沈勇

「ご馳走様でした」
 ぱしん、と両手を叩き合わせると同時に声を響かせ、綱吉は瞑目した。
 日々の食事に感謝の心を述べ、そっと息を吐く。カップラーメンを相手にやるのはなかなか滑稽な図であるが、京子やハルが反乱を起こして家事一切から手を引いてしまっているので、それも仕方が無い。
 彼女らをこれ以上巻き込まないように細心の注意を払ってきたつもりだったけれど、その結果がこの有様だ。
 確かに何も知らされないというのは、辛かろう。突然十年後だとかいう世界に放り込まれて、訳も分からぬまま窮屈な地下での生活を強いたわけだから、女子らが綱吉たちに不信感を抱くのも無理は無い。
 それでも、真実を告げることは出来ない。彼女らが傷つくかもしれないという思いと共に、何故自分たちがこんな目に遭わねばならないのかと、そう直接詰られるのが、怖かった。
「さーて、風呂だ、風呂」
 一足先に椅子から立ち上がった了平が、空元気を振り撒いて叫ぶように言った。
 風呂掃除や湯を沸かすのも、今となっては自分たちの仕事だ。料理、洗濯、掃除、その他諸々。文句も言わずにやってくれていた彼女らの存在の有り難味を、こんなところで実感させられるのはなんという皮肉だろうか。
 胃袋が満たされたわけではないが、待っていてもこれ以上の食事は出てこない。苦々しい顔をしているのは綱吉ひとりではなくて、山本や獄寺も了平の言葉に頷き、椅子から腰を浮かせた。
「行きましょう、十代目」
 空腹が解消できないのは致し方ないとして、せめて風呂にゆっくり浸かって気持ちを落ち着かせよう。先日の戦いの疲れは未だ抜けきっておらず、お陰で真六弔花との決戦に備えた修行も、あまり捗っていない。
 このままでは負ける。未来が閉ざされてしまう。
 焦ってはいけないと分かっていても、焦燥感は拭えない。唇を舐めた綱吉は、手を伸ばして誘ってきた獄寺に、しかし首を振った。
「俺は、後で入るよ」
 上目遣いに告げ、綱吉も机を軽く押して身を起こした。テーブルに並べられたままの容器を集め、使い捨てとそうでないものとを分けていく。
 暗に此処を片付けてからにする、と告げている彼に獄寺は目を瞬かせた。
「流石です、十代目。でしたら俺もご一緒に」
「い、いいよ。俺ひとりで出来るから」
「十代目にこんな雑事をさせるわけにはいきませんから!」
 瞬時に興奮に頬を染め、拳を作って綱吉を褒めちぎり始める。キラキラ目を輝かせて尊敬の眼差しを向けられて、綱吉は肩を落として苦笑した。
 重ねた食器を横から攫っていこうとするのを体で防ぎ、食堂と廊下を仕切る扉前で待ち惚けている二人に視線を投げる。彼らは一刻も早く風呂に入って汗を流したいようで、了平などは置いて行くぞ、と声を荒げた。
「うっせえ、黙れ。お前らも、ちょっとは十代目を見習ってだな」
「ああ、もう。獄寺君もお風呂行って来て!」
 彼の好意は嬉しいが、今は正直邪魔だ。握り拳を振り上げて体育会系のふたりに怒鳴りつけようとする彼の背中に向かい、綱吉は肩を怒らせた。
 目尻を吊り上げて仁王の如く牙を剥いている彼を振り返り、獄寺が心細そうな顔をする。黙って立っていれば凛々しいのに、まるで叱られた子犬のようにしょんぼりと項垂れて、銀髪の青年は小さく首肯した。
 山本が笑い、了平が嘆息する。行くぞ、という彼の号令の元ドアは開かれ、涙を呑んだ獄寺もまた、ふたりに随分遅れて名残惜しそうに食堂を出て行った。
 すっかり静かになったキッチンにひとり佇み、綱吉は汚れ物を流し台に置いて深い溜息をついた。
「い、てて……」
 ドッと疲れが沸いて来て、同時に背中が軋むように痛んだ。
 肩から後ろに手を回し、服の上から肩甲骨の辺りを撫でる。なるべく傷口に触らぬように注意しながら、彼は昨晩鏡で見た背中の状況を思い出し、瞼を閉ざした。
 幻騎士によって作られた十字の傷は、まだ癒えていない。大部分は塞がったものの、傷跡は未だ生々しく刻み付けられたままだ。
 こんな状態だから、肩まで湯に浸かるなど不可能だ。水を浴びせられるだけでも傷に沁みて痛みが生じるし、体を洗うのだって一苦労。だからアジトに帰ってからの彼は、半身浴どころか足湯状態で、汚れは濡らしたタオルでサッと拭くに留めていた。
 修行として言い渡された内容が、戦闘を伴う厳しいものでなかったのは幸いだった。激しく動き回れば汗をかくし、傷の治りも悪くなる。そういうところを見極めて、ディーノは綱吉にああ言ったのだろうか。
「早くみんな、あがってくれないかな」
 使った皿をサッと水で洗い流し、乾燥棚に立てかける。フォークや箸もまとめて漱いで、同じ場所に。
 それでもう、片づけは終わりだった。カップラーメンの容器はゴミ箱に捨てるだけなので、作業はあっという間に完了してしまった。
 ちょっと前までは、この食堂は皆が集まってとても賑やかな場所だった。常に京子かハルのどちらかが居て、子供たちがいて、フゥ太やビアンキも居て、山本に獄寺、リボーン、なにより綱吉も笑っていた。
「俺が弱いのが、いけないのかな」
 どうすれば今のような寂しい状況が元に戻るのか、答えは出ている。けれど実行に移す勇気が出ない。
 広いばかりのテーブルに寄りかかり、時間が過ぎるのを待つ。天井の灯りは眩し過ぎて、途中から光を嫌って彼は目を閉じた。
