神在月

 カレンダーが十月に入り、衣替えも終わって、町の光景にも秋色が目立ち始めた。
 紅葉の時期ではあるけれど、並盛町の街路樹はまだまだ緑色が濃い。これが一斉に赤や黄色に染まるには、もう少し時間が必要なように見えた。
 それでも朝晩の冷え込みは、一時期に比べればぐっと増した。眠る前にしっかり肩まで被った筈の布団を蹴り飛ばし、腹が冷えてそれで目が覚める頻度もほんのちょっとだけ、多くなった。
「さーって、次は移動だな」
「さっさと済ませちまおうぜ」
 二時間目の終了を告げるチャイムが高らかと鳴り響き、一礼の末に教師が出て行くのを見送って、山本が席から立ち上がる。獄寺もガタゴトと椅子を鳴らし、数学の教科書とノートを机の中に押し込むと、その手で横のフックに吊してあった鞄を手に取った。
 彼の言葉に同意して、山本も荷物でパンパンに膨れあがった鞄を机に引っ張り上げた。
「今日は何、作るんだろ」
 彼らの動きを見守って、綱吉は机上を片づけると通学鞄と一緒に持ってきた巾着袋を膝に置いた。絞ってある口を少しだけ緩め、中に入っているものを確かめると、楽しみだと心の中で呟いて顔を綻ばせる。
 次の時間は、二時間ぶっ通しで家庭科だった。
 教室ではなく調理室で、昼ご飯をみんなで作るのだ。だから、今日ばかりは奈々お手製の弁当は持参していない。
 料理上手の母の愛情弁当が食べられないのも、それはそれで残念でならないが、みんなでわいわい騒ぎながら作って食べる食事も、また格別の味わいがある。献立は聞かされていないが、既に終わっている他クラスの生徒の話を聞くに、栗ご飯とみそ汁、サンマ辺りではなかろうか、と予想はついた。
 特に甘くホコホコした栗ご飯は、楽しみでならない。単体でも好きだが、米と一緒に炊いて食べるのも味わい深くていい。
 想像して咥内に唾が湧き、慌てて口元を拭った綱吉は、授業で使う教科書や筆記用具と一緒に、家から持ってきたエプロン等を入れた巾着袋を抱え、立ち上がった。
 山本と獄寺も、各々準備は整っているようだ。
「行くか」
 目が合った山本が言い、綱吉と獄寺が頷く。クラスメイトもそれぞれに荷物を胸に、教室を出て、特別教室棟にある調理室へ向かった。
「楽しみだね」
「今度は失敗しねーぞ」
 前回、水加減を間違えてお粥のようなべちょべちょのご飯が出来上がった事を、獄寺はまだ気にしているらしい。握り拳を作って真剣な顔で宣言する彼に苦笑し、綱吉は前を行く京子と黒川の姿に目を細めた。
 今回の班分けも、ちょっとした楽しみだ。
 勢い勇んでいる獄寺には申し訳ないが、出来るなら彼とは別のチームに入りたい。彼は手先が器用な割に、姉であるビアンキの影響か、料理だけはとことんダメだった。
 許されるなら京子と黒川、そして山本との四人で班を作るのが望ましい。だがそれでは獄寺がひとり余ってしまうので、可哀想でもある。
「美味しく出来るといいね」
 全ては家庭科の担当教諭のさじ加減ひとつ。教室に着いてからのお楽しみ、とワクワクする気持ちを堪えながら、綱吉は階段を登って調理室に続く角を曲がった。
「うわ」
 そこへ、急に目の前を歩いていた黒川が立ち止まった。目の前が塞がれて、危うくぶつかりそうになり、たたらを踏んだ綱吉が後ろによろける。真後ろからの声に気付いた彼女がしまった、という顔をして振り返るのが見えた。
 幸いにも転びはせず、横から腕を出した山本に庇われて事なきを得る。ホッと胸を撫で下ろした綱吉の横では、彼の右腕を自認する獄寺が急に足を止めた黒川に牙を剥いた。
「テメー、何してやがる。アブねーだろ」
「五月蠅いわね。文句だったら、あっちに言いなさいよ」
 もうちょっとで綱吉が階段から転がり落ちるところだった。オーバー過ぎる彼の表現に、そこまででは無いから、と綱吉が慌てて言い繕って手を横に振った。
 騒ぎに振り向いた京子も、困惑した表情を浮かべていた。口元に緩く握った手を当てて、前と後ろ、どちらを気にかけるべきか迷っている様子が伺えた。
「俺は平気だから。それより、どうしたの。何かあった?」
「それが……」
 上擦った声で早口に問い、綱吉は後退した分の距離を詰めた。京子と黒川の間から長い廊下に目を向けて、他のクラスメイトもがざわついている光景に眉を寄せる。
 調理室はもう其処なのに、誰ひとりとして教室に入ろうとしない。
 いや、入れずにいた。
「風紀委員だ」
 綱吉に並んだ山本が、この中で一番高い身長を有利に使って前方遙かに居る存在を口ずさんだ。
 反対側に立った獄寺も爪先立ちになり、山本が目にした存在を視界に入れて顔を顰めた。
「なんで、奴らが」
 並盛中学校風紀委員とは、実質的にこの学校を支配している巨大組織だ。教員も口出し出来ない程の超特権を持ち、頂点に君臨する委員長に絶対服従。風紀を正す目的で組織されているに関わらず、風紀違反甚だしい行動を平然と執り行う、言うなれば不良の巣窟だ。
 その委員長の名前が、雲雀恭弥。
 ふたりの吐き捨てた言葉に、無意識に綱吉の脳裏に彼の姿が浮かび上がった。
 瞬時にカッと頬に朱が走り、勝手に顔が熱くなる。皆に気付かれないように急ぎ片手で顔を覆った彼は、肩を丸めて下を向き、頭の上を飛び交う獄寺達の会話にも混ざらなかった。
「なんだって、風紀委員の奴らが」
「それが、調理室に入れてくれないんだって」
 行列と化しているA組生徒の、先頭から回ってきた情報を伝言ゲームの如く口に出し、京子が大きな瞳を哀しげに伏した。傍らの黒川は、そんな理由では納得がいかないと、腹に据えかねた様子で目尻をつり上げている。
 居丈高に構える風紀委員に、授業を妨害される謂われはない。
「ふざけんな。俺たちゃ、これからその部屋使うんだよ!」
「五月蠅いぞ、そこ!」
 痺れを切らした獄寺が、右腕を高く掲げて振り回した。瞬間、前方から鋭い声が投げ返された。
 他ならぬ風紀委員が、反抗的態度を隠さない獄寺を指さして怒鳴る。だがこの場合、授業を受ける権利を主張する獄寺の方が正しい。横暴な風紀委員に、それまでただ黙って成り行きを見守るだけだった他の生徒らも、彼に触発されたのか口々に「そうだ、そうだ」と叫び始めた。
 声は次第に勢いを増し、渦となって風紀委員に襲いかかる。一対一であったなら全く敵わない相手でも、クラス全員が一致団結すれば臆する事はないと、集団心理が働いているのは明らかだった。
 実力行使に打って出るのも辞さない生徒らに、風紀委員の表情も引きつり始める。黒い学生服にリーゼントヘアと、今時有り得ない格好をしている彼らは互いの顔を見合わせ、忌々しげに唇を噛み締めた。
「早く退けよ」
「チャイム鳴っちゃうー」
 男女の声が入り乱れ、事態は最早収拾がつかなくなっていた。獄寺や山本を始め、騒ぐ生徒を鎮めるのは容易ではない。
 綱吉は巾着袋と教科書を抱き締め、苦々しい気持ちで最後尾から事の行方を見守った。
 授業は受けたい。しかし、風紀委員に反抗的態度を取るのも憚られる。
「なんだって、こんな事に」
 調理室に入れて貰えない理由の説明が未だ成されていない事が、騒ぎを大きくしている主たる要因だ。もしかしたらこの場を納めようとしている風紀委員さえ、知らされていないのかもしれない。
 狼狽する彼らに命令を下しているのが誰か、想像に難くない。風紀委員への反発は、そっくりそのままトップに君臨する人物に向かう。それが綱吉には、歯がゆくてならなかった。
「ヒバリさん」
 誰にも聞こえないように呟き、綱吉は乾いた唇を舐めた。
 と、其処へ。
「雲雀!」
 ガラリ、とドアが開く音がして、矢のように鋭い声が飛んだ。
 ハッとした綱吉が顔を上げるが、クラスメイトの頭に阻まれてまるで見えない。背伸びをして、その場でぴょんぴょん飛び跳ねても、興奮している生徒らの前では、綱吉は無力に等しかった。
 仕方なく人混みを避け、端に寄る。窓の外は綺麗な秋空が広がっていて、鰯雲がのんびりと、地上の喧噪など何処吹く風と優雅に泳いでいた。
「ヒバリさん」
 何故彼が調理室から出て来るのか。不法占拠の主犯は、矢張り彼なのか。
 聞きたくないのに耳から入ってくる激しい罵詈雑言に泣きたくなって、綱吉は辛うじて見える雲雀の姿に唇を噛み締めた。
「なに群れてるの」
「それが、次にこのクラスが、授業に使うだとかで」
「ふぅん」
 委員からの説明に緩慢な相槌を返し、雲雀は鋭い眼差しを騒ぐ生徒らに向けた。
 瞬間、蛇に睨まれた蛙の如く、A組生徒があっという間に静かになった。それまで横暴だ、勝手だと散々風紀委員を詰っていたのが嘘のように、特別教室棟の廊下は水を打ったようにシーンとなった。
 気勢を吐いていた獄寺も、山本までもが、雲雀の迫力に呑まれて咄嗟に動けない。
 ただひとり、綱吉だけが、硬直する友人等の間をすり抜け、果敢に足を前に繰り出した。
 紺色のベストを壁に擦りつけ、狭い隙間を、身を捩りながら進む。やっとの事で最前列に顔を出した彼は、ホッと息を吐いて前のめりになった態勢から瞳だけを上向けた。
「っ」
 目が合った。
 思い掛けず近くに行きすぎた綱吉が、其処にいた雲雀の驚いた顔に目を見開く。琥珀に映し出された姿は最初ぎょっとした風で、すぐに動揺を何処かへ追い払い、あっという間に普段の雲雀恭弥に戻ってしまった。
 綱吉は呆然となり、背筋を伸ばす事さえ出来なかった。無意識に右手を前に繰り出すが、指は虚空を掴んだだけで彼の胸元に引き戻された。
