雀海中ニ入ッテ蛤トナル(後編)

 綱吉を抱え込んだ状態で瞬時に跳び、軒下を越えて庭の中ほどに降り立ったディーノが緋の打掛を翻して腰を沈めた。勢いを殺しきれずに後方に少し滑り、砂煙を巻き上げて停止する。横抱きにされた綱吉は一瞬で目の前に現れた青空に驚き、声も無く指先を痙攣させた。
 ぐしゃっ、という音が聞こえたような気がして、恐る恐る瞳だけを屋敷に向ける。裏返った畳と、陥没して一部が反り返った廊下の敷板が、宙に浮く自分の爪先越しに見えた。
「ひっ」
「あっぶねーじゃねーか、恭弥。ツナに当たったらどうするつもりだ」
 深く抉られた床面に恐れおののき、表情を引きつらせた綱吉を庇うようにしてディーノが怒鳴る。若干傾いた柱の向こうで身を起こした雲雀は、さっきまでは確かに無かった穴から拐を引き抜き、空気を唸らせてそれを前後に振った。
 怒り心頭を通り越し、彼は完全に無表情だった。
 雲雀の向こう側には、腰を抜かした山本が見える。凄まじい物音がしたので、奈々が駆けつけるのも時間の問題と思われた。
「貴方にだけ当たるように狙ったから、心配ないよ」
 地の底から響く低音はなによりも恐ろしく、一歩間違えれば巻き込まれるところだった綱吉の心臓は、恐怖に竦んでぎゅっと縮まった。
 当てるつもりはなかったと言われても、あんな風に床の一部が破壊されてしまったのだ。信じるのは難しく、唇を噛んで瞠目する彼を真下に見たディーノは、心配要らないと背中を優しく撫でて宥め、二度ばかりくしゃくしゃの頭を叩いた。
 触れる体温が心地よく、ついつい安らいだ表情を浮かべて綱吉はそこにいる人物を勘違いしたまま上を向いた。
 にっこり微笑むディーノを見出し、しまったと焦るがもう遅い。
 ヒュンッ、と風が唸る。
「恭弥!」
 瞬きの間も置かず床を蹴って中空に躍り出た雲雀の拐が、一欠片の遠慮もなくディーノに放たれた。
 咄嗟に腰を捻って身を丸くした綱吉を庇い、顔面を狙う一打を右腕で受け止めたディーノが衝撃に呻く。素足が砂を抉り、斜め上から来る圧力に耐えかねた身体が僅かに後方へ流れた。
「この……っ」
 綱吉には当てないと言いながら、雲雀の攻撃には容赦が無い。ぶつかり合った場所で高密度に圧縮された空気が破裂し、弾き飛ばされたディーノは綱吉を落とさぬよう受身も取らずに背中から地面に落ちた。
 身軽な雲雀は足を広げて衝撃を受け流し、拐を握る左手ごと砂を掻いて勢いを殺した。
「だからあぶねーつってんだろうが!」
 吃驚して目を回している綱吉の頬を叩き、意識を呼び戻してからディーノがまたも怒鳴る。素早く拐を十字に構えた雲雀は、ならばさっさと綱吉を解放しろと主張して譲らなかった。
 呆気に取られて見入るしか出来ない山本から少し離れた場所では、相変わらずリボーンが湯飲みを傾け、茶を啜っていた。雲雀の一撃で抉られた床を前にしても微動だにせず、呑気に茶菓子を抓んで口に入れ、大きな塊のまま飲み込んでしまう。
 庭先で展開される凄まじい応酬に山本が呆然とする中、彼は指についた餡子を舐めると、置いた湯飲みを取って最後の一滴を喉に流し込んだ。
「その物騒な物を仕舞うのが先だ」
「綱吉、汚れるからこっちにくるんだ」
「汚れるってなんだよ。俺は綺麗だぞ」
「心が穢れているだろう、僕の綱吉を変な目で見て」
「綱吉は物じゃねーぞ!」
 大空の下では相変わらず雲雀とディーノの口論が続いており、身動きが取れなくて綱吉は視線を左右に慌しく動かした。
 一触即発な事態に戸惑い、止めなければと思うのだが声が出ない。肩を抱くディーノの手は緩まず、雲雀に反発して怒鳴るたびに強く抱き締めるので、それが益々雲雀を怒らせる悪循環を引き起こしていた。