 目まぐるしく過去の情景が思い浮かび、これから先起こるだろう惨劇を想像して背筋が寒くなる。ひとつでも負ければ即ゲームオーバー、やり直しの利かない戦いに眩暈を覚えた。
「でも、やるしかないんだ」
 ゆっくりと瞼を開き、明るさに目を慣らして首を振る。鈍い痛みを訴える頭を抱えてテーブルから降りた彼は、思っていた以上に時計の針が進んでいるのに気付き、やや唖然とした。
 ぼんやりしすぎていた。
「やば。お風呂入る時間、なくなっちゃう」
 就寝時間は決まっている、それを過ぎると廊下の電気は一部を残して一斉に消えてしまう。部屋のライトはつくけれど、移動に事欠くことになるので、結果的に皆、ベッドで横にならざるを得なかった。
 そうなる前に、汗だけでも拭ってしまおう。彼は小走りに食堂を出ると、着替え等を置いている部屋に向かい、そのまま風呂場を目指した。
 ゆっくり休めるようにとの配慮からか、二段ベッドだった部屋は個室に切り替えられた。お陰で獄寺の寝言に悩まされることはなくなったけれど、それはそれで少し寂しい。
 自分は彼が思うほど立派な人間ではないのに、馬鹿みたいに信頼して、慕ってくれている。嬉しいけれど気恥ずかしく、時に鬱陶しいけれど、とても心強い。
「悪いこと言っちゃったな」
 先ほどの台所でのやり取りを思い出し、綱吉はもう誰も居ない脱衣所に肩を竦めた。男三人が利用した後だと分かる、見事なぐちゃぐちゃぶりには苦笑を禁じえない。
 足拭き用のバスマットは大きく波打ち、使用済みのタオルもその辺に投げ捨てられている。この惨状は今に始まったわけではないので、女子らもさぞや苦労したことだろう。
「明日の朝、言おう」
 使ったものは自分で責任を持って片付ける。基本的なことだけれどそれが出来ておらず、京子たちに甘えてきた自分を恥じる。落ちていた誰かの、恐らくは山本の物だろうシャツを拾って汚れ物入れに放り込んだ綱吉は、棚に持って来たものを押し込み、トレーナーの裾を握った。
 何度経験しても、この一瞬は緊張させられた。
「いた、った、つぅ……」
 布が傷口を擦り、再生したばかりの皮膚を繊維が引っ掻いていく。幸いにも表層部分を抉られただけなのでこの程度で済んだが、あの一瞬、少しでも逃れるのが遅かったらと思うとぞっとする。自分の肉体がこうやって繋がっている事自体、奇跡に近い。
 それもこれも超直感のお陰であり、上着一枚脱ぐだけで汗だくになっている掌を見下ろして、綱吉は肩を落とした。
 背中に傷を負っているのは、合流を果たした時につなぎの背部分が裂けていたので皆知っている。だけれど未だ完治していないと知っているのはリボーンと、手当てを手伝ってくれるフゥ太くらいだろう。
 仲間には変な心配をさせたくない。特に獄寺が知れば、彼のことだ、騒ぐだろう。
 風呂を共にしない最大の理由は、それだ。彼は綱吉に関わる事項は、どんな些細なことであっても拡大解釈してしまう傾向にある。
 彼だって、メローネ基地での戦闘で無傷ではいられなかった。それなのに今、綱吉に次いで積極的にアジト内で動き回ってくれている。料理も洗濯もてんでダメの彼だけれど、綱吉への負担を減らそうと頑張っている気概は伝わってきた。
 だから綱吉も休むわけにいかない。じくじくする痛みを堪えて奥歯を噛み、彼は下着を足から引き抜くと、曇りガラス一枚で隔てられた浴室の戸を開けた。
 もわっとした湯気がいっぱいに立ち込めており、タイル地の床はどこもかしこも濡れて滑り易い。シャワールームも別にあるが、浴槽に浸かる方がずっとリラックスできるので好きだった。
 転がっていた石鹸に苦笑して、拾って元の場所に戻して蛇口を捻る。桶に適当な量の湯を溜め込んだ彼は、それで先ず足を濡らし、次いでタオルを湿らせた。
「…………」
 戦いで負った傷は、なにも背中だけに留まらない。両手、両足、胴体にも数え切れないくらいの傷跡が刻まれている。
 そして。
 鏡に映る己の姿を前に、綱吉は唇を噛み締めた。
 湯気が立ち上る浴室は、外に比べると気温も湿度も高い。サウナほどではないが、じっとしているだけでも汗が滲み、温められた肌は赤みを帯びた。
 左右が逆のもうひとりの自分を見詰めたまま、彼はそっと首に手を伸ばした。鏡の中の綱吉も同じ動きをして、薄ら浮き上がった痣に指を這わせる。
 爪の先で引っ掻いても、凹凸は感じられない。体温が下がれば痣は薄くなり、ちょっと見た程度では分からなくなるだろう。服を着ていたら尚更だ。
 けれど風呂場では隠し切れない。幻騎士の言う通り、本当に命が繋がっていたのだとしたら、獄寺も山本も、あの時の事を覚えているかもしれない。
 彼らが罪の意識を感じるような真似は避けたかった。
 消えたように見せかけて一向に消えてくれない痣を前に、彼は苦い唾を飲み込んだ。
「早く出よう」
 綱吉にとっても忌まわしい記憶でしかない。信じた仲間に苦しめられるなど、二度と起きて欲しくない。
 桶の湯を足元に流し、新しく蛇口から湯を注ぎ足して顔を洗う。肌を湿らせると余計に赤みが強く現れて、どの痕が誰の手によるものかまではっきりと思い出された。
 奥歯を噛み締めて嗚咽を堪え、二度立て続けに顔に湯をぶちまける。さっさと忘れて、部屋に戻って、夢も見ないくらいに深い眠りに就きたい。未来のことも、白蘭のことも、何もかも忘れてしまえたらいいのに。