「ガス漏れ発生中で、此処は使用禁止だよ」
「え」
 背を向けた雲雀が、朗々と響く声で告げる。綱吉の声は、にわかに再開したクラスメイトのどよめきにより掻き消され、誰の耳にも届かなかった。
 瞬きを三度繰り返し、彼は姿勢を戻した。両手で荷物を抱き抱え、黒の学生服を羽織った青年の背中を見詰める。
 雲雀は振り向かなかった。
「そんなわけねーだろ、おい!」
 綱吉の姿が消えているのに気付いた獄寺が、級友を掻き分けながら前に来て叫んだ。彼の怒声にも雲雀は無反応で、草壁が開けたドアから教室内に入り、戻っては来なかった。
 獄寺は入り口の前を塞ぐ草壁にまで突っかかっていき、止めに入った山本に羽交い締めにされても諦めない。空気を足蹴にした彼の怒りはもっともだが、風紀委員長がああいう以上、事が真実であれ、嘘であれ、撤回される可能性は皆無に等しかった。
 どうするのか、と額をつき合わせてひそひそ相談しあうクラスメイトを余所に、授業開始のチャイムが無情にも鳴り響く。
「あ、あ、君たち。いた、良かった」
「先生」
 その音と一緒に、廊下を走って来る人がいた。息せき切らした家庭科の女性教師が、ずれた眼鏡を直して呼吸を整えながら、困惑を顔に出して輪になっている生徒らを見回す。
 顎を伝った汗を拭った彼女は、深呼吸ひとつを挟んですまなそうに頭を垂れた。
「連絡が遅くなって、ごめんなさい。ガス器具の調子が今ひとつなんで、今、点検に入って貰っているの」
 だから調理室は使えないのだと、女性教師は乱れきった髪の毛を気にしながら早口に告げた。
 それは先程、雲雀が説明した内容に合致する。
 もたらされた思い掛けぬ情報に、生徒からは一斉に非難の声が上がった。
 どうしてもっと早く、前の授業が終わって移動を開始する前に伝えてくれないのか。今日のこの時間に調理室で実習があるのは、先週から分かっていた事なのに。
 今度は教諭に向かって不平不満を言い連ねる生徒らの、あまりの変わり身の早さに綱吉は舌を巻いた。風紀委員の事など、彼らの頭からはすっかり消え去ってしまっている。
 先生は平謝りで、通常の授業に切り替えるから、と早く教室へ戻るように促した。生徒らも、実習中止は腹立たしいが、ガスの不調で万が一事故が起きては困るからと、仕方なく来た道を戻り始めた。
「ったく、マジかよ」
「あー、昼飯持って来てねーのに。どうすっかなー」
 最後までその場に残った獄寺と山本も、口々に文句を言いながら先生の誘導に従って歩き始める。綱吉だけがなかなか動き出せず、遠くなるクラスメイトの背中と、仁王立ちを続けている草壁とを何度も見比べた。
 もし本当にガス漏れが発生しているのなら、風紀委員ではちゃんとした業者が来る筈だ。もしその業者に、学校の代表として雲雀が立ち会っているのだとしても、ならば何故、副委員長である草壁が此処で人の出入りをチェックしなければいけないのか。
 最初にA組生徒の行く手を阻んだ、役職無しの平風紀委員が迷惑そうに綱吉を睨み、さっさと行け、と犬猫を追い払う仕草で手を振った。
「……失礼します」
 草壁は眉根を寄せたが、部下を咎める事はしない。綱吉も、事情が分からぬまま此処にいても、良いことはひとつもないと悟り、頭を下げて小走りに駆け出した。
「廊下を走るんじゃない」
「ごめんなさい!」
 早速平風紀委員からの声が飛んで、綱吉は振り向き様に叫んだ。しかし足取りは緩めず、登ったばかりの階段を駆け下りて先行する級友を追いかける。
 嵐が過ぎ去り、調理室の前は一気に静けさを取り戻した。
「まさか、沢田のクラスだったとは」
 お役御免となった他の風紀委員を持ち場に帰らせ、依然ひとりドアの前に佇み続ける草壁が、深い溜息の末にひとりごちた。
 割れた顎と厳めしい顔つきとはミスマッチな優しい瞳を細め、そこに苦渋の色を滲ませる。
「恭さん……頑張ってください」
 自分に出来るのは、この場を死守する事くらい。
 ドアの向こうで涙ぐましい努力をしているだろう主を想像し、彼は暑苦しく男泣きした。

 雲雀の姿が、並盛中から消えた。
 否、彼が登校していないわけではない。しかし毎日行われる服装チェックや、朝の遅刻者の取り締まり、抜き打ちの持ち物検査にも、彼はこの一週間、全く参加していなかった。
 学内には居るのは確かなのに、一切表に出て来ない。風紀委員は相変わらずだが、雲雀の不在が影響しているのか、活動内容もいつもよりは若干控えめになっていた。
 そして調理室も、あの騒動からかなりの日数が過ぎているに関わらず、未だ使用不可状態が続いていた。
「どうなってんだろうなー」
 ガス漏れの点検とは、こんなにも時間がかかるものなのだろうか。
 調理室を使う授業などそう多くはなくて、だから別段困りはしない。使えなくなった初日に授業があり、クラス全員が昼食を用意して来なかった綱吉の組だけが迷惑を被ったけれど、せいぜいそれくらいだ。
 その日の昼は、山本が部活前の間食用にとこっそり持ち込んでいたパンを分けて貰って、綱吉はどうにか飢えを凌いだ。
 だが全員が何らかの恩恵に預かれた訳ではなくて、大勢が空腹に苦しめられ、部活のある生徒も、無い生徒も、ホームルームが終わると同時に家に向かってダッシュを決め込んだのは、最早笑い話にしかならない。
 奈々に聞けば、ガス工事など長くても三日あれば終わるという話だった。しかし現実問題、一週間が過ぎても調理室の立ち入り禁止は継続中だ。学校は一般家庭と配線が違うのだろうか、と事情を聞かされた奈々も不思議そうだった。
 しかも、疑問はそれだけに留まらない。
「甘い匂い?」
「そうなの。変でしょ?」
 金曜日の午後、弁当タイムが終わって五時間目が始まるまでの僅かな時間。山本は野球部の面々とグラウンドで走り回り、獄寺は午睡を楽しんで、ひとりぽつんと教室に取り残されていた綱吉に、京子が話しかけて来た。
 胸元に大きなリボンを結び、薄茶色の髪を揺らした少女が無人の椅子に座って神妙な顔をするから何かと思えば、内容は最近耳にするようになった、俗に言う学校の怪談の類だった。
 学校の特別教室棟から、甘い匂いがする。どこから漂っているのかと思えば、それはどうやら誰も使っていない筈の調理室からだ、というのだ。
「あそこって、まだガス工事の真っ最中じゃ」
「それがさー、沢田。誰も業者が来るところを見てないって言うのよ」
 学校側から与えられている情報を繰り返した綱吉に、黒川が京子の後ろから割って入ってきた。長い黒髪を掻き上げ、高い場所から座っている綱吉を見下ろして眉目を顰めて言う。振り向いた京子も、彼女に同調して何度か頷いた。
「どういう事?」
「ガス工事そのものが、嘘じゃないかって話よ」
 事態が巧く飲み込めず、首を傾げた綱吉に彼女は若干苛ついた顔をした。人差し指を立てて左右に振り、一見すると高慢ちきにも見える態度で吐き捨てる。
 いくら物分かりの悪い綱吉でも、此処まで来れば、彼女の言いたい事が大雑把に理解出来た。
 腰を捻って綱吉に向き直った京子も、思案気味に眉根を寄せて物憂げな色を瞳に浮かべた。
「でも、じゃあなんでヒバリさん、そんな嘘」
「雲雀の命令かどうかは知らないけど、風紀委員が調理室使ってこそこそ何かやってんのは、間違いないと思うのよね」
 あの日、調理室から出てきた雲雀は、いったい何の為にそんな嘘を言ってまで生徒を追い払ったのだろう。確かに妙な感じはしたが、だからといって彼が応接室以外の教室を占拠しなければいけない理由など、ひとつも思いつかない。
 訳が分からない、と顔を顰めて頬を膨らませた綱吉の前で、京子がまた神妙な顔つきをして姿勢を低くした。周囲に聞かれては困るのか、綱吉にも近付くように指示を出して机に擦り寄る。
 空いている椅子を引いた黒川も座って、三人が顔をつきあわせたところで、彼女は口を開いた。
「それでね、最近、思うんだけど」
「うん」
「風紀委員の人たち、この頃、ちょっと太ってない?」
 口角の両側に手を添えて外に音が漏れないようにしながら、真面目な顔をして言う。
 固唾を呑んで聞き耳を立てていた綱吉も、黒川も。
「はい?」
 聞こえた台詞に、目を点にした。
「だってね、ちょっとこの辺が、なんだかぷっくりしてきてるの」
 絶句する二人を余所に、背筋を伸ばした京子が自分の頬を指で押した。えくぼが現れて愛らしいのだけれど、彼女が言う風紀委員までもが丸みを帯びた頬をつんつんさせているのかと思うと、想像するだけで寒気がした。
 先に我に返った黒川が、綱吉の机で頬杖をついて苦笑を噛み潰す。
「ちょっと、京子。それは無いんじゃない?」
「でも、花」
 嘘ではない、と親友の言葉を懸命に否定する京子の頭上で、昼休み休憩終了のベルが鳴り響いた。
 キーンコーン、と高い音を放つスピーカーにハッとして、綱吉が居住まいを正す。目の前のふたりは、まだ仲良く口論を展開していた。
 しかし椅子の主が戻ってきたと知ると、急いで席を立って自分たちの席へ戻ってしまった。お陰で話は宙ぶらりんなところで終了、微妙に物足りない昼休みとなってしまった。
 五分後に本鈴が鳴り、程なくして五時間目担当の教師が入ってくる。古典の教科書を広げ、眠気を誘う先生の解説を聞くとも無しに聞きながら、綱吉は近頃めっきり会う機会を持てずにいる相手の事を思った。
「ヒバリさん……」