 下ろして欲しいと訴えて彼を見上げるが、雲雀に気を取られているディーノはちっとも気付いてくれなかった。折角雲雀が無事に帰ってきてくれたというのに、これではゆっくり祝うことさえ出来ないではないか。
 思わぬ方向に事態が流れて行く。最早止めようのない状況に綱吉は遠い目をし、苦虫を噛み潰した表情を作った。
「もうやだ、この人たち……」
 いい加減にして欲しいと呟くが、声が小さすぎて喧々囂々と相手を罵りあうふたりには届かない。論争は時間を経るごとに熱を帯び、耳を塞ぎたくなるような罵詈雑言の数々が綱吉の頭上を飛び交った。
 これで実力行使が本格化したら、家が壊れる。想像して青褪め、深い溜息を零した彼を誤解し、ディーノは両腕で丸くなった綱吉を抱えて考え直すよう囁いた。
「なあ、ツナ。あんなあぶねー奴止めて、やっぱ俺にしとかないか」
「はい?」
「ちょっと、綱吉に気易く触らないでくれる」
 半ば投げやりになっていた綱吉の態度を、怖がっていると勘違いしたディーノが蜂蜜色の髪の毛をくしゃりと掻き回す。皮膚が引っ張られる感覚に視線を持ち上げた綱吉が裏返った声で聞き返す中、雲雀の怒号が轟いた。
 怒りを爆発させた彼の両手から、桔梗色の炎が迸る。
「げっ」
「いて!」
 封印の儀は済ませたに関わらず金色の鎖を掻い潜って表に現れ出た龍の力に、ディーノが上擦った声を出し、思わず両手を広げてしまった。地面に落とされた綱吉が、腰に来た衝撃と左手首に走った電撃に悲鳴をあげてその場に蹲る。
 膝が軽くなったディーノが慌てて綱吉を拾おうとしたが、それより早く雲雀が走った。
「ぐ――」
「綱吉から離れなよ」
 即座に胸元から抜き取った鞭を左右の手で握り、一本の棒にして打ち込まれた拐を正面に受け止める。金属同士がぶつかり合うのとは違う金切り音が轟いて一瞬空気が停止し、シンと静まり返る。直後、凄まじい爆風が綱吉をも巻き込んで庭に吹き荒れた。
 濛々と立ちこめる砂煙が渦を巻き、背中を押された綱吉が前のめりに倒れた。彼の後方では何かと何かがぶつかりあう音が間断なく響き渡り、時折引き裂かれた空気が外に向かって放たれて、身を起こそうとしていた綱吉は慌てて首を引っ込めた。
 両手で頭を庇い、三角形に膝を折ってしゃがみ込む。下手に動けば巻き添えを食らうのは必至で、徐々に範囲を広げる局地的な竜巻を指の隙間から見上げ、脱力した彼は右肩から庭に崩れ落ちた。
「いい加減にしてよ、もう」
 こっちは疲れているのだから、ゆっくり休ませて欲しいのに。
 いじけて乾いた地面に指で線を描いていたら、竜巻の余波を食らった庭の松の木がボコリと音を立てた。地震かと間違える震動にはっとし、急ぎ身を起こして首を回す。煽られた髪の毛が頻りに顔や首を叩く中、暴風を浴びて枝を撓らせ、今にも地面から抉り取られようとしている庭木を見つけて彼は息を呑んだ。
 幹自体もミシミシ言っており、いつ真ん中で折れても可笑しくなかった。
 瓢箪型をした池は激しく波を打ち、丹塗りの太鼓橋の欄干をひっきりなしに叩いている。水浸しの橋には飛んできた木の葉が大量に張り付き、美しい景観を損なわせていた。
 惚けた顔をして見入った綱吉の後頭部に、風に巻き上げられた飛礫がぶつかった。親指程度の大きさながら、竜巻に乗って相当の速度が出ていたのでかなり痛い。
 手元に転がり落ちた小石を見下ろし、左に首を傾けた状態で綱吉が静止する。横座り状態だった彼は地面に突き立てた両手を握り締め、やがてガタガタと震え始めた。
 遠く屋敷の中、引きつり笑いを浮かべる山本の隣では黄色い頭巾のリボーンが、ディーノに出されたものの、手付かずで残されていた茶菓子に手を伸ばそうとしていた。
「ふむ、悪くねーな」
