しゃらん、しゃらん、と鈴が鳴る。
暗がりを赤々と照らしていた篝火も今は水を打ったように静まり返り、風もない中、厳かに夜明けを待っていた。
「ん……」
肌寒さを覚えて身震いし、鼻で息をした綱吉がもぞりと動く。合わせて被っていた薄手の布が肩からずり落ちた。
夢さえ見ない深い眠りから意識が引き上げられ、水面を突き抜ける。何度か閉ざしたままの瞼を震わせ、引き結んだ唇を解いて吐息を零した彼は、温もりを求めて右手を泳がせた。
指先が見つけ出した柔らかなものに安堵して、頬を緩める。ほっとした様子で顔を綻ばせたその後、数秒を置いて瞼を持ち上げた彼は、東の山並みを朧気に照らす眩い光を見た。
「ん、う――」
硬い、寝所とは違う場所で眠っていた所為で身体中が痛い。寝転んだまま伸びをして凝り固まった関節を伸ばし、彼は深く長い息を吐いて目尻を擦った。
まだ覚醒しきらない頭が、此処は何処だろうと問いかけてくる。場を囲む注連縄は細く、等間隔で吊るされた白い紙垂が頼りなく揺れていた。篝に燃え盛っていた炎は一様に消え失せ、沈黙している。代わりに石舞台を照らすのは、遥か遠方から昇る太陽だ。
上半身を肘で支えた状態で眩しさに目を細め、綱吉はふと我に返って自分の手元を見た。
「あれ」
身に着けていた白の胴衣に緋の裳はそこに無く、むき出しの肌が覗いている。そういえばやけにすーすーすると、更に下を向いた彼は、自分が母の胎内から産まれ出た時の姿になっていると知って悲鳴を上げた。
「なっ、な……な――!」
「五月蝿いよ」
「なんっ」
呂律が回らず、ろくすっぽ声も出ない。其処へ割り込んだ低い不機嫌な声に尚驚いていたら、いきなり斜め下から腕を引っ張られた。
思いがけない悪戯に呆気に取られる暇もなく、綱吉の身体は温かなものに包まれた。どくん、と心臓がひと際強く高鳴り、目を見張った彼の前に柔らかな笑みを浮かべた黒髪の青年が姿を現した。
否、彼はずっと、此処にいた。
綱吉の隣に。
「ひばり、さん」
両腕を背中に回し、綱吉を抱き締めた相手を知覚する。と同時に昨晩の記憶がつぶさに蘇り、彼は瞬きを何度も繰り返した。
厚い胸板に耳を押し当て、伝わる鼓動を指折り数える。確かに感じられる命の脈動は、綱吉が覚えているまま変わっておらず、優しく、穏やかだった。
もう会えないと思っていた。このぬくもりに二度と触れられないと覚悟していた。
綱吉は身を引き、彼の上で両腕を突っ張らせた。十寸ばかりの空間を作り出し、大きな琥珀色の瞳いっぱいに雲雀の姿を映し出す。彼は笑って、綱吉の好きにさせてくれた。
気まぐれに髪を梳く手が優しい。眇められた瞳は黒く艶がかり、相変わらずとても綺麗だった。
「ほんとに?」
恐る恐る問えば、彼は黙ったまま微笑んだ。
耳朶を擽り、降りてきた掌が綱吉の頬を包む。大きくて、それでいて繊細で、それは間違いなく綱吉の大好きな手だった。
綱吉を導いてくれる手だった。
信じられないという思いと、嬉しくて堪らない喜びが混ざり合い、心の中で鬩ぎあっている。もし彼が、夜明けの光に溶けてしまったらどうしよう。そんな起こり得ない想像を巡らせて、不安に心を揺らす彼の肩を、雲雀はそっと引き寄せた。
胸の中に閉じ込めて、飽きるまで自分の鼓動を聞かせてやる。吐息を吹きかけ肌を撫で、潰れるくらいに綱吉を抱き締めた。
苦しがって綱吉は身を捩り、浮き上がった涙を飛ばして無理に笑った。
東の稜線から滲み出ていた光が、ゆっくりと緑深い山並みを明らかにしていく。淡い橙色の輝きを纏い、今日もまた太陽が朝の到来を人々に告げた。
「つなよし」
囁けば、硬直していた綱吉がはっと息を呑む。
雲雀が綱吉の前から姿を消したのは、数日前のことだ。だけれどその間をひとりで過ごすことは、綱吉にとっては何ものにも変え難い苦痛だった。
