一双

 馨しいコーヒーの香りが、毎日の朝食で当たり前になったのは、いつからだろう。少なくとも、この家に自分と奈々しか居なかった頃には、有り得なかった事だ。
 鼻腔を擽る芳ばしい香りに唾を飲み、喉を鳴らした綱吉の前で、彼は優雅に白色のカップを傾けた。
 綱吉の手では小さすぎるそれも、彼の手に掛かれば通常のマグカップくらいの大きさに見えてしまう。赤ん坊が飲むものとしては、エスプレッソは苦すぎるように思うのだが、彼は食後の一杯をなによりも楽しみに、心待ちにしている様子が伺えた。
「ご馳走様」
 リボーンが陶器のカップをソーサーに戻す音でハッとして、綱吉は箸を置いた。両手を叩き合わせて感謝の言葉を早口に述べ、椅子を引いて立ち上がる。
 空になった汚れた食器をひとまとめにして、流し台へと。既に片づけ作業に入っていた奈々に遠慮がちに差し出すと、彼女はにこやかな笑顔を浮かべ、丁寧にそれらを受け取ってくれた。
「お弁当、すぐに支度するから」
「うん。ありがとう」
 先に歯を磨いて、学校に行く準備を済ませてしまいなさい。几帳面な口調で告げた母に頷き、綱吉は癖だらけの頭に手を伸ばし、軽く掻き混ぜた。
 後ろのテーブルでは、ランボとイーピンがまだ食事中だった。フゥ太とビアンキは既に終えており、両者の姿はそこにはない。
 丸い壁時計に目をやって、登校時間にまだ少し余裕があると大雑把に計算した綱吉は、奈々が食器棚から青色の弁当箱を取り出すのに肩を竦め、いそいそと台所を後にした。
「へっへーんだ。いっただきー」
 暖簾を片手で押し上げて、廊下へと。照明が消されているので薄暗いが、玄関の上部にある明かり取りの窓から日射しが差し込んでおり、歩き回る分には充分事足りた。
 後ろからはランボの、どうせまたイーピンが大事に残しておいたおかずを横から浚っていったのだろう、悪戯っ子の大声に続き、解読不能な中国語の怒鳴り声が聞こえて来た。
 いつものことだが、朝から元気が良い二人だ。
「あーあぁ、俺も五歳に戻りたいよ」
 両腕を頭上にやって背筋を伸ばし、交互に肩を叩きながら綱吉はまず洗面所を目指した。
 洗濯機が回る音が喧しく響く中、沢山並んだ歯ブラシから自分の物を見つけ出して引き抜く。オレンジ色の持ち手をくるりと回転させ、反対の手で歯磨き粉のチューブを捕まえる。親指でキャップを押して外し、白と水色の縞模様を絞り出そうとした彼の耳に。
 ガシャン!
「うわっ」
 唐突に、騒ぎ声とは異なる騒音が響き渡り、驚いた綱吉は握りすぎたチューブから中身を五センチ以上も吹き飛ばしてしまった。
 洗面台に散った練り歯磨きに呆然とし、欠片も載らなかった歯ブラシを縦に構えて目を見張る。いったい何事かと、心臓に悪い何かが割れた音に唇を舐めていると、立て続けに銃声が聞こえ、ランボの泣き声が家中に轟いた。
「なんだ……?」
 勿体ない事をしてしまったと、手洗い場に貼り付いた歯磨き粉に肩を落として、改めて少量を絞り出してブラシを口に突っ込む。シャコシャコと手早く磨きながら洗面所から顔を出し、廊下を窺うが、声が聞こえるばかりで状況は全く分からなかった。
 奈々が泣き虫を宥める声がする。イーピンの声も、さっきの怒鳴り声からすれば随分と柔らかい。
「あ」
 口の中を泡だらけにしながら首を捻っていると、リボーンが不機嫌な足取りで台所から出てきた。
 彼は顔に白い髭を生やしている綱吉をちらりと一瞥すると、眉間に皺を寄せ、口も開かずに小難しい顔をして、足早に歩いて行ってしまった。
 階段を登る音がして、視線を上向けた綱吉は、口の中に溢れる苦みに我慢出来なくなって、洗面台に戻った。唾と一緒に全部吐き出し、蛇口を捻って咥内を濯ぐ。濡れた唇を手の甲で拭って役目を終えた歯ブラシを片づけた彼は、鏡に映る自分の赤い顔に苦笑した。
 髪を軽く梳いて、直らない跳ね具合に落胆し、軽く顔を洗って洗面所を後にする。