 口いっぱいに広がる餡子を楽しみ、満足げに目を細めて感想を述べる。庭の騒動など眼中に無い赤ん坊は、ずり落ちた頭巾を撫で、様子を見に来た奈々に茶の御代わりを強請った。
 一方、少しも鎮まる気配の無い雲雀とディーノの乱戦を間近で見上げる羽目に陥った綱吉は、緩やかに息を吐いて呼吸を整え、広げた右手で痛む後頭部を撫でて首を真っ直ぐに戻した。唇を尖らせて固く引き結び、びりびり肌を刺す痛烈な殺気を薙ぎ払って立ち上がる。
 小豆色の裾がはためき、細く白い腿が柱にしがみつく山本にも見えた。
 きらきらと眩く輝く光の粒子に、吹き飛ばされないよう堪えていた彼が目を瞬く。
「この……」
 低い、腹の底から怒りを貯めこんだ綱吉の声が。
「いい加減にしろー!」
 並盛山全域に轟いた。
 ボッ、と彼の額に赤橙色の炎が突如沸き起こり、連動するかの如く握り締められた拳にも、日の出を思わせる鮮やかな炎が灯る。奥歯を噛み締めて激憤を露わにし、日頃の無邪気さが消えた瞳は炎を映し出してか僅かに色を濃くしていた。
 それは彼が持って生まれた力。普段は雲雀への封印として、彼に預けられている力、の筈だった。
 神域での封印の儀が不完全だったのではない。ただ一度は本来あるべき形に戻った余波で、力の逆流が起こりやすくなっているのもまた、事実だった。雲雀が強引に封印を押し退け、力を発言させたのも少なからず影響している。
 心配そうにしている奈々から湯気立てる湯飲みを渡され、濃い味を愉しんだリボーンがぷは、と息を吐いた。
 綱吉の怒声が、山全体の空気を震撼させる。鼓膜を突き破る衝撃波に山本は呻き、神社まで逃げ遂せていた獄寺は石に躓いて転んだ。空高く飛びあがっていた雲雀とディーノは直撃を喰らい、揃って一瞬動きを停止させた。
「え?」
 打ち込まれる拐を鞭で絡め取り、雲雀を蹴り飛ばそうとしていたその体勢のまま、ディーノが間抜けな声を出す。
 綱吉の声が聞こえた気がしたとふたりして目をぱちくりさせて、顔を見合わせた直後。
 耳元で鋭く風が撓った。
 何かが凄まじい速度で真下から駆け抜け、空中に浮遊するふたりを追い越す。反射的に首を上向けた彼らの視界に、太陽光を背景にしたその何かが黒い点となって浮かび上がった。
 朝焼けにも似た眩い輝きに、正体を探ろうと雲雀が目を眇め――
「つ……!」
「恭弥? うがっ」
 先に気付いた雲雀が開口一番叫ぼうとした瞬間を狙ったか否か、小豆色の長着をはためかせた綱吉の鉄槌が、ものの見事に最愛の人の脳天を直撃した。
 呆気に取られたディーノが、抵抗感の失せた鞭を右手に集めて下を向く。急降下する雲雀に注意が向いた彼もまた、がら空きになった頚部に強烈な一撃を浴びせられ、前のめりに姿勢を崩した。
 重力に導かれるまま、二人仲良く地面へと落下していく。
 リボーンが湯飲みを受け皿に戻す音が、雲雀とディーノが地上に激突する音に重なった。
「ぶはっ」
 煽られた山本が、吹き飛ばされまいと柱に右手を巻き付けてしがみつき、呻いた。
 綱吉が黄金色の光を爆発させたかと思えば、次の瞬間にはもう姿が消えており、何処へ行ったのかと惚けているうちに竜巻が消えて空が晴れた。そして天から人が落ちてきて、庭先に巨大な穴をふたつ並べた。
 あまりにも早すぎる展開についていけず、山本は頬の筋肉をヒクリと痙攣させた。勝手に肩からずり落ちた長着が、衝撃の大きさを物語っていた。
「俺、やってけんのかな……」
 少々自信を挫かれそうになって小声で呟き、柱に額を打ち付ける。そんな彼の襟足をふんわりとした風が撫でて、視線を持ち上げた彼は橙色の炎を宿した綱吉が優雅に着地する様を見た。
 幼少期の綱吉の姿が重なり、はっと息を呑んで目を見張る。穴の底に沈む雲雀たちを睥睨する彼の表情は、険しいながらも美しかった。