 悲痛な面持ちの自分を見るのも嫌で、彼は肩も使って荒い呼吸を繰り返し、鏡に映る影を殴りつけた。
 ビリッと来る衝撃が全身を貫き、その状態のまま暫く動けない。琥珀を濡らしているのは涙ではなく、顔を洗った際に流れ損ねた湯だと言い聞かせ、彼は唇を舐めた。
 拳を解き、曇り始めた鏡面に掌を押し当てる。指先から伝わる微かな冷たさが、今はなにより心地よかった。
「おれ、は……」
「じゅーだいめー!」
「――!」
 凍える心臓を奮い立たせ、顔を上げる。今一度己と向き合うべく、目の前の存在を睨みつけてやろうとした刹那。
 ガラッ、という音と共に、けたたましいばかりの大声が浴室に轟いた。
 密閉空間なので音響効果は抜群で、木霊のようにエコーを繰り返して徐々に小さくなっていく。思わず鏡から手を滑らせて姿勢を崩した綱吉は、風呂用の椅子から尻を半分はみ出させ、慌ててタオルを広げて下肢を覆い隠した。
 濡れた布が肌に張り付き、気持ちが悪い。
「十代目、矢張りこちらにいらっしゃいましたか」
「ご、獄寺君?」
 ひんやりするタオルに唇を噛んだ彼の耳に、獄寺の元気良い声が届けられる。戸が閉まる音がして、外に流れようとしていた湯気が頭をぶつけてひっくり返った。
 慌てて名前を呼べば、白い靄の隙間から見知った顔がにこやかに微笑んだ。
 椅子ごと体を捻って、綱吉は正面を彼に向けた。タオルは一枚しか持ってこなかったので、背中までは隠しきれない。
「お部屋にいらっしゃらなかったので。折角です、俺がお背中お流しします」
 何が折角、なのだろう。彼のズボンは膝近くまで裾が折り返され、袖も捲くられて肘が出ている。濡れた銀髪を後ろでひとつに縛っており、眼鏡は曇るからかかけていない。
 明らかに、準備万端だ。綱吉の着衣が脱衣所にあるのを見て、最初からそのつもりだったに違いない。
「いい、いいよ。俺、もうじきあがるから」
「そんな。俺と十代目の仲じゃないですか」
 早口で、手も横に振って拒否を申し出た綱吉だが、どうやら彼は照れていると勘違いしたらしい。慌てすぎて声が上擦り、トーンが高くなったのが災いした。
 屈託無い笑みを浮かべ、ずり落ちてきた袖を交互にたくし上げた獄寺が近付いて来る。素足がタイルに散った水を弾く音が、やけに大きく響いた。
 申し出は有り難いけれど、謹んで辞退したい。吹き飛んで行きそうな勢いで首も振ってみるが全く通じず、聞く耳を持たない獄寺は弾む足取りで奥の洗い場に鎮座していた綱吉の元にやって来た。
「っ」
 咄嗟に、防衛本能とでも言うのだろうか、両腕を胸の前で交差させて肩を抱き締める。下唇を噛んだ彼の悲壮な表情に、この距離まで来て獄寺もやっと様子が変だと気付いたようだ。
 前に出し掛けた手が半端な位置で停止し、指が空を握りつぶした。
「十代目?」
「いい、から。心配ないから」
 首の痣が一番見られたくなくて、顔を伏して頭を下げる。背中を丸めて小さくなれば、その分だけ背中が彼の目に留まりやすくなるという発想は、今の彼にはなかった。
 震える声で告げ、俯いたまま首を振る。乳白色のタイルの向こうに獄寺の爪先が見えて、前に出ていた右足がゆっくり引っ込められる様に綱吉は瞠目した。
 椅子の上で縮こまっている己の状況を思い出し、はっとして右肩を抱く手を緩める。
「その傷は……」
 しかし顔を上げるより早く、獄寺が掠れ声で呟いた。
 見られた。これまでずっと、ひた隠しにしてきたというのに。
「十代目、その怪我は」
 メローネ基地での死闘の最中に出来たものだというのは、獄寺も容易に想像がつく。合流を果たした際に切り刻まれた着衣からも、その下の皮膚にダメージが行っているのは誰の目にも明らかだったはずだ。
 けれど綱吉は隠した。まるで何事もなかったかのように、皆の前で平静を装った。
 自分が倒れる事で、この苦境を進む足取りを止めてはいけない。痛いから、苦しいからと泣き言を吐いて迷惑をかけてはいけない。
 傷はいつか癒える、痛みもなくなる。誰かに乗り移るわけでもない。自分ひとりが我慢すれば、それで事足りる。
 だから言わない。伝えない。見せない。
 楽しみや喜びは共有しても、辛さまで押し付けるなど。
「だっ、大丈夫、だよ。殆ど治ってるし、見た目が派手なだけで、全然、もう平気だから」
 絶句し、次の言葉が続かないでいる獄寺に、綱吉は慌てて言い繕った。依然両腕は胸元に交差したままだけれど、姿勢を起こし、一メートル少々先にいる彼に向かって伸び上がる。
 前に出ようとして浮き上がった椅子が、カコン、とタイルを削って音を立てた。
「っ」
「ほんとに、痛いとか、そんな、酷い怪我じゃないから。まだちょっと沁みるけど、そんなに、ね?」
 自分でも驚くほど饒舌に、言い訳がましい台詞を並べ立てていく。だのに獄寺の顔色は悪くなるばかりで、青紫色の唇を戦慄かせ、限界以上に目を見開いた。
 脇に垂れ下がった両手を強く握り、小刻みに震わせている。怯えているのでも、怒っているのでもない反応に綱吉は不安を募らせ、堪えきれず両手を広げた。
 興奮から熱を持った肌を曝け出し、手首に跳ねた水の冷たさではっと我に返る。
 見開いた琥珀がひと際大きく波立ち、彼は今の今まで忘れていたもうひとつの傷跡に右手を這わせた。
 己の首を、あの時の獄寺のように掴む。