「何かあったの?」
「ううん。大した事じゃないわ」
「そう?」
 途中、台所に寄って暖簾の隙間から中を窺うと、目を腫らしてえぐえぐと泣くランボを抱いた奈々が、息子の問いかけに即座に首を振った。
 だが、銃声は確かに聞こえた。撃ったのはリボーンしか考えられず、弾丸は鉛ではなくゴム弾で、撃たれたのが誰かというのは一目瞭然だった。
 黒いもじゃもじゃ頭のランボの左こめかみの上当たりに、ぷっくり大きなたんこぶが出来上がっていた。
 見るからに痛そうで、自分が巻き込まれなくて良かったと、泣いている五歳児には申し訳ないけれど、ホッとしてしまう。顔を引きつらせた息子が何を考えているのか察知したのか、奈々はさっさと学校に行く支度に戻れ、と綱吉を睨み付けた。
「お弁当は?」
「貴方が降りて来る頃には出来てるわよ」
 おかず類は朝食の支度をしながら作ってあるので、あとは詰めるだけだ。奈々だってランボにかまけている暇は無いと揶揄したつもりだったが、言い負かされてしまい、綱吉は頬を膨らませると後ろ歩きで台所から廊下に戻った。
 数分前にリボーンが辿ったのと同じ順路で二階へ上がり、扉が半開きになっていた自室に入る。起きた時そのままのベッドを右に見て、彼は真っ直ぐ窓辺の机に向かった。
「よっ、と」
 床に置きっ放しだった通学鞄を持ち上げ、時間に合わせて教科書とノートを揃えていく。今日が締め切りのプリントも忘れずに畳んで中に押し込み、準備が終わった後は着替えだ。
 クローゼットの前まで小走りに進み、ハンガーで吊しておいた制服の上着を引っ張り出して袖に通す。スラックスや白のシャツは、目覚めた直後に着替え済みだ。
 床に散らばるゴミを蹴り飛ばし、綱吉はベッドの上で塊になっていた掛け布団を軽く撫でた。ドタバタと落ち着きなく部屋を動き回る彼を尻目に、リボーンは階下から持ってきた新聞を広げ、部屋の中央にあるテーブル前に陣取っていた。
 形状記憶カメレオンのレオンが、丸い目をきょろきょろさせて、綱吉の姿を逐一追いかけているが、飼い主であるリボーンは視線を下向かせ、微動だにしなかった。
「そういや、リボーン。ランボが泣いてたけど、あいつまた何かした?」
 奈々には答えをはぐらかされてしまった質問を、恐らくはランボが大泣きする原因となった張本人に投げかける。後から思えば随分と剛胆な、命知らずな問いかけだったと思うが、リボーンは機嫌が悪いままのようで、新聞紙をばさりと鳴らしただけで、無言を貫いた。
 虫の居所が悪い雰囲気をありありと感じ取り、綱吉は面白くなくて、誰にも聞こえないように小さく舌打ちした。
「ちぇ」
 自分ひとりだけが蚊帳の外に追い払われているようで、気分が悪い。頬を膨らませて唇を尖らせた彼は、折角整えたばかりの髪の毛を掻き回し、空気を蹴り飛ばした。
「遅れるぞ」
「分かってるよ」
 ふて腐れた態度を見せる彼を手に広げた新聞の上に見て、ようやくリボーンが口を開いたかと思えばそんな冷たいひと言だけ。
 リボーンの不機嫌が飛び火して、綱吉は生意気な言葉を吐いて机上の鞄を握り締めた。
 右肩に担ぎ上げ、白い靴下で埃の目立つ床を蹴って歩き出す。部屋を出て行く直前に振り返った彼だけれど、リボーンは入り口に背中を向けたままだ。
「ちぇ。ちぇっ」
 今度は聞こえるように舌打ちし、息巻いて綱吉はドアを押し開いた。返す手で力任せに扉を閉めて、響いた予想外の騒音に、自分まで驚いて首を竦めてしまう。
 それでも、五月蠅いとの声はどこからも聞こえず、余計に悔しくて腹立たしくて、綱吉は大股に短い廊下を進み、階段を駆け下りた。
「母さん、弁当」
「はいはい、ちょっと待って」
 降りた先はすぐ玄関で、普段なら下駄箱の上に、ナフキンで包まれた弁当箱が用意されている筈だった。
 ところが、今日に限ってそれがない。登校時間も差し迫っており、早くしないと遅刻してしまう。