「いい加減にしろ」
 綱吉が心持ち低い声で言い放ち、炎を灯した右拳を持ち上げてふたりが起き上がるのを待つ。
 通常あの高さから落下したなら、四肢が粉々に砕け散っていても可笑しくない。しかし幸か不幸か、雲雀も、ディーノも、そこいらに暮らす普通の人々とは根本的な部分が異なっていた。全身を襲った激突の衝撃に苦悶しつつも、五体満足の状態でそれぞれ呻いている。
「う、いっ……てぇ」
 先に身を起こしたのはディーノで、強かに打った腰を押さえて顔を顰めた。艶やかな金髪に大量の土が混ざりこみ、緋色の打掛もすっかり汚れてしまっている。飛び散った砂利が口に入ったようで、唾と一緒に吐き出した彼は、隣の穴で惚けている雲雀を見やってから、突き刺さる視線にビクリと肩を強張らせた。
 恐る恐る振り返り、佇む綱吉に頬を引きつらせた。
「いっ、た……綱吉!」
 遅れて雲雀も人型に抉れた穴の底から這い上がり、途中で転落直前の記憶を呼び覚まして声を張り上げた。
 緩い傾斜を駆け上り、存外に近い場所にあった人影に驚いて仰け反る。危うくまた転落するところで、踏み止まった彼は目の前で燃え盛る炎を見て絶句した。
「ヒバリさん、ディーノさん」
「つな……よし?」
「次喧嘩したら、ただじゃおきませんからね」
 首を左右に振り、交互に言葉も出ないでいるふたりを見詰め、綱吉は一段階低い声色で素っ気無く告げた。拳を横薙ぎに払い、炎の残影をふたりの瞳に焼き付ける。
 その破壊力を目の当たりにさせられた彼らが、頷かないわけがなかった。
 特にディーノなどは、何か思い当たる節でもあるのか必要以上に怯え、コクコクと何度も首を縦に振った。雲雀は一度だけ、非常にゆっくりと、綱吉の変貌を幾らか信じ難い目で見詰めながらだった。
 場の空気が凍りつき、沈殿して動かない。遠巻きにする山本ですら立ち上がることが出来ずにいる中、今の今まで完璧に騒動を蚊帳の外にしていたリボーンが、濡れた湯のみの縁を撫でて不敵に笑った。
 蝋燭の火が掻き消えるが如く、小さな座布団から忽然と赤ん坊の姿が消えた。が、誰一人としてその事実に気付かない。
 次に彼が現れたのは、険しい目つきで押し黙る雲雀達を睨む綱吉の真後ろだった。
「本当に?」
「ああ、しない。絶対しない。約束。約束する!」
「……努力はする」
 腹の底から搾り出される綱吉の問いかけに、ディーノは大袈裟なくらいに、雲雀は不服そうに、それぞれの言葉で返した。
 若干雲雀の態度が引っかかるが、一応約束は結ばれた。満足げに口角を歪めて笑った綱吉は、直後全身から滾らせていた黄金色の彩を解き放ち、両手と額に宿していた炎を消した。膝が笑い、脱力して身体が前後左右に大きく揺れ動く。
 突然のことに反応が遅れ、雲雀もディーノも動けなかった。ふたりが息を呑む前で、綱吉の体が天を仰いで後ろ向きに倒れる――丁度、リボーンの真上へと。
「ふっ」
 鼻で息をし、小さな赤ん坊が崩れ落ちた綱吉の背中をあっさりと受け止める。急激にガクンと来た震動に目を見張った綱吉は、自分を支える紅葉の掌を肩甲骨の下に感じ取り、そのまま地面にへたり込んだ。
「綱吉」
「あ、れ……おっかしいな。力、入んない」
「当たり前だ。無茶しやがって」
 両足を横に広げ、背中を前屈みに倒して地面に肘を突き立てる。立ち上がるどころか、背筋を伸ばすのさえ難しい状態に綱吉は首を振り、駆け寄った雲雀に抱えられてやっと顔を上げた。
 そんな彼の足を軽く蹴り、黄色い頭巾の赤ん坊は呆れ調子で言って、綱吉の垂れ下がる手を後ろから引っ張った。
 肘を変な方向に捻られ、関節の痛みに肩が跳ね上がる。だが放してもらえず、苦痛に呻いた彼を心配して雲雀は無体を働くリボーンをねめつけた。