「――っ!」
 瞬間、彼はよろめき、そこに積み上げられていた手桶の塔を突き崩して後ろへと倒れた。ガコン、ガコン、と喧しい騒音が響いたのは一瞬だけで、水を打ったような静けさが五秒としないうちに訪れる。お互い瞠目し、すっ転んだ獄寺は自分の状況にさえも驚きを隠せず、呆然と唇を震わせた。
 はっ、と息を吐き、綱吉が先に己を取り戻す。隠そうという意識が強く働いて頚部を覆い隠す右手に左手を重ね、傍目からは自分の首を絞めているとも取れる格好を取っているとも気付かず、泣きそうに顔を歪め、奥歯を鳴らした。
 獄寺の脳裏にフラッシュバックする、夢幻と思い込んでいた情景。綱吉の首に手を掛けたという記憶がまざまざと蘇り、彼は恐怖に息を呑んだ。
 心臓が巨大化して、耳に五月蝿い。怒涛のように血液が体内を駆け巡り、急上昇する体温は彼から冷静さを奪い取った。瞬きを忘れた瞳が写す綱吉は上下左右に激しく揺れ動くが、それは彼自身がジッとしていられず、体を震動させているからに他ならなかった。
 息継ぎがうまく出来ず、酸素を求めて肺が暴れまわる。胸元を掻き毟り、獄寺はズボンが濡れるのも構わずに膝立ちから四つん這いに姿勢を作り変えた。
「じゅ、……だいめ」
「ちがっ!」
 呂律の回らぬ舌で綱吉を呼ぶ。波立つ瞳の彩に呑まれそうになって、綱吉は痣を隠したまま強く首を振った。
「違う。これは、君が思ってるようなものじゃない」
「じゃあなんだって言うんですか!」 
 憤怒を露にした罵声が静かな浴室に轟き、圧倒された綱吉が風呂椅子の上でビクリと全身を強張らせる。見開かれた琥珀に恐怖の色を悟り、握り拳を真下へ振り下ろした獄寺は、肩で息をしながら前傾姿勢を立て直し、気まずそうに顔を背けた。
 上唇を噛み締め、勢いのままに怒鳴ってしまった事を恥じながらも、これを撤回しようとしない。本当はもっと詰りたいところを懸命に堪えている、そんな雰囲気がありありと感じられた。
 気がつけば首を庇う手が、あろう事かそれを絞める形になっている。痣をなぞる形で指を広げている自分に気付き、綱吉は二度咳き込んで腕を下ろした。
 広げたタオルの上に震える拳を添え、未だ苦しい心臓を必死に宥めて苦々しい顔をする。
「獄寺君」
「なんで。どうして。十代目のその、首の」
「違う、ほんとに」
「違わないでしょう!」
 譫言のように同じ台詞を繰り返す綱吉に再度怒鳴り、獄寺は吐く息で立ち込める白い湯気を吹き飛ばした。眦を裂き、今までにない形相で綱吉を睨みつける。ただ眼には戸惑いと苦渋が入り乱れて、不意に泣きそうなところまで歪んだ。
 切れ長の瞳が大きく揺らぐ様を呆然と見上げ、綱吉が息を呑む。右手を広げた獄寺はそれで額を叩き、背筋を伸ばして後ろに仰け反った。
 表情を隠して粗い呼吸を繰り返し、頭の中を懸命に整理しているのか、小声でなにやらぶつぶつ呟き始める。
「違う。そうじゃないだろ、俺。十代目は、あれは、全部夢で」
 本人は声のトーンを抑えたつもりでいるのかもしれないが、場所故かその内容は綱吉の耳にもしっかりと届いた。
 複数の手で絞められたと分かる痣、それも頭部と胴体を繋ぐ重要な部位である首に刻まれているとあれば、過去の彼に何が起きたのか、想像に難くない。
 しかし。
「ゆめ……?」
 気になる単語を彼の独白から拾い上げ、綱吉は目を見張った。
 幻騎士との戦闘の場に獄寺は居合わせていない。あそこに居たのは他にはホログラム化したリボーンと、メローネ基地で偶然出会い、協力してくれた技術者のスパナだけだ。
 確かに幻騎士が綱吉に見せた光景は、悪夢以外の何物でもなかった。信頼し、心許しあった仲間に攻撃され、命の危険を感じねばならなかったのだから、心がぐらつかないわけがない。
 たとえそれが幻であり、霧の術師の卑劣な罠だと分かっていても、泣きながら縋りつき、首に手を伸ばす幼子に動揺しない人間がいるだろうか。
 腸が煮え繰り返るような怒りが沸き起こり、絶望が目の前に暗い帳を下ろす。それと同時に心の中は凛と冷えて行き、脳内には涼風が吹いて広い世界が見えた。
 ああ、そうなのか、と。
 確かにあれは悪夢というより他無い出来事だった。但しそれは、綱吉だけの記憶だ。リボーンやスパナも知っているが、公言するような内容でもないので、口裏を合わせたわけでもないが彼らも黙ってくれていた。
 あの場にいなかった獄寺――居たけれども、それは幻騎士の幻覚であって、彼本人ではない――が、何故こうも狼狽するのか。確かに幻騎士は、この幻が彼らの命に直結しているようなことは言っていた。
 口から出任せとまでは言わないが、別地にある存在の肉体を仮に作り出し、魂ともいうべき記憶をそちらに移築させるなど、夢物語と思って然るべきだ。
 だから綱吉は最初、獄寺が何を言っているのかが分からなかった。
「夢、じゃ、なかった……?」
 彼は己の両手を穴が空くほど見詰め、小刻みに肩を震わせる。顔面蒼白で唇からは血の気が失せ、艶やかな銀髪も今はくすんだ灰色同然だった。
 あまりの動転ぶりに戸惑いが先に立ち、綱吉は寒さを覚えて肩に手を回した。身体も頭も濡らしたままで、その上で汗が引いて熱が奪われていく。体温が下がるのは当然で、身震いした彼は椅子の上で小さくなった。
