集いきて

 大量の鰯の群れが空を泳ぎ、地上に散る木漏れ日は眩しい。一昨日の通り雨の影響はもう何処にも見当たらず、八ツ原は多種多様の色に満ちて実に賑やかだった。
 雨の後の冷え込みにより、それまで緑濃かった木々も次々に衣替えを開始した。赤や黄色が目に鮮やかで、地面を覆う落ち葉の絨毯も夏場に比べれば随分とボリュームが増したように感じられた。
 長い歳月をかけて人の足が作り出した森の小道を行きながら、夏目は、一気に進行した紅葉風景に感嘆の息を漏らした。
「凄いな」
 一週間前とはまるで景色が別物だ。同じ場所なのに、色が変わっただけでこんなにも違って見えるものなのかと素直に驚きを表明し、彼は戯れに、伸びていた細い枝の葉を小突いた。
 妖怪が今も多く棲むこの森にも、秋がやって来た。朝晩の冷え込みは険しくなり、ゆっくりとした歩みながらも着実に、冬が迫っているのを感じる。
 近いうちにストーブを押入れから引っ張り出し、空焚きをして動くかどうかの確認をしなければいけない。昨晩の夕食時に滋が言っていたのを思い出し、夏目はまだ白く濁るには早い息を吐いた。
 今はまだ暖房器具に頼らずに済んでいるが、あと一ヶ月もすれば、炬燵の御世話になる日が始まるのだろう。
「少し前まで、夏だったのにな」
 気がつけば、もうこんな季節だ。改めて時が過ぎる速度を思い、夏目はサクサクと小気味の良い音を立てる落ち葉を踏みしめた。
 コートには早いが、ジャケットがないと外を出歩くのに寒い。塔子が用意してくれたこげ茶色のジャンパーは、夏目には少し大きかったけれど、綿入りでとても温かかった。中に着込むものを選べば、真冬でも充分使えそうだ。
 獣はというと、特に夏場と変わったところは見られない。俯いた夏目は、三十センチばかり隣で、厚く積もった落ち葉と小枝に悪戦苦闘しながら重い腹を引きずる規格外サイズの真ん丸い猫、らしき生き物に肩を竦めた。
 前言撤回だ。三ヶ月前よりも格段に、体脂肪が増している。
 果たして仮初の身体として使っているはずの、縁起物である招き猫が太るのかどうかは、甚だ疑問ではあるのだが、中身が他ならぬ妖怪であるので、そういう事も起こり得るのかもしれない。難しく考えると頭が痛くなりそうで、途中で思考を放棄して、夏目は汗を掻いてふぅふぅ言っている斑に苦笑した。
「抱っこしてやろうか」
「喧しい」
 茶化して言えば、即座に低いところから大きな喚き声が聞こえた。
 夏目の祖母であるレイコが遺したもののひとつに、友人帳と呼ばれるものがある。それは彼女が倒した数多の妖怪の名前が記された、いわゆる名簿のようなものだ。
 妖怪にとって、名とは命そのものに等しい。故にこれには未曾有の力が秘められている。端的に言えば、名を奪われた妖怪は、友人帳の持ち主に決して逆らえない、という事だ。
 だから力の無い妖怪から、今よりもっと強くなろうとする妖怪まで、実に多種多様な存在がこれを狙っていた。
 夏目は、幼少期より妖怪が見得た。触れることも、言葉を交わすことも叶った。しかし妖怪とは本来、人の目には映らない。
 夏目には当たり前のように其処にある存在であっても、他に人にとってはそうではない。妙な事を言うと大人には訝られ、子供らからは嘘つきと蔑まれた。早くに両親と死に別れて以降、親類縁者を頼って方々を転々とした彼だが、何処に行ってもその処遇は変わらなかった。
 転機が訪れたのは、レイコが若かりし頃に過ごした町に暮らす、藤原夫婦に引き取られてからだ。