 右手でシャープペンシルを回し、真っ白なノートに視線を落とす。頬杖をついて、うっかり漕ぎそうになった舟と垂れそうになった涎に焦りながら、彼は手を止めると、背中を丸めて机に突っ伏した。
 交差させた手首に額を重ね、間に挟まれた前髪で肌をぐりぐりと擦りつける。
「もう九日だよ?」
 十月が始まって、一週間と少し。次の連休が明ければすぐに、一年に一度しか訪れない記念日がやってくる。
 家庭教師として押しかけ、綱吉の家に勝手に居候を開始した黄色いおしゃぶりの赤ん坊の記念日が、その一日前。今年は第二月曜日の祝日の三連休があるので、その月曜日に皆で集まって、合同祝賀パーティーをしよう、という計画が立ち上がっていた。
 平日の、学校が終わってから集まって準備して、では時間が掛かりすぎるから、大勢でやるに祝日を利用しない手はない。一日、二日程度の差は、みんながお祝いしたい、という気持ちが充分伝わってくるから、特に気にするつもりはなかった。
 けれど、群れを嫌うあの人は、どんな言葉を使って誘ったところで、来てくれるわけがない。
 だからその点においても、当日を外してのパーティーは、綱吉には有り難かった。
 問題は、どうやって彼に言うか、だ。
「ヒバリさん、気付いてるのかな」
 綱吉は、雲雀の誕生日を知らなかった。
 彼を好きだと自覚したのが四月。その日に雲雀から、五月五日にケーキが食べたい、と言われた。
 当時は何故わざわざその日にケーキを所望されたのか理由が分からなくて、綱吉は単純にこどもの日だから、という意味合いに受け取った。だから色々と試行錯誤した挙げ句、ビアンキの一寸した手助けもあって、作ったのは鯉のぼりを模したロールケーキ。
 持っていって、渡して、その後になって彼の誕生日がその日だったと教えられて、綱吉は落ち込んだし、半分騙された気分で雲雀に怒った。先に教えて欲しかった、と。
 あんな事があっただけに、自分の誕生日が間近に迫っているというのは、彼に伝えておきたかった。だのに、今月に入ってから綱吉はちっとも雲雀に会えていない。
 彼を好きだと気付いて、半年。雲雀に好きだと言われてからも、半年。だのに未だ、堂々と俺たちつき合ってます、と自信を持って言えるような関係になれずにいた。
 エイプリル・フールの約束を守って、今でも毎日欠かさず、「好き」という言葉は届いている。だけれど十月になってから、綱吉は一度として彼の口から直接、その言葉を聞いていない。
「メールだけなんて、つまんないよ」
 機械化された文章では、嘘かどうかも分からない。眠る前に届くたった数文字のメールを眺めるだけなんて、面白くも何ともない。
 五時間目の授業が終わる。結局、開きっぱなしのノートには、シャープペンシルを落とした時に作った黒い点ひとつしか出来上がらなかった。
 頭の重みに潰され続けた影響でか、微かに痺れを訴える腕を振って綱吉は顔を上げた。気怠げに視線を左右に流し、溜息をついて使いもしなかった教科書を引き出しにしまう。次の授業の項目がなんであったかすぐに思い出せず、両手は膝に落ちたまま虚空を掻きむしった。
 上半身を左右に揺らし、当て所なく視線を彷徨わせて当番が消しに掛かっている黒板を何ともなしに眺める。今日が終われば三連休、授業はない。
 学校に来る理由もなくなる。
「はあぁぁぁ」
 盛大な溜息をもうひとつついて、綱吉は綺麗さっぱり片づいた机にもたれ掛かった。ひんやり冷たい木目を指でなぞり、ぐるぐると円を描いて瞼を伏す。
 誕生日なんて、毎年巡ってくる。一度くらい逃したからといって、明日死ぬわけではない。
 それは分かっている。だけれど、矢張り納得いかない。一生に一度しか巡ってこない今年の誕生日を前にして、こうも雲雀と遭遇出来ない事を考えると、避けられているのでは、とさえ思えて来る。
 彼が。雲雀が好きだ。
 始まりは、バレンタインデー。次がホワイトデー。エイプリル・フールを過ぎて、五月頭に雲雀の誕生日。七夕。
 夏休みは期待した程、彼に会えなかった。忙しそうだったし、綱吉も山本や獄寺達と過ごすのに時間を費やして、恋人である筈の雲雀と一緒に過ごした日数は、そう多くなかった。
 学校が再開して、ちょっとは時間が取れるようになるかと思っていたのに、相変わらずすれ違う日々。たまに応接室に出向いても、不在であったり仕事中であったりして、会話は弾まないし触れ合いもごく僅かだ。
「ヒバリさん……俺の事、嫌いになった?」
 この前の調理室前での邂逅だって、ひと言も言葉を交わさなかった。周囲に大勢いたので難しかったかもしれないが、一瞥だけで済ませて、しかもあんなにも露骨に顔を逸らすなんて。
 正直、悔しい。
 思い出すと腹が立つと同時に哀しくなって、綱吉は鼻を鳴らした。
 頭の上では本日最後の授業開始を知らせる鐘が鳴り、教室は実に騒々しい。頭の中は雲雀の事でいっぱいで、到底勉強に身が入る状態でもない。
 許されるなら、今すぐ教室を飛び出して雲雀のところに行きたい。彼の胸に飛び込んで、真実を問い質したい。
 だけれど今の綱吉にはそんな勇気もなくて、周囲に押し流されるままに彼は英文法のテキストを手に取って広げた。
 予定されていた授業が全て終わり、掃除、ホームルームを経て、下校時刻はすぐにやってきた。担任がお決まりの「気をつけて帰るように」という台詞を告げて場を離れ、緊張を解いた生徒達が一斉にざわめき立つ。綱吉の憂鬱など知りもしない獄寺が、いつものお気楽調子で鞄片手に近付いてきた。
「帰りましょう、十代目」
「あ、うん……」
 彼に捕まってしまうと、問答無用で家路をたどらなければならない。本当は応接室に立ち寄って行きたいのだけれど、彼と一緒ではそれはほぼ不可能だ。
 綱吉と雲雀の関係は、同性同士というのもあって大っぴらに出来るものではなかった。それとなく勘付いている人も中には居るけれど、綱吉本人が言い出さない限りは見守る、という姿勢を維持してくれているのが有り難かった。
 だが、彼は違う。獄寺は根本的に、雲雀が嫌いだ。
「あの、獄寺君。俺、ちょっと用事が」
「なんですか? 俺も一緒に行きますよ」
 どうにか言い訳して逃げようとしても、食いついてきて簡単に放してくれない。慕ってくれるのは嬉しいけれど、こうも過干渉されるのは正直なところ、少し迷惑だった。
 そう大きくない鞄を胸に抱き、綱吉は尻込みして唇を浅く噛んだ。綱吉の言った用事に興味津々という顔をして、目をきらきら輝かせて見詰めて来られると、雲雀に会いに行きたいとは、とても言えなかった。
 それに、雲雀が応接室に居るという保証も、どこにもない。
 三時間目が始まる前に、こっそり様子を窺いに行ったけれど、ノックをしても返答は無かった。扉には鍵が掛かっており、中の様子を知る術は綱吉にはなかった。
 もし昼寝をしているのであれば、起こしてしまうのも悪い。風紀委員の仕事で外に出ているのなら、いつ帰ってくるかも分からない。
 ないない尽くしで、打つ手無し。
 咥内に巻き込んだ唇を前歯で削り、下を向いて廊下に出る。正面玄関で上履きを脱いで下足に履き替え、獄寺が急かす中、綱吉はふっと鼻先を掠めた匂いに顔を上げた。
 甘い、バニラの香り。
「ん?」
 獄寺も気付いたようで、発生源を探して視線を左右に泳がせた。
 騒然としている玄関は人も多く、匂いひとつを手がかりに犯人を見つけ出すのは本来とても難しい筈だ。だのに何故か、意外なほどに簡単に分かってしまった。
「風紀委員だ」
 黒い学生服に、前に飛び出たリーゼントヘア。おおよそ綱吉達と同年代には見えない強面顔が二人、雑談を交わしながら綱吉の横を通り抜けていった。
 彼らからふわりと立ち上ったのは、他ならぬお菓子の匂い。
「まったく、委員長も酔狂が過ぎる」
「言うな。誰が聞いているかも分からないんだぞ」
 呆れ口調で片方が呟いて、もう片方が人差し指を口に押し当てるポーズを作った。綱吉が聞いていたとも知らず、彼らは楽しげに笑いあい、校舎の中へと姿を消した。
 呆然と見送った綱吉の肩を獄寺が叩いて、どうしたのかと聞いてくる。
「あ、ごめん」
「いいえ。帰りましょう」
 ハッとして、慌てて背筋を伸ばして鞄を担ぎ直した綱吉は、脱いだまま簀の子に放置していた上履きを急ぎ下駄箱に片づけた。音を響かせて扉を閉め、出口前で待ってくれていた獄寺を追って中学校の敷地を出る。
 自宅に帰る迄の間、獄寺はひっきりなしに色々な事を喋っていたけれど、その大半は綱吉の右耳から入り、左耳に抜けて、記憶に留まる事はなかった。
 脳内を駆け巡るのは、先程の風紀委員の言葉。そして、昼休みに聞いた京子と黒川の会話。
「ヒバリさんの酔狂って、なんだよ」
 テリトリーから姿を消した雲雀。一応、恋人、である筈の綱吉を放り出してまでやらなければならない事など、あるのだろうか。
 考えれば考えるほど分からなくなって、部屋のベッドに寝転がってひとり、悶々と携帯電話の画面を睨み付けた。両手で挟み持ち、ボタンを幾つか押して画面に現れたのは、昨日届いた雲雀からのメールだ。
 ひとつ前に戻る。日付がひとつ、ずれる。次もまた、同じ。
 一日に一通。好き、好きだ、好きだよ、のどれかが順繰りに、ローテーションになって届けられるだけ。
「俺はもっと、ヒバリさんと話がしたいのに」
 枕を膝に抱いて起きあがり、綱吉は新規作成の画面を呼びだして素早く文字を打ち込んだ。えい、と気合いを入れて送信ボタンを押す。
 今、何をしていますか。