 膝を擦り合わせ、指先が触れた十字の傷に唇を噛む。もう足だけでも湯に浸けるとか、そういう事は考えられない。一秒でも早くこの場から去りたいのに、許される雰囲気ではなかった。
 広げた指の隙間から気まずげにしている綱吉の姿を見やり、獄寺がはっ、はっ、と短い間隔で息を吐いた。
「俺が」
「え?」
 それまでとは違う、はっきりと鼓膜を震わせる澄んだ音が発せられた。思わず綱吉も反応させられて、顔を上げた。
 しっとりと濡れた絹の肌に刻み付けられた赤い痣もが、獄寺の目の前に曝け出された。
「俺が」
「……獄寺君?」
 掠れる声がそこから先に進まない。唇を戦慄かせて懸命に息を吐くけれど、身体が言葉を発するのを拒んでいる。
 あまりにも様子が可笑しくて、不安に駆られた綱吉は腕を伸ばした。空を掻くように指を蠢かせ、届かないと知りつつも獄寺を求めて手を差し出す。
 広げ、掴み、潰す。綱吉の手の中には空気があるばかりで、他に何も無い。だのに獄寺の目にはその動きが、過去自分が犯した罪を体現しているかのように映し出された。
「あ、ああ……あぁああぁあぁぁあ!」
「ご、獄寺君!」
 突如奇声を発したかと思えば、今度は両手で顔を覆って上半身を前後に激しく揺さぶり始める。転がっていた桶を払い除け、硬く握った拳で思い切りタイル張りの床を殴り、顔面に傷が出来るのも構わず爪を立てる。
 あまりの豹変ぶりに面食らい、止めるよう言うが声は届かない。急にどうしたのか、綱吉さえも頭が混乱して、状況に理解が追いつかなかった。
 行き場をなくした手を思い出し、引き戻して胸元でぎゅっと握り締める。寒気などすっ飛んでしまい、違う意味合いで臓腑を冷やした彼は視線を泳がせ、鏡の中の自分に瞠目した。
「俺が、俺がこの手で。俺は十代目を、十代目を……」
 鮮やかな痣に指を這わせ、境界線をなぞる。聞こえた譫言に慌てて視線を戻せば、床に蹲った獄寺は右手首を左手で掴み、まるでそれが憎い仇であるかのように睨みつけていた。
 しゃがみ込んだまま、神に祈りを捧げるかの如く上半身を後ろへ逸らす。右手は未だ彼の左手に捕らえられたまま、力を失い項垂れていた。
 何をするつもりなのか。直後奥歯を噛み締めた彼の決死の形相に、綱吉はドクン、と心臓を跳ね上げた。
「止めて!」
 悲痛な叫びをあげるが、彼は止まらない。
 振り下ろされた拳が、跳ね返ることなく床に沈んだ。衝撃を逃さぬよう左手でしっかりと押さえ込んでいる為、骨を軋ませるほどの痛みが彼を貫いたはずだ。裂けた皮膚から血が滲み、痛烈な一撃を浴びせられた関節部は赤を通り越して黒ずむ。一発で気が済まなかったのか、彼はうろたえる綱吉を他所にもう一度、己の拳をタイルに叩き込んだ。
 嫌な、痛い音が鼓膜を震わせる。骨が潰れる際に発せられる不快な震動音に綱吉は竦み、両手で己を抱き締めた。
「や、止めて。止めて獄寺君。君の手が、壊れちゃう」
 呂律の回りきらぬ舌で懸命に空気を掻き回し、訴えるが彼は聞こうとしない。かぶりを振って激痛から来る興奮に頬を染め、腹の奥底に溜めた息を大きく吐き出すのみ。
 これ以上やれば本当に骨が砕けてしまいかねない。自分の身体なのに容赦なく痛めつける彼の心理がつかめず、綱吉は耳から入ってくる激痛に涙を流し、甲高い悲鳴を上げた。
「止めてよ!」
 泣き叫び、座っていた椅子を後ろに跳ね飛ばして立ち上がる。次の瞬間には膝が折れて、しゃがみ込んだ彼は懸命に両腕を伸ばし、振り下ろされる直前だった獄寺の右肘と手首を捕まえた。己の全体重をかけて引っ張り、逃れようとした獄寺にこめかみを殴られても放さない。
 ぺちん、と指の背で硬いものを引っ掻いた感触にはっとして、見えた天井の照明に瞳を焼いた獄寺が指先を痙攣させた。
「あ、……」
 肩で息をしながら呟き、ぎこちない動きで首を巡らせる。濡れたタオルを腰元に張り付かせた綱吉が、十字に刻まれた傷を上にして、獄寺の腕を抱えて蹲っていた。
 吐く息は白く濁って見え、顔色は悪い。普段は元気良く跳ねている毛先も、濡れているからか今はどれもしな垂れていた。
 瞬きを素早く二度繰り返した獄寺が、自失呆然として細かく震えている綱吉を見下ろす。指の型が残る手首から左手を外し、カクン、と電池が切れた玩具のように停止した。
 動かない彼に少しの間を置いてから気付き、綱吉が窺う目線で寄りかかる彼を覗き込んだ。
「ごくでら、くん?」
「俺、ですか」
「なに……」
「俺が、十代目の、首を」
 宙を彷徨った瞳がゆっくりと下を向き、上半身を斜めに傾かせていた綱吉を射た。森の奥深くで凪ぐ泉にも似た澄んだ彩が、余計に彼の悲壮感を表していた。
 右肩を持ち上げようとする動きを察し、綱吉は身を引いた。傷つき、皮膚が捲れて黒ずんだ右手を広げた彼は、掌を下にして指先を揺らめかせて綱吉に差し伸べた。
 握ってやるべきかで迷い、その意図が探れずに思いとどまる。実際獄寺も、それを狙ったわけではなかった。
 綱吉の首に残る痣と、己の指先が一致する部位を求め、似通っているようでそうでない型に安堵と恐怖を同時に抱く。
「俺なんですか、十代目」
「っ!」
 覚悟を決め、思い切って問いかける。瞳に理性の光を取り戻した彼の言葉に、綱吉は瞠目し、背筋を強張らせた。
 返事はなくともその態度が表明している。見開かれた琥珀の瞳は、何故知っているのかと、そう問いかける彩を放っていた。