 今までの失敗を肝に銘じ、懸命に妖怪が見える体質を隠す一方で、レイコを知る妖怪たちと出会い、触れ合い、今まで知ることのなかった己のルーツを見た。
 祖母が奪った妖怪の名前を返すと決めたのは、贖罪の意味合いも無論含まれていたが、理由としては半分だ。
 残り半分は、もっと知りたいと思ったから。祖母が、自分が産まれるきっかけとなった人が、誰と出会い、どんな風に生き、この町で時を過ごしたのかを知りたいと、そう願ったからだ。
 友人帳を狙う妖怪は、多い。けれど、人よりもちょっとばかり霊力があるだけの夏目には、これを排除するだけの力が無い。小物妖怪を殴り飛ばすくらいなら可能だが、身の丈が倍以上あるような輩を相手に大立ち回りを気取るのは流石に無理だ。
 斑は、そんな非力な夏目の用心棒を買って出てくれた、奇異な妖怪だ。
 もっとも代償として求められた物も、その友人帳に他ならない。夏目が名前を返却し終える前に命の灯明が尽きた場合のみ、これを継承する権利が彼に与えられる。そういう約束である。
 書面を取り交わしたわけではなく、ただの口約束でしかない。それでも斑は、つかず離れずの距離を保ち、こうやって長らく封印されていた招き猫を依り代として、藤原家で人間と共に生活してくれている。
 彼の存在は頼もしく、なのより温かかった。
「先生、少し痩せないと」
「だから、喧しいと言うておる」
 真ん丸い尻尾をリズムよく左右に振りながら、彼は無理をして夏目の前に出た。猫が歩いた跡が落ち葉豊かな森の小道にくっきりと残され、それを追いかけながら夏目はポケットに入れていた両手を引き抜いた。
 ジャンパーの表面を撫で、視線を下げて周囲を見回す。
 秋は、実りの季節でもある。
「ドングリ発見」
「そんな食えない物、要らんわ。捨ておけ」
「食えるぞ、ドングリ。灰汁抜きすればだけど」
 生のままでは硬くて、とても食べられたものではないのは夏目も認める。けれど先代の知恵は偉大だ、人々はこれにちょっと手を加えることで、貴重な食糧としてきたのだ。
 いつだったか、テレビで見た薀蓄を披露しながら、彼は拾った小さなドングリを掌に転がした。塔子への土産にすることに決めて、ポケットにそっと忍ばせる。
 鳥の囀りが何処かから響き、森が終わりを告げて目の前が開ける。視界が急に広がって、雲間から覗く太陽の眩しさに目を細めた夏目は、落ちていた小枝を踏んで天を仰いだ。
 前方に見える建物に目を細め、はにかむ。
「ちょっと寄っていくか」
 瓦葺の大きな屋根を戴いた平屋建ての建物から視線を手元に戻し、夏目は呟いた。共にいる斑の返事は待たず、さっさと歩き出す。彼が追いかけてくると、全く疑っていない。
 灰色の塀に囲まれた敷地は広く、立派な門構えを潜ると直ぐ右手に手水所があった。
 真っ直ぐ伸びる石畳の先には、木造の本堂が聳えている。広い境内は樹木で囲まれており、そこから舞い落ちた木の葉がそこかしこに散らばっていた。
 参詣者は誰も居らず、境内はがらんとしている。右手奥に住職一家の住まいがあり、夏目の視線は自然そちらに向いた。
「掃除、大変そうだな」
 掃いた傍から木の葉が降ってくるので、きりがない。自分だったらきっと途中で嫌になって、箒を投げ捨ててしまいそうだ。
 思い浮かべて苦笑した夏目は、自分の姿を田沼に置き換えて、真面目な彼ならばきっと最後までやりきってしまうのだろう、とそんな事を考える。