 急かすべく台所に顔を出した綱吉は、忙しく手を動かす奈々の若干苛ついた口調にも眉根を寄せた。ランボはまだ泣いており、イーピンが中国語で話しかけて彼のたんこぶを優しく撫でている。
 その彼らの足許近くに、さっきまではなかった雑巾が二枚、重なり合うようにして置かれていた。
「?」
 少し離れたところにも、もう一枚。使い古したタオルを再利用しているので色や柄はまちまちだが、そのどれにも共通して、黒に近い焦げ茶色の染みが広がっていた。
 しかも距離を置いている雑巾は、他に比べて明らかに表面が膨らんでいた。下に何か隠していると分かる形状に興味を引かれ、綱吉は奈々の準備が終わるまでの暇つぶし程度の気持ちで、そちらに歩み寄った。
「なに、これ」
「ああ、ダメよ。ツナ、近付かないで。危ないわ」
「へ? あ、イタ!」
 スリッパも無しに台所の、リボーンの指定席になっている座席傍に進み出た綱吉に気付き、奈々が菜箸を片手に振り返って叫んだ。だがもう遅くて、綱吉は出した右足の裏にチクリと何かが突き刺さる痛みに顔を引きつらせた。
 小さな、硬い、尖ったものを踏んだ。靴下を突き抜けた破片に竦み上がり、彼は大慌てで片足立ちのまま後退し、ランボが座っている椅子の背もたれに寄り掛かった。
 膝を曲げ、左足の裏を上向ける。幸いにも血は出ていない。
「大丈夫?」
 綱吉がぶつかってきた瞬間、ランボがビクリと大袈裟なくらいに硬直したのが見えた。テーブル越しに覗き込んできた奈々に頷き、緊張を露わにしている幼子二人に視線を投げる。
 イーピンはさほどではなかったが、ランボは明らかに、怒られるのを警戒して怯えた表情をしていた。
「なにか、踏んだ」
「だから言ったのに。コップが割れちゃったの。後で片づけるから、触らないでね」
 綱吉が弁当を急かすから、奈々は床に散った陶片の始末を後回しにしたのだ。五歳児二名が食事を終えても未だに椅子の上で小さくなっている理由も、その辺にあるのろう。
 歯磨きの最中に聞いたのは、コップが割れた際の音だったのだ。
 なるほど、と記憶を振り返りながら頷いた彼は、手の甲で靴下の目地に埋まっている一ミリも無い欠片を手で払い除け、後退して両足で立った。
 具合を確かめるが、もう痛みは感じない。大丈夫だとその場で足踏みをして子供達を安心させてやり、綱吉はやっと完成した弁当を渡されて肩を竦めた。
「さ、早く行きなさい。遅れるわよ」
 奈々がリボーンと同じ事を言って、まだ色々と聞きたい顔をしている綱吉の背中を押した。
 割れたのが何かまでは分からないが、リボーンを不機嫌にさせた原因は、先ず間違いなくこれであろう。渡された弁当を落とさぬよう両手で胸に抱え、綱吉は仕方なく会話を打ち切って玄関に向かった。奈々が二歩後ろをついてきて、靴を履く息子に、其処にあった鞄を差し出す。
「気をつけてね」
「うん。行ってきます」
 いつものように、いつもの朝が過ぎていく。綺麗に晴れた秋空の下、奈々と、二階の窓辺に立つリボーンにそうと知らぬまま見送られ、綱吉は元気いっぱいに家を駆け出した。
 そうして慌ただしい一日を終わらせて、ベッドに入り、次の日の朝も普段通り、何も変わらないまま迎えられた筈だったのだが。
「……あれ?」
 ちょっとした違和感を胸に抱き、綱吉は真向かいの席に座るリボーンに首を傾げた。
「どうしたの、ツナ。はい、お弁当」
 朝食として用意されたおかずの殆どを平らげ、後は茶碗の白米をひとくち分残すのみとなった彼に、今日は早めに支度を終えた奈々が弁当の包みを差し出した。それでハッと我に返った彼は、なにも抓んでいない箸を口に運ぼうとして慌てて手を下ろした。
 お茶で咥内を濯ぎ、最後のひと塊を行儀悪く指で摘んで口に入れる。奈々は渋い顔をしたが、彼が急ぎ立ち上がったのを受け、何も言わずに後退した。
「ご馳走様」