 口ほどに物を言う視線を数秒かけて確かめ、獄寺は最後、皮肉に笑んで濡れた前髪をクシャリと握った。
「獄寺君」
「そうなんですね、十代目。俺が、俺のこの手が、十代目の首を」
「それはっ」
 先ほどまでの騒然ぶりが嘘のように静かになった彼に不安を膨らませ、綱吉が繰り返し名前を呼ぶ。その声を遮って早口に捲くし立てれば、綱吉は反射的に身を引き、己の喉仏を両手で隠した。
 その行動こそが肯定を表しているのだと、この時の綱吉は気付けなかった。違う、と呟いて首を振り、否定しようとするけれど、喉はカラカラに乾いて言葉はそれ以上出てこなかった。
 獄寺が血を滴らせた右手を、痛みを無視して握った。また床を殴るのかと、警戒した綱吉が息を呑む。ひゅっ、と鳴った掠れた音に目を細め、獄寺は力なく首を振った。
 そうしてそのまま頭を垂れ、綱吉の前で両手をつく。
「俺は、十代目になんて事を……」
 悔しそうに歯軋りし、かみ合わせた前歯の隙間から呻くように声を発する。地鳴りにも似た低音に魂が打ち震え、綱吉は泣きたくなった。
 間違いない、獄寺はあの時の事を覚えている――知っている。本当に彼は、囚われの身となり、薬で眠らされていた時に、幻騎士が産み出した幻覚に意識がリンクしていたのだ。
 実体を伴わない体験だから、彼の中では長く夢として処理されてきた。しかし現実は、どうだ。綱吉の首には、彼のみならず大勢の仲間の手によって作られた絞め痕がくっきりと残されている。
 綱吉の右腕になると公言して憚らず、常に綱吉を最優先させてきた彼にとって、あってはならない出来事だった。
 もしこのまま綱吉が隠し通していたならば、いつか数多の記憶に埋没して忘れ去っていただろう。嫌な夢、悪夢。敵が用いた薬による副作用かなにか、程度に考え、思い出したくもないからと鍵を掛けて永遠に封じ込めておきたかったに違いない。
「俺は、俺は……右腕失格、です」
 傷ついた右手を左手で包み、獄寺がカタカタと奥歯を噛み鳴らした。歯の根の合わない彼の姿に痛ましい思いを抱き、綱吉は鳥肌を立てている腕を撫で、首を振った。
「違う。あれは、君じゃない」
「俺です。覚えています、俺がやったんです」
 否定を口ずさんでも、音になった瞬間に否定で返されて会話にならない。いつもは綱吉が喋り始めれば、躾の行き届いた犬の如く行儀良く鎮座して話に耳を傾けるというのに。
 聞き入れようとしない彼の頑なさに腹が立って、けれど波風立てずに巧く言い包める方法も思いつかず、綱吉は揃えた膝の上で両手を握り、臍を噛んだ。
 幻覚として呼び出されたのは、何も獄寺だけではない。基地内にいて、入江正一に捕らえられた全員が、本物と見紛うリアルさで綱吉に迫り、その首を絞めた。
 だからといって、それを告げたところで何の救いにもならない。彼が綱吉の脆弱な喉を潰さんと腕を伸ばしたのは、確かなのだから。
「俺は、なんて取り返しのつかないことを」
「でも俺は、生きてる。無事だよ、こうして生きてる」
「ですが!」
 か細い声で自責の念を紡ぐ彼を前に、両手を広げて綱吉は胸元を晒した。
 普段は着衣の所為で見えない無数の傷を目の当たりにして、メローネ基地で最も苦戦を強いられたのが誰であるかを無言のうちに獄寺につきつける。その意図が綱吉になかったとはいえ、獄寺には衝撃だった。
 自力で目的地であった白くて丸い装置に辿り着けたのは、綱吉だけだ。雲雀の匣兵器の暴走があったとはいえ、別行動中だった獄寺達が敵の掌中に落ちて利用されたのは、言うまでも無い。
 綱吉と別れた後、色々とトラブルも重なりはしたが、結局のところ彼が捕らえられた最大の要因は、己に対する驕りだ。
 匣兵器を手に入れ、強くなったと過信していた。γにも言われたように、覚悟が足りなかった。命のやり取りをしていながら、心のどこかでまだこれはゲームだと、そんな風にさえ考えていた。
 その結果が、これだ。敵の手に落ち、利用され、守るべき人を手にかけた。
「君の意志じゃない」
 呻くように言えば、即座に綱吉が、獄寺の悲嘆を打ち消そうと声をあげた。大粒の琥珀に涙を浮かべ、泣くまいとしながら、俯く獄寺の肩を掴んで揺さぶり、目線を合わせようと下から覗き込んでくる。
 必死の形相を真正面に見て、獄寺は力なく微笑んだ。
「そうかもしれません。けれど俺は、犯してはならない罪を犯しました」
 部下がボスに逆らう、手を上げる、命を狙わんとする。それはマフィアの世界において、命をもって償わなければならないほどの大罪だ。決して許されない、そして許されてはならない。
 言い表しようのない感情を腹の奥底で押し潰し、獄寺は数回に分けて息を吐いた。潤んだ琥珀に弱々しく首を振って、肩にある手を解いて押し返す。前傾姿勢から背筋を伸ばした綱吉は、一向に鎮まらない鼓動を持て余し、唇を舐めた。
 蛇口から水滴が垂れ、自重に耐え切れ無くなって下に落ちる音が響く。少し前までは男三人が湯に浸かり、賑やかこの上なかっただろう場所が、今は息苦しいまでに静かだった。
「獄寺君……」
 言うか言うまいかで迷っている素振りを見せ、獄寺が言いよどむ。綱吉は胸元に押し当てた手で心臓の辺りを撫で、言葉を探して半眼した。
 銀髪の青年がスッと数センチ後ろに下がり、傷ついた手とそうでない手を揃え、掌を濡れて冷たい床に押し当てた。