十年前、まだ幼い日に出会ってから今まで、三日と離れた例は無い。ひとりで眠る夜があんなにも辛く、苦しく、寂しく、哀しいものだと知らなかった。
「ヒバリさん」
「うん」
「おかえり……なさい」
「うん。ただいま」
雲雀の手が遠ざかるに合わせて身を起こし、ぺたんと岩場に腰を下ろした綱吉が咲き誇る花のような笑みを浮かべた。
羽織っていた布がするりと肌を滑り落ち、雪のように白い肌に刻まれた無数の痣が露になる。照らし出す光の悪戯に、雲雀は寝転がったまま苦笑した。
「なんですか?」
「見えてる」
何故笑うのかと綱吉が不思議そうに首を傾げるので、雲雀は仕方なく人差し指を立て、綱吉の腰元を指し示した。
直後、彼の全身は真っ赤に茹で上がり、綱吉は落とした布を集めて慌てて自分自身を覆い隠した。
傍に転がっていた鈴が蹴り飛ばされ、しゃらん、と軽い音を響かせる。白と緋が織り成す布の彩に目を細め、喉を鳴らした雲雀もまた身を起こし、布団代わりにしていた自分の着衣を引き寄せた。
引き締まった体躯には、あちこちに引っ掻かれて出来たと思しき傷跡が残っていた。どれも新しく、誰がつけたものかは一目瞭然で、敢えて問うまでもない。
手早く袖を通して身なりを整えていく雲雀を前に、綱吉は上気する頬の熱を持て余し、ふいっと他所を向いた。
「なに。まだ足りない?」
「そうじゃなくて!」
拗ねているようにも見える態度に、雲雀が前のめりになって綱吉を覗きこむ。視線が合いそうになって慌てて反対に首を回し、声を荒立てた彼は不意に零れ落ちた涙に驚いて目を瞬いた。
身を引いた雲雀もまた、呆気に取られた様子で溢れ出た彼の涙に見入った。
「あれ」
「綱吉」
「あれ、あ、あれ? 変、おかしいな。なんでだろ」
透明な雫が次々に、彼の意思を無視して零れていく。どれだけ拭っても止まらず、困惑を顔に出して綱吉は赤くなるまで瞼を手の甲で擦った。
見かねた雲雀が手を伸ばし、彼の細い手首を掴む。軽く引っ張って顔から引き剥がし、一緒に華奢な体躯を抱き寄せた。
「あ……」
昨晩から幾度も肌を重ねた熱が蘇る。あんなにも激しく抱き合っても尚、足りない。また彼が何処かへ消えてしまいそうな恐怖が常に付きまとって、綱吉を苦しめる。
雲雀は帰って来た。綱吉との約束をちゃんと守ってくれた。
今こうやって抱き締めてくれる腕は嘘ではない。紛い物でもない。本物の、本当の、雲雀恭弥だ。
「ヒバリさん」
だのにまだ信じられない。夜眠りに就いて、朝目を覚ますのが怖い。其処に在ると信じたものが無い恐怖に、これ以上耐えられない。
「ヒバリさん」
何処にも行かないで欲しい。手を離さないで欲しい。ずっと一緒に居て欲しい。永遠にこうしていたい。
ぼろぼろと涙を流し、顔を伏した綱吉が雲雀の胸に額を押し当てる。声も無く泣き続ける彼の小刻みに震える肩を抱いて、彼がいかに傷ついたかを知り、いかに深く愛してくれているかを再確認して、雲雀は瞼を下ろした。
「もう離れない」
「嘘だ。前もそう言って、俺のこと、置いて……っ」
「約束する。二度としない」
「嘘だ」
「誓うよ」
泣きじゃくりながらかぶりを振る綱吉を押し留め、雲雀は甘く濡れる琥珀の瞳を覗き込んだ。
短い息を吐き、真剣な眼差しを向ける彼に気圧されて綱吉が動きを止めた。両手を握られたまま、鋭い視線を瞬時に柔和なものに変容させた彼に見入り、唇を戦慄かせる。
殴りかかろうとして振り上げていた両手を雲雀の腕ごと下ろし、ならば、と俯いた彼は両膝に置いた拳に力を込めた。
繋がりあったままの両手、しかしそこに数日前まであった鎖は無い。
十年間ふたりの命を分かち合っていた絆は、あの夜に途切れ、砕けた。
「綱吉」
聞こえない心の声を不安がり、雲雀が呼びかける。綱吉は直ぐには顔を上げず、手首を揺らして彼の指を解き、そこに自らの掌を重ね合わせた。
「約束、なら……絶対に俺から離れないって誓うのなら」
苦々しい思いを顔に出し、綱吉は呻くように言葉を紡いだ。