 早口に叫び、両手を叩き合わせて乾いた音を響かせる。ランボが汚らしく口元を汚して箸を動かすその向こう、静かに食後の一杯を楽しんでいるリボーンにちらりと目をやって、綱吉は喉の奥に魚の小骨が刺さったような感覚に眉目を顰めた。
 時計の針が動く音に急かされて、理由が分からないまま彼は仕方なく踵を返した。昨日と同じように歯を磨き、顔を洗って髪に櫛を入れ、階段を駆け上って二階の自室へ。食事中の子供達の喧噪は相変わらずだが、今日は銃声を聞く事は無かった。
「なんだろ」
 胸の中がもやもやして、落ち着かない。
 制服に袖を通し、ネクタイを結びながら考えるが、間違い探しをするには、綱吉の記憶は曖昧すぎた。
 昨日と今日とで、なにかが明らかに違っていた。それは分かるのに、肝心の何が違うのかがはっきりしない。しっくり来なくて、それで違和感が否めないのに、相違点が見出せなくてスッキリしない。
「あー、もう。なんなんだよ」
 苛立ちのまま叫び、ネクタイを締めすぎて首が絞まった。
 ぐえ、と間抜けに呻いて急ぎ緩め、皺になってしまった襟元を撫でて正す。時間割を揃えた鞄を片手に部屋を出ると、丁度向かいから、食事を終えたリボーンが新聞片手に階段を登ってきた。
 あまり愛想が良いともいえず、喜怒哀楽に乏しい赤ん坊の表情は、帽子を被っている所為もあって綱吉からはあまり見えなかった。
「行ってくる」
「ああ」
 すれ違い様に話しかけるが、無機質な相槌がひとつ返されただけで、会話は続かない。まだ昨日の不機嫌が残っているのかと勘ぐるが、彼は滑るように廊下を進んで部屋に入ってしまい、これ以上姿を追いかける事も出来なかった。
 素っ気ないのはいつもの事だから気にしないが、同じ部屋を分け合って生活しているのだ。せめてもう少し、一緒に居る人間の気持ちも考えて行動して貰いたい。
 頬を膨らませて一気に吐き出し、綱吉は玄関に置かれていた弁当箱をひったくると、右足から靴に爪先を押し込んだ。
「行ってらっしゃい」
「行ってきます。あ、そうだ。今日はみんなで買い物に行くから、帰り、ちょっと遅くなる」
「あら、そうなの? 無駄遣いしちゃダメよ」
「分かってるよ」
 翌週、連休が明けたその次の日に、リボーンが誕生日を迎える。その翌日が綱吉の誕生日であるのだが、それは一旦置いておく事にして、今日はそのリボーンへの誕生日プレゼントをみんなで買いに行こう、という話になっていた。
 獄寺に山本、京子、そして学校が違うハルも、外で待ち合わせる約束をしている。
 相談せずに個別に買うと、物が被ってしまうかもしれないから、その回避策だ。リボーンには常日頃から世話になっているから、出来ればちゃんとしたものを、それでいて誰にも真似できないものを贈りたいと考えた綱吉が皆に提案して、了解を得た。
 受け取ったら、彼は喜んでくれるだろうか。昨日から続いている不機嫌も、改善するだろうか。
「何が良いんだろう」
 小春日和の空を眺め、綱吉は急ぎ足で学校に向かう。途中で獄寺と遭遇し、夕方の計画を話し合いながら、彼らは予鈴五分前に正門を潜り抜けた。
 奈々お手製の弁当を抓みながらの昼食も、話題はそれに終始する。綱吉へのプレゼントも一緒に買ってしまおうか、と言う山本に、それでは十代目に当日の楽しみが無いではないか、と獄寺が普段通りに牙を剥いて、綱吉を苦笑させた。
 誕生日を大勢が祝ってくれる、これほど嬉しい程はない。リボーンがやってくる前までは、綱吉は何をやってもダメダメのダメツナで、友人など無いに等しく、女子と親しく話をする機会さえ全く巡って来なかった。
 彼が居てくれたから、今の自分がいる。
 リボーンに出会って、綱吉は変わった。
 とても感謝している。その思いを、彼にちゃんと伝えたい。
 そして願わくば、これからもずっと。
 それなのに。
「ツナさん、これとか、どうですか?」
「え?」
 ぼうっとしていた綱吉は、横から話しかけられて間抜けに目を見開き、ぎこちなく首を回して右に倒した。