「夏目?」
 だからその、頭の中にあった光景が実際に目の前に現れた瞬間、夏目は顎が外れんばかりに驚き、間抜けな顔をしてしまった。
 境内の裏手に回り込もうとして矢先、進行方向から声が飛んできたのだ。
「うわ、田沼」
 居ると思っていなかっただけに、心臓に悪い。後ろ向きにたたらを踏んで、危うく斑を蹴り飛ばすところだった夏目は跳ね上がった心臓をジャンパーの上から撫で、憤慨している丸い猫に両手を合わせて頭を下げた。
「……どうかしたか?」
「あ、いや。すまない」
 ひとり芝居を興じている彼に首を傾げ、田沼は竹箒を左手に持ち替えた。太い柄の先で肩を叩き、突然の友人の訪問に怪訝に眉根を寄せる。
 だが数秒とせず皺を解き、嬉しそうに目尻を下げた。
「何か用とか?」
 理由はどうであれ、休日に会えたのは嬉しい。素直に感情を顔に出した彼に照れ臭さを覚えながら、夏目は問いかけには首を横に振った。
 見事に色付いた紅葉に惹かれて、斑と一緒に近くを散歩していただけだ。その通り道に田沼の家、とも言える寺があるのが見えたので、ちょっと立ち寄ってみただけ。
 取り立てて火急の用件があるわけでもなく、本当に気まぐれを働かせただけなので、気を使われると逆に恐縮してしまう。正直に告白した夏目は笑いながら頭を掻き、田沼もつられて肩を揺らした。
「そうなのか」
「うん」
 相槌に頷き、そこで会話が終了してしまう。だけれど以前のような、微妙な気まずい空気はあまり感じられなかった。
 無理をして喋っても、どうせ途中で言葉が出てこなくて詰まってしまう。だったら最初から、言葉少なにしていた方が楽だ。田沼もあまり多弁ではなくて、口下手な夏目の気持ちを良く酌んでくれている。
 けれど無表情のままではいられなくて、夏目は気の抜けた笑顔を浮かべ、それを見て田沼は急に両手を叩き合わせた。
「そうだ」
 箒も一緒に揺れ動き、弾みで地面に倒れてしまう。円錐に形作られていた落ち葉の真上に沈んで、折角集めたものが周囲に四散した。
 竹筒で頭を叩かれそうになった斑もが、ぎょっとして後ろ向きに飛び跳ねた。
「どうした?」
「夏目、時間はあるか?」
「あ、ああ、うん。大丈夫」
「ニャンニャン先生も?」
「誰がニャンニャンか!」
 彼が大声を出すのも珍しく、またも驚かされた夏目に向かって田沼は早口に捲くし立てた。膝を折って屈み、箒を前にして後ろ足立ちでドキドキしている斑にも問いかける。
 刹那、名前を呼び間違えられた妖怪は大声で怒鳴り散らしたが、彼は気にすることなく倒した箒を拾って立ち上がった。
「夏目、ちょっと頼めるかな」
「え?」
「良い物持ってくる」
 そしてやおら竹箒を夏目に押し付けると、自分はくるりと踵を返して駆け出した。
 慌てた夏目が追いかけようとするが、彼は右手を振ると楽しそうに叫んで自宅の裏に消えてしまう。境内に取り残された夏目はぽかんとし、同じような顔をしている斑と見詰め合って首を右に倒した。
 頼むとは、なんのことであろうか。考えて、慣れない所為でしっくり来ない竹箒に顰め面をする。これを押し付けられたのだから、即ち掃除を手伝えとか、そういう意味なのだろう。
「うえぇ……」
 これが良いものだとはとても思えず、肩を落とした彼は呻き声をあげ、仕方なく学校の箒を持つ感覚で足元を掃き始めた。