ぎゅっと握られて、雲雀は綱吉の拳が震えているのに気付いた。唇を噛み締め、重苦しい感情を必死に堪えている彼の姿に目を眇めた雲雀は、次に続くだろう言葉を想像し、静かに微笑んだ。
目を閉じ、背を丸めて綱吉の額を額で小突く。
不安がる必要など、どこにもない。綱吉の願いは雲雀の願いであり、綱吉の望みを叶えるのが雲雀の役目だ。
「結ぼう、絆を」
再び、封印の鎖を。
綱吉の全能力を使って、雲雀の龍の力を封じ込める黄金色の鎖を――
「それに、忘れているだろうけれど、僕は君の封印なしでは結界から出られないしね」
「……ぶわっ」
最初から望むところだと笑えば、すっかり頭から抜け落ちていた綱吉は変な声を出し、顔を林檎よりも鮮やかな赤に染めた。
太陽が半分以上顔を出し、恥かしそうに照れている綱吉を照らす。なによりも眩い彼の姿を瞳に焼付け、雲雀は彼の手を引いた。
小さくて、温かくて、頼りなくて、でも芯は強くて。誰より優しくて、誰よりも大切な、この世で一番愛おしい子を胸に抱き締める。
「契ろう、君と再び。永遠に共に在ると」
誓いの言葉を滔々と紡ぎ、首を持ち上げた綱吉を近くから見詰める。
微笑んだ彼に目尻を下げ、雲雀は薄い瞼を閉ざした。
綱吉もまた静かに目を閉じ、降りてきた彼の唇を受け止めた。
身も心も蕩けそうなくちづけに身を委ね、雲雀の腕を握り締める。綱吉の全身から滲み出る黄金色の輝きが、陽光を反射しながら中空に波を打った。
雲雀を包んだ薄い膜が、音もなく彼の中へと融けて行く。綱吉の切なさや、苦さや、辛さもが一緒に流れ込んできて、もう二度とこの手を離さずに済むように、今以上に強くなろうと雲雀は決意を新たにした。
ふっと息を吐いて、綱吉が照れ臭そうに舌を出した。上目遣いに見詰める彼の額にもくちづけて、雲雀は戻って来た身に馴染んだ感覚に安堵の表情を浮かべた。
やっと肉体に魂が同調したように思う。自分ひとりではなかなか巧く行かないと、握った拳を広げて雲雀は肩を竦めた。
綱吉の左手首に絡まった鎖が、風も無いのにふわふわと揺れて泳いでいる。長さも太さも変幻自在のその先に繋がるのは、雲雀の左手首だ。
「また宜しく」
囁けば綱吉は深く頷き、もう一度くちづけを強請って彼にしな垂れかかった。
「そういえば、ヒバリさん」
先日の骸との死闘の果てに、並盛山の地形は大きく変容してしまった。
崖の一部が崩れ、数百年の寿命を誇る霊木が何本も薙ぎ倒された。大地は抉られ、霊泉の水量は大きく減ってしまった。禊の為の篭り小屋に続く石敷きの階段も原型を留めず、破られた結界は綱吉が命を削って修繕したものの、部分的に不安定な状態が続いていた。
骸、及び火烏が放った瘴気や、どさくさに紛れて霊山に潜り込んだ邪気や妖の類は、綱吉の魂送の舞によって昇華された。しかし結界をこのまま放置しておけば、綻んだ部分から再び侵入を試みるのは分かりきっている。
身繕いを整えたものの、見事自力で立てなかった綱吉を背負い、斜面を慎重に下っていた雲雀に、彼は恐る恐る問いかけた。
片手で負ぶった綱吉を支え、左腕を伸ばして折れた木の断面を撫でていた雲雀は、首の後ろから聞こえた声に振り向こうとして、後ろ髪が綱吉に当たる感覚に動きを途中で止めた。
「なに」
前に向き直り、ずり下がっていた綱吉の尻を両手で持ち上げて問いかける。それに合わせて雲雀の首に回していた両腕を一旦外し、肩に手の位置を置き換えた綱吉は、背筋を伸ばして遠くへと視線を向け、脳裏を過ぎった疑問を口に出した。
朝餉の支度をしているのだろう煙が、荒れ果てた斜面の遥か向こうに何本も登っていた。
「ヒバリさんは、どうして」
「うん?」
「戻って……来られたんですか」
母胎を介さず龍珠から産まれ、蛟を喰らい昇華して龍となった彼は、最早人とはいえない存在だった。