 これからの季節に丁度良いのではないかと、黄色のニットキャップを手にしたハルが、綱吉の態度に不思議そうな顔をしていた。
 周囲には京子と、山本の姿もある。獄寺は奥の方にあるアクセサリーコーナーを覗いており、後ろ姿が遠くに小さく見えた。
 授業を終えて、放課後。ホームルームを終えてすぐに連れ立って学校を出て、ハルと合流を果たした彼らは、並盛町内にある大型ショッピングセンターに来ていた。
 複数の店舗が一カ所に集まっているので、贈答品を探すには丁度良いのだ。そして今、彼らは秋を通り越して冬物の扱いがメインになっている服飾店に集っていた。
 ネクタイや、手袋、マフラーといった小物が多く、色とりどりに取り揃えられている。ハルが手にしているニットキャップもそのひとつで、ただ残念ながら成人向けのサイズの為、赤ん坊の頭には少々大きかった。
「そうですかー」
 リボーンに似合いそうだと、見つけた時は大喜びだったハルも、綱吉の指摘にその通りだと頷き、しょんぼりと商品を棚に戻した。
 手袋も、子供向けの店に置かれているものでないと、彼の手では指先が余ってしまう。
「マフラーとかは?」
「それはもう、京子ちゃんが」
「ああ……」
 ざっくり編まれた紺色のマフラーを手にした京子が、レジに向かって歩いていく。先手を打たれてしまったとがっかりした様子のハルに苦笑して、綱吉は他に良いものがあるはずだから、と慰めの言葉で彼女の肩を叩いた。
 山本はというと、いつの間にか獄寺の傍に近付いて、彼の後ろからショーケースを覗き込んでいた。
「うわっ。テメ、何やってやがる」
「いや? 何見てんのかなーって」
 喧しい彼らの会話に笑みを零し、綱吉も彼らの方へ歩み寄った。丁度獄寺が、店員に指示を出して飾られている商品を手に取ったところで、横から盗み見たそれはネクタイピンだった。
 銀色の長方形で、クリップの部分に小さく装飾が施されている。派手すぎず、けれど地味でもない。機能性に重点を置いた、値段の割に見目優れた品物だった。
「俺は、これで」
 良いものを見つけたと満足そうに笑っている獄寺を羨ましく思いながら、綱吉はそっと彼から離れた。
 自分も早く決めなければ。周囲はどんどん品物を決めていっており、気付けばハルも、可愛らしい耳当てを手にレジの列に混じっていた。
「俺はどうすっかなー。なあ、ツナ。小僧って、何が好きなんだ?」
「え?」
 同じくまだ贈り物を決めきれずにいる山本が、両手を頭の後ろで組みながら綱吉に話しかけてきた。
 急に話を振られ、咄嗟に答えられずに彼は息を詰まらせた。琥珀色の瞳を大きく見開き、数秒かけて視線を伏して、唇を爪で引っ掻く。
「そうだな。リボーンが好きなもの……なんだろ」
 殆ど独り言同然に呟き、彼は答えを待つ山本を無視してくるりと身体を反転させた。
 改めて考えると、何も思い浮かばない。そもそもあの赤ん坊が、誰かに何かを所望するところを見た事がなかった。
 食事は基本的に三食奈々が用意しているが、ランボ達とは違い、彼は外で済ませて来るのも厭わない。衣服も自前だし、着ぐるみなどのコスプレ衣装も、いつもどこかから調達してきている。
 ああしろ、こうしろ、とは言うけれど、あれを寄越せ、これを買ってこい、という注文は少なかった。
「知らないのか」
「なんていうか、こう……、すぐには思いつかないや」
 意外そうに細い目を見開いた山本に、身振りを交えて大袈裟に苦笑してみせる。跳ね放題の髪の毛を掻き回し、綱吉は店の外を行く人に目を向けた。
 つられて同じ方向に顔をやった山本が、何かを見つけて歩き出した。レジで会計を済ませ、プレゼント用に包装して貰った京子達も、綱吉の方へ戻ってきて山本の動向に首を傾げた。
「山本?」
「良いもん見ーっけ」
 どうしたのかと声を大きくして問えば、彼は肩越しに振り返って別の店を指さした。