 ただ二秒後には、見た目だけが赤子の存在が何を気にしているのかを悟り、言葉を喉に詰まらせた。
「いたい、いたっ、た……だた!」
 紅葉のような手で掌を押され、ひと際高い声で綱吉が痛みを訴える。変な方向に曲がっていた肘を更に引きつらせた彼の反応は、異常だった。
 ディーノも背中に回していた手を下ろし、四つん這いで近付いて最後に立ち上がった。眉間に皺を寄せ、リボーンと雲雀が見ているのと同じものを視界に入れると同時に苦い顔を作った。
「なんで」
「ったく。これじゃ、防御用の武具が必要だな」
 思わず声に出したディーノを無視し、リボーンが簡潔な結論を導き出してようやく綱吉を手放した。彼は肩を一回転させてそのまま尻を突き出して地面にへたり込み、荒い息を繰り返して眦に浮かんでいた涙で頬を濡らした。
 綱吉の手は、扱い慣れぬ炎の余波か、焼け爛れて変色し、水脹れで倍の大きさに腫れ上がっていた。
 あまりにも痛々しすぎる結果に、こうなる原因となったふたりが悔しさを表情に滲ませる。
「ふむ」
 互いに無言で俯いたふたりを見上げ、リボーンが鼻を鳴らした。
「お前ら、反省してるな?」
「ああ」
「そりゃ、当然」
「そうか。なら――」
 間髪いれず頷いた雲雀とディーノを見上げ、リボーンはにやりと不敵に笑った。

「……で」
「出来上がったのがそれ、ですか」
 たった一刻の間に二度も着替えを強いられた綱吉は、縹色の袖から出した両手を山本と獄寺に見せて肩を竦めた。
 彼の膝にはリボーンが座り、いつも通り悠然と構えて茶を啜っている。膝を立てて身を乗り出していた獄寺は、自分が席を外しているうちに起きた出来事をひと通り説明され、分かったような、分からなかったような顔をして緩慢に頷いた。
 姿勢を戻し、綱吉の左斜め前で正座を作り、両手をそろえて並べる。視線は相変わらず、綱吉の両手に注がれていた。
「結構、あったかいよ」
「でしょうね」
 ふふ、と目尻を下げて笑った綱吉が、羅紗の手袋を嵌めた手で両頬を包んだ。厚みがあり、保温性に優れ、これから先寒くなる季節にはもってこいの一品である。
 色は微妙に金がかった白に近く、光を浴びせると朧気に青が浮き上がる不思議な素材が使用されていた。親指と、残り四本の指がひとまとめに包めるように、先端がふたつに割れているのも特徴だった。
「ありがと、リボーン」
「礼にはおよばねーぞ」
 綱吉が膝に抱えた赤子に微笑みかけ、左から先に手袋を抜き取った。現れた掌は少し前まで火傷で赤黒く変色していたが、今は元の白さを取り戻し、傷ひとつ残っていない。
 幾分違和感が残っているものの、日常生活を送るのに支障は無くて、握って、開いてを繰り返し、彼はもう片方も外して重ねて置いた。
「防火性もばっちりだぞ」
 正座している綱吉の上から手を伸ばし、畳に行儀良く鎮座する手袋に指を添えてリボーンがにんまりと笑う。次に彼が目を向けたのは、南に開けた座敷の縁側に並んで座る、ふたりの青年だった。
 どちらも綱吉たちが居る奥の間に背を向ける格好で座し、背中を丸めて前屈みの姿勢を取っていた。膝に置かれた拳はきつく握られ、何かに耐えてか常時ふるふると小刻みに震えている。
 綱吉から見て右が雲雀、左がディーノ。なお、雲雀が破壊した中の間の縁側も、庭に空いた巨大な穴も、折れ掛けた松の木もそのままだ。
「くそー。いってえ……」
「……」
 奥歯で声を噛み締めたディーノに、雲雀が無言で応じる。なにもふたりは、場所を考えずに派手に喧嘩をした罰としてリボーンに正座を強いられているわけではない。その体勢でないと、傷に触るから仕方なくそうしているだけだ。