 なけなしの勇気を振り絞って飛ばした問いかけに、返事が返ってきた試しは無い。最初の頃は十分もしないうちに返信があったのに、夏を過ぎる頃には、返事が来る方が稀になってしまった。
 彼が忙しいのは分かる。
 分かるけれど、寂しい。
 苦しい。
「会いたい」
 両腕で枕を抱き潰し、沈黙する携帯電話を放り出して再びベッドに寝転がる。全身を投げ出してうつ伏せになり、目を閉じると浮かんでくるのは雲雀の姿。
 あまり表情のある人ではないけれど、時折見せてくれる優しい笑顔が好きだ。綱吉の癖だらけの頭を、ぐしゃぐしゃに掻き回して来る大きな手が、好きだ。
 乱暴で、横暴で、我が侭で、横柄で、勝手だけれど、意外に子供っぽいところがあって。変なところに拘りを持っていて、不器用で、口下手で、優しい。
 彼に振り回されるのは疲れるけれど、あの雲雀恭弥が綱吉のような何の取り柄もなさそうな人間に執着しているのかと思うと、不思議に感じると同時に擽ったい。みんなの前で、大声で自慢したくもあり、照れ臭くてこのまま秘密の関係でいたい気もする。
 真っ白の天井を見上げ、綱吉は両腕を無防備に広げた。枕を床に落とし、深呼吸を繰り返して薄い胸を上下させる。
 雲雀が好きだ。
 好きな人だから、何を思い、何処で何をしているのか、全部知りたいと思うのは我が侭なのだろうか。
「会いたいよ、ヒバリさん」
 ぐず、と鼻を鳴らす。
 電話は鳴らない。綱吉の孤独と不安は、雲雀にまで届かない。

 
 一昨日の誕生日合同パーティーは、賑やかなうちに終了した。
 昼前に始まり、とっぷり日が暮れてからも騒動は続き、お開きになったのはなんと夜の九時近く。それから片づけを行うのはとても不可能で、眠たがる子供達を布団に追いやり、風呂に入り、主賓である筈なのに接待係として奔走させられた綱吉は、疲れを残した翌日の朝を迎えた。
 本来はリボーンの誕生日である十三日は平日で、学校が終わってから夕食までの時間は、派手に飾り付けられた挙げ句、ランボと獄寺によって破壊されたリビングの片づけに終始した。
 昼休みに訪ねに行った応接室は、相変わらず無人。三度ノックをして、五分待ってみたけれど、部屋の主はついに姿を現さなかった。
 学校に行けば雲雀に会える。今まではそれを糧に、どうにか気持ちを維持して来られた。
「……なんか、腹が立ってきた」
 ところが、現在の状況はどうだ。メールに返信はなく、電話を鳴らしても出ない。
 そしてついに、昨日は、これまで唯一届いていたあのひと言さえも、綱吉の元にやってこなかった。
「俺の事嫌いになったら、直接そう言えばいいんだよ。なんで、俺ばっか、こんな」
 これまでにも二十三時を過ぎてから、という事があったので、単に遅れているだけだと信じ、ヤキモキしながら窓辺で待った。ひょっとして午前零時丁度を回って日付が変わったら、一番に言いに来てくれるのではないか、との淡い期待もあった。
 リボーンが眠っているので電気は消しておいたが、月明かりがあるのでカーテンを開けておけば部屋の中は充分明るかった。
 だが、深夜一時になろうという頃になっても、ベランダに降り立つ影は無かった。椅子に座って、タオルケットを肩から被って、息を殺してじっと待っていたのに、彼は来なかった。
 理由は分からない。
 知らない。
 知りたくもない。
 結局座ったまま眠ってしまい、五時半頃に寒さで目が覚めた。太陽はまだ地平線の下に潜ったままで、外は暗い。被っていたタオルケットが床に落ちて塊になっていた以外、寝入る前と状況は何一つ変わっていなかった。
 どうやら、彼を信じた自分が馬鹿だったらしい。お陰で折角の記念日であるに関わらず、綱吉の機嫌は朝から最高潮に悪かった。
 少し豪勢な朝食も、一昨日散々聞いた家族からのおめでとうの言葉も、獄寺からの二度目のプレゼントさえも、表面上は感謝の言葉で飾ったものの、心から喜ぶ事は出来なかった。
 学校の中には居る筈なのに、何処にも居ない、雲雀。
 ひと言文句を言ってやりたくて、休み時間を利用して方々を探し回ってみたけれど、応接室は御多分に洩れず蛻の空。屋上で昼寝、の予想は外れてこちらも無人。強い風が吹き付けるばかりで、秋空が眩しいのが余計に腹立たしかった。
 裏庭、中庭、体育館裏と、思いつく限りを歩き回ってみたのに、影も形も無い。立ち寄った形跡すら見受けられず、そうこうしているうちに時間ばかりが過ぎていく。
「あー、もう!」
 気がつけば昼休みも、五時間目も、六時間目の授業すら終わってしまっていた。
 今は掃除の時間で、それも両手に抱えたゴミ袋を捨てれば終了。残すはホームルームのみで、それが片づけば解散、晴れて自由の身。
 普段であれば諸手を挙げて喜びを表現するところであるが、今日に限っては意気消沈するばかりだ。時計を睨んでいたところで進む秒針を止める事は出来ず、逆に僅かな残り時間に悲壮感が増幅する一方。
 丸々と太った袋をお手玉しながら、綱吉は草も生えない裏庭の、ゴミ捨て場の地面を蹴り飛ばした。
 特別教室棟に程近い、普段は人も滅多に来ない場所。裏門のすぐ近くなのだが、そちらは平時から施錠されていて学生は利用出来ない。週に二度、業者が溜まったゴミを収集しに来る時くらいしか解放されていない筈だ。
「ん?」
 学園祭前などのゴミの量が多い時期以外は、水曜日と金曜日が収集の固定曜日だ。恐らくは今日の夕方、生徒らが帰った後に業者が取りに来るのだろう。
 今週は月曜日が休みだった分、普段より袋の数は少ないと思っていた。しかし、いざ綱吉が運んできたものを捨てようとした時にはもう、袋ひとつさえ置き場所に困るくらいに、指定の薄水色の袋は山積みになっていた。
「なんだこれ」
 昨日、今日の二日間だけで、こんなにも大量に学内で廃棄物が出るものなのだろうか。
 綱吉は自分の背丈よりも高くなった袋の山の頂を見上げ、足許にゴミ袋を落とした。
 こんな崩れやすい山、とてもではないが上れない。他のクラスのゴミ捨て担当も相当に困ったようで、収集所として指定されたエリアからはみ出た場所に、新たに小さな山が出来上がっていた。
 綱吉もまた、背に腹は代えられないとそちらに持ってきたものを置いた。崩れないようにバランスを調整し、一仕事終えた疲れを癒して汗を拭う。
「それにしても、これって……なんか、生臭いよ」
 近付いたら余計に強くなった悪臭に、顰め面をして鼻を抓んで呟く。一般家庭の生ゴミにも似た臭いで、おおよそ学校から出る廃棄物とは思えない。
 そもそも学校で、食材を扱う機会など無いに等しい筈なのに。
「……そういえば」
 誰かが昼の弁当を捨てたにしては、臭いが強すぎる。改めて生ゴミらしき袋の山を見上げ、ぷぅん、と来たのに顔の前で手を振って後退した彼は、脳裏を過ぎった記憶に目を見開いた。
 日々の話題に上らなくなって、すっかり忘れてしまっていたけれど、月初めに使用禁止になった調理室は未だそのままの状態だった。
 ガス工事にしては修理が遅すぎると、当時は気になって仕方がなかったくせに、日が経つにつれて思い出す事も無くなってしまっていた。誕生日の事、雲雀の事で頭がいっぱいで、滅多に使う機会もない特別教室に意識を傾け続けるだけの余裕は微塵も無かった。
 しかし。
「なんか、変だよ。誰も使ってない筈なのに、この生ゴミと」
 口元に手をやり、綱吉は瞬きも忘れて呆然とゴミの山を見上げた。
 いつぞやの京子と黒川の会話が蘇る。
「甘い匂い、と」
 ハッとして、彼は振り返った。頭の中で、これまでバラバラだったパズルのピースがカチリと音を立てて左右繋がった。
 ホームルームの事も忘れ、堪えきれず駆け出す。乾いた大地を蹴り、彼は一直線に校舎の外側を巡って、とある地点で勢いを殺して立ち止まった。
 ザザザ、と踵で溝を掘って前に出たがる身体を押し止め、たった数分走っただけですっかり乱れた呼吸を整える。緊張する心臓を撫でて宥めながら、彼は四階建ての建物の三階に目を向けた。
「換気扇、回ってる」
 八つ並んだ窓のうち、六つまでがカーテンに遮られている。だが耳を澄ませば、風に混じって微かに羽の回る音が聞こえた。
 更に、どこかで嗅いだ覚えのある甘い匂いが、ここら周辺にふんわりと漂っていた。
 思わず唾が出る程の芳ばしい香りに喉を鳴らし、彼は三階の窓を凝視した。カーテンが揺れているのは、窓が開いているからだ。
「誰か、居るんだ」
 掠れる声で呟き、彼は脇に垂れ下がる両手をぎゅっと握り締めた。紺色のベストからはみ出たシャツの裾に指を絡め、乾いていく喉に何度も唾を送り込む。
 膝が笑い、自分が立っているのかしゃがんでいるのかも分からなくなりそうになった頃。
「――!」
 風が吹き、三階のカーテンが大きく外側に膨らんだ。
 窓枠を飛び出した白い布が、隠れていた室内をほんの一瞬だけさらけ出す。舞い踊る白布に驚いたのか、窓際にあった何かが左右に大きく揺れた。
 人だ。
「あ……」
 琥珀の瞳を限界まで見開き、綱吉は思わず漏れた声に唇を噛んだ。
 瞬きする時間よりも短い、本当に僅かな間でしかなかった。見えたのも一部分、というよりも真っ黒い後頭部だけだ。だがそれでも、綱吉にはあれが誰か分かってしまった。たったこれだけの情報であっても、彼処に居たのが誰かを断定出来るくらいに、綱吉は彼の事をずっと見てきたのだ。
 間違えるわけがない。
「なんで、其処にいるんだよ」