強すぎる力は時に害悪となる。自力で己の身に宿る力を制御出来ない彼は、このままでは地上に悪影響を及ぼしかねないとして天界へ舞い戻る道を選んだ。いや、選ばされた。
逆らえば討伐軍が下される。そうなれば、火烏に傷つけられた並盛が、より深い傷を負う羽目にだって陥りかねない。
綱吉を傷つけ、泣かせるのは分かっていたけれど、あの時はああするより他無かった。後悔で胸をいっぱいにした雲雀の気配に、綱吉は顔を伏し、彼の襟足に額を埋めた。
その状態で首を振られ、雲雀は髪の毛に擽られる感触に鳥肌を立てた。
「やっぱり、いい。言わなくて。ちゃんと……帰ってきてくれたから」
雲雀だって、なにも喜んで天界に登ったわけではない。
綱吉が身を守るには力を解放するしかなかったし、火烏が放った炎を消すには雲雀の龍の力が必要不可欠だった。あれがあの時に出来る最善の選択であり、間違っていなかったと思うから、雲雀を責めるつもりはなかった。
「俺も、強くなりたい」
二度とあんな風に泣かないで済むように、これからは自分も、自分の力で闘えるようになりたいと彼は言った。
綱吉の悲痛な願いに、雲雀は彼ごと体を上下に揺らし、休めていた足を前に一歩繰り出した。
「今回ばかりは、認めたくはないけれど、あの人に感謝するよ」
「あの人?」
肩から上を左にずらし、前ばかりを見て歩く雲雀に聞き返すが答えてくれない。その代わり、脳裏に一瞬だけ流れてきた金髪碧眼の青年の姿に、綱吉は嗚呼、と緩慢に頷いた。
雲雀の育ての親であり、慈しんでくれていた人だ。
「頼んでないけどね」
「そんな事言わないでくださいよ」
「君を傷つけた男だ」
「でも、ヒバリさんを俺に返してくれた人です」
即座に納得した綱吉に、雲雀は乱暴な口調ですっぱり言い切った。
綱吉の意思を無視して乱暴に抱こうとして、傷つけ泣かせた男でもあるのに、肝心の綱吉が妙に彼に同情的なのも気に入らないらしい。明らかに拗ねている雲雀の首に腕を絡め、柔らかな黒髪に頬を寄せて綱吉は目を閉じた。
ディーノがいなければ、雲雀は此処に居ない。
確かに雲雀の言う通り、彼は力任せに綱吉を押し倒した。あの時の彼はとても怖くて、嫌で仕方が無かった。
だけれど彼はもう十二分に反省したし、心から謝罪もしてくれた。彼の行動が、綱吉を――あの人を想う心が強すぎた余りに捻じ曲がり、暴走した結果なのも分かっている。
「俺、ディーノさん、好きだよ」
「綱吉」
「一番はヒバリさんだけどっ」
悪い人では無いのだ――人ですらないが。
叫ぶが早いか綱吉は雲雀の背で身を起こし、鼻息荒く身を揺すった。下から支えていた雲雀は突然大きく動いた彼に驚き、足場の悪さも手伝って危うくふたりまとめて転びそうになった。
右に傾いた重心をすんでの所で戻し、膝を折って腰を深く落としこんだ雲雀は、一気に噴き出た冷や汗に温い唾を飲み、ケタケタと楽しげに笑っている綱吉を睨んだ。
「危ないだろう」
「ごめんなさい」
叱れば、素直に謝る。ただし小さく舌を出しているので、本当に悪いと思っているかどうかは甚だ疑問ではあったが。
首を前に戻して溜息ついた雲雀は、一段ずり下がった綱吉を担ぎ直し、木々の隙間に見え隠れする建物の屋根に目を細めた。
母屋も、綱吉たちの部屋がある離れにも、見た限り被害は出ていない様子にほっとした顔をする。が、
「あれ?」
背負われた綱吉は甲高い声を出して、怪訝に眉を寄せて首を傾げた。
「どうしたの」
「うん、あれー……リボーンかな」
覚えのある最後の景色と一部が違っていて、彼は頭に疑問符を浮かべてこめかみに指を置いた。口をへの字に曲げた綱吉が何を不思議がっているのか、あの夜から並盛を離れていた雲雀には解らない。
ともあれ、近くまで行けばはっきりするだろう。彼は気を取り直し、無事な部分が増え始めた石段をゆっくり下っていった。
