジルは左手に持った携帯電話を閉じた。
 瞬間、綱吉の手の中でピロロン、とベルが鳴った。
「うわっ」
 惚けていたところに突然舞い込んだメールに驚き、慄いた彼を見てバジルがプッと噴出す。
「な、なに」
 その前で綱吉はひとり大慌てで、受信中のメールを急ぎ開いた。読み込みが完了するのを待ち、画面上に展開させる。
 表示されたのは地図だった。町の名前、番地、拡大していくと人の姿を真似た赤いアイコンが表れた。
「え、っと……」
 発信者は隣に居る人で、何事かと振り向けばバジルは悪戯っぽく微笑んで、取り出した何かの鍵を指でくるりと回転させた。
「獄寺殿の携帯電話が発信された場所を割り出しておきました。ヘルメットは被って、安全運転で御願いしますね」
 朗らかに言い、綱吉に向かって放り投げる。愛らしいイルカのキーホルダーに繋がったそれは、彼のバイクのキーに他ならなかった。
 いったいいつの間に、と液晶画面で点滅するマーカーと彼とを交互に見て、綱吉は絶句した。
「お気をつけて」
 何故分かったのだろう、なにも言っていないのに。
 ぽかんとしている彼に、分からないわけがないではないかと、バジルはなんでもないことのように言いきった。綱吉が日頃から獄寺をどれだけ大切に思い、愛おしんでいるかなど、ボンゴレ十代目ファミリーに属している人間で知らぬ者は無いというのに。
 指摘されて綱吉は顔を赤くし、渡された鍵を握り締めた。
「ありがとう、バジル君」
 それにしても彼は、どうにも優秀すぎて困る。こんなに簡単に心を見抜かれてしまうなんて、恥かしい。
 もうちょっとポーカーフェイスが出来るようにならねばと心に決め、綱吉はくるりと反転して進路を変更した。バジルに見送られ、廊下を全速力で走りぬける。目指すはガレージ、そして獄寺が襲われている街。
 自動制御のシャッターが開ききるのも待たずに飛び出し、制限速度などお構いなしに道を行く。珍しく仕事熱心なパトカーも振り切って、海岸沿いを北西に。バジルが教えてくれたポイントをナビに入力して、案内に従って複雑怪奇極める路地を、やや速度を落として、慎重に。
 そうして微かに、海鳴りのような銃撃の音が聞こえる場所でエンジンを切り、綱吉はヘルメットを脱いだ。
 鍵をしたバイクを路地裏に隠し、遠くに意識を傾ける。ポケットから取り出した手袋を両手に嵌めようとして、彼の指先はふっと空中を彷徨った。
 携帯電話を取り出し、画面を呼び出す。位置が間違っていないのを再確認して深く頷いた綱吉は、一瞬躊躇して違うボタンを押した。ずらっと並んだ沢山の名前からひとつを選び出し、繋がるよう心の中で祈りを捧げる。
 五コール目、いつになく遅いタイミングで、電話先の人物は応対に出た。
 きっと、今とても困った顔をしているに違いない。無視しようかどうかを、この十秒にも満たない時間で逡巡し、決断を下したのだ。
 想像して苦笑が漏れて、綱吉はギリッと奥歯を噛み締めた。
『十代目……』
「獄寺君、どこ。無事なんだよね?」
 弱々しい声に畳みかけ、綱吉は足を踏み鳴らした。闇に染まる夜空を仰ぎ、またひとつ窓ガラスが割れる音を聞いて臍を噛む。あれから一時間以上楽に経過しているのに、獄寺を取り巻く状況は好転している風に感じられなかった。
 疲れた様子を声から受け止め、綱吉は乾ききった唇を舐めた。
 数秒の沈黙、やがて深い溜息。きっと銀髪を掻き上げて、弱り切った表情で言葉を探して視線を泳がせているのだろう。様相を脳裏に思い描き、綱吉は手近な壁を一発殴った。
『もうバレてるんですね』
「そうだよ、分からないとでも思った?」
 あんな白々しい嘘で騙し通せると考えていたなら、獄寺は救いようの無い大馬鹿者だ。
 呆れ半分で呟き、綱吉は苛々を噛み締めて左肩と顎で携帯電話を挟んだ。すっかり嵌めるのに慣れてしまった手袋を、感覚だけを頼りに左右嵌める。この季節、毛糸製品は暑過ぎるのだが気にしない。
 琥珀を眇めた彼の耳元で、獄寺は低く笑った。
『敵いませんね、十代目には』
「なに、知らなかったの?」
『いいえ。場所は……残念ながら、かなり移動してますので具体的には。怪我は、お恥ずかしながら』
「してるの!?」
『かすり傷です、足に。ガラスの破片で』
 爆風の衝撃で飛んできたガラスにやられたのだと言葉少なに告げられ、綱吉は拳を作った。もっと早く駆けつけていたらと、後悔が胸で渦巻く。