 雲雀は左脇腹がじくじくと痛み、ディーノはうなじから尾てい骨までの一帯がジンジンと熱を発していた。彼らはお互いそっぽを向いたまま、後ろで繰り広げられる楽しげな会話に耳を傾け、リボーンの提案を最後まで聞かなかったことを深く後悔した。
「防火性?」
「ツナはまだ自分の力を巧く操れねーからな。炎を使うと手が焼け焦げちまう」
「ぐ」
 だから術が使えない時分から、基本だけでも習得しておけと言っておいたのに。耳に胼胝ができるほど聞かされたリボーンの嫌味に綱吉は背筋を反らし、聞こえなかった振りをして視線を逸らした。
 神妙な顔をした獄寺は頻りに頷いて相槌を返し、それで、と話の先を促す。彼の右側に座る山本は、綱吉と一緒にことの有様を見ていたからか、残っていた羊羹を頬張り、会話には混じってこなかった。
 膝を思い切り叩かれた綱吉が今度は前に姿勢を崩し、リボーンを抱きかかえる。その隙間から腕を出し、リボーンは彼の耳朶を掴んで悪戯に引っ張った。
「いてっ」
「だから、炎から守るこいつの出番ってわけだ」
 まるで講談を聞いているようだ。流暢な語り口調で事のあらましを語る赤子に聞き入り、獄寺は綱吉が再び手に嵌めた手袋を見て、端の方で小さくなっているふたりの青年に目を向けた。
 リボーンが言うに、この手袋の素材は通常の羅紗ではないらしい。手触りも良く、温かなそれに笑顔を向ける綱吉をじっくりと眺め、獄寺は視線を戻した。
 興味津々の彼に、赤子がにんまり笑いかける。
「なにせ龍の鱗と天馬の鬣で出来てるからな」
「……は?」
 理解が追いつかない彼の間抜けな声に、縁側で正座組が揃ってビクリと肩を上下させた。
 綱吉が堪えきれず噴き出し、餡子を舐めた山本は丸めた拳を口元に置いた。声にこそ出さなかったが明らかに笑いを噛み殺しており、ひとり解らない獄寺は首を捻って腕組みを作った。
 やがて。
「あっ!」
 ようやく頭の中で巧く整理がついたらしい。彼は鋭い声をひとつあげ、片膝立てて身を起こした。
「でしたら、お、俺も。俺も、是非十代目の為に何か、なにか……」
「おめーには何もねーだろ」
「それはそうですけど、でも、あ、あっ。角、角とかどうでしょう」
「生えてねーだろ」
 合点がいった獄寺が上擦った声でリボーンに詰め寄って訴えるが、軽く聞き流されて真面目に応じてもらえない。一時期表面に表れ出ようとしていた角も、彼が人間性を取り戻した際に引っ込み、銀髪に隠れる額には何の突起も残されていなかった。
 ならば髪の毛でも、と諦め悪く喚くものの、天馬の鬣と比べれば雲泥の差。しつこい、とリボーンの撥で頭を叩かれ、獄寺は敢え無く撃沈した。
 涙目で畳に顔を埋めた彼を、山本が呵々と笑い飛ばす。それに反発して獄寺が突っかかっていくものだから、雲雀とディーノが大人しくても、屋敷の中は充分騒がしかった。
 少し前までの、葬式中かと思うくらいの暗い雰囲気は何処かへ消え去り、明るく、賑やかな沢田家が戻って来た。
 たったひとり居るか、居ないかで、こんなにも違ってくるのかと驚かされる。一方的に山本に怒鳴りつけている獄寺の、若干意味不明な主張を聞きながら声を立てて笑い、綱吉は膝のリボーンを下ろして立ち上がった。
 羅紗の手袋を持ち、畳の縁を跨いで縁側へと向かう。ちらりとリボーンが横目で見送る中、綱吉は再度膝を折り、雲雀の真後ろに座り直した。
「ヒバリさん」
 近付く気配で既に気付いていただろうに、雲雀は振り返らない。だから綱吉は名前を呼び、猫背になっている彼の肩に手を伸ばした。踝に乗せていた腰を浮かせ、左脇腹の傷には触れぬように温かい背に寄りかかる。
 スッと彼の上腕から肘に左手を滑らせれば、流石に無視を貫くのは難しかったようで、雲雀はふるりと首を振った。隣に並ぶディーノも、ぴったりくっつきあうふたりが気になるようで、瞳だけを動かして様子を探っていた。