庭と山とを区切る結界石は粉々に砕けて、注連縄が代用品として近くの木の幹に渡されていた。腰の高さにあるそれを、綱吉を負ぶったまま潜るのはなかなか難しく、此処で良いと肩を叩かれて雲雀は彼を下ろした。
だが足に力が入らなくて、瞬間腰を地面に沈めてしまう。緋色の裳が苔生した石を覆い隠し、ぺたんと座り込んだ綱吉は呆れる雲雀を前に苦笑した。
「あはは、まだ駄目みたいです」
横に広げた足の間に左手を落とし、右手で癖だらけの髪の毛を掻き回していたら、肩を竦めていた雲雀の両腕が降りてきた。
「わっ」
軽く膝を折り、綱吉の脇に手を入れた雲雀が吸い込んだ息を胸に貯めこんだ。
彼が体勢を真っ直ぐに戻すに従い、綱吉の視点の高さも変わっていく。あまりにも簡単に抱き上げられてしまい、落とされないようにしがみつきはしたが、男としてこの待遇は少々悔しくてならなかった。
「がっつくからだよ」
雲雀が去って以後、まともに食事をしてこなかった所為で綱吉は空腹の極みにあった。あのまま命を散らす覚悟でもいた。
顔の横で溜息混じりに言われ、頭を撫でられる。反論できずに赤い顔を隠し、綱吉はせめてもの反抗で彼の首に爪を立てた。
ひと際大きく体が揺れ、雲雀が注連縄を跨いで結界の外へ出る。ふたりの間に緊張が走ったが、特に目立った変化もなく、空気の切り替わりを感じただけに終わった。
無意識に息を止めていた綱吉は、雲雀の後ろでぶらぶら当て所なく揺れる注連縄と紙垂を見て、それから顔を上げた。
雲雀もまた綱吉と似た思いを感じていたようで、肉体がこれといって負荷を覚えず、変容もしないのを確かめ、最後に肩の力を抜いてふっと微笑んだ。
「よかった」
なんともないのが確認できて、綱吉も安堵の表情を浮かべた。抱きかかえる雲雀の邪魔にならぬよう、左手を持ち上げて彼の頬を撫でる。肌触りも人のものだ、間違えても鱗でごつごつしていない。
指先を伝わる温かさに相好を崩し、猫の子のように甘えて頬擦りする。
「君のお陰だよ」
この数日ですっかり痩せ細ってしまった体躯を抱き、雲雀も愛おしげに彼に顔を寄せた。
顎を引いた綱吉が、嬉しげに瞼を閉じる。無理のある体勢ではあったがくちづけを欲しがり、応えてやろうと雲雀も唇を窄めた。
そこへ――
「十代目!」
ふたりを包む甘い空気を切り裂き、無粋な声が響き渡った。
見れば開け放たれた北側の渡り廊下から、若干青褪めた肌色の青年が身を乗り出していた。
綺麗な銀の髪を肩の上まで伸ばし、邪魔になるからか後ろ側の一部をまとめ、紐でひとつに結んでいる。額の真ん中で前髪を左右に分け、限界まで目を見開いて驚きを表現している姿は、言ってはなんだが少々滑稽だった。
彼は膝と両手を板敷きの床に添えた状態から前に出ようとして、伸ばした手の着地場所が縁側をはみ出た所為で体勢を崩した。落ちそうになったのを寸前で堪えて踏み止まり、ばたばたと騒々しく音を響かせて立ち上がる。
「獄寺君」
「十代目! ……っと」
雲雀の腕の中で綱吉が慌てふためく彼の名を呟き、素足のまま裏庭に降りて来るのを見守った。
獄寺の立てる物音が聞こえたのだろう、母屋の中からは別の人の声もした。
「どうした、獄寺」
「雲雀! 手前っ、今まで何処――」
「雲雀だって?」
転げそうになりながら北庭を駆けて来た獄寺が、握り拳を震わせて雲雀に怒鳴りかかる。あまりの五月蝿さに雲雀は露骨に嫌な顔をして、続けて軒先から顔を出した山本にもちらりと視線を走らせた。
抱えられたままの綱吉は体を揺らし、楽な姿勢を作った後、三尺ばかりの距離を置いて肩幅に足を広げている獄寺に苦笑した。
「ただいま」
「お帰りなさいませ、十代目。戻りが遅いので心配してました」
綱吉に話しかけられた途端、怒り心頭の表情からころっと入れ替わり、飼い主に褒められた犬のように満面の笑顔を見せた彼の変わり身の速さは、相変わらず見事だ。
そうこうしている間に山本も縁側から庭に飛び降り、急ぎ足で近づいて来た。