 まだ包装に時間が掛かっている獄寺に断って、綱吉達は山本を追って歩き出した。背の高い彼が入っていったのはスポーツ用品店で、自分用に何か欲しい物が出来たのかと勘ぐった綱吉の前で、彼はおもむろに腕を伸ばした。
「やっぱガキは、元気に外で遊ばないとな」
 白い歯を見せて笑った彼が手にしたもの、それは子供向けの野球グローブだった。
「山本……」
「うわ、結構値段するのな」
 リボーンをその辺の子供と同じに扱うのは、彼くらいではなかろうか。スポーツマンの山本らしい選択肢だと苦笑し、ひっくり返した値札に表示されていた桁数に驚いている姿に肩を竦める。
 ただ、あの赤ん坊が真面目に野球に取り組むとは到底思えず、貰っても本人は困るだけだろう。
「くっそー。良い案だと思ったんだけどな」
「だったら、こっちとかは?」
 買えないことはないが、今月の遊ぶ予定を全部キャンセルしなければいけない。財布の中身を思い出して渋い顔をする山本に助け船を出してやり、綱吉は近くの棚を指さした。
 そこに並べられていたのは、本格的なスポーツ用具とは違い、小さな子供でも遊べそうな遊具だった。
 柔らかなボールと、小さなラケット一対がセットになっているものがある。大きさや値段も手頃で、これならばリボーンでも、ビアンキ相手に使えそうだ。リボーンが飽きて使わなくなっても、置いておけば他の子たちが使うだろう。
 綱吉の提案に頷き、山本は彼の前を通り抜けて棚の前に移動した。
「スポーツの秋、って言うしな」
「うんうん」
 いかにも山本らしい贈り物だと、リボーンも言うに違いない。袋のひとつを手に取った彼に何度も頷き、綱吉は内心の焦りを隠して唇を舐めた。
 四人のプレゼントが決まって、残るは自分ただひとり。そしてこれだけの時間を費やしても、未だ自分が贈るに相応しいアイテムが思いつかないでいた。
 みんなと同じにならないように、それでいて自分から贈られたものだと彼が使うたびに思い出してくれるもの。簡単なようで、意外に難しくて、困った顔をして彼はスポーツ用品店を出た。
「十代目は、どうされます?」
「うん、そうなんだよね」
 白い紙袋を片手にぶら下げた獄寺がすかさず駆け寄ってきて、興味津々に問いかけて来た。京子とハルも、談笑しながらも綱吉の返答に聞き耳を立てている。
 曖昧に返事を濁し、綱吉は物憂げな視線を遠くへ投げた。
 会計を済ませた山本が袋片手に出てきて、未だ通学鞄のみを抱え込んでいる綱吉に目を細めた。
「どうする?」
 主語のない質問に持ち上げた視線を下向かせ、綱吉は白色の床を蹴り飛ばした。
「俺、もうちょっと回ってみる。時間遅いし、みんなは」
「いいえ。俺は最後まで十代目におつきあいします!」
「そうだぜ、ツナ。水くさい事言うなよ」
 力一杯宣言した獄寺と、暢気な口調を崩さない山本とを交互に見て、嬉しいような、それでいて情けない気持ちになり、綱吉は苦笑した。
 彼らの後ろでは、京子とハルは時計を気にしていた。
 十月に入って、もう半分が過ぎた。日の入りはすっかり早まって、午後五時半でも空はかなり暗い。真っ暗闇の中を女の子がひとりで帰るのは、危険だ。了平も心配するに違いない。
「いいよ、ふたりとも。それより、京子ちゃんとハルを家まで送ってってあげて」
「十代目、なんとお優しい……」
 顔の前で手を振り、人差し指を残して折り畳んで後方で戸惑いを顔に出しているふたりを指し示す。彼女らは最初こそ吃驚していたが、綱吉の気遣いに気付いて微笑んだ。
 女性を大事にする綱吉の配慮に、獄寺が感動したのか急に涙を浮かべて噎び泣き始めた。ショッピングセンターの通路で泣かれるのは、周囲の目もあって恥ずかしくてならず、彼の大袈裟な反応に苦慮し、綱吉は彼を宥めて頭を掻いた。
 山本を見上げると、彼も笑っていた。
「ツナがそう言うんなら。お前も、あんまり遅くなりすぎないようにな」