 犬歯が柔らかな肉に食い込み、鈍い痛みを発する。大きく息を吸い、呻くように怒鳴って鼻を啜った彼は、自然こみ上げてきた涙を袖でぞんざいに拭い、踵で地面を蹴り飛ばした。
「ヒバリさんの、……馬鹿!」
 叫ぶが早いか、走り出す。先程のダッシュとは比べ物にならない速度で最も近い校舎への入り口に飛び込み、彼は一直線に階段を駆け上った。
 三段飛ばしで全力疾走し、踊り場でのターンで勢いがつきすぎて壁に激突しそうになりながら、ひたすら上を目指す。途中で三度ほど躓いて転びそうになり、うち一度は本当に転んでしまったが、膝の痛みなど全く気にならなかった。
 怒っているのか、悲しんでいるのか、喜んでいるのか、自分でももう分からない。様々な感情が激しく渦を巻き、整理がつかなくなっている彼を突き動かす原動力は、雲雀に会いたい、ただそれ一点だった。
 息せき切らし、垂れた鼻水を啜って口で息をした彼は、ようやく辿り着いた三階の廊下に奥歯を噛み締めた。
「……沢田?」
 調理室のドアの前、あの日と全く同じ場所に、黒の学生服を着た男がひとり立っていた。
 足音を喧しく響かせて階段を駆けて来た綱吉の姿に驚き、咥えていた茎の長い草をぽろりと落とす。右足を前に出して腰を半端に低く落とした草壁は、もの凄い形相で睨んでくる蜂蜜色の髪の少年に戦き、慌てた様子で左右に首を振った。
 噛み締めた歯の隙間から熱を持った息を吐き、肩を怒らせて綱吉が前に進む。死ぬ気弾を使われてもいないのに、それに勝るとも劣らない迫力を滲ませる彼に圧倒された草壁は、鋭い眼光を浴びせられてヒッ、と喉を鳴らし、息を呑んだ。
「さ、沢田。どうした」
「そこ、退いてください」
「いや。調理室は現在立ち入り禁止だ」
「どいてください!」
 以前雲雀が口にした言い訳を、そっくりそのまま舌の上に転がした草壁が、綱吉の行く手を阻もうと両腕を横に広げた。
 百八十センチ以上ある大柄の彼に前を塞がれ、さしもの綱吉も足を止めざるを得ない。眉間に深い皺を刻み、不快感を露わにして叫ぶが、草壁は頑固に同じ主張を繰り返した。
 白々しい嘘を吐いて、それを綱吉がすんなり信じるとでも思っているのか。疑いの目を向ける彼に草壁は冷や汗を流したが、主に絶対に誰も入れてはいけないと命じられている以上、例え相手が綱吉であっても、譲るわけにはいかなかった。
 両者無言で睨み合い、時間ばかりが無為に過ぎていく。ホームルーム開始を告げるチャイムが遠くで鳴ったが、綱吉は教室に帰ろうとしなかった。
「沢田」
「居るんでしょ、ヒバリさん」
「いや、委員長は此処には居ない」
「嘘だ。絶対に居る!」
 厳めしい顔を顰め、草壁が首を振る。その否定を否定して、綱吉はあらん限りの声をあげた。
 右腕を真横に薙ぎ払い、起こした風で目の前の壁となっている青年を牽制する。僅かにたじろいだ草壁の苦渋に満ちた表情に、綱吉は奥歯を鳴らした。
 そもそも、彼が此処に立っている事自体が変だったのだ。立ち入り禁止だというのなら、鍵をして張り紙のひとつでもしておけば、それで事は足りた筈だ。
 用もないのに調理室まで出向く生徒など、ゼロに等しい。それなのに見張りを立てて注意深く周囲を警戒して、部屋の前にすら誰も近づけさせないようにするなんて、おかしいではないか。
 風紀委員が身に纏っていた甘い匂いが、廊下にも溢れている。京子が言っていたではないか、最近の風紀委員はちょっと太ったと。
 目の前にいる男も、心持ち頬の辺りの肉が弛んでいた。首周り、襟のカラーもかなり苦しそうだ。
 乱れた息を整え、綱吉はどうしても通してくれない草壁に歯軋りした。臼歯を軋ませて下腹に力を込め、姿勢を低くして突破口を探すべく視線を忙しく動かす。だが百戦錬磨の風紀委員副委員長とだけあって、簡単にいきそうにない。
 見付からない隙に焦りの表情を浮かべ、綱吉は踵を廊下に押し当てたまま爪先を数ミリ浮かべた。少しだけ右に角度を持たせ、右足を引いて腰を落とす。スタートダッシュを決めようとしている彼の動きをつぶさに見て取り、草壁も調理室への進路を塞ぐべく大きな体を左に揺らした。
 張りつめた空気に、冷たい汗が流れ落ちる。咥内はカラカラに渇いて、一分の隙を探す瞳は血走って痛みを訴えた。
「……」
 はっ、と綱吉が息を吐いた。
 チーン。
「っ!」
 それに合わせたかのように、何処かから非常に間抜けな電子音がひとつ、鳴り響いた。
 ふたり揃って惚けて、先に我に返ったのは草壁だった。しかも彼の注意は、目の前の存在ではなく、真っ先に部屋の中に向いた。
「くっ」
 ぽかんと口を開いた草壁の横顔に、遅れて綱吉が目を瞬いた。
 出足を挫かれたものの、門番の意識が余所向いている今が絶好のチャンスだ。逃す手はなく、彼は踏ん張っていた右足を滑らせたものの、倒れる前に左足を前に出す事で態勢を維持し、走り出した。
 胸元を駆け抜ける小さな影に、草壁が野太い悲鳴をあげた。
「沢田、待つんだ」
「嫌です。ヒバリさん!」
 後ろから伸びた太い指が綱吉の肩を捕まえ、ドアを開けようとしていた彼の身体を引き剥がした。だが綱吉も、此処まで来て諦めるなんて出来なくて、根性で踏み止まり、横開きの扉を力任せに叩いた。
 ばんっ、と大きな音を立て、衝撃にドアが横滑りを起こす。五センチ程の隙間が出来上がり、彼は懸命に足を伸ばした。
「こな、くそお!」
 草壁に引っ張られる中、浮き上がる右足を隙間に押し込んで厚さ二センチの板を蹴り飛ばす。元々滑りの良いドアは、与えられた力を素直に受け取り、レールの上を勢い良く飛んでいった。
 凄まじい音を響かせ、対岸に衝突したドアが反動で戻ってくる。高速で左右を往復した一枚板に視界を邪魔されながら、綱吉は背後からつかみかかってくる草壁の手に爪を立てて引っ掻き、彼が痛がって束縛を緩めた一瞬をついて四つん這いに前に進み出た。
 敷居を跨ぎ、膝で床を蹴って起きあがる。
「沢田?」
 其処に居た人物も、流石にこの騒動には気付いていた。
 息を切らせて立ち上がった綱吉の姿に、驚愕の表情を凍り付かせて立ち尽くしている。両手に持った黒い鉄板を危うく落としかけて、ぐらついた熱いそれを慌てて近場の机に置いた彼は、肩で息をする綱吉になんと声をかけるべきかで迷い、視線を泳がせた。
 気まずげな雰囲気を醸し出す横顔に、綱吉も咄嗟に言葉が出ない。甘い、噎せ返る程に甘い匂いが室内いっぱいに立ち込めて、換気扇が回る音だけが嫌に大きく、耳に響いた。
「沢田……」
 綱吉に足蹴にされた草壁が、蹴られた脇腹を抱えながら弱り切った声で名前を呼ぶ。綱吉は振り返り、そして下を向いた。
「恭さ……委員長」」
 広い調理室でたったひとり、雲雀はいつもの学生服を外して白いワイシャツ姿で立っていた。
 入り口近くには、先程ゴミ捨て場で見たのと同じ色の袋が乱雑に積み上げられており、そこからは少々酸っぱい臭いがした。
 黒板の前には、運動会の障害物競走で使われるような麻の袋が何個か並べられ、うち幾つかは口が開けられて中身が減っていた。教卓前の机には、数えるのも億劫な程の鶏卵のパックが。半分近くが空っぽで、後で分別回収に出すつもりか、切り広げられた牛乳パックと一緒に別の机に集められていた。
 小麦粉、卵、牛乳。甘い匂いは、バニラエッセンス。
 草壁に呼びかけられた青年は、たっぷり五秒後にハッと我に返り、両手に嵌めていた鍋掴みにも使える厚手の手袋を外した。
 彼の前には、黒色の四角形の鉄板が。オーブンから取り出されたばかりのそれの中身は、綱吉の予想が違っていなければ、恐らくはスポンジケーキ。
「ヒバリさん」
 ぎゅっと拳を硬くして、綱吉は顔を上げた。瞬間、彼は身体ごと綱吉に背を向けた。
 此処でも目を合わせて貰えない。そのことにショックを受けながら、綱吉はシャツの裾を握り締め、唇を噛んだ。
 沢山の生ゴミ、調理室や風紀委員から匂う甘い香り。必要以上に大量の食材に、栄養過多で太り気味の風紀委員達。
 そして今日は、十月十四日。
「ヒバリさん!」
 どうして何も言ってくれないのだろう。どうして目を合わせてもくれないのだろう。
 悔しくて、哀しくて、寂しくて、シャツの裾を皺だらけにしながら、綱吉は下唇を思い切り噛み締めた。
 余所向いたままの雲雀が、横目でそんな綱吉の様子を窺って細い目を見開く。だけれど彼は唇を音もなく開閉させるだけで、声ひとつ発しようとはしなかった。
「……っ」
 絶望に打ち拉がれ、涙さえ流せずに綱吉は呆然と立ち尽くす。そのあまりの痛々しい姿に、草壁は深く息を吐き、弱り切った表情で額に手を置いた。
 力無く首を降り、顔を覆っていた手を下ろして綱吉の肩を軽く叩いた。
「!」
 予期していなかった後ろからの衝撃に、綱吉が驚愕の表情で振り返る。その彼に出来る限り優しい笑みを浮かべ、彼は緊張を解きほぐそうとしてか、綱吉の細い肩を数回に分けて揉みしだいた。
 もう片方の肩にも手を添えられて、ぐっと前に押し出される。
「あ、あの」
「委員長。もう時間もありませんし、この際」
 部屋の真ん中、つまりは雲雀が居る方に行くよう力業で促され、綱吉は戸惑いの声をあげた。
 しかし草壁は構う事なく言葉を発し、語りかけられた方はビクリと小さく肩を揺らして、諦めにも似た表情を浮かべた。
 黒髪を掻き上げ、小さく溜息を零す。疲れきった様子が態度からありありと感じ取られて、綱吉は心の中で小首を傾げ、自分を押す男に視線を投げた。