 それに、獄寺の現在地が不明とあっては、救出に行くことが出来ない。
 行き当たりばったりで特攻するものではないとリボーンに叱られた気分になり、軽く落ち込みかけていた綱吉は、携帯電話を握り直したところで新規メールが届いているのに気付いて眉を潜めた。
 通話を生かしたまま、画面を切り替えて添付されていた画像を引っ張りだす。
 瞬間、彼は気が回りすぎる部下のお節介に肩を落とした。
「獄寺君、いい? 今行くから、じっとしてて」
『十代目?』
「ほんと、ヤになるよ」
 脳裏に浮かぶバジルの、茶目っ気溢れる笑顔に苦虫を噛み潰したような顔をして、綱吉は移動の邪魔になるからと通話を、今度は自分から一方的に切った。
 液晶画面に表示された地図、赤いマーカーは初期に見た地点よりも若干南西方向にずれていた。獄寺との携帯電話での通信を傍受して、電波の発信源をすかさず特定してくるバジルの手腕には恐れ入る。
 綱吉は周囲の景色と画面上の地図とを見比べ、目印にする建物を特定すると携帯電話を閉じた。ポケットに捻じ込み、深く息を吸って吐き出す。目を閉じて気持ちを鎮め、穏やかに、そして強く。
 次に瞼を開いた時、彼の瞳は鮮やかな日の出を思わせるオレンジの光を宿し、眼前の夜空を鋭く睨みつけた。
 十一秒後、突如乱戦に割り込んだ火の球とも思しき残影に、瓦礫の山を前に機関銃を構えていた男達は揃って仰け反り、悲鳴をあげた。一瞬にしてあらゆる武器が高熱の為に溶けて歪み、使い物にならなくなる。訳も分からず四方八方に短銃を発射した男により同士討ちが展開されて、断末魔の叫びが離れた場所で身を隠す獄寺の耳にも届いた。
 解いたネクタイで右太腿を縛り、出血を抑え込んでいるが同時に血流も悪くなる。放っておけば爪先から細胞が壊死するのは、目に見えて明らかだ。
 綱吉の代理だからと張り切ってめかし込んで来たというのに、上着はボロボロ、シャツも泥と血にまみれて二度と袖を通せそうにない。綱吉が綺麗だと褒めてくれた銀髪も、何本か毛先が焦げて縮れてしまっていた。
 まさか晩餐会自体が罠だとは思わなかった。
「十代目……」
 闇夜から舞い降りた鮮やかな炎を目にして、夢見心地に呟く。ボンゴレ至高の存在たる、大空の炎を纏いし青年を前に、これまで激しい戦闘を繰り広げてきた構成員の多くは、その眩さに恐れ戦き、ほうほうの体で遁走を開始した。
 リーダー格らしき男が、割って入った綱吉を攻撃するように頻りに檄を飛ばす。けれど最早誰の耳にもその声は届かず、鉛の弾丸は鉄壁の防御力を誇る匣兵器に阻まれ、彼の絹の肌を切り裂くのは叶わなかった。
 たった一人、現れただけだ。だのに戦況は、圧倒的なまでにひっくり返された。
 追走しようとする部下を制し、獄寺はよろり、穴だらけの壁を背に立ち上がった。転んだ際に打った肩を庇い、傷を負った左足を引きずるようにして綱吉の元へ歩み寄ろうとする。けれどそれより早く、ナッツを匣に戻した綱吉がツカツカと彼の方へ歩み寄った。
 細かい傷だらけの獄寺の顔が、にわかに綻ぶ。
 それを。
「いでえ!」
 綱吉はイクスグローブのまま、思い切り彼の頭を殴り飛ばした。
 ゴッ、と実に良い音がして、瓦礫が山積する大地に上半身を沈めた獄寺を睥睨し、綱吉はふん、と荒く鼻息を吐いた。胸を踏ん反り返らせて、呆気にとられるボンゴレの構成員を前に唇を尖らせる。
「いってて……」
 よろめき、呻きながら身を起こした獄寺は、銀髪の間に潜り込んだレンガの破片を払い落としながら、今夜の襲撃の中で一番痛かった攻撃を放った人物を仰ぎ見た。
 綱吉の額には、依然としてオレンジの炎が煌々と灯っていた。
「じゅ、十代目……?」
 彼は獄寺を助けに来たのではなかったのか。だのに何故、臨戦態勢を解かないのだろう。
 恐怖に顔を引き攣らせた嵐の守護者をねめつけ、綱吉は先ほど彼を殴った右の拳を更にぎゅっと、握り締めた。
「獄寺君」
「は、はいっ」
「なんで救援要請を出さない!」
 見れば獄寺が連れて来た面々のうち、数人分の顔が見当たらない。誰もが傷だらけで、必死に応戦したと分かるが、劣勢を跳ね返すに至る決定打は綱吉登場まで待たねばならなかった。
 もしこのまま放置されていたら、ジリ貧に陥って壊滅状態に追い込まれてもなんら不思議ではない。
 綱吉の怒りはもっとも過ぎて、獄寺は反論を封じられて口篭もった。
「……すみません」