 斑が人を馬鹿にして呵々と笑うので、箒の先で不細工な顔も払ってやる。砂埃を飛ばされて咳込んだ彼はこめかみに幾つも青筋を作り出し、怒鳴ろうと大口を開けたものだから、夏目が払った箒から飛んだ枯葉をまともに咥えてしまうことになり、今度は腹を上にして噎せ返った。
 程無くして田沼が先に集めていた分に少しだけ上乗せして、あまり綺麗とは言えない枯葉の山が出来上がった。
「とうっ」
「ああ!」
 そこへ復活した斑が、嫌がらせよろしく腹這いに飛び込んできた。
 折角集めたのにまた散らされて、これを繰り返すこと合計四回。その度に斑の頭にタンコブが増えていったが、懲りる事無く五度目に挑戦すべくタイミングを計っていた矢先、ようやく田沼がふたりの元に舞い戻ってきた。
 両手に大量に、何かを抱え込んでいる。
「悪い、待たせた」
 余程急いできたのだろう、最初に履いていた靴ではなく、サンダルを引っ掛けた足で彼は息を弾ませ、夏目の少し手前で立ち止まった。
 作務衣に温かそうな半纏を着込んだ彼は、両手に抱き締めたタオルを慎重に広げると、怪訝にしているひとりと一匹に持って来たものをひとつ取って差し出した。だがパッと見ただけでは、その正体は解らない。
 銀色のアルミホイルに包まれた、長さ二十センチほどの塊がゴロゴロしている。全部で五つか、六つはあるだろう。どれもラグビーボールを小さくしたような楕円形だ。
 手渡されても、触感はアルミホイルのガサガサ感しかない。試しに握ってみると、中身は案外しっかりしているようで硬かった。
「これは?」
「サツマイモに決まってるじゃないか」
 自分ひとりでは答えを導き出せず、降参だと夏目は両手で持ったそれを掲げて田沼に問うた。ところが彼は、聞き返されたのが不思議らしく、分かっていない様子の夏目に逆に首を傾げた。
 芋を返してもらい、膝を折って山盛りの枯葉の傍に並べていく。
「それ、どうするんだ」
「知らないのか?」
「なにを」
「焼き芋にするんだよ。もうちょっと集めた方がいいな」
 かなり沢山集めたつもりでいた落ち葉も、これでまだ足りないらしい。田沼の言葉に夏目は緩慢に頷き、遠く、風に揺られる木々に目を向けた。
 それにしても、と思う。
「出来るのか、こんなので」
「やったことない?」
 いかにも貧相な枯葉の山を箒で指し示した彼に、田沼は質問で返してきた。黙ってもうひとつ頷くと、意外そうな顔をして、田沼が箒を引き取るべく手を前に出した。
 そんな顔をされる謂れはなくて、思ったことが顔に出てしまった夏目を笑い、彼は芋を包んできたタオルを細く畳んで首に巻きつけた。
「なら、尚更いっぱい集めないとな」
 拗ねた夏目とは裏腹に、楽しそうに笑って箒で地面を撫でる。この辺りにはもう殆ど落ち葉は残っていなくて、当たりをつけた彼は境内の奥へ、奥へと突き進んでいった。
 置いていかれた夏目が、どうすればいいのか分からずに困惑した様子で足元を見た。不恰好にアルミホイルで包まれたサツマイモをひとつ取り、しげしげと眺めて、試しにちょっと捲ってみれば本当に紫色の皮が出て来た。
「焼き芋か。風雅だの」
「先生まで」
 一番大きい芋は自分のものだと宣言し、彼は食べ物が得られると分かった途端目を輝かせ、田沼の手伝いに走って行った。
「夏目、悪い。塵取り持って来てくれないか」
「分かったー」
 遠くから呼びかけられて、無視することも出来ない。夏目はやけくそ気味に怒鳴り返して周囲を見回し、彼が言う塵取りを探して枯葉舞う境内を駆け出した。
 