 草壁は微笑み、手近なところにあった背もたれの無い丸椅子に綱吉を強引に座らせた。
「え、っと」
「そこで暫くお待ちを」
 真上から、まるで押し潰されるかのように座らされた綱吉は困惑を表に出し、立ち上がるべきか否かで迷って腰をくねらせた。肩幅に開いた膝の間で平たい座面を握り、居心地の悪さに首を窄める。
 唇を尖らせて俯き加減に目線を泳がせていると、小さな足音がひとつ、近くで響いた。
 カツリ、という遠慮がちの軽い音に顔を上げ、彼は目を見張った。
「ヒバリさん……」
「どうして来たの」
「っ」
 冷たい氷のような声に息を詰まらせ、綱吉は二の句を告げずに黙り込んだ。
 雲雀が手近なところにあった椅子を蹴り、引き寄せ、倒れかかったそれを右手で掴んだ。四本ある脚で大地を支え、その上にどっかりと腰を据える。そのまま右を上にして脚を組んだ彼は、頬杖をついて背中を丸め、俯く綱吉に手を伸ばした。
 だけれど指先が触れる直前、強張った顔で上向いた綱吉の琥珀に表情を曇らせ、結局は爪の先さえ掠めぬまま、彼の右手は遠離っていった。
 追いかけたくて上半身を前に倒し、だけれど何を言うつもりなのか自分でも分からなくなって、綱吉もまた弱々しく首を振った。
 膝の上で両手を握り締め、こみ上げる涙を堪えて肩を震わせる。
 痛々しい姿に眉目を顰め、雲雀は薄い唇を舐めた。
「恭さん」
「うん」
 反対側に回り込んだ草壁が、座る雲雀の背後から声をかける。同時に差し出された大皿に目をやって、彼は小さく頷いた。
 かちゃん、と金属が擦れ合う音がする。どこかで湯を沸かしているのか、ヤカンから噴き出す湯気の音も聞こえた。
「……?」
 握り締めた自分の手ばかり見詰めていては、周囲の状況がどうなっているのかさっぱり分からない。綱吉は仕方なしに顔を上げ、ぱちぱちと素早く三度、瞬きを繰り返した。
 直径三十センチはあろう白い皿を置いて、草壁が恭しく頭を垂れた。雲雀と、そしてなによりも綱吉に良く見えるようにと、他には何も無い作業台の上に置かれたその皿の上には、魚が一匹横たえられていた。
 否。
「なに、これ」
 思わず声に出した綱吉が、椅子に座ったまま背筋を伸ばした。
 腰を数センチ浮かせ、高い位置から皿に載せられたものを見下ろす。大きく見開かれた琥珀を横目で見やり、雲雀はふて腐れた様子で硬い椅子の座面を握り締めた。
 貧乏揺すりを開始した彼を余所に、綱吉は本格的に立ち上がった。よろよろと頼りない足取りでテーブルへ近付き、縁に握った両手を置いて身を乗り出す。
 魚だ。
 甘い匂いのする魚が、其処にいた。
 水色で着色された生クリームが鱗を一枚ずつ描き出し、目にはチョコレートでコーティングしたナッツは、口の部分には舌のつもりか、砂糖漬けのチェリーが半分に切って押し込められていた。
 尾ひれも、背びれも、胸びれまで精巧に再現されている。型を切り抜く際に失敗したと思しきギザギザが背中の部分に見られたけれど、端から端まで丁寧に、少しの気の緩みもなく作られたのがありありと感じられた。
 何処の世界の魚屋を探したって、こんな甘い香りのする魚は売っていないに違いない。
「なに、これ」
 先程と同じ台詞を、しかし今度は堪えきれない笑みを零しながら呟く。自然と緩んでいく表情を見上げて、雲雀はむすっと頬を膨らませた。
 作業の邪魔になるからだろう、いつも羽織っている黒の学生服は脱いでおり、白の長袖シャツも肘の所までまくり上げている。濃紺のスラックスには小麦粉が飛び散った白い跡が散らばっており、誰がこの魚を作ったのかは、一目瞭然だった。
 耐えきれずに口元を両手で覆い隠した綱吉は、これ以上声を立てると雲雀がもっと不機嫌になると分かっていながら、大きく肩を揺らした。
「ヒバリさん、これ」
「ツナだよ」
 目尻を下げて琥珀を細め、振り返る。問いかけを皆まで言わせず、彼は仏頂面のまま呟いた。
 どの図鑑を参考にすれば、こんな可愛らしいツナが完成するのだろう。真面目に質問しかけて、綱吉は途中で言葉を呑み込んだ。
「知ってたんですか」
「知らないわけがないだろう」
 今日が何の日であるか。誰の誕生日であるか。
 綱吉は、自分で言った覚えがない。だが並盛中学を実質的に支配している彼の事だ、生徒の個人情報を調べ上げる事くらい、造作もなかろう。
 出来るなら自分で言いたかったのに。
 誰にも秘密にしておいた玩具の隠し場所が、実は親にはとっくにばれていたと知った時のような寂しさを感じながら、綱吉は緩く編まれたベストの目地を指で擦った。
「そ、っかあ……」
 二人の会話を聞き流しながら、白い湯気を立てるヤカンを持ち上げた草壁が、紅茶のティーバックが入ったカップに湯を注いだ。
「どうぞ」
 丁寧な仕草で、ふたりの邪魔にならぬようコップを二つ並べ、去っていく。用済みとなった盆を作業台の隅に置いた彼は、自分の仕事は終わったと言わんばかりに大きな体を揺らし、開けっ放しのドアから廊下に出て、扉を閉めてしまった。
 後に残された綱吉と雲雀が、どことなく気まずげに目を合わせ、瞬時に逸らした。
 確かに、酔狂だ。天下に名を轟かせるあの雲雀恭弥が、調理室でせっせとケーキを作っているところなど、とてもではないが人目に曝せない。
 十月に入って突然使用禁止令が出た、中学校の調理室。この二週間で太った風紀委員。漂う甘い匂いと、大量の生ゴミ。
 学内に居る筈なのに姿が見えない雲雀、調理室の入り口を固める副委員長。
 全ては、この日の為に。
 開け放たれた窓から、涼しい秋風が流れ込んでくる。頬を擽られ、煽られた髪を押さえた綱吉は、無言を貫く雲雀の険しい視線に肩を竦め、草壁が置いていった紅茶に手を伸ばした。
 しかし巧く取れず、持ち上げようとして指から滑らせてしまう。かちゃん、と硬い音をひと立てて中身が少しだけ零れてしまい、思ったよりも緊張している自分に気付かされた。
「あちゃ……」
 飛沫がかかったが、一寸だけなのでそう熱くない。テーブルに出来た小さな水溜まりに苦虫を噛み潰したような顔をしていると、後ろで衣擦れの音がした。
 肩越しに振り向けば、雲雀が椅子の上でもぞもぞと膝を動かしている。恐らく立ち上がろうとして、綱吉が無事と知って慌てて座り直したのだ。
 顔を背けて余所向いている彼の、どことなく拗ねた横顔を眺めて綱吉は苦笑した。
「平気ですよ」
 明るく、元気に告げて、火傷などしていないと顔の前で手を広げてみせる。ひらひらと蝶のように揺らして、今一度カップに手を伸ばして今度は両手で抱え上げた。
 息を吹きかけて表面を冷まして少しだけ口に含み、喉を潤してソーサーへ戻す。陶器が擦れ合う音を小さく響かせ、綱吉は皿に添えられた銀色のスプーンに目を向けた。
 これは雲雀が、自分の為に用意してくれたものだと。
 そう自惚れても良いのだろうか。
「ヒバリさん」
 斜めに立てかけられているそれを小突き、彼を呼ぶ。視線を戻した雲雀は気付いて、二秒後に頷いた。
「好きにしなよ」
「そうします」
 ぶっきらぼうに言い放った彼に目を細めて頷き、綱吉は遠慮無く銀スプーンをつまみ上げた。
 右手でくるりと半回転させ、上下を入れ替えて握り締める。折角可愛らしく出来上がっている魚の形を崩してしまうのは勿体なく思ったが、かといってこのまま保存して、飾っておく事も出来ない。
 食べ物は、きちんと責任を持って、最後まで食べてやるのが礼儀だ。
 自分に言い聞かせ、それでも少し遠慮がちに、彼は雲雀が息を呑んで見守る前でスプーンを尻尾の部分に差し込んだ。
「…………」
 ケーキひとつ食べるのに、未だ嘗てこんなに緊張した事があっただろうか。
 五月の、こどもの日に作った不出来なケーキを思い出す。あの時はその日が雲雀の誕生日だとは知らなくて、単純に端午の節句だからと鯉のぼりの形に仕上げた。
 意趣返しのつもりなのだろうか。
 そんな事を考えながら、綱吉は三段重ねのスポンジと、間に挟まった薄く切った苺、ほんのりピンク色に染まったクリームを一緒くたに口に入れた。
 芳ばしい香りと、馨しいバニラ匂い、そして苺の甘酸っぱさが混じり合う。滑らかな舌触りを楽しみながら、咀嚼もそこそこに呑み込んで、彼はスプーンに残っていたクリームを舐めた。
 一連の動作を見守っていた雲雀が、感想を聞きたそうにして背筋を伸ばし、口を開きかけて止めた。
 綱吉がスプーンを置く。汚れてもいない唇を拭って、指先に付着した甘い香りに鼻を鳴らす。
「ずっと、これ、ヒバリさんは」
「……」
 尻尾の尖りが片方無くなった魚の形のケーキを見下ろし、綱吉は呟いた。
 後ろで雲雀が、彼が見ていないと知りながら首肯する。恥ずかしげに頬をほんのり紅色に染めて、色々と言いたいことがありながら、言葉にせずに全て呑み込んでしまう。
 返答が無いのを肯定の意味合いに受け取り、綱吉は丸みを帯びたスプーンに映る、歪んだ自分を見下ろした。
 十月の頭から、調理室は一般生徒の立ち入りが禁止された。予定されていた授業は変更になり、綱吉達のクラスは調理実習の計画が宙に浮いてしまった。
 大勢が空腹で過ごさなければならなかった、辛い午後を思い出す。
 迷惑を被り、不満げにしていたクラスメイトの顔が順番に思い浮かぶ。
 他のクラスだってそうだ。並盛中学校には一応、活動実績が少ないものの、調理部も存在している。所属している生徒は、部活動の場も一緒に奪われてしまった。