「分かってる」
 伸ばした手で撫でられ、擽ったさに首を引っ込めた綱吉が深く頷く。
「まだ日にちもあるし。良いのが見付からなかったら、明日また来るよ」
 リボーンの誕生日まで、猶予は残されている。じっくり考える時間はあると自分に言い聞かせ、綱吉は下のフロアへ向かう彼らを見送り、自分は上の階層を目指した。
 エスカレーターに乗って移動し、周囲をぐるりと見回す。学校帰りの高校生らしきグループと、若い女性が数人。店員の数の方が多いのでは、と思える寂しい賑わいに目を細め、綱吉は右肩に担いだ鞄の柄を握り締めた。
 皆にはああ言ったが、あまりに考えすぎて、当日になってもこれだ、と思うプレゼントに巡り会えない予感がした。
「そんなことはないぞ、うん。無い」
 どうしてもネガティブな方向に思考が傾いてしまい、首を振って打ち消して、彼は歩き出した。三階は家具や家電製品、そして食器といった生活雑貨の店が集められていた。
 ソファやベッドといった大型家具は、綱吉の少ない所持金でどうこう出来るものではない。候補にあがる事さえなく、そちらには最初から足を向けず、彼は白が目立つ一画の前で足を止め、ガラスの向こうに無数に並べられたものに見入った。
「そういえば……」
 リボーンは何故、昨日から急に機嫌を損ねてしまったのだろう。
 今朝胸に抱いた違和感が、此処に来て急に蘇った。心臓がキュッと音を立てて縮こまり、胸の辺りでもやもやが発生する。息苦しさを覚えて鼻を膨らませた彼は、乾いた唇を舐め、目に見えないものに導かれるまま、他に客もいない店内に爪先を滑り込ませた。
 普段、奈々と一緒でも滅多に入らないような店舗を前に、どことなくおどおどしながら鞄を抱えて慎重に奥を目指す。暇を持て余す店員の、突き刺さるような冷めた視線を堪えて、彼はふと目に留まった食器に瞠目した。
「あ、……そっか」
 それを目にした瞬間、彼の中にあった疑問は答えを見つけてストンと落ちていった。
 喉に刺さっていた小骨が外れる。もやもやしたものが晴れていく。
 彼に足りなかったのはこれだったのかと、漸く巡り会えたプレゼントに相応しい品物を前に、綱吉は頬を緩めた。

 雲間から射す光に目を細め、カーテンを全開にした窓を遠くに見て綱吉はまだ重い瞼を何度も開閉させた。
「ん、んー……」
 眠気を訴える身体を無理して起こし、被っていたケットを足許に押しやって伸びをする。欠伸を噛み殺して目尻に浮いた涙を拭い、彼は額に手をやって深く長い息を吐いた。
 いつ着替えたか覚えていない絹のパジャマの襟に指を引っかけ、軽く引っ張る。床を見れば昨晩まで着ていた筈の自分の着衣が無造作に投げ捨てられており、合間に埋もれた下着も見つけて、彼はやけにすーすーするわけだ、と湧き起こった頭痛に顔を顰めた。
「って、待てよ」
 誕生日の祝福に、と年代物のワインを片手に押しかけたのは覚えている。封を切って、ブルーチーズを酒の肴に摘みながら、昔懐かしい思い出話に花を咲かせたのも、しっかり記憶に残っている。
 だが服を脱ぎ、一回り大きいサイズのパジャマに袖を通した覚えは、無い。
 黒光りする艶やかな布を撫で、彼はこれの本来の持ち主を捜して視線を泳がせた。
「起きたか」
「……うぅ、やっぱり」
 そこへ小さくノック音がして、片手で顔の半分を覆ったまま視線を持ち上げれば、案の定予想していた人物が丸盆を片手に立っていた。焦げ茶色の重そうな扉を前に佇む青年は、切れ長の黒い瞳を眇め、不敵な笑みを口元に浮かべると、項垂れている綱吉にゆっくりと歩み寄った。
 大人ふたりが並んでも余裕のある幅広のダブルベッド脇に置かれた、脚の長い円テーブルに持ってきたものを置き、彼は天蓋の真下で二日酔いによる鈍痛を堪えている綱吉に手を伸ばした。
 節くれ立った長い指を巧みに操り、人の顎を掴んで半ば無理矢理自分の方に向かせた青年は、涼しげな眼差しを投げ、微笑んだ。