 大量の枯葉に火をつける作業からして、大変だった。
 万が一の時の為にバケツに汲んだ水も用意して、白い煙が濛々と立ち込めた時は全員が揃って噎せ、そして腹を抱えて笑った。
 焼き上がりの時間は、焼き芋を提案した田沼も良く解らないというから、試行錯誤の繰り返しだった。もういいだろうと思って取り出したらまだ生焼けで硬くて、結局ちゃんと芯まで熱が通ったのは、六つのうち、半分の三つだけだった。
 斑が狙っていた一番大きな芋は、彼が急かしたので加熱が充分ではなく、表面が少し色付いただけで中身は殆ど生だった。
 それでもどうにか人数分確保出来たのが嬉しくて、夏目は田沼が枝で穿り出した、湯気を立てるアルミホイルに顔をほころばせた。
「熱いぞ」
「分かってる」
「早く、早くせんか」
 真っ黒焦げになった枯葉を掻き分け、田沼が次を探して枝を動かす。夏目はしゃがみ込み、地面に転がるアルミホイルを小突いて、持てそうな温度になるまで大人しく待った。
 背中に登って肩から前を覗き込む斑が、夏目の鈍間さを咎めて早口に捲くし立てる。バシバシと後頭部を頻りに叩かれて、髪型を乱された夏目は彼に聞こえる音量で舌打ちした。
「ちょっと待ってくれ、先生」
「いやじゃ。はよう寄越せ、寄越さんかい」
 掴めないようでは、ホイルを剥がすのも無理だ。地面に落として、土で汚れてしまっては一大事であるし、此処は慎重にいくべきだと言っているのに、せっかちな斑はちっとも聞こうとしない。
 次の芋を見つけ出して転がした田沼が、見かねて首に巻いていたタオルを外して貸してくれた。
「悪い。まったく、先生はこれだから」
 短く礼を言ってぶつくさと愚痴を零し、布一枚を間に挟んだお陰でやっと持てる熱さのアルミホイルを膝に置く。端は漕げており、直接指で抓むのは怖くて出来ず、夏目は木綿のタオル越しに掬い取ると、ゆっくりと皺を伸ばして剥がしていった。
 竹櫛を通し、中まで火が通っているのは確認済みだ。その作業を隣で田沼がやっているのを見て、夏目はふんわりと鼻腔を擽った甘い匂いに喉を鳴らした。
「お」
 やっと出て来た芋の表面が、ちょっとだけ艶々している気がした。
 焼く前に見た時よりも、皮の紫色が濃くなっている。指で押すと簡単に凹んで、爪が刺さった部分から黄色が顔を覗かせた。
「ほぉぉぉ」
 夏目の背中を駆け上った斑が、人の頭の上から歓喜の声を上げた。真上に圧し掛かられて首を引っ込めて、あまりの重さに耐え切れず、夏目は上半身を揺さぶって彼を落とした。
 転がり落ちた巨大猫が腹を上にしてじたばた暴れるが、構う事無く夏目は一気に脆くなった皮を次々めくって行った。面白いほど簡単に、ぺりぺりと剥がれる。食欲をそそる匂いが周囲に立ち込め、思った以上の出来栄えに田沼も嬉しそうだ。
「凄い、本当に焼き芋だ」
「何が出来ると思ってたんだよ、夏目」
「え、と……焼き芋?」
 石焼窯ででも使わないと作れないと思っていただけに、素直に驚いて感動している夏目に田沼が言う。二つ目の芋もしっかり蒸せているようだと頷いた彼は、まだ残っている筈の芋を探し、更に枝で灰を掻き回した。
 当たり前のことしか言えなかった夏目は照れ笑いを浮かべ、半分程皮を向き終えた芋を縦に構えた。下半分はまだアルミホイル、そしてタオルで包んだままだ。
 こうして持っているだけでも涎が口の中に溢れてくる。生唾を飲んだ彼は目を細めて満面の笑みを浮かべると、表面に軽く息を吹きかけ、大きく口を開いた。