「どのような罰でも受ける所存です」
「ちょっと待ってよ」
 深く頭を、それこそ床に額をこすり付けんばかりに下げ、ひと息に彼が告げる。俗に言う土下座のポーズを取った彼に慌て、綱吉は腰を浮かせた。
 罪だの罰だの言うけれど、獄寺の意思でことに及んだのではないのだから、綱吉からすれば彼を断罪せねばならない道理はない。けれど獄寺の理屈では、そうはならない。そもそも易々と敵の――入江正一は実際には味方だったけれど――手中に落ちたことからして、彼は裁かれなければならないと感じていた。
 薬で眠らされて、綱吉が装置の前に来るその瞬間まで眠っていたなんて。幸いにもメローネ基地を預かる立場にあった入江正一が、最初からボンゴレ側と考えを共有する人間だったから良かったものの、そうでなかった場合、今頃獄寺の命はない。仲間を盾に取られた綱吉も、恐らくは無事でいられなかったはずだ。
 綱吉の不利にならないよう行動するのが部下の勤めであるに関わらず、首魁を危険に晒した。本当はあの場で、獄寺はさっさと自ら命を断つべきだったのだ。
「そんな事、言わないで」
「いいえ。俺が甘かったんです。俺にもっと覚悟があれば」
 悲痛な声をあげた綱吉を遮り、獄寺は下を向いたまま奥歯を噛んだ。
 なにが右腕か、なにが守護者か。結局は綱吉の足手まといになっただけではないか。
「煮るなり、焼くなり、好きにしてください。お願いします、十代目」
 スッと音もなく姿勢を起こし、その場で正座を作り直す。凛と構えた彼の眼差しは真剣で、それが却って綱吉の戸惑いを増幅させた。
「そんな、俺はそんなつもりじゃ」
「どのような罰をも受けます。覚悟は出来ています。このままでは、示しがつきません」
 武士を思わせる口調と態度に緩く首を振り、綱吉は逃げるように腰を引いた。さっきまで座っていた椅子にぶつかり、心臓が飛び出そうなくらいに驚いて目を見張る。顔を真っ青にした彼の横顔に獄寺は舌打ちし、シャツの上から心臓に爪を立てた。
 敵の卑劣な罠だったとしても、ボスを危険に晒すような部下がいる組織は他から信頼されない。ボス自体の格も低く見られかねない。つまるところ、綱吉が周囲から馬鹿にされることになるのだ。
 綱吉は優しい。その優しさが、時に組織を滅ぼす。非道になれとまでは言わないが、けじめが必要な時は即断出来るだけの覚悟を常に懐に潜めておかなければならない。
 臼歯を軋ませ、獄寺は唸った。
「お願いします、十代目。このままでは、俺は俺が許せない」
 綱吉を傷つけたのに、自分は夢だと思い込んでのうのうと時を過ごして来た。悲壮な面持ちを向けられ、綱吉は返す言葉に詰まり、瞳を波立たせた。
 ここまで言われても尚、決断が下せない。獄寺の言う道理を立てれば、綱吉はあの時基地にいた仲間全員を咎めなければならなくなる。誰ひとりとして、自らの意思で手を伸ばしたわけではないのに。綱吉は彼らを責めようなど、一度も考えたことがないのに。
「十代目!」
 ただ、必死に訴えかける彼を無視することも、出来ない。彼の尊厳を傷つけるような真似は、したくない。
 ならばどうすればいいのだろう。答えをくれる人は何処にもいなくて、綱吉はこみ上げる涙を堪え、鼻を啜った。
 寒い。身体を濡らしたまま時を過ごしたのもあるが、追い詰められた心がなにより温もりを求めて足掻いていた。
 カチリと噛んだ奥歯を鳴らし、揺らぐことない獄寺の瞳を見詰める。このまま放っておけば、彼はまた自傷行為にも走りかねない。綱吉が手を下せないならば自分で、と。彼はそういう男だ。
 綱吉の為ならと言って、簡単に命を投げ出そうとする男だ。
 ヴァリアーとの戦い、ベルフェゴールとの死闘でのやり取りを思い返し、綱吉は睫を震わせ、俯いた。
「……分かった」
「十代目」
「目、閉じて。歯、食いしばって」
 溜息に混ぜて呟けば、瞬きした獄寺が幾らか驚いたような声を出した。
 自ら望んでおきながら、綱吉が承諾するのを想定していなかったらしい。矢張り自分で自分を傷つける覚悟でいたようで、複雑な思いに駆られて綱吉は渋い顔をした。
「獄寺君」
「分かりました」
 惚けて目を丸くしている彼を急かせば、はっと息を吐いた獄寺は慌てて頷いた。居住まいを正し、言われた通りに目を閉じる。殴られると思っているのだろう、顎を引いて本当にきつく唇を噛み締めた。
 痛々しい表情を前にして、綱吉は嘆息した。死ぬ気状態ならば兎も角、今の綱吉の腕力はさほど強くない。拳を作って手首をぐるりと回した彼は、息を潜めてその時を待っている獄寺に目を眇めた。
「馬鹿な獄寺君」
 聞こえないように呟き、綱吉は膝を起こした。腰を覆う布がはらりと落ちるのも構わず、彼との距離を詰める。
「…………」
 身じろぐ気配を鋭敏に感じ取り、獄寺は息を止めて肩を強張らせた。
 だのに衝撃はやってこなかった。痛みもなかった。
 ただ、胸が苦しくなるほどの温もりが、彼を包み込んだ。
「馬鹿じゃない」
 耳元で囁かれた言葉に瞠目し、彼は左手を持ち上げた。肘を軽く曲げて掲げれば、綱吉の冷えた身体が掌に触れた。
 肩に心地よい重みが圧し掛かる。右肩がひと際重い。綱吉の濡れた髪の毛に首を擽られ、シャツは彼を濡らす水滴を吸って肌に張り付いた。
「じゅ……」
「なんで、君ってこんなに馬鹿なのかな。君が自分を許せないって言うなら、だったら俺が、君を許すよ」