 ゴミ捨て場で山積みにされていた、大量の失敗作。このケーキひとつを作るのにどれだけの材料と時間が掛かったのか、想像もつかない。
「沢田」
 黙り込んだ綱吉を不審がって、雲雀が久方ぶりに口を開いた。
 綱吉の手はテーブルに落ちたまま、動かない。それが予告もなく、突然爪を立てて表面を擦り、緩く握り、ガンッ、と机を殴りつけた。
 衝撃を浴びせられて、スプーンが踊った。すっかり冷めてしまった紅茶の表面が波立ち、驚いた雲雀は気がつけば中腰で立ち上がっていた。
「沢田?」
 いったいどうしたのだろう。不安を覚え、雲雀が戸惑いの声を発した。
 食材は、変な物が混じっていないように細心の注意を払って発注した。最初から巧く出来るとは思っていなかったが、満足できる味に仕上げるのに随分と時間がかかってしまった。
 スポンジ一枚を焼き上げるのも苦難の連続で、クリームを丁度良い硬さに仕上げるのだって簡単では無かった。
 どんな味付けで、どんな形で、どんな風に飾り付ければ綱吉が一番喜ぶかを懸命に考え、頭を捻った。オーブンの温度調整を間違えては焦がし、危うく本当にガス爆発を起こす寸前まで行った事もあった。
 必死になりすぎて時間の経過を忘れて、何時の間にかとっぷり日が暮れてしまっていた日がここのところは多かった。
 綱吉の様子を窺う余裕すらなく、届いていたメールに三時間も気付かない日まであった。
 エイプリル・フールに約束をした、一日に一度必ず「好き」と言う約束も、メールで代用する事が増えた。
 全ては、今日の為。綱吉を驚かせ、喜ばせたかったから。
 それなのに。
 何故。
「沢田……」
 ゆっくり振り返った彼の姿が信じられなくて、雲雀は目を剥いた。
 琥珀色の瞳にいっぱいの涙を浮かべ、上唇を噛み締めた綱吉がかぶりを振る。彼が泣く理由が思い浮かばなくて、笑ってくれると信じていた雲雀は咄嗟にかける言葉さえ思い浮かばず、その場に立ち尽くした。
「……い、です」
 雲雀の努力の様は、調理室のあちこちから窺えた。
 慣れない包丁に苦しめられて、彼の指には切り傷が溢れている。火傷の跡だと分かる水ぶくれが、手首や、肘の辺りにも無数に散らばっていた。
 綱吉の為に頭を悩ませ、綱吉の為に、彼は己の仕事も放棄して懸命に取り組んでくれていた。
 きっと、もっと完璧に仕上げたケーキを、彼は綱吉に見せるつもりだった筈だ。現にオーブンの傍には、焼き上がったばかりの四角いスポンジが、そのままの形で残されている。
 草壁が懸命に綱吉を止めた理由も、雲雀が満足のいく物を作り上げられていなかったからに他ならない。
 でも、もし間に合わなかったら。
 ホームルームの時間はとっくに終わりを告げ、部活動の無い生徒の大半は帰路についている。窓から注ぐ秋風には、グラウンドで駆け回る野球部の歓声が混じっていた。
 あと八時間ちょっとで十月十四日は終わる。綱吉の誕生日が終わってしまう。
「……く、ない、です」
 蚊の鳴くような声で告げ、綱吉は堪えきれなくなった涙をひとつ、頬に流した。
 聞き取れなかった雲雀が身を乗り出し、二粒目の涙を零した綱吉に瞠目する。
「沢田」
「こんなの、ちっとも美味しくない!」
 困惑を表立たせた雲雀の声を掻き消し、綱吉は握り拳を振りかざして叫んだ。
 目の前で縦に切り裂かれた空気が、雲雀の前髪を彼方へ押しやる。鼻をぐずつかせ、赤く染まった頬を膨らませた彼の怒号に返す言葉を見出せず、雲雀は呆然とし、ひと口分削られただけのケーキが載る皿に目をやった。
「さわだ」
「嬉しくない。こんなの、俺、嬉しくないっ」
 雲雀が懸命に努力して、綱吉の為に不慣れな料理に挑戦してくれたのは分かっている。
 此処まで完璧に近い状態に仕上げるのに、どれほどの時間と材料費がかかったか。それもこれも綱吉ひとりの為だというのが分かるからこそ、綱吉はこの結果を到底受け入れる事が出来なかった。
 風紀委員が味見役として駆り出され、一方で委員長は仕事に出て来ずに並盛中学校の風紀が若干乱れた。
 調理室を不当に占拠されて、授業が一部滞った。本当の理由を知らされぬまま、無関係の生徒が巻き込まれて被害を被った。
 京子も、獄寺や山本も、綱吉だって、あの日の調理実習を楽しみにしていた。けれど実際は、どうだ。事前連絡が無かった為に、生徒の大半は昼食を持参しておらず、また代替の食事も用意されなかったので辛い午後を過ごさなければならなかった。
 大勢が迷惑を被った。
 その原因が綱吉の誕生日を祝う目的であったならば、当の綱吉本人は、自分が望んだことではないにせよ、居たたまれない。
 自分の所為で皆に迷惑をかけてしまった。直接関与していないとはいっても、本を正せば綱吉の誕生日が今日だったから、この時期に雲雀は行動を起こしたのだ。
 一因が綱吉にあるのは、否めない。
「さわだ……」
「大体、それに、ヒバリさん、忘れてるんだもん!」
「え?」
 握り拳でテーブルを容赦なく叩き、骨に響いた痛みに眉目を顰めて綱吉は下唇を噛んだ。
 思い当たる節が見付からなくて、目を丸くした雲雀は視線を泳がせた。その態度に益々腹を立て、綱吉はテーブルから離れて赤くなった右手を彼の肩に叩き付けた。
 後ろに押され、ふらついた雲雀が踵で椅子を蹴る。ガタゴトと大きな音を立てて背もたれの無いそれは床に横倒しになり、巻き込まれそうになった彼は大股に後退した。
 左膝を軽く曲げて衝撃をやり過ごした雲雀を前に肩で息をして、綱吉はズボンの後ろポケットをまさぐった。二つ折りの携帯電話を引き抜き、親指で弾いて縦に広げる。パッと灯ったバックライトに照らされて、液晶画面に綱吉と雲雀が並んで映る写真が表示された。
 いつだったか、綱吉が撮りたいと言うので応じてやった写真だ。角度やフラッシュの当たり具合が気に入らないからと、十回近く取り直してやっと満足のいくものが出来たと、疲れた雲雀を余所に綱吉はひとりで喜んでいた。
 あの時の笑顔が脳裏を過ぎり、雲雀はハッと、短く息を吐いた。
「……昨日」
「俺、ずっと待ってた。来てくれるんじゃないかって、寝ないで待ってた。でも、ヒバリさんは、来なかった」
 予定していた通りに作業が進まず、思い描いていた形に仕上げられなくて、昨日は結局深夜まで調理室でひとり作業を続けていた。意地になっていたと言ってもいい。絶対に間に合わせるという意気込みが、結果的に綱吉を傷つけた事に、雲雀は今になってようやく気付いた。
 躍起になって、夢中になっていた。時間の経過を忘れた。オーブンを前に、焼き上がりを待っているうちに居眠りをしてしまって、気がつけば日付が変わっていた。
 その事実に焦って、肝心の綱吉へのフォローを一切忘れていた。
「嬉しくない。美味しくない。こんな、こんなの……ヒバリさんは、俺よりもケーキの方が大事だったんだ?」
 叫ぼうとして、けれど声が詰まってしまい、糾弾は勢いを失って語尾が萎んだ。はらはらと涙を零して問いかける綱吉に二の句が継げず、雲雀は小刻みに震えながら左手で口元を覆い隠した。
 指を曲げ、爪を噛む。巻き込まれた皮膚が痛みを放ったが、綱吉が受けたダメージを思うと、これくらいなんて事はなかった。
「ヒバリさんが俺の為に頑張ってくれたの、分かるよ。凄く分かるよ。でも、俺は、嬉しくないよ」
 両手で顔を覆った綱吉が、嫌々と子供のように首を振った。しゃくりをあげ、鼻を啜り、唇を真一文字に引き結んで、彼は思い切り床を蹴った。
 拳を振り上げ、動けずにいる雲雀の胸を衝いた。
「だって、俺は、ずっと……寂しかった」
 雲雀はひとつの事に集中すると、他の事が疎かになる。不良の群れを見つければ食事も忘れて暴れ回り、風紀が乱れているところに遭遇すれば、これを是正するまで休む事を知らない。
 綱吉の誕生日が近いと知れば、彼を喜ばせる為の努力を惜しまない。その裏側で、放置され続ける綱吉本人がどう思っているのかにも気付かずに。
 十月に入ってから、顔を合わせた回数は片手で余る程。言葉を交わしたのは、その半分にも満たない。
 どれだけ愛の言葉をメールで囁いたところで、相手の心の表面を撫でる程度で、奥深くまで音を響かせる事は叶わない。
 ぐじ、と音を立てて流れ出ようとした鼻水を吸い、目尻を乱暴に擦った綱吉が下を向く。雲雀の脚を蹴り飛ばし、もう一発拳で胸倉を叩いて、彼は力無く雲雀に寄り掛かった。
 白いシャツの皺に指を絡め、握り締める。
「さわだ」
 どう対応してやればいいのかが分からなくて、雲雀は困惑を声に出した。瞬間、キッと険を強めた眼差しで上を向いた綱吉は、依然分かろうとしない雲雀の愚鈍さを罵り、彼を突き飛ばした。
 たたらを踏んだ雲雀が、先程蹴り倒した椅子に足を取られて尻餅をついた。綱吉が更に殴りかかろうとして、急に姿勢が低くなった彼に驚き、琥珀を丸く見開かせる。
 雲雀を殴るべく出した手は引っ込みがつかず、標的を見失って空振りした。大ぶりした綱吉の身体が勢い余って前に泳ぎ、片足立ちで飛び跳ねていたところで、踵を踏み潰していたスリッパ状の上履きが、つるん、と床を滑った。
「う、あっ」
 綿の靴下が靴の中敷きをその倍の勢いで後ろへ流れていく。行き先を失った両手を振り回し、懸命に足掻くが、咄嗟に掴んで体重を支えるものなど無くて、彼の身体は重力に引かれるまま下降の一途を辿った。
 眼前に迫る綱吉の顔に、腰を強かに打ち付けたばかりの雲雀も目を剥いた。
「さ――っ」