「ヒバリさん、良かった」
「……」
 彼が此処に居る。並盛の里の、沢田の家に、雲雀恭弥が居る。
 ようやく当たり前の日常が戻って来たのだと強く実感させられて、綱吉は微笑み、目を閉じた。
 布を押し上げている雲雀の肩甲骨に頬を当て、猫のようにじゃれ付く綱吉を好きにさせ、雲雀は無言を貫いた。背筋は最初に比べて幾らか真っ直ぐに伸び、正座も崩して胡坐に作りかえる。床に落ちていた綱吉の左手が持ち上がり、紺瑠璃色の帯に添えられた。
「痛いですか?」
「そうでもないよ」
 掠れる声で問えば、雲雀の手が綱吉の手に重なった。素っ気無い物言いの裏に隠れた彼の気遣いが伝わってきて、綱吉はくすぐったい気持ちを堪え、自分も足の形を崩して完全に上半身を雲雀の背に委ねた。
 そうして、じっと自分を見ている男の存在を思い出して目を丸くする。
「ディーノさん?」
「へ?」
 何か用かと声に出して問えば、意識を遠くに飛ばしていたらしい彼は、間の抜けた合いの手を返して固まった。
 いつの間にか盗み見から、堂々と身体ごと向き直って綱吉を見詰めていた。不躾な視線を投げる男を睨みつけ、雲雀は腕を持ち上げると綱吉を庇うようにディーノとの間に差し込んだ。
「綱吉、あんまり近付かない」
 さっき押し倒されたことを、もう忘れているのか。
 語気を荒くした雲雀の忠言に、綱吉は顔を赤くして膝で床を叩いた。押し出されるままに雲雀の右側へ移動し、ディーノと距離を作る。雲雀の影に隠れてしまった小さな存在に、やっと表情を崩したディーノは困った様子で頭を掻いた。
「そんな、嫌うなよ」
「綱吉を二度も襲っておいて、良く言えるね」
 つっけんどんに雲雀が言い返し、取り付く島を与えない。
 たとえ綱吉が許そうとも、雲雀はディーノを許すつもりはなかった。本当は彼と綱吉を同席させるのだって嫌なのに、と奥歯を噛んでひとりごちさえする。
 綱吉を守るという点だけは決して妥協しない雲雀の意固地な態度に、育ての親は苦笑して肩を竦めた。
「そうだ、ディーノさん」
 ただし雲雀の思いが、必ずしも綱吉の思いに同調しているかといえば、あながちそうでもなかったりする。近付くな、と言われたばかりなのに身を起こし、雲雀の頭越しに金髪の青年に琥珀の瞳を向けた綱吉は、下でムッとする気配が強まるのも構わず、ディーノに話し掛けた。
「綱吉」
「だって。あの、ディーノさんはなんで」
 肩を押して止めようとする雲雀の袖を引き、綱吉は彼の危惧よりずっと抱いていた疑問の解消を優先させた。伝心で届けられた内容は、確かに雲雀もずっと気にかけていたものであり、真摯な眼差しを受け止めて溜息を吐いた。
 これ以上ふたりが言葉を交し合うのさえ不満な彼は、手を下ろし、綱吉に代わって質問をディーノに投げ放った。
「それで、どうして貴方は、此処に居るの」
 地上に解き放たれた災厄の神たる火烏を、六道骸ごと天界へ連れ帰り、ディーノの任務は完了したはずだ。
 神の末席に名を連ねる彼は、本来こんなにも易々と人前に姿を現してよいものではない。極力地上の人々に干渉せず、関わらないのが、神々の鉄則のひとつだからだ。
 火烏の一件は非常事態だったからよしとしても、壊れた山門を修復し、挙句雲雀と騒動を起こして屋敷や庭の一部を破壊するのは、明らかに規約違反ではなかろうか。
 率直な質問を正面から投げつけられ、ディーノは笑った。
「あれ、言ってなかったっけ」
 理由はてっきりもう伝えたつもりでいた彼は、陽光を反射してきらきら眩い金の髪を掻き回し、しまりの無い表情で逆にふたりに聞き返した。
 雲雀の右の拳が硬く握られ、小刻みに肩が震える。反射的に殴り飛ばそうとしたのを理性で押し留める彼を前に、ディーノは残る手を上下に振ってからまだ口論を継続している獄寺たちを見た。