 叱られて、仔犬みたいにしゅん、と耳を垂れる。落ち込み、反省していると分かる姿に綱吉は肩を竦め嘆息すると、やれやれと首を振って前髪を掻き上げた。
 露になった額が隠れる頃には、オレンジの光も消え失せて、彼はボンゴレ十代目ではない、ただの沢田綱吉に戻っていた。
 肩の力を抜いて深く息を吐き、崩れ落ちるようにして蹲る獄寺の前で膝を折る。正面から顔を覗き込まれ、獄寺は煤けた銀髪を揺らして大きな瞳をゆがめた。
「すみません、でした」
「分かってるなら、どうして」
「これしきのこと、俺ひとりでなんとか出来なければ」
 ボンゴレの後継者である綱吉の右腕など務まらないと、そう言いたかったようだ。途中で咳き込んで言葉を中断させた彼の、あまり宜しく無い顔色に肩を竦め、綱吉は先ほど思い切り殴った所為で瘤になっている彼の頭に手を伸ばした。
 慰めるつもりはないが、よしよしと撫でてやる。
「十代目」
「何度も言ってるけど。俺は君に、敵陣に突っ込んで欲しくて、傍に置いてるわけじゃないんだよ」
「それは、分かってます」
「分かってない」
 指輪争奪戦の頃から、本当に彼は基本的な部分で変わっていない。いや、少しばかり動機が不純になっている分、余計に厄介だ。
 綱吉の手を煩わせないよう、心配させぬよう、ちょっと状況が不味くなると途端に連絡を寄越さなくなる。ひとりで対処しようとして火傷をして帰って来る姿を見せられて、綱吉がどれだけ胸を締め付けられているのか、気付いていないわけでもあるまいに。
 男としてのプライドが先に立つ彼に辟易しながら、綱吉はその高い鼻を、思い切り爪で抓みあげた。
「いでで、でっ」
「ったく、もう。君って本当、頑固で我が儘で分からず屋で、協調性が無いよね」
「それは俺じゃなくて雲雀のヤローじゃないですか」
「ううん、君も充分そう」
 もぎ取られてしまいそうなほどの痛さに涙目になった獄寺が叫ぶが、綱吉はきっぱり断言して唇を尖らせた。パッと手を離し、赤鼻のトナカイになっているとカラカラ笑い飛ばす。
 しょんぼりしている彼をもう一度撫でて、綱吉は最後、額を小突いた。
 拗ねている獄寺に立てるかどうか訊ね、仲間の介抱に勤しんでいる部下たちに綱吉は幾つかの指示を飛ばした。
 警察や公安が来る前に、さっさと撤収しなければならない。車を調達するよう叫べば、何処からか眩いライトが灯り、エンジンを唸らせて何台かの車が綱吉たちの前に姿を現した。
 敵か、と一瞬警戒した彼らを嘲笑うかのように、先頭の一台のドアが開く。
「……手際よすぎるよ」
「褒め言葉として受け取っておきます」
 呆れ果てた綱吉の言葉をにっこりと受け流し、バジルは同胞の回収に走って行った。
 呆気にとられる獄寺が、結局大勢を巻き込んでしまったことを悔いながら綱吉を窺い見る。
「ちゃんと、みんなに謝るように」
 獄寺がもっと早く決断していたなら、被害はここまで大きくならなかった。言外に告げると、彼は頷き、すみません、と小さく呟いた。
 すっかり落ち込んでしまっている彼を見下ろし、綱吉は苦笑した。
「さーって、じゃあ獄寺君への罰を決めないとね」
 綱吉の安眠を妨害した罪は重い。足の傷のお陰で自力では歩けない彼に肩を貸してやり、綱吉は遠くを見据えて言った。
 耳元で響いた声に、獄寺がまた気落ちした顔をする。それを横目で窺って、先ずは怪我の手当てからだと嘯いた。装甲も頑丈な四輪駆動の後部座席に乗り込み、ドアを閉めて運転手たるバジルが戻って来るのを待つ。
「責任は取ります。どんな罰でも、受ける覚悟です」
「そう?」
「はい」
 今回は全面的に自分が悪いと頷いた彼に目尻を下げて、じゃあ、と綱吉は先ほど思いついた懲罰を舌に転がした。
 聞き間違いかと獄寺が目を丸くし、折角綱吉が座らせたシートから滑り落ちた。
 足元で横になった彼を楽しげに見下ろし、綱吉が聞き間違いではないと証明すべく、同じ台詞を繰り返す。エンジンを起動させていたバジルもまた、傑作だと笑って獄寺に追い討ちを掛けた。
「そんな、十代目、あんまりです。考え直してください!」
「やーだね」
「では沢田殿のベッドを、ダブルに交換するよう手配いたしますね」
「うん、頼むよ」
「十代目!」
 真っ赤になって叫ぶ獄寺をふたりして笑い、綱吉はぶすぶす煙を吐いている彼の大きなタンコブを小突いた。
「よろしく、俺の抱き枕くん」

2009/07/31 脱稿