「火傷するなよ」
「分かってる。いっただっきま――」
「す!」
 苦笑する田沼に返事をして、掛け声一番、齧り付こうとした彼の前を、ヒュッと風が走った。
 その巨漢につりあわない素早さを発揮し、斑が夏目の眼前を横切った。一秒遅れで口を閉じた夏目は、空振りした前歯のぶつかる音と衝撃に目を見開き、何も噛み千切れなかった口をカチカチ言わせた。
 手の中がちょっとだけ軽い。
「え、え……あー!」
「ふふ~ん、早いものがふひぃ!」
 何が起きたのか咄嗟に理解出来ず、うろたえた彼の右手で斑が勝ち誇った顔をして腹を叩いた。頬は通常の倍に膨れ上がり、中に何が入っているかは一目瞭然。
 けれど咀嚼しながら喋っていた彼は途中で急に身体全体を真っ赤にして、頭の先から湯気を吐いてひっくり返った。
「あふ、あひっ、ひ、あふぁ!」
 口を大きく開け、頭を左右に振ってじたばた暴れる。砂埃が舞い上がり、手で払って避けた夏目は、立て続けに色々あり過ぎて理解が追いつかず、目を白黒させた。
 横で一部始終を見ていた田沼が、堪えきれずに噴き出した。
「ニャンニャン先生は、食い意地が張り過ぎてるな」
「って、先生!」
 折角人が食べようとしていたものを横取りするとは、なんという泥棒猫だろう。しかしその悪行のために、口の中が熱々のサツマイモでいっぱいになり、吐き出すことも飲み込むことも出来なくて苦しい思いをしている。これぞ自業自得というものだ。
 両手で口を押さえて真っ青になった斑に、いい気味だと溜飲を下げ、夏目は残った半分の焼き芋に目を落とした。
 今度は奪われないよう慎重に、もう一度皮を向いて表面に息を吹きかける。
「……美味しい」
「それは良かった」
 欲張りすぎない量を齧り取り、舌に転がして噛み砕く。歯応えは無いに等しく、スッと溶けるように消えてしまった。
 心の中まで温かくなる味に、表情が緩む。見守っていた田沼も嬉しそうに頷いて、自分も、とアルミホイルを器用に剥いでいった。
 業突く張った斑が舌を伸ばして咥内の熱を吐き、涙目で羨ましそうにふたりを見上げる。可愛そうなので冷ました分を分けてやると、彼は今の失敗をもう忘れたのか、もっと寄越せと夏目の背中によじ登ってきた。
 頭を叩かれ、嫌がった夏目が首を振るが今度は解けない。
「先生、やめろって。こら、痛い」
「喧しい。私にも食わせろ、この馬鹿者」
「ニャンニャン先生、ほら。こっち、食べ頃だと思う」
「なぬぅ!? 田沼、御主いい男だな」
 いったい今まで、彼は田沼をなんだと思っていたのだろう。丁寧にホイルも皮も剥いた焼き芋を差し出された彼は、宝石のように目を輝かせ、夏目を蹴り飛ばして田沼の膝に飛び込んでいった。
 肩が一気に軽くなった夏目が、隣で旨そうに芋を頬張る斑を睨んでからふと、天を仰ぐ。
 空が高い。
「いいなー、なんか」
「ん?」
「今度は西村とか、あいつらも呼んでやりたいな」
 みんなで輪になって、焚き火を囲みながらわいわいと。想像するだけで胸がわくわくする光景に目尻を下げた夏目の言葉に、田沼は相好を崩した。
「そうだな」
 夏目が呼びかければ、大勢集まるだろう。それこそ、人も、人でない者達も。
 思いめぐらせて芋を齧る彼に目尻を下げ、膝にのし掛かって芋を頬張る猫の頭を撫でる。
 彼が笑うのなら、少しの体調不良くらいは我慢してやろう。そんな事を考えて、田沼も晴れ渡る秋空に目を細めた。

2009/11/04 脱稿