 リボーンは綱吉が使っていた座布団にちょこん、と座り、彼の視線を受けて口を開いた。
「俺は、聞いたぞ」
「そっか。リボーンと、そこのふたりにしかまだ話してなかったか」
 まだ雲雀が、綱吉を伴って戻って来る前の会話だった。記憶が混同していたと、あまり反省しているようには見えないが素直に侘び、ディーノは改まった態度で雲雀と綱吉に向き直った。
 崩していた姿勢を作り変え、正座の膝に緩く握った手を添える。そして、いやに真剣な表情を浮かべて、雲雀ではなく、その後ろにいる綱吉をじっと見詰めた。
「実はだな」
 急に引き締められた場の空気に圧倒された綱吉が息を潜め、雲雀もまた緊張を表に出した彼を気にしてからディーノに向き直った。
また封印された禍津日神が解き放たれて、追討の命でも受けたのかと視線で問いかける。
 しかし。
「それが、えっと」
 緊迫感が維持できたのは一瞬で、ディーノは言い掛けた途端に口篭もり、言いづらそうに姿勢を低くして頭を垂れた。
「だから、なに」
 痺れを切らし、短気な雲雀が先を促すが、どうにも煮え切らない。ディーノは胸の前で人差し指を小突き合わせ、どこかいじけた態度を見せ、嫌に恥かしがっている様子が窺えた。
 奇妙な展開に、綱吉も雲雀の横から顔を出して首を傾げた。
 座敷の真ん中に鎮座するリボーンが、ふっと鼻で笑った。
「どうせ今更だろ」
「いや、まぁ、そうなんだけどな。俺としては後悔してないから、別にいいんだけどな」
 だけど実際当人らを前にして言うのは、男として情けない。唐突に声を張り上げたディーノに驚き、膝立ち状態だった綱吉が腰を落とす。ぺたん、と座り込んだ彼を気にして雲雀は眉間に皺を寄せた。
 何をそんなに臆することがあるのか、男ならばさっさと白状してしまえ。険のある眼差しを浴びせられ、ディーノはいよいよ苦虫を噛み潰した顔をして、乱暴に頭を掻き回した。
 緋色の打掛を肩に抱き、坐を正してひとつわざとらしい咳払いをし、
「えー、だから」
「だから?」
「お前を脱走させたのがばれたんで、俺も堂々と逃げてきた!」
 堂々と、の部分を強調し、彼はきっぱり断言した。
 綱吉と雲雀と、ふたりの目が真ん丸に見開かれる。何を言われたか一瞬分からず、聞き間違いではないかと疑い顔を見合わせて、揃ってリボーンや喧嘩を中断させた獄寺たちを見るが、彼らは笑って頷くばかりだ。
 再度ふたり、顔を向き合わせ、
「え?」
 若干調子外れに聞き返した。
 とどのつまり、火烏の件と雲雀を逃がした罰が重なり、これまで色々と見逃してもらっていたがそろそろ限界と見て、咎が下される前に天界から抜け出して来た、という事だ。
 それでいいのかと綱吉が唖然と聞き返すが、ほとぼりが冷め、皆が忘れた頃に戻れば問題ないとディーノは暢気に笑い飛ばした。
 まがりなりにも数多の眷属を従える神が、こんな調子でいいのだろうか。雲雀という実例もあるが、それとは別に頭が痛くなる思いで綱吉は視線を遠くに投げた。
 しかも話は、これで終わりではなかった。
「それでさー、頼みがあるんだけど」
 少し前の真剣さは何処へやら、すっかり元に戻ってし合ったディーノが膝を崩し、雲雀を回り込んで綱吉に近付こうとした。素早く雲雀が牽制するが、全く意に介さない。黙って立っていればどんな女性も振り返る顔をみっともなく崩し、彼は両手を音立てて叩き合わせた。
 本来は拝まれる立場にある存在が、綱吉と、ついでに雲雀に向かって頭を下げる。
「俺、此処に置いてくれない?」
 他に行くところが無いのだと早口に告げた彼の頭に、今度こそ雲雀の拐が振り下ろされた。

2009/04/19 脱稿