 咄嗟に両手を広げて受け止める態勢を作るが、タイミングが計れずに彼の指先は空を掻いた。捕まえるよりも早く沈んだ綱吉の顎が鳩尾に激突し、一瞬雲雀の息が止まる。
 天を掴もうとして失敗した彼の、ひくひくと痙攣する腹に顔を埋め、綱吉はその心地よい硬さと温かさを享受しながら数秒間停止した。
 無機質な床への激突は避けられたものの、転倒の衝撃はゼロではない。雲雀が力を抜いた腕を両側に広げて大の字に寝転がるのを待って、彼はもぞりと動き出し、手探りで見つけ出した彼のシャツに爪を立てた。
 薄い布を引っ張られ、肌に与えられた薄い刺激に雲雀は瞬きを繰り返した。
「沢田」
「俺は、こうしてられるだけで良かったのに」
 重なり合った部分から、熱が流れ込んでくる。鼓動が聞こえる。いつもより少し速い。
 指先に力を込めた綱吉の、俯いたまま放たれた言葉を受け止め、雲雀は痛みと息苦しさを堪えて、汚れの目立つ天井を見上げた。床に投げ出した右腕を引き寄せ、腹部に覆い被さる膨らみを撫でてやる。綱吉は首を振り、鼻先を雲雀の臍の周囲に擦りつけた。
 特別なものなど、本当は何も要らなかった。
 今まで通り一緒に居て、無駄な時間を過ごして、時に戯れ、口論をする事があってもすぐに反省し、仲直りを試みて、元鞘に戻る。ちょっとした事に幸せを感じて、感動は二人で分け合って、哀しいことや苦しい事があれば半分ずつ背負い、喜びは倍にして。
 いつも通りの幸せを、これからも続けて行こうと、そう誓うだけで良かった。
 ケーキなんか要らない。パーティーもしてくれなくていい。プレゼントだって欲しくない。
 ただ、傍に居て欲しい。
 抱き締めてくれるだけでいい。
「俺は、ヒバリさんがいてくれるなら、それだけで良かったのに」
 人のシャツに涙を吸わせ、下唇を噛んで引きつらせた綱吉が顔を上げる。右手を引いた雲雀はそれを床に押し当てて柱にし、ゆっくりと上半身を起こした。
 膝を立てて退こうとする綱吉に首を振り、今度は左腕を伸ばして彼の肩を捕まえる。軽い力で引き寄せて、背中に掌を滑らせて胸に抱き締める。
 綱吉は逆らわなかった。肩を広げようとして躊躇し、結局雲雀の胸に添えるだけにして下を向く。露わになった項は赤く色付いており、今彼がどんな顔をしているか想像して、雲雀は目尻を下げた。
 座りを安定させ、役目を終えた右腕も使って簡単に逃げられないように綱吉の腰に回し、そっと力を込める。
「さわだ」
 未だ顔も上げてくれない彼に頬を寄せ、柔らかな髪を梳いて跳ねた毛先を戯れに唇で絡めとる。噛んで引っ張ると、流石に痛かったようで彼は細い肩を震わせ、恨めしげに上目遣いの視線を投げてきた。
 潤んだ琥珀に映る自分の姿に目を細め、雲雀は息ひとつ吐いて力を抜き、綱吉の背中をぎゅっと抱き締めた。
「ヒ……」
「沢田」
 胸と胸が密着し、横へ追いやられた綱吉の両手が空を掻き回す。肋骨を圧迫されて息が苦しく、呼吸を止めた綱吉が緊張に身を竦ませる中、雲雀は実に二週間ぶりとなる綱吉の感触と匂いに喉を鳴らした。
 綱吉の為、綱吉を喜ばせる為、と言いながら、彼の気持ちを無視して蔑ろにしてしまった。
 今こうして肌を合わせていると、痛いくらいに実感する。自分もまた、綱吉に餓えていたのだと。
「長いこと触ってなかったから、麻痺してたみたいだ」
 小さく嘆息し、自嘲を交えて呟いて彼は喉を鳴らした。綱吉から香る、彼特有の甘い匂いをいっぱいに吸い込んで、ひょっとしなくても自分がケーキで再現したかったのはこの匂いではなかろうかと、そんな事を考えた。
 頸部に呼気を浴びせられた綱吉が、肌を擽られて身を捩った。背中に回りきらなかった腕が雲雀の脇腹を掠め、弛んでいたシャツを握る。そこから一歩ずつ這い登って上を目指す合計十本の指を感覚で追いかけながら、雲雀は首を振り、綱吉の蜂蜜色をした髪を食んだ。
 味なんてしない筈なのに、心なしか甘い。
「ヒバリさん、痛い」
「うん、甘い」
 文句を言ってシャツを引っ張るが、雲雀は聞き間違えたのかまるで的外れな感想を述べ、綱吉の生え際に唇を添えた。
 くちづける、というよりは味見すべく舌で舐められ、薄い皮膚を引っ張られる感覚に綱吉は身震いした。
 逃げようにも、背中をがっちりと拘束されているので果たせない。ぞわぞわと背筋に寒気にも似た電流が走り、鳥肌が立って心臓が縮こまる。脇腹を締めて硬く目を閉じ、衝動をやり過ごした綱吉に微笑み、雲雀は首を前に倒して額を額にぶつけた。
「ヒバリさん」
「好きだよ、沢田」
 骨を通じて脳に直接響いた低音に、思わず悲鳴をあげそうになって、綱吉は頬を強張らせた。
 ひっく、としゃっくりをするみたいに肩を揺らして息を吸い、唇を戦慄かせて薄く瞼を持ち上げる。
 カーテン越しに窓から差し込む西日に照らされた雲雀の淡い微笑みを間近に見て、彼は瞠目し、魂を震わせた。
「あ……、え、あっと。うん、えっと」
 抱き合い、至近距離から見つめ合うこの状況が急に恥ずかしくなって、綱吉は狼狽えた。巧く回らない舌で懸命に空気を掻き出し、何かを言おうとするのだけれど、肝心のその何かがまったく思い浮かばなかった。
 目の前が真っ白になって、混乱の極みに達した頭がぐるぐると回転する。琥珀の瞳に渦巻きを描き出した彼にぎょっとして、数秒後、雲雀は小さく吹き出した。
 肩を小刻みに揺らして声を殺している彼に、益々顔を赤くした綱吉が頭の天辺から湯気を吐いた。
「笑わないで、ください。笑わないで……笑うなあ!」
 大体、誰の所為でこんな事になったと思っているのか。殊勝に反省してみせたかと思えば、瞬時に復活していつも通りのふてぶてしさを発揮している彼に拳を叩き付け、綱吉は裏返った声で叫んだ。
 鎖骨を殴られた分だけ身体を大きく揺らし、雲雀が手の甲を口に押し当てて咳き込んだ。
 涙目で睨み付けてくる愛し子に小首を傾げ、柔らかな髪を梳いてやる。頬をまん丸に膨らませて、綱吉はそれしきで機嫌を直してなどやるものか、とそっぽを向いた。
 それでも雲雀は、優しい手つきで綱吉の癖だらけの髪の毛を、飽きる事なく撫で続けた。
「ヒバリさんの、馬鹿」
「沢田?」
「ヒバリさんなんか、きらいだ」
 そもそも、自分はまだ彼を許してはいないのだ。この二週間丸々放置された事、エイプリル・フールの約束を破られた事。
 雲雀はまだ、綱吉に謝っていない。
「さわだ」
 名前を呼ばれても、振り向いてやらない。彼らしくない、どことなく不安げで心細げな声についつい心がぐらつくが、今此処で許してしまうと、雲雀はこの先もきっと同じ事を繰り返す。
 だから分からせてやるのだと、心に固く誓って素っ気ない態度を貫こうとするのだが、雲雀の手の動きが段々と小さくなり、下に沈み、後頭部から背中に落ちて動かなくなったところで、綱吉はぐっ、と息を詰まらせた。
 横目で様子を窺えば、酷く心許なげな雲雀が居た。
「……う」
 人混みの中で親とはぐれた子供みたいな顔をした彼に、綱吉は唇を噛んだ。
 下を向き、雲雀の腕に手を添えて緩く握る。ふるふると首を振った彼は、こみ上げてくる感情に口惜しげに息を吐いた。
「あー、もう!」
 降参だ。
「沢田?」
「そんな顔しないで!」
 突然声を荒げて座ったまま膝で飛び跳ねた彼に驚き、雲雀が束縛を緩める。遠離りそうになった彼の腕を掴んで引き留め、綱吉は罵声をあげて身を乗り出した。
 ずい、と目の前に接近され、雲雀が目を丸くする。
 彼がこの日の為に、どんなにか頭を悩ませ、寝る間を惜しんで精力的に活動していたのか、分からない綱吉ではない。
 放っておかれた間は寂しくて、哀しくて、ちっとも面白くなかった。だけれど離れている間も彼が綱吉の事を考えていてくれたのは事実で、事の真相を知った今は、本当は嬉しくて仕方がないのだ。
 困らせたかったのでも、悲しませたかったわけでもない。
 この人を好きになって良かった。
 この人が、好きになってくれて良かった。
「嘘です。さっきの、嘘だから」
 嫌いなわけがない。早口に捲し立て、綱吉は信じて欲しくて雲雀の腕を抱く手に力を込めた。
 小刻みに震えている彼に目尻を下げ、雲雀が微笑む。
「分かってる」
 掌を広げ、寄り掛かってくる綱吉の頭を抱いて、雲雀は瞼を下ろした。愛おしげに綱吉の背中を撫で、腕の中に閉じこめる。
 と、綱吉がいきなりそれを押し返して抵抗した。
「…………」
 ガバッ、と三十センチ弱の距離を稼ぎ、数秒間静止して、また雲雀の胸に顔を埋める。上を見て、下を見て、何か言いたげにしながらも結局口を割らなかった彼の行動を熟考して、雲雀は苦笑した。
「好きだよ」
「……もっと」
「好きだよ、沢田」
「もっと」
「だったら、日付が変わるまで、ずっとこうしていようか?」
 顔を伏したまま言葉を強請る綱吉の頸を擽り、問いかける。
 意地悪な質問に綱吉は身震いして、上目遣いに彼を窺い、拗ねた顔をして唇を尖らせた。
「今日だけじゃ、やだ」
 二週間我慢したのだ。すっかり空になってしまった雲雀成分を補充するのに、今日一日ではとても足りない。
 頬を膨らませた彼の可愛らしいお強請りに、聞いていた雲雀が破顔する。
「分かった」
 明日も、明後日も、その次も。
 この先ずっと。
 きっと来年の今頃も。
「君が好きだよ」
 耳元で囁きかけて、温かな体躯を抱き締める。
 その甘さと心地よさに目を閉じ、雲雀は彼がこの世に産まれて来てくれた事に、深く、深く感謝した。

2009/10/10 脱稿