「そんな」
「いいんだ。それにさ、俺は、嬉しかったんだ」
 絶句している彼を黙らせ、綱吉は幾らか声のトーンをあげた。あの時の事を思い出し、そっと瞼を下ろす。獄寺の胸に胸を押し当てたまま、彼は呼吸を数え、頭を垂れた。
 甘えるように寄りかかられて、獄寺は迷った末に綱吉の背に腕を回した。抱き締めると布越しに柔らかな心音が聞こえ、リズミカルに跳ねる鼓動に急に泣きたくなった。
 幻騎士の卑劣な策に落ち、綱吉は確かに命の危機に瀕した。腸は煮えくり返り、激しい怒りに魂は震えた。幻とはいえ仲間の命にリンクしていると言われ、容易く手出しできぬよう身動きを封じられた。
 だがその脅し文句に、綱吉は活路を見出した。
「十代目?」
「だって、分かったんだ。みんなはまだ生きてるって」
 分からないと首を傾げた獄寺に明るく言い返し、綱吉は結んだ手を解いた。彼の肩に両手を置いて上半身を起こし、至近距離から戸惑う瞳を見詰める。
 きょとんとしている彼に微笑み、綱吉は目尻を下げた。
「生きているなら、助けられる。救える。取り戻せる。俺はまだ闘える」
 あの時告げられた内容が仲間の死であったら、結果は違っていただろう。幻騎士は、綱吉の心の持ちようを見誤った。
 仲間の命がこの世に繋ぎとめられている限り、ボンゴレ十代目は決して諦めない。己を信じ、仲間を信じ、どこまでも突き進んでいける。それが綱吉の覚悟だ。
 変に先走り、獄寺が己の命を投げ出していたなら、綱吉は二度と立ち上がれなくなるところだった。
「約束したよね、みんなでまた花火を見ようって」
「はい」
「だからそれまで、俺は死なない。君も、みんなも。誰一人死なせない」
 世界を救うだとかなんだとか、大それた事を言われてもピンとこない。それは今も同じだ。
 綱吉が闘うのは、自分たちの小さな幸せを守る為。家族と一緒に温かな食卓を囲み、笑顔で学校に行って、ちょっとした事に一喜一憂して。そういう平凡で、ありふれた、けれどどんな宝石よりもキラキラと眩しい日常を取り戻したい。
 ただそれだけ。
「ありがとう」
「十代目?」
「生きていてくれて」
 視線を伏し、綱吉が囁く。消え入りそうな独白を拾い上げ、獄寺は一瞬だけ目を見開き、直後恥じ入って首を振った。
 礼を言われることなど何もしていない。いや、出来なかった。自分は救われるばかりで、綱吉になんの恩返しも出来ていない。不甲斐なさを呪いたくなる、強くなったつもりで未だ彼の心に遠く及ばない。
「そんな、勿体無いお言葉です」
 鼻の奥がツンと来て、目頭が熱くなる。魂が打ち震え、綱吉についてきて良かったと心の底から実感しながら、彼はこみ上げる涙を堪えて唇を戦慄かせた。
 その前で綱吉が照れ臭そうに笑い、急に眉間に皺を寄せて口をヘの字に曲げた。
「へ、へ……」
「屁?」
「っくしゅ!」
 伸び上がり、顎を反らして斜め上を向く。ふっくらと柔らかな唇から変な息が漏れて、聞き間違いかと獄寺が小首を傾げる中、彼は思い切り唾を飛ばし、盛大なくしゃみを連発させた。
 浴びた時は湯でも、時間が経てば冷めて水に戻る。風呂場には相変わらず湯気が立ち込めているが、この程度では体温を保持するのは難しい。
 首回りに浮かんでいた痣も今やかなり薄くなり、ちょっと見ただけでは分からなくなっていた。
 寒さに震えて膝を叩き合わせ、己を抱き締めた綱吉は盛大に鼻水を垂らした。そろそろ我慢の限界で、濡れた身体を拭くかして温まらないと、本格的に風邪を引いてしまう。
 北極の氷の上に裸で置き去りにされた気分で、ガタガタ震えながら身悶える。そしてふと、獄寺がさっきからピクリとも動かないのに気付いて視線を上向けた。
 彼は心持ち赤い顔をして、呆然と斜め下を見ていた。
「ごくでらく……ん?」
 瞬きもせず、微動だにしない。半開きの口が何処か間抜けで、あまりの不審ぶりに綱吉は眉根を寄せ、彼が見ているだろう場所に自分も目をやった。
 獄寺から見て斜め前、つまりは綱吉の足元。
 及び。
「ん、んん…………んー? って、馬鹿! 助平!」
「ひっ!」
 腰を覆っていたタオルは後ろに落ちている。風呂場とは本来身体を洗い、温まる場所。獄寺のように不埒な思惑を持って入って来ない限り、基本的に誰もが裸だ。
 綱吉の細い脚を隠すものは何もなく、当然男として大事な部分も丸見えだった。
 彼の熱い視線が浴びせられていた箇所を理解した瞬間、綱吉は立ち上がり、拳を振り上げた。
「じゅ、じゅ、十代目。落ち着いてください、落ち着いて。暴力反対」
「五月蝿い、出てけ!」
 敵地にて術中に嵌って首を絞めた罪は許されたのに、不可抗力で見えてしまったものに対しては懲罰が下されるのは、加減が可笑しい。必死に上擦った声で訴えるが聞き入れられず、獄寺は転がる桶を蹴り飛ばし、這うように風呂場を飛び出した。
 残された綱吉が、今の一瞬で一気に上昇した体温を持て余し、汗を拭って唇を噛んだ。
 両手で股間を隠し、ストンと腰を落として冷たいタイルに座り込む。
「もー、はずかし~~」
 真っ赤な顔に涙を浮かべ、思いがけずかいてしまった醜態に地団太を踏む。
 明日からどんな顔をして彼と向き合えばいいのだろう。思わず追い出してしまった背中に目を細め、彼はクシャリと髪の毛を掻き回した。

2009/11/16 脱稿