「不満そうだな」
「そんな事は、無い……ぞ?」
「嘘だな」
 ぎこちなく言葉を返せば、即座に切り替えされる。ぴしゃりと言葉で額を叩かれ、思わず首を引っ込めた綱吉は、決まりが悪い顔をして上唇を舐めた。
 仄かに香るコーヒー豆の芳しさに喉を鳴らし、眠気を覚ますのに最適の苦みを喉の奥に覚えて唾を飲む。
「ほら」
 飲め、と差し出された掌サイズの白いカップ。陶器製で、年季が入っているのか、磨いても落ちない汚れが内側に、幾重にも層を成していた。
「ありがと、リボーン」
 酔っ払って自力で部屋に帰れず、結局なんだかんだで彼の世話になってしまった事を恥じ、綱吉は短く礼を言った。
 彼のベッドまで占領してしまった。昨晩、とどのつまりはリボーンの何度目か知れない誕生日、彼はいったいどこで寝たのだろう。
 ひとりで使うには広すぎるベッドを今更ながら気にして、膝をぶつけ合わせて綱吉は両手で抱いたデミタスカップに目を落とした。
 ひとくちで飲み干せてしまいそうな量しか入らないカップに波を立たせ、息を吹きかける。
「さっさと飲め」
「分かってるってば。……あれ」
 のんびりしている暇は無い。今日は城で、ボンゴレ十代目の盛大な誕生日会が催される計画だ。そこに主賓が遅刻しては、お話にもならない。
 今ではすっかり綱吉の背丈を追い越し、山本並の身長になってしまった元赤ん坊を横目で睨み、綱吉は飲もうとカップを傾けようとして、とても見覚えのある形状に首を傾げた。
 リボーンが黄色のネクタイを揺らし、綱吉が座るベッドの縁に腰を下ろした。盆に残っていた、綱吉が今手にしていると全く同じ形のデミタスカップを右手に踊らせ、まるで乾杯を決め込むように顔よりも高い位置に掲げ持つ。
 古い記憶に思い当たる節を見出し、綱吉は目を見開いた。
「お前、これ!」
「思い出したか」
「うわ、あ……。嘘だろ。なんで二つとも残ってるんだよ」
 一緒に思い起こされた恥ずかしい思い出に、彼は苦いエスプレッソを前に顔を赤らめた。
 不敵に笑んだリボーンが、カップを傾けて一気に中身を飲み干す。あの日の朝、雑巾に吸われていたのと同じ、黒に近い焦げ茶色の液体を。
 ランボの悪戯によって、砕かれた彼愛用のエスプレッソ用カップ。
 赤ん坊だったリボーンの手にぴったりだった、白いデミタスカップ。
 代用品のマグカップは彼には大きすぎて、それが違和感の正体。だから綱吉は、真っ白い小さなカップを見つけた時、迷わなかった。
『なんで、ふたつもあるんだ?』
『え、と……また割れたら、困るだろ?』
 言い訳がましい理由をつけて贈ったペアカップ。
 よもや数年が過ぎ、すっかり忘れ去った頃合いを見計らって出てくるなど、夢にも思わなかった。
「割れなかったからな」
 しれっと告げたリボーンが、まだ呆然としている綱吉に口角歪めて笑い、空になった、こちらはまだ綺麗なカップを揺らした。
 あの日。一緒に買い物にいった仲間を差し置いて、ひとり先に渡したプレゼント。
 当時はエスプレッソの苦さも、その味わい深さも分からなかった綱吉は、二つセットのカップを前に不思議そうにする彼に言った。

『んで。もし十年経ってもふたつ残ってたら、なんだけど』

 まざまざと脳裏に蘇る記憶。
 自分で告げた約束が今更ながら恥ずかしくてならず、綱吉は湯気を立てる黒々しい液体に唇を戦慄かせ、胸の辺りをもぞもぞさせる照れくささに目を閉じた。

『一個、俺に頂戴。あ、勿論その時は』

 リボーンは鼻を鳴らして笑い、彼には大きいパジャマの襟を引っ張って涙ぐむ綱吉を引き寄せた。
 波立つエスプレッソを片手で押さえて、真っ赤に染まった丸い頬にそっと口付ける。
「なんで、覚えてるんだよ」
「約束だったからな」
 恨みがましく言う綱吉の癖だらけの髪を撫で、彼は喉を鳴らし、笑った。

『お前が淹れたエスプレッソ付きで、な?』

2009/10/